◆◆◆
目覚ましの音で目が覚める。
昨日のことをいつものように確認してため息を吐く。
『5月6日(金)
今日はいろいろあったけど忘れる前に書いておく。明日駅前のおっきな木の下に朝9時に蒼井と待ち合わせ。行き先は特に聞いてない。というか聞く暇もなかった。だいたい言いたいことだけ言ってさっさと帰るとかどういうこと?まあ何をするかだけわかってるのが救いかな。それにしても、私にどうだったか聞いたくせに自分は何も言わないのもどうなの?
特に変わった様子はなかったと思うから大した進展はしてないんだろうけど……。やっぱり何考えてるかわからない。ーーーー』
夢じゃなかった。
最近の蒼井はほんとによくわからない。昨日だって急に帰る前に話しかけてきたと思ったら要件だけ言ってさっさと帰っていった。
カーテンの隙間から光が差し込む。
ようやく目覚めはじめた街から朝を告げる音がきこえた。
土曜日の朝は思っていたよりも静かだった。
忙しそうに歩く人も、眠そうに進んでいく学生の姿もない。
すれ違うのは耳にイヤホンをつけてランニングしている人とかペットの散歩をしてる人。
頬を撫でる風もいつもよりほんの少しだけ暖かく感じた。なんて、ただの気持ちの問題だ。
誰も他人のことに興味がないような空気で息がしやすいだけ。
家から駅までだいたい15分くらいの道をひたすら進む。
イヤホンから流れる音楽がまた一曲終わった。
見えてきた桜の木。まだ葉桜になりきれなくて中途半端なのにそれすら儚さに変えている。
その下に白い長袖のパーカーに黒いベストに暗めの青いジーンズを履いた男子がスマホを眺めて立っていた。
声をかけようと近づいた瞬間風に混じって声が聞こえた。
『ーー梓、こっちだぞ』
「えーー?」
一瞬で消えた声を追うように振り返る。
そこに誰かの後ろ姿が見えた気がして立ち止まった。
「木野?早いな」
後ろからかけられた声にぱっと振り向く。
「えっ……蒼井?おはよう……?」
私の反応に驚いたように目を瞬いて笑った。
「ふはっ、なに戸惑ってんの?ここで待ち合わせだったじゃん」
「……そうだけど……」
くすくす笑う蒼井が珍しすぎてさらに戸惑う。
ひとしきり笑った蒼井が「まあ、いいや。行こうぜ」と歩き出した。
「……うん」
不意に見えた後ろ姿があの一瞬の面影に重なる。既視感というには少し違うこの感覚がなんだかこわかった。
「ーー?ーー……木野?」
「えっ?何??」
「何じゃねえよ。大丈夫か?」
顔を覗き込まれて思わずのけぞる。
「大丈夫。ていうか、そもそもどこ行くの?」
疑わしそうにに私を見てたけど何故か諦めたように息を吐いて「まあ、いいよ」と呟いた。
「で、どこ行くかだっけ?」
「うん」
「……ついてくればわかる」
「はあ?」
あまりにも答えになっていなくて呆れた。
とりあえず電車には乗るらしい。入ってすぐ奥の扉の端っこに立つ。
「どこで降りるの?」
「浅海」
「あさみ?そんな駅あったっけ?」
まぁ最寄り駅くらいしか名前覚えてないから知らない名前があっても不思議はない。
「ある。てか、結構有名だと思ってたんだけど」
不思議そうに首を傾げる私に呆れたように首を傾げた。
「有名?何が?」
「まあ、行けばわかんだろ。知らないならそれでいいし」
「そっか……」
もう教えてもらうのは諦めた。
少し楽しそうな蒼井を見てため息を吐く。
下を向いて見えたのは厚底の黒いラインが入った白いスニーカーと蘇芳色のシャツワンピ。それと向かいに立っている蒼井の真っ黒なスニーカー。その下には鉛のような色の床が広がる。
目線を少しだけ横にずらせば人間には到底不可能な速さで景色が過ぎていく。
車内アナウンスが「ーー次は浅海」と繰り返した。
そっと蒼井の方を見ると蒼井もこっちを見ていたみたいで目があう。
「次、降りるぞ」
「うん……」
短い返事で頷くと電車がゆっくりと止まった。
プシューッと気の抜けた音とともに扉が開く。私が思っていたよりも多い人がこの駅で降りた。人の流れに乗りながらホームを出る。
