7、ずっと一緒に生きていたいな。

 体は必死に生きようとしている。
 酸素マスクをつけ、僕はベッドの上で仰向けになっている。

 呼吸の仕方がわからず、身体が痙攣して動いている。
 自分が思っている以上に意識が追いついていない。

 アラートが鳴り続けている。
 アラートのたびに意識が歪み、苦しさが時間を支配しているのを感じる。

 もう、終わりなのかもしれない。
 17歳、僕は十分生きることができたのかな。できたら、もう少し自由に身体を動かして、『もっと自由に青春を過ごしてみたかったな』。この状態になって、2週間が経った。もう、十分なのかもしれない。

 去年、お互いに病弱だった僕と君が奇跡的に元気だった頃を思い出した。君とはもう会うこともできないんだと思うと、つらくなった。君も僕と似たようにベッドの上で戦っているらしいから、最後にLINEで「今まで、ありがとう」とだけ、伝えたかったな。

 花火の日、君はこう言っていた。
 「あーあ、ずっと一緒に生きていたいな。もし、私が先にいなくなっても忘れないでね」

 先にいなくなるのは僕のほうかもね。
 僕は君との世界をもっとしっかり作って、楽しみたかったよ。
 僕はずっと、君のことを思い続けるよ。

 そう思い、去年の夏、君と一緒に見た花火のことや、君の顔を思い出しているうちに、君との初恋が儚く消えていくように、瞼が自然に落ち、意識がふわりと飛んだ。



 気がつくと、僕は立っていた。
 辺り一面、青くて透き通った色をしていて、空を見ても、地面を見ても、どこも青かった。

 なんで、こんなに青い世界なんだろうって、ふと、数秒間、考えてみた。
 そして、僕はこんな結論を出した。
 きっと、日差しのように、空から射す、光自体が透き通った青だからかもしれない、と。

 右手を前に出し、手のひらを見つめた。何度か右手を握ったり、開いたりを繰り返したけど、感触はいつもどおりで、そのままだった。そのあと、右腕を上に上げたり、下げたりをしてみた。青みがかった影も一緒に上下した。
 そして、僕は振り返って、反対側の空を見てみた。

 青白い空の先には、青い球体が輝いていた。
 月なのか太陽なのかわからない、今まで見たことのない色をした光源体だった。
 
 すっと、息を吐いた。
 そして、思いっきり息を吸った。空気はひんやりしていて、息をするたび、運動した後に水分を取ったときの爽快感のような心地いい冷たさでとても気持ちよかった。
 きっと、南極の夏の空気はこれくらい澄み切っていて、朝起きたばかりのペンギンはこの空気を思いっきり吸い込んだあと、海に潜り、魚を取りにいくに違いない。
 それくらい、僕にとってこんな澄み切った空気を吸うことは初めての感覚だった。
 だけど、空気は冷えているはずなのに寒気のような冷たさはなく、風もない。

 「こんなところで一体、何をすればいいんだろう」
 空気を切り裂くつもりでそう呟いてみたけど、僕が発した言葉はきっと、誰にも届いていなかった。辺りを見渡したけど、なにもなかった。広がるのは青白い世界だけで、僕はこの世界の中で一体、何をすればいいのか、わからない。

 そして、僕以外の誰かとこの状況を共有したくなった。単純に寂しいし、僕はこんなよくわからない世界の中でたった一人きりだってことを信じたくなかった。

 昔、ひいおじいちゃんが言っていた。
 自分から動かなかったことが人生の中で一番後悔したことになるって。

 だから、僕はその言葉を信じ、なにかを見つけたくて、歩くことにした。



 もう、どのくらい歩いたのかわからない。
 感覚がわからないまま青白い地平線を眺めながら、ずっと歩き続けて、ようやっと、なにかが見えてきた。
 横一直線に伸びている白い道とその脇にある二つの物体が見えた。最初は豆粒程度の大きさだった物がだんだんはっきりと形が見えてきた。

 「誰かいるかも」
 そう言ったあと、ふっと、息を漏らしながら笑ってみた。
 だけど、孤独感はそんな簡単に消えなかった。
 僕はその物体まで行くしかないと思った。それまでやることもないから、僕は歩数を数えながら、その物体の方へ歩くことにした。



