そこは、見渡す限りの闇だった。
 一点の光もなく、は言い過ぎだが、空の遥か彼方がようやく白み始めた頃だ。視界の上半分には薄っすらと雲が流れており、下半分では何かがうごめいている。
 その何かに視線を移した時、正面から吹き付ける風が勢いを増した。相変わらず容赦がない。背後では髪が波打ち、木々がざわめいている。潮の匂いが鼻孔を衝き抜け、ツンと奥がうずく。足元というには程遠い真下から潮騒が響き、そこが海に臨む崖であることを如実に表していた。
 軽く腕をさする。季節は冬。手持ちのパーカーとコートだけだとさすがに寒い。もっとも、私の心はとっくに冷え切ってしまったから、べつにどうということはないのだけど。
 一歩、前へ進む。
 生い茂る雑草を踏んだ感触が伝わってくる。
 どこか、懐かしいと思った。
 あれはいつだっただろう。
 こんなモノトーンに染まった景色じゃなくて、夕焼け色に満ちていた。
 少し肌寒かったけれど、そんなことどうでもよくなるくらい心は温かかった。
 踏み締めた草花の感覚も、耳元で響く海風の音も、何もかもが新鮮だった。
 でも今は違う。
 もう私は、あの時の感情でここを訪れることはできない。
「ごめんなさい」
 ここにはいない、誰かに向けた謝罪の言葉が口をつく。
「ありがとう」
 夢のように楽しかった日々にお礼を告げて、私は飛ぶ。
 左右に広げた両手で風を受ける。
 有名な映画のワンシーンが浮かんだ。
 豪華客船の鼻先で、私は両手を広げている。
 自由を体全体で感じている。
 でもそれは、幻想の自由。泡沫のように儚く、あっという間に消えてしまう。全く同じだった。何も前と変わらない。見せかけの、偽物の自由だった。
「次の、三度目の人生こそは、楽しく……」
 そこで衝撃が全身を貫き、いつかの生の終わりと同じく、視界は闇に包まれた――――。
 