「……なんか、見覚えがあるような、ないような?」
駅を出て1番最初に思ったのは懐かしいような気がする、だった。
私の微妙な反応に蒼井はちらっとこっちを見てから「あっそ」と言って前を向いた。
「何その反応……?」
「別に?ほら、こっちだぞ」
といつも通りの何を考えてるのかよくわからない顔で前を歩く。
優しい風を感じながら歩いているとやっぱり少し懐かしいような気がした。
見覚えのない風景。見たことのない街並み。降りたことのない駅。その全てが懐かしさを否定するのに……どうして胸がざわつくんだろう。
30分くらいで目の前に大きな建物が見えた。
「ほら、あそこだ。もうすぐ着くぞ」
ずっと黙っていた蒼井が目の前の横断歩道の向こう側にある大きな建物を指さしながら振り返る。
「あそこって……水族館?」
しかも結構大きい。今もずっと人が出入りしてる。よく耳をすませば楽しそうな声が聞こえた。
「そう、お前知らない?浅海水族館。見た目通り結構有名なんだけど」
「ふうん?知らない」
うん、知らない。でも懐かしい。わからない。気持ちがごちゃごちゃだ。
「えっ、ちょっとチケットは?」
そのまま突き進んでいく蒼井に慌てて声をかけると、私の慌てぶりに「あほか」と呆れたように続けた。
「買ってあるに決まってんだろ。ほら、行くぞ」
そう言って私の手を取って受付を通り抜けた。
目の前には子連れの人や恋人、友達いろんな人がいろんな人と一緒に歩いている光景が広がる。
「ペンギンあっただってーー」
「こら、走らないのーー」
「ほら、かわいいーー」
「次あっち行こーー」
たくさんの声が溢れかえっている。
「ーー?おいっ、大丈夫か?」
「えっ?蒼井?なに?」
焦ったような顔をした蒼井に驚いていると「ビビらせんなよ……」とため息を吐いた。
「はぁー。まあ、いいや。行くぞ」
そう言って彼は私の手を引いて歩き出した。
「えっ、ちょっと……手……」
「なに?照れてんの?」
「はあ!?そんなわけないし!」
「じゃあいいだろ。だいたいお前があぶなかっしいんだよ」
「なっ……!」
完全に丸め込まれた。
最低、最悪。いきなりなにすんの?
言いたい言葉が喉の奥に引っかかる。私の中の何かが叫んでいた。いま、この手を離しちゃいけないと。
「ほら、お前こういうの好きだろ」
前を見ていなかった私の前に大きな水槽が姿を現した。
「うわーー!」
綺麗だ。
大きな水槽の中を漂っているくらげに色々な角度からたくさんの色が当たる。
海の色をそのまま映したような青。
ライトに照らされて輝く黄色。
深い森の中の湖のような緑を纏う蒼。
すべての色を連れて歩いているような虹色。
「……綺麗」
思わず呟いてしまうほど幻想的な光景が目の前に惜しみなく広がっていた。
「ああ、綺麗だよな。どうだ?」
「うん。すごいね。すごく……なんだろう?上手く言葉にできないけど、好きだなぁ」
「ーー……」
ぼそっと呟かれた言葉はよく聞こえなかったけど、今の目の前の光景から目が離せなかった。
「ほら、そんなに気に入ったんなら写真でも撮っとけよ。いつでも思い出せるようにさ」
そう言われて私は久しぶりに写真を撮った。
くらげ。イルカ。ペンギン。館内の道。餌やり体験コーナー。トド。カワウソ。色々なものを撮った。そして、なんとなく蒼井の写真。
この時の私は思っていたよりも浮かれていたのかもしれない。だから、きっと忘れていたんだ。
自分がどういう人間なのか。
それでもーー今、この瞬間の景色が全てを忘れてしまうくらい綺麗だったんだ。
目覚ましの音で目が覚める。
昨日のことをいつものように確認してため息を吐く。
『5月6日(金)
今日はいろいろあったけど忘れる前に書いておく。明日駅前のおっきな木の下に朝9時に蒼井と待ち合わせ。行き先は特に聞いてない。というか聞く暇もなかった。だいたい言いたいことだけ言ってさっさと帰るとかどういうこと?まあ何をするかだけわかってるのが救いかな。それにしても、私にどうだったか聞いたくせに自分は何も言わないのもどうなの?
