4、壊れる君と思い出が作りたかった。
今、こうして、インスタに書き込んでいるけど、きっと誰にも読まれることなんてない。だから、私のアカウントはノートでしかないから、思ったこと、今の考えをそのまま書くだけにする。
私は18歳になったばかりの2月の初めにすべての意識をおいてきた気がする。
例えば、人は人生の中でどれだけ喪失を経験するんだろう。
例えば、人は人生の中でどのくらい微笑まれるのだろう。
数えることができない、すべての出来事に嫌気がさしたら、私はどうやって生きていけばいいのだろう。そんなこと、私には到底わからない。
だから、気持ちを整理するために誰にもフォローされていない鍵垢に書きなぐる気でいる。
「人なんて、みんな強く生きれないよ」
イサムは慣れた手つきで缶のコーラを開けた。炭酸が抜ける涼しい音がしたけど、すでに11月の半ばで、夏の暑さの記憶なんて忘れてしまっていた。学校の屋上から、一望する街は今日も夕日でキラキラと輝いている。
「だけど――」
「だけどなんてないよ。メル」
イサムが微笑むと風が吹いた。その風でイサムの髪先が弱く揺れた。イサムの髪は肩まで着くくらいロングで、パーマがかかっているからか、アンニュイな印象を受ける。
「そんな萌え袖するなよ。セーター伸びるよ」
私はそう言われて、急に顔が熱くなるのを感じ、思わず手すりから手を離して、両手をスカートのポケットに突っ込んだ。
「イサムさんはさ、どうして、強く生きることができるの?」
「簡単だよ」
イサムはそう言いながら、手すりから手を離し、身体をクルッと回して、背中で手すりに寄りかかった。そして、勢いよく、上を向いた。
一瞬、このまま、飛び降りるのかと思った。だけど、イサムはその場に居たままだった。
首から上はすでに手すりから大きく出ている。長い髪がだらっと、下がり、イサムの顎のラインが綺麗に見え、少しだけドキッとした。
「全部、知らないふりして笑顔でいればいいんだよ」
そう言い終わったあと、イサムはまた元の姿勢に戻り、右手で髪をかきわけた。
なに、言ってるんだろう。コイツ――。
たぶん、他の学校だったら、明らかに校則違反になるはずだけど、うちの学校の校則はあるようでないものに近い。だから、派手に髪を染める以外で髪のことはあまり言われない。
「ねえ」
「なに? メルちゃん」
「なんで、人って、寿命があるんだろう」
「いいんだよ。そんなことより、どう? 話、乗ってくれる?」
イサムの微笑みはオレンジ色で染まっていて、その微笑みが切なく感じた。
イサムの余命ノートを見てしまったのは偶然だった。
教室に忘れ物を取りに行ったとき、教室には誰も居なかった。だけど、電気はついていた。私の席の前はイサムの席で、イサムの机にはノートが広げられていた。
別に見るつもりはなかった。だけど、自分の席に向かっているときにノートの内容が目に入ってしまった。
・余命までやりたいこと
余命って。
予想外の言葉が目に入ってきて、私は立ち止まり、そのノートを思わずじっくりと見てしまった。
・卒業して、半年くらいは生きたい。
・メルと付き合う。
・あとはもういい。それで十分。
「――なにこれ」
私は理解できずに思ったことを口にした。一度、目をつぶって、すーっと息を吐いた。そして、見開き、もう一度ノートに視線を戻した。そこにはやっぱり私の名前が書かれていた。
「なんで、私――」
「マジかよ」
後ろを振り返ると、右手を額に当てて、上を向いたイサムが立っていた。
そのあと、屋上に連れて行かれて、イサムに告白されて、私は簡単にイサムの彼女になってしまった。だけど、屋上から降りてきたあとも、何も変わっていない。
「イサムさん」
「やめろよ。さん付けするなよ」
イサムを見ると少し不貞腐れているような表情をしていた。だけど、そのあとすぐ、その表情は微笑みに変わって、眩しく見えた。
「イサムくんでいいよ。無駄に留年してるだけだから」
イサムにそう言われて、私はゆっくり頷いた。
「なあ」
「なに?」
「俺の心臓、もうあんまりもたないらしいんだよね」
イサムがそう言ったあと、私は黙ったまま、歩き続けた。イサムは身体が弱くて留年したのは知っている。だけど、そんなこと、急に言われても、やっぱり実感がわかなかった。それは生まれたての告白がまだ定着していない所為もあるのかもしれない。
「――ねえ」
「なに?」
「――こういうとき、なんて言えば、イサムさ……イサムくんの心は軽くなるの?」
「メルちゃん。俺はもう、何言われても大丈夫だよ。その優しさだけで十分だよ」
イサムはまた優しく微笑んだ。そして、私の手を繋いだ。急に触られた右手はいきなり電流が走ったみたいに感じた。また頬が一気に熱くなっていく。
「余命ノート、本当だったんだ」
「そうなんだよね。残念だけど本当なんだよ。――だから、今日、一つ夢が叶ってすごく、俺、嬉しいよ。身勝手だと思うけど」
イサムはこんな私をなんで選んだんだろうってすごく不思議に思った。そして、そんなガラスみたいに透き通ったイサムに私は釣り合わないんじゃないかって、イサムの整った横顔のシルエットを見てより強く思った。
ホント、なんで、私なんだろう――。
図書室の当番で今日は5時半まで、このカウンターにいなくちゃならない。だけど、放課後開放しているこの図書室には誰一人として、寄付く気配はなかった。
なんで、金曜日の当番になんてなったんだろう。私はため息を吐いたあと、白い天井を見て、ぼんやりとした。
うちの学校はスポーツをやりに来る生徒ばかりだ。どのスポーツ系の部活も大体は県大会、全国大会の常連で強豪校と呼ばれているらしい。
図書局の私にはそんなこと、関係なかった。図書局員は10人しかいない。そして、そのうち7人は幽霊部員だから、月、水、金の週3日しかこの学校の図書室は開いていない、この図書室のカウンター業務の当番は3人で持ち回りをしている。
「なに上向いて、ぼんやりしてるんだよ」
声のする方を見ると、イサムが立っていた。そして、私のアホ面を見て、面白がっているのか、ニヤニヤしていた。
「ちょっと。ちゃんと気配出してよ」
「気配は出してたよ。それにしても、静かだな」
イサムは貸し出しカウンターの一番近くにあるテーブルにバッグを置いた。そして、椅子を持ち上げ、カウンターの前に置き、椅子に座った。私とイサムはカウンター越しで向き合った。
「4年目で、初めて図書室来たけど、マジで誰もいないんだな。噂通りじゃん」
「なに? 冷やかしにでも来たの?」
「違うよ。メルちゃん。俺はただ、愛しの彼女に会いに来ただけだよ」
イサムに告白されてから、一週間が経っても、イサムにそんな調子のいいことを言われると、すごく恥ずかしくて、胸の奥がぎゅっと締め付けられるような感覚がした。
「あ、メルちゃん。また顔赤くなってるよ」
「いいでしょ。恥ずかしいんだから」と返すとイサムはゲラゲラと笑った。