     *

 朝露を蹴り上げ、僕はひたすらに駅前の広場を駆けていた。
 右に左に首を動かすも、目当ての人は見つからない。
 月曜日の朝。視界に映るのは、気だるげに駅構内へと向かう会社員や学生ばかりだ。そんな人たちを押しのけ、僕はもう一度広場の中央へと戻る。部屋着のままだからか奇異の目を向けられ、時には怒鳴られたような気もしたが、それどころじゃなかった。
「ダメ……やっぱり電話にも出ない……」
 広場の中央。噴水の前に佇む小夜は、スマホを握り締め、震えた声でつぶやいた。
「こっちもいない。家はどうだ?」
「さっき結生ちゃんのお母さんからいなかったって、メッセージが……」
「そうか……くそっ」
 拳を握り締めると、手汗がにじんだ。気持ち悪くて服で拭うが、まるで収まる気配がない。
 焦っていた。
 自分でも自覚できるほどに、焦っていた。
 こういう時こそ落ち着かなければと思うが、考えがまとまらない。頭の中を何かがぐるぐると渦巻いていて、まるで嵐のようだった。
「どこだ……どこにいる……結生」
 今朝。まだ日が昇り始めた早朝にかかってきた電話で、僕の意識は一気に覚醒した。いや、むしろそのまま通り越して、ほとんどオーバーヒート状態になりかけた。そのくらい、意味がわからなかった。
 ――結生がそちらに来ていませんかっ⁉
 動揺している結生のお母さんの声が、今も耳の奥に残っている。
 ――結生が、結生が……病室からいなくなったんです……!
 ほとんど無意識に、僕は家を飛び出していた。
 聞くところによると、昨日の夜中までは確かに結生は病室で眠っていた。しかし、明け方の見回りで看護師さんが再度確認した時、ベッドに彼女の姿がなかったのだという。病院関係者が総出で敷地内を探し周り、連絡を受けた結生のお母さんもサイネリアの花畑や近隣を探したが見つからず、今は警察も動いているとのことだった。
 そして結生が消えた布団の上には、身代わりのように一通の手紙が置かれており、ただ一言。
 ――ごめんなさい。
 とだけ書かれていたらしい。
「何やってんだよ……結生」
 結生らしくないと思った。
 確かに結生は自分の全力に周囲を巻き込んでいくが、決して悲しませたりただ迷惑をかけるだけといったことはしない。むしろ積極的に笑わせ、喜ばせ、前を向かせていく。彼女のひたむきな姿勢に、みんながつられて頑張りたくなる。結生は、そんな後輩だった。
 ――楽しみにしてるからね、室崎秀せーんぱい。
 憎たらしい笑顔でそんなことを言われたのは、いつだっただろう。
 初めて自分以外の人に小説を読まれ、面白いと言われ、嬉しいと思った。でもどうやらその時の感想は三番目に面白かったところらしくて、僕はよりムキになった。
 ――一緒に最高の物語を創り上げましょう!
 瞳を輝かせてそう誘われたのは、いつだっただろうか。
 転校間もなく、人の何倍も努力をしていた結生は、さらに演技力向上練習をしたいと言って僕を本格的に巻き込んできた。両親のやり取りにうんざりし、自分の在り方にも嫌気がさしていた僕は、その誘いに乗った。直前に見せられた彼女の演技は非常に魅力的で、もっと見たかったという気持ちもあったのかもしれない。
 ――じゃあ明日の放課後、正門前で待っててくださいね。忘れて帰ったらダメですよ。
 演技だけじゃない。彼女は、僕の日常へも入り込んできた。幼馴染の雪弥や小夜を含め、他人とは深く関わらないようにしていた僕を誘い、引っ張り回した。
