キーンコーンカーンコーン。
予鈴のチャイムを背中に受けて、見つからないように学校から出た。
心臓はドクドクと鼓動の音が速くなるばかりだ。
悪いことをしているようで、心が落ち着かない。
深呼吸をして、なんとか心を落ち着かせる。時間をおいて学校に欠席の連絡をするため電話をした。
呼び出し音が鳴る。無機質な音が余計に緊張感を掻き立てた。
「はい」
「3年C組の桜木咲弥です。……えっと、その。今日は体調が悪いので、お休みします……」
「分かりましたー。担任の先生に伝えておきます。お大事にしてください」
緊張で手は震えていたのに、呆気なく了承された。有難いことに少しも疑われることはなかった。今まで休むことなく真面目に通っていたおかげだろう。
ホッと一息ついていると、凜から一枚のメモ紙を渡される。俺が不思議そうにメモ紙に見入っていると、凜が説明してくれた。
「これは緊急連絡先。私に発作が起きたとか、なにかあったときに。病院の名前と電話番号。担当医の名前。後はお母さんのスマホの番号」
メモ紙を掴む指に自然と力が入る。ごくんと生唾をのんだ。凜は非常事態があった時のために準備をしていた。健康な人間ならする必要のない気遣いだ。
命の責任を背負うなんて、大それたことは言えないけど。
今日、こうして凜と出かけることにはそれなりの覚悟をしてきた。だけど、俺の覚悟なんて小さすぎた。
改めて責任感が心に重くのしかかる。引き返したほうがいいのかもしれない。そう思っている自分がいることも確かだ。
だけど、凜の願いを叶えたかった。この選択が正しいのかは分からない。どちらかと言えば正しくないだろう。真実を受け入れる判断力もある。それでも、この道を選んだ。
決意と共に足を一歩踏み出した。
今日が一番の思い出になるように。
そう願いながら。
電車に乗って隣町まで行く。その後はノープランだ。
凜は見たことのない景色を見たいと言った。その願いを兼ねるために駅へと向かう。
まるで子供が遠足に行くように、俺たちの足取りは軽かった。
始まったばかりの逃避行。
いや、始まってもいなかった。
視界に駅が見えた。どちらからともなく顔を見合わせて微笑み合う。
楽しい未来へと一歩踏み出したはずなのに。
――終わりはあっけなく訪れる。
「凛! どこに行こうとしてるの?! 学校は?!」
目の先に駅が見えた瞬間。
甲高い怒鳴り声が、彼女の名前を呼んだ。
叫び声を受けて、俺より先に凛の表情が強張った。
「……なんで? さっくん、ごめん。ばれちゃった」
呟いた声は儚いほど小さくて、道行く人の波に掻き消されていく。
鬼の血相で近づいてくるのは凛の母親だ。人ごみをかき分けて近づいてくる。
バレた。学校をさぼったことも。凜を連れ出したことも。
凜の母親の血相にビビった俺は、情けないが足が少し震えていた。
情けない俺の服を掴んだ細い指は震えているように見えた。俺は躊躇なく震える手を握った。少しでも不安を拭ってやりたくて、ぎゅっと強く握った。手を握られるとは思っていなかったのか、目を見開いて俺を見上げた。大きな瞳に涙が潤んでいる。
「大丈夫だから」
いや、大丈夫ではないな。確実に怒鳴られるし、学校にも報告されるだろう。
凜の母親の捉え方によっては、警察沙汰もありえる。怖くて心臓の鼓動はうるさくなるばかりだった。しかし、凜に俺の不安を見せたくなかった。小さな身体を震わせて怯える彼女に、少しでも安心して欲しくて。冷静を装い続けた。
「凜! どういうこと? 説明しなさい!」
