花火祭りが終わり、翌週の月曜日の放課後。
 天気は快晴、気温も快適の良き一日に、僕の心は憂鬱な気持ちでいっぱいだった。重い首をどうにかもたげ、目の前の建物を見上げる。
 日の光を受けて真っ白に輝く外壁。青空が映り込んだ、やけに小綺麗な窓たち。僕の記憶が正しければ、確か五階建て。
 そのそびえ立つような居様は、僕の心を沈ませるのに十分だった。
「はぁー……」
 ダメだ。帰りたい。沈み込んだ心のせいか、なんだか胃まで痛くなってきた時だった。
「あれ? 陽人?」
 ふわりと涼しい風に乗って、緩やかな声が聞こえた。
「え? 光里?」
「奇遇だねー! こんなところで会うなんて!」
 陽人もお見舞い? と、爽やかな笑顔が僕に向けられる。その笑顔を見ているとこっちまで笑いかけたくなってくるが、ぐっと堪える。……単なる意地で。
「まぁ、そんなところ」
 努めて素っ気なく言うと、僕は改めて視線を上へと向けた。目立つように浮き出た六文字を、無意識に頭の中で読み上げる。
 飛田総合病院。
 ここら辺で一番大きな医療機関で、僕が最も苦手とする場所。
 原因はもちろん、あの事故だ。姉と一緒に運び込まれ、同じように手当てを受け、同じように入院していた。
 そして、僕は生き残り、姉は死んだ。
 姉の最期を見届けた場所。あれから時間は随分と経っているので、心の準備をしていけば別になんということはない。
 でも、やっぱり僕はここが苦手だ。
「もう、相変わらず無愛想だなぁ。もっと愛想良くしないと、モテないよ?」
 そんな僕の心境など知る由もなく、光里はニヤニヤと笑いながらからかってきた。
「いや、モテたいとか思ってないから」
「ほら! それだよー!」
「それとは?」
「その素っ気なさ!」
 ピシャリと言い放つ光里に、僕は苦笑した。こういう時の光里は相変わらずだ。弾けるほど元気いっぱいで、素直で、真っ直ぐ。本当に、僕とは対照的だ。
 そんなことを考えながら話半分に聞いていると、やがて光里は諦めたように首を横に振った。
「もうー。まぁ、いいや。それじゃあ、私は美咲さんに用があるから、またね!」
「え?」
 右から左へと聞き流していた言葉が、途端に耳の奥で動きを止めた。
「え? なに?」
「いや僕も、美咲さんに用があるんだけど」
 そう。僕が好き好んで行くはずもないこんな所にわざわざ足を運んでいるのは、美咲さんから怒涛のようにメッセージが送られてきたからだった。
 花火祭りの後、その時に撮った写真や動画を共有しようと、笹原はグループチャットを立てていた。そこには僕と光里の他に美咲さんも入っていたので、確かに個人チャットもできるようになったが、まさか翌週に三十通も送ってくるとは思ってもみなかった。
「もしかして、陽人のところにもメッセージの嵐が……?」
 僕の表情で察したのか、今度は光里が苦笑いを浮かべた。
「まぁ、な。三十通くらい。光里は?」
 ぎこちない笑みを浮かべる様子から、おそらく光里のところにも同じくらい来ているんだろう、くらいに思って何気なく訊いてみたのだが、
「は、八十二……」
 想像以上の数だった。
「いや、多すぎだろ」
「ま、まぁ……最初の方はこの前の花火祭りの写真とかもあったし? 一文一文は短いチャットだし。ふ、普通……なんじゃ、ナイカナ?」
「いや喋り方」
 明らかに棒読みというか変な口調になっている光里にツッコミを入れる。
「シャベリカタ?」
「それだよ」
 さらにツッコミを入れつつ、ふぅ、とため息をつく。
 これは、また面倒なことになりそうだな。
 花火祭りであれこれと笹原が振り回されていたのを思い出しながら、僕の心の中にはささやかな不安が渦巻き始めていた。

「やっほ〜! 元気してた〜?」
 だだっ広いエントランスを抜け、真新しいエレベーターで五階まで上がり、つきあたりにある病室の扉を開けると、病院に似つかわしくない明るい声が漏れてきた。
「美咲さん……」
 入ってすぐ、僕は目を疑った。真っ白な床と壁。白いシーツとカーテンに、薄い水色の病衣。汚れの一切を排除した清潔な病室の中で……美咲さんはパリパリとポテチを頬張っていた。
「み、美咲さん! こぼれてますよー!」
 後から入ってきた光里が、美咲さんを見るや否や急いで駆け寄った。何をそんな慌てて、と思う間もなく、その理由が判明した。
 ポテチの欠片が、女性特有の柔らかそうな膨らみの上に乗っていた。さらに美咲さんは病衣を少し着崩しており、目のやり場に困ることこの上ない。
「いや〜、ごめんね〜光里ちゃん。ついこの漫画に夢中でさ〜」
 思わずフイッと目を逸らしたが、視界の端では美咲さんが悪戯っぽく笑っていた。絶対確信犯だな、この人。
「理由になってません! さすがにこの格好でそれはダメです!」
 そんなだらしない彼女を、まるで姉の世話をする妹のように、手際良くきれいにしていく光里。どうやら、僕の知らないところで、二人はもうすっかり仲良くなっていたみたいだった。
「お〜さすが光里ちゃん。ありがと〜! 次からはもう少しシャンとしてるね〜」
 全く信用のならない言葉をのんびりと放ちながら、美咲さんは空になったポテチの袋をポイっとゴミ箱に放り込んだ。後で怒られるような気もするが、まぁそれくらいのお灸は必要だろうと僕はスルーしておくことにする。
「……それで、私と陽人を呼んだのは、どうしてですか?」
 僕と同じようにスルーを決め込んだらしい光里は、そのままベッドわきの丸椅子に座った。僕もそれに倣うように、隣の椅子に腰をかける。
「おぉ! そうだった! いや〜、危うく忘れるところだったよ〜」
「忘れないでください。三十通もメッセージ送っておいて」
「私も、八十二は、ちょっと……」
 少し強気に言った僕とは対照的に、げんなりとした様子で光里はつぶやいた。しかし、当の送り主は悪びれる様子もなく、「まぁまぁ、いいじゃないの〜」と宥めている。いや、あなたがそれをやりますか。
「美咲さん、それでいったい……」
「では早速! 二人とも来てくれたことだし本題に入りますか〜!」
「話を聞いてくださいよ」
 病人とは思えない明るさとマイペースさで、美咲さんは楽しそうに話し始めた。

 美咲さんが興奮した面持ちで熱弁し、ひと段落したところで、盛大な拍手が隣で響いた。
「いいですねー! 面白そうっ!」
「でしょー! さっすが光里ちゃん!」
 いつぞやのお祭りの時みたく、ハイタッチを交わす光里たち。やっぱりこのテンションにはついていけないな、なんて思いつつも、美咲さんの提案は純粋に面白そうだった。
 美咲さんが僕たちに計百通を超えるメッセージを送ってまでやりたかったこと、それは……――笹原の、誕生日サプライズだ。
 笹原の誕生日は再来週の木曜日だ。どうやら、その時に美咲さんは笹原に内緒で一時帰宅届を出し、あいつが家に帰ってきたところをクラッカーで盛大に出迎えたいらしい。そのほかにもサプライズのプレゼントやらケーキやらといろいろ準備をしているらしく、僕たちにその手伝いをしてほしいとのことだった。
「ところで、僕たちは具体的にどんなことをすればいいんですか?」
「お? 陽人くんもノリノリだね~」
「そ、そんなんじゃないですよ」
 相変わらずペースがつかめない。笹原もマイペースだが、さすがはその姉。さらに一段上を行くようだ。
「もう~、照れなくてもいいのに~。まっ、からかうのはこの辺にして……。二人にお願いしたいのは、サプライズで送るプレゼントの材料集めなの!」
 からかいの余韻を含ませた面持ちのまま、美咲さんはずいっとスマホを見せてきた。思うところはあるものの、とりあえず素直にその画面を覗き込む。そこには、いくつもの写真や複雑そうな意匠が施された「サプライズボックス」なるものの紹介サイトが表示されていた。
「えっ! 何これすごい!」
 僕と同じように画面を覗き込んでいた光里が、いち早く食いついた。その驚異の反応スピードに呆れつつも、確かに画面の向こう側には「すごい」としか表現できないような箱が何種類も表示されていた。
「これはね、サプライズボックスっていうの。思い出の写真とか小物とか、あとはちょっとした仕掛けなんかもある面白い箱なんだよ〜!」
 光里に負けず劣らずのハイテンションで、美咲さんは早口にそう説明した。
「へぇーー! でも結構難しそうですけど大丈夫なんですか?」
 光里の素朴な問いかけに、僕も頷く。画面に映っているものはどれも精巧な作りをしていて、手先の器用さが求められそうだった。あえて言葉には出さないが、さっきのポテチ案件からも実に大雑把そうな美咲さんには難しいように思えた。
「ふっふっふ〜……侮るなかれ、お二人さん。こう見えて実は私、デザイナーやってるんだからっ!」
 そこで、衝撃の事実が美咲さんの口から飛び出した。
「え?」
「美咲さんが、デザイナー……?」
 光里も僕も、呆気にとられていた。
 美咲さんが? いかにも手先とか不器用そうなのに?
 ツッコミ待ちだろうか。なんて失礼なことを考え、まさに口に出して言おうとした時。
「えーー! すごいっ! どんなものデザインしてるんですか⁉」
 光里が目を輝かせて身を乗り出した。その勢いに、さすがの美咲さんも少し身体を引いている。
「え、えーっと。仕事してた時は、身近な生活用品とかデザインしてたよ。インテリア雑貨とか、家具とか」
 そう言うと、美咲さんはベッドわきのサイドボードからスケッチブックを取り出した。ペラリと表紙を一枚めくると、この美咲さんの手先から生み出されたとは思えないような見事なイラストが現れた。
「マジか」
「すごいっ! かわいいっ!」
 要所にアクセントが施された食器に、使いやすさを意識したクローゼット、ガラス容器の中に細やかな意匠が組み込まれた置物など、そこには様々なデザインがあらゆるアングルで描かれている。
「まぁこれは趣味程度の、私の頭の中にある案段階のものだけどね。どうも紙の方が良くてさ、思いついたものはすぐに描けるよう、常に持ち歩いてるんだ~」
 さっきまでの興奮した調子とは打って変わり、落ち着いた口調で美咲さんは短く微笑んだ。
「美咲さん?」
 なんか、美咲さんらしくない……?
「さっ! ということで、私の技術力はもう充分でしょ? 二人には、このサプライズボックスを作るための材料を買ってきてほしいの!」
 僕の言葉は聞こえなかったのか、美咲さんは特に気に留めることもなく、材料の書かれたメモ用紙を渡してきた。
「あ、それなりに時間もないから、明日にでもよろしくね~」
 相変わらずマイペースな美咲さんの発言に、僕たちは揃って苦笑いを返した。