 部活の買い出しにカフェでの談笑なんて、どこが楽しいんだろうと思っていた。居残り練習や、本番前に部員で話し合って脚本を修正していくなんて、面倒なだけだと思っていた。でも実際は全然嫌じゃなくて、まんざらでもないと感じている自分がいて、それがなんだか気恥ずかしくて。
 ――私は先輩を誘っているんです。ね、一緒に見て回りましょ。私は欲張りなので、一日しかない学藝祭をいろんな人とめいいっぱい楽しみたいんです。
 学藝祭を一緒に回ろうと誘われた時も、本当は嬉しくて。
 そして当日も、なんだかんだで楽しくて……――。
 ――あーあ。見つかっちゃった。
 まさかあんなふうに学藝祭が終わるなんて、思ってもみなかった。
 本当に衝撃的で、すぐに頭が追い付かなかった。結生は、病気で人生を終えた記憶を持っているだけじゃなく、再び同じ病気を患っていた。その理不尽な事実を、現実を、僕はすぐに受け入れることができなかった。
 ――そんな顔しないでください……秀先輩。
 そんな僕に、結生は心配そうに笑いかけてくれた。
 一番辛いのは、結生のはずなのに。
 知られたくないことを知られたはずなのに。
 結生は、僕のことを気にかけてくれていた。
 ――だから私は、今度は全力で取り組むんです。人生を精一杯楽しみたいから。
 結生は、いつだって全力で生きていた。
 ――もし、今の先輩の人生が二度目だったとしたら。十七歳で一度命を落として、その記憶がただないだけの、今の私と同じ二度目の人生だったとしたら、先輩はどんなふうに生きますか?
 僕を諭した言葉たちは重かった。きっと多くのことを考え、悩み、あがいて、前を向こうと必死に頑張っていたんだ。
 ――いつも通り、ですか。じゃあ先輩、後輩の緊張をほぐすために何かしてくれませんか?
 そしてずっと、恐怖と闘っていた。
 ――先輩を巻き込むのは、これで最後にします。
 だからこそ。あの時結生は初めて、僕から距離を置こうとした。
 誰かと、深く関わることを拒否した。
 僕は、嫌だと思った。そんな見せかけの笑顔で笑って僕と接する結生を見たくなかった。
 だから僕はそれを拒否した。僕ならもっと振り回してくれていい。だから結生も、見せかけの笑顔なんて作らず、遠慮なんてせず笑ってほしいと、切に思った。
 ――ねぇ、秀先輩。私、本当に遠慮しなくていいの?
 聖地巡りの後に、結生はまだそんなことを聞いてきた。
 僕の中では、それは終わったことにしたかった。遠慮しないことなんて、当たり前でいてほしかった。
 そしてあの後に、僕は結生の涙を初めて見た。心配にはなったけれど、今度こそ遠慮なんてせずに、素直な表情を見せてくれたのだと、そう思った。
 ――集合場所はその花畑にしよ!
 学校近くの公園に行った時も、『区切りの崖』に行った時も、高台に行った時も、学校の屋上でも駅前広場でも、結生は心から笑ってくれていた……はずだった。
 ――最後に、私の秘密を知ってる先輩へ。
 それなのにあいつは、結生は、あんな遺言を残して自殺を図ろうとした。
 あれだけ楽しそうに笑っていた結生が。遠慮するなって言ったのに。僕は、秘密を知るだけじゃなくて、迷惑をかけ続けられてもって………………
「…………いや、もしかして」
 そこでふと、ひとつの可能性が浮かんだ。
 もしそうなら、辻褄の合わない結生の行動にも説明がつく。ただ……
「でも、結生は、どこに……」
 焦るな。考えろ。もしそうなら、結生がそう考えているのなら。
 結生なら、結生だったら、最期に選ぶのは…………。
 ――秀先輩、ありがとね
「――学校だ」
「え?」
「小夜、学校に向かうぞ! 今すぐに!」
 僕はひとつの確信をもって、走り出した。

