川崎のことが好きだと気づいてからは、今まで退屈で仕方なかった学校が、まるで七色に色付いたかのように感じる。
 気がつけば授業中の後ろ姿に目を惹かれていたり、体育の授業を見学するのを眺めていたり。
 とにかく何をしていても脳を支配されているような、見ているだけでこの上なく幸せな気持ちになれるのだ。
 ほんのこの間まで、自分がこんな浮ついた人間になるなんて考えてもいなかった。本当にこれが俺か?と思うがその変化が怖くない。むしろ楽しくて仕方ないのだ。
 毎日生き生きと希望を持って生きられるようになったし、そのおかげだろうか。クラスメイトも挨拶をしてくれることが増えたように感じる。

 こうして川崎と昼休みを屋上前で一緒に過ごす時間も、俺にとって特別な意味を持つようになっていた。
 バレないように、ちらっと川崎の顔を確認する。川崎は、眠そうに口に手を当て大きくあくびをしている。
 ただあくびしてるだけなのに、この上なく可愛く見えた。目に涙が浮かんでるのも可愛いし百点!
思わず心の内でガッツポーズを取る。

「ねぇ、葛谷くん」
「な……なに?」

 タイミングがタイミングなだけに、素っ頓狂な返事をしてしまった。
 川崎は俺の目をじっと覗き込んでくる。川崎とこんな至近距離で見つめ合うことなんてあっただろうか。一気に心音が加速し早鐘を打つ。
 まさか見ていたのがバレたか⁉ いや、そもそもどうしてバレないと思ってるんだ、俺はバカか! 川崎は人の心が読めるっていうのに、気持ちを隠すも何もないじゃないか。
 そうして最近の俺の心を思い出してみれば、常に川崎で溢れていた。これが川崎に全部筒抜けだとしたら?
 一気に顔が熱くなり、逃げ出したくなるような羞恥心に襲われる。どうして川崎は何も言わずに一緒にいてくれる? 気持ち悪がってないのか?

「葛谷くんはさ、卒業した後のこととか考えてるの?」

 身構える俺に話し始めた内容は、想像していたようなことではなかった。
 俺の内心には……触れてこない。残念なような助かったような。

「卒業した後か。進学しようとは思ってるよ。ただ、まだやりたいことも決まってないしどこにするかは迷ってるって言うのが正直なとこかな」

 高二の冬。進路を決めている同級生も少なくない。
 だというのに、俺はまだあまり未来の想像が出来ずにいた。今までの人生、なるようになるという、時間任せの心持ちで生きてきたのだ。いざ、進路と言われても想像がつかない。
 だけど……そうだな。今の俺のしたいこと。不純な動機ではあるが、川崎と同じ大学に進めたらどれだけ幸せだろうか。

「そっか、まだ決まってないんだね。私と一緒だ」

 そう言った川崎の顔は気のせいだろうか。どこか寂しげに見えた気がした。
 だが、まだ決まっていないのなら、これはもしかしてチャンスなんじゃないだろうか?

「意外。やりたいこととかないの?」

 川崎なら、その明るさを活かしてどんな環境でも生きていける気がする。星恩高校は進学校だし、頑張れば今からでもどこへだって目指せるだろう。
 川崎の成績についてはそういえば聞いたことがなかった。

「私は……将来はあんまり考えたくないかな」

 やりたいことないのという質問に対しての答えとして、考えたくないって何だ?と少し違和感があった。
 川崎は初めて見る表情をしていた。いつも明るく、見ているものに幸福感を与えるあの笑みでなく、諦めたような悲しい苦笑い。それは、どこか大村の笑顔を思い出させた。
 将来のことがそんなに嫌なのか?と尋ねたかったが、その顔を見ていると何か深刻なもののような気がして聞けなかった。