 美咲さんのお見舞いに行った翌日。今度は病院ではなく、ショッピングモールへと来ていた。
「ふぅー……」
 病院ほどじゃないが、人の多いところも苦手だ。このまとわりつくような視線や、ほとんど聞こえないのに僕のことを話しているのがわかるひそひそ声。本当に、この世の中は暇人が多いんだな。まったく……
「ごめーん! 待ったーー?」
 そこへ、ぼんやりと始まっていた考え事をかき消すような声が耳から脳へと響いてきた。相変わらず澄んだ声してるよな、なんて無意識に思ってしまう。
「いや、今来たとこ」
「そっか……あ! 今のってなんか、恋人っぽくない⁉」
「いやどこが?」
「もう。わかってるくせにー」
 少し前に屈み、悪戯っぽく笑う光里。白い歯がちらりと顔をのぞかせ、艶やかな髪が肩口から滑り落ちる。恋愛に疎い僕から見ても、やっぱり光里の顔は整っていると思う。
 ……そして。
 恋人という言葉に、いつかの記憶が不意に蘇った。
「なぁ」
「ん? なに?」
「その……放課後に僕なんかと買い物に来てさ、大丈夫なのか?」
 花火祭りに行く前。
 光里を誘おうとして向かった屋上での出来事が脳裏に浮かぶ。
 あの日、光里は確かに告白されていた。
 夕日が映える学校の屋上で、聞いたことのない爽やかな声の男子から。
 嬉しそうに答えていた光里の耳馴染みのない声も、覚えている。
「どういうこと?」
 全くわからないといったふうに、彼女はこてんと首を傾げた。
「いや。ほら……」
 今さらながら、言っていいのだろうか。いやでも、ここまで言っちゃったしな。
「前に、告白されてたじゃん? 屋上で。だから、その……彼氏とかいるなら、来ない方がいいんじゃないかな、って……」
 なるようになれ、と僕は勢いで訊いていた。言ってから、また気まずい雰囲気になったらどうするんだという声が脳内で聞こえたが、もう遅い。
 左上の何もない空中に留めていた視線を、恐る恐る光里の方へと向ける。そこには……――
「……ぷっ。アハハハハハッ!」
「へ?」
 お腹を抱えて大爆笑する、光里がいた。
「アハハハッ! そ、そんな神妙な顔で、アハッ、何を言い出すのかと思えば……アハハッ!」
「笑い過ぎだろ」
 言いようのない苛立ちがむくむくと湧き上がる。なんだかそれを自覚したくなくて、僕はまた目を逸らした。その先には、数分前と変わりない青空が広がっている。
「ご、ごめんごめん、アハハハッ! けど、心配してくれたんだよね。ありがとう。でも、断ったから大丈夫だよ。全然ヘーキ」
「え?」
 ゆっくりと流れていく白い雲に視線を這わせる前に、それは瞬く間に彼女の瞳へと吸い込まれた。
「いや、うそだろ。あんなに嬉しそうにしていたのに」
「陽人はどこまで見てたの? のぞき見なんて感心しないなー。でも、うそじゃないよ?」
 軽蔑を指す言葉とは裏腹に、光里はどこか嬉しそうに笑った。その笑顔がやたらと眩しくて、僕は再三見ていた空へと目線を戻す。その色は変わりなく、どこまでも深い青をしていた。
「ふーん。まぁ、ならいいけど」
「なになに? 私がとられちゃったと思った?」
「思うわけないだろ! アホ!」
「あー! アホとはなんですか! アホとは!」
「そのままの意味だ!」
「なにを!」
「なんだよ!」
 だけど。その青はさっきよりもずっと広く、澄んでいる気がした。

 どうでもいい言い合いを繰り広げ、なんだか可笑しくなってひとしきり笑った後。
 僕たちは暑い日差しと怪訝そうな視線に追われるように、ショッピングモールの中へと足を踏み入れ、ひとまず百均の売り場へと来ていた。
 僕たちの目当てである手芸用品はもちろん、ガーデニングや洗濯用品、お菓子、インテリア雑貨など、所狭しととにかくなんでも置いてある。いったいどこの誰がこれを百円や二百円で売ろうと考えたのか。絶対に儲からないだろとは思うものの、そこは普通に儲かっているんだろう。
「ねねっ! これ可愛くない?」
 どこまでも現実的な思考にふけっていると、ぐいっと袖の端を引っ張られた。その勢いのまま、光里が指す方へ視線を移す。
 そこには、色とりどりのシンプルな布生地が壁にかけられていた。赤っぽいタータンチェックに、黄色と白の水玉模様。爽やかな水色のストライプに、今の季節とは真逆のノルディック柄まで。その中でも光里のお気に入りは、薄いブラウンのギンガムチェックみたいだった。
「へぇ、意外だな」
 壁から垂れている布に触ってみる。思っていた以上にすべすべしていた。
「えーそう?」
 僕の真似をしてか、彼女もその表面を軽く撫でる。
「もっとこう、明るめのものが好きなのかと思ってた」
「ふふん、陽人もまだまだだね」
 音符がついてそうな口調で、光里は得意げに笑う。何がまだまだなのかはわからないが、なんだか無性に悔しい。
「ほーう。なら僕はどれが好きなのか当ててみてよ」
 僕の中にある対抗心が燃え始めてしまったようで、思わずそんな言葉を投げかけていた。
「え、これでしょ?」
 しかし彼女は迷うそぶりも見せずに、ある一点を指差す。その先には、荒々しいタッチのドラゴンが描かれた布が。
「おい。僕は中学生か」
「アハハハッ」
 そんなどうでもいいやり取りもしながら、僕たちは順調に頼まれたものを買い物カゴに入れていった。
 そうして必要な材料の三分の二ほどを買い終えた頃。少し休憩しようと、僕たちはショッピングモールの外に併設されたカフェへと腰を落ち着けていた。
「ふぅ。結構買ったな」
 隣の席に置いたパンパンのエコバッグに目をやる。底が抜けないか心配なくらいだ。
「そだね。それにしても、ちゃっかりエコバッグ持ってるのは笑ったな~」
「いいんだよ、別に」
 相槌を打ちつつもしっかりと茶化してくる光里。本当に相変わらずだ。
 人の少なかったショッピングエリアとは異なり、店内はそこそこ混んでいた。パソコンに向かって難しい顔をしているサラリーマンに、大学生と思しき集団、そして僕たちと同じように学校帰りらしい高校生まで。それぞれが思い思いの方法で、このひと時を過ごしている。
「そういえば、学祭の準備ほっぽり出してきちゃったけど、大丈夫かなぁ」
 アイスティーをのんびり吸っていた光里が、思い出したようにスマホを取り出した。
「準備、あんまり進んでないのか?」
「いや、そんなこともないけど。私、学級委員だからな」
「……大丈夫なの?」
「多分?」
 光里は苦笑いを浮かべ、数回タッチやらフリック操作を繰り返す。
「あー……」
 光里の指が、そこでピタリと止まった。
「どした?」
「これ……」
 より深めた苦笑いとともに僕に見せてきたスマホの画面には……
 ≫光里ごめん!
 ≫買い物終わったら一回学校寄って欲しい!
 ≫やらかしちゃいましたー笑
 送信時刻は十分前。クラスチャットに投稿されたそのコメントの下には、「ごめん」を表す手を合わせたスタンプが十種類ほど並んでいた。
「……え」
「よし。あと回るお店は二箇所。さっさと行こ!」
 呆然とする僕の傍ら、早くも光里はすごい勢いでアイスティーをすすっていた。そして飲み終わるや否や、かけていた鞄とエコバッグを引っ掴む。
「あ、おい」
「ほらー、早く行くよ!」
「いやてか、すぐ戻った方がいいんじゃ……」
 荷物は少し多いが、正直残りの買い物は僕ひとりでもできる。あの冗談混じりの文面やコミカルなスタンプたちを見た感じ、逆に緊急性が高そうだし、すぐ学校に行くのが懸命に思えた。
「ううん、大丈夫」
 しかし、光里は首を横に振った。
「途中で、投げ出したくないし!」
 何かを決意するように、光里は言った。
 そんなに中途半端が嫌いなのか。
 光里らしいな、なんて思いつつ。
 僕もエコバッグを肩にかけて、駆け出そう…………とした時だった。
「あ……」
 光里の足が、ピタリと止まった。
 彼女の視線は、目当てのお店があるショッピングモールの中でも、ましてや学校に行くための駅の方でもなく……
 近くに植え替えられた茂みの方へと、向けられていた。
「光里?」
 突然立ち止まった彼女に呼びかける。
「……」
 だけど、返事はない。その瞳は、まるで縫い止められたかのように、手入れの行き届いた茂みへと向けられている。
「おい、光里?」
「…………メ」
 もう一度名前を呼ぶと、微かに彼女の口が動いた。
「え?」
「雀が……死んでる」
 力のない動作で、彼女は一点を指差した。その先には、植え込みの隙間に横たわる一羽の雀が倒れていた。
 光里はゆっくりと腕を下ろし、代わりに止めていた歩みを再開した。
 だけど。向かう先は、ショッピングモールとは全くの逆方向。店の敷地と外を隔てるようにして植えられた草花へと歩を進めている。その足取りはどこかふらついていて、明らかにいつもの光里ではなかった。
「お、おいっ!」
 僕の制止する声も無視し、光里はさらに雀へと近づいていく。そしてすぐそばまで来ると、ゆっくりとしゃがみこんだ。
「……まだ、生きてる」
 か細い声が聞こえた。また、これまで聞いたことのない声だった。堪らず僕は小走りで彼女の元まで行き、その肩を掴んだ。
「おい、光里。お前顔色悪いぞ? 大丈夫か?」
「……うん。今の私なら、大丈夫だよ」
 こちらを振り返ることなく、光里は答えた。どこかひっかかる言い方。本当にどうしたんだ。
「それより、雀……まだ生きてたよ」
 その声に促され、彼女と同じように植え込みの隙間に目を向けた。青々と茂る、名前も知らない草木の列の下方。日陰となった数センチ程度の隙間に、弱々しく羽を震わせながら小鳥が横たわっていた。
「みたい、だな」
「どうしてこんなところに……」
 光里が徐に右手を伸ばした、その時。
 ――バササッ!
 小刻みに震えていた羽が、一際大きくはためいた。土埃を巻き上げ、雀はその場から飛び立とうと懸命に羽を動かす。予想外の力強い動きに一瞬安堵しかけた僕だったが、一向に浮かぶ気配はなく……
「だ、ダメだよっ!」
 小さく叫びながら、光里はさらに手を伸ばした。しかし、雀はその白い指先から必死に離れようと羽を動かし続ける。
「おい。多分、怖がってるんだ。手、一回引っ込めろって」
「あ……」
 僕の声に、彼女はサッと手を引いた。すると、それに呼応するように雀は羽の動きを止め、再び地面に身体をつける。
「そっとしておいた方がいい。僕たちじゃ、どうにもできないよ」
 雀は特に目立った外傷もなく、単純に弱っているみたいだった。野生の動物を病院に連れて行くわけにもいかず、結局僕たちにできることはない。
「……でも、私は……」
 光里は、先ほどまで伸ばしていた手を胸の前で抱えていた。何かを押さえつけるように、左手で右手を固く握りしめている。
「光里?」
「……」
 何も、答えない。彼女はただ茫然と、力なく横たわる雀を眺めている。
 本当に、どうしたのか。
 彼女は、光里は、いったい何をそんなに……
 そこで、はたと気がついた。ここしばらく見ていなかった、光里の不思議な力を。
 もしかすると、光里は死にかけた生き物にも生命力を戻すことができるのではないか。
「なぁ光里、もしかして……」
「陽人は、どう思う?」
 頭に浮かんだことの真偽を訊こうとした時、彼女が唐突に言葉を発した。
「え?」
 反射的に、訊き返す。
「陽人はさ、人を……生き物を生き返らせることって、いいことだと思う?」
「え」
 また、反射的に声が漏れた。
 だけど。今度は、驚愕だった。
「生き物は……死があるからこそ、こうして頑張って生きようとする。少しでも死に抗って、今を懸命に生きようとするの。なのに……」
 視線を交わすことなく、彼女は言葉を吐いた。それはとてもか細く、これまで聞いたことがないほど、弱々しかった。
「ひか、り……」
 僕は、すぐには答えられなかった。
 初めて、生き返った人のニュースを見た時。女優の一ノ瀬優子の蘇生についての記事を読んだ時、僕は思った。
 いつか必ず死ぬからこそ、生きることに責任が出てくる、と。
 死んだら絶対生き返らないからこそ、死ぬことに意味が出てくるのだと――。
 その考えは、今も変わらない。だけど……
 今の彼女に、そんなことを言う気は微塵も起きなかった。
「……ごめん。あなたに言うことじゃ、ないよね…………行こっか」
 十分すぎる間を置いてから、彼女はゆっくりと振り返った。
 その顔には、どこまでも完璧な、眩しい笑顔があった。
「光里……あのさ」
 何も思いついていないのに、口だけが勝手に開く。どうしてか、自分でもわからない。
「ごめん。今は、何も訊かないで」
 表情と合っていない声色で、彼女はそれだけを言った。
 それから僕たちはほとんど話すことなく買い物を終え、学校の最寄り駅で別れた。

