誰かの気配を感じて、意識がゆっくりと覚醒の準備をしだす。目を開けて飛び込んできたのが私の部屋の天井じゃなかったから、ここが保健室だと思い出した。
眠る直前までまぶたに乗っていたホットタオルは耳の横でシーツを冷たく濡らしていて、ある程度の時間が経っているのだと推測できた。
「目、覚めた?」
心配そうな声に問いかけられ、ハッとして視線を彷徨わせる。カーテンの向こうから楓先輩が顔を覗かせていた。
「入ってもいい?」
本来ならベッドがあるカーテンの奥は養護教諭の先生しか入れない決まりだ。先輩がここまで入ってこれているのは、きっと田村先生が席を外しているからだろう。
本当はまだ先輩に会う心の準備ができていない。どんな顔をしたらいいのかわからないけれど、断ることもできずに小さく頷いた。
「体調悪くて保健室に行ったって聞いてビックリした。具合は?」
「……大丈夫、です」
短時間でもぐっすり眠れたのか、寝る前に飲んだ薬のおかげかはわからないけれど、先程のような頭痛や吐き気はない。
横になったまま先輩と話すのは憚られ、上体を起こす。こちらに近寄ってきた楓先輩はベッドの端に腰を下ろすと、私の顔を覗き込んできた。
寝起きの顔や声を知られるのも恥ずかしいけれど、それ以上に顔を合わせるのが気まずい。
咄嗟に俯いてしまい、明らかに視線を合わせるのを避ける私に、楓先輩が怪訝な表情をした。
「昨日、何度か電話したんだけど、もしかして体調悪かった?」
ドキッと心臓が嫌な音を立てた。
日野先輩から楓先輩の元彼女の話を聞いた昼休みにスマホの電源を落として以降、私は一度もスマホを触っていない。きっと連絡がきているだろうと思っていたけれど、どうしても電源を入れることができなかった。
結局、今もスマホはそのまま放置している。
「ごめんなさい……」
「いや、謝んなくていいよ。昨日会えなかったから、声が聞けたらいいなと思っただけだから」
柔らかく微笑む楓先輩の言葉に、ダメだとわかりつつもキュンとしてしまった。
ずるい。何気ない普通の会話をしていても、楓先輩を好きだと思う気持ちは増していく。この言葉は、本来なら私に向けられるべきものではないのに。
「先輩」
「ん?」
「……昨日、お休みしてたのは風邪とかじゃないんですよね?」
「あぁ、ちょっと知り合いの墓参りに行ってた」
……知り合い。
間違ってはいないけれど的確ではない表現に、胸がズキッと痛む。
原口希美さんとの関係を隠された痛みなのか、楓先輩の中の彼女を〝知り合い〟程度の存在にしてしまった罪悪感に対する痛みなのか、自分でも判別がつかない。
「九州だから、どうしても学校休まないと行けなくて」
「実は……少しだけ聞きました。日野先輩から……」
事情を聞いたのに知らないふりを貫くなんてできなくて、私は正直に打ち明けた。
「聞いたって、希美のこと?」
先輩が親しげに『希美』と呼んだ。たったそれだけで、胸がざわざわと不快に騒ぎ出す。付き合っていたのだから当然なのに、胃が引き攣れるように痛んだ。
それを押し隠し、私は俯いて小さく頷いた。
「午前中、連絡がつかなかったから心配で……。そしたら、京ちゃんが日野先輩に連絡してくれて。あの、ごめんなさい。勝手に聞き出すようなことをして。日野先輩は他人から聞くようなことじゃないって言ってくれたんですけど、私が聞きたがったから……」
「いや、別に隠すことじゃないからいいよ。ごめん、機内でスマホの電源切って、たぶんそのままにしてた」
「幼なじみ、なんですよね。九州には、ご家族で?」
「いや、俺ひとりで行った。両親は仕事があるし、俺もひとりの方が気楽だし」