 2222歩目。
 僕は物体の目の前にたどり着いた。

 物体はベンチと奇妙な形をしているバス停だった。正直、がっかりした。

 バス停は一本のパイプと簡単な看板でできており、パイプの下のほうはうねうねとらせん状になっていた。
 ちょうど真ん中あたりで《く》の字にへし曲がっていて、へし曲がっているところの上からはまっすぐと天に向かって伸びていた。バス停の看板は黄色くて、三日月の形をしていた。
 その下に、時刻表の看板がついている。

 だけど、時刻表の文字や、バス停の名前を読むことができなかった。なんて書いてあるのかわからない。文字は書いてあるのはわかるけど、その文字がどんな音を発し、どんな言葉の意味なのか、全くわからなかった。

 「バカになったのか」
 バカ丸出しで、バカになったのかという自分がバカみたいに思えた。口があいたままだったことに気づき、僕は口を閉じ、鼻から息を吸って、そして、吐いた。

 僕は仕方なく、ベンチに座ることにした。座ったところで大したことは起きなかった。
 また、無性に寂しい気持ちになった。
 
 僕はふと入院したときのことを思い出した。
 こんな最果てみたいな世界で僕は一体、何をしているんだろう。病弱だった僕は入退院をこれまで何度も繰り返してきた。その間にどれくらい治療費がかかったのかわからないし、その治療費に対して、僕の余命を伸ばすことができていたのかわからない。

 あらためてゆっくりと空を見ると、不思議だった。
 青に白を混ぜたような色をしていた。しかし、透き通っているクリスタルのように濃くもなく、薄くもなくちょうど良い色をしている空だ。光源体は相変わらず濃いブルーが地表を照らし、空気は新鮮で、暖かさも、ゆりかごが置かれた部屋でしっかり管理されているエアコンくらい、程よくあり続けた。



 遠くに何かが見えた。
 それは最初こそは小さな点のようなものだったけど、こちらに近づいてきている。

 僕は思わず立ち上がって、それを凝視し、近づいてくるまでの間、秒数を数えながら、近づいてくるのを待った。



 456。
 457。
 僕はここで秒数を数えるのをやめることにした。

 偶然にしては出来すぎていると思った。
 僕と同い年くらいの女の子が目の前に立っていた。女の子は白いワンピースを着ていて、髪は綺麗な黒髪ストレートで肩までかかっていた。そして、ぶわっと強い風が吹き、髪先やワンピースの裾が右に流されていた。

 しばらく、目を合わせたまま二人とも黙ったままだったから、僕は素直に今の気持ちを相手にぶつけてみることにした。

「――ようやっと人に会えた」
「あなただれ?」
 そう言われたから、自分の名前を言おうとした。だけど、自分の名前がわからなくなった。

「――わからない。思い出せないんだ」
「なにを?」
「名前……」
「そんなわけないでしょ」
「じゃあ、名前教えてよ。君の」
 僕がそう言い終わると、女の子はすっと息を吐いたあと、上を見上げてしまった。あー、やっぱりそうなんだって、素直に思ったのと、最後に花火をみたときに、僕の隣に一緒にいてくれた誰かのことをふと思い出した。
 だけど、その誰かの名前も思い出すことができなかったし、あれだけ記憶をとどめようと努力したはずなのに、誰かの顔を思い出すこともできなかった。
 ただ、『ずっと一緒に生きていたい』と言われた声だけは、はっきりと覚えていた。

「本当だったね」
「そうでしょ」と僕がそう返すと、女の子は両手で髪をくしゃくしゃとしたあと、髪をさっさっと、整え、そして微笑んできた。だから、僕もそっと優しさを意識して微笑みかえした。
「私以外の人が居て安心した」
「僕もだよ。歩き疲れただろ、ベンチに座ろう」と誘うと、女の子は小さく頷いた。



「君のこと、花火って呼んでもいい?」
「――なんで花火?」
「君を見た瞬間、花火のことを思い出したんだ」
「もっと、かわいくしてよ。それだったら、ハナがいい」
「そうだね。ハナ」
「じゃあ、あなたのことは、ヨルって呼ぶね」
「え、どうして?」と僕はどうせ、花火だから、それに合わせてくれたんだろうと思ったけど、それじゃあ、会話として味気ないと思ったから、ハナに理由を聞くことにした。

