楓先輩が語ったのは、希美さんが亡くなった直後。先輩が中学三年生、私が二年生の頃だという。

 道端でバッグの中身を散らばらせてしまったところに、私が通りかかったらしい。

「希美の形見の参考書を拾ってくれた女の子の優しさに勝手にイライラして、八つ当たりしたんだ。『俺のじゃない。その参考書の持ち主は、俺のせいで死んだんだ』って、見ず知らずの女の子に言ったんだ。今思えば、サイテーだよな」

 自嘲めいた笑顔に、胸がぎゅっと苦しくなる。

「でもその女の子が言ってくれた。『この参考書の持ち主は、あなたがそんな辛そうな顔をするのを望んでいないと思います』って」

 先輩の話を聞きながら、うっすらと記憶が蘇ってきた。

 たしか中学生の頃、自分と同じように大切な人を亡くしたであろう男の子と出会ったことがある。

 私は天国で見守っているお母さんに心配をかけないよう、笑顔で生きていくべきだと思っていた。自分勝手な正義感でその男の子にもそう言ったら、目の前の男の子は一筋の涙を流した。泣かせてしまったと焦って、私は慌てて謝ってその場を走り去った気がする。

 その男の子が、楓先輩だったということ……?

 絶句して見つめると、先輩は小さく笑って頷いた。

「菜々は、いつも俺から逃げていく」
「う……ごめんなさい、本当に」

 身に覚えがありすぎて項垂れると、繋いでいる手と反対の手がぽんぽんと頭を撫でた。

「きっと同じように大切な家族を亡くして、それを乗り越えた菜々の言葉だからこそ、俺の心に刺さったんだと思う。おかげで少しだけ前向きになれた。それに、本音と口にする言葉が違う人間ばかりだと悲観してたけど、菜々は違った。余計なことを言ってしまったと謝りながら、心の中で俺にエールを送ってくれた」
「エール……?」

 心の中で何を思っていたかなんて、全然覚えていない。

 私が首をかしげると、先輩が当時を思い出すように目を伏せた。

「俺が辛い経験から立ち直れるようにって、そう心の中で願ってくれた。受験頑張れってエールをくれた。菜々のおかげで俺は前に進めた。菜々が、俺をこの世界に引き止めてくれたんだ」

 思ってもみなかった真実に目を見開く。先輩は、偶然言葉を交わしただけの私をずっと覚えていてくれたの……?

 私はふと、京ちゃんとふたりで二年八組に行った時の楓先輩の驚いた様子を思い出した。

『あ、君……!』

 あれは事故の時のことを覚えていたわけじゃなくて、その時の中学生の女の子が私だって気付いてくれたから……?

「うん。俺の忘れられない子は、中学生の頃の菜々のことだよ。ずっともう一度会いたいって思ってた」

 彼は真っ直ぐな眼差しを向けて、噛みしめるように言った。

「希美に恋愛感情はなかったけど、俺にとって両親以上に近い家族のような存在だった。命日には会いに行くし、今も大切に思ってる」

 私はゆっくりと頷いた。

「だけど俺が初めて自分から触れたいと思ったのは、守りたいと思ったのは、菜々だけだ。この力のせいで嫌な思いをさせることもあるかもしれない。でも、菜々を諦めたくない。菜々が好きだ」

 繋いだ手がぐっと強く握られる。

 ストレートに気持ちが伝わってくる真剣な告白に、目頭が熱くなった。

 私も、その思いに応えたい。

「私も……楓先輩が好きです」

 緊張と恥ずかしさで声が震えた。だけど伝えなくては。こんな風に真っ直ぐに私を想ってくれる人には、きっと二度と出会えない。

「散々逃げておいて、今さらって思われるかもしれないけど……先輩が好きです」
「菜々……」
「先輩に忘れられない人がいるって知って、お母さんを忘れていないのに真央さんと再婚したお父さんと重なったんです」

 私のせいで大切だった人への想いを薄れさせるのが怖かったし、他の誰かを想っている先輩を受け入れられる自信もなかった。理不尽に命を奪われた希美さんに嫉妬する醜い自分に耐えられなかった。

 なにより、それを先輩に知られて嫌われるのが怖かった。

 私が先輩から逃げた理由をひとつずつ吐き出していくのを、全部受け止めるようにじっと聞いてくれている。

「一方的に逃げるしかできない私に、先輩はきちんと話そうって言ってくれた。私に触れればなにを思ってるかわかるはずなのに、それをしなかった」
「そんなの当然だろ」
「当然だって思える優しい先輩が好きです。心の中を読まれるのは恥ずかしいし、少しだけ怖いと思うこともあるかもしれない。でもそれは先輩が怖いんじゃなくて、嫌われないか不安なだけで」
「嫌うわけがない」

 私の言葉に被せるように、先輩が言った。

「素直で真っすぐで、思いやりがあって、でも臆病なところもあって、誰よりも可愛い。そんな菜々を嫌いになるわけがない」
「か、買いかぶり過ぎです……。心の中で嫌なことを考える日だってありますよ」
「わかってる。それで俺が菜々を嫌うことはないけど、聞かれたくないのなら絶対に触れない。この前みたいに触るなって言ってくれていい。だから、これからも一緒にいたい」

 ずっと他人と線を引いてきたという先輩が、私を選んでくれた。一緒にいたいと言ってくれた。

 それがなにより嬉しくて、私は何度も頷いた。

「私も、先輩と……ずっと一緒にいたいです」

 そう告げながら、ふとお母さんの手紙にあったフレーズを思い出した。

「私は、楓先輩と恋がしたいです」

 唐突に切り出した私の言葉に、楓先輩が首をかしげた。

「お母さんのように大切な人の幸せを願えるのが〝愛〟なんだとしたら、私はまだ愛を知らないんだと思います」

 自分よりも相手の幸せを願う気持ちはとても健気で、儚くて、強くて、美しい。お母さんの手紙を読んで、そう思った。

 大人になればわかるものなのか、限られた人にしかたどり着けないものなのか、私にはわからない。

 もし今、私が命を失ったとして、先輩に『他の人と幸せになって』と言えるのか。答えは『NO』だ。

 自分よりも相手の幸せを願う強さも美しさも、私は持っていない。ただ自分勝手に相手を、楓先輩を好きでいることしかできない。

「愛じゃなくていい。まだ恋をしていたい。そう言ったら、先輩はどう思いますか?」

 驚いた顔をしたあと、先輩は笑った。とても嬉しそうに、とても幸せそうに、笑った。

「俺は菜々とずっとふたりでいたい。ふたりで幸せになりたい。俺も、菜々とずっと恋をしていたい」

 私たちはもう子供じゃない。たくさんの悩みや葛藤を抱えながら生きているし、本気で人を好きになれる。一生に一度の恋ができる。

 でもきっと、愛を語れるほど大人じゃない。それでいい。それがいい。

 私は、愛にならない恋がしたい。