「あーあ。私も葛谷くんと一緒の大学に行けたらな」

 川崎がポツリと呟いたその言葉に俺の心がどきりと反応する。
 それはどういう意味? 俺と一緒に居たいってこと? と疑問がぐるぐると回る。

「それってもしかして……」

『キーンコーンカーンコーン』

 ちょうど俺の声をかき消すかの様にチャイムが鳴った。なんて間の悪いことか。
 その音に、川崎が立ち上がる。

「いこっ! 葛谷くん!」

 その顔には、気がつけばもう先程までの暗い表情はない。いつもの太陽のように明るい笑顔だ。

「あぁ……うん。」

 後一歩が届かない。でも、確かな手応えを感じて俺の心は舞い上がっていた。


 放課後、俺は中村達とカラオケに遊びに来ていた。俺を合わせて八名になるそのグループは、さながらクラブか何かのようなテンションだ。
 皆がハイテンションで聞いたことのないキラキラした今風の音楽で騒いでいるのをただ眺めている俺は、まさしくモブAという言葉がピッタリであった。
 この前、川崎と来た時は、俺の分かる曲も多かったんだけどな。今思えば合わせてくれていたのだろう。

「来てくれてありがとね! 葛谷くん! 楽しんでる?」

 爆音の環境の中、ふと隣を見れば中村が隣に来ていた。一人でいた俺を心配してくれたのか。

「あぁ、こういうのはあんまり慣れて無いけど……楽しいよ」
「良かった!」
「……それで今日川崎は?」

 かき消されぬ様、精一杯の大声で意思疎通を図る。
 一軍集団と遊びに来ていたのだが、そこに川崎の姿はない。
 てっきり、いつも一緒にいるから今日も来るものだと思ってたんだが……。

「美雨? 美雨は、放課後はいつも行くところがあるからってあんまり来てくれないんだよね。何してるんだろ」

 どうやらこの環境でも俺の声はちゃんと届いたらしい。
 でも、行くところがあるから? 放課後いつもいないのはてっきり中村達と遊びに行ってるからだと思っていたのだが、用事というのはそのことでは無かったのか。
 一体、今川崎は何をしているんだろうと考えていると、突然背後から俺の肩に手が回る。

「やっぱ川崎がいた方が良かった? 熱いねー」

 それは、名前は分からないが、ムードメーカー的存在である、丸刈りの男子生徒だった。いつもふざけている印象しかない彼には俺は正直少し苦手意識があった。

「ははっ……」

 俺は苦笑いで返すことしか出来ない。やべぇ、このノリ苦手かも。

「ほら、からかわないの。ごめんね葛谷くん」

 中村が嗜める様に言ってくれるのが唯一の救いだろうか。それを聞き、丸刈りの男子生徒はへいへいと肩に回した手を離す。

「いや、大丈夫……。ありがとう」

 実際、川崎がいたらなと考えていたのは事実だ。からかわれるのは……慣れていない。馴染めていない俺を気にかけて声をかけてくれたのだろうから、悪意がある訳じゃないんだろうけど。
 こんな風に考えられるようになったのは、成長だと思う。今までだったら嫌がらせとしか思っていなかったと断言出来る。
 今までの常識、考え方を一新してくれたことに、ただ今は川崎に感謝を伝えたい。
 川崎は俺の……好きだという気持ちに気付いているんだろうか?いや気付いていない訳がない。
 だって川崎の前では隠し事なんて出来ないし、俺に隠す気もなかった。川崎と話している時は、顔が思わずにやけてしまうし、後ろ姿を眺めていると、ただそれだけで幸せな気持ちになっていた。自分で言うのもあれだが、あからさますぎた。

 だというのに、川崎はそのことに触れてこない。どうして?心が読めないことが凄くもどかしく感じられる。向こうからはこっちが筒抜けだというのに、こっちからは何も分からない。不平等すぎやしないか?
 と俺は、これ以上ないと思えるほどの名案を思い付いた。
 告白したらいいのでは?

 そうだ、相手の考えていることが分からないのなら直接聞けばいい。逃げられない状況を作り出そう。思いつけばこれ以上のアイデアはもう考えられなくなった。
 そうと決まれば作戦だ。どうせ言うのであれば、やはり驚かせたい。心が読まれると言うのであれば読まれる前に、伝えてしまうのが良いんじゃなかろうか。朝一番に呼び出して気持ちを伝えよう。
 スピード勝負だ。予想外のことが起こった時、川崎は一体どんな反応をするんだろう。緊張よりもワクワクが止まらなかった。