「あなたに会ったとき、――夜の住宅街で、誰かに手を繋がれた感触を思い出したからだよ」
 それぞれ会った瞬間に、全く別な人のことを思い出していたんだと思うと、なんだか、僕らは本当に孤独で寂しさを抱えていたのかもしれないなって、ふと思った。

「似たような理由だね」
「私たちって、まだ会ったばかりなのに、似た者同士なのかもしれないね」

 辺りにハナの声が響いた。それは真冬の雪が降り積もった森の中で、間違って冬眠から目覚めてしまったリスみたいな寂しさを感じた。きっと、ハナは今、隣で座っている印象そのままに、きっと現実世界でも透明感のある子なんだととも思った。もし、現実世界でハナと会っていたら、一体、僕たちはどんな関係になっていたんだろう――。

 だけど、すでに自分の名前も忘れるほど、現実世界で暮らした記憶は薄くなっていっているような気がする。ここが現実ではないどこかの世界であるということはわかるけど、もし、この世界にとどまることになったら、青しかないこの世界で、一体、僕は何をすればいいんだろう。

 忘れかけている記憶、現実世界に僕を大切に思ってくれていた人がいるのに。

「どこから来たんだろうね。僕たちって」
「せっかく、人と出会ったのにセンチメンタルを詰め合わせたような言い回ししないでよ。もっと楽しい話がしたい」
「こんな状況で、自分が何者なのかもわからなくなっている状況なのに、ハナはよくそんなことが言えるね」
「それは命には限りがあるから楽しんだ方がいいって、昔、母親に言われて育ったからかもしれない」
「お母さんのこと、覚えてるんだ」
 僕がそう言うと、もう顔は思い出せないけどねと、ハナは弱く笑いながら続けてそう言った。

「ねえ、ヨルはどこから来たか覚えている?」
「わからない。僕も思い出せないんだ」
「そうでしょ。だって、私もわからないもん。だから、最初の話に戻っちゃうんだけど、どこから来たんだろうって、私に聞くことは不適切だと思わない?」
「そう思わないから、聞いたんだよ。もしかしたら、僕だけが現実世界の記憶を忘れてしまっていて、なにか知っているかと思ったから」
「意外と、似た者同士じゃないのかもね」とハナは急にぶっきらぼうにそう言ってきた。意外とハナは気難しいのかもしれないって僕は思いながら、両手を組み両腕を上げ、身体を伸ばした。
 ただ単に僕が知らないことをハナが知っているかもしれないと思って、そう言っただけなのに、なんでそんなにハナは不機嫌になるんだろう。

「だけど、名前も、過去も、自分が何者なのかも、絶対に覚えているはずのことだろ。そんな大切なことを、どうして忘れたりするんだよ」
 僕は両腕を下ろし、そして、左に座るハナの方をじっと見た。
「そんなこと、どうでもいいじゃん。今はこうして、何かを待つしかないんだから。記憶ってそんなに大切なものかな」
「大切なことだと思うよ、僕は。忘れたくない言葉や、人からもらった優しさ、そして、大切な人のことなんて忘れたくないだろ。こんなに重要なことなのに」
 僕が言い終わると、沈黙が流れ始めた。僕はハナから視線をそらし、再び、前を向いた。前を向いても、青い世界が続くだけで、何もなかった。この世界に存在するのは、くの字のバス停と、ベンチ、そしてハナと僕だけだった。

「ねえ、ヨル」
「なに」
「――ここでの重要って何なの!」
 突然、ハナが大きな声を上げたから、僕は余計に驚いてしまった。似た者同士だったんじゃないのかよ。僕はため息を吐いたあと、もう一度、ハナを見た。ハナの頬が濡れていた。その濡れた線が、青い光を弱く反射していて、色白のハナの透明感をより深くさせていた。

「私だって、忘れたくないよ。大切だった男の子の優しさとか、『ずっと一緒に生きたい』って言われたこととか、そういうの私だって全部取っておきたいよ。だけど、自分の名前も、自分が何者だったのかも、どんな人が私の周りに居たのかも、全部忘れてしまって、そして、自分が自分でなくなりそうで怖いんだよ。私だって」
 僕は急に息が出来ないほどの息苦しさを感じ始めた。最初は弱く、息苦しさを感じていただけだったのに。僕は身体を丸めて、ハナの話を聞いていた。そうしないと、息ができないように感じた。