* *

 ――――――――。
 ……………。
 ……視界は闇に包まれて、死ぬつもりだった。
「ふぅ……」
 集中するために閉じていた瞳を開く。眩しい。朝日が目に染みる。
 今のところ、私は生きている。
 道中、イメージトレーニングはずっとしていた。一度死は経験したはずだし、前世に限らず今の人生でも死は隣にいる。死はいつだって、すぐ傍で私を追い越す機会をうかがっている。
 でも、なぜか私は目的の駅を通りすぎ、予定とはべつの場所に来ていた。
「……ううん、今だけ」
 己に聞かせるように口ずさむ。
 そうだ、べつに死ぬことを諦めたわけじゃない。せめて今日一日。いや、この午前中だけでも、楽しかった思い出を振り返りにきただけだ。
 手元の、ひどく傷つきくたびれた本をめくる。無数の書き込みが目に入った。学藝祭の時、穴が開くほど読み込んだ台本だ。あの時の演題は「想い合う気持ち」だったが、それとはべつにタイトルもつけてあった。
 タイトルは、『Everyday Is Just One』。
 見栄を張りがちな秀先輩らしい、クサいタイトルだ。
 もっとも、私は結構好きだった。だからきっと、私も見栄っ張りで、ある意味、秀先輩よりも重症なんだと思う。もしかしたら、秀先輩の影響かもしれないけれど。
「責任、とってもらわないとなー」
 最後まで振り回せ、と言われた。だから私は、思いっきりわがままを言ってみた。
 前世の記憶にあった大好きな映画を調べて、その聖地に秀先輩を引っ張っていった。ちょうど最近になってアニメーション映画としてリメイクもされていたけれど、そこにはなかった聖地に敢えて行ってみた。想像通り秀先輩は戸惑っていたけど、なんだかとても楽しかった。あの時に感じた秀先輩の背中の温もりが、忘れられなかった。
 検査入院した時は、頑張って強がってみた。定期的にある入院は、前世の辛い記憶が蘇ってきて、本当に怖かった。だから秀先輩がお見舞いに来てくれた時は嬉しかったけど、同時に恐怖で弱った私を悟られないか心配だった。そして案の定、秀先輩は私が何か隠していることを見抜いていた。
 最近の秀先輩は、私の演技と本当の表情を見分けていた。だから、その時は演技なんてできなくて、後でどうにか電話の声だけで頑張った。誤魔化し切れた時はホッとしたけれど、同時に少し残念でもあり、嬉しくもあった。
 もし、見抜いてほしかったなんて言ったら、秀先輩はなんて思うんだろう。
 もし、秀先輩との練習の成果だって笑ったら、秀先輩は褒めてくれるんだろうか。
 でも、好きな人に弱っている自分なんか見せたくない。その気持ちだけは揺るがなくて、結局私としては良かったのだと思うことにした。
 退院してからは、さらに秀先輩を振り回した。秀先輩の書く小説を演じるのは、本当に楽しかった。私が私でない誰かになれて、しかもその誰かを書いているのは好きな人なのだ。ときめかないわけがない。病気であることを忘れ、時間を忘れ、ただ秀先輩と一緒に、秀先輩が私を見てくれていることが、なにより嬉しくて、楽しかった。
 聖地探しだなんだと理由を付けて、小夜ちゃんからおすすめされた場所に行ったり、根回しをした卒業生送別会の脚本を一緒に考えるのも楽しかった。秀先輩と二人だけの時間はもちろんだけど、小夜ちゃんや他の部員のみんなと一緒に部活動をするのもかけがえのない時間だった。みんなと笑い合えるのが、何より幸せだった。
 そんな秀先輩との物語づくりも、終盤まで来ていた。
 秀先輩と約束をした。秀先輩の書く小説をエンディングまで読んで、演じると。そうしたら、手術を頑張れると。前世でたくさん手術や治療を受けたがことごとくダメで、あっけなく死んでしまった記憶を、今度こそ乗り越えるのだと。
 でも、叶わなくなった。不注意ゆえに交通事故に遭って、私は手と腕を骨折し、顔にも傷を負った。盗み聞いたところでは、完治まで数か月かかるらしい。それでは、とても先輩の小説を演じることなんてできない。
 さらに、私の家は母子家庭だ。お金なんてなくて、今の治療費だって借金をしてねん出していることを知っている。お母さんは返済のために昼も夜も必死に働いてて、まだ四十歳なのに十歳以上老けて見られることも多いのだ。治る確率の低い病気なんかに時間を割いてほしくないし、これ以上やつれていくのを見たくない。今回の交通事故による入院と治療で、さらに負担が増えるなんてもってのほかだ。
 だから私は、今のこの状況を利用するしかない。
 視線を前へと向ける。すっかりと陽は昇り、小鳥が朝のさえずりを奏でている。
「もうそろそろ行かないと、か」
 病気なんかに、二度も私の命はくれてやらない。どうやって死ぬのかも、私の生き様のうちのひとつだ。
「あーあ。責任、とってほしかったなー」
 随分と自分勝手な気持ちだ。
 昔、一度決心した死への気持ちを簡単にへし折られ、私を心から笑わせてくれた人。
ずっと一緒にいられたら、なんて夢物語を叶えるために、もう一度頑張ろうと思えたことが懐かしい。
「……よし」
 朝日に向けて、笑顔を作る。
 私の物語のフィナーレは、もうすぐだ。
 もうすぐ私の人生は、エンディングを迎えるのだ。
 物語の最後をどう演じるかは、主役である私が決める。
 そう、心に決めた時だった――。