俺たちの目の前に辿り着いた凜の母親は怒鳴り散らした。周囲の目なんて関係ないかのように、怒鳴る声を止めようとはしない。凜のお母さんは止まれない暴走機関車のように怒鳴り続けていた。道行く人は何事かと、ちらちら見物している。
今回ばかりは言い返せない。怒鳴りつけられようと、罵声を浴びせられようと言い返す権利がないのだ。
凜と繋がれた手は、見つからないように背中に持っていく。このぬくもりのおかげて逃げ出したい状況も、受け入れることが出来た。
「あなた! この前の子よね? うちの凜をたぶらかしてどういうつもり? 凜に発作が起きたら、命の責任取れるの?」
「お母さん、違うの……」
「申し訳ありませんでした」
凜が必死に弁明する声を遮って、頭を下げた。学校を抜け出すことが悪いことを知っている。心臓に疾患を抱えている凜を連れ出すリスクをわかってた。それでも決断したのは俺だ。謝るしか選択肢がない。
「俺が連れ出しました。ただ、たぶらかしているつもりはありません。病気のことを軽く見ているわけではありません。何を言っても言い訳にしかならないのも分かっています。申し訳ございませんでした」
もう一度深く頭を下げた。人に頭を下げるなんて人生で初めてだ。こんなに深く頭を下げて謝罪をしたことがなかった。凜のためなら何度だって頭を下げられる。
「頭を下げたところで何になるの? あなたの謝罪にはどれだけの価値があるのよ」
「……」
言い返せない。強い言葉は俺の心にぐさりと刺さった。
「お母さん、違うの。私がさっくんに頼んだの。本当は私の身体のことを心配して、さっくんは断ったの。引き下がらずお願いしたのは私なの」
凜はしっかりと母親の目を見つめて淡々と述べた。
「お母さん、私。もっと自由がほしい。本当は友達と遊びに行きたいし、放課後に居残りをしてお喋りもしたい。門限も早すぎる。もちろん、発作が起きないようには気を付ける。走ったりはしないし、無茶な行動もしない。だから、恋だってしたい」
「……なっ。恋はダメだって言ったでしょ?」
「なんでダメなの?」
「そ、それは……凜の心臓は恋が出来ないから……」
「妊娠出産をしたら、寿命が縮むからでしょ?」
「なんで、それを……」
凜の母親は目を見開いて固まっていた。寿命が縮む? どういうことだ。二人の会話の流れについていけない。
凜の母親の生気を失ったように立ち尽くす姿を見て、それが真実だということが分かった。と同時に言葉の意味を理解したくなかった。理解してしまえば、明るい未来が消えてしまうような気がして。
「私、知ってたんだよ……」
握っていたぬくもりが消えた。繋いでいた手が離されたのだ。
「中学生の時に受けた手術。詳しく教えてくれなかったよね? 気になって看護師さんに探りを入れたりして知った。私は……50歳まで生きられる可能性は格段に低い。20代、30代と生きられる保証もない。それに……妊娠出産は健常者の妊婦より、母子死亡のリスクが遥かに高い」
「なんで……」
「なんで手術のこと教えてくれないんだろうって不思議だった。教えてくれないからこそ、なにかあるんじゃないかって……」
「そ、それは。凜がまだ中学生だったから」
「私、本当のこと知りたい。自分の身体のことだもん。自分が知らないなんて、いやだよ」
「……」
「私は長く生きられないの? 寿命が短いの? ねえ? 教えてよ!」
それは凛の悲痛の叫びだった。震えた拳をぎゅっと握って、振り絞った勇気を言葉に込めたんだ。声を張り上げた反動で、華奢な身体がよろりと傾いた。彼女の心も体も限界だった。俺は慌てて駆け寄る。