「――ねえ。大丈夫?」
「僕はもう、ここでお別れかもしれない」と小さな声で、答えると、背中に冷たい感触がした。そして、その冷たい感触はゆっくり、僕の浅い呼吸に合わせて、上下に揺れた。

「ねえ、私をひとりにしないでよ。もう、これ以上、寂しい思いしたくないの」
「どうせ、なにも変わらないよ」
「ヨルの背中、さすっても何も変わらないと思ってたら、さするわけないでしょ。意外とバカなんだね」
「僕は忘れなかったよ。ハナのこと」
「えっ」
「もし、僕が先にいなくなっても忘れないでね」
「……やっぱり、ヨルだったんだ。バカ」とハナはそう言ったあと、背中から、ハナの手の感触が消えた。そして、そのあとすぐに、背中に大きな衝撃を受けた。バチンと鈍い音と、痛みを感じたあと、急に息の吸い方がわかり、僕は思いっきりむせたあと、深く呼吸をした。

「思い出したよ」
 そう言いながら、僕は丸めていた身体を起こし、ハナの方を再び見た。

「なに?」
 ハナはすごく優しく穏やかな声でそう聞いてくれた。
「感覚だけは覚えている。ここに来る前の僕は苦しんでいた」
「息、できてなかったってこと?」と聞かれたから、僕はゆっくり頷いた。

「そう、息がつまる感覚。必死に呼吸しても苦しいんだ」
 そう言い終わるのと合わせて、急に喉をつっかえるような熱さを感じたあと、気がついたら、涙が頬を伝う感触がした。右手の人差し指で左目の目頭を触ると、簡単に人差し指は濡れた。

「あなたの所為じゃないよ。苦しいのは。私もヨルの話聞いて、思い出したよ」
「なにを?」
「鈍い痛み」
 そう言って、ハナは胸に左手を当てた。だから、僕はどうしても、ハナの思い出した胸の痛みを取りたくなり、思わず胸に当てたままのハナの手に僕の右手を当てた。
 なぜかわからないけど、触れた瞬間、確かにハナの中に、何か重たいものを感じた。
 僕はそれに驚き、ハナの胸から手を離した。

「僕たちは同じ痛みを抱えていたんだね」
「やっぱり似た者同士だったんだね。だから惹かれあったのかも」

 ハナにそう言われて、僕は急に照れくさくなり、視線をバス停の方に向けた。バス停の看板が丸くなっていた。

「えっ、バス停の看板」
「看板がどうしたの」
「三日月だったのに、丸くなってる」
 僕は思わずベンチから立ち上がり、そして、バス停を見た。バス停にたどり着いたとき、バス停の名前が書いてある看板は三日月だったはずだ。それなのに、欠けていたはずの3分の2が埋まり、黄色くて丸い看板は、満月のようになっていた。

 看板や時刻表に書かれた文字は未だによくわからないままだった。僕の右隣にハナが来た。だから、ハナの方を見ると、ハナもバス停をじっと見ていた。看板の書いている文字が何を意味しているのかがわからない。文字を認識できていないのだ。まったく、頭に入ってこない。

「これがどういう意味だかわかる?」
「わからない。どうやって読むのかすらわからない。今までこれをずっと読んで生きてきたはずなのに」

 まだ、ハナはバス停を睨んでいた。僕も文字の配列を見たまま、考え込んでしまった。
 
 頭で考えるほど読めなくなっているような感覚がした。頭の奥に何か重たいものが段々と大きくなっていき、それが頭の中を侵食して、脳みそを溶かすかのように、急に痛みが頭を覆い尽くした。

 僕はその場にかがみこみ、痛みを堪えた。
 ハナは依然として看板の前に立ったままだった。そんなハナの姿を下から覗いた。ハナは泣き始めていた。声も出さずに静かに泣いていた。

 どんどん頭が痛くなっていく。
 その時、何かの気配を感じた。なにかが、ゆっくりと近づいてくるのがわかった。音をした方を見ると、丸い二つ目のヘッドライトをつけた銀色のバスがやってきた。