 光里と買い物をしてから、一週間が経った。
 あれからの彼女は、驚くほどいつも通りだった。
「おっはよー!」
 生徒玄関をくぐるなり、バシッと僕の肩を叩いてくる。その絶妙な力加減も、一際明るい声色も、何もかもがこれまで通り。
「だから毎朝叩くなって。そんなに叩かれると僕の肩が凹む」
 だから僕もいつも通り軽口を返して、
「じゃあ凹む前に挨拶してよー。ずっとずっと待ち続けてるのにー」
 彼女もそれに答えてくる。
 本当に、いつも通り。「また朝から……」と呆れ顔で見てくる笹原も変わらない。
 そんな日々が一週間も経ち、あの、僕が見たことのない光里は、影も形もなくなっていた。
 光里には、僕にはない不思議な力がある。これは、変えようのない事実だろう。この目で見たから間違いない。もしかすると、その力のせいで、何か過去に辛い思いをしたのかもしれない。そしてそれが、あの時の状況とひどく重なっていたのかもしれない。
 でも、だとしたら。
 辛い過去と結びつくような、そんな力だとしたら……
 彼女はなぜ、僕に生き返らせたい人なんて、訊いてきたんだろう。
「ほーら、行くよー!」
 ペシッと頭を軽くはたかれる。
 夏の陽射しのような、変わらない眩しさを振り撒く彼女を眺めながら、ぼんやりと僕は考えていた。

 夏が本格化し、蒸し暑さが漂う昼休み。
 いつものように笹原や光里と弁当を食べ終わると、光里は文化祭の準備があるとかでそそくさと教室を後にした。
 文化祭まで残り二週間強。準備も段々と忙しくなり始め、担当によっては昼休みも少しずつ仕事をするようになってきていた。
「陽人はいいのか?」
 下敷きでパタパタと顔をあおぎつつ、笹原はチラリと僕に視線を向けてきた。
「あぁ。今日の昼は打ち合わせないからな。明日はなんかあるらしいけど」
 折衝担当は、他のクラスとの物品の調整も行わないといけない。その関係で、時々昼休みに会議が行われていた。
「折衝も大変だな〜」
「全くだよ。代わらないか?」
「いんや、遠慮しとく」
「だよな」
 蝉時雨が遠くから響く中、そんな雑談を続けていると、不意に笹原があおぐ手をピタリと止めた。
「そういえばさ」
「ん?」
「俺の姉さんが、最近やけにご機嫌なんだよ」
「お、おう?」
 突然出てきた美咲さんの話題に、どきりと心臓が跳ねた。
「なんか知らない?」
 再びパタパタと下敷きを動かしながら訊いてくる笹原。そこには疑いの色も、何かを伺うような素振りもない。
 これは別に知ってるわけじゃなさそうだな。
 彼の様子に安堵しつつも、墓穴を掘ってはサプライズがパーだ。平静を装うためパックジュースを一口飲んでから、慎重に言葉を選ぶ。
「んー……てか、知ってるわけないだろ。僕が笹原の姉さんに会ったのはこの前が初めてなんだぞ?」
「まぁ、そりゃそうだよな」
 僕の言葉に納得したのか、彼はそれだけ言うと体重を後ろへと傾けた。その動きに合わせて、椅子の前足がふわりと浮く。
「ご機嫌って、どんな感じなんだ?」
「んー、なんかさ」
 話しながら彼は器用にバランスを取り、シーソーみたいに椅子を揺らす。
「一ヶ月前から修学旅行を楽しみにしてる中学生、みたいな」
「なんだそりゃ」
 笹原の言葉に、僕は危うく吹き出しそうになった。
 美咲さん、態度に出過ぎだろ。
 笹原の誕生日サプライズに向けてあれこれと準備しつつ、鼻歌混じりに待つ美咲さんが容易に想像できた。
「まぁなんか、楽しみなことでもあるんじゃねーの」
「んーまぁそうだなー」
 どうにか吹き出すのを堪えた僕の返事に、笹原も適当に相槌を返してくる。
 キーンコーン、カーンコーン。
 そこで、昼休み終了の予鈴がいつものように校内に響き渡った。
「そろそろ行くか。次、移動教室だし」
「あぁ、そうだな」
 どちらともなく椅子から立つと、必要な教材を小脇に教室の入口へ向かう。
「あんまり、無理しないといいんだけどな」
 彼が何気なく放ったこの時の言葉を、僕はもう少ししっかりと、聞いておくべきだったのかもしれない。

