「ごめん、待たせた?」

 ブルーのクロスバイクに跨った先輩が公園についたのは、午後三時半を少し過ぎた頃だった。

「いえ、全然」

 初めてこの公園に先輩が会いに来てくれた時も、同じような会話をした。まだ少し夏の名残があった頃、会ったばかりの私のために話を聞きに来てくれた先輩に戸惑いながらも、その優しさに急速に惹かれていったのを思い出す。

「寒くないか? これ買ってきた」

 手首に下げたコンビニの袋から、温かいレモンティーが差し出された。

「ありがとうございます。あったかい」

 近くのベンチにふたりで座った。もらったペットボトルを頬に当てながら、どうやって話を切り出そうかと考える。

 伝えたいことや聞きたいことがありすぎて、気持ちがうまく纏まらない。

 先輩を呼び出しておきながら、いざ話そうと思うと言葉が出ないなんて。私は徐々に焦ってくる。

「あの、あの……私……」
「菜々。大丈夫、ゆっくりでいい」

 そう告げる先輩の優しさは、ここで初めて弱音を聞いてくれた時と全く変わらない。

 私はこくりと頷き、ゆっくりと言葉を選びながら口を開いた。

 先輩から逃げ出したあと、今年の三月まで住んでいた街へ行っていたのだと話すと、先輩は「そっか」と納得したように頷く。

「先輩が伝えてくれたおかげで、お父さんが迎えに来てくれました。そこでお父さんの本音を聞いて、お母さんからの手紙を受け取ったんです」
「手紙?」
「私が……恋を知ったら渡すようにと、お母さんが生前お父さんに託していたらしいです」

 私に恋を教えてくれた張本人に話すのはめちゃくちゃ恥ずかしい。両手で口元を隠しながらもごもごと話すと、隣の先輩も心なしか少し耳が赤く染まっている。

「お母さんの手紙を読んで、拗らせていた考え方を改めました。楓先輩、言ってくれましたよね。『菜々のお母さんは、お父さんの幸せを裏切りだって思うような人なのか?』って」
「いや、あれは……菜々の気持ちも考えずに、無神経だった」

 後悔を顔に滲ませる先輩に、私は笑顔で首を横に振った。

「いえ、いいんです。その通りでした。お母さんは、もしお父さんが再婚するのなら応援してあげてって、手紙に書いていたんです」

 そう伝えると、先輩は驚いた顔をしている。

 お父さんと土手で交わした会話や、お母さんからの手紙の内容を先輩に話した。そうすることで、より両親の、特にお母さんの思いを客観的に見つめられた気がする。

『恋をすると、彼とずっと一緒にいたいよね。ふたりで幸せになりたいって思う。

 その恋が愛になるとね、ただその人の幸せを願えるようになる。自分よりも、相手が幸せになってくれたらいいなって感じるの』

 恋と愛の違いを考えたことなんてなかったし、私はまだ恋を知ったばかりで、お母さんの思いを受け入れることはできても、全部を理解できたわけじゃない。いつか大人になったら、お母さんの言う〝愛〟がわかるようになるのかな。

 私が話し終えると、楓先輩は長い息を吐き、じっとなにかを考えた様子だ。

「……優しくて強い、素敵なお母さんだな」

 お母さんを褒められたのが嬉しくて、私は笑顔で大きく頷いた。

「はい」

 幸せに生きていくために誰かを好きになることは、決して裏切りではない。永遠に故人を偲んで生きていく道もあれば、新たに伴侶を見つけて寄り添って歩む道もある。

 お父さんや真央さんと本音で話し、お母さんの深い愛情の詰まった手紙を受け取った今、ようやく受け止めることができた。

 私は大きく息を吸い込み、ふうっと静かに吐き出してから、ずっと聞くのが怖かった彼女について尋ねた。

「……原口希美さんについて、聞いてもいいですか?」
「うん。俺も、菜々に話したいと思ってた」

 そう告げられ、不安と緊張から胸がドキドキして落ち着かない。

 だけど、きちんと聞かなくては。これから自分がどうすれば後悔しないのか、どうしたら幸せになれるのか、しっかりと考えるために。

「希美は同じマンションに住んでた幼なじみで、元々母親同士が交流があったらしい。俺の両親が俺の力を知ってからは、仕事を理由に頻繁に希美の家に預けられてた。兄妹みたいに一緒に育ったんだ」

 楓先輩が話してくれたのは、幼い頃からの希美さんとの思い出。

 活発で運動神経のよかった彼女はずっと陸上の選手だったことや、勉強はあまり得意ではなかったこと、激辛好きで食事にはなんでもタバスコを入れていたことなど、まるで昨日も会っていたかのように淀みなく話す。

「うちの高校を受けたいって言い出した時は、俺だけじゃなく希美の両親も無理だって説得してたな。でもあいつ、『あの制服着てイケメンの彼氏を作る』って聞かなくて。結局部活を引退したあと、俺が勉強を教えてた。不純な動機だったくせに、たった三ヶ月でめちゃくちゃ成績が上がったんだよ」