     *

「――結生っ!」
 屋上へと続く階段室の扉を、僕はぶち破る勢いで開いた。
 朝日が視界に溢れ、一瞬目を細める。
 けれど。次の瞬間捉えた姿に、僕は目を見開かざるを得なかった。
 だって、そこには――。
「秀、先輩……?」
 驚いた顔でこちらを見つめる、後輩の姿があった。
 十二月の早朝。気温はかなり低いのに、結生はパーカーとコートを簡単に羽織った程度の薄着で、学校の屋上に立ち尽くしていた。羽織ることしかできないのは、右腕から手のひらにかけて巻かれた包帯とギプスのせいだ。顔にはガーゼが何カ所も張られており、フードを被っているがその痛々しさは隠しきれていない。
 そんな満身創痍の状態で、結生は僕を真っ直ぐ見据えた。
「……何しにきたんですか」
 突き放すような冷たい声が僕を刺す。丁寧な口調も相まってそれなりに心にきたが、ひるむわけにはいかない。
「何って、迎えに来たんだよ。当たり前だろ」
「余計なことしないでください」
「余計なことってなんだよ」
「そのままの意味です。余計なお世話だって言ったんです。ほっといてください」
 結生はさらに強く言い切った。眼光は鋭く、真っ直ぐ睨みつけてくる。
 いつからか。僕は、日常における結生の演技とそうでない時をある程度見分けられるようになっていた。見た目における違いはほぼない。視線も、表情も、声色も、仕草も、大差はない。でも、なんとなくわかった。雰囲気というか、にじみ出ている空気が違っていた。そして結生は、日々のほとんどを演技で過ごしていた。
 べつにそれ自体は珍しいことではない。頻度の差はあれど、きっと多くの人がそうだろうし、もちろん僕もそうだ。素直な自分を日常的に行動で表せる人の方が少ない。けれど、僕にとっては、結生がそこまで日々を演技で過ごしていたことが驚きだった。
 そして今は……演技と本心が、混在していた。
「……悪いけど、それはできない。結生だって、僕が今の結生と同じことをしていたら介入してくるだろ?」
「それは……」
「だから僕もする。余計なお世話だろうとなんだろうと、僕は僕のやりたいように結生と関わる。それだけだ」
 僕が言い切ると同時に、隣で成り行きを見守っていた小夜が口を開いた。
「結生ちゃん、あたしも同じだよ。あたし、結生ちゃんが苦しんでいることをわかってなかった。そんな自分が嫌いだし、正直自分のことをぶん殴りたい。でも何より、結生ちゃんのことをまたひとつわかった今だからこそできることをあたしはやりたい。結生ちゃんの力になりたい。だからどうか、お願い……」
「小夜ちゃん……」
 結生は少し逡巡するように目を背ける。でも、静かに首を横に振った。
「ごめん。私は、やっぱり戻れない。手紙にも書いた通り、私は怖くてたまらないの。一度死んだことがあるはずなのに、やっぱり死ぬのは怖いんだ」
 諦念に満ちた視線が僕らを見据える。まただ。また、混ざっている。
「それに、この楽しい世界から離れてしまうのも怖い。みんなの記憶からすっかり忘れられるのも寂しいし、お母さんとか小夜ちゃんとか先輩に迷惑をかけ続けている今も嫌だ。いろんな意味で、もう限界。だから……ごめん」
「結生ちゃん、あたしは迷惑なんて思ってない……!」
「うん……ありがとう。小夜ちゃんなら、本気でそう思ってくれてると思う。お母さんも、きっと秀先輩だって、そう思ってくれてる。それはすごく幸せなことだけど、それでも、私が嫌なんだ」
 結生は笑った。そして、一歩後ずさる。
「だからやっぱり私は――」
「――もうやめろよ、結生」
 言い切る前に、言い切らせないために、僕は結生の言葉を遮った。
「本音とうそを混ぜてなんか言ってるけど、もし本当に最後だって言うなら本音だけで話せよ。なに小説みたいにきれいにまとめようとしてんだ」
「私は、そんなこと……」
「してるだろ。あの遺言、書いたのは結構前だろ。秘密を知ってる先輩とか、言葉遣いとか、その辺りから察するに学藝祭の前辺りじゃないのか。思い返せば、学藝祭の時もなんか様子変だったし、その時は結果的に見送ってくれたみたいだけど……今回事故に遭って、またぶり返してきて、そしてたまたま持っていた遺言を利用して、そのまま人生の幕を引こうとしたってところじゃないのか」
 僕の言葉に、結生は驚いたように目を見開いた。
「……どうして」
「当たり前だろ。もうだまされないからな。最初の頃みたく行くと思うなよ。僕はこれでも、ここ最近は一番結生のことを見てきた自信がある。似合わないんだよ、今の結生の行動は。途中で無責任に全てを放り出すのも、自分一人で何かを背負った気になっているのも、こんな悲劇を演じているのも、全て」
 結生は、いつだって全力で生きようとしていた。これと決めたことには頑固で、途中で投げ出したりせず、妥協したりせずに行動していた。行動しようと、していた。
 そんな僕にはない真っ直ぐなところに、僕は憧れた。近くで見たいと、そしてあわよくば何か僕も変われないかと、そう思った。
 でもそれだけじゃなかった。
 結生は、ずっと怖がっていた。病気のことも、自分の過去や未来のことも、周囲との関わり方も。結生は優しくて真っ直ぐなゆえに、どれに対しても正面から向き合っていた。だからこそ、恐怖を感じていた。当たり前だ。当たり前なのに、僕は結生の突き抜けた前向きさと不思議な前世での経験とやらを理由に、そこを見ていなかった。結生はどこまでも普通で、ありふれた、僕と同じただの高校生だった。
 そんな普通の高校生である結生に、こんな物語的悲劇は、必要ない。
「……そっか」
 結生はまた、諦めたように笑った。
「私、なんでもかんでも背負いすぎちゃってたのか」
 でも、そこに悲しみはなかった。むしろどこか、呆れているような感じさえした。
「それで、私はこれからどうしたらいいのかな。お母さんに負担かけちゃっているのは現実だし、今回の逃亡も含めてみんなに迷惑をかけちゃってるのも事実だし」
「負担とか諸々、結生のお母さんに全て話してみろよ。まずは話すところから、だろ。みんなに迷惑って部分に関しては、これからたっぷり話すぞ。な、小夜?」
「そだね。お菓子買いこまないと」
「ふふっ」
 また結生は笑顔を浮かべた。
 そして今度は後ろではなく前に、歩いてきてくれた。
「わかった。もう少しだけ、信じてみるよ。今はとりあえず謝りに行かないとだね。一緒に来てくれる?」
「もちろん!」
 小夜が笑顔で応じた。
 僕も慣れない笑顔を浮かべて、でもしっかりと頷いてみせた。
 結生は、今度は恥ずかしそうに笑ってから、逃げるように階段室へと入っていった。
 すれ違う時に見せた彼女の笑顔は、本当に綺麗だった――。