「そういえば、3年生なのに引退させてくれないの? 図書局は」
「人手不足だからね。――イサムくん入る?」
「あと4ヶ月で卒業なのに入ってどうするんだよ」
イサムはもう一度、笑ったあと、立ち上がった。そして、日本文芸の書架の方までいき、何かの本を探し始めた。
「古すぎだろ。ラインナップ」
「0%に近い利用率だから、新しい本、買ってもらえないの」
「うちの学校、サルしかいないからな」
そう言いながら、イサムは一冊の本を書架から抜きとり、それを持って、またカウンターの方へ戻り、椅子に座った。
「なに持ってきたの?」
「サラダ記念日」
イサムは右手に持っているサラダ記念日の文庫を弱く振った。その本は見るからに日に焼けていて、この図書室に来てからかなりの年月が経っているのを感じさせた。イサムは、そんな古びたサラダ記念日を開き、読み始めた。
イサムがサラダ記念日を読み始めると、さっきの騒がしさが嘘みたいに消え、一気に静かになった。遠くから聞こえてくる吹奏楽部の管楽器の音階が、上から下へ、下から上へいくのを繰り返している音だけが聞こえてきた。
私は右手に持ったままだったiPhoneに視線を再び戻した。そして、開きっぱなしだったインスタのタイムラインを適当に指で流していた。いろんな投稿を辿ったけど、だけど、別に必要とする言葉や情報なんてほとんど手に入らなかった。
「今日は何月何日?」
急にイサムが聞いてきた。私はあまりにも急すぎてこたえることができなかった。
「何月何日?」
「11月16日」
「この味いいねって言って」
「いや、意味わからないんだけど」
「いや、言ってみてよ。メルちゃん」
「……この味いいね」
私がそう言うと、イサムはニヤニヤした表情をしていた。私はそれですぐにイサムが次に何をするのかわかった。
「この味いいねと君が言ったから――」
「11月16日はサラダ記念日」
「おー、さすが。文学少女」
「なにこれ」
「今日は俺達のサラダ記念日」
「無理やりじゃん」
私がそう言うとイサムは満足そうにまた、ゲラゲラと笑ったから、私も思わず、つられて笑った。
5時半までイサムは図書室で私と一緒に過ごした。今日も結局、イサム以外の利用者はいなかった。図書室を閉めて、鍵を職員室に戻したあと、玄関を出て、二人でゆっくりと歩き始めた。すっかり辺りは暗くなっていて、冷え込んでいる。息を吸い込むとかすかに冬の匂いがした。カーキのアウターのポケットに両手を入れていても、たまに強く吹く風が冷たくて、そのたびに私は身震いした。
――冬至が近い。
息を吐くと息は白かった。それなのにイサムはブレザーの上に厚手の白いパーカーを着ていた。ポケットに両手を突っ込んでいる。
「寒いな」
「うん」
右側に見えるグランドは照明で白く照らされていた。その中で、野球部とサッカー部は練習をしていた。時折、大きな声が辺りに響いていた。
「元気すぎだろ。こんなに寒いのに」
「そうだね」
「――ちょっと前までは羨ましいって思ってたけど、今はなんとも思わないな」
「――そうなんだ」
私はイサムの話が重く感じ、どうやって返せばいいのかわからなかった。イサムは残りの人生を意識していることをこういう何気ない会話の中で、この一週間、何度感じたかもうわからなくなった。
「優しいな。ホント、メルちゃんは」
イサムはまるで私の気持ちを見透かしたかのようにそう言った。右側を向き、イサムを見ると、いつものように優しい微笑みを浮かべていた。
「――イサムくん」
「なに?」
「どうして、私と付き合いたかったの?」
「――それは内緒」
イサムは左手をパーカーのポケットから出し、そのまま、私の右肘の間に腕を通し、私とイサムはつながった。
いつものように線路脇の路地を歩き、駅まで向かっている。イサムと手を繋いだまま、ゆっくり歩いている。二本の線路が路地と同じ目線で続いていて、路地の街灯でレールが渋く光に反射していた。
だけど、先に見える踏切の様子が変だった。
「ねえ、あれ」
「思った」
イサムもその違和感を覚えたみたいだ。予兆もなく急に鳴り始めた警報と、それに合わせて闇の中に赤色が点滅し始めた。
「マジかよ」
イサムは私の手を離し、すぐに走り始めた。視線の先の踏切の真ん中には、違う学校の制服姿の女子が座ったままだった。
「待って」
私はイサムの後ろを慌てて、追った。遮断器の棒は完全に下がりきった。
――変だ。
女子は踏切の真ん中で体育座りをしたままだった。誰か他の人の助けがほしくて、私は辺りを見回した。だけど、路地の小さな道の踏切だから、当たり前のように私たち以外、誰もいなかった。
私の10歩先を走るイサムは、すでに踏切の手前までたどり着いていた。そして、イサムはなにもためらいなんてなさそうに、遮断器を無視して、線路の中に入っていった。
「イサムくん!」
「危ないから、メルちゃんは待ってて!」
イサムの大きな声が辺りに響いた。依然として、制服姿の女子は線路の上に座ったままだった。ようやく踏切の前にたどり着いた私は、とっさに踏切の非常ボタンを押した。
イサムと女子が何かのやり取りをしているように見える。だけど、右側から大きな音が聞こえてきた。その方を見ると、電車のライトがだんだん近づいてきていた。
「イサムくん。早く!」
私の声がイサムに届いているのかどうかわからない。
あー、終わっちゃう。
私は何もできずにただ、立ったまま、イサムと制服姿の女子を見守っているだけだった。制服姿の女子は未だに座ったままだった。イサムは制服姿の女子の両腕を掴み、引っ張っているように見える。それに答えるようにようやく制服姿の女子は立ち上がった。女子は思ったより華奢に見える。
イサムは女子を引っ張るように反対側の遮断器の方まで歩き始めた。
その直後、私の目の前を耳につく高音を立てながら通過した。
「バカじゃねぇの!」
踏切の警報音が止み、遮断機が開いてすぐ、怒鳴り声が聞こえた。私は反対側にいるイサムと制服姿の女子の方へ駆け寄った。
女子は遮断機の前に座ったまま、泣いていた。イサムは女子の前にかがんでいた。
「イサムくん」
「メルちゃん。今、俺、すごい腹立ってるから話しかけないでくれる」
振り返って、私を見たイサムはすごく怖い表情をしていて、私は思わず息をのんだ。
「――ごめん……なさい」と制服姿の女子は小さな声でそう言った。
「ふざけるんじゃねーよ! なにが死にたかったからほっといてほしいだよ」
イサムは背中からでもすごい剣幕を感じる。女子は踏切の前で座って、噎びながら泣いている。私はバッグから、ポケットティッシュを取り出した。
「あの……。これ、使って」
ポケットティッシュを女子に渡すと女子は無言で、ポケットティッシュを取った。私も仕方なく、イサムの隣でかがむことにした。しばらく、三人とも無言のままだった。私とイサムは女子の様子をずっと見たままだし、女子はひたすら泣き続けていた。