 セリフはどうしようか。どんなシチュエーションで? 俺にロマンチックなことできるんだろうか、そもそも初めてだし、経験がない。
 断られたら一体俺はどうする気なんだ、今後どんな顔をして会えば?
 ダメだ、深く考えるとダメな想像が広がっていく。今の関係を壊したくないという俺の中の臆病さが顔を出すようだ。うまくいきっこないと、もう決別したはずの卑屈さまでもが帰ってくる始末。
 でも、言わなきゃ何も変われない変わらない。今のままでも充分幸せなのに、もしも付き合えたら……どんなに幸せだろう。それこそ本当に死んでしまうんじゃないだろうか。
 心を読まれる前に。明日……伝えよう。
 だが、その決意は叶わなかった。


 いつも川崎は登校が早く、俺よりも前に教室にいるのだが今日はその姿が見えない。
 だが、その方が俺にとっては都合が良かった。告白するとなればやはり二人きりの時がいい。先に心を読まれちゃ台無しだからな。
 そう思い、川崎が登校するのを待っていたのだが、いつまで経っても現れない。結局、朝学校にくることはなかった。
 とはいえ、あまり気にも留めていなかった。というのも、川崎は度々学校に遅刻してくることがあったからだ。いくら真面目とは言え、たまにはそう言う日もあるよな。
 教室のドアがガラリと開き、中年の担任教師がぽりぽりと頭をかきながら入ってくる。
 やる気なさげなその様子にも半年も経てば慣れたものだ。惰性で生きているという言葉が凄く合っている。
だが、その中年教師もいつもと少し様子が違った。

「あー、朝のホームルームを始める前にお前らに残念な知らせがある」

 俺の脳内は、どうやって川崎に告白しようかというただそれだけで担任の言葉など、上の空だった。だからかもしれない。俺は、告げられた内容を理解出来なかった。

「実はだな……お前らのクラスメイトの川崎美雨が本日を持って転校することになった」

 ……は?
 一瞬、世界中の時が止まったんじゃないかと錯覚する。いや実際、その瞬間間違いなくクラスの空気は凍った。
 そんな硬直を破るように。気がつけば、俺は席を倒して立ち上がっていた。

「先生、どう言う……ことですか⁉」

 俺が普段、滅多に発言しないような生徒だったからだろうか。担任がその剣幕にびっくりしたようにのけ反る。
 だが、そんなことどうでも良かった。川崎が転校? この人は何を言っているのだ。
 それに続くかのように、教室のあちこちから声が上がる。

「冗談でしょ?」
「なんで急にー?」
「聞いてない!」

 当たり前だ、それぐらいこのクラスにとって川崎は大きな存在なのだから。
 担任は、一斉に向けられた批判の声を手でどうどうと宥める。

「個人情報だから、詳しくは言えない。強いて言うならそうだな、家庭の事情ってやつだ」

 返ってきたのは、マニュアルのような曖昧な答え。当然、それで俺達が納得する訳ないのだが、結局、粘ってもそれ以上の答えは得られなかったのであった。
 俺の頭は真っ白になった。転校? 何も聞いていないしそんな素振り今まで一度も……昨日まで普通だったじゃないか⁉ 
 今川崎はどうしているんだろう。
 授業が終わった瞬間、川崎のスマホへと電話をかけるが、呼び出し音が流れるばかりで、あの透き通る声が聞こえてくることはない。それならばとメッセージを送るがいつまで待っても既読になることはなかった。
 ふざけんな、どうして繋がらないんだよ! 悔しさと己の無力さに歯を噛み締める。
 どうして何も答えてくれない⁉ 
 荒ぶりそうになる心を深呼吸で落ち着ける。
 落ち着け、まずは状況確認からだ。俺は、教室でスマホを弄っている中村へと詰め寄った。

「中村。川崎のこと、何も聞いてないか?」

 詰め寄って気づいた。いつもクールな中村の瞳に一杯の涙が溜まっていることに。

「分からない! 私も何もしらないの、返事も返ってこないし……」

 自分のことで手一杯で、中村の様子にまで気が回っていなかった。中村も、俺と大差ない状況だったということがこの一瞬で分かる。
 不安なのは俺だけじゃないってことだ。
 一番仲の良かった中村で知らないとなると……この様子じゃ誰にも伝えていなかったってことだろうか?
 川崎はこうなることを知っていたんだろうか。どうしてそんな勝手なことするんだ、と悲しみよりも怒りが湧き上がってくる。
 こうなったら家にでも行って……。
 そうして気付いた。俺は、川崎の家を知らない。くっそ、どうして聞いてなかったんだ。自分の使えなさが憎い。

