キミの心臓は恋ができないと知っていたのに



 力なく歩いてやっと自宅へと帰ってきた。凄く疲れたような気もするが、凜のことが心配で食欲もなにも湧かなかった。

 発作が起きる前に凜が言っていた言葉が脳裏の片隅に居座ってる。
 凜は妊娠出産をすると寿命が縮む……?
 
 急いでネットで調べた。凜が受けた手術の名前は分からない。だから、心疾患にまつわる情報を片っ端から読んだ。調べていくうちに、凜の言っていた手術かと思われる内容が出てきた。記事を読んではみたが理解が全く出来ない。考えることを頭が拒否してしまうんだ。
 字を読むのを身体が拒否しだすと、猛烈に頭が痒くなった。完全に俺の頭脳ではキャパオーバーだ。身体の拒否反応がその証拠だ。頭をポリポリ搔きながら、画面から視線を外した。

 手術の詳細を一度読んだだけでは、到底理解できない。そんな難しい手術を、凜はあの小さな身体で受けたのか。健康のはずの心臓に痛みが走る。大きな息を吐いて、もう一度情報と向き合った。

 おれは凛のことを知りたい。俺の不能な頭脳は、これ以上難しい情報を受け入れようとしない。だけど、負けじと気合でねじ込んだ。一度では理解できないなら、理解できるまで繰り返し読めばいい。10回、20回。何度でも読めばいい。

 俺の役立たずな頭脳で理解したこと。
 凜と同じ手術を受けて、無事に出産をされた方もいた。しかし、妊娠出産は母体にも胎児にも大きな危険を伴うということだった。

「俺、知らないからって……凜の前でなんて残酷なことを言ったのだろう」

 ある記憶を思い出した。俺は凜に将来の夢を聞かれて「そこそこの会社に入って、結婚して。子供は好きだから3人欲しいな。男の子だったらキャッチボール。女の子だったら、パパと結婚するって言われたい。ありきたりな夢だよな。な。普通だろ? 俺の夢は」確かにそう言った。

 何が普通だよ。どこが普通だよ。
 凜はどんな気持ちで聞いていたのだろう。あの時の俺は、普通に出来ることだと。疑うこともなかった。
 俺は凜に、どんなに酷いことを言ってしまったのだろう。あの時の凜の表情が頭にこびりついて離れない。


「凜。……ごめん」

 月明かりに照らされた部屋で伝えることのできない謝罪を吐いた。
 誰か俺をぶん殴ってくれ。行き場のない怒りが心を支配していた。

 


 ♢

 あの日から、凜は一度も学校に来なかった。
 颯太くんから、凜の母親があの場に現れた理由を聞いた。どうやら、門限を破った日から凜のスマホにGPS機能を付けていたらしい。学校から抜け出したことが、母親に筒抜けだったのだ。

 
 一週間が過ぎようとしていた。

 凜が学校に来なくなって、最初は心配の声も聞こえた。しかし数日もたてば気にする声が聞こえてくることはなくなった。笑い声が響き渡っている。

 病気と闘って辛い思いをしているのに。
 大変な思いをしているのに。人ってこんなに他人に無関心なのだと改めて知った。
 教室には笑い声が充満している。居心地が悪くなって教室を勢いよく飛び出た。


 凜は入院しているのだろうか。様子が気になり、颯太くんに何度も訪ねた。返ってくる返事は「命に別状はない」そればかりだった。

 図書室。中庭のベンチ。凜のクラス。
 彼女の面影を探してみたけど、見つけることはできない。

 凜が入院している病院を知っている。しかし、病院まで行く勇気がどうしても出なかった。
 発作が起きて苦しそうにする凜の姿が脳裏にこびり付いて離れない。
 凜を危険な目に合わせて、どの面下げて会えばいいんだ?
 わからない。分からなかった。

 
 校内を探し回っても、凜の面影がちらついてしまう。思い出が取り残されているからだ。
 大きなため息を吐いた。後悔の念を吐き出すようにゆっくりと。
 ため息を吐いて、息を吸ったら。凜に会いたくなった。

 足が地面を蹴り上げる前に、スマホを取り出す。今のままだと病院に全速力で向かってしまう。凜に会いたい気持ちを押し殺して、颯太くんに電話を掛けた。

 ここは冷静にならなければいけない。今全速力で病院に向かっても、凜の母親に見つかっては門前払いされてしまう。今後さらに、会えなくなってしまうかもしれない。深呼吸して昂る気持ちを落ち着かせる。

「もしもし! 咲弥くん?」
「颯太くん、お願いがあります。凛に会いたいです」
「……凜ちゃん、会いたがっていたよ」
「凜に会ったんですか? 身体は?! 心臓は?! 大丈夫なんですか?」
「凜ちゃんの心臓は大丈夫。ただ、発作が起きたから、精密検査をするから。そのための入院だな」
「よかった。良かったです」

 通話越しでもわかる落ち着いた声。興奮する俺を宥めるように、優しい声だった。

 病院で凛の母に会ったら、門前払いされることだろう。それは颯太くんも危惧していたことだった。研修医という立場を使って、病棟の看護師さんと話をつけてくれたらしい。颯太くんのおかげで、凛と会えることになった。