特に変わった様子はなかったと思うから大した進展はしてないんだろうけど……。やっぱり何考えてるかわからない。ーーーー』
夢じゃなかった。
最近の蒼井はほんとによくわからない。昨日だって急に帰る前に話しかけてきたと思ったら要件だけ言ってさっさと帰っていった。
カーテンの隙間から光が差し込む。
ようやく目覚めはじめた街から朝を告げる音がきこえた。
土曜日の朝は思っていたよりも静かだった。
忙しそうに歩く人も、眠そうに進んでいく学生の姿もない。
すれ違うのは耳にイヤホンをつけてランニングしている人とかペットの散歩をしてる人。
頬を撫でる風もいつもよりほんの少しだけ暖かく感じた。なんて、ただの気持ちの問題だ。
誰も他人のことに興味がないような空気で息がしやすいだけ。
家から駅までだいたい15分くらいの道をひたすら進む。
イヤホンから流れる音楽がまた一曲終わった。
見えてきた桜の木。まだ葉桜になりきれなくて中途半端なのにそれすら儚さに変えている。
その下に白い長袖のパーカーに黒いベストに暗めの青いジーンズを履いた男子がスマホを眺めて立っていた。
声をかけようと近づいた瞬間風に混じって声が聞こえた。
『ーー梓、こっちだぞ』
「えーー?」
一瞬で消えた声を追うように振り返る。
そこに誰かの後ろ姿が見えた気がして立ち止まった。
「木野?早いな」
後ろからかけられた声にぱっと振り向く。
「えっ……蒼井?おはよう……?」
私の反応に驚いたように目を瞬いて笑った。
「ふはっ、なに戸惑ってんの?ここで待ち合わせだったじゃん」
「……そうだけど……」
くすくす笑う蒼井が珍しすぎてさらに戸惑う。
ひとしきり笑った蒼井が「まあ、いいや。行こうぜ」と歩き出した。
「……うん」
不意に見えた後ろ姿があの一瞬の面影に重なる。既視感というには少し違うこの感覚がなんだかこわかった。
「ーー?ーー……木野?」
「えっ?何??」
「何じゃねえよ。大丈夫か?」
顔を覗き込まれて思わずのけぞる。
「大丈夫。ていうか、そもそもどこ行くの?」
疑わしそうにに私を見てたけど何故か諦めたように息を吐いて「まあ、いいよ」と呟いた。
「で、どこ行くかだっけ?」
「うん」
「……ついてくればわかる」
「はあ?」
あまりにも答えになっていなくて呆れた。
とりあえず電車には乗るらしい。入ってすぐ奥の扉の端っこに立つ。
「どこで降りるの?」
「浅海」
「あさみ?そんな駅あったっけ?」
まぁ最寄り駅くらいしか名前覚えてないから知らない名前があっても不思議はない。
「ある。てか、結構有名だと思ってたんだけど」
不思議そうに首を傾げる私に呆れたように首を傾げた。
「有名?何が?」
「まあ、行けばわかんだろ。知らないならそれでいいし」
「そっか……」
もう教えてもらうのは諦めた。
少し楽しそうな蒼井を見てため息を吐く。
下を向いて見えたのは厚底の黒いラインが入った白いスニーカーと蘇芳色のシャツワンピ。それと向かいに立っている蒼井の真っ黒なスニーカー。その下には鉛のような色の床が広がる。
目線を少しだけ横にずらせば人間には到底不可能な速さで景色が過ぎていく。
車内アナウンスが「ーー次は浅海」と繰り返した。
そっと蒼井の方を見ると蒼井もこっちを見ていたみたいで目があう。
「次、降りるぞ」
「うん……」
短い返事で頷くと電車がゆっくりと止まった。
プシューッと気の抜けた音とともに扉が開く。私が思っていたよりも多い人がこの駅で降りた。人の流れに乗りながらホームを出る。