 放課後。僕はまた美咲さんからメッセージで呼び出しをくらい、病院へと足を運んでいた。
「美咲さん、人をパシリにしないでください」
 ベッドの傍にあるサイドボードの上に、頼まれていたお菓子の袋を雑に置く。
「アハハ、ごめんごめん。ありがと〜」
 美咲さんはプレゼント作りの手を止めて謝ると、早速バリバリとお菓子の包みを開いていた。本当にわかってるのか、この人。
「こぼさないでくださいね。僕は光里と違って面倒見は良くないので」
「しないって〜。それに、君も十分、面倒見いいと思うけどね〜」
 袋からつまみ上げたポテチを、彼女は見せつけるようにヒラヒラと振った。そしてそのまま、口の中へ。
「……別に。ただ、気が向いただけです」
 居心地の悪い視線から逃げるように、足元に置いた鞄から飲み物を取り出す。そしてそのまま、乾いてもいない喉にお茶をグビグビ流し込んだ。
 ここ最近、美咲さんと接する機会が増えてわかったこと。
 彼女は、美咲さんは……姉に似ている。
 自分勝手でわがままで、とにかく自由奔放。
 でも、どこか憎めなくて、優しくて、周りを振り回しつつも笑顔にしていて。
 僕はきっと、美咲さんの中に姉を見てしまっている。だから……
「ふーん、そっか〜。まぁ、なんでもいいんだけどね〜」
 美咲さんは特に気にした様子もなく、香ばしい匂いを振り撒きながらお菓子を食べ続けている。少し開いた窓から生温かい風が吹き込み、彼女の髪をしなやかに揺らした。子供っぽい動作に、大人っぽい雰囲気。なんとも不釣り合いだ。
「そんなことより、美咲さん気をつけてくださいね。あいつ、『姉さんが変だ』って気にしてましたよ?」
 これ以上、この話題は続けたくなかったので、僕は学校での出来事を持ち出した。
「えっ⁉ うそ〜! バレたの?」
 すると、びっくりしたように彼女は僕の方を見た。その拍子に手からポテチがこぼれ落ちる。
「いや、バレてはいませんけど、今のままだと時間の問題のような気も……」
 主にあなたの態度のせいで、とまでは言わない。さすがにその辺りは自分でもわかっているだろうし……
「ぐぬぬ〜……さすが私の弟。一切素振りは見せていないのに、その慧眼……賞賛に値する」
 お腹あたりに転がっている食べ損ねたポテチを拾い食いしつつ、彼女は唸った。
 あ、ダメだこりゃ。
 僕の中で、サプライズを成功させるために一度は釘を刺さねばという僅かばかりの思いやりと、いくばくかの妙な悪戯心が芽生えた。
「いや、美咲さんのわかりやすい態度が問題だと思います」
「え!」
「すごくご機嫌だって言ってましたよ」
「えぇ⁉︎」
「一ヶ月前から修学旅行を楽しみにしてる中学生だとかなんとか……」
「そ、それ以上言わないで〜」
 矢継ぎ早に放った言葉に、美咲さんはみるみる顔を赤くさせて布団にうずくまってしまった。少しやり過ぎたか。
「ま、まぁ……態度に出さないようにしていきましょう!」
「ぜ、善処します〜……」
 明らかにトーンの落ちた声が、モゴモゴと聞こえてきた。その打ちひしがれた様子には、ただただ苦笑するしかなくて。
 でもその声は、やっぱりどこか上擦っているようで。
 本当に笹原のことを想っているんだな、というのが伝わってきて。
 少しだけ、羨ましかった。

 歓談混じりのお菓子タイムが終わると、美咲さんはプレゼント作りを再開した。
 今作っているのは、サプライズボックスの仕掛けのひとつ。蓋を開けた時に、最初に目に飛び込んでくる中心部分だ。
「すご……」
 そのあまりに素早く慣れた手つきに、思わず驚嘆の声が漏れた。等間隔に付けられた印に沿って、小さく切った台紙をミリ単位でずらして貼り合わせている。さらによくよく見ると、台紙には用途不明の非常に小さな切れ込みや折り跡もあり、すぐに僕如き不器用の出る幕はないと悟った。
「ふふっ、ありがと〜。手先の器用さだけは自信あるのよ〜」
「そ、そうなんですね」
 そんな手際の良さとは対照的に、美咲さんの声はどこまでものんびりとしている。本当につかみどころのない人だ。
 他にやることもなく、本来ならこの辺でお暇して学校に戻り、文化祭の準備をするのがいいんだろう。
 でも、お菓子タイムが終わった時に、「まだもうちょっといるよね〜?」と嬉しそうに言われたばかりで、さすがに「そろそろ帰ります」とは言い出しにくかった。手持ち無沙汰になって何となく視線を彷徨わせていると、ふと、少し開いたサイドボードの引き出しに目が留まった。
「これ……」
 そこにあったのは、プリクラより一回りほど大きいミニ写真。空気で膨らませたおもちゃのプールで笑い合う男の子と女の子が写っている。
「あぁ、それ? 小さい頃の、私と幹也だよ〜」
 美咲さんは作業の手を止め、引き出しからその写真を取り出した。
「このサプライズボックスに貼る写真なんだ〜。親に頼んで、サイズも調整してもらったの」
「そうなんですか」
 写真を眺める彼女の眼差しは優しかった。きっと当時のことを思い出しているんだろう。
「あの頃は楽しかったな〜。一緒にお風呂とかも入ったりしてさ〜。まぁ、幹也ももうすっかり大きくなって、今じゃ入ってくれないけどね」
「いや、当たり前でしょ」
 この歳になってまで一緒に入っていたら、それこそいろいろと問題がある。
「ん〜まぁ、そうなんだけどさ〜」
 彼女はそっと写真を撫でる。楽しかった昔を懐かしむように。
「やっぱりちょっと、寂しいっていうか……」
「美咲さん?」
 彼女の声色が不意に歪んだ気がして、思わず名前を呼ぶ。でも、美咲さんは小さく首を横に振ると、「ちょっと感傷的になっちゃった〜」といつもの調子で笑いかけてきた。
 窓の外では、いつの間にか広がっていた灰色の雲から、疎らに雨が降り始めていた。

「ところで、光里ちゃんとはどうなの〜?」
「へ?」
 窓を閉めようと立ったところに、唐突に美咲さんの上擦った声が飛び込んできた。
「隠さなくたっていいよ〜。光里ちゃん、可愛いもんね〜」
 横目で見ると、目尻は少し垂れて口角は上がっている。これは、完全に面白がっている時の表情だ。
「あのですね。僕と光里はそんなんじゃありませんよ」
 視線を戻し、ガチャリと窓の鍵を閉める。外は結構な本降りになっていた。
「え〜。うそだ〜」
「うそじゃありません。ただ隣のクラスってだけですよ」
 確かに最初会った頃に比べると仲良くなっていると思うし、あの喧嘩というか疎遠になった一件以来、距離が近くなったのも事実だ。でも恋愛対象かと言われれば、それは違う気がする。
「ふ~ん?」
 明らかに納得のいっていない声が、僕の背中を微かに刺激する。
「ただ隣のクラスってだけ……ね」
「なんですか」
 意味深なつぶやきの連続に、僕は堪らず振り向いた。
「いや、なんでもないよ~。ただ……」
 台紙に切り込みを入れる作業を再開しつつ、彼女は躊躇いがちに口を開いた。
「伝えられない後悔だけは、しないようにね」
 また、少し重みのある声が、僕の鼓膜を震わせた。
「え?」
「君を見てるとさ、なんか昔の私を思い出すんだよね〜」
 ゆっくりな口調に対し、相変わらず切り込みを入れるスピードが速い。でも、その目線は台紙の、その先を見ているようだった。
「……私、学生の頃は結構頑固でさ。意固地になって、大切な人に気持ちを伝えられなかったことがあるの」
「それは、告白……とかですか?」
「まぁ、そんなところ」
 恥ずかしそうに笑いながら、美咲さんは肩をすくめる。
 恋愛話。いつもなら、興味がないと言って打ち切っているところだが、不思議とそんな気は起きなかった。
「喧嘩、しちゃってさ。好きなのに、結局そのまま言えずに……ここまで来ちゃったんだ」
 そこでまた彼女は手を止めた。視線を徐に持ち上げると、窓を叩く風雨の出所へ向ける。
「その……その人とは……?」
「それ以来、会ってないよ」
 それは。やっぱりどこか、寂しそうで。
「だからさ。君もつまらない意地とか張ってないで、気持ちは伝えられる時にしっかり伝えておきなよ〜」
 そしてやっぱり……優しかった。
「は、はい……」
 雨音だけが響く病室で、美咲さんが醸し出す雰囲気にあてられ、僕は頷くことしかできなかった。だから……
「……ぷっ。アハハッ! や〜っぱり! やっぱり光里ちゃんのこと好きなんだ〜!」
「な、な、なっ⁉︎」
 こんなふうに態度を百八十度変えるなんて、思ってもみなかった。
「ほらほら、お姉さんに話してよ〜。この前のショッピングモールで、何があったかとかさ〜」
「美咲さん!」
 悪戯っぽい微笑みを浮かべ、あれやこれやと追求してくる彼女の勢いに比例するように、激しさを増した雨風が頻りに窓を揺らしていた。