 ♢

 
 病院特有の消毒液のようなつんとした匂いが鼻につく。
 健康児な俺は滅多に病院に来ない。数年ぶりに嗅ぐであろう病院の匂いは、少し居心地が悪い。

 颯太くんに言われた病棟にたどり着くと、じっと見つめてくる視線を感じる。その視線の持ち主は凄い勢いで近づいてくる。


「キミ! 桜木咲弥くん?」

 看護師さんは勢いよく俺を名指しで指を刺している。
 それにしても、なぜ名前が分かったんだ?もしかしたら、俺がお見舞いに来ることを見越して、凜の母親が制服の男が来たら通報するように言ったのかもしれない。ぐるりと振り返り、来た道を戻った。

「あー、待って。違うの 颯太先生! 颯太先生に言われてたの」
「そ、颯太くんですか?」
「そう。紺色のブレザーを着た175cmくらいのすらりとした高校生。顔は少し情けなくて、頼りがいがなさそうな……。って、やっぱり、キミだよね?」

 後半は、もはや悪口な気がする。しかし、颯太くんのぴったりな人物像のおかげで看護師さんは、ピンときたようだ。

「咲弥くんがきたら、凜ちゃんと会わせてやってほしいって」
「……ありがとうございます」
「うん。颯太先生のお願いだからさ。今日は凜ちゃんのお母さん来てないし、グットタイミングだよ」
「俺、凜の母親から出入り禁止にされてます?」
「そうだね。看護師の間では、凜ちゃんのお見舞いは母親のみって共有されてるね」
「……いいんすか?」
「よくないけど……。颯太先生が連絡先教えてくれるっていうからさ。あ、咲弥くんの方からも、宜しく言っておいてよ。颯太先生、研修医の先生の中でも群を抜いてイケメンだから競争率半端ないのよ。その点、これで一歩リード♪」
 

 凜の病室に案内してくれるのは有難いのだが、この看護師に任せて大丈夫なのかと不安もよぎる。

 
「さっくん……」
「凜、」

 壁や天井は真っ白で無機質な空間が広がる。病室のベッドに凜は座っていた。ドラマで見るようなたくさんの機械に囲まれている彼女を想像していたので、自力で座っていたことに、まず安堵した。

 ベッドの脇には点滴スタンドが1つ。凛の真っ白な細い腕には大きな青あざがあった。思わず凝視してしまう。

「あ、これは点滴の跡だから。私の血管が細いみたいで、漏れることよくあるんだ」

 俺の視線を感じた凛は、腕を上げて説明してくれた。細い腕に似合わないアザが痛々しくて、胸が痛む。

「そっか……」
「発作の時は、見っともないところ見せちゃってごめんね」
「いや、俺の方こそ……」
「さっくんは謝らないで? お願い」

 思わず凜の胸元に視線を向けてしまう。やましい気持ちからではない。凜の心臓が鼓動しているのを確認したかった。

 動いている。
 上下に小さく動いているのを目視で確認すると、安堵で涙が込み上げてくる。発作が起きた時の映像が頭でフラッシュバックしては怖くて仕方なかったんだ。

 
「私、お母さんにスマホ没収されちゃって連絡できなかったんだ。検査で一週間以上は、入院しないといけないの」
「……」

 顔色が少し悪い気がするけれど、凜が話している。ただそれだけのことが、とてつもなく嬉しい。気持ちが高ぶった俺は、あれほど会いたいと願っていたはずの彼女が目の前にいるのに、上手く言葉が出てこない。言葉の代わりに目の奥が熱くなる。泣きたくなくて、ぐっと目に力を入れた。

「場所を変えて話さない?」

 凜は二人部屋だった。隣のベットはカーテンで区切られていたので見ることは出来ない。ベッドから降りてゆっくりとした足取りで進むので、俺はついていくしか出来なかった。

 病棟内にある談話室。自販機と長椅子が置いてある。誰もいない空間に二人きり。凜の言葉を待つと、言葉より先に、ため息が耳に届く。今からされる話が良い話ではないことを暗示しているようだった。

「さっくん。私ね、嘘ついてた」
「うそ?」
「本気で好きになったら、その人との未来を望んでしまうなんて知らなかったの。私、嘘ついてた。私ね、恋してた。さっくんに。ずっと前から。好きだよ。さっくん」

 思いがけない告白に、心臓が跳ねた。心拍数が跳ねあがる。「好き」たった二文字の言葉は真っすぐに心に届いた。ずっと押し殺していた彼女への想いが溢れてしまう。零れ落ちる寸前、ぴたりと止まった。何故なら、凜は頬に涙を伝わせて顔を小さく横に振っていたからだ。次に彼女から発せられる言葉は聞きたくない。本能でそう感じた。

「好きだから……終わりにしよう」

 視界が滲んでいく。気づけば俺も涙を流している。

「な、なんで……俺も……」

 声が震える。情けないくらい弱々しい声で、たった二文字が出てこない。
 今、頭の中では凜との10年後の未来を考えている。
 ずっと背負い続ける心臓疾患。結婚。命がけの出産。子供が出来て、もし……凜が先に死んでしまったら。

 最悪の未来が、なぜか鮮明に頭の中に流れ込む。
 たくさん考えた。
 俺は凛のすべてを受け入れられるのか?
 普通の高校生なら、考えなくていいはずのことまで考えなければならない。
 凜と付き合うということは、そういうことだと思った。

 「好きだ」そう迷うことなく言える勇気がなかった。病院のパジャマに身を包む彼女の姿を目の当たりにしたら、現実味が帯びて一気に不安が襲ってきた。凜の抱えているモノを迷うことなく全部背負える覚悟がなかった。