どこかスッキリした表情で先輩が話すのを、私は呆然と見つめる。
「希美に、菜々のこと話してきたんだ」
「…………私?」
ドクン、と嫌な予感に血の気が引いていく。
これから先輩がなにを言おうとしているのか、私の想像が自惚れでなければ、それは決して言ってはならない禁断の言葉だ。
それなのに、どこかでその言葉を欲している自分もいる。
最低。最低だ。
俯いたまま、震える唇を噛みしめる。どんどん呼吸が浅くなって、息が荒くなりそうなのを必死で堪えた。
苦しい。苦しい。
「彼女ができたって。菜々のおかげで前向きになれたし、ちゃんと青春してるって、今めちゃくちゃ幸せだって報告してきた」
――――あぁ、どうして…………。
目の前が真っ暗になった。そのまま頭を抱えて崩れてしまいそうで、ぎゅっとキツく目を瞑る。
言っちゃった。言わせてしまった。
はるばる九州のお墓まで会いに来た楓先輩に新しい彼女ができたと告げられ、原口希美さんはなにを思っただろう。
『彼をとらないで。裏切らないで……』
夢で何度も聞いたか細い声が脳内にこだまする。
苦しい。悲しい。でもきっと原口希美さんやお母さんの苦しみは、こんなものじゃなかったはずだ。
まだ生きて恋をしていたかったのに、病気や事故によって命を奪われ、さらに大好きな人まで他の人にとられてしまうの?
そんなこと、許されていいの……?
「いつか、希美に菜々を紹介し……菜々? どうした?」
楓先輩が驚きに目を瞠っている。
私の頬を涙が伝う。どうしても堪えきれなかった。
好きになってはいけなかった。楓先輩の心の中にはまだ原口希美さんがいるはずなのに、そこに私が無理やり押し入ってしまったんだ。
もしかして、この間お母さんのお墓に行った時、お父さんも同じように報告したんだろうか。
『亜紀ちゃん。僕、再婚したよ。真央のおかげで前向きになれたし、今めちゃくちゃ幸せなんだ』
お父さんがそう言ったわけじゃない。私が勝手に想像してるだけ。お父さんと楓先輩を重ねて、ひとりで勝手に傷ついているだけ。
わかってるのに、涙が止まらない。
お母さんのことを忘れたくない、お父さんにも忘れてほしくないと願いながら、私は楓先輩が原口希美さんを過去にして私を選ぼうとしていることを、嬉しいと感じている。
それと同時に、亡くなった人には永遠に勝てないんじゃないかという不安も押し寄せてきた。
だって忘れられないんでしょう? 学校を休んで会いに行くくらい大切な人なんでしょう?
そう思ってしまう醜い自分がいる。なんて矛盾した、自分勝手な考えなんだろう……。
突然泣き出した私を前に動揺した先輩が、こちらにそっと手を伸ばした。
「菜々? もしかして、体調悪くなって――――」
「触らないで……っ!」
甲高い悲鳴のような声が、シンと静まり返った保健室に響く。
触れられて、最低な考えを知られたくなかった。若くして事故で亡くなっている人に対して、こんなにも醜く嫉妬している自分を知られたら、嫌われてしまうかもしれない。
だけど、叫んですぐに後悔した。目の前の楓先輩が弾かれたように手を引き、どうすることもできずに固まっていたから。
「ごっ、ごめんなさい、違う……ごめんなさい……」
言ってはいけないことを叫んだ。ただ自分を守るために。
きっと楓先輩にとって一番言われたくない言葉を、大声で……。
あぁ、もうダメだ。私は……最低だ。
「ごめ……んなさ……」
「菜々。大丈夫だから、絶対触らないから落ち着いて」
「違う、ごめんなさい、今は……ひとりにして、ください……」
私はシーツを頭まですっぽりとかぶり、亀のように布団の中に引きこもった。
これ以上、楓先輩にみっともないところを見せたくない。