 そしてバスは、まるで何事もないかのように、このバス停の前に止まり、ドアが開いた。そして、ハナはそのバスに乗り込み、ドアの内側から、僕をじっと見ていた。
 僕は立ち上がろうとしたけど、頭の痛みの所為なのか、わからないけど、足に力が入らず立ち上がることができなかった。
  
「どうして、そんな簡単にバスに乗ったんだよ」
「あなたにはまだ早い」
「早いって、どういうことだよ」
「私はバス停の文字、読めちゃったんだ」
「だから、バスに乗ったの? 教えてよ。ハナ」
「この文字は読むものじゃない。感じるの」
「よくわからないよ!」
 大きな声を出すと、さらに頭の痛みは酷くなった。そして、さっきのように息苦しくなり始めた。

「ありがとう、ヨル。『あーあ、ずっと一緒に生きていたかったな。もし、私が先にいなくなっても忘れないでね』」

 ハナは忘れられないくらい、優しく微笑んでいた。僕は痛みの中でも、ハナになにかしたいと強く思ったから、微笑み返すことにした。そのあとすぐに、バスのドアが閉まり、そして、バスは僕を乗せないで、遥か彼方へ行ってしまった。

 ひとり残された僕は、しばらくバス停の前でかがみこんだままだった。
 「ずっと一緒にいきていたかったよ。僕も」 

 そのまま、僕は頭の痛みに負け、横向きに倒れた。頭を地面に打ったあと、自然に瞼が落ちてきた。
 最後に見えたのは、青白い地平線だった。
 
 最後の光景は、ハナだったらよかったのに。



 アラームが鳴り続けている。
 医師と看護師があわただしくベッドに横になっている僕の周りでなにかやっていた。
 
 さっきの息苦しさや、頭の痛みは和らいでいた。
 もしかすると、君がいなくなったのはついさっきなのかもしれない。そう考えると、急にさっきのことがつらくなった。
 
 あの青い世界でも一緒に君と花火が見たかったな。

 僕はそう強く思い、君に願いを込めた。






「いいね」
「ありがとう」
 僕はいつものように涼葉を褒めると、涼葉はいつものように嬉しそうな表情をしていた。僕は紙カップを手に取り、残ったままだったカフェオレを飲みきった。カフェオレからは熱が消え、ミルクが溶けきり甘ったるくなっていた。

「やっぱり面白い話書くね」
「そうでしょ。だって、私――」
「天才だから」と僕は涼葉が言いそうなことを先回りして、口に出すと、ちょっと、私のセリフ取らないでよ。と少しいじけたように涼葉はそう返してきた。そして、僕の手元に置いたままだったノートをすっと自分のほうへ取り、そして、ノートを閉じた。
 涼葉は、さっきより気持ち、顔色がいいように見えた。こんないつもの調子の涼葉を見ていると、余命宣告から1年以上経っている彼女が消えるわけがないと思った。

 僕は涼葉が小説を書いている間のこの2時間、ずっと彼女の命について考えていた。本当に彼女が言う通り、人があと何日生きれるのかを数字で見ることができたらいいのにと思った。さっき、涼葉は余命宣告をもうとっくに過ぎたって言っていた。
 新たな余命宣告はされているんだろうか。
 それとも、もう、余命宣告した頃から時は過ぎたから、予断はできない状態で、いつ死んでもおかしくないとか、そんなこと言われているんだろうか。
 そんなことを涼葉に聞くなんて、残酷すぎるから聞きたくない。
 だから、僕は自分を強く保つしかない。
 ただ、僕が不意に聞いた残酷な事実をしっかりと受け入ればいいんだ。 
 
「ねえ、奏哉くん」
「なに?」
「――そんな寂しい顔しないでよ」
「してないよ。ただ、腹減ってきたなって思っただけだよ」
「嘘つき」と涼葉はしっかりと通る、真剣そうな低い声でそう言った。
 その一言で、一瞬で時が凍ったみたいに思えた。そんなに考えていたことが表情に出ちゃってたかな。それだったら、涼葉に謝らないと――。

「ねえ」
「なに?」
「奏哉くんは優しいよね。優しいけど、奏哉くんの気持ちが見えないし、わからないよ。いつも、相手のことばかり考えているんだろうけど、たまに奏哉くんはどこにいるんだろうって思うことがあって、寂しい」
 どうして寂しいんだろう。だって、僕はただ涼葉のことが好きだから、涼葉が一番いいと思うことをしようとしているだけなのに。

