◆◆◆
心因性の記憶障害。
それが私に起こったことにつけられた名前だ。
午前0時00分。私の記憶はリセットされる。パソコンの電源を落とした時みたいにストンっと意識がなくなって、気づくと朝。これが私の中学2年生からの日常。
リセットされる記憶は感情に左右されるみたいで、楽しいとか悲しいとか喜怒哀楽が関わるもの全て消えている。
だから勉強は出来るし、日常生活もできる。家族のことも自分の名前も私は覚えているから、最低限必要なことは忘れないようになっているらしい。……なんて都合のいい記憶喪失だろう。
だったらこたえは簡単だ。なにも考えないでなにも感じないで生きていけばいいだけ。
「梓?起きてる?」
目の前の不安そうな顔ではっと我に帰る。
「ごめん、お母さん。何か言ってた?」
「ううん。ぼぅっとしてるから大丈夫かなって。別に大丈夫ならいいよ」
「全然大丈夫!起きたばっかでぼぅっとしてただけ」
意識的に口角を上げる。笑うことでお母さんを安心させてあげないと。
私の記憶がなくなることを一番気にしてるのはお母さんだから。
「今日は水曜日だから学校頑張ってね」
「……うん。大丈夫だよ」
私が通う高校は海聖高校でここら辺だと結構な進学校だ。
目の前の朝ごはんを胃につめて急いで準備を始める。
「じゃあ、行ってきます」
「気をつけてね。いってらっしゃい」
リビングで手を振るお母さんに笑みをむけて頷いて、そのまま玄関を出た。
今日で高校2年生になってちょうど三週間。歩きながら髪を結ぶことにもずいぶん慣れた。まだまだみんな探り合ってる。クラスの中で自分のカーストがどこか。誰に逆らっちゃいけないのか。誰と一緒にいるべきなのか。
だけど、私には関係ない。友達なんて作る気はないし、作ったところで忘れてしまうんだから。
私がどんなに望んだとしてもこの記憶障害は治らない。……いや、治せないのか。
心因性の記憶障害ということは記憶が保てなくなった原因は私以外あり得ない。私が自分の記憶に影響を与えるほどの何かをしたということだ。
残念ながら記憶がなくなるようになった日の前後一カ月の記憶は私にはない。
ブォンとすぐ隣を車が走り抜ける。
タイミング悪く信号が赤に変わってしまった。
「おはようー。ねぇ今日の授業なんだっけ?」
「えっとー現代文、数学、世界史……」
同じ制服の同じ赤いリボン。
私の今日の予定と同じだからクラスメイトかもしれない。よく見れば見覚えがあるような気がする。
そういえば、この記憶障害が起きてから変わったことはもうひとつある。人の顔を覚えづらくなったことだ。特に女子。
信号が変わって人の波に押されるように歩き出した。
今日もなにも変わらない意味のない一日が始まる。そのことを知らせるように目の前にはいつも通りの朝の風景を受け入れる校舎が見えた。
2ーA。このクラスがいわゆる特進コース。と言っても普通の教室と変わらない。ただ他のクラスより少し難しいだけだ。
ちらっと自分の席の隣を見る。
ーー相変わらずなに考えてるかわからない人。
そのまま彼の隣の席に座った。いつも通りカバンから授業に必要なものを出して隣の窓から世界をながめる。
楽しそうに友達と話しながら歩く生徒たちが昇降口にたくさん飲み込まれていく。
みんななにがそんなに楽しいんだろう。毎日毎日同じことを繰り返して生きている私にはわからない。
きっと私にはこの生活が妥当な生き方なんだと思う。自分の感情に波風たてずに生きていく方法なんてこれくらいしか思い浮かばない。
誰とも関わらないでただ世界の傍観者でいることしかできない。
「おい、悠!寝てんの?」
急に隣から聞こえた声にびくっと肩が震えた。そっと声のした方を見る。
たしか……会津、直樹?だった気がする。蒼井悠と仲がいいけど蒼井とは全然違うタイプの人。その証拠に蒼井は「うるさい、聞こえてる」と耳をおさえた。会津直樹の後ろからは髪の長い女子が「まあまあ、直樹も悪いし」と笑った。
そういえば彼女がいるって話を聞いたことがある。元気溌剌でわかりやすい会津直樹と比べて私の隣に座っている蒼井悠はよくわからない人だ。
なにを考えてるのかもなにをしたいのかもわからない。だから私は蒼井のことが少し苦手だ。
……絶対に誰にも言わないけど、蒼井には何か人には言ってないことがありそうな気がする。気のせいだと思うけど……。
そっと様子を伺っていたら不意に会津くんがこっちを見て目があった。
会津くんがそらすより先に私が視線を窓から見える世界に戻した。
余計なことはしない。
ただ時間が過ぎるのをここで座って待ってれば1日なんてすぐに終わる。どんなに頑張ったって1日は24時間だって決められてる。その中で学校にいる時間なんて部活に入ってない私は長くても7時間くらいだ。
それくらい、どうってことない。
ただひとつだけ……ちょうど1週間前の今日の記憶がないことだけ気がかりだ。
どうして1週間前の私は感情を動かしてしまったんだろう。
そんなことを考えている間に朝のホームルームの時間になった。