「ねえ。運転手から、女の子、足、くじいたって聞いたんだけど」
「いや。こいつ、足なんてくじいてないよ」
「え、どういうこと?」
「メルちゃん。こういうときは正当な嘘をつかないと大変なんだよ」
私は思わずイサムを見ると、イサムはニコッとした表情をした。
電車が踏切で止まったあと、電車から、運転手と車掌が降りてきて、イサムに話を聞いてたらしい。そのあと、イサムの反対側にいた私にも話を確認しにきた。そして、10分もしないで電車は何事もなかったかのようにゆっくりと発車していった。
一人でぽつんと踏切の前に立っているところを、明るい電車の窓越しに多くの乗客から見られるのはしんどかった。
「――どうして、嘘なんかついたの?」
「仮にこの子が本当の理由話してしまったら、事故じゃなくて、この子の過失になる。つまり、電車を止めた賠償金を支払わなくちゃならなくなる」
なんでイサムはこんなことも知ってるんだろう。
「電車止めるっておおごとなんだよ。仮に飛び降り自殺したら、最悪、その遺族に何千万、何億か賠償請求されることだってあるらしいよ」
「へえ。物知りだね」
「まあな。入院してるとき観てた、ワイドショーでやってたの思い出したんだ」
イサムがそう言ったあと、しばらくの間、沈黙が流れた。女子は静かに泣いていて、私とイサムは女子の次の言葉を待っていた。
「だから、お前は俺に助けられて、ラッキーだったよ」
「……それでも死にたかったの」
私は女子のその言葉で思わず、座ったままの女子を睨んでしまった。
「あっそう。いいよな。生きること放棄する選択があるのって」
「……あんたにはわからないよ!」
女子の声が路地に響き渡った。女子が着ている制服のスカートは他校のものだ。
「は? 知らねーし」
「どうせ、わかりっこないよ。あんたなんかに。生きることがつらい人のことなんて。なに? なんなの。ヒーローぶってさ。私だってそれなりの覚悟であんなことしたんだよ」
「知らねーよ。迷惑かけるような身勝手なことはどうかと思うけどな」
「ねえ。どうしてあんなことしたの?」
私がそう女子に聞くと女の子はしばらくの間、黙ってしまった。きっと、何かを自分の頭の中で再生しているのかもしれない。
「……私、社会不適合者なんだと思う」
「あっそ」
「イサムくんは黙ってて」
私がそう言うと、イサムはバツが悪そうな表情をしながら、大きなため息をついた。
「周りと話が噛み合わないし、友達いないし、いじめられてはいないけど、失笑されたり、無視されたりするし、学校に行くだけでつらく感じるし、生きてる意味なんてよくわからないから、だったら死んだほうがマシって思ったの。――ただ、それだけ」
女子はそう言い終わったあと、立ち上がった。だから、イサムと私も女子と同じように立ち上がり、女子の次の言葉を待った。
空を見上げると月の光が薄い雲で濁っていた。すっと息を吐くと白かった。
「やっぱ、ムカつくわ。理解できない」とイサムは呆れたような口調でそう言った。
「――理解しなくたっていいよ。どうせ、理解されないことだってわかって言ったんだから。あんたたちみたいに人生上手くいってそうな人にはわからないよ」
――なにそれ。ムカつく。
「ねえ。決めつけないでよ。人生上手くいってるって」
「えっ」
女子は一瞬で驚いた表情になった。さっきまで泣いていた両目は暗闇の中でも、充血しているのが見えた。
「全然、上手くいってないよ。少なくともイサムくんは」
「いいよ。メルちゃん」
「イサムくん。よくないよ。――イサムくんはね、もう命が短いの! 勝手に決めつけないでよ。あなたに何があったか知らないけど、イサムくんがどんな気持ちであなたのこと助けたのか、わかってよ!」
今度は私の声が辺りに響き渡った。女子はそんな私に驚いたのか、ぽかんとした表情のまま、私を見つめている。なんでこんなにこの女子のことがムカつくんだろう。
「メルちゃん。いいよ、ありがとう。――俺、病気で余命半年なんだ。だから、ついムキになっちゃったんだよ。悪かったな。いきなり、怒鳴ったりして」
イサムのことが気になって、思わずイサムの方をみると、微笑みを浮かべていたから、私はまだ、納得いかず、だんだんとイライラが込み上げてきた。
「あーあ、なんで俺、あんなに怒っちゃったんだろうなぁ」
結局、私達はあのあとのソワソワして釈然としない気持ちを解消するために駅前のスタバに入り、お互いにフラペチーノを飲んでいた。
「ねえ。イサムくん」
「なに?」
「ごめんなさい。――私、ムキになって、余計なこと、口走っちゃって」
「違うよ。メルちゃん。――嬉しかった」
「えっ」
予想外の答えがかえってきたから、少し動揺した。だから、それを隠そうと、フラペチーノを一口飲んだ。
「今、なんでって思ったでしょ」
私が小さく頷くと、イサムは笑みを浮かべて、フラペチーノを一口飲んだ。
「俺のこと、わかってくれてるなって、すごい思っただよ」
そんなこと言われて、私は急に恥ずかしくなった。そして、その感情と同時に顔が一気に熱くなるのを感じた。
「一瞬さ、俺、あのまま電車に轢かれるのかと思った」
「――よくやったよね。真似できないよ」
「だろ。あの子に気づいて、走り始めた時は、どうせあと半年の命なんだから、電車に轢かれてもいいやって思った」
イサムはそう言ったあと、小さなため息を吐いた。私はイサムの次の言葉をただ、待つことにした。
「だけど、電車のライトが見えたとき、怖くなったんだ。――死にたくないって」
「――そうだったんだ」
「あぁ。――なんでだろうな。もうさ、半分、諦めてるんだよね。俺。別にいいやって。だから、あんなバカげたノートも書いたんだよ」
イサムは右手で髪をくしゃくしゃと何度かいじったあと、上を向き、また小さく息を吐いた。
「なあ。メルちゃん。――やっぱり、先がない男なんかと付き合っても辛くなるだけだろうからさ。別れちゃおうか。このまま」
「え、なに言ってるの」
胸の奥にズキッと鈍くて重い感覚が広がった。
「やっぱ、余命半年ってつらいわ。――もっと、普通にこうやってデートだってしたかったし、メルちゃんのこともっと知りたかったな」
「ねえ、やめてよ。まだ私、なにも答えだしてないんだけど」
私がそう言って、イサムのことをまっすぐ見た。イサムの目元に少しだけ涙が滲んでいるのがわかったけど、私は目をそらさないように心がけた。
「今更、遅いよ。せっかく好きになり始めてるのに、自分だけ、格好つけないでよ。――その気にさせておいて、無責任だよ」
「――悪い、だよな」
イサムはそう言ったあと、すっと息を吐いた。その仕草をみて、私は思わず泣きそうになり、数秒間、上を向いた。そして、涙を我慢できた自分を少しだけ褒めながら、もう一度、イサムをじっと見つめた。
「だけど、マジでいいの。最後まで」
「――いいよ。最後まで、付き合ってあげる。その代わり、イサムくんも最後まで私に付き合ってね」
「いいよ。約束する」