「中村、川崎の家知ってるか?」

 俺が頼れるのは中村だけだった。だが、その希望はあっさり打ち砕かれる。

「ごめん……美雨あんまり自分のこと話さないから……。今思ったら隠してたのかも」

 なんてことだ。本当に出来ることがなくなってしまった。
 その後、ダメ元で川崎と仲が良さそうだった人達に、何か知らないかと尋ねたが望むような答えは得られなかった。
 何も進展がないまま、時間だけが無情にも過ぎていく。
 いくら待てども連絡は帰って来ない。
 手詰まりとでも言うのだろうか。これで……終わり?
 初めて好きな人が出来たのに。告白しようと思った矢先にどうして俺の目の前から消える?
 全く諦められないのに何をしたらいいか分からない。着信はもう何十件もかけたし、メッセージも飽きるほど送ってる。これ以上何が出来る?
 あと、出来ることはと言えば。


 俺は、蓮のいるカフェへと足を運んでいた。
 もしかしたら川崎があのシュークリームを食べに来ているんじゃないだろうか?そんな淡く小さすぎる期待。
 川崎に会いたいというただ一心だった。

「久しぶり! 今日は彼女一緒じゃないのな?」

 暗く沈んだ俺を、蓮がその輝く笑顔で出迎えてくれた。だが、対照的に俺は座り込んでしまった。

 その後、俺と蓮は、カフェの隅の席で向かい合うように座っていた。

「友達が来たって店長に言ったら休憩くれたよ。それで? そんな暗い顔してどうしたよ」

 俺の顔は見て分かるほどにやつれていた。川崎がいなくなってから、ずっとこんな調子だ。何をするにも気力が湧かない。
 気遣うような連の表情に、ずっと張り詰めていた緊張の糸が緩む。

「蓮さ、前に俺が一緒に来てた女の子……川崎いたろ? 最近見たりしてないか?」

 その質問に、蓮は不思議そうな顔を浮かべた。

「いや? 俺がシフトの時は啓太と一緒に来た時以来で見てないな。何かあったの?」

 最後の希望はあっさりと打ち砕かれた。
 そうして、俺は唯一の友達に全てを話した。勿論、川崎が心が読める、と言うことに関しては口止めされていたからそれを省いて。
 彼女ではないこと、告白しようと思っていた矢先に転校してしまったことまで包み隠さず全てを話した。
 それを聞き終えた蓮は、考え込むように顎に手を当てた。

「全く連絡取れないし、どこにいるかも分からないって訳ね。それで俺に見てないか聞いてきた、ってことか。ごめんな、力になれなくて」

 申し訳なさそうに蓮は頭を下げる。

「いや、いいよ。聞いてくれてありがとな。すっきりした」

 誰にも弱音が吐き出せなかったのは辛かった。何か状況が良くなった訳ではないが聞いてくれる、ただそれだけで俺の心が満たされるのを感じた。それだけで充分だ。
 友達と話すのってこんなに心落ち着くことなんだなと実感する。

「これが関係あるかは分かんないけど、川崎って女の子、俺昔どこかで見たことある気するんだよな」

 蓮が昔、川崎と会ったことがある?
 全く手掛かりがないこの状況では、どんな情報でも知りたかった。

「どこ⁉ どこで会った?」

 もしかすると、住んでいる場所に繋がるかもしれない。
 蓮は困ったように顔を歪める。

「悪い、思い出せない。結構前だとは思うんだけど……。とにかく、見つけたら啓太に連絡するよ」

 そう言って、蓮は仕事へと帰っていった。
もう行っていそうな場所の心当たりはなかった。今度こそ俺に出来ることは何もなくなっていた。


 そして、蓮からの連絡もないまま、また時が流れた。
 川崎がいなくなって一ヶ月。最初は騒いでいたクラスの連中も時間が経てばいつも通りで、まるで忘れてしまったかのようにケロッとしている。あんなに話題に登っていたのに、そのことに寂しさを感じる。
 今でも忘れられていないのは俺と中村ぐらいだろうか。心にぽっかりと空いた穴は埋まりそうにない。