「菜々、泣いてる理由を教えて。ちゃんと話そう」
布団を剥いで無理矢理にでも私に触れればわかるのに、先輩は決してそうしようとはしない。
いつだって、口下手な私の言葉を待ってくれる。
そんな優しい先輩が好きで、だからこそ苦しい。一緒にいたら、どんどん好きになってしまう。
「菜々」
「あら、誰かいるの?」
私を呼ぶ優しい声を遮断したくて耳を塞ごうとした時、シャッっとカーテンの開く音とともに、田村先生の声がした。
「こら。ここは体調不良の子以外入ってきちゃダメよ」
「すみません。でも」
「例外はなしよ。はい、教室に帰りなさいね」
楓先輩が有無を言わさず保健室から追い出されるのを、申し訳なく思いつつもホッとしながら聞いていた。
「菜々。あとで連絡する。体調が戻ったらちゃんと話そう」
そう言い置いた先輩の靴音が遠ざかり、保健室の扉が閉まる音がした。
「ごめんね、佐々木さん。少し呼ばれて外してたの。具合はどう?」
田村先生は何事もなかったかのように問いかけてきた。
私は布団の中で必死に目を擦り、涙の跡をできるだけ消してから顔を出した。先程までの酷い頭痛や吐き気はないと伝えたが、田村先生は眉を下げて苦笑する。
「うーん、今日は帰ったほうがよさそうね。家でゆっくりするといいわ。おうちの人に迎えを頼む?」
そう聞かれ、私は咄嗟に大きく首を振った。
たしかにこのままでは授業も上の空になってしまうから帰るべきなんだろうけど、仕事中の父にも、自宅にいる真央さんにも連絡してほしくない。会いたくない。今会えば、きっと心ない言葉をぶつけてしまいそうな気がする。
私の様子でなにか察した田村先生は「わかった。じゃあ荷物をクラスの子に頼んでくるわね」と再び保健室を出ていった。
京ちゃんと田村先生が持ってきてくれたスクールバッグを持って、私はひとりで歩いて早退すると決めた。
京ちゃんは日野先輩から楓先輩の話を聞かせたことに罪悪感を覚えていたけれど、京ちゃんのせいじゃないときっぱりと否定した。
だって、いずれ知ることになった事実だから。楓先輩には亡くなった恋人がいたことも、その人を忘れられないと日野先輩に話していたことも、全部。
家に帰りたくはなかったけど、他に行くところもないし、昨日みたいに公園で時間を潰して風邪を拗らせるのも得策ではない。
結局まっすぐに家に帰り、私は黙って玄関から直接二階の自室へ向かう。制服を脱いで部屋着に着替えると、保健室の時と同じように頭から布団を被った。
すると、すぐにコンコンと控えめなノックの音がする。
「菜々ちゃん? おかえりなさい、どうしたの? まだ学校が終わる時間じゃないよね? 具合悪いの?」
真央さんが扉越しに声をかけてくれたけど、ひと言も返さないまま無言を貫いた。失礼な態度をとっているのはわかっているけれど、答えられる余裕がなかった。
楓先輩に言ってはいけない言葉をぶつけてしまったことが、自分でも許せない。
先輩から秘密を打ち明けられた時、気味が悪いとか、嫌悪感なんて一切ないと言ったのに噓はない。
今だって、先輩や先輩の力に対する嫌悪感なんて全くない。あるのは、ただ自分の醜い感情に対する嫌悪感と羞恥心だけ。
『触らないで』なんて、絶対言ってはいけなかったのに。
どれだけ傷つけてしまっただろう。実の両親にさえ抱きしめられた記憶がないと話す先輩は寂しげで、これまでたくさん嫌な思いをしてきたに違いないとわかっていたのに。
それでも先輩は、私に対して怒りを見せることなく、きちんと話してほしいと優しく声をかけてくれた。
身勝手だけれど、今はその優しさがひどく苦しい。その優しさは、私だけのものではないと思ってしまうから。