「……ごめん。勝手に心の中を覗かれるなんて、嫌に決まってるよな。ほんとにごめん」
私の表情をどう受け取ったのか、先輩は懺悔するように頭を下げた。
「ちっ違います! 謝らないでください! 嫌だなんて思ってないです!」
「嫌じゃないわけないだろ。橘さんにも言えなかったのって、お父さんの話じゃないのか」
「そうですけど……でもそうじゃなくて!」
私は必死に思考を巡らせる。
先輩は物心ついた頃から触れた人の心が読める能力を持っていると言った。幼い頃から他人の本心が聞こえてしまうなんて、一体どれだけの苦痛があったんだろう。両親から抱きしめられた記憶すらないと淡々と話した先輩の横顔は切なくて、胸が締めつけられた。
どうしてそんな力が先輩に備わっているのかはわからないけれど、それは決して先輩のせいではないし、私の心の中を読んだことについては、トラックから助けてくれた時に起こったアクシデントで、先輩にとっては不可抗力だ。
「あの日、私は本当にショックで……きっとあのままひとりにされていたら、ちゃんと家に帰れなかったかもしれない。先輩が私の心を読んでそばにいてくれたから、私は少しだけ冷静になれたんです」
あんなぐちゃぐちゃな感情なんて聞きたくなかったに違いないのに、それでも先輩は手を振り払うことなく、私が泣き止むまでずっと寄り添ってくれていた。
それは間違いなく彼の優しさだ。
他人に触れないように一線を引いているのも、四人でテスト勉強していたファミレスで触れそうになった指を咄嗟に引いたのも、勝手に心の中を読んでしまわないようにという先輩の配慮と優しさに違いない。
それなのに先輩が謝るなんて。そんなの必要ないのに。
「あの日、菜々はかなり動揺してたみたいだったから、まさか一緒にいたのが俺だって気付いてるとは思わなかった。この力を知ってるのは両親と日野だけだし、今後誰かに言うつもりもなかった。でも、『ずっと手を握っていてくれて、ありがとうございました』って、さっき菜々が言ってくれたから……黙ってその感謝の気持ちを受け取るなんてできなかった。あの繋いだ手から、俺には菜々の感情が全部聞こえてたんだ。そんなの不気味だし、気持ち悪いだろ。感謝なんて、しなくていいんだ」
もう一度「ごめん」と頭を下げた先輩を見て、軋むように胸が痛んだ。もしかしたら、ご両親からそんな風に言われたりしたんだろうか。
どうしたら嫌じゃないと伝えられるだろう。たしかに心の中を読まれたのは単純に恥ずかしいし、あのぐちゃぐちゃな感情をどう思われたのか不安はある。けれどそれを不気味だとも気持ち悪いとも思わない。
口下手な私がどう頑張って言葉にしたら、先輩に本当の気持ちが伝わるだろうか。
そう逡巡して、ふと気付いた。
窓の外は日が沈み、空は紺色の夜が訪れ、海面には太陽のオレンジ色が溶けて広がっている。それを観覧車の頂上に近い場所から見下ろしながら、私はある提案をした。
「あの、先輩。手を……繋ぎませんか?」
定位置である私の右側に座る先輩に右手を差し出すと、楓先輩は驚きに目を瞠った。
「菜々、なに言って……」
「先輩も知っての通り、私は言葉でうまく伝えるのが苦手なので……これなら、わかってもらえるんじゃないかなって」
過去に心の中を読まれたのを嫌がっていないのも、先輩を不気味とも気持ち悪いとも思っていないのも、あの日のように繋いだ手から伝わればいい。
すると、先輩がグッと唇を噛み締め、私から顔を背けてしまった。
「せ、先輩……?」
どうしよう。なにか失礼だったかな。やっぱり自分から人の心の中を読むなんてしたくないのかな。
きっとこれまでたくさんの人の感情を浴びてきて、中には素敵な本音や嬉しい言葉もあっただろうけど、そればかりじゃないはずだ。
さっき先輩もうんざりしてると言っていたのに。あぁ、どうしよう。失敗した!