 希美さんの明るい人柄ゆえか、楓先輩も柔らかい表情で話している。彼女に会ったことのない私も思わず笑みが零れた。きっと友達も多くて、とても素敵な人だったんだろう。

 ……ん? あれ、先輩、今なんて……。

「イケメンの、彼氏を作る……?」
「そう。可愛い制服着て、髪伸ばして、イケメン彼氏作って青春を謳歌したかったんだって。不純だろ」
「え……だって希美さんは、楓先輩と付き合ってたんですよね……?」

 希美さんには、可愛い制服に頼らなくてもずっとそばに〝イケメンな彼氏〟がいたはずなのに。

 私は不思議に思って先輩を見上げると、片手で顔を覆って「やっぱりか……」と大きなため息をついている。

「なんで変な誤解を生んだのかわかんないけど、俺と希美は単なる幼なじみ。むしろ家族みたいなもんだよ」
「家族……?」
「言ったろ? ガキの頃からずっと一緒に育ったんだ。今さら女子として見たりしないし、向こうだって一緒だよ。中学の時は一緒に帰るだけで周りから『付き合ってんの?』とか言われて、鬱陶しかった記憶しかない」

 本当に煩わしそうな顔をして言う先輩に、私は唖然とする。

 希美さんは、楓先輩の恋人じゃなかった……?

 日野先輩から話を聞き、それを確かめることなく鵜呑みにしてしまった。学校を休み、飛行機を使って命日当日にお墓参りに行くくらいだから、きっととても大切に想っていた恋人だと信じて疑わなかった。

「もしかして日野から聞いた希美のことって、それ?」
「……はい」
「悪い。菜々が噂を聞いて苦しむんだったら、ちゃんと中学の頃に誤解を解いておけばよかった。日野が勘違いするほど噂が広がってたのか……」

 先輩は後悔を滲ませ、口元を歪めた。

「希美が事故に遭った直後の俺はかなり虚ろだったと思う。現実を受け止めきれなくて、受験勉強どころじゃなかった。それもあって付き合ってるって噂が真実味を増したのかもしれない。日野と今みたいに話すようになったのも、実は高校に入ってからなんだ」
「そうだったんですね」

 とても仲が良さそうだし、中学が同じだと知っていたから、付き合いは長いのかと思っていた。

「じゃあ、恋愛する気がないとか、忘れられない人がいるって、日野先輩に話したのは……?」
「こんな力があって、ずっと他人と一線を引いてた。表面上は仲が良くても、なんでも話せる相手はいなかったし、誰かを好きになるなんて考えたこともなかった。それに……希美が死んだのは自分のせいだって思ってた」

 強烈すぎる言葉に、一瞬意味が理解できず、私は固まったまま先輩を見つめた。

 思いがけない事実を連続で告げられ戸惑ったが、私は一旦感情を横に置き、聞き役に徹することにする。今は口を挟むべきではない気がした。

「あの日、希美と一緒に本屋に行く約束をしてた。でも俺は友達と話し込んでて、すぐに追いつくからって希美だけ先に行かせた。その時、事故が起きた」

 想像するだけで辛い現実が希美さんを襲った。居眠り運転の車が起こした事故に巻き込まれ、帰らぬ人となった。

 それを知った時の先輩の衝撃はどれほどのものだったのだろう。ほんの数分前まで学校で顔を合わせていた幼なじみが、突然命を奪われてしまっただなんて。

 ショックなんて言葉では言い表せないほどの絶望が、中学三年生だった先輩の肩にのしかかったはずだ。

 けれど、それは決して先輩のせいではない。

「俺が約束通り一緒に行っていれば。教室で待ってろと引き止めていれば。考えたってどうしようもないことを考えては俺のせいだって自分を責めたし、希美が行きたがってた学校に行くために勉強することにも罪悪感が湧いた。どうせなら親に疎まれてる俺が死ねばよかったのにって思ってた」
「先輩……っ!」

 私は思わず先輩の手を握り、ふるふると首を振った。

 口を挟まずに聞いていようと思ったのに、あまりに悲しいことを淡々と言うから、我慢できずに話を遮り、彼の手を握ってしまった。

 ――――そんな悲しいことを言わないで。

 ――――事故は先輩のせいなんかじゃない。

 ありきたりなセリフは聞きたくないだろう。

 だけど私の必死の形相からも、握った手からも、思っていることはすべて伝わってしまっているはずだ。

「ご、ごめんなさい……っ」

 咄嗟に引こうとした手を、楓先輩が優しく包んだ。

「やっぱり菜々の心の声は、優しさで溢れてる」
「……え?」
「口にしなくても心から俺を心配してくれてるって、ちゃんと伝わってる。ありがとう」
「そんな、私は、なにも……」
「今も希美をひとりにした罪悪感は胸にある。きっと一生抱えて生きていくんだと思ってる。でも、こうしてそれを口にできるのは、菜々のおかげなんだ」
「わ、私……?」

 先輩は包み込んだ手をほどき、指を絡めて繋ぎなおす。いわゆる恋人繋ぎに、こんな状況なのにドキッと心臓が高鳴った。

「菜々は覚えてないと思う。俺たちが本当に初めて出会った日のこと」

 ――――本当に、って? それは、あの事故から助けてくれた日じゃないってこと?