イサムはそう言ったあと、右手の小指を私の方に差し出してきた。だから、私は右手の小指をイサムの小指に結んだ。
「イサムくん。これ、読んで」
私はそう言ったあと、サラダ記念日の文庫本をイサムに渡した。イサムの病室からは、灰色の空と、雪で白くなった街が綺麗に見えている。
「メルちゃんありがとう。さすが。サラダ記念日、読みたいって思ってたんだよ」
ベッドの上に座っているイサムはいつものように微笑んでくれた。
「寒いよ。今日」
「あぁ。本、冷たくてそう思った」
イサムとクリスマスは過ごすことはできなかった。クリスマスの一週間前に入院し始めて、イサムはそのまま、一足早い冬休みを病院で過ごすことになった。
そして、1月になり、ようやくイサムから連絡があり、こうしてお見舞いに行くことができた。
「メルちゃん。クリスマスごめんな」
「いいよ。――4月になったら、桜見に行こう」
「――だな」
お互いに黙ったままになってしまった。
――約束が果たされるのかなんてわからないけど、今は約束するしかない。イサムとの未来を。
「ねえ。私達のサラダ記念日、覚えてる?」
「当たり前だろ。せーの」
「11月16日」
お互いにそう言ったけど、微妙にタイミングがあってなくて、バラバラに言い終わって、それがおかして思わず笑うと、イサムも私と同じように笑ってくれた。
「息ぴったりだね。私達」
「あってないじゃん」
「あってるようなもんだよ。ちょっとずれただけじゃん」
「そうだな」
「そうでしょ」
そう返すと、変なのと言って、イサムはまた笑った。イサムのベッドの先の窓をふと見ると、窓の外はいつの間にか雪がちらつき始めていた。
「なぁ。メルちゃん」
「なに?」
「本当はさ、クリスマスにやりたいことがあったんだ」
「え、なに?」
「もう少し、こっち来てよ」
イサムにそう言われて、私はパイプ椅子から立ち上がり、イサムのベッドの方まで近づいた。
「もっと。柵の手前まで」
そう言われて、私はベッドの転落帽子柵に身体をくっつけるくらい近づけた。
『身体には何本もの線が繋がれていて、それらの線は心電図の機械にまとめられていた』
左手には点滴がされていて、そんなイサムの姿が切なく感じた。
「もっと。ベッドに座って」
「――いいの?」
「ほら、座りなよ」
そうイサムに言われて、私はイサムの方に背中を向けて、ベッドの端に座った。そのあと、すぐに後ろから温かさを感じた。
イサムに抱きつかれたまま、しばらく、お互いになにも話さずにそうしていた。窓の外を見ると、雪がちらつき始めていた。このまま、時間なんて止まってしまえばいいのに。
なぜか辛くなって、息を止めて、我慢しようと思ったけど、涙が一粒あふれてしまい、頬を伝ったのを感じた。
これが君と付き合った数カ月の話だ。
君がいなくなり、桜が咲き、そして、散っても私の気持ちは未だに整理がつかない。
君と何気ない毎日が過ごせたらいいなって思えるくらい息が合う感覚を私は忘れることができないよ。
ねえ。あの世はどうですか?
あの世から私が見えているなら、きっと、このインスタの文章も見られているかもしれないね。
前を向くためには、まだ、時間が掛かりそうだから、私はしばらくフリーターのまま、自分の心の整理をつけて次のことを考えたいと思っているよ。
全部、君の所為って言いたいけど、君を選んだ私の責任もあるし、君はそのことを危惧してくれていたから、すべて私の問題だよ。
だから、今日でこのインスタの更新も辞めようと思う。
最後に、この画像は、最後に彼からもらった最後の手紙だ。
メルちゃんへ
これを読んでいるということは……
とか、辛気臭い話はしないよ!
本当は、あと半年、いや、しぶとく余命なんて無視して生きるつもりだったけど、無理だったわ。
君のこと、もっと知りたかったし、もっといろんなことしたかった。
息があうとか、運命ってこんな感じなんだって思ったよ。
本当のこと、白状します。
実はメルちゃんと付き合いたいと思ったのは、メルちゃんがうしろの席だったからにすぎないんだ。
更に白状しちゃえば、
『あのとき、ものすごく失望していたんだ』
『こんな自分の運命を受け入れることができなかったんだ』
『だけど、あれのおかげで、君の優しさに触れることができたし、初めて愛しいと思える人と出会えました』
最後にこれだけは言わせて。
本当にありがとう。
メルちゃんと付きあえて本当によかったよ。
俺は君が大好きだ。
メルちゃん、
くやしいけど、君の幸せを俺は祈ってるよ。
イサムより愛を込めて。
☆
「ねえ、日比谷くん」
「なに?」
「もし、人が死んじゃうまでの残りの日数を見ることができるようになったらどうする?」
水曜日と同じように僕と涼葉は成り行きで、そのまま、公園までやってきていた。そして、この前と同じ、噴水が見えるベンチに座り、いつものように終わりが見えない話をしていた。すでに夕日のオレンジは深く、薄くなっていて、世界は優しい秋の寂しさに包まれていた。
「小説みたいじゃん」
「私は自称天才小説家だからね。日比谷くんの前だけでは」
「今、自分のこと天才って言ったよ。そう思ってるなら、もっと外に出しなよ。ネットとかでさ」
「いいの。これは自己満足で私の記録を残しているんだけだから」
「ふーん」
僕がそう返すと、冷たい人だねと、笑いながら涼葉はそう言った。そのあと、少しだけ冷たい風が吹き、涼葉の後れ髪が揺れた。
「それでどうするの? 日比谷くんだったら」
「それ、答えないとダメ?」
「ダメに決まってるじゃん」
「意味わかんねーだけど」
「いいじゃん、意味わからなくても。答えて、重要なことだから」
一体、なにに対して重要なんだろう。涼葉はいたずらを仕掛けているときみたいに無邪気そうな表情をしていた。この質問に意図があって、その意図の先にいたずらが仕掛けられているとして、その目的が明かされ、僕がその質問に簡単に騙されていたら、涼葉のことを天才だって思うかもしれない。
「人が死んじゃうまでの残り日数を見ることができたら、その人に優しくするかな。なにも伝えず、知らせず、運命なんだから、受け入れるしかないんだし」
「――そっか」
静かに涼葉がそう言ったから、きっと、僕は涼葉が求めていた回答をしなかったんだなって思った。涼葉は視線をあげて、何かを考えているようだった。
もっと、ドラマティックなことでも言えばよかったのかな。その人が死なないように寿命まで助ける努力をするとか。
「じゃあ、質問を変えるね。もし、もうすぐ死ぬのが、私だったらどうする」
え、めっちゃ中二病こじらせてる質問じゃん。とすぐに言いたくなったけど、僕に視線を戻してそう言った涼葉の表情は思った以上に真剣だったから、そう返すことを僕はためらってしまった。
「つまり、涼葉の余命の日数が見えて、それが僅かだったらってこと?」
「そう、その通り。頭いいね」
「なんか、バカにしてない?」
