私は夕飯も食べず、部屋からほとんど出ないまま過ごした。その間、色んなことを考えた。
両親のこと、真央さんのこと、原口希美さんのこと。それから、私と楓先輩のこれからのこと……。
午後七時を過ぎた頃、玄関の開く音でお父さんが帰ってきたのだとわかった。私は布団の端をぎゅっと握りしめ、膝を抱えて目を閉じる。
きっと、今頃真央さんから私が学校を早退したことや、話しかけても返事がないことを聞いているだろう。
これまでも真央さんには褒められた態度はとっていないけど、ここまであからさまに避けたり無視をしたりすることはなかった。
罪悪感もあるし、こうして引きこもってなにが解決するわけでもないことは、私だってよくわかってる。
ただひとりで冷静になる時間がほしい。そう思っていたのに。
「菜々、ただいま」
コンコン、とお父さんがノックしながら話しかけてくる。
返事をしないまま布団を被ってじっとしていると、「入るよ」という声とともに扉が開き、お父さんのスリッパの音が部屋の中に入ってきた。
まさか許可なく入ってくるとは思わず、私は布団の中でビクッと身体を震わせた。
「具合が悪いの?」
私が起きていると気付き、お父さんが小さなため息を吐きながらベッドのそばに腰を下ろした気配がする。勝手に部屋に入ってくるのも、そのまま居座るのも、今はやめてほしい。
そう言いたいけれど、口を開けばこれまで心の中に積もり積もった感情が流れ出してしまいそうで、私はなにも言えず、ひたすら早く出て行ってと祈るしかできない。
「真央も心配してたよ。早退するなんて、高校に入学してから初めてでしょ? 具合が悪いなら、薬を飲むなり病院に行くなりしないと」
それにもなにも答えないでいると、お父さんが珍しく語気を強めた。
「菜々。話してるんだから、起きてるならせめて返事くらいしなさい。お父さんも真央も、どれだけ心配してると思ってるんだ」
やめて。やめて。私は両手で顔を覆いながら心の中で訴え続ける。
「昨日も夕食を食べなかったでしょ。なにかあったのなら、お父さんたちに話して――――」
「ほっといて!」
私は被っていた布団を勢いよく剥ぐと、上体を起こしてお父さんを睨みつけた。感情が限界を突破し、自分でも手がつけられない。
「お父さんに……お母さんを裏切って他の人を選んだお父さんに話すことなんてない!」
私のあまりの剣幕にお父さんが絶句しているけれど、それでも止められなかった。
「お母さんの命日にも誕生日にもダリアの花束を贈るくせに、毎日仏壇に手を合わせてるくせに、それでも他の人と結婚するなんて。そんなの浮気となにが違うの? 二股じゃない!」
「菜々……」
「それとも、お母さんのことはもう好きじゃないの? 忘れちゃったの? 死んじゃった時だけ悲しんで、それで終わりで、あとは忘れて他の人と幸せになればそれでいいの? お父さんが他の人と幸せそうにしているのを見て、お母さんがどう思うのか考えたことはないの?」
泣きながら叫ぶ私を見て、お父さんが悲しそうに顔を歪めた。
息が苦しい。胸が痛くて、喉が焼けるように熱くて、瞳からはとめどなく涙が溢れている。
お父さんから再婚の話を聞いてから、ずっと言えずに心の底に溜まっていた淀んだ黒い感情が、ようやく出口を見つけたと渦を巻いて吐き出されていく。
「私はお父さんとは違う! 大切な人をそんな風に裏切ったり……裏切らせたりしない!」
お父さんを責めながら、自分に対する戒めの言葉だった。
そして、私にはできない選択をして幸せそうにしているお父さんと真央さんに対する嫉妬心の裏返しでもあった。
私は、原口希美さんを裏切れない。気にしないなんてできない。きっと楓先輩といれば、いつもどこかで彼女のことが頭の隅にあり続ける。
この先のふたりの時間を、本当は自分のものじゃなかったかもしれないと罪悪感を持ちながら過ごすなんて、私にはとても無理だ。
「出てって」
「菜々」
「お願い、出てって!」
まるで子供の癇癪だ。
だけど、今はなにも聞きたくない。私は再び布団に包まって、もう話したくないという拒絶の意志を示した。
お父さんは今はなにを言っても無駄だと判断したのか、それ以上なにも言わず、静かに部屋を出ていった。
きっと、とても困らせた。それ以上に、とても傷つけた。
お母さんが亡くなって、ひとりで私を育ててくれたのに。いつだって私のことを思って、大切にしてくれていると、ちゃんと感じていたのに。
ひどい言葉を投げつけた。楓先輩にも、お父さんにも……。
部屋に誰もいなくなると、ベッドから下りて机の上に視線を泳がせた。
写真に収まっている三人はみんな満面の笑みで、幸せな家族そのものだ。
私は写真立てを手に取ると、胸に抱きしめ、しゃがみ込んだ。
昨日あれだけ公園で泣いたというのに、まだぽろぽろと大粒の涙が零れてくる。私はそれを拭うこともしないで、自己嫌悪に押し潰されながらひたすらに泣いた。
その後、いつの間にか泣き疲れて眠り、目が覚めると、部屋の時計は朝の五時半を指していた。まだ日が出ていないため、カーテンの外は薄暗い。
窓を開けると、秋から冬に移り変わる澄んだ空気の匂いがする。泣き腫らした目に冷たい風が心地よく、私は大きく息を吸い込んだ。
気が変わらないうちに送らないと、と自分に喝を入れて、私は机に置きっぱなしにしていたスマホの電源を入れた。すると、未読のメッセージを知らせる通知がいくつも届く。
【無事に家についた?】
【体調はどう? 電話してもいい?】
何度も同じようなメッセージをくれていた。私を心配する楓先輩の顔や声音が思い浮かび、決意が鈍りそうになる。
ぎゅっと目を閉じ、心を落ち着かせながら、ゆっくりと文字を打ち込んでいった。
【もう、ふたりきりでは会いません。今までありがとうございました。】
これが、私が出した答え。
やっぱり私は、亡くなった恋人から楓先輩を奪うなんてできない。
私がお父さんにお母さんを思い続けてほしいと願うのなら、自分だけ楓先輩と幸せになりたいだなんて、都合がよすぎる。そんなの、許されるはずがない。
画面には絵文字もスタンプもない、温度が感じられない無機質な挨拶の文が並んでいる。
初めて先輩にメッセージを送った時だって絵文字やスタンプを使ったりして、もう少し砕けた雰囲気だったのに。
あの時はメッセージの返事に対して、すぐに電話をくれたんだ。驚いたけれど、その温かい優しさに急速に惹かれていった。
少しずつ仲良くなって、誰よりも距離が近くなったと思った今、こんな風に他人行儀なメッセージを送るなんて。
ごめんなさい、楓先輩……。
でも私は、相手が亡くなったからといって他の人に想いを移すことを許せそうにありません。
ぎゅっと目を閉じて送信マークをタップした途端、瞳に溜まっていた涙がぽたりとひと粒スマホ画面に落ちた。
これでいいんだ。ううん、こうしなくちゃいけないんだ。
だって裏切りたくない。裏切らせたくない。そのためには、こうするしかないんだから。
何度も自分に言い聞かせる。
嗚咽を我慢しているせいで喉が熱くて痛い。唇を噛みしめて、泣き叫びたい衝動を必死に堪える。
自分で決めたんだから、もう泣かない。
私は乱雑に目元を拭うと、ゆっくりと明るくなる冬の空に誓った。