* *

 今は、諦めるしかなかった。
 嬉しかった。わかってはいても、面と向かって真っ直ぐ気持ちをぶつけられると、心に響かないわけがなかった。
 私は、どうしたらいいんだろう。
 わからない。
 わからないからこそ、怖い。押し潰されそうになる。
 みんな心配してくれている。大切に思ってくれている。
 わかってる。
 わかっているからこそ、辛い。治らなかった時に悲しませたくない。迷惑だけかけ続けて死ぬなんてしたくない。みんなの気持ちに応えたい。
 どうしたらいいのかわからない。
 私は、わたしは、ワタシは……どんなふうに残りの人生を生きていけばいいんだろうか。
 恐怖が私を蝕んでくる。
 自分の手で、自分の物語の幕を引く。そんな考えがちらついて離れない。
 でも今は、諦める。見抜かれた以上、今の私は今の気持ちを貫き通すことはできない。
 らしくない、と思った。
 気づいていた。踏ん張っていた気持ちが、今は根こそぎ折れているからだろうか。
 かけがえのない想いに触れても、私の中に巣食う諦念は、消え去ってくれないのだ。
 どうしたらいいんだろう。
 誰か教えてほしい。
 誰もわからない答え。求めるだけ無駄だ。
 嬉しいのは事実だ。間違いない。今の悩みだって、解ける日が来るのかもしれない。
 私は精一杯の笑顔を浮かべた。
 演技じゃない、心の底からの笑顔だった。
 でも私は、きっといつか、また同じ過ちを犯してしまうんだろうと、そう思っ――

「――え?」

 ふわりと、優しい匂いが私を包み込んだ。
 少し汗臭い、安心する匂い。
 薄暗い階段室と朝日に照らされた屋上の境界で、私は後ろからそっと抱きすくめられていた。
「大丈夫だ、結生」
 聞き慣れた声がすぐそばで聞こえた。
 年齢の割に落ち着いている、男らしい低い声。
 耳心地の良い、私の大好きな、声だ。
「焦らなくていい。大丈夫だ。大丈夫、大丈夫だから」
 繰り返し繰り返し、彼は言ってくれた。
 私の心を解きほぐすように。
 まるで私の心の中をわかってくれているみたいに。
「今の僕じゃこんなことしかできないし、言えないけれど……結生なら大丈夫。そばで見てきた僕が保証する。結生はひとりじゃない。だから、ひとりでエンディングを迎えようとするな。一緒に、最高の物語を創り上げるんだろ?」
「あ……」
 視界がぼやけた。
 私は、何があっても本心から泣かないようにしていた。
 泣くのは演技だけ。
 辛い時こそ笑うのだと、そう心に決めていた。
 なのに、またこの人は……。

「グスッ、ううっ……はい……はい……っ!」

 泣けてしょうがなかった。
 私はただ、頷くことしかできなかった。