「だって、話をまとめようとしたじゃん。さあ、答えて」
女王みたいな迫り方だなって、ふと思った。思春期をこじらせた女王が、スペードのジャックみたいなイエスマンの召使に自分が望んだ答えを言わせようとしているみたいだ。
そして、ふと思った。
もし、今、涼葉がいなくなったら、心に穴が空いたような喪失感で僕は苦しくて溺れてしまうかもしれないって。
「どんな死因でも、最後まで一緒にいたいな。1秒でも長く。そして、次の小説ができるのを待つよ」
そう言い終わると、冷たい風がまた吹いた。この風が吹くたびに木々は色づき始めるようなそんな夏を忘れさせる冷たい風だった。僕と涼葉はじっと見つめたままだった。くっきりとして、色素が薄い大きな瞳に吸い込まれそうなくらい、涼葉には透明感があった。
涼葉を見つめながら、もう一度、僕は自分が言ったことを考えた。
少し冷静に考えると、これって、もしかして告白していることになっているかもしれないと思った。
「ねえ」
「――なに?」
「もっと、はっきりしたいな」
「はっきり?」
「――関係性」
静かな声で涼葉はそう言った。急に心臓が忙しくなってきたから、僕は浅く息を吸って、深く吐いた。
関係性をはっきりさせたいってことは、やっぱりこう言うのって、男から言うのが、ベストなのかもしれない。だけど、ドキドキする。
急に訪れた人生で初めて、誰かに好意を伝える機会。
僕の勇気ですべてが変わるなら、僕は自分に素直になろう。
僕は涼葉のことが好きだったんだ。
「涼葉。君と一緒に――」
「あっ、ちょっとまって」と言ったあと、すぐに涼葉は咳き込んだ。何度か、苦しそうに咳き込んだあと、もう一度、僕のほうを見てきた。目元は少し潤んでいた。
「大丈夫?」
「ごめん、緊張したかも。むせただけだから、大丈夫」
「めっちゃ涙目じゃん」
「たまに息苦しくなるんだよね。本当にたまにね。いいよ、続けて」
「なんか余計、緊張するな」
僕がそう言うと、涼葉は、だよね、ムードぶち壊したわと言って、弱く笑った。
5,君の嘘に騙されたい。
ソーダ水で満たした水槽に熱した鉄球を落とすように、私は君に恋をした。
鉄球が水槽の底に沈み、周りは激しく気泡を上げ、水槽の底は熱で日々が入り始める。
それくらい、私は君に恋い焦がれているし、その気持ちを表現したい。
だけど、私はコミュ障でそんなこともできない――。
君――。
湊(みなと)くんと1対1になったのは、図書館だった。
私はいつものように学校の近くにある図書館で本を借りて、帰ろうとしたら、湊くんと入口でばったり会ってしまった。湊くんは私のことを無視するかと思った。
だって、湊くんは私のことなんて、きっと同じクラスメイトとなんて認識してないかもしれない。私はクラスの中でうまく話せない所為で不気味がられていた。だから、空気みたいな扱いをされている。
10月にふさわしくなく、湊くんは長袖の白いワイシャツを腕まくりしていた。
その腕は筋肉質で図書館よりはジムのほうが似合いそうな雰囲気だった。
「おー、柊佳奈(ひいらぎかな)じゃん」と湊くんは、本当に何もないかのように、昨日まで関係性があるかのように、軽やかにそう言ってくれた。じんわりと両手が汗で滲むのがわかる。てか、初めて話すのになんでこんなにフレンドリーなんだろう――。
「――ど、どうも」と私は何も思いつかず、そう返した。
休み時間1軍女子の話を盗み聞きというか、勝手に聞こえてきた話のなかで湊くん人気は、異常なことは伝わってきた。
昨日、帰りのバスで二人きりで、話すのチョー緊張したとか、篠山がコソコソ話していた。きっと、篠山は湊くんと付き合いたいらしい。篠山心晴(しのやまこはる)を囲む、石井澪(いしいれい)も、河岡(かわおか)みすずも、いいじゃん、チャンスじゃんとか、LINE交換した? とか、そういうやり取りをしていたのを思い出した。
「どうもって、恥ずかしがり屋だな。佳奈は」
湊くんはしっかりと、前歯が見えるくらい明るく微笑んだ。その笑顔はきっと、後天性のものじゃないと思う。先天的に明るくて、どんな人もポジティブにしちゃうような、そんな笑顔だ。筋が通ったこぶりな鼻、そして、二重の左目の少し下にある涙ボクロが、かっこよさよりも、愛嬌、かわいさを出しているように感じる。なんか、吸い込まれちゃうくらい、親しみやすそうだし、優しそうで、湊くんはいつもクラスで遠くから見るよりキラキラしていた。
――だけど、何を話せばいいのかわからない。
「俺、こうみえて意外と、読書家なんだよね。佳奈は、もとから読書家だろうけどね」
「――どうも」と私は芸のない他人行儀な返事を返した。本当はもっとまともなことを話せたらいいのに。
「いつも学校の帰り、図書館に寄ってるの?」
そう聞かれたから、私は小さく頷いた。
「だろうね。そんな感じかと思った。てかさ、ここで話すのもあれだから、自販機で飲み物買って、少し外のベンチで話そうよ」
私は急に頭が真っ白になった。そもそも、友達なんていないし、人からこうやって誘われたことも、ほとんどない。小学校低学年くらいで私は周りからあまり誘われなくなった。
「――じゃあ」
「よっしゃ。そしたら、行こうぜ」
じゃあねって言おうと思ったのに、それを遮るように湊くんは急に私の手を繋いだ。私は動揺したまま、何が起きているのか理解しようとしている最中に、湊くんは自販機コーナーの方へ歩き出し、私は引っ張られた。
10月に入ってもまだ、冬は本気を出していなかった。
だから、私と湊くんは、20℃くらいのちょうどいい微温さの中、図書館の向かいにある公園のベンチに座った。私は缶のつめたいカフェオレを買い、湊くんはペットボトルのつめたいブラックコーヒーを買っていた。
ベンチに来るまでも、湊くんは無邪気そうにベラベラと、こないだ篠山とバスで二人っきりになったんだけど、気まずかったとか、LINE聞かれなくてよかったとか、噂を知ってるから、少しだけ嫌気がさしてるって話を、マシンガンを空中に打ち込むみたいに話し続けていた。
私はその間、ずっと、へぇ。とか、そうなんだ。とか、意外。とか、自分でもうんざりするくらい、愛嬌もかけらもない返事ばかりしていた。
なんで、そんなこと、私になんか言うんだろう――。
「あーあ、だから、うんざりしてるんだよ。乾杯ー」
湊くんは一通り、そう言ったあと、私のカフェオレにペットボトルを当てて、コーヒーを美味しそうに飲んだ。だから、私もカフェオレの缶を開けて、一口、飲んだ。
「――ど、どうして、うんざりしてるの?」
「どうしてって、どう考えても俺の内面を評価してくれてないと思うから。みんな外面で近寄ってくるんだよ」
「いいことじゃん」
「よくないよ。どうせ、そんなのすぐに別れるんだから。それで、ここが駄目だったとか、がっかりしたとか、顔の割に大したことなかったとか、そんなこと言われるんだよ」