 部屋で一人、ベッドに寝っ転がっていると、ふと以前のことを思い出した。
 そう言えば家ではよくネットを弄ってたっけ。川崎と絡み始めてからは、現実が充実していてあまり触らなくなっていた。
 と、同時に川崎がいなくなったことは、俺からゲームを開く元気も奪っていた。……久しぶりにやってみるか。
 ゲームを開くと懐かしいロゴと共に、見慣れた画面が映し出される。変わらぬその光景に思わず口元が緩む。
 何気ない気持ちでフレンド欄を開けば、そこには『覚』と書かれたプレイヤーがオンラインになっていると表示されていた。
 その表示に思わず飛び起きる。

 これ、川崎だよな⁉ 間違いない、何度も一緒に遊んでいたのだ。でもどうして?
 震える手を何とか抑え、昼休みに何度もそうしてきたように対戦を申し込む。もしもこれが川崎ならば……。
 対戦が許可され、画面が切り替わる。
 来た! ずっと音沙汰が無かったのにこんな所に手掛かりがあるなんて!
 ゲームが始まるが、あまりの驚きで、俺のキャラはろくに抵抗も出来ず葬られていく。『覚』のプレイは、相変わらずこちらのしたいことを全部潰すような圧倒的先読みの立ち回りで俺は何もさせて貰えない。
 あぁ、もう間違えているわけがない。こんなことが出来るのは……これをプレイしているのは川崎だ。思わず、涙が出そうになる。

 結局、試合中の十分間、潤んだ視界でろくに集中出来ないまま完膚なきまでにボコボコにされた。だが、そんなこと今の俺にはどうでもいい。
 せっかく手掛かりを見つけたのだから、話しかけないとまた見失ってしまうと慌ててチャットを開くが、俺が何か言う前に向こうからチャットが届いた。

『久しぶり、元気だった?』

 まさか川崎の方から接触してくるなんて。どれだけ電話をかけても繋がらなかったというのに。
 凄くシンプルな言葉だったが、あれだけ待ち望んでいた川崎からの連絡だ。まるで脳に直接語りかけられているように俺の心に響く。

『元気だったよ。川崎は今なにしてんの? 転校ってどう言うこと?』

 遠回しに行くのは俺らしくないし、川崎相手に建前なんて必要ないだろう。直球で聞いた。

『そりゃそうだよね。でも、私のことはもう忘れて』

 少し空いて返ってきた返信は、最悪のものだった。

「何だよそれ? 忘れてってなに言ってるんだ⁉ まだ何も言えてない伝えられてない。このまま勝手に消えてくなんて絶対許さない」

 部屋で一人叫んでいた。
 そんな俺の思いの丈を書き殴ったようなメッセージ。文章もぐちゃぐちゃの長文だが、とにかくこのまま終われない。それだけの執念で送りつけていた。
 すると、それに応えるように川崎からメッセージが届いた。

『どうしても気になるならここに来て』

 それ以降は何を言っても返信がなく、そのままゲームもオフラインになってしまった。
 何だ、何だよそれ。納得行かないことは無限にある。
 でも確かめるために俺は最後のメッセージに従ってこの場所に行くしかなかった。





 数日後、俺はとある一室へと赴いていた。
 大きなベッドが一つに、申し訳程度に置かれたテレビ。枕元に置かれた花瓶には白のガーベラが唯一の彩として生けられている。

「久しぶり!」

 川崎は、いつもと変わらぬ見慣れた輝く笑顔で元気にはしゃぐ。

「びっくりした……?」

 そう言って川崎は照れくさそうに笑う。どうして。どうしてそんな顔が出来る。

「……何だよ、これ」

 消え入りそうな声でそう投げかけた。
 川崎は、そんな俺を見て悲しそうな顔を浮かべ、君には、謝らないとね……と呟いた。
 ベッドに腰掛ける川崎の体には、思わず目を背けたくなるほど。見ていて痛々しくなるほどの沢山の管が繋がれていた。それはまるで映画やドラマの世界のようで、まさしく病人のものだった。俺は見ている光景が信じられなかった。
 ここは古山(こやま)第一病院。県内で最も大きい大学病院。
 川崎から、ここの名前を聞いた時から、嫌な予感はしていた。
 だが、実際足を運ぶまでは信じられない気持ちで一杯だったと言うのに……。現実は非情であった。