「ご、ごめんなさい。嫌ですよね。違うんです、忘れてくだ――――」
焦って差し出した手を顔の前でブンブン振り、直前の発言を訂正しようとした。その時。
楓先輩が私の手首を掴み、滑らせるように手を包み込んだ。ひんやりとした手は、私よりひとまわり大きい。
突然のことにハッと息を詰めていた私は、なんとか浅い呼吸を繰り返す。触れ合う指先から、徐々に熱が広がっていく気がした。
「……本当は、他人に触るのが怖いんだ」
私と繋いでいる反対の手で自分の顔を覆いながら、先輩がぽつりと弱音を零す。
「菜々には『本音と建前って、みんなあると思う』なんて言っておきながら、俺が一番それを怖がってた」
その声の頼りなさに胸が締め付けられた。今までどれだけ悩んできたんだろう。
「少なくとも私は、先輩が私の心を読んでくれたおかげで救われました。きっと聞くに堪えない感情だったはずなのに、先輩はずっと手を繋いでいてくれた。やっぱり私は、先輩に対してありがとうって気持ちしかないです」
「俺は別になにもしてない。菜々の悩みを解消できたわけでもない」
「それでも、私にとっては嬉しかったんです」
心の中を読まれたのは恥ずかしいけれど、そばにいてくれた優しさに救われたのも事実なのだから。
先輩に苦しんでほしくない。うまく伝えられないのがもどかしくて、私の心を全部明け渡すように、握られた手をきゅっと握り返した。すると、先輩の手が驚いたようにビクッと跳ねた。
「……もう誰にも失望したくないし、勝手に本音を覗く罪悪感に押し潰されたくない。でも、菜々はいつも俺の心を軽くしてくれる」
先輩が顔を覆う指の間から、必死で言い募る私を横目で見た。その熱い眼差しに、胸の奥がぎゅうっと甘く痺れる。
「菜々に触れたい。手を繋ぎたいし、抱きしめたい。ずっとそう思ってた」
鼓膜を震わす先輩の言葉が、現実のものとは思えなかった。
本当に? それはどういう意味?
だって楓先輩は文武両道で、学校の人気者で、優しくて思いやりのある素敵な人。そんな先輩が、私に触れたいって、だ、抱きしめたいって思うのはどうして?
これまで何度も掠めた期待が再び頭をもたげてくる。
私が言葉を返せないでいると、繋いだ手はそのまま、先輩は自分の顔を覆っていた手を私の頬に伸ばし、ぷにっと摘んだ。
「どういう意味もなにも、菜々が好きだから触りたいってことだよ。わかるだろ」
呆れたような、怒ったようなぶっきらぼうな言い方だった。
けれど先輩の耳はうっすら赤く染まっていて、その言葉が本心なのだと伝えてくれる。きっと私も同じか、それ以上に赤くなっているに違いない。
嬉しくて、恥ずかしくて、でもやっぱり嬉しくてたまらない。
わかるだろって言われたけど、これはどう答えるべきだろう。『わかります』って言うの? それとも『私も好きです』って言えばいい?
告白なんてしたことないし、告白されたのもこれが初めて。ドキドキしすぎて心臓が痛い。普段楓先輩の前でどう振る舞っていたのかさえわからなくなってきた。
先輩への恋心を自覚して間もないのに、急展開すぎて夢みたい。
こんなつもりじゃなかったにしろ、よく自分から手を繋ぐ提案なんてできたなと思う。
きちんと気持ちは伝わっただろうか。先輩に心を読まれるのは嫌じゃないし、気持ち悪いと思ってもいないこと。誰かに失望したり、罪悪感を覚える必要もない。だって先輩は、なにも悪くないんだから。
……あれ、待って。そもそも今も手を繋いでるんだから、今私が楓先輩のことが好きで心臓がーって思ってるのも、全部伝わってるんじゃない?
今更な事実にハッとして目の前の先輩を見ると、再び手で顔を覆って項垂れている。
「か、楓先輩……?」
「……菜々、勘弁して。可愛すぎる」
そう呟いた楓先輩も、全部の心の声を聞かれていたと気付いた私も、たぶん同じくらい真っ赤だ。
だけど、繋いだ手は離さないまま。
「ジンクスって、当たるんだな」
「え?」
「気付いてた? このゴンドラ、紫だったの」
「えっ! そうだったんですか?」
ライトアップに夢中になっていて慌てて乗り込んだから、結局何色のゴンドラだったのか見るのを忘れていた。だけど、まさかひとつしかない紫色に当たっていたなんて。
「俺、今めちゃくちゃ幸せ」
「……私も、すごく幸せです」
微笑み合い、ふたりとも自然と窓の外に視線を向ける。
街中のオフィスビルが点灯してきらびやかな光を放ち、先程まで遊んでいた遊園地や、海を行き来する船、ベイブリッジも負けじとイルミネーションが輝いている。それらが水面に反射し、さらに眩しく夜景に彩りを添えていた。
きっと何年経ってもこの景色は忘れない。今日この日を忘れたくない。
そう心に誓うと、楓先輩は優しく微笑んで、「俺も」と繋いだ手をぎゅっと握ってくれた。