「――寂しい思いさせてるなら、謝るよ」
「いや、謝らなくていいよ。謝らなくちゃならないのは私だから。――本当は余命宣告受けて、それが過ぎていること告白受けてからすぐに言おうと思ったんだ。だけど、それがすごく嫌だったの」
「――どうして」
「どうしてって、バカじゃないの。そんなことも察しがつかないの? 優しい癖に。片思いだと思ってた男の子にようやっと告白されて嬉しかったからに決まってるじゃん」
 そのまま、涼葉は下を向いてしまった。僕はすっと息を吐いた。ガラス窓から3階分の吹き抜けに差し込む日差しはいつの間にか、午前の黄色さから、昼過ぎの白さに変わっていた。

 そっか、僕にしてみたら始まったばかりのつもりだったけど、彼女にしてみたら、遅すぎる始まりだったんだ。涼葉とは最初からやけに話が合うし、どうしてこんなに楽しいんだろうとしか思ってなかった。だけど、それが彼女にしてみれば、あまりにも遅すぎたんだ。
 僕がそんなことを考えているうちに、涼葉は余命宣告まで残りわずかで、僕が知らないうちに余命宣告より先の誰にもわからない世界を彼女は一人ぼっちで生きていたんだ――。

「――これからはひとりじゃないよ」
 僕がそう言うと、涼葉は顔を上げて、じっと見つめてきた。いつもの吸い込まれそうな瞳が神秘的でミステリアスな雰囲気を感じる。

「これからはひとりじゃないし、余命なんて関係ない。だって、今、余命を越して涼葉は生きているじゃん。僕はただ、その事実だけでいいし、すぐに死ぬなんて思わないよ」
 思ったことを言い終わると、ちょうど院内放送のチャイムが流れ、誰かが誰かを呼び出していた。僕はあの日、涼葉にされた質問の返しを思い出した。

「ねえ。もし、私の寿命が残り30日を切ってたらどうする?」
「涼葉と最後まで一緒にいたい。1秒でも長く。そして、次の小説ができるのを待つよ」
「――ありがとう。また新しいの書くね」
 涼葉は寂しそうな目をしたまま微笑んだ。その姿をみて、僕は胸の奥からじわっと締め付けられる感覚がして、すべてが嫌になった。
 



 木曜日は憂鬱のままぼんやり過ごし、そして、金曜日になった。
 放課後になり、僕はいつも通り職員室に行った。そして、顧問に用事があるから図書室を開けないと伝えた。

 職員室を出たあと、バッグからiPhoneを取り出し、涼葉にLINEを送るとOKのスタンプが返ってきた。



 病院に着き、水曜日に座った吹き抜けの広場へ行くと、水曜日と同じテーブル席に紺色のパジャマを着た涼葉が座っていた。いつものノートを開き、何かを読んでいるように見えた。
もしかしたら、また新しい小説を書いたのかも知れない。僕はそんな彼女を見ながら、一歩ずつ彼女の方へ近づき、そして、手が届くくらいの場所までたどり着いた。
 
「なに書いたの?」
 そう言いながら、椅子を引き座った。涼葉は顔を上げたあと、
「遅いよ。たった今書き終わったところ」
 涼葉はそう言って、ノートを閉じたあと、微笑んでくれた。

「なに書いてたんだよ」
「今回は内緒」
「なんだよ。いつもならすぐに見せてくれるのに」
「ねえ、いい知らせあるんだけど」と涼葉は僕の話題をさえぎって、いきなり右手の人差し指を僕の方に指してきた。
「悪い知らせは?」
「明日、退院できます」
 人差し指を僕の前でぐるぐるさせたあと、涼葉は満足そうな表情をして、指を引っ込めた。

「お、マジで。おめでとう」
「ありがとう。このまま居ても手の打ちようがないからいいんだって」
 涼葉は微笑みながら、いつもの調子でさらっとそんなことを言うから、胸の奥から、つらい気持ちが込み上げてくる感覚がした。だから、僕はその内側を悟られないように、その言葉がなかったかのように話を続けることにした。

