それから三つほど乗ったところでお腹が空いてきたので、フードコートでホットドッグを買って早めのランチを取ることにした。

「ポテトはデカいの買ってシェアする?」
「いいですね。そうしましょう。ランチ代は私に出させてくださいね」

 財布を出してふたり分の会計をしようとすると、楓先輩が怪訝な顔をした。

「なんで」
「勉強を教えてもらったお礼です」
「いらない。そんなつもりで誘ったわけじゃないし」

 奢る気満々だったのに、すげなく断られてしまった。

 でも、きっと今このタイミングが、さりげなく話の流れで聞けるチャンスだ。

 『じゃあ、先輩はどういうつもりで誘ってくれたんですか?』

 そう聞けば、もしかしたら望んでいる答えが返ってくるかもしれない。ずっと心の中で燻っている淡い期待が一気に花開く時を待ちわびている。

 それなのに。

「……じゃあ、せめて他になにかお礼がしたいです」

 意気地なしの私は、違う話題を振ってしまった。どうしてもストレートに聞く勇気が持てなかった。

「私、小テスト含めても数学で八十点取ったの初めてです。それは間違いなく教えてくれた先輩のおかげだから」
「たしかに解くコツを教えたけど、頑張ったのは菜々だろ」
「でも」
「いいから。礼をもらったら、今度から勉強教えにくい。それ目当てみたいに思われんのも嫌だし」

 結局各自で支払いを済ませ、先輩は注文したホットドックとポテトのセットがのったトレイを持って、店の外へと歩き出す。

 私はそのうしろをついていきながら、今の楓先輩の言葉を反芻する。

 『礼をもらったら、今度から勉強教えにくい』

 今回のテストで先輩から勉強を教えてもらったのは、互いに想い合っているだろう京ちゃんと日野先輩のためになにかしたいと私が零したのを、楓先輩が四人で勉強会をしようと提案してくれたおかげ。いわば、私は京ちゃんのおこぼれをもらった形だ。

 私と先輩の思惑どおり、あのふたりの距離はかなり縮まり、付き合い出すのは時間の問題な気がしている。

 もう私のおせっかいなんて必要ないだろうし、テストも終わったのだから、一緒に勉強する機会だってないものと思っていた。

 それなのに、楓先輩はとてもナチュラルに今後も私の勉強を見てくれると言った。

 それが私にとってどれだけ嬉しいか、先輩はわかってるのかな。

 空いているベンチに並んで座り、ふたりの間にトレイを置いた。トレイの上にはホットドッグとドリンクがふたつずつと、大きなポテトがひとつ。

 ニヤけそうになるのを隠すため、私は自分側に置かれたレモンティーを取り、ストローでちびちびと飲んで誤魔化した。

 先輩はなにも気にしていない様子でホットドッグの包み紙を剥いて食べ始める。

「そういえば、橘さんは無事に種目代わってくれる子、見つかったんだな」
「はい。なので午前中はうちのクラスの試合以外はずっとグランドにいる気だって言ってました」
「日野はサッカーも上手いから応援しがいがあるよ、きっと。菜々はバスケだっけ? 球技得意?」
「得意ではないですけど、今放課後にクラスのバスケチームのみんなで練習してるんです。いい感じに団結してるので、うまく勝ち上がれるかもって思ってます」

 京ちゃんはバスケチームからいなくなってしまったけど、率先して練習して盛り上げてくれる美穂ちゃんや沙羅ちゃんのおかげで、かなり士気が上がっている。

「へぇ。見たかったな、菜々がバスケするとこ。俺も今からでもバスケチームにしようかな」
「み、見なくていいです! 上手いわけじゃないですからっ!」
「そんなに拒否んなくてもいいだろ」