凜は膝から崩れ落ちた。息を苦しそうに吐いている。
「っ。……う、はあ。……っ」
苦しそうな声が耳に届いた。慌てて凜の震える身体を支えた。明らかに凜の様子がおかしい。ぐっと胸元を抑えて苦しそうに俯いた。医療知識がない俺にもすぐに分かった。
――これは、発作だ。
「凜、大丈夫か? 発作か?」
「う、っうん。……さっくん。ごめ、ま、っ巻き込んじゃって」
「いいから! そんなことは……えっと、どうしたら。きゅ、救急車」
震える手でスマホを操作した。救急車を呼ばないと。急がないと。そう思えば思うほど、震える手のせいでスマホの操作が遅くなる。凜が発作で苦しんでいる中、放心状態の凜の母親は立ち尽くしたままだ。横目で確認して、すぐに凜に視線を戻した。
「あ、あの。発作が。心臓に疾患を抱えていて。えっと、車もないし。どうしていいか分からなくて。苦しそうなんです。意識はありますか? って? 分からないっすよ! とにかく苦しそうなんです!」
自分でも何を話したのか覚えていない。無我夢中で救急隊に連絡した。この場合に救急車を呼ぶのが正解なのかもわからない。救急車が来るのをひたすらに待った。
その間も凜の顔色は次第に悪くなっていく。知らないって怖い。医療知識の欠片もない自分をこの時は心底責めた。知らないと正しい選択肢が出来ないのだ。
凛の異変に気づいた周囲の人が集まってくる。好奇の目にさらされる。俺は必死で凜の身体を抱き寄せた。
怖い。凜がこのまま死んでしまうのではないかと、怖くてたまらなかった。
「大丈夫か? 僕のカバンを枕代わりにして横に寝せよう」
放心状態の俺に、年配の男性が声を掛けてきた。その声は落ち着いていて、不信感を感じることはない。
「僕は医師です。救急車呼んだんだね。咄嗟の判断で偉いよ」
「……は、はい」
震える声で返事をした。医師だと名乗る男性が現れて、やっと少し落ち着きを取り戻した。俺は無我夢中で発作が起きた凜を抱きかかえていたらしい。
間違いだらけの介抱を怒ることなく、淡々と凜の状況を聞かれた。
できれば怒ってほしかった。好きな人を助けることができない無力な俺を。誰かが怒ってくれないと、やり場のない怒りで頭がおかしくなりそうだ。
ピーポーピーポー。
サイレンの音が次第に大きく聞こえてくる。近づいてくることへの安心感が募る。サイレンの音に安堵感を覚えたのは、今日が初めてだ。
「ご家族の方は……」
「……」
「凜のお母さん! おばさん! 救急隊の人が呼んでますよ!」
救急隊の人の声に反応を見せない凜の母親に投げかけた。俺の声が届くと、ハッとしたようにぼーっとしていた顔を上げた。救急隊の人に促されて救急車に乗り込んでいく。
救急隊に促されて、やっと正気を取り戻した凜の母は救急車に乗り込む。さっきまでの暴走はなかったかのように、娘を心配する良い母の仮面をつけていた。
俺は走り去る救急車の背後を見送るしかできない。
遠くなっていくのを見つめながらも、手と足の震えが止まらない。震えを抑え込もうと強く握りしめても、止まってはくれない。あのまま凜の心臓が止まってしまうのではないかと恐怖で心が崩壊しそうだった。
ここにいる誰より心配をしていても。ここにいる誰よりも想っていても。俺は救急車に乗る資格はない。家族ではなく他人だからだ。なんだかやるせなくて、悔しくて、唇をぎゅっと噛んだ。血の味が口の中に広がっていく。
ひたすらに、無事であってくれ。そう願うことしか出来ない。
なんて無力なんだ。
苦しむ凜を目の前に、俺はなにも出来なかった。
凜のために俺はなにができる?