 翌日の朝。
 登校するには少し早く、人影も疎らな生徒玄関前。
 雨除けの屋根を支える石柱の前で、今度は光里に呼び出されていた。
「私たちのクラスはこの辺りまで席とか置くから、陽人たちのクラスはこの辺りからテント置いてくれると助かる!」
「了解」
 まぁ、ただの打ち合わせなんだけど。
 でも。昨日美咲さんにあんなことを言われると、否が応でも多少なり意識してしまう。
 身振り手振りに合わせて揺れる艶やかな黒髪や、生き生きと一生懸命に説明する彼女の表情。
 朝から照り付ける眩しい陽射しに負けない笑顔に、ふとした拍子に香る甘い匂い。
「どしたの?」
「いや、べつに」
 やっぱり、美咲さんに今度改めて文句を言っておかねば。
 不思議そうにこちらを見つめてくる光里から目を背け、僕は密かにそんなことを決意する。
「あ、そういえば、さっき美咲さんからメッセージが来たよ!」
「えっ⁉︎」
 タイミング良くその名前が出て、どきりと心臓が跳ねた。
「え、なに、どしたの?」
「い、いや……と、ところで、どんなメッセージが来たんだ?」
 油断も隙もないズボラなお姉さんに内心舌打ちを返しつつ、心の動揺を気取られないよう、僕は慌てて話題を逸らしにかかる。
「え? えと……なんかね、サプライズボックスが半分ほど完成したみたい」
 納得のいかない顔をしつつも、光里は特に追求することなくスマホの画面を見せてくれた。ほっと安堵する……間もなく、今度は画面の奥に釘付けになる。
「え、これ……マジで?」
「ね、すごいよね! 私もさっき見た時はびっくりして思わず一人で声あげちゃった」
 恥ずかしそうに光里は笑うが、無理もない。画面に写し出されたサプライズボックスは、想像以上の出来だった。
 一見すると、白い箱にいくつかのイラストが施されたシンプルな箱。何枚か角度を変えた写真が載っているが、どれも大して変わらない。
 ところが。蓋を開けた写真は、その様相が一瞬で変わっていた。
 まず目を引くのは、箱の中央部分。びっくり箱のようにバネを使って飛び出す細工が施されており、実に彼女らしい。でも、その先端にあるのは舌を出した顔ではなく、幼い頃の笹原と美咲さんを撮ったピースサインのツーショット。お手製のカラフルなバネの側面にも、キャンプや海、誕生日、旅行と、たくさんの写真が貼られている。そして四つある側面部のうち二つにも、ミニアルバムやらパラパラ漫画やらと仕掛けがなされていた。
「美咲さん、すごいな」
「うん。ほんと尊敬しちゃう」
「それと、スピードもすごい。昨日はまだパーツ作ってたのに……」
 口に出してから、しまったと思った。
「え? 昨日?」
 案の定、光里は訝しげな表情を浮かべて僕を見ている。
「昨日、美咲さんのところに行ったの?」
「あ、あぁ……まぁ」
 ちょっと変なことを言われただけで、別に後ろめたいことは何もない。なのに、僕の声は若干上擦ってしまった。
「何をそんなに慌ててるの?」
 彼女の綺麗な瞳に光が宿る。まるで恋バナの種を見つけたかのような、そんな眼光が……
「おい待て。何を勘違いしてる」
「美咲さんと何かあったの? ねっ! どうなのっ?」
 嬉々とした表情で迫ってくる光里。もはや打ち合わせはそっちのけ。後ずさる僕に、彼女はグイグイと距離を縮めてくる。
「何もない」
「うそだー!」
 何度鼻孔に触れても慣れない独特の香りに、
 ――あの傷って、一組の?
 ――だろ。それと、二組の光里さんか。
 ――ったく、なんで……
 再三晒された、好奇と嫉妬と羨望が入り混じった周囲の視線。
 いつもなら、苛立ちと諦めが渦巻いている心中が、
「教えてよー! いいじゃん、私と陽人の仲なんだし!」
「そんな親しい仲になったつもりはない!」
 照れくささと、高揚らしき感情に満ちていることに、
「けちー」
「ほら、もう予鈴鳴るし行くぞ」
 今さらながら、僕は驚いていた。

 どうにかこうにか光里の追求を逃れると、登校してきた時間の割にはいつもより遅く教室に入った。
「おーっす」
 席に着くなり、笹原がいつもの調子で絡んでくる。しかし、その表情は心なしかニヤけており、次に発する言葉が嫌でもわかった。
「なんにもないぞ?」
「まだ何も言ってねーよ」
「顔に書いてあるんだよ」
 それだけ言うと、我慢しきれなくなったのか、笹原はさらに悪戯っぽい笑みを深めた。
「朝っぱらからお熱いこって」
「だから、そんなんじゃないって」
 光里の次は笹原か。どうしてこうも僕の周りには好奇心旺盛な人ばかりがいるのか。
「んじゃ、何をそんなに盛り上がってたんだよ?」
「え? いや、それは……」
 彼の言葉に、つい視線を逸らす。
 さすがに、お前のプレゼントのことだとは言えない。どう返答したものかと頭を巡らせるため、一瞬でも口籠ったのがいけなかった。
「ほらー! やっぱりそうじゃん!」
「だぁーもう! だから違うって!」
 彼の顔からはこれでもかと興味が溢れていて、弁明を受け入れるような余地は微塵もない。
「早く吐いて、楽になっちまいな」
 挙げ句の果てに、変な刑事のモノマネまでする始末。そろそろ予鈴が鳴る時間だが、一向にその気配もない。
「はぁー、マジで何もないって」
 本当にどうしたものか。ここは敢えて受け入れてサプライズに気づかれないようにするか。あーでも、それだと……
「ふ〜ん? お前の顔はとてもそうは見えなかったけどな?」
 妙な気恥ずかしさが浮かんだのと、彼の変に真面目なトーンの言葉が飛んできたのは、ほぼ同時だった。
「は? おい、どういう意味だ?」
「いんや、なんでも~」
 その言葉を最後に、待ち焦がれていたはずの予鈴が鳴り響いた。ガタガタとみんなが自分の席に着き始め、笹原も軽く手を振って戻っていく。
「なんなんだよ」
 僕の心には、何とも言えない靄だけが漂っていた。

 それから、なんとなく身の入らない授業を受け、昼休みに笹原を問い質すものらりくらりとかわされ、気がつけば調理の予行練習の時間になっていた。
「調理かー。俺苦手なんよねー」
 家庭室への道すがら、事前に持ってくるよういわれたエプロンをくるくる振り回しながら、笹原がぼやいた。
「まぁ、文化祭まであと少し、らしいからな」
 文化祭は、七月最後の土日だ。つまりは、あと二週間ちょっと。この時期になると、僕たちの高校では文化祭の模擬店で出す料理を試しに一度作り、試食することになっていた。個人的には、まだ二週間もあるのにと言いたいところだが。
「まぁ、しゃーねーか。それに、隣のクラスと合同だからな」
 ニヤリと笹原が笑う。ったく、またこいつは。
 そう。面倒なことに、試し作りはクラス数の関係もあって二クラス合同で行われるのだ。
 当日家庭室を使うのは、調理担当に割り当てられた生徒で、人数としてはちょうどクラス全体の半分くらい。今回の試し作りも当日調理をする人だけなので、授業との兼ね合いや日数の関係上、必然的に二クラスが合同になる。つまりは……光里のクラスと一緒なのだ。
「なんでよりにもよって……」
 しかも、光里も当日の担当は調理らしい。本当にタイミングというものは、悪い時はとことん悪い。まるで、何か別の力が働いているみたいだ。
「んなこと言って、本当は楽しみなんじゃないか?」
「はぁ?」
 どうにも、今日のこいつはやたらとしつこい。
 諦念を抱きつつも、文句のひとつでも言おうと口を開くと、ちょうど家庭室に着いた。中では既に、エプロン姿のクラスメイトが何人かいて、楽しそうに談笑している。そして、
「りんちゃーん! その材料はこっちだよー!」
 薄い茶色の、ギンガムチェックのエプロンと三角巾に身を包み、明るく笑う光里が見えた。
「あの柄……」
 前に、サプライズボックスを買いに行ったショッピングモールでの会話を思い出す。
 ――ねねっ! これ可愛くない?
 壁にかけられていたカラフルな布を指差して、無邪気にはしゃいでいたっけ。
 ――ふふん、陽人もまだまだだね
 僕が意外そうにしていると、得意そうに笑ってもいたな。何がそんなに嬉しいのか。
 本当に、まったく……――
「おい? 陽人? 早く着替えないとチャイム鳴るぞ?」
「あ、あぁ。今行く」
 どこかむずがゆくて、感じたことのない温かな気持ちがひっそりと心の中に満ちていくのを、僕は感じていた。

 慣れないたい焼き作りを終えた放課後。僕たちはせっせと後片付けに勤しんでいた。
「くっそー。たい焼きって意外に難しいのな」
 皿を洗いながら、悔しそうに笹原がうめく。
「そうか? 家でやるような小さいやつよりも焼きやすかったけど」
 彼が洗った皿を拭きつつ、僕はつい数十分前のことを思い返す。
 使ったたい焼き器は、当たり前だが家庭用のものではなく、業務用。試し作りは当日の練習も兼ねているので、生地担当も含めて調理班全員が一度は焼くことになった。
 そして、さすがは業務用のたい焼き器だった。家庭用のたい焼き器よりも大きく、火力も強いのでしっかりと焼ける。右に左にと、ひっくり返す時なんかは少し楽しいくらいだった。
 あんまり難しい要素はなかった気もするが、笹原はとんでもないというふうに首を振った。
「焼きやすさはな。でもあんこをはみ出さないようにするには最初の生地の入れ方が重要だし、クリームとかあんこより難しいし……」
「こ、こだわってるんだな」
 まるでたい焼き奉行のような語り口調に、思わず苦笑する。たい焼き、ましてや業務用のもので焼いたことなんてないだろうに。
「まぁな。姉さんも呼びたいし、その……良いやつ食べさせたいじゃんか」
 朝の仕返しにちょっとからかってやろうか、なんて思っていると、彼は唐突にそんなことを言った。こいつ……
「……ははっ、やっぱ姉弟だな」
「え? なんて?」
「なんでもねーよ」
 もはやいじる空気でもなく、僕は皿拭きを再開した。
 いつもはあれやこれやと言い合いをしては、どうにも憎たらしいことばかり。でも、心の底では大切に思っていて、何かあれば助けたくて、特別な日には喜んでもらいたくて。本当に懐かしくて……。まったく、羨ましい限りだ。
「へぇ〜、お姉さん想いだね!」
「うぇっ⁉︎」
「へっ⁉︎」
 柄にもなく感慨に浸っていると、不意に明るい声が耳元で聞こえた。反射的に振り返ると、そこにはエプロン姿の光里が、笑顔を浮かべて立っていた。
「ども! 二人も後片付け?」
「そ、そうだけど」
 あーびっくりした。皿落とさなくて良かった。てか、絶対今のわざとだろ。
「ねぇ……今の俺の話、聞いてた?」
 呆れつつも心を落ち着けた僕とは違い、笹原の顔はさっきよりも数段赤く、引きつっている。しかし、光里は気にするふうもなくパッと目を輝かせて大きく頷いた。
「うん、もちろん! さすが笹原くん、優しいね!」
「わ、わ、忘れてくれーー!」
 笹原はさらに耳まで赤くすると、後で捨てるつもりだったゴミを引っ掴んで一目散に家庭室を飛び出していった。
「……私、何か変なこと言った?」
「姉弟がいればわかる」
 彼女に悪気はないんだろう。でも、シスコンとか思われたくないし、何より人に指摘されるととにかく恥ずかしいのだ。
「そ、そうなんだ……後で謝っておかないと」
「いやそこまでする必要はない」
「へ?」
「まぁ、難しいんだよ。それより、何か用があったんじゃないのか?」
 とりあえず、洗った皿まで拭き終わってから、僕は光里に向き直った。すると、今度は光里が驚いたように目を丸くした。
「え、なんでわかったの?」
「え、いや、なんとなく?」
 言われて僕もハッとする。そういえば、なんでわかったんだろう。
「ふふっ。なんでわかったのー?」
「お前は、また……!」
 笹原に向けたのと同じ笑顔に、次は僕の番かと身構えた、その時だった。
「――天之原! ちょっといいか?」
 聞いたことのある声が、家庭室に響いた。張りのある、爽やかな声。この声は、確か……
「え? うん、わかった。それじゃあ、また後でね!」
「あ、ああ……」
 光里は僕に軽く手を振ると、声をかけた男子の元へ走っていった。そしてそのまま二言三言話すと、徐に家庭室を出て行く。
「そうか。あの時の……」
 パタンと閉まった家庭室のドアを、呆然と見つめる。
 僕は、あの夕暮れ時の屋上での出来事を、思い出していた。

