私と楓先輩は、家の近くの親水公園に移動した。先輩がブルーのクロスバイクを押す左側を歩く。その間、私たちはひと言も口を開かなかった。
お風呂上がりだった私は部屋着姿からシンプルなマキシ丈のパーカーワンピースに着替え、財布とスマホだけを入れた小さなバッグを持って家を出てきた。
朝のこの時間はとても冷える。マフラーを持ってくればよかったと後悔した。
公園に着くと、広場では数人のお年寄りがラジオ体操をしていたり、思い思いに身体を動かしている。それを見ながら空いているベンチに座った。
「体調は?」
「もう大丈夫です。心配かけてすみません」
お互いに、どこかぎこちない雰囲気が漂っている。間にひとり座れるほど空いているふたりの距離も、その雰囲気に拍車をかけていた。
「髪、少し濡れてる?」
「あ……さっきお風呂入ったから」
「病み上がりなのに、また風邪引くぞ。ほら」
先輩は自分がしていたグレーのマフラーを私に渡してきた。
「大丈夫です、先輩が風邪引いちゃう」
「思いっきりバイク漕いで暑いくらいだから」
「でも……」
受け取るのを渋る私に痺れを切らし、先輩は私の首元にぐるぐるとマフラーを巻き付けた。
距離が縮まったのにドキッとして身体を硬直させると、「そんな怖がんなくても、触んないから」と聞き取れないほど小さな声で呟いた。
「え?」
聞き返した私に一瞥もくれず、すぐに距離が離れた。先輩がポケットからおもむろにスマホを取り出し、私に画面を向けてくる。
「これ、どういう意味?」
そこには私が送ったメッセージが表示されていた。
【もう、ふたりきりでは会いません。今までありがとうございました。】
無機質な文字から目を逸らし、平静を装って答える。
「そのままの意味です」
「俺と別れたいってこと?」
胸がズキンと痛む。自分から送っておいて、楓先輩から言葉にされると、本当にお別れなんだと実感が湧いた。
ショックを受けていないで頷かないと。もう決めたんだから。そう思っていると、先輩が続けて口を開いた。
「……俺が、怖くなった? そばにいるのが嫌になった?」
問いかける声が絶望の色をしているのに気付き、私は慌てて顔を上げた。
先輩は無表情でこちらを見ている。けれど瞳の奥は仄暗く、私も周囲の景色もなにも映していないようだった。
家からずっと視線を合わさないように俯いていたから気がつかなかった。
あの柔らかく、優しく微笑む先輩が、どこにもいない。
「違いますっ!」
私は咄嗟に先輩との距離を詰め、膝の上で拳を握る彼の手に触れた。
心を読めるという秘密を打ち明けるのに、どれだけの勇気が必要だったか。その力のせいで、ご両親ともあまりいい関係ではないのも聞いている。観覧車の中でも拳を握りしめていたことを思い出し、このまま誤解させてはいけないと必死に大きく首を横に振って否定した。
「保健室で、酷い態度をとってごめんなさい。でも、先輩が怖いとか、嫌になったわけじゃないんです」
醜い感情を知られたくなかったから、先輩の手を拒否してしまった。けれどそれは先輩の力が怖いわけじゃなくて、先輩にどう思われるのか怖かっただけ。
心の内側を全部晒して、先輩に嫌われるのが怖かっただけ。
「先輩のせいじゃないです」
「じゃあ……どうして。俺が、菜々を嫌うわけないだろ」
先輩の手を離して、両手で自分の顔を覆った。顎がふわふわのマフラーに触れ、ふんわりと先輩の香りが漂ってくる。彼の優しさや言葉を嬉しいと思うたび、近くに感じるたび、同じだけ胸に罪悪感が降り積もる。
「お父さんの再婚にずっと納得できなくて、ずっと現実に向き合わずに逃げてきました。家に帰りたくないから図書室で時間潰したり、家族を避けるように自分の部屋に引きこもったり。昨日の夜、ついに爆発してお父さんに酷いことを言っちゃいました」
唐突に切り出した話に虚を突かれたような顔をした先輩だけど、私が再婚についてどれだけ悩んでいたかを知っているからか、黙って聞いてくれた。
お父さんに対する苛立ちに似た思い、お母さんを亡くした悲しみが遠ざかっていきそうな恐怖心、義理の母になった真央さんに対するやりきれない感情。
それは以前繋いだ手から知られてしまっているけれど、先輩に言葉にして話すのは初めてだった。