 慌てて顔の前で手をブンブン振ると、先輩が可笑しそうに笑った。

 その表情で単なる冗談だとわかり、私はむうっと口を尖らせる。

「もう、先輩がそんないじわるなんて知りませんでした」

 ついそんな軽口をたたいてしまったが、先輩は気分を害した風もなく、さらに笑みを深めた。

 目を細めたその表情が、まるで大切なものを見るかのように優しくて、柔らかくて、きゅんと胸を締めつけられる。

 じっと見られると、からかわれたことに怒っているフリすら続けられない。ふくれっ面はすぐに頬まで赤く染まっていき、私は視線を彷徨わせた。

「そう? 俺は元々こんなやつだけど。逆に菜々は俺をどんな男だと思ってたの」

 クスッと笑いながら問われ、私は楓先輩と初めて出会った時のことを思い出した。

 見ず知らずの私を身を挺して助けてくれた優しさや、真冬の冷たい地面にしゃがみ込んで泣く私に寄り添ってくれた温かさは、きっと一生忘れられない。

 本当ならあまり人に言いたくない話だし、先輩にも、あの時の中学生が私だと知られたくない。

 だけど、あの日私はお礼も言わずに走り去ってしまった。

 事故になりそうなところを助けてもらって、おまけに泣き続ける私のそばにずっといてくれた優しさに対し、失礼極まりない態度だ。

 やっぱり、あの時の彼が楓先輩だと気付いた以上、きちんとお礼をするべきだよね。

 私は勇気を振り絞って先輩の質問に答える。

「先輩はクールに見えて……赤信号に気付かず轢かれそうになった子を助けたり、その子が泣き出したらずっと手を握ってあげたりする、優しい人です」

 先輩は私を見て驚いた顔をしている。

「今年の二月、高校の近くの横断歩道で車に轢かれそうな中学生の女の子を助けましたよね。あれ……実は私なんです。ずっとお礼を言えなくて、ごめんなさい」

 高校の合格発表の翌日、お父さんから紹介したい女性がいると言われた。

 一年ほどお付き合いをしていて、再婚を考えている。入籍したら、ここを引っ越して三人で暮らしたいという話を聞き、私の頭の中は真っ白になった。

 相手は仕事で知り合った女性で、妻を亡くし、中学生の娘がいるのも承知した上でプロポーズに頷いてくれたのだとか。

 『人はいつどうなるかわからない。後悔しない人生を送りたいと考えて出した結論なんだ』

 お父さんが真剣に語っていたけれど、どこか別の世界の言葉のように聞こえた。

 再婚? どういうこと? お母さんはどうなるの?

 真っ先に浮かんだのは、亡くなったお母さんのこと。

 嫌いになったり、お互いに話し合って納得して離婚したのなら、他に好きな人を作って再婚するのもわかる。

 だけど、お父さんはそうじゃない。

 大好きだったお母さんは病気で死んじゃったけど、ずっと大切に思い続けるんだと当たり前のように思ってた。

 それなのに、別の女の人と結婚?

 お父さんが照れくさそうに『優しい人だから、菜々も仲良くしてくれると嬉しい』と頭を掻きながら笑ったのを見て、私はなにも言えなかった。

 ひと言『……そう。わかった』とだけ呟いて、私は家を出た。お父さんの顔を見ていたくなかった。

「あの日は……色々あって気持ちがぐちゃぐちゃで、そこに事故に遭いそうになって、もうパニックだったんです。それであんなに泣いて、我に返ったら恥ずかしくなっちゃって。お礼も言わずに逃げてすみませんでした」

 ベンチに手をついて深々と頭を下げる。

 大げさじゃなく、先輩が助けてくれなかったら、今頃私は天国のお母さんと一緒にいたかもしれないのだ。

 そのくらい、あの日の私はぼーっとしていたし、自暴自棄になりかけていた。

「楓先輩。助けてくれて、ずっと手を握っていてくれて、ありがとうございました」

 ようやく言えた。

 ホッとして顔を上げると、楓先輩は真剣な顔をして私をじっと見つめている。

「……知ってた」
「えっ……?」
「あの日、泣きやむまでずっとそばにいたのは、菜々だったからだよ」

 その熱のこもった声は、ずっと私の頭の中で響き続けた。