 いけないことだとはわかっていた。
 でも。気がつくと、足は勝手に動いていた。
 僕は皿を拭いていたタオルを机に放り投げると、足早に家庭室を出た。家庭室前の廊下には、午後の日差しがさんさんと降り注いでおり、数人の生徒が放課後の歓談で盛り上がっている。
「光里たちは……」
 視線を右に左にと彷徨わせると、遠くの角に消えていく二つの人影が見えた。ごくりと唾をひとつ飲み、小さな覚悟を決めてから、早足でその影が消えた角に向かう。
 何をやってるんだ、僕は。
 足を動かしながら、自分の心を問い質してみるも答えは返ってこない。いや、もしかしたらもうわかっているのかもしれない。自分の、気持ちに……――
「ねぇ、話って何?」
 小さく響いた声に、僕は足を止めた。この先の角を曲がった、階段の踊り場からだった。
「その、この前言ったことなんだけど……」
 家庭室に響いた声よりも、いくぶんか張りのない声。緊張や恥ずかしさ、照れくささが混ざったような、そんな声だった。
「この前?」
「うん。俺さ……」
 そこで、スッと息を込める空気が伝わってきた。離れているのに、やたらと明確かつ鮮明に。
「やっぱり、天之原のこと好きだ」
 今度は、淀みのない真っ直ぐな声が、僕の鼓膜を震わせた。
「明るくて素直で、テキパキと割となんでもこなしているけど、所々抜けてるところがあって」
 さっきまでの緊張や自信のなさはすっかり消え、
「そんなところも可愛いな、なんて思っちゃってさ……気がつくと目で追ってしまってるんだ」
 想いの芯が通っているように感じた。
「なんか、こう……上手く言葉にできないけど、一度フラれたくらいじゃ諦められないんだ。諦めたく、ないんだ……」
 この、彼の想いに光里は……――
「だから、もう一度考えてほしい」
 その言葉を境に、沈黙が流れた。
 全く関係のない僕の心臓も、なぜかドクドクといつもより脈打っている。
 光里は、なんて答えるんだろう。
 前は断ったと言っていたけど、今回はどうなんだろう。
 ぐるぐると思考が渦巻き、手にはじんわりと汗が滲んだ。
 おそらくは、数秒か数十秒程度の沈黙。その間、驚くほどあれこれと、思考が浮かんでは消え、浮かんでは消えていった。
 最終的には、どうしてこんなところで立ち聞きしているのか、という考えに辿り着き、僕はそっと踵を返した。
「ありがとう。でも、やっぱり……付き合えないよ」
 聞き慣れないトーンの、聞き馴染みのある声に、僕の足は再び動きを止めた。向きを変えていた足先が、ゆっくりと元の位置に戻っていく。
「どうして?」
「……どうしても」
「ほかに好きな人でもいるのか?」
「秘密」
 いくつかのやりとりが交わされた後、沈黙がまたその場を支配した。離れていてもわかる空気の重さと気まずさが肌を刺す。もう手遅れかもしれないが、さすがに離れないと……
「――顔にやけどの痕がある、あいつか?」
 ピシッと、体が硬直した。と同時に、手や足が鉛のように重くなり、動かなくなる。
 顔にやけどの痕がある……。 
 もしかして……いや、もしかしなくても、僕のことだ。
「そんな言い方やめて」
 そこで、鋭い声が響いた。別に向き合っているわけでもないのに、びくりと肩が震える。
「あ、ごめん……えと……」
「陽人のことだよね? 私がさっきまで話してた」
 刺すような光里の声に、それっきり男子生徒の声は聞こえなくなった。
 三度目の沈黙が、静まり返った廊下に立ち込める。
 それは、今までで一番長い沈黙だった。外から差し込む陽射しは随分と弱まっており、夏の日は長いと言えど、辺りにはもうすっかり夕方の様相が満ちて始めていた。
「陽人は…………」
 今度は、光里が沈黙を解いた。
 でもそれは、今までで一番か細い声で、
「陽人は……関係ないよ」
 それは、今までで一番、はっきりと……僕の耳の奥に残った声だった。

 階段での一件は、結局そのまま終わった。光里の言葉を最後に、男子の方から去っていったみたいだった。光里はしばらく立ち尽くしていたようだが、その後のことは僕も知らない。
 ――陽人は……関係ないよ
 彼女の言葉が耳の奥で残響して、それ以上、静寂に満ちたあの場所にいたくなかったから。
 なぜか、心の奥底が冷たかった。ズキズキと胸のあたりが痛んだ。
 さっきまでの鼓動のせいか? 聞いているのがバレないか、結構緊張していたからな。
 そんなふうに考え、深呼吸を二度、三度と繰り返してみるも、全く癒える気配がない。
「はぁ……はぁ……」
 気づかれないようにそっと歩いていたはずなのに、いつの間にか僕は走っていた。校内練習をしていた運動部とすれ違い、ぶつかりそうになる。怒号のような声が聞こえた気がするけど、足は止めない。止まらない。止まって、くれない。
「はぁ、はぁ……」
 気がつくと、僕は生徒玄関前にいた。青色が随分と薄くなった空の下、名前も知らない虫たちが鳴いていた。陽の光は弱く、風も夏にしては冷たい。
「はぁ、はぁ……」
 普段、たいして走りもしないからだろう。足が、腕が、軋んでいるような気がする。
 喉も、肺も痛い。深く息を吸うと、唾液が絡んでひどくむせた。
 でも……やっぱり一番痛いのは、胸だった。
「はぁ……くそ」
 近くに立っている石柱へと背中を預ける。夏なのに、思いの外ひんやりとしていた。
「僕は……」
 でも。背中に向いていた意識は、すぐに過去へと還る。
 朝。光里と待ち合わせて、ふざけながら打ち合わせをしていた数時間前に。
「光里を……――」
 口の中で転がした想いが、心の中で形を帯びる。
 僕はただ、ひたすらに、胸の痛みを我慢するしかなかった。

 蝉時雨が、澄んだ青空に響き渡っていた。太陽は容赦なく午後の日差しを校庭に浴びせ、南風は嫌がらせのごとく砂埃を舞い上がらせている。
「夏だなー」
 前方で、ピッと短い笛が鳴った。それを合図に、目の前の背中にかけていた手の力を緩める。そして今度は、その向きを右から左へ。
「七月も中盤だからな」
 もう一度鳴った笛に合わせて、再び手に力を込め背中を倒していく。すると、どこかでポキリと小さな音が弾けた。
「いってーな! 相変わらず力強すぎるんだよ!」
「いやだから、笹原の体が硬すぎるんだって」
「くっ……校内でも有数の人気女子と親密なご関係なんだから、少しは俺に優しくしろーー!」
「はぁ? お前はいったい何を……」
 その時、ピーーーーッと一際長い笛の音が鳴り響いた。
「そこ、まだ授業中だぞ。柔軟体操を終えるまでが体育だ」
 家に帰るまでが遠足、に因んだような言葉で注意され、僕らは一先ず謝る。先生は満足そうに頷くと、高らかな笛の音とともに柔軟体操を再開した。もちろん、それに伴って僕らの会話も密やかに続くわけだが。
「んで? 最近どうなんよ?」
「なにが?」
「とぼけんなよ。近頃、天之原さんとよく一緒に出かけてんだろ?」
 笹原の言葉に、どきりと心臓が跳ねた。でも、次の瞬間にはこの前の出来事が脳裏をよぎり、それはすぐに落ち着いていく。
「……光里とは、何もないよ」
「は? マジ?」
「ないって」
 言葉の終わり際、ぐいっと手に込める力を強めた。「ぬあっ!」という小さな悲鳴が聞こえた気がしたが、力は緩めない。その先を、追求されないために。
 そう。僕と光里は何もないし、何かあるはずもない。光里はただの友達で、隣のクラスの人気者で、デタラメな能力を持っていて、なぜか僕の生き返らせたい人を聞いてくる、かなり不思議な女の子。ただ……それだけだ。
「はい、そこまで! これで今日の体育の授業は終わり。各自しっかり水分補給をするように!」
 夏の青空にこだます指示の下、僕らも立ち上がった。隣で笹原がなにやら喚いているが聞き流し、他の生徒に付いて校舎の方へ歩いていく。
 そうだ。今は、光里とのことは忘れないと。だって、今日は……
「なぁ、そんなことより、今日大丈夫なんだよな?」
「そんなことってやられた身にもなって……って、え?」
「え? じゃねーよ。今朝言っただろ? 今日、お前の家で光里とお祝いするって」
「……あ、あぁ! もちろん、大丈夫。なんか、悪いな」
 しかめ面から一転、こそばゆそうに笹原は視線を逸らした。
「今日くらい気にするなって。改めて、誕生日おめでとう」
「おう、サンキュー!」
 ここ二週間の、集大成を見せる日だ。