 そんな自分が情けなくて、ぎゅっと拳を握りしめた。

「大丈夫だよ。さっくんがたくさん考えてくれたことは分かってるから。それだけで十分だよ」

 涙を伝わせながら笑顔を浮かべた。
 なんで、彼女に無理させてんだよ。
 何ダサいことしてんだよ。

 言葉は出ないくせに、涙が止めどなく溢れてくる。俺に泣く権利なんてないのに。

「恋を知れてよかった。ありがとう」
「お、おれ……」
「さっくん。ばいばい」

 凜はいつのまにか涙を拭っていた。変わらず泣き続けているのは俺だけだ。そして、声が震えていなかった。最後の別れの言葉は、しっかりと耳に届いた。
 凜は前に進みだした。終わりだ。俺たちの関係は本当に終わりだ。


 俺には追いかける勇気がない。ずっと答えが分からない難問を追いかけていた。正解を探して全力で走り続けていた。もう、走り続けなくていい。そう思うと、情けないが、どこかほっとしている自分がいるんだ。

 俺の心臓は正常だ。だけど、心臓辺りがひどく痛む。今まで感じたことのない痛みで、胸の中がぐちゃぐちゃだ。
 泣き崩れた顔は無様だったと思う。かっこ悪いから泣くのをやめよう。なんて冷静な判断は出来なかった。一度決壊が崩壊した涙腺からは、涙が止まってはくれなかった。

 どこかで予感はしていたんだ。終わりが来ることを。
 初めから終わりがあるのをわかっていた。わかっていたはずなのに、なぜこんなに苦しいのだろう。

 ただ彼女という存在が欲しかった。今は違う。凜のことが好きでたまらなくて、凜以外が彼女の立ち位置になるなんて想像できない。


 付き合うことはできない。キスも出来ない。それでもいい。それでもいいと思っていた。

 最初から分かっていたはずなのに。
 この関係には、失恋も得恋もないと。
 ハッピーエンドなんてなかったんだ。

 最初から分かっていたのに。
 凛がきゅんとしてしまったら、終わる関係ということを。

 誤算だとするなら、思っていた以上に凜のことを好きになっていた。
 なに本気になってんだよ。
 なんでこんなに辛いんだよ。

 終わりがある関係だと承知で始まった俺たちの関係。
 俺は浅はかだった。こんなに好きになるなんて思ってなかった。本気の恋が辛いだなんて知らなかったんだ。

 辛い。だけど。
 凜と会えなくなるのは、もっと辛い。
 キミと笑い合えない人生なんて、いやなんだ。
 
 
「凜、」

 去ろうとする背中に投げかけた。何度も呼んだ名前。愛しい人の名前だ。

 
「……っ。俺、カッコいいこと何も言えない。だけど、終わりと言われて。『はい。そうですか』って簡単に割り切れる気持ちでもないんだ」
「……」
「初めて俺からお願いしていい? 気持ちの整理がつくまで会いにきていいか?」

 彼女から答えはなかった。振り返ることなく去っていく。黙って去ったその行動が答えだと思った。
 一人取り残されて、俯くことしか出来なかった。歩き出す気力もなくて、その場から動けなかった。



「桜木くん?! やだ! こんなところで何してるの!」

 どのくらいその場にいただろう。放心状態の俺は、看護師さんの声でやっと我に返った。なかなか動かない俺の腕を無理やり引っ張られた。反動で重い身体が立ち上がる。

「まずいよ! 凜ちゃんのお母さんきてるんだから」
「え、」
「今病室に入ったから、このまま帰って! もし桜木くんを案内したのバレたら私が怒られるんだよ」

 そう言いながら俺の背中を押して、強制的に歩かされた。
 思春期の男子高校生が泣いているのに、何1つ触れこない。病院という場所が涙に慣れさせるのか。この人が他人を心配する人ではないのか。いずれかは分からない。
 
「あの、凜のお母さんってどのくらいの頻度でお見舞いに来てるんですか?」
「え、毎日だよ?」
「……毎日」
「仕事もしているみたいだから、終わってから走ってくるんだよ。ナースステーションを通るときは気にもしないのに、凜ちゃんの病室に入る前は、乱れた髪を治してから入るの」
「へえ、」
「走ってきたことを見せたくないのかなあ。娘に心配を掛けたくない親心かな? まだ子供いないから分からないけどねー」

 からりと笑って説明した看護師さんの言葉が、胸の奥で突っかかる気がした。理由は分からない。気になる糸口は気づけなかった。俺は言われるがまま病院を後にした。


 

 次の日、平然な顔をして訪れた俺に、びっくりした表情を向けた。
 終わりと告げたのに、のこのこと会いに来た俺に心底驚いているといった表情だ。

 しかし、その日は口を聞いてもくれなかった。

「帰って」

 その一言が冷たく胸に刺さった。今までの優しい凜からは聞いたことのないような、冷たい声でやけに耳に残っている。

 それから学校が終わると、毎日凜の病室に通った。俺は配慮という感情をどこかに置き忘れてしまったらしい。開き直った俺のメンタルほど強いものはない。
 拒否されることも、ふられることも、何も怖くない。
 心を支えてくれるのは凜からもらった「好き」の一言だ。彼女が俺を好きだったなんて、夢にも思わなくて。その事実だけで俺はなににでも立ち向かっていけると思った。