「月曜日から、また一緒に図書室で話せそうだな」
「ううん、日曜日から一緒にいたい。本当は土曜日から一緒にいたいけどね」
「えっ、大丈夫なのかよ」
「大丈夫に決まってるでしょ」という無駄に元気そうな涼葉の声が辺りに響いたけど、その大丈夫の主成分は失望がほとんどのように感じた。

「わかった。またどこかで話そうぜ」
「私、夏の名残が終わる前に海に行きたいな」
 涼葉はそう言ったあと、念を押すように、ねえ、いいでしょ? と聞いてきた。そのあとすぐ、お団子にまとめていない肩までかかった髪先が空調の風で揺れた。




 通話を始めてから、光が強い部屋のシーリングライトを消した。
 机に置いてあるライトグリーンのデスクスタンドの電球色が心細く、部屋のなかを柔らかく照らしている。ベッドに寝転がりながら、涼葉の優しい声を聞き、いつものようにお互いにくだらないことばかりを話していた。
 話は尽きることはなく、たまに時計の針を見ると、あっという間に進んでいた。

「ねえ、奏哉くん」
「なに?」
「日曜日になったね」 
 土曜日は、涼葉との3時間くらいLINEでの通話で簡単に終わってしまった。こうして話しているだけだと、涼葉が簡単にこの世界からいなくなってしまうなんて思えなかった。

「そうだね」
「今日もね、小説書いたんだ。すごいでしょ」
「すごすぎる。小説書いてて疲れないの?」
「全然、疲れない。むしろ、毎日ベッドで横になってたときのほうが疲れたわ。――私、もっと早く書き始めてたらよかったかも」
 よかったかも。ともう一度、僕の頭の中で涼葉の声が響いた。それは秋が終わりを告げて、真夜中に初雪がそっと降り始めたみたいな寂しさだった。

「うーん、思いついたときに始めるのがベストなんじゃない?」
「もっと、はやく始めてたら、小説書くのが生きがいになってたかも」
「――今からでも遅くないと思うよ」
 僕は適切な言葉を選んだつもりだったけど、言ったあと、冷静になると、やっぱり適切じゃないように思えた。
「――そうだよね。小説家、目指そうかな」
「いいと思うよ。高校生でもデビューしてる人、たくさんいるらしいし」
 普通だったら、こんな他愛のない漠然とした将来の夢の話をすることは、普通に感じると思う。だけど、涼葉とこんな話をすると、すべて空虚に思えた。

「だよね。長い小説でも書いてみようかな」
「――読みたいな。涼葉の長い小説」
「わかった。じゃあ、長い夢みたいな小説書くね」
「待ってるよ」
「まかせて。天才だから」
 さっきよりも涼葉の声が弾んでいるような気がして、僕は少しだけほっとした。




 待ち合わせ時間より3分早く着いた。僕はバッグからiPhoneを取り出した。
 そして、iPhoneをタップし、LINEを起動したあと、涼葉にメッセージを送った。駅の入口の前で立っていると、駅に向かって来るいろんな人が目につく。先週より少しだけ柔らかい黄色になった日の光がバスロータリーを照らしていて、コの字の端には2台のバスが止まっていた。
 
「おまたせ」
 左側から聞き慣れた声がしたから、その方を向くと涼葉が小さく手を振って、こっちに駆け寄ってきた。黒の袖のないワンピース、ワンピースの内側に長袖の白くて柔らかそうなニットを着ていた。その姿は大人っぽく、落ち着いた雰囲気に見えた。
 
「袖なしのワンピース、大人っぽくていいね」
「いいでしょ、黒のキャミワンピ。なんとなく黒の気分だったんだ」
 そう言って、涼葉は柔らかく微笑んだ。今日はいつものように色白の顔をしていて、僕はほっとした。たぶん、退院してから調子がよくなったんだ。病院で見ていた涼葉と比べて、僕は根拠なんてないことに安心した。

「秋の海に似合いそう」
「海に行く前にスタバに行こう。小説読んでよ」
 いいよと僕が答えると、涼葉は僕の左手を繋いだ。それで一気に心拍数があがったけど、涼葉はそんな僕のことなんて構わない様子で、僕を引っ張るように駅ビルの中にあるスタバの方へ歩き始めた。