 六時間目。
 体育の時にあれほど照り付けていた日差しは雲間に隠れ、幾分涼しい風が頬を撫でた。
 数学の先生が微積の解説をしている中、僕はぼんやりとこの後にすべきことを考えていた。
 今日の作戦はこうだ。
 まず朝のうちに、笹原に「誕生日おめでとう」をサラリと言って、サプライズの気配を消す。美咲さんは、「誕生日忘れているフリからのサプライズ大作戦」をやってみたかったようだが、さすがに漫画やドラマでやり尽くされているし、気づかれそうなので却下になった。
 そして、笹原の家で誕生日パーティーをする約束をとりつけ、放課後の帰り道でお菓子やジュースを買い込んで笹原宅へ。その道中には、カモフラージュとして、いかにも誕生日プレゼントが入ってそうな紙袋を光里に持ってもらうことになった。ちなみに、中身は本当に僕と光里で買った笹原へのプレゼントなので、何か言われても問題はない。
 とりあえずこれで、笹原のささやかな誕生日パーティーの体裁は完成する。まさか、玄関に入ってすぐのところで、美咲さんや笹原の両親が待ち構えているとは夢にも思わないだろう。
 あとは、帰り道での現在地を笹原に気づかれないよう美咲さんにメッセージで伝えるだけだ。
「頑張らないと、な」
 クッキーやビスケットを頬張りながら嬉々として話す美咲さんと、それを呆れつつもどこか楽しそうに見つめている光里の顔を思い出す。
 美咲さんは見事な技術で、本当にサプライズボックスを二週間ばかりで完成させた。その完成品は僕もまだ見ていないが、前に写真で送ってくれた製作途中のものを見る限り、あの百均グッズが驚くような代物に変貌しているのだろう。
「本当にすごいな……」
 美咲さんだけではない。光里も、文化祭の準備の合間を縫っては、美咲さんから頼まれた追加資材を買いに行ったり、僕らも何か贈り物を用意しようといろいろな案を提示してくれた。
 そういった行事や祝い事から離れていたとはいえ、本当は僕のような時間のあるやつが率先すべきなのに。本当に、あの二人はすごい。
 そこでふと、僕はどうなんだろうと思った。
 最近は本当に目まぐるしく日々が移ろい、気づけば一週間が終わっている。
 朝に自分の頬にあるやけどの痕を気にすることも減ったし、人の視線やひそひそ声にイライラすることも少なくなった。
 笹原や光里に持つ感情も、あの花火祭りの日に自覚して以降、さらに少しずつ変わってきている。話していて楽しいと素直に思えるようになったし、二人のことをもっと知りたいとさえ思うこともある。
 そして光里には……特別な感情を抱いてしまっているのだと思う。
 確実に、変わった。変われた。それは間違いなく、光里たちのおかげだ。
 でも。本当にそれでいいのだろうか。
 あの日。僕が、僕だけが生き残ってしまった。
 助けて、と姉に言ってしまった。
 結果。今こうして僕だけが助かって、それなりに楽しく毎日を過ごしている。
 あの事故の原因も、対向車の行方すらわかっていないのに。
 本当に……こんな毎日を過ごして、いいのだろうか。
 キーンコーン、カーンコーン――。
 そこで、僕の意識は引き戻された。チャイムが鳴り終わると同時に、学級委員の生徒が号令をかける。慌てて立ち上がると、視線が手元のノートへと留められた。
「やっべ……」
 そこにある数学のノートには、僅か数行しか書かれていない。後で笹原に頼み込んで見せてもらわないとな……誕生日だけど。
 そんな、以前なら思わないようならしくない思考に、また苦笑して。
「おーい! 行くよーー!」
 数学の先生と入れ違いに飛び込んできた明るい声を合図に、勝負の放課後が始まった。
 ……いや、まだHR残ってるぞ?

「アハハハッ! いやー、ごめんごめん!」
 曇天が広がる夏空の下。住宅街に走る人通りの少ない道の上を、透き通った笑い声が響いた。
「ごめんごめん、じゃねーだろ。慌て過ぎだ」
 振り返った拍子に、右手に持った袋が揺れる。ついさっきコンビニで買ったお菓子やジュースが触れ合い、音を立てた。
「そ、そんなに楽しみにしてくれてたのか〜〜! ありがとう……!」
 苦笑を浮かべた光里の隣で、笹原がおいおいと泣いていた。いや、正確には泣く仕草をしていた。さすがに、今のやりとりで泣くやつはそういない。
「それで、とりあえず最寄りまで来たけど、この後はどう行けばいいんだ?」
「あー、そこの角曲がって、とりあえず真っ直ぐ」
 案の定すぐに泣き止んだ笹原の声に従って、三つの足音が移動を始める。
 放課後。担任の先生の軽い注意を受けてから、僕たちは予定通り笹原の家へと向かっていた。あれだけ晴れていたのに、今はかなり曇っていて、気温も夏にしては比較的穏やかで過ごしやすい。ひと雨さえ来なければ、これ以上はない天気だ。
 そして。美咲さんへの現在地報告も、滞りなく完了している。学校を出たことを伝えた時に、可愛らしい猫の了解スタンプが送られてきたきり返事がないが、おそらく準備にでも手をとられているんだろう。とりあえずまた、最寄り駅を降りたこと伝えないとな。
「でもほんと、笹原くんの時間が空いてて良かったー。部活は大丈夫なの?」
「あぁ、元々今日はオフなんだ。それより、文化祭まであと一週間だけどそっちは大丈夫なの?」
「んー、多分? まあ、一日くらいなら大丈夫だよ!」
 僕の後ろでは、光里が笹原とあれこれ話をしており、うまく引き付けてくれていた。光里は隠れて連絡するみたいなことは苦手らしく、光里が引き付け役、僕が連絡役になった。まぁ、光里が静かにしているところとかあんまり想像できないので、確かに妥当な線……
「それに、美咲さんも頑張って準備……わっ⁉」
 光里が言い切る前に、僕は彼女の手にあったお菓子の入った袋を半ば強引に奪った。そしてその数瞬を使って、素早く耳打ちをする。
「おい! 光里!」
「ご、ごめんごめん。ついうっかり……」
 申し訳なさそうに、光里はまた苦笑いを浮かべた。よくよく見ると、表情もどこか固い。どうやら、僕が思っていた以上に緊張しているらしかった。
 その辺りも含めてまだ言いたいことはあったが、後ろでは、「へ? 姉さん?」と笹原が不思議そうにしているので、それ以上の追求は諦めることにした。
「あー、今気づいたけど、こっちの袋の方が軽いみたいだから交換しよう」
「あ、そ……そうだね……?」
「よし、じゃあ光里はこっち持ってくれ。それにしても、ほんとに笹原の姉さんも来られれば良かったのにな。今も入院してるんだろ?」
 手早く光里と袋を交換してから、平静を装いつつそんなことを訊いてみる。かなり無理矢理だとは思ったが、さすがにこの状況で美咲さんの話題に触れないのは厳しい。
「ん? あぁ、そうなんだよ。この前の検査も良かったみたいだし、せめて一時帰宅とかできたらいいんだけどな」
「そ、そうか……」
 タイミング良く出た一時帰宅というワードにヒヤリとしたが、どうやら大丈夫なようだった。それからも度々ヒヤリとする場面はあったがどうにか乗り越え、気づけば笹原の家の近くまで来ていた。
 笹原の家は、駅からほど近いところにある住宅街の端にあるらしい。以前美咲さんから、「時報用の味気ない鉄塔が目印だよ〜」と聞かされていて、まさにそれが数十メートル先にポツリと立っているのが見えた。ちなみに、美咲さんがデザイナーを志したのも、幼い頃、その鉄塔をもっとオシャレにしたらいいんじゃないか、と思ったのが始まりだとか。
「全く、独特だよな」
「なにが?」
「あぁ、いや。なんでもない」
 危ない危ない。僕も口に出ていたのか。
 笹原に気づかれないよう、小さく深呼吸をする。サプライズまであと少しとなったからか、どうやら僕自身も気づかないうちに緊張していたようだ。
 さて、鉄塔が見えたら最後の連絡をするんだったな。
 光里にアイコンタクトをして意図を伝え、笹原の気を逸らしてもらっている隙に、僕はそっとメッセージアプリを開いた。
 相変わらず返信は来てないが、既読にはなっているし大丈夫そ……――
「――え?」
 後ろから、驚いたような声が聞こえた。
 反射的にスマホから顔を上げ、声のした方を見ようとして……それは目に飛び込んできた。
 鉄塔から少し離れたところにある家の前。先ほどまで、立ち並ぶ家々の影に隠れて見えていなかった部分に……救急車が停まっていた。
「うそ、だろ……?」
 笹原が走り出したのと、救急車のサイレンが鳴り始めたのは、ほぼ同時だった。