 
 さすがに毎日来ると、少しずつ話をしてくれるようになった。俺の粘り勝ちだ。
 いつの日からか、看護師さんたちにも認知さていた。「今日は話してもらえた?」と帰り際に聞かれるので、どうやら俺たちの関係性も知っているようだ。たびたび同情するような優しい眼差しも感じるので、それが確信に変わる。
 

 この日もいつもと同じように病室で凜と話してた。そろそろ帰らないと凜の母と鉢合わせしてしまう。そう思って帰ろうと腰を上げた瞬間だった。


 
  病室のドアが開く音に肩がビクッと反応した。慌てて振り返ると、そこにいたのは凛の母親だった。瞬時に全身に緊張感が駆け巡る。どんな罵倒が来るのかと身構えた。



「……こんにちは」
「え、あ。こ、こんにちは」
 
 何でここにいるの!と怒鳴られると思ったので、普通の挨拶をされて拍子抜けしてしまった。

「あの……」
「桜木くん? 少し話せる?」

 記憶に残る凜の母は怒鳴りつける姿だけだった。こんなに優しい声だったなんて、予想外で警戒心は簡単に薄れていく。
 残される凛は不安そうな表情を浮かべていたので、「行ってきます」そう強く言葉を残した。
 

 凛と以前にきた談話室だった。誰もいない空間。静寂が広がって居心地が良くはない。数日ぶりに見た凜の母は、酷くやつれて見えた。嫌悪感しか抱いていなかったのに、心配してしまうほどだ。
 


「あなた……毎日来てくれてるのね」

 それは拍子抜けするくらい優しい声だった。内密に来ていたつもりだったが、その口ぶりからは、完全にバレていた。しかし、怒る様子は見られなかった。分かっていたのに、見守っていたということだろうか。

「あの……。 凜のことなんですけど……」
「あなたも凜から自由を奪ってしまっているって思う? 凜にも言われたのよ。縛り付けるのは愛じゃないって……」

 視線を一度も合わせようとせず言葉を綴った。猫背に丸まった肩は震えていた。

 その声はあまりにも優しくて震えていて。
 責め立てる気など起きるはずがなかった。この時、ようやく俺の中で気になっていた点と点が繋がった。

「毒親」だと先入観で決めつけた。知れば知るほど違和感が募っていた。凛の母が制限をして縛り付ける。その裏側にある深い愛に気づきはじめていた。

「……お母さんは、誰よりも凛のことを思っていたんですよね、」

 恐る恐る言葉を選びながら放つ。
 凛の母は俯いた顔を上げた。驚いた表情で俺を見つめる。そして、俺はゆっくりと言葉を続ける。

「凜が受けた手術のことを調べました。妊娠にリスクがあることも知りました。恋の先には、結婚があるから。結婚の先には出産があるから……恋を禁止させたんですか?」
「……」

 返事はなかった。
 言葉の代わりに嗚咽が聞こえてきた。小さい背中が震えている。答えを聞かなくても分かった。凜の母親がなぜ凜を縛り付けていたのかを。

 「いただきます」と手を合わせて挨拶を欠かさない。それは俺の母が褒めるほどだ。凛のことを考えれば考えるほど、様々なところに育ちの良さが出ている。きっと幼いころからしっかり躾をされていたのだろう。

 仕事が終わって走ってまで毎日お見舞いに来たり。髪の乱れをバレないように病室の前で整えたり。
 きっと、凜に余計な心配を掛けたくなかったのだろう。

 

 俺は浅はかだった。正義のヒーローのフリをして、毒親から助け出そうと思っていたなんて。
 目の前のことに囚われすぎて、凛の母の気持ちを一度も考えたことがなかった。なぜ、そこまで制限するのかを。俺のしたことは手助けでもなんでもない。ただのヒーローごっごだった。

「凜のことを心配して、制限をしていたんですよね? 凜の将来が心配で……」

 おかしいな。声が震えてくる。
 胸も苦しい。これ以上言葉を綴れない。
 母親の偉大な愛を目の当たりにして、俺が言葉を発したところで、どれも安っぽいと思った。
 
 俺の言葉なんて響かない。だって、17年間の愛に比べたら。俺の存在なんてちっぽけ過ぎた。

 その場に固まることしか出来ない俺の元に、凜の母親は歩み寄ってきた。記憶に残るのは高圧的な口調だったが、柔らかな声で言葉を零した。
 
「咲弥くんは……自分の命より大切なものってある?」
「えっと、」
「凜は……やっとできた子でね。それはもう可愛くて。子供ってね、赤ちゃんの頃は本当に何も出来なくてさ。母親がいないと生きられないんだよ。ミルクあげて、オムツ交換して。全部母親がやってあげるんだよ。少し大きくなって自分で出来ることが増えても、全力で母親を求めてくるんだよ。キラキラした瞳からは大好きだと伝わってくる。無償の愛ってさ、子供がくれるんだよ」
「……」
「私は凛のためなら、今すぐこの命を喜んで捧げられる。凛が生きてくれるなら、悪者にだってなれる。ただ、あの子に1日でも長く生きて欲しいんだ」
「……」
「凜は子供の頃から自分より小さい子に優しくてね。小学一年生の時に凜が学校で発表した将来の夢。『お母さんのような優しいお母さんになりたい』だったの。その言葉が嬉しくてずっと心に残っていた。中学の頃、凛は手術を受けた。その時、主治医の先生に言われたの『この手術は予後も良好が増えているし。寿命も年々増えています。ただ、私の主観ではありますが、凜さんの場合、妊娠出産は難しいかもしれません。同じ手術を受けた方が妊娠出産を経験している方が増えてきています。しかし、健常者と比べてリスクが大きすぎます。』その言葉が私の脳を支配しているのよ」
「……」
「ねえ、教えて頂戴。大切な我が子が命のリスクを背負ってまで出産することに。賛成できる親なんているの? 寿命が縮んでしまうかもしれない。車いす生活になるかもしれない。そんなリスクを背負わせたい親がいたら……教えて」