心因性の記憶障害。
それが私に起こったことにつけられた名前だ。
午前0時00分。私の記憶はリセットされる。パソコンの電源を落とした時みたいにストンっと意識がなくなって、気づくと朝。これが私の中学2年生からの日常。
リセットされる記憶は感情に左右されるみたいで、楽しいとか悲しいとか喜怒哀楽が関わるもの全て消えている。
だから勉強は出来るし、日常生活もできる。家族のことも自分の名前も私は覚えているから、最低限必要なことは忘れないようになっているらしい。……なんて都合のいい記憶喪失だろう。
だったらこたえは簡単だ。なにも考えないでなにも感じないで生きていけばいいだけ。
「梓?起きてる?」
目の前の不安そうな顔ではっと我に帰る。
「ごめん、お母さん。何か言ってた?」
「ううん。ぼぅっとしてるから大丈夫かなって。別に大丈夫ならいいよ」
「全然大丈夫!起きたばっかでぼぅっとしてただけ」
意識的に口角を上げる。笑うことでお母さんを安心させてあげないと。
私の記憶がなくなることを一番気にしてるのはお母さんだから。
「今日は水曜日だから学校頑張ってね」
「……うん。大丈夫だよ」
私が通う高校は海聖高校でここら辺だと結構な進学校だ。
目の前の朝ごはんを胃につめて急いで準備を始める。
「じゃあ、行ってきます」
「気をつけてね。いってらっしゃい」
リビングで手を振るお母さんに笑みをむけて頷いて、そのまま玄関を出た。
今日で高校2年生になってちょうど三週間。歩きながら髪を結ぶことにもずいぶん慣れた。まだまだみんな探り合ってる。クラスの中で自分のカーストがどこか。誰に逆らっちゃいけないのか。誰と一緒にいるべきなのか。
だけど、私には関係ない。友達なんて作る気はないし、作ったところで忘れてしまうんだから。
私がどんなに望んだとしてもこの記憶障害は治らない。……いや、治せないのか。
心因性の記憶障害ということは記憶が保てなくなった原因は私以外あり得ない。私が自分の記憶に影響を与えるほどの何かをしたということだ。
残念ながら記憶がなくなるようになった日の前後一カ月の記憶は私にはない。
ブォンとすぐ隣を車が走り抜ける。
タイミング悪く信号が赤に変わってしまった。
「おはようー。ねぇ今日の授業なんだっけ?」
「えっとー現代文、数学、世界史……」
同じ制服の同じ赤いリボン。
私の今日の予定と同じだからクラスメイトかもしれない。よく見れば見覚えがあるような気がする。
そういえば、この記憶障害が起きてから変わったことはもうひとつある。人の顔を覚えづらくなったことだ。特に女子。
信号が変わって人の波に押されるように歩き出した。
今日もなにも変わらない意味のない一日が始まる。そのことを知らせるように目の前にはいつも通りの朝の風景を受け入れる校舎が見えた。
2ーA。このクラスがいわゆる特進コース。と言っても普通の教室と変わらない。ただ他のクラスより少し難しいだけだ。
ちらっと自分の席の隣を見る。
ーー相変わらずなに考えてるかわからない人。
そのまま彼の隣の席に座った。いつも通りカバンから授業に必要なものを出して隣の窓から世界をながめる。
楽しそうに友達と話しながら歩く生徒たちが昇降口にたくさん飲み込まれていく。
みんななにがそんなに楽しいんだろう。毎日毎日同じことを繰り返して生きている私にはわからない。
きっと私にはこの生活が妥当な生き方なんだと思う。自分の感情に波風たてずに生きていく方法なんてこれくらいしか思い浮かばない。
誰とも関わらないでただ世界の傍観者でいることしかできない。
「おい、悠!寝てんの?」
急に隣から聞こえた声にびくっと肩が震えた。そっと声のした方を見る。
たしか……会津、直樹?だった気がする。蒼井悠と仲がいいけど蒼井とは全然違うタイプの人。その証拠に蒼井は「うるさい、聞こえてる」と耳をおさえた。会津直樹の後ろからは髪の長い女子が「まあまあ、直樹も悪いし」と笑った。
そういえば彼女がいるって話を聞いたことがある。元気溌剌でわかりやすい会津直樹と比べて私の隣に座っている蒼井悠はよくわからない人だ。
なにを考えてるのかもなにをしたいのかもわからない。だから私は蒼井のことが少し苦手だ。
……絶対に誰にも言わないけど、蒼井には何か人には言ってないことがありそうな気がする。気のせいだと思うけど……。
そっと様子を伺っていたら不意に会津くんがこっちを見て目があった。
会津くんがそらすより先に私が視線を窓から見える世界に戻した。
余計なことはしない。
ただ時間が過ぎるのをここで座って待ってれば1日なんてすぐに終わる。どんなに頑張ったって1日は24時間だって決められてる。その中で学校にいる時間なんて部活に入ってない私は長くても7時間くらいだ。
それくらい、どうってことない。
ただひとつだけ……ちょうど1週間前の今日の記憶がないことだけ気がかりだ。
どうして1週間前の私は感情を動かしてしまったんだろう。
そんなことを考えている間に朝のホームルームの時間になった。

