もしもこの想いが赦されるなら君に伝えたいことがあるんだ

 ◆◆◆
 ベッドの横の机の上に置いてあるノートに手を伸ばす。
 いつも通りの行動。いつも通りの内容。そのはずだった。
『5月7日 (土)
 今日は朝から蒼井と浅海水族館に行った。すごく綺麗だった。たくさん写真も撮った。もう一度見たいと思うほど綺麗な景色だった。あと、蒼井の写真も撮った。なんとなく。そういえば蒼井もこんなふうに日記を書いてるのかな?なんか意外。ていうか記憶の手がかりあったなら早く教えてくれればいいのに。なんか最近いつもと少し違う気がするんだけどな。あと、蒼井といると不意にすごく懐かしくなる。それにすごくもやもやする。何かしないといけないのに、何をしたらいいのかわからないみたいな。そんな感じ。明日の私ならわかるかな?
大丈夫だよ。私の過去はここにある。だから、笑って生きてね』
 ーーなに、これ……?
 知らない。
 浅海水族館って何?どこにあるの?
 ノートを持っている手が震える。
 もう一度読み返してハッと机の上に置いてあったスマホを手に取る。昨日の私が写真を撮ってる。震える指で写真を開いた。
「ーーはっ……」
 乾いた声が溢れる。
 なんで?どうして……っ。
「ーーどうして、何もないの……?」
 私の過去が、昨日がこぼれ落ちていく。
 足の力が抜けて床に崩れ落ちる。
 空調が効いている部屋は寒いはずないのに、震えが止まらなかった。込み上げてきたものの意味も考えたくなかった。
 

 この時間に登校する人はあまりいない。
 だから、見慣れた後ろ姿を見つけるのも簡単だった。
「ーー蒼井」
 前を歩く蒼井が振り向いた。
「おう、木野か。おはよう」
 眠そうな顔で朝の挨拶をした蒼井に苛立つ。
「そんなことより、聞きたいことがあるんだけど」
 私の様子に何か納得したような顔をした。
「もしかして、土曜日の記憶がない?」
「っ……!」
 図星をつかれて何も言えなくなる。
 私の反応を見て「そっか……」と眉を下げた。
「じゃあ、屋上行くか」
 わかってたような口ぶりに理由のない苛立ちが燻る。
 ただの八つ当たり。そんなこと昨日からわかってる。
 記憶が消えたことが久しぶりで不安定になってしまった思いを持て余しているだけ。
 だから、蒼井はもっと私に対して怒っていいのに……。
 なんであんたが全部わかってたみたいな顔して笑ってるの。
 屋上に向かってるあいだ私たちは何も話さなかった。
 ギィっと音を立てて扉が開く。
 風が前髪を持ち上げて通り過ぎた。
 よく晴れた空が目に眩しい。
「さて、木野はどこから聞きたい?」
「……その前に、話しておきたいことがある」
「ん?」
「蒼井は、何のために記憶を探したいの?私の記憶を探してどうするの?」
「……最初に言っただろ。俺とお前がひとりで立てるようになるためだよ」
 雲ひとつない空を背負った蒼井が真剣な顔で言った。
「っ、私は、記憶がなくても1人で立ってる!今さら、記憶を探して、それで新しく過去を忘れて……それじゃ意味ないじゃんっ!」
 蒼井はいきなり声を荒げた私を静かに見ていた。
「それでも、お前はあの日笑ってた」
「……え?」
 笑ってた?
「笑ってたよ。嬉しそうに。楽しそうに」
 そう言って蒼井は制服の上に羽織っているパーカーのポケットからスマホを取り出した。そして何かの操作をして私に自分のスマホを差し出した。
「これ見てみろよ」
 そう言って差し出されたのは写真だった。
「なにこれ」
「いいから見てみろよ」
 訳がわからないままスマホを受け取る。そのまま黙って画面に目を移す。
「え……?」
 そこには見たことのない景色が映っていた。
 いや、正確には覚えてない日の記憶だ。
 満面の笑みで水槽を眺める私。
 ペンギンに恐る恐る餌をあげる私。
 お土産コーナーを珍しそうに眺めてる私。
 私の知らない私がここにいた。
 すっと頬に暖かいものが走って目の前の画面に雫が落ちた。
「俺は、お前には笑っててほしい」
 蒼井が1歩私に近づく。
「逃げたくなる気持ちも正直すげえわかるよ。俺だって別に今のままで何も困ってない。だったら何もしなくたっていいじゃん?」
「じゃあーー」
「ーーだけど、もう過去に怯えるのは嫌なんだよ。何があったかわからない。それがどれだけ不安か、わかってくれる奴なんてそうそういない」
 諦めたように眉を下げて笑った。
「何だって諦めるのは簡単で逃げたほうがずっと楽なんだよ。でも、記憶がなくなることに怯えてお前が笑えなくなるくらいなら全部思い出して、その症状の原因を探したい」
 ぽろぽろとこぼれ落ちていく。
「だから、逃げないでくれ。俺ももう逃げないから」
 スマホごと握られた手に蒼井の体温が移る。
 吹き抜ける風で冷たくなった手が温度を取り戻す。
 なんで、そんな……泣きそうな顔で笑うの?
 どうして、放っておいてくれないの?
 どうして、諦めてくれないの?
 どうして、わざわざこんな写真を撮ったりしてまで私の記憶を探そうとするの?
 言いたいことも、言わなきゃいけないことも全部言葉にならなくて。代わりのように涙があふれる。
 文句も言いたいのに、手の中にある私の記憶が言葉にならないくらい嬉しかった。
「ーー私の記憶……残してくれて、ありがとう」
 涙が滲む声で言えたのはたったこれだけだったけど、ようやく見つけた過去が無性に嬉しかった。
 雲ひとつない空の下で落ちた涙を風が全部攫って行く。
 涙が止まるまで蒼井は黙って待っていて、やっと止まった頃にはホームルームが始まる5分前になっていた。
「……じゃあ、おれは先に戻るからもう少ししたらお前も来いよ」
 そう言って屋上に続く扉を開けて教室に戻って行った。
「……優しいなんて、らしくないじゃん」
 ぽつりとこぼした言葉は広すぎる空に吸い込まれて消えた。