 心からの悲痛の叫びに、何も言えない。言えるはずがなかった。
 言葉は出てこない。言葉の代わりに涙が止めどなく出てくる。
 情けない顔を見られたくなくて。少しでも頼りがいのある男だとみて欲しいのに、溢れ出る涙が止まってはくれない。必死の抵抗で唇をギっと噛んだ。痛みと止まらない嗚咽で顔が歪んでいく。

 
 
「凛が受けた手術。赤ちゃんを産むことで寿命が縮む。車椅子生活になる恐れもある。それなのに、結婚して欲しいって。思えないのよ。だったら、子供の頃から恋愛させないように洗脳すればいいと思ったの。確信犯よ。『心臓に負担がかかるから恋はしてはいけない』そう言い続けたら、恋をしないでくれるかなって。だって、恋をして望まない妊娠をしてしまったら? その可能性だってゼロじゃない。傷つくのも全部凛の身体なのよ。……恋をしなければ、その心配をすることもない。一日でも長く生きてくれさえすれば、それで良かったの」

 男の俺はなにも言えなかった。その通りだと思った。大人じゃなくても、子供同士の付き合いでも、望まない妊娠をしてしまう可能性がある。男女が付き合うということは、その問題からは目を逸らせない。凜の母は、そこまで考えていたんだ。

「分かってるのよ。間違いだらけの愛だって。だけど、それでもただ生きていてほしいの。軽蔑するわよね。こんな母親で……」
「正直、毒親じゃん。って思ってました。娘を自分の所有物だと思っているんじゃないかって。だけど……本当のことを聞いたら、軽蔑出来るわけないじゃないですか……」

 俺の声は消え入りそうだった。目の前で偉大な母の愛を感じて、俺なんかが意見できないと思った。
 確かに、行き過ぎていたり、間違いだらけかもしれない。ただ凜のためだと知った今は、彼女を責める気など湧いてこなかった。

 凜の母親の愛は、間違いだらけの愛じゃない。
 娘のことを心から想う、嘘偽りのない愛だ。
 
「蠟燭の長さが違えば、火が消えるまでの時間も違うでしょ? これから先の咲弥くんの人生は長い。環境も変われば、恋の価値観だって変わる。凜のことだって、いつかは思い出に変わる」
「そんな! 思い出になんて……」
「じゃあ、凜と付き合ったとして。結婚は? 子供は? 凜がいなくなった後、一人で育てられる自信はあるの?」
「そんな先のこと……」
「凛と付き合うなら……。凛と向き合うのはそういうことだよ」

 何も言えなかった。高校生の俺に未来のことを背負える器がなかった。

「即答できないのなら、凜と恋をしないで……」
「……っ」
「私からあの子を奪わないで」
 
 こんなに娘を愛している母親の愛を拒否できる人がいるのだろうか。
 凜と恋することを認めて欲しくて、この場にいるのに。伝えるまでもなく、その願いは打ち砕かれた。

 敵わない。俺が凜のことを本気で好きだろうと、どれだけ愛していようと。
 目の前で泣き崩れている母の愛には敵わないと悟った。

 俺だって、凜に長生きしてほしい。
 凜と恋をすることで、彼女の寿命に関わってくるなら、身を引く以外の選択肢が見当たらない。

 いやだ。本当はいやだ。
 だけど、無理じゃんか。

 気づくとゆっくり頷いていた。

「ありがとうね。今まで凜と普通に接してくれて……」

 その言葉は、もう来るな。そう釘を打たれたようだった。
 ゆっくりと立ち上がると、背中を向けて歩いていく。

 終わりの言葉はもう関わらないでくれ。という牽制だと分かった。
 そう。分かってる。もう踏み込んでくるなと言われていることくらい分かってる。分かっているのに、心が納得してくれないんだ。
 


「……待ってください。凜の気持ちは置き去りですか?」

 納得したはずなのに、声に出たのは違う言葉だった。
 何が正解なのか考えるのは辞めよう。人生経験が乏しい俺には正解なんて分からないのだから。開き直るって怖い。開き直った瞬間に、押し込んでいた言葉が出てきてしまう。

「凜の気持ちはどうなんですか? 一番大事なのは凛の気持ちでしょ。だって、凜の人生は、俺でもない。凜のお母さんの人生でもない。凜自身のモノですよ」
「……」
「自由がほしいって言ってました」
「だから、それは……。もし自由を与えて、負担が掛かってしまったら……」
「そうならないように、話し合えばいいんじゃないですか? 強引に制限するのではなくて。凜の気持ちを大切にしながら……」

 俺の話にきちんと耳を傾けてくれている。今の凜の母なら、話が通じると思った。誰よりも凜を想っているいる人。俺だって、凜のことを想っている。

 立場は違うが、互いに凜の幸せを願っている。話し合えば寄り添えるのではないかと思えたんだ。


「あなたが言っていることは、綺麗ごとよ」
「……」 
「あなたはまだ若い。健康で普通の女の子といくらでも恋できるでしょ」
「俺が本気で好きだと思ったのは凜だけです」
「……それは今だけの感情でしょ。一年後、同じ気持ちでいられるか分からないでしょ?」
「一年後のことは正直分かりません! でも、今の気持ちは分かります」