湊くんは、わざとらしく、ため息をついた。そして、もう、一口、コーヒーを飲んだ。そのあと、私はどうやって話を進めればいいのかわからなくて、そのまま黙ってしまった。
そのあと、しばらくの間、私と湊くんはお互いにカフェオレとコーヒーをちまちま飲んでいた。目の前に広がる空には小さい雲がひとつだけ、風にゆっくりと流されていて、そのうち、ちぎれて消えてしまいそうだった。
きっと、湊くんはこんなコミュ障な私に手を焼いているに違いない。
きっと、気まずいと思っているだろうし、私に声をかけたことを後悔しているに違いない。
「俺さ、陽キャに見える?」と聞かれたから、私は静かにうんと頷いた。すると、だよなって言って、湊くんはそっと微笑んできたから、私は直視できず、そっぽを向いた。
「実は高校デビュー組なんだよね。俺」
「――そうなんだ」
それをわざわざ高校デビューすらしてない私に言うことなのかって考えながら、くるくると空回りしたスピンドルみたいに私はどう会話を続ければいいのか全くわからなかった。
「だから、元々、根暗だし、コミュ障だし、こうやって読書も好んでるんだ」
「なんか、秘密なこと聞いてるみたい」
「別に秘密ってわけじゃないけどね」
「そうなんだ」
「うん。だけど、時々、苦しいときがあるんだ。陽キャでいるの。だから、佳奈には言ってもいいかなってふと思ったんだ。さっき会ったときに」
「なんか、頑張ってるんだね」
「優しいね。佳奈は」
そう言われて、急に身体が熱くなっていくのを感じた。胸にじんわりと感じる不思議な感覚。きゅっと締め付けられるような、ほわっとしてしまうような、そんな変な感じに身体が包まれているみたいだった。
「なんか、やっぱり勇気持って話しかけてみるもんだな」
「え、私に話しかけることが、そんなに勇気いることだったの?」
「当たり前じゃん。女の子なんだし。クラスでは接点ないから、俺のこと、悪く思われてるかもしれないし」
「そんなわけないじゃん。クラスでも好感度高いのに」
「いや、あれは俺が努力して作った偽善の好感度だから」
湊くんがコーヒーを一気に飲み干したから、私も慌てて、残っていたカフェオレを飲み干した。
「なあ」
「――なに?」
「偽装彼女になってくれない?」
「えっ――」
私は言っていることがわからなくて、言葉を失った。
というか元々、半分、失っているようなものだから、コミュ障の所為でなんて返せばいいのかわからなくなっているのかもしれない――。
というか、偽装ってなに?
「あ、偽装って、言い方悪かったな。実は篠山にストーキングされてるんだよね」と言ったあと、湊くんはそっと、私の左手の上に右手を乗せてきた。びっくりして、思わず湊くんを見ると、左手を自分の顔の前に立てて、悪いと言うようなジェスチャーを送ってきた。そのあと、湊くんの右手は私の左手を繋いだ。
「これで、ショック受けてくれたらいいんだけど」と言ったあと、小声であそこ、見ろよ。と首で弱く左の方に一瞬、顎を上げたから、そちらを見ると、かなり先のほうにあるベンチに、私たちの学校の制服を着ているように見える女子高生が座っていた。
「篠山、いいiPhone持ってたから、きっとカメラの最大望遠で俺らのこと、見まくってるぜ」
湊くんがわざとらしく、私の手を繋いだまま、右手を上に上げた。だから、私の左腕は引っ張られるように上がり、胸が思いっきり張り出した状態になって、ちょっと恥ずかしかった。
「よし、これくらい、しとけばいいかな」
湊くんはゆっくりと右手を下げた。だけど、私は手を繋がれたままだった。これが本当の恋だったら、いいのにってふと思って、私はもうすでにそんな湊くんに恋しちゃったのかもしれないと思った。
「佳奈、もう少し、歩こうぜ」
湊くんはそう言いながら、立ち上がった。だから、私も慌てて、立ち上がって、手を繋いだまま、公園を歩き始めた。
あれから、週が明けても、私は自分が湊くんの偽装彼女なのかどうかわからないまま、もやもやした日々を過ごしていた。
今日も、朝、教室に入るとき、ちょうど湊くんと入口で鉢合わせたけど、湊くんは誰にでも接するように「おはよう」と微笑みなが言ってきたから、私は小さな声で「お、おはよう」と最初の「お」の音が掠れたから、言い直したら、まるで自分が動揺しているかのようにどもってしまった。
あの日、結局、偽装彼女ってなに? って聞くこともなく、ただ、湊くんに「助かったよ。ありがとう。この礼はどこかで返すから」と言われて、私はうんと頷いて、公園から駅前まで繋いだままだった手をそっと離した。
じゃあねと言って、湊くんが私が乗る反対方向のホームに繋がる階段に吸い込まれるのを立ったまま、見つめていた。湊くんが階段を降り始め、姿が見えなくなったあと、右手の手のひらを眺めた。
まだ、右手には湊くんの熱が残っているような気がした。
そんなことを考えているうちに6限の数学Ⅱが終わった。机の上に右手を返して、右手を眺めた。当たり前だけど、もう5日も経った右手には湊くんの熱なんて残っていなかった。
息をすっと吐いた。
帰る準備しなくちゃ――。
私は右手をそのまま、右のほうへスライドさせた。『そのとき、』机の端に置いていた赤いシャーペンがありえない勢いでコロコロと机の上を転がり、そして、床に落ちた。
また、やっちゃったよ、ピタゴラスイッチ。
こういう不注意なところが嫌になる。だって、この些細な不注意で、もし、隣の席の子の椅子の真下にシャーペンが入ってしまっても、私はきっと、シャープペンを取ることができない。帰りのホームルームが終わってから、そっと、シャーペンを回収するか、それでもダメなら、掃除当番に落とし物扱いにしてもらって、次の日、こっそり担任にもらいに行く。
もし、掃除のときに捨てられたら、もうそのシャーペンはそれっきりだ。
憂鬱な気持ちで下を見ると、やっぱり厄介なところにシャーペンが落ちていた。右側の席の様子を伺う。1軍のバカ男子二人組、吉岡蒼(よしおかあお)と伊藤誠(いとうまこと)がガヤガヤとちょっかいを掛け合っていた。
シャーペンはちょうど、吉岡蒼と伊藤誠の間に落ちていた。二人はバカ騒ぎの最中で私のシャーペンになんか気づいてもいなかった。
クラスでは奇跡の組み合わせと言われているらしい。
このバカ二人組がクラスの雰囲気を牽引していると言っていいほど、仲が良くて、こうして、チャイムが鳴った途端に常にふざけあっている。
「今日の踊るヒット賞は明らかに俺らじゃないよな」
「残念だけど、ニシマリちゃんだな」
「うぇーい。マネしてよ」
「いいよ。いくよ? ちょ、せんせぇぇぇーん! 全部、忘れましたー!」
「ちょっと私の真似しないでよー!」と声が後ろのほうから聞こえたあと、クラスの3分の1くらいが笑いに包まれた。
こういうとき、私は困る。というか、私にしてみたら、最悪の奇跡だ。こんなうるさくて、よりによって、クラスの中心みたいな場所の席にいるのはつらい。こんなときどんな反応すればいいのかよくわからなくなる。