 僕は、俯いていた。
 腰掛けている長椅子は、蒸し暑いのに、どこか冷たさすら感じる。受付時間はとうの昔に過ぎており、辺りには、緑色の非常灯やナースステーションから漏れ出る最低限の光しかない。
 隣には、光里が座っていた。
 でも、僕たちの間に会話はない。美咲さんが救急車で搬送され、笹原のお父さんに車でここに連れてきてもらうまで、一言も話していない。というより、話す気力がなかった。
 ……ここに来て、どれくらい経っただろうか。
 笹原は病室で美咲さんに付き添い、笹原の両親は別室で医師からの説明を聞いている。美咲さんは面会謝絶のため、僕らは病院のエントランスで待っていた。
 笹原の両親からは、もう夜だし帰った方がいいと言われたが、いさせてほしいと頼んだ。説明に時間がかかるとも言われた。でも僕は、僕たちは……待つことにした。
 倒れるほど、病気がひどくなっているなんて思ってもみなかった。
 病室に行けば、いつも美咲さんは元気に笑いかけてきて。
 パリパリとポテチを頬張っていて。
 のんびりマイペースに僕らを振り回した、そんな美咲さんが……
「――ありがとう……ございました」
 薄暗い廊下の先から聞こえてきた声に、僕らは反射的に立ち上がった。それから暫くもしないうちに、二つの影が近づいてくる。
「み、美咲さんは……⁉」
 僕が訊くより先に、光里が声をあげた。彼女の澄んだ声は、夜の病院によく通った。
「静かに、光里さん。ここは病院、それも夜だから……ね?」
 駆け寄った光里を、笹原のお母さんが優しく制した。
「は、はい……すみません」
「うん。でも、ありがとう……あの子のことを、心配してくれて……」
 そして、その小さな腕でそっと光里を抱きしめた。彼女は堪え切れず、笹原のお母さんの手の中で小さく震えていた。
「その……美咲さんの容体は?」
 光里が落ち着くのを少し待ってから、僕は笹原のお父さんに向き直った。
「うむ……まぁ、君たちならいいだろう。峠は越えたが、正直言ってあまり芳しくない」
 低い声で発せられた言葉が、想像以上の重さを伴って心に落ちてきた。目の前が軽く揺れたが、どうにか堪える。
「最近の検査結果は良かったんだ。それは、美咲からも聞いていたと思う。だから私たちも、美咲の案に乗った。……だが、今の美咲の容体は、最悪に近いものであるらしい」
「そ、そんな……」
 光里の悲しそうな声が、鼓膜に届く。
 ――ど、どうにかならないんですかっ⁉
 いつかの叫びが、その後に重なった。
 でも、小さく頭を振ってそれを掻き消す。
「み、美咲さんは……大丈夫なんです、よね……?」
 それが、答えられない問いであることはわかっていた。いやむしろ、それを知りたいのは笹原のお父さんやお母さんの方であることも。
 でも、訊かずにはいられなかった。
「……とりあえずは、大丈夫らしい。だが……」
 僕の問いかけに、笹原のお父さんは一度、言葉をつぐんだ。その悲痛な表情に、聞かなければ良かったと思った。
 ――残念ながら、お姉様は、もう……
 だって。その顔は……その声は……
「やはり美咲は…………そう長くは、ないらしい」
 あの時と、同じだったから。
 十年前に、姉を看取った時の、看護師さんと……――。

 あの日は、雨だった。
 病院に搬送されたのは僕と姉だけで、両親はその場で死亡が確認されたと後から聞いた。
 僕は事故の翌日には目を覚ましていたけれど、姉は違った。
 重度の火傷に、大量の出血。まだ生きているのが不思議だと言われた。
 対する僕は、手足や顔に火傷や傷を負ったが、命に別状はなかった。
「うっ……ううっ……」
 僕は、姉が横たわるベッドのそばで泣いていた。
 来る日も来る日も、泣いていた。
 早く目を覚ましてほしかった。僕を抱きしめてほしかった。不安で不安で、仕方なかった。
 そして。事故から三日経った日の夕方に、姉は目を覚ました。
「お姉ちゃん!」
「はる、と……?」
 あの時の嬉しさは、今でも覚えている。
 でも、姉の目はどこか虚ろで、ぼんやりと僕の方を向いているだけといった感じだった。
「ケガとか……してない?」
「僕は少しだけ! でも、お姉ちゃんが……」
「ふふっ……私は、大丈夫。お姉ちゃんは……強いん、だから」
 弱々しくて、今にも消え入りそうな声だった。だから僕は一字にも聞き逃すまいと、必死にすがりついていた。
「ねぇ……陽人」
「なに? お姉ちゃん」
「ひとつだけ……お願いを、聞いてくれない、かな……?」
「いいよ! 何個でも!」
 幾重にも包帯が巻かれた手を、壊れないようにそっと握りしめた。白いはずの包帯は夕日の光を受け、オレンジ色に染まっていた。
「ふふっ……ありが、とう……」
 姉も小さく、僕の手を握り返してくれた。そして微かに笑い、あの言葉を言ったんだ。
 ――あの事故を、どうか……恨まないで。
 それっきり、姉が僕の手を握り返してくれることは、二度となかった。

 美咲さんの病状について説明を受けた後、僕たちは帰路についていた。時刻は二十時を回っており、夜空には夏の月が煌々と輝いていた。夕方まで空を覆っていた雲は、そのほとんどが散り散りになり、行くあてもなくゆっくりと流れている。
 笹原のお父さんからは、夜も遅いから送っていくと言われたが、歩きたい気分だったので丁重にお断りした。それは光里も同じだったようで、こうして僕らは並んで夜道を歩いている。
「……まさか、美咲さんの病気があんなに悪かったなんて、ね……」
 閑静な住宅街に、光里の暗い声が小さく響く。どこかで、驚いたように蝉が一匹、星空へと飛んでいった。
「あぁ、ほんとにな……」
 虫嫌いな僕は、本来なら多少なりとも反応するが、最早そんな元気も気力もない。ただ、彼女の言葉に頷くので精一杯だった。
「笹原くん、大丈夫かな……」
 光里の言葉に、右頬のやけどの痕が軽くうずく。
 自分の姉が、病床で臥せっている姿が浮かんだ。傍らで手を握るも、握り返してくれることはない。モニターが時節発する心電図の音ばかりが病室に響き、望んでいる声は僅かばかりも聞こえてこない。
 そんな、幾重もの不安に押し潰されそうな部屋の中は、生き地獄そのものだった。
「そうだな……後でメッセージ送ってみるよ」
 安心させるように、努めて優しく返事をした。
 笹原はきっと、今も病室で美咲さんに付き添っているだろう。明日学校に来るのも難しいと思う。何より……
「……笹原くん、今日誕生日なのにね……」
「あぁ……ほんとに、な……」
 本当にあんまりだと思った。と同時に、その原因の一端を担ってしまったことが悔やまれた。
 もっと気を遣っていれば、こうはならなかったかもしれない。美咲さんがプレゼント作りを頑張りすぎないように、身体に負担をかけないように、僕にも何かできたんじゃないか。
 でも、今さら悔いたところでどうにもならない。ただただ、良くなることを祈るしかなかった。
「そういえば……美咲さん、いつからそんなに悪かったのかな……」
 ――姉さんさ、実は病気なんだ。
 光里のつぶやきに、花火祭りでの笹原の言葉が唐突に蘇った。
 ――神経難病っつーの? 原因わかんないけど、神経が仕事してくれなくて、それで上手く歩けないみたいでさ。
 あの時の笹原は、確かに少しおかしかった。いつもなら話さないような話を、やけに饒舌に喋っていた。そして……
 ――だからさ、こうやっていつも通り、前みたいに笑ってお祭りに行けるのが、幸せだなぁって思っただけ。
 らしくもなく、不恰好な笑顔を向けてきたんだ。
 もしかしたら、あいつは美咲さんの死の影を悟って、花火祭りに……?
「……もっと前から、なんだと思う」
 きっと、僕らが会った時には、既に……。
 沈黙が、僕らの間に漂った。
 僕は、美咲さんに振り回された日々を、思い返していた。
 あんなに元気そうにしていたのは、僕らのためなんだろうか。
 気を遣わせないために……?
 ……いや。多分それだけじゃない。
 きっと、死が近いからこそ全力でやりたいことをやっていた。
 好きなお菓子を食べたい、なんて身近なことから。
 弟のためにサプライズをしたい、なんて少し大掛かりなことまで。
 本当に、その時その時にやりたいことをやっていたんだと思う。
 後悔しないために。
 最期まで、しっかり生きるために……。
 ――生き物は……死があるからこそ、こうして頑張って生きようとする。
 そこでふと、あの時の言葉が脳裏をよぎった。
 ――少しでも死に抗って、今を懸命に生きようとするの。
 二週間前の、ショッピングモールで。
 いつもと違った様子の光里が、僕に問いかけてきたことを。
「……あ」
 そこで、僕は思い出してしまった。
 黙って隣を歩く少女の、不思議な能力を。
 ……僕は、彼女に言うべきなんだろうか。
 もし、美咲さんが亡くなったら。
 僕は、彼女に、そのことをお願いするべきなんだろうか。
 ――陽人はさ、人を……生き物を生き返らせることって、いいことだと思う?
 あの時の問いかけが、リフレインする。
 ――人を……生き物を生き返らせることって、いいことだと思う?
 僕は、僕は、ぼくは……………――――
「――なぁ、光里。もし、もし美咲さんが亡くなったら……生き返らせて、くれるか……?」
 やっぱり、生きていてほしいと思った。
 自分勝手かも知れないけれど、大切な人には生きていてほしい。直前まで迫った死と向き合って、懸命に生きようとするその努力を薄くしてしまうとしても。
 僕はやっぱり……美咲さんには生きていてほしい。
 ――そう、思った。
「…………そっか」
 月光の下、足音が止まる。
 夜の闇にさえ紛れない黒髪を翻し、彼女は淀みのない所作でゆっくりと、振り返った。
「………………でも。それはできない」
 それは、溢れ落ちたような声だった。
「だって……――陽人から家族を奪ったのは、私だから」
 彼女の瞳は真っ直ぐ、いっぱいの涙を溜めて……僕を、見ていた。