 言葉が返ってこない。失言をしてしまったかと、すぐに後悔の念が押し寄せる。正直に話しすぎた。嘘でもいいから、10年後も。100年後も変わらず好きですと言えばよかった。

「ふ、ふふっ。この状況で分からないって。正直すぎるね」

 一瞬目を見開いて驚いた表情を浮かべた。次の瞬間、控えめな笑い声が聞こえた。
 初めてだった。凜の母が笑ったところを見るのは。やはり親子だと思った。柔らかい微笑みが凜とよく似ている。

「す、すみません。でも本当に好きです」
「……ありがとう。凜のこと、そこまで想ってくれて」

 その言葉は牽制するために放たれたモノなのか。認めてもらえたのか。どちらの意味なのか分からなかった。
 しばらくの沈黙が流れる。静寂を破ったのは、この場にいるはずのない凜の声だった。


「……ごめん。少し前から話聞いていた」
「え」
「凛、」
 

 物陰からっそっと現れた彼女は申し訳なさげに眉を八の字に下げた。その瞳は揺れていた。

「お母さん、ごめん。私、酷いこと言ってた。愛されていないと思って……」

 話を聞いていたということは、制限するという行動の裏に隠された深い愛を知ったのだろう。

「凜、お母さんこそ。ごめんね。凜のことが大切過ぎて……一線を越えていた」
「お母さん。凜のことを想ってくれてありがとう。私だって謝らないと……お母さんより早く死んでしまうかもしれない。親孝行するまえに死んじゃうかもしれない。他の子より親不孝でごめんね」
「何言っているの。親不孝なはずないでしょ。それに、親孝行ならもう終わっているから」
「え、だって、まだなにも……」
「凜が小さいころに、これでもかと無償の愛をもらった。ずっと私の周りを離れなくて。少し離れただけで大泣きして……。大変だったけどあんなに満ち足りた気持ちになれたのは、凜が母親にしてくれたから。母親になる幸せを教えてもらった。充分親孝行してる。凜が生きていてくれたら、それだけで……もう十分なの」

 凜の母は一筋の涙を流した。透き通った嘘偽りのない涙だ。釣られて俺まで鼻の奥がつんとする。母と娘の愛をまじかに見て、感動するな。という方が無理だ。


 凜は声を上げて泣きじゃくった。ここまで感情を表す彼女を見たことがない。
 母親に抱き着いて泣きじゃくる彼女は、幼い子供のようだった。俺がこの場にいるのは違うと思った。2人を残して談話室を後にする。

 娘を想うがあまり、行き過ぎた愛の形になってしまったのかもしれない。遠回りをしてしまったが、凜が母親から愛されていると知れてよかった。

 まだ、涙が止まらない。
 だって、深い親子愛を見せられたら、涙が止まるはずないじゃんか。泣きながら歩いた。周囲の人の好奇な視線が突き刺さる。だけど、涙は止まってはくれなかった。

 病院の入り口までたどり着いた時だった。
 

「咲弥くん!」

 名前を呼ばれて振り返ると、肩を揺らして走ってくる凜の母の姿が見えた。息をゆっくり吸い込んで苦しそうに言葉を綴る。

「……ありがとう。キミのおかげで凜と話せたよ。親子でもしっかり向き合わないとだめね」
「通じ合えて、よかったです」
「……咲弥くん、キミはよく学校さぼるの?」
「え、いや。この間が初めてです。いつもは真面目で、風邪もひかないので皆勤賞です。えっと、この間は本当にすみませんでした」
「そっか……」

 意味深に息を吐いた。凜を学校から連れ出したことを、怒られるのだと思った。全身に力が入る。

「もう1回くらいさぼれる?」
「へ?」

 予想とはかけ離れた言葉に、思わず声が裏返る。

「明日、凜は外出許可出ているの」
「が、外出許可……」
「凛の時間をキミにあげる」
「え、俺。俺が行っていいんですか?」

 微笑みを浮かべて、ゆっくりと頷いた。

「凛と向き合うきっかけをくれたお礼。本当はどこかで分かっていたの。いつまでも子供扱いしないで、子離れしないとって……。キミのおかげでそのきっかけができた」
「いや、俺はなにも」
「外出時間は2時間! 激しい運動をさせなければ、他に制限は特になし! 今度は咲弥くんが、凛と向き合って……」
「あの、認めてもらえたってことですか? 俺、バカなんで、そう思ってもいいですか」
「凜があなたを必要としてるならだけど……。凜の気持ちを大切にしてくれるんでしょ?」
「も、もちろんです! なによりも最優先です」

 これほど嬉しいことはあるだろうか。
 凛の母に認めてもらえたことが、何よりも嬉しい。

「あ、凜にはサプライズにしたいから。メールなどで連絡しないでね」

 悪戯にニヤリと笑った。その表情が陽気な時の凜の姿と重なった。

「よろしくお願いします」

 深々と頭を下げると、背中を向けて歩き出した。
 俺は大事なことを忘れていた。小さな背中に向かって投げかけた。

 大事なこと。確認しなくてはいけないことだ。
 
「あの! 凜の心臓は恋できますか?」
 
 返事を待つ間、心臓がドキドキと鳴り続ける。

「……できるよ。恋をしても心臓に負担にならない。私がつくった嘘だから」
「ほ、本当ですか!」
「うん。主治医の先生も日常生活には問題ないって言ってくれている。凜にも謝らないとね」