「……なんか、見覚えがあるような、ないような?」
駅を出て1番最初に思ったのは懐かしいような気がする、だった。
私の微妙な反応に蒼井はちらっとこっちを見てから「あっそ」と言って前を向いた。
「何その反応……?」
「別に?ほら、こっちだぞ」
といつも通りの何を考えてるのかよくわからない顔で前を歩く。
優しい風を感じながら歩いているとやっぱり少し懐かしいような気がした。
見覚えのない風景。見たことのない街並み。降りたことのない駅。その全てが懐かしさを否定するのに……どうして胸がざわつくんだろう。
30分くらいで目の前に大きな建物が見えた。
「ほら、あそこだ。もうすぐ着くぞ」
ずっと黙っていた蒼井が目の前の横断歩道の向こう側にある大きな建物を指さしながら振り返る。
「あそこって……水族館?」
しかも結構大きい。今もずっと人が出入りしてる。よく耳をすませば楽しそうな声が聞こえた。
「そう、お前知らない?浅海水族館。見た目通り結構有名なんだけど」
「ふうん?知らない」
うん、知らない。でも懐かしい。わからない。気持ちがごちゃごちゃだ。
「えっ、ちょっとチケットは?」
そのまま突き進んでいく蒼井に慌てて声をかけると、私の慌てぶりに「あほか」と呆れたように続けた。
「買ってあるに決まってんだろ。ほら、行くぞ」
そう言って私の手を取って受付を通り抜けた。
目の前には子連れの人や恋人、友達いろんな人がいろんな人と一緒に歩いている光景が広がる。
「ペンギンあっただってーー」
「こら、走らないのーー」
「ほら、かわいいーー」
「次あっち行こーー」
たくさんの声が溢れかえっている。
「ーー?おいっ、大丈夫か?」
「えっ?蒼井?なに?」
焦ったような顔をした蒼井に驚いていると「ビビらせんなよ……」とため息を吐いた。
「はぁー。まあ、いいや。行くぞ」
そう言って彼は私の手を引いて歩き出した。
「えっ、ちょっと……手……」
「なに?照れてんの?」
「はあ!?そんなわけないし!」
「じゃあいいだろ。だいたいお前があぶなかっしいんだよ」
「なっ……!」
完全に丸め込まれた。
最低、最悪。いきなりなにすんの?
言いたい言葉が喉の奥に引っかかる。私の中の何かが叫んでいた。いま、この手を離しちゃいけないと。
「ほら、お前こういうの好きだろ」
前を見ていなかった私の前に大きな水槽が姿を現した。
「うわーー!」
綺麗だ。
大きな水槽の中を漂っているくらげに色々な角度からたくさんの色が当たる。
海の色をそのまま映したような青。
ライトに照らされて輝く黄色。
深い森の中の湖のような緑を纏う蒼。
すべての色を連れて歩いているような虹色。
「……綺麗」
思わず呟いてしまうほど幻想的な光景が目の前に惜しみなく広がっていた。
「ああ、綺麗だよな。どうだ?」
「うん。すごいね。すごく……なんだろう?上手く言葉にできないけど、好きだなぁ」
「ーー……」
ぼそっと呟かれた言葉はよく聞こえなかったけど、今の目の前の光景から目が離せなかった。
「ほら、そんなに気に入ったんなら写真でも撮っとけよ。いつでも思い出せるようにさ」
そう言われて私は久しぶりに写真を撮った。
くらげ。イルカ。ペンギン。館内の道。餌やり体験コーナー。トド。カワウソ。色々なものを撮った。そして、なんとなく蒼井の写真。
この時の私は思っていたよりも浮かれていたのかもしれない。だから、きっと忘れていたんだ。
自分がどういう人間なのか。
それでもーー今、この瞬間の景色が全てを忘れてしまうくらい綺麗だったんだ。