「何から話そうかな」

 川崎はそういって、微笑む。
 聞きたいこと、確かめたいこと、言いたいこと。考えればいくらでも浮かんでくる。だが、それを全部噛み締めて、俺は川崎の言葉に耳を傾ける。
 今から、言われることは聞きのがしてはならないと本能が感じていた。

「私ね、心臓が悪いの」

 告げられた内容は、文字通り『最悪』であった。

「子供の頃から体が弱くてね、何度も手術した。でも、全然良くならないの。みんなが小学校中学校に通っている間。もっと前から。ずっと一人で病院にいた」

 それは、教室で見ていた川崎のイメージとは全く違うものだった。
 いつも皆の中心で太陽のような笑顔を振りまいていて、悩みなんてないとでも言わんばかりの底抜けの明るさ。
 そんな重い病気を抱えてるなんて微塵も感じさせない元気な川崎の姿があった。
 いや、今思えば放課後にいつも用事があると言っていたのは……。

「そうだよ。一度も学校に通ったことが無かった私を可哀想に思ったんだろうね。私のお父さん、うちの高校の理事長と知り合いなんだ。無理言って、二年生の間。たった一年間だけだけど通わせてもらえることになった。ちゃんと定期検診を受けることが条件でね」

 だから……だからいつも放課後いなかったのか。俺は川崎のことを何も知らなかった。

「じゃあなんで! 急に学校辞めたりしたんだよ……まだ一年は経ってないだろ……?」

 川崎は悲しそうに笑う。ずっと、笑ってばかりだ。
 こんな時まで、そんな悲しそうな作り笑いしなくていいのに。

「ちゃんと自分の体のことは分かってるつもりだったんだけどね、無理しすぎちゃったみたい。そもそも、学校生活に耐えられる体じゃ無かったんだよ……」

 俺に医学的知識はない。川崎の体がどれだけ悪くて、どんな辛さを抱えているのか俺には測れない。でも、それでも。

「どうして、何も言ってくれなかったんだよ。言ってくれたらもっと、俺だって……」

 言いかけて止まる。言ってくれていたらどうしてた?
 もっと川崎の体のことを労っていた? 辛さを軽減してあげられていた?
 いや、きっと大して変わらない。だって俺はどうしようもなく無力なのだから。してあげられることはない。
 それでも分かってあげたいと思うのは傲慢だろうか。

「ごめんね」

 川崎の顔からようやく、笑みが消える。暗く重く落ちて諦めて、全てに絶望したこの世の終わりのような顔。
 見たことのないその表情がさらに俺の辛さを増幅させる。

「私、ずっと葛谷くんに嘘ついてたことがあるんだ。今日は、それを謝ろうと思って呼んだの」

既に情報過多。俺の心はもうぐちゃぐちゃだ。

「これ以上何があるって言うんだよ……」

 この上まだ嘘があるって? 川崎は一体どれだけのことを抱えてるんだ。

「私の心がよめるっていうの……実は嘘なの」

……は?

「いや……いやいや。さっきだって俺の心を読んで会話してたじゃん。今更……何を。なぁ?」

 川崎は目を合わせてくれない。

「私と君は同じなの。正しくは一緒だった……かな。私はただ、人の気持ちを予想してそれらしく喋ってただけ。本当は、人の心なんて読めやしない」

 何の冗談だって言うんだ。だって俺は、川崎のその力のお陰で、ずっと抱えていた悩みを解決してもらって仲良くなれて。

「よ、予想って。それだけなわけないだろ」

 そうだそんなこと出来るわけない。川崎にはきっとみんなと違う力があって。だってそうじゃないと。俺の中の信じていた川崎という存在が揺らぐ。

「私はさ、生まれた時から周りに迷惑ばかりかけてきたの。一人じゃ何も出来ない、何の価値もない。ただの金食い虫。そんな私が生き残るにはね、明るく振る舞うことしか無かった。嫌われないように、必要としてもらえるように……相手が欲しい言葉を、欲しい時に欲しいシチュエーションで」

「人ってね、ただ普通に話してるだけで色んなサインを出してるんだよ。目線、抑揚。声の淀み具合に、手や足、筋肉の動きまで。全身からその人の感情が現れる。顔色を見ながら育ったからだろうね。そのサインに私は敏感なだけ」