恋がこんなに辛いなんて聞いてねーよ。
誰だよ。恋をしたら人生が色鮮やかに見えます。なんて言ったのは。
こんなに胸が痛くて、苦しいなんて聞いてない。
俺は、胸が苦しくて、痛くて、その場に立っているのがやっとだった。
不甲斐なさを悔いた後は、心に不安という負荷がずんとのしかかる。
頭の中で発作に苦しむ凜の姿がフラッシュバックする。そして、また不安を掻き立てるのだ。
発作に苦しむ凜の映像が鮮明に脳の中に流れ込む。立っているのがやっとだったが、俺の心にも限界が訪れた。身体がふらつくと同時に、膝から崩れ落ちた。冷たく無機質なアスファルトに手を着いた。アスファルトに雫の跡が一滴。二滴と模様を作っていく。俺の涙だ。
俺のせいで、凜は――。
途轍もない恐怖が全身を支配している。手や足。全身の震えが止まらない。
発作が起きるなんて、ドラマの世界でしか見たことがなかった。
「私はみんなよりも少しだけ『死』に近い」
そう言って儚く笑った凜の姿が浮かび上がる。
だめだ。どうしても最悪のシナリオが頭に浮かんでしまう。発作で苦しむ凜と「死」が結びついてしまうんだ。
なにも出来なくて苦しい。
助けられなくて悔しい。
地べたにしゃがみ込んで立ち上がれない俺は、道行く人をただ見つめた。
どうしてこんなに人がいるのに、凜なんだ?
どうして真っ当に生きている凜なんだ?
誰も知るはずのない答えを探して、青く広がる空を見上げた。
力なく歩いてやっと自宅へと帰ってきた。凄く疲れたような気もするが、凜のことが心配で食欲もなにも湧かなかった。
発作が起きる前に凜が言っていた言葉が脳裏の片隅に居座ってる。
凜は妊娠出産をすると寿命が縮む……?
急いでネットで調べた。凜が受けた手術の名前は分からない。だから、心疾患にまつわる情報を片っ端から読んだ。調べていくうちに、凜の言っていた手術かと思われる内容が出てきた。記事を読んではみたが理解が全く出来ない。考えることを頭が拒否してしまうんだ。
字を読むのを身体が拒否しだすと、猛烈に頭が痒くなった。完全に俺の頭脳ではキャパオーバーだ。身体の拒否反応がその証拠だ。頭をポリポリ搔きながら、画面から視線を外した。
手術の詳細を一度読んだだけでは、到底理解できない。そんな難しい手術を、凜はあの小さな身体で受けたのか。健康のはずの心臓に痛みが走る。大きな息を吐いて、もう一度情報と向き合った。
おれは凛のことを知りたい。俺の不能な頭脳は、これ以上難しい情報を受け入れようとしない。だけど、負けじと気合でねじ込んだ。一度では理解できないなら、理解できるまで繰り返し読めばいい。10回、20回。何度でも読めばいい。
俺の役立たずな頭脳で理解したこと。
凜と同じ手術を受けて、無事に出産をされた方もいた。しかし、妊娠出産は母体にも胎児にも大きな危険を伴うということだった。
「俺、知らないからって……凜の前でなんて残酷なことを言ったのだろう」
ある記憶を思い出した。俺は凜に将来の夢を聞かれて「そこそこの会社に入って、結婚して。子供は好きだから3人欲しいな。男の子だったらキャッチボール。女の子だったら、パパと結婚するって言われたい。ありきたりな夢だよな。な。普通だろ? 俺の夢は」確かにそう言った。
何が普通だよ。どこが普通だよ。
凜はどんな気持ちで聞いていたのだろう。あの時の俺は、普通に出来ることだと。疑うこともなかった。
俺は凜に、どんなに酷いことを言ってしまったのだろう。あの時の凜の表情が頭にこびりついて離れない。
「凜。……ごめん」
月明かりに照らされた部屋で伝えることのできない謝罪を吐いた。
誰か俺をぶん殴ってくれ。行き場のない怒りが心を支配していた。
♢
あの日から、凜は一度も学校に来なかった。
颯太くんから、凜の母親があの場に現れた理由を聞いた。どうやら、門限を破った日から凜のスマホにGPS機能を付けていたらしい。学校から抜け出したことが、母親に筒抜けだったのだ。
一週間が過ぎようとしていた。
凜が学校に来なくなって、最初は心配の声も聞こえた。しかし数日もたてば気にする声が聞こえてくることはなくなった。笑い声が響き渡っている。
病気と闘って辛い思いをしているのに。
大変な思いをしているのに。人ってこんなに他人に無関心なのだと改めて知った。
教室には笑い声が充満している。居心地が悪くなって教室を勢いよく飛び出た。
凜は入院しているのだろうか。様子が気になり、颯太くんに何度も訪ねた。返ってくる返事は「命に別状はない」そればかりだった。
図書室。中庭のベンチ。凜のクラス。
彼女の面影を探してみたけど、見つけることはできない。
凜が入院している病院を知っている。しかし、病院まで行く勇気がどうしても出なかった。
発作が起きて苦しそうにする凜の姿が脳裏にこびり付いて離れない。
凜を危険な目に合わせて、どの面下げて会えばいいんだ?