 その瞳には涙が滲んでいた。謝罪の涙か。後悔の涙か。どちらかは分からない。ただ、その涙は透明で綺麗だった。
 

 キミの心臓は恋ができる。
 そう伝えたら、キミは喜ぶだろうか。
 胸が高鳴る理由には十分すぎた。

 期待をにじませて足を一歩進める。
 足取りは驚くほど軽い。キミとの未来が見えたから。

 

 ♦

  無機質な病室から窓の外を眺めた。果てしなく続いていく鮮やかな青。吸い込まれるように見入っていた。
 
 今日は一時外出が許された日。精密検査が思ったより長引きそうで、わがままを言って実現した。
 どこに行くかは決めていない。この無機質な病室から離れたかった。以前はそう思っても、口にすることはなかった。彼と出会ってからの私はわがままになっているかもしれない。

 そろそろお母さんが来ることだ。私服に着替え身支度を整えて、また窓の外に視線を戻す。
 空を見ていると思い出すのは、彼だった。

 せっかくお見舞いに来てくれる彼に、冷たい態度をとって嫌われただろうか。だけど、どうしても病気という壁が邪魔をする。彼の希望溢れる未来を奪ってしまわないかと、後ろめたさが消えない。
 
 彼には幸せになってほしいんだ。それは心から願うことで、嘘偽りはない。
 ただ、私が普通の女の子だったのなら、隣にいれたのだろうか。そう考えてしまう。想うくらいなら許されるだろうか。

「会いたいな……さっくんに、」

 ぽつりと呟いた声は誰にも届かない。
 足音が近づいてくる音がした。時計を確認するともうすぐ10時。外出許可の時刻だ。
 この足音はお母さんだと思った。予想通りに近づいてきた足音は、ベッドを囲ったカーテンの前で立ち止まる。

 カーテンレールを引く音と共に現れたのは、そこにいるはずのない人物。会いたいと切に願っていた人だった。

「え、なんで。さっくん? 学校は? 今日は平日だよ?」
「今日は学校が記念日で休みなんだ」

 記念日ってなに。今月はそんな休日はないはずだ。
 
「なんの記念日?! 絶対嘘だ。創立記念日でもないし。来てくれたところ悪いけど、今日は外出許可出てて、これから……」
「これから、出かけるんだろ? 俺と」
「え、でも……」
「凜のお母さんが、提案してくれたんだ」

 なにそれ。聞いてない。目の奥が熱くなるのが分かった。
 お母さんが企んだことだと知ったからだ。
 さっくんに会えた嬉しさと、お母さんが提案してくれた嬉しさで、涙が込み上げる。零れ落ちないように唇をぎゅっと噛んだ。

 楽しい時間に涙は似合わないと思ったから。
 
 自然と手を繋いで歩いていく。今までは躊躇していたくせに、今日は気にもしていないような顔をして手を繋いきたので、私の心は乱された。

 行き先を教えてはくれなかった。手を引かれるがまま着いていく。

 平日だからか、電車に乗る人は少ない。一駅分電車に揺られて、目的地の駅へとたどり着く。

 駅から歩いて5分。大きめな公園がある。今日の目的地だ。
 さらりと肌をなでる風が心地よい。風に甘い香りが乗せられてやってくる。 


「藤の花――」


 紫色の藤の花が咲き誇り、回廊を幻想的に彩っていた。吹き抜ける風に揺れて、淡い青みがかった上品な紫色がしだれ咲いている。そよりと風が吹くたびに、揺れて舞い散る花びらは幻想的だった。

「きれい――」

 太陽の光も、しだれ咲く藤の花の影も。全て合わさり幻想的な空間を作ってくれる。

 紫に包まれた回廊の中に喜んで飛び込んだ。見上げると一面に幻想的な空間が広がっている。視覚も、匂いも。全て愛おしいほどに。


「凜、来年もここに来ようか」
「それは……」

 普通の人なら、迷いなく頷けることでも、私の頭は振れなかった。来年も生きている保障がないから。

「俺はこれから先、凜とずっと一緒にいたい」 
「私といたら……きっと。しんどくなる時が来ると思う。心臓に疾患があることを、重荷に感じる日が絶対来る。そして、私がさっくんがいなくては生きていけなくなった頃、離れて行くんだよ……何もわざわざ心臓に疾患を抱えている私を選ぶ必要なんてないでしょ」

 可愛くない返事をしたと自分でも思う。
 だけど、そうするしか選択肢がなかった。
 私はなんでこんなに胸が苦しいんだろう。自分で言った言葉に、私自身が傷ついている。
 