 言葉が出ない。俺の中の川崎は、無敵の象徴のような存在で、抜け目なんてどこにもなくて側にいたらどんな悩みも消えてなくなるような存在で。

「騙しててごめんね。君に、人の気持ちを決めつけないでなんて偉そうに言ってたくせに、一番決めつけてたのは私だったんだ。君に何かを言う資格なんてない。
実はね、私と一緒の君を見つけた時、心底悔しかったの。あぁ、どうして葛谷くんは私と違って健康な体を持ってて、何だって出来るくせに何もしないんだろうって」

 川崎と俺が……同じ。
 川崎は言葉を続ける。

「人に好かれようと努力する私と、人を拒絶して誰も寄せ付けない葛谷くん。だから、あの日声をかけたのは私から君への復讐なんだ。更生なんて聞こえのいいものじゃない、持ってる人は持ってるなりの立ち振る舞いをしろっていう私からの抵抗。
どう? 幻滅したでしょ?」

 その顔にはもう、笑みも悲壮感もない。ただ真っ直ぐに俺の目を見つめる真顔。
 その瞳の奥で何を思っているかは、俺には分からない。相変わらず人の心なんて俺には読めない。
 川崎には分かっていたはずだったのに。今の俺の感情をどこまで理解しているのだろう。
 でも、その上で。俺は今日伝えたいことがあって、そのためにこの場所に来たのだ。

「川崎、俺……川崎が好きなんだ」

 川崎は少し、驚いたように眉をぴくりと眉を動かしたが、表情は崩さない。

「話、聞いてた? 私は葛谷くんにこんなに沢山嘘をついてた。もう葛谷くんに私は必要ないでしょ?」

 その言葉に思わず頭に血が昇ったように視界が狭まる。

「必要ない訳ないだろ⁉ 誰のお陰で俺がこんなに変われたと思ってる。嘘ばかりだったとしても俺は川崎に救われたし、その笑顔に見惚れていた。……いなくならない、一緒にいるって言ったじゃないか……私を信じてって言っていた、あれも嘘だったのか?」

 自分がどれだけ本気かを伝えようと必死だった。自分に価値がない、嘘だらけだという川崎の言葉を否定したかった。俺が好きになった川崎は、こんなこと言わない。
 川崎はしばらく黙ったままだった。俺の言葉がどれだけ響いたのか。
 沈黙は突然破られた。

「気づいてたよ」
「え?」
「葛谷くんが私のことを好きでいてくれてたのは知ってた。あんなに分かりやすいんだもん。葛谷くんから好意を感じるたびに私は苦しかった。これ以上はいけないと思いながらも一緒に過ごす時間が心地よくて……言い出せなかった」

 俺の気持ちはバレていた。だが、そんなことはどうでもいい。
 その時間を心地よく感じてくれていたと、そう川崎が言ってくれたことの方が何倍も、何十倍も大事だ。
 それはつまり、川崎も俺と同じ気持ちが少なからずあったということで。

「じゃあ!」

 だが、そんな言葉を遮るように冷たい声が通った。

「そんな単純な話じゃない! 私は、普通に恋を楽しめるような体じゃないの。今年中には東京のもっと大きな病院に移動しないといけないし、治療法がある訳じゃない。いつまで今の生活が続くかも分からないし、そもそもいつまで生きていられるのか……!」

 川崎は、今までとは雰囲気がまた一変し、どうにもならない現実を叫んでいた。それは今まで絶対に見せてくれなかった本心で……。
 俺は、自分がいつまで生きていられるかだなんて真剣に考えたことが無かった。だが、川崎にとっては妄想でも何でもなく、近くに迫る未来なのだ。

「葛谷くんは、そんな私でもそばにいれる?いつ死ぬかも分からない、一人じゃ何も出来ない人間のために全てを捧げられる?」

 俺は、即答出来なかった。
 川崎のそばにいたい、もっと近い存在になりたい。そう願っていたはずなのにいざそう問われると、尻込みしてしまった。
 そんな俺の心の弱さを見透かしたのだろう。川崎は寂しそうにため息をついた。

「もう私のことは忘れて」

 俺に何か言い返す資格なんてあるはずもなく、言われるがままに病室を追い出されていた。