わからない。分からなかった。
校内を探し回っても、凜の面影がちらついてしまう。思い出が取り残されているからだ。
大きなため息を吐いた。後悔の念を吐き出すようにゆっくりと。
ため息を吐いて、息を吸ったら。凜に会いたくなった。
足が地面を蹴り上げる前に、スマホを取り出す。今のままだと病院に全速力で向かってしまう。凜に会いたい気持ちを押し殺して、颯太くんに電話を掛けた。
ここは冷静にならなければいけない。今全速力で病院に向かっても、凜の母親に見つかっては門前払いされてしまう。今後さらに、会えなくなってしまうかもしれない。深呼吸して昂る気持ちを落ち着かせる。
「もしもし! 咲弥くん?」
「颯太くん、お願いがあります。凛に会いたいです」
「……凜ちゃん、会いたがっていたよ」
「凜に会ったんですか? 身体は?! 心臓は?! 大丈夫なんですか?」
「凜ちゃんの心臓は大丈夫。ただ、発作が起きたから、精密検査をするから。そのための入院だな」
「よかった。良かったです」
通話越しでもわかる落ち着いた声。興奮する俺を宥めるように、優しい声だった。
病院で凛の母に会ったら、門前払いされることだろう。それは颯太くんも危惧していたことだった。研修医という立場を使って、病棟の看護師さんと話をつけてくれたらしい。颯太くんのおかげで、凛と会えることになった。
♢
病院特有の消毒液のようなつんとした匂いが鼻につく。
健康児な俺は滅多に病院に来ない。数年ぶりに嗅ぐであろう病院の匂いは、少し居心地が悪い。
颯太くんに言われた病棟にたどり着くと、じっと見つめてくる視線を感じる。その視線の持ち主は凄い勢いで近づいてくる。
「キミ! 桜木咲弥くん?」
看護師さんは勢いよく俺を名指しで指を刺している。
それにしても、なぜ名前が分かったんだ?もしかしたら、俺がお見舞いに来ることを見越して、凜の母親が制服の男が来たら通報するように言ったのかもしれない。ぐるりと振り返り、来た道を戻った。
「あー、待って。違うの 颯太先生! 颯太先生に言われてたの」
「そ、颯太くんですか?」
「そう。紺色のブレザーを着た175cmくらいのすらりとした高校生。顔は少し情けなくて、頼りがいがなさそうな……。って、やっぱり、キミだよね?」
後半は、もはや悪口な気がする。しかし、颯太くんのぴったりな人物像のおかげで看護師さんは、ピンときたようだ。
「咲弥くんがきたら、凜ちゃんと会わせてやってほしいって」
「……ありがとうございます」
「うん。颯太先生のお願いだからさ。今日は凜ちゃんのお母さん来てないし、グットタイミングだよ」
「俺、凜の母親から出入り禁止にされてます?」
「そうだね。看護師の間では、凜ちゃんのお見舞いは母親のみって共有されてるね」
「……いいんすか?」
「よくないけど……。颯太先生が連絡先教えてくれるっていうからさ。あ、咲弥くんの方からも、宜しく言っておいてよ。颯太先生、研修医の先生の中でも群を抜いてイケメンだから競争率半端ないのよ。その点、これで一歩リード♪」
凜の病室に案内してくれるのは有難いのだが、この看護師に任せて大丈夫なのかと不安もよぎる。