「さっき真央さんと……お父さんの再婚相手の人と少しだけ話しました。聞きたいことも聞けたし、真央さんがお父さんとお母さんのことをどう思ってるのかがわかって、彼女がどれほどの覚悟を持っているとかと知って、少しだけ納得できました」
だけど、それは『忘れられない人がいる人を好きになった』側の人の話。
自分以外の誰かを想っている人と、一緒に生きていく選択をした人の覚悟にすぎない。
「だけど私は……他の人を好きになって再婚したお父さんを、どうしても受け入れられない。まだお母さんを想ってるっていうのなら、再婚なんてするべきじゃないのに……」
真央さんは優しくて、とても強い人だと思う。すべてを受け入れて穏やかに微笑むまでに、どれだけ悩んで涙を流したんだろう。
私は、あの人みたいに全部を受け止めるなんてできない。
「楓先輩も……忘れられない女の子が、いますよね?」
静かに話を聞いてくれていた先輩が、私の急な質問に対して小さく反応する。
「……希美のこと?」
私は頷き、涙が流れてしまわないように天を仰いだ。
何度かまばたきを繰り返し、冬の朝の冷たい空気で瞳をしっかり乾かしてから、楓先輩に向き直る。
「私のお母さんも原口希美さんも、きっともっと生きていたかったはずです。でも病気や事故で命を奪われてしまった。彼女たちを忘れて他の人と幸せになるなんて……そんな裏切り、私は納得できない……」
「……裏切り?」
楓先輩がぎゅっと眉をひそめた。
「裏切りって、どういうこと?」
「お母さんを想いながら真央さんとも結婚するなんて、そんなの浮気や二股と一緒じゃないですか。先輩だって」
「俺?」
「学校を休んで遠い九州にまで会いに行くくらい大切な人なんですよね? 忘れられない人がいるって言ってたって、日野先輩に聞きました」
「それは」
肯定の言葉を聞きたくなくて、先輩に話す隙を与えず、私は続けた。
「好きだから付き合ってて、永遠を誓い合って結婚したのに。きっとお母さんも希美さんも、今でもお父さんや楓先輩を想ってる。天国からずっと見守ってる。忘れないで、ずっと一途に想い続けてほしいのに、どうして裏切るの……」
捲し立てるように話す私に、楓先輩は悲しそうな顔をして尋ねる。
「菜々のお母さんや希美が天国から見守ってくれてるなら、俺たちはちゃんと幸せに生きていくべきだろ?」
「そうです。でも、幸せに生きるのに新しい恋は必要ですか? 想い合っていた人を裏切ってまで――――」
「それは『裏切り』なのか?」
ヒートアップする私を遮るように、楓先輩が言葉を被せる。
「菜々がお母さんを大切に思ってるからこそ、再婚を複雑に感じるのはわかるよ。反対だと言い出せなかったのも、ショックが大きすぎたからだってわかってる。でも、俺はお父さんが裏切ったとは思わない」
冷静な声で、私を諭すように先輩は続けた。
「菜々のお母さんは、お父さんの幸せを裏切りだって思うような人なのか?」
一番聞きたくなかった言葉に、カッと頭に血が上った。
「お母さんがどう思うかなんて、先輩にはわからないじゃないですか……!」
ここが静かな朝の公園だということも忘れて、大声で叫んだ。
私だって何度も写真の中のお母さんに尋ねたけれど、答えなんて返ってこない。お父さんの幸せを祈っているのは間違いないだろうけど、新しい奥さんの存在を認めるかどうかなんて、お母さん本人にしかわからない。
想像で『お母さんもきっと喜んでる』なんて綺麗事は聞きたくない。
もし裏切られたと嘆いていたとしたら? 他の人を好きにならないでほしいと泣いていたら?
そう考えたら、私はとても受け入れられない。
「だから、私は楓先輩とこれ以上……一緒にはいられません」
肩で息をする私を前に、先輩は驚いて目を瞠った。
「ちょっと待って。『だから』ってなに? 菜々の両親の話と、俺たちと、なんの関係が」
「希美さんの想いを背負う自信も、先輩の希美さんへの想いごと受け止められる覚悟も、まだ私にはできません……!」
私はそれだけ言い切ると、ベンチから立ち上がり、勢いよくその場から走りだす。
言い逃げなんて卑怯だし、後ろから楓先輩が驚いた声で私の名前を呼んでいるのも聞こえたけれど、私は振り返らなかった。