それも、たまに普通に面白いときがあるから、笑いそうになり、ほころぶ頬を手で覆い、隠したりする。だけど、今みたいに人の真似をして、小バカにするネタは好きじゃないから、周りから笑いが上がるたびに気まずい気持ちになる。
「お前ら、いつからヒット賞決め始めたんだよ」と後ろのほうから、湊くんの声がした。そして、私の席の真横まで来て、バカ二人組の前に立った。
「悔しいなら、面白いことしな。このリア充め」と伊藤誠が言ったあと、うぇーいと言いながら、湊くんにパンチをするフリをしたのを、湊くんは華麗に身体を捻って、パンチをかわすフリをした。
「バーカ。先月から非リアだよ。俺」
「お、そうだったな。おめでとうございまーす!」
「うるせーよ。ヨッシー。お前はアイランドでマリオの配送でもしてろ」と湊くんはそう言いながら、かがみこみ、左手で吉岡の脇に手をすっと入れて、吉岡の脇をくすぐろうとしていた。
「おいやめろよーーー。俺の脇はガラスなんだって。誠、笑ってないで助けろーーー」
「うるせぇ、お前なんて笑い死ね!」と伊藤誠が下品な声で楽しそうにそう言った。湊くんは一通り、吉岡のことをくすぐったあと、再び立ち上がった。
そして、右手を背中のほうに回した。湊くんの右手には私の赤いシャーペンが握られていた。私は驚いて、思わず凝視してしまった。
「はよ」と湊くんは私のほうを向かずにそう言った。そして、手に持っているシャーペンを上下に細かく揺らしていた。私を誘っているかのように――。
「え、なにを?」と伊藤誠はもっともらしいことを言った。
「なんだと思う?」と湊くんは何事もないかのように、そう言ったあと、シャーペンを揺らすのをやめた。だから、私はそっと、湊くんの右手から、シャーペンを取った。
「笑い死ねーーー!」と湊くんはそう言って、再び、かがみ込み、今度は吉岡の両脇をくすぐり始めた。そして、吉岡は本気で笑い死ぬんじゃないかってくらい、息を乱しながら笑い転げていた。
いつもの帰り道を歩いているだけなのに、私の心はふわふわとしていた。気持ち、いつもより早足で、まだ心臓は冷静にドキドキしている。今日もこうして、ホームルームが終わってすぐに学校を出ることができたのも、湊くんのおかげだ――。
というか、どうして、私のシャーペンを拾ってくれたんだろう――。
どうして?
だって、私は偽装彼女なんじゃないの?
私のことなんて、ほっといてもいいのに。
今までみたいに。
「湊、付き合い始めたらしいよ」
「え、マジで。誰と?」
「柊とだって」
「えー、なんで?」
津久井萌夏(つくいもか)が河岡みすずにそう話している会話が聞こえた。津久井萌夏が始めた話は私自身をドキッとさせた。昼休みが終わる15分前に、職員室に提出物を出しに行った。その帰り、廊下を曲がろうとしたとき、このやり取りが聞こえてきた。シャーペンを拾われてから1週間、偽装彼女になってから10日が経とうとしていた。
とうとう、噂になったんだって、ふと思った。そして、そのことが急に嫌になった。今朝『見た夢の中でね』、私、空飛んでたんだよとか、そんなこと言いあえる関係じゃないんだよ。私と湊くんは。ってくだらないことを考えても、噂されているのは現実だった。
廊下の曲がり角の先できっと、二人は話しているに違いなかった。そんな話をしている本人が真横を通り過ぎたら、どんな表情されるかわからない――。
一気に余計な汗が吹き出てきた。
そして、余計に心拍数が爆発的に上がっていく――。
私はその場に立ち止まった。教室に戻りたいけど、戻ることもできず、とりあえず、話を聞くことにした。
「てか、萌夏と真逆のタイプじゃん」
「そうだね。いいんじゃない。私よりきっとお似合いだよ」
「いや、それでも釣り合ってないじゃん」
「そう? 価値観はあいつと釣り合わなかったけどね。私」
「だから、柊と釣り合ってるって言いたいの?」
「そう、そう言うこと」と津久井萌夏が言い終わると、二人はゲラゲラと笑い始めた。
きっと、あの日、篠山以外にも私と湊くんが一緒にいるところ、そして、手を繋いでいるところを見られたんだ。少なくとも、津久井には見られているはずだ。
津久井はクラスの中で一番かわいい子だと思う。
というか、実際に男子にもちやほやされてモテているのは知っている。それなのに、1軍女子にもしっかり馴染んでいて、クラスの立ち回りがすごいなって感心しちゃうときがある。
そんな津久井萌夏も裏ではこんな噂話が好きだったんだと思うと、勝手にそんなのと無縁だと思いこんでいたから、少しだけショックだった。しかもよりによって、私のことだし、私はそもそも湊くんの偽装彼女に過ぎないのに――。
「萌夏って、変な男のこと好きになるよね」
「まあね。私も変わってるからかな。別れたけど」
「別れたってことは普通に戻ったってことだよ。あいつ、イケメンなのに、たまに行動が謎で残念なときあるよね」
「それ、元カノの私にいうこと?」
「あー、ごめんごめん。だって、もう別れたからいいでしょ」
この会話をはたから聞いていると、本当にこの二人は仲がいいのかわからないような会話の内容になってきた。だけど、津久井萌夏はそんなことは気にもとめずに軽やかな声色で話を進めていた。津久井と湊くんが付き合い始めたとき、クラスでもちやほやされて、話題になることが多かった。何かの授業でペアを組むときは周りが、無理やりもてはやして、カップルで組ませて、また、ちやほやするというのが鉄板ネタになっていた。
4月に付き合っていることがクラスに広まり、そして、津久井と湊くんは8月末に別れた。たった4か月で一体、どれくらい湊くんのことをできたんだろう――。それで、それがチャンスだと思ったのか、篠山心晴が9月から、猛烈に発情し始めた。
そして、こないだ湊くんが言ってたことが本当なら、放課後に湊くんのことをストーキングし始めたのも、つい最近のことだったのかもしれない。
「問題は心晴にどう話すかだよね」
「そうだよね――。萌夏が目撃したんだし、萌夏が言ったほうがいいと思うな。私」
やっぱり、この二人、本当は仲が悪いのかもしれない。女の嫌なところが出ていて、私はこんな話、もう聞きたくなくなってきた。
「えー、私が言うのは良くないよ。元々、付き合ってたんだし」
篠山心晴はもう知ってるよ。って言いたくなったけど、朝、教室に入ったとき、露骨に篠山心晴ににらまれたのを思い出した。その目は突き刺すように鋭くて、私は思わず下を向き、自分の机へ向かった。篠山心晴が私のことをじっと睨んだことはきっと、まだ、誰も気づいてはいない。
だって、篠山心晴は私が湊くんと手を繋いでいたことをまるでなかったかのように、湊くんに話しかけていたんだもん。そして、湊くんもいつも通りだったし、クラスの中でこの異変に気づいているのは、湊くんの元カノの津久井萌夏と、篠山心晴と津久井萌夏と交流がある河岡みすず、そして、当事者の私――。