「さっくん……」
「凜、」
壁や天井は真っ白で無機質な空間が広がる。病室のベッドに凜は座っていた。ドラマで見るようなたくさんの機械に囲まれている彼女を想像していたので、自力で座っていたことに、まず安堵した。
ベッドの脇には点滴スタンドが1つ。凛の真っ白な細い腕には大きな青あざがあった。思わず凝視してしまう。
「あ、これは点滴の跡だから。私の血管が細いみたいで、漏れることよくあるんだ」
俺の視線を感じた凛は、腕を上げて説明してくれた。細い腕に似合わないアザが痛々しくて、胸が痛む。
「そっか……」
「発作の時は、見っともないところ見せちゃってごめんね」
「いや、俺の方こそ……」
「さっくんは謝らないで? お願い」
思わず凜の胸元に視線を向けてしまう。やましい気持ちからではない。凜の心臓が鼓動しているのを確認したかった。
動いている。
上下に小さく動いているのを目視で確認すると、安堵で涙が込み上げてくる。発作が起きた時の映像が頭でフラッシュバックしては怖くて仕方なかったんだ。
「私、お母さんにスマホ没収されちゃって連絡できなかったんだ。検査で一週間以上は、入院しないといけないの」
「……」
顔色が少し悪い気がするけれど、凜が話している。ただそれだけのことが、とてつもなく嬉しい。気持ちが高ぶった俺は、あれほど会いたいと願っていたはずの彼女が目の前にいるのに、上手く言葉が出てこない。言葉の代わりに目の奥が熱くなる。泣きたくなくて、ぐっと目に力を入れた。
「場所を変えて話さない?」
凜は二人部屋だった。隣のベットはカーテンで区切られていたので見ることは出来ない。ベッドから降りてゆっくりとした足取りで進むので、俺はついていくしか出来なかった。
病棟内にある談話室。自販機と長椅子が置いてある。誰もいない空間に二人きり。凜の言葉を待つと、言葉より先に、ため息が耳に届く。今からされる話が良い話ではないことを暗示しているようだった。
「さっくん。私ね、嘘ついてた」
「うそ?」
「本気で好きになったら、その人との未来を望んでしまうなんて知らなかったの。私、嘘ついてた。私ね、恋してた。さっくんに。ずっと前から。好きだよ。さっくん」
思いがけない告白に、心臓が跳ねた。心拍数が跳ねあがる。「好き」たった二文字の言葉は真っすぐに心に届いた。ずっと押し殺していた彼女への想いが溢れてしまう。零れ落ちる寸前、ぴたりと止まった。何故なら、凜は頬に涙を伝わせて顔を小さく横に振っていたからだ。次に彼女から発せられる言葉は聞きたくない。本能でそう感じた。
「好きだから……終わりにしよう」
視界が滲んでいく。気づけば俺も涙を流している。
「な、なんで……俺も……」
声が震える。情けないくらい弱々しい声で、たった二文字が出てこない。
今、頭の中では凜との10年後の未来を考えている。
ずっと背負い続ける心臓疾患。結婚。命がけの出産。子供が出来て、もし……凜が先に死んでしまったら。
最悪の未来が、なぜか鮮明に頭の中に流れ込む。
たくさん考えた。
俺は凛のすべてを受け入れられるのか?