 さっくんと出会って変われた気がした。
 一歩踏み出す勇気を教えてもらった。
 だけど、やっぱり。病気を理由にして、ここぞと時に一歩が踏み出せない

 
「違うんだよなー」
「え、」

 風に揺れて花びらが舞い散る中、彼の瞳は優しく真っすぐだった。
 
「凜を助けたい。そう言い続けてたけど、違うんだ。俺が、凜と一緒にいたいだけなんだ。凜に俺が必要なんじゃなくて……俺に凜が必要なんだ」
「……」

 彼の言葉が心のど真ん中に突き刺さる。
 
「だから、俺と一緒にいてくれませんか?」

 藤の花の花びらが風に乗せられて舞い込む。
 風と共に言葉が届いた。

 ずっと隠していた想い。
 私の心臓は恋ができない。私には恋する資格なんてない。
 そう自分に言い続けて、消し去ろうともがいた気持ちが溢れてくる。

 忘れようとした時は、なかなか離れてくれなくて。いくら苦労しても消えてくれないのに。
 彼の一言でこんなにも簡単に、気持ちが溢れてしまう。


 
「藤の花の花言葉って知ってる?」

 藤の花の花言葉。
 なんだろう。分からないや。
 脈絡のない返答に戸惑う。重い話を変えられたのだろうか。
 
「え、なんだろう? 待って。今調べるから」

 調べようと急いでカバンからスマホを探し出す。その右手をぐいっと掴んで制止させられた。突然のことに驚いて、顔を上げると、真剣な眼差しの彼と視線が重なる。

「決して離れない」
「へ?」

 どくん。心臓が跳ねた。ドクドクと高鳴り続ける。至近距離で思いがけない言葉を受けて、落ち着かせようとしても、心臓の高鳴りが止まってはくれない。
 

「藤の花の花言葉。『決して離れない』」
「な、なんだ。びっくりした」

 なんだ。花言葉か。さっくん自身の言葉かと思って、ドキッとしてしまった。
 あれ。私、ドキッと心臓が跳ねたよね。これが、きゅん。なのかな。

「それが怖いって思う人もいるんだって。藤の花の花言葉」
「捉え方によっては、怖い……かもね。少し」

 怖いと思う人がいるんだ。
 最初は花言葉を教えてくれたとは思わなくて、さっくん自身の言葉だと錯覚してしまった。素直に嬉しかった。
 私にとっては怖くない。嬉しいだけの言葉だ。

 考え込んでいると一瞬視界が暗くなった。何が起きたのか分からない。
 ツンと香る花の匂いとは別な甘い香りを近くで感じる。身体全体を包むあたたかなぬくもり。数秒後に抱きしめられたのだと理解した。
 
 抱きしめられた腕の中、ぎゅっと力が込められるたびに、心臓辺りに負荷がかかる。
 だけど、不思議と不安はない。

「決して離れない。……離さない。離したくないんだ」
「……」

 強く抱きしめられる力が心地よい。

「離したら。またふらりと、どこかに行きそうで怖い」
「またって……」
「だから、離れないで。一緒に生きて行こう? 凛が抱えている重いモノを半分ちょうだい」
「……」
「2人なら……。きっと、軽くなるから」
「……うん」

 
 抱きしめたまま話すので、耳元に吐息を感じる。恥ずかしいけど、このぬくもりを離したくなくて。ぎゅっと抱きしめ返した。


「私は障害が多すぎる。さっくんより早く死ぬことは確実だし。他に健常者の女の子といた方が幸せに……」
「俺は、明日死ぬかもしれない!」
「な、なに言って……。そんなわけないでしょ」
「分からないよ? 俺が明日も生きている保障なんてどこにもない」
「……」
「明日事故に遭って死ぬかもしれない。明後日、命に関わる病気が発覚するかもしれない。俺にだって分からない。凛と同じ」
「お、同じなわけない……よ」
「5年後、10年後。未来のことは分からない。無責任に感じるかもしれないけど、精一杯考えて出た答えだ。未来のことはわからないけど、今の自分の気持ちは分かる。凜が好き――」


 ずっと聞きたかった言葉。
 ずっと言いたかった言葉。

 たった二文字なのに、ずっと隠してた言葉だ。
 

「最初から、恋だったと思う」
「最初から?
「凜が階段から落ちてきた時から……恋に落ちていた。」

 
 
 
「私の心臓は恋ができない」
 その言葉は幼いころから言われ続けて、鎖のように絡みついていた。
 
 その言葉のせいで、ずっと恋ができなかった。だけど。
 その言葉のおかげで、こうして今、とびきりの幸せを感じている。

 誰かがそばにいてくれることは、なんて心地よいのだろう。彼のおかげで、長年絡みついていた鎖は消えたように心が軽い。



 

「凛の心臓は、恋できるんだよ。恋していいんだよ」
「――知ってた」

 知ってたよ。
 だって、ずっと恋してたから。
 ずっと、あなたに恋してたから。


「私も好き。すごく。すごく好き」

 好きな人が自分を好きだと言ってくれる。
 好きだと、自分の思いを伝えることが出来る。

 それは簡単なようで難しいことだ。
 ずっと言いたくて、ずっと聞きたかった言葉は心に真っ直ぐに浸透する。
 
 抱きしめた彼の胸元からは心臓の鼓動が小さく感じた。
 一生懸命に命を繋ぐ心臓。

 私の心臓も同じリズムで刻まれていく。
 ドクドクと鼓動が鳴り続ける。規則的に。
 確かに私の心臓は動いている。

 未来のことを考えると怖くてたまらない。時折不安に押しつぶされそうになる。
 だけど、彼は広い世界を教えてくれた。
 恋を一緒に探してくれた。

 
 ゆっくり歩んでいくと言ってくれた。
 まだ先のことは分からない。だけど、私も一歩踏み出したいと思えた。

 ゆっくり。あなたと一緒なら。
 一歩を踏み出せる。


 私は何歳まで生きられるか分からない。
 死ぬのは5年後かも知れないし、50年後かも知れない。

 分からないことばかりの中で、確信を持てることがある。
 
 私は恋をしている。
 そして、私の心臓は今も元気に鼓動している。


 

 【完】

 

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