普通の高校生なら、考えなくていいはずのことまで考えなければならない。
凜と付き合うということは、そういうことだと思った。
「好きだ」そう迷うことなく言える勇気がなかった。病院のパジャマに身を包む彼女の姿を目の当たりにしたら、現実味が帯びて一気に不安が襲ってきた。凜の抱えているモノを迷うことなく全部背負える覚悟がなかった。
そんな自分が情けなくて、ぎゅっと拳を握りしめた。
「大丈夫だよ。さっくんがたくさん考えてくれたことは分かってるから。それだけで十分だよ」
涙を伝わせながら笑顔を浮かべた。
なんで、彼女に無理させてんだよ。
何ダサいことしてんだよ。
言葉は出ないくせに、涙が止めどなく溢れてくる。俺に泣く権利なんてないのに。
「恋を知れてよかった。ありがとう」
「お、おれ……」
「さっくん。ばいばい」
凜はいつのまにか涙を拭っていた。変わらず泣き続けているのは俺だけだ。そして、声が震えていなかった。最後の別れの言葉は、しっかりと耳に届いた。
凜は前に進みだした。終わりだ。俺たちの関係は本当に終わりだ。
俺には追いかける勇気がない。ずっと答えが分からない難問を追いかけていた。正解を探して全力で走り続けていた。もう、走り続けなくていい。そう思うと、情けないが、どこかほっとしている自分がいるんだ。
俺の心臓は正常だ。だけど、心臓辺りがひどく痛む。今まで感じたことのない痛みで、胸の中がぐちゃぐちゃだ。
泣き崩れた顔は無様だったと思う。かっこ悪いから泣くのをやめよう。なんて冷静な判断は出来なかった。一度決壊が崩壊した涙腺からは、涙が止まってはくれなかった。
どこかで予感はしていたんだ。終わりが来ることを。
初めから終わりがあるのをわかっていた。わかっていたはずなのに、なぜこんなに苦しいのだろう。
ただ彼女という存在が欲しかった。今は違う。凜のことが好きでたまらなくて、凜以外が彼女の立ち位置になるなんて想像できない。
付き合うことはできない。キスも出来ない。それでもいい。それでもいいと思っていた。
最初から分かっていたはずなのに。
この関係には、失恋も得恋もないと。
ハッピーエンドなんてなかったんだ。
最初から分かっていたのに。
凛がきゅんとしてしまったら、終わる関係ということを。
誤算だとするなら、思っていた以上に凜のことを好きになっていた。
なに本気になってんだよ。
なんでこんなに辛いんだよ。
終わりがある関係だと承知で始まった俺たちの関係。
俺は浅はかだった。こんなに好きになるなんて思ってなかった。本気の恋が辛いだなんて知らなかったんだ。
辛い。だけど。
凜と会えなくなるのは、もっと辛い。
キミと笑い合えない人生なんて、いやなんだ。
「凜、」
去ろうとする背中に投げかけた。何度も呼んだ名前。愛しい人の名前だ。
「……っ。俺、カッコいいこと何も言えない。だけど、終わりと言われて。『はい。そうですか』って簡単に割り切れる気持ちでもないんだ」
「……」
「初めて俺からお願いしていい? 気持ちの整理がつくまで会いにきていいか?」
彼女から答えはなかった。振り返ることなく去っていく。黙って去ったその行動が答えだと思った。
一人取り残されて、俯くことしか出来なかった。歩き出す気力もなくて、その場から動けなかった。
「桜木くん?! やだ! こんなところで何してるの!」
どのくらいその場にいただろう。放心状態の俺は、看護師さんの声でやっと我に返った。なかなか動かない俺の腕を無理やり引っ張られた。反動で重い身体が立ち上がる。
「まずいよ! 凜ちゃんのお母さんきてるんだから」
「え、」
「今病室に入ったから、このまま帰って! もし桜木くんを案内したのバレたら私が怒られるんだよ」
そう言いながら俺の背中を押して、強制的に歩かされた。
思春期の男子高校生が泣いているのに、何1つ触れこない。病院という場所が涙に慣れさせるのか。この人が他人を心配する人ではないのか。いずれかは分からない。
「あの、凜のお母さんってどのくらいの頻度でお見舞いに来てるんですか?」
「え、毎日だよ?」
「……毎日」
「仕事もしているみたいだから、終わってから走ってくるんだよ。ナースステーションを通るときは気にもしないのに、凜ちゃんの病室に入る前は、乱れた髪を治してから入るの」
「へえ、」
「走ってきたことを見せたくないのかなあ。娘に心配を掛けたくない親心かな? まだ子供いないから分からないけどねー」
からりと笑って説明した看護師さんの言葉が、胸の奥で突っかかる気がした。理由は分からない。気になる糸口は気づけなかった。俺は言われるがまま病院を後にした。
次の日、平然な顔をして訪れた俺に、びっくりした表情を向けた。
終わりと告げたのに、のこのこと会いに来た俺に心底驚いているといった表情だ。
しかし、その日は口を聞いてもくれなかった。
「帰って」
その一言が冷たく胸に刺さった。今までの優しい凜からは聞いたことのないような、冷たい声でやけに耳に残っている。
それから学校が終わると、毎日凜の病室に通った。俺は配慮という感情をどこかに置き忘れてしまったらしい。開き直った俺のメンタルほど強いものはない。
拒否されることも、ふられることも、何も怖くない。
心を支えてくれるのは凜からもらった「好き」の一言だ。彼女が俺を好きだったなんて、夢にも思わなくて。その事実だけで俺はなににでも立ち向かっていけると思った。
さすがに毎日来ると、少しずつ話をしてくれるようになった。俺の粘り勝ちだ。
いつの日からか、看護師さんたちにも認知さていた。「今日は話してもらえた?」と帰り際に聞かれるので、どうやら俺たちの関係性も知っているようだ。たびたび同情するような優しい眼差しも感じるので、それが確信に変わる。
この日もいつもと同じように病室で凜と話してた。そろそろ帰らないと凜の母と鉢合わせしてしまう。そう思って帰ろうと腰を上げた瞬間だった。
病室のドアが開く音に肩がビクッと反応した。慌てて振り返ると、そこにいたのは凛の母親だった。瞬時に全身に緊張感が駆け巡る。どんな罵倒が来るのかと身構えた。
「……こんにちは」
「え、あ。こ、こんにちは」
何でここにいるの!と怒鳴られると思ったので、普通の挨拶をされて拍子抜けしてしまった。
「あの……」
「桜木くん? 少し話せる?」
記憶に残る凜の母は怒鳴りつける姿だけだった。こんなに優しい声だったなんて、予想外で警戒心は簡単に薄れていく。
残される凛は不安そうな表情を浮かべていたので、「行ってきます」そう強く言葉を残した。
凛と以前にきた談話室だった。誰もいない空間。静寂が広がって居心地が良くはない。数日ぶりに見た凜の母は、酷くやつれて見えた。嫌悪感しか抱いていなかったのに、心配してしまうほどだ。
「あなた……毎日来てくれてるのね」
それは拍子抜けするくらい優しい声だった。内密に来ていたつもりだったが、その口ぶりからは、完全にバレていた。しかし、怒る様子は見られなかった。分かっていたのに、見守っていたということだろうか。
「あの……。 凜のことなんですけど……」
「あなたも凜から自由を奪ってしまっているって思う? 凜にも言われたのよ。縛り付けるのは愛じゃないって……」
視線を一度も合わせようとせず言葉を綴った。猫背に丸まった肩は震えていた。
その声はあまりにも優しくて震えていて。
責め立てる気など起きるはずがなかった。この時、ようやく俺の中で気になっていた点と点が繋がった。
「毒親」だと先入観で決めつけた。知れば知るほど違和感が募っていた。凛の母が制限をして縛り付ける。その裏側にある深い愛に気づきはじめていた。
「……お母さんは、誰よりも凛のことを思っていたんですよね、」
恐る恐る言葉を選びながら放つ。
凛の母は俯いた顔を上げた。驚いた表情で俺を見つめる。そして、俺はゆっくりと言葉を続ける。
「凜が受けた手術のことを調べました。妊娠にリスクがあることも知りました。恋の先には、結婚があるから。結婚の先には出産があるから……恋を禁止させたんですか?」
「……」
返事はなかった。
言葉の代わりに嗚咽が聞こえてきた。小さい背中が震えている。答えを聞かなくても分かった。凜の母親がなぜ凜を縛り付けていたのかを。
「いただきます」と手を合わせて挨拶を欠かさない。それは俺の母が褒めるほどだ。凛のことを考えれば考えるほど、様々なところに育ちの良さが出ている。きっと幼いころからしっかり躾をされていたのだろう。
仕事が終わって走ってまで毎日お見舞いに来たり。髪の乱れをバレないように病室の前で整えたり。
きっと、凜に余計な心配を掛けたくなかったのだろう。