事故に巻き込まれているのはもちろん、湊くんで、その事故にさらに巻き添えにされたのが、私だ――。
そして、ストーカーの篠山心晴。
チャイムが鳴った。予鈴のチャイムだ。
「あー、鳴っちゃった。みすず、もうダメだね。またあとで考えよう」
「わかった。授業中めっちゃ考えておくわー。心晴ショックだろうなぁ」
「そうだね。行こう」
ようやく、二人がゆっくりとした足音が聞こえて、私はようやく水面から出て、息ができるような開放感に感謝した。
今日は図書館に本を返しに行く日だ。だから、私はいつものように借りた3冊の本をカウンターで返した。そして、見慣れた棚を眺めながら、また小説を3冊選び、それをカウンターに持っていった。
いつものように外に出ようとしたら、こないだ、10日前と同じように湊くんと入口でばったり会った。
「佳奈じゃん」
「ど、どうも――」と言って、私はその場を立ち去ろうとした。だけど、湊くんは簡単に私の左腕をつかんできた。その瞬間、また胸が締め付けられる感覚がじんわりと、胸に広がり始めた。よく、ハートを矢で射抜くアニメーションがあるけど、きっと、こういう感覚を表現してるんだって、妙に自分の中で説得力が生まれてきた。
「なあ、こないだのお礼させてよ」
「い、いいよ」
もちろん、私は断ったつもりだった。
だけど、湊くんは私がそう言った瞬間、にっこりと微笑んで、じゃあ、行こうかと言われて、私は10日前みたいにそのまま、手を繋がれて、湊くんに引っ張られるようにどこかに連れて行かれることになってしまった。
「ということで、マジで助かったわ。ありがとう」
そう言って、湊くんは美味しそうに期間限定のフラペチーノを一口飲んだ。だから、私も湊くんの真似をして、フラペチーノを一口飲んだ。口に含むと、口のなかいっぱいにチョコレートとマロンの風味が広がった。
決して安くはないフラペチーノを湊くんは簡単に私に奢ってくれた。
それも、限定のフラペチーノでいいと聞かれて、うんと頷いたら、しっかり2つ頼んでくれた。さらに先に席、座ってていいよって言われたけど、どこに座ればいいのかわからず、困っていたら、湊くんが私の手を引いて、二階の一番端っこの席まで連れて行ってくれた。
そして、そこで待ってて、と言い残して、1階のカウンターからフラペチーノを2つ運んできてくれた。私は友達にもこんなに行き届いたことはされたことがなかったし、もちろん、家族にもそんなことされたことはなかった。そう、湊くんは私にとって、初めて見る人種に見えた。
なんでこんなに気を使えて、こんな、どんくさい私に優しくしてくれるんだろう――。
「――お礼にしては、重すぎるよ」
「え、引いた?」と言われて、私は慌てて横に首を小刻みに振ると、よかったと言って、湊くんは優しく笑ってくれた。
「だよね。よかった。遅くなってごめんな」
「遅くなんかないよ。――まさか、誘われるなんて思ってなかったし」
「そう? 俺は義理固いからね」
「そうなんだ」
「あぁ。あの日から篠山にストーキングされることもなくなったし、マジで佳奈に助けられたよ。ありがとう」
「――お礼、二回目だよ」
あ、お礼しなくちゃ。私は緊張して、いちばん大事なことを忘れるところだった。
「この間……」
「この間?」
「その……シャーペン」
「あー、あれね。どじっ子だよな。意外に佳奈は」
「――あ、ありがとう」
「いいんだよ。あれくらい。それにこれ、デートだし」
「……で、デートなの?」
「うん、そうでしょ。俺と佳奈の初デート。読書が好きで、陰キャでコミュ障の俺たちにとって、ぴったりの場所でしょ。スタバ」
「――男の子とスタバなんて」
「初めて?」と言われたから、うんと小さく頷いた。
「俺は女の子と来るの初めてじゃないけど、もし、タイムスリップして、初めて俺とスタバ行く女の子選べるなら、佳奈がよかったなー」
そんな軽いこと言えるんだ。って思ったけど、そんなこと、湊くんに言われて、私は間に受けてしまいそうになる。――私たちって、本当に偽装なんだよね? って聞きたくなっちゃうけど、偽装でもいいから、『少しでも長く君と一緒にいて、話がしたいなって思った』。それになぜかわからないけど、湊くんとなら、なぜかいつもより、自然に話せている気がした。
「顔、赤くなってるじゃん。かわいい」と穏やかに笑いながら、湊くんはプラスチックのカップを手に取り、もう一口フラペチーノを飲んだ。私はさらに恥ずかしくなり、思わず、右手で口元を覆った。
「なあ」
「――な、なに?」
「あれだけじゃないから」
「……えっ?」
湊くんが、いったい何のことを言っているのかさっぱりわからなかった。
「ちゃんと、守ってあげたい。佳奈のこと」
「――ど、どういう。……ふ、ふうに」
あ、間違った。どういう”こと”と聞きたかったのに、”ふうに”にしたら、余計、話がわからなくなりそうだ。
「佳奈って、意外と察しが悪いんだね。本たくさん読んでるのに。そのままの意味だよ。少し考えてごらん」と湊くんはそう言って、また、意味があり気な雰囲気で微笑んだ。
なかなか眠れない――。今日が週末でよかった。
『考えてごらん』っていたずらに言われたけど、これって、本気にしていいってこと――?
私はますます湊くんのことがよくわからなくなった。ただ、私に声をかけただけなのか、それとも、本気で湊くんは私のことを考えてくれてるのだろうか。
――いや、たぶん、ないと思う。
ないに決まってる。
だけど、『ちゃんと、守ってあげたい』ってどういうことなんだろう。
私は弄(もてあそ)ばれているだけかもしれない。
だけど、もし、それが本当の気持ちだったら、私はいったい、この気持ちをどうすればいいんだろう――。
「ありがとう。助かったよ」
「ううん。いいよ。――だけど、どうしてあんなことしたの?」
私はまた、聞いてはいけない会話を聞いてしまっているみたいだ。私はその場に立ち止まり、誰の声なのか耳をすました。またこの間と同じ、廊下の曲がり角だ。日直だったから、日誌を書ききったあと、職員室に行き、担任の机の上に日誌を置いてきた。そして、あとは帰るだけだと思っていたのに、今日も、こんな横を通りづらいシチュエーションに遭遇してしまった。
「俺は――」
あ、と声を出しそうになったけど、ここで出したら、いけないと本能的にわかったから、私はじっとすることにした。
「そんなにストーカーされてるの、きつかった?」
「――逃れたかった」
「へえ。私と別れなければよかったのにね」
「――そうかもな」
「ふふ、冗談だよ」
「萌夏のはマジっぽくて反応に困るよ」
「だけど、よかったじゃん。結果」
「あぁ。ありがとう」
「だけど、あの行動はいらなかったんじゃない?」
「あの行動?」
「うん。柊と手、繋いでた。付き合ってるんでしょ」
「――いや、あれはただ、利用しただけだよ」
利用――。
待って、じゃあ、スタバで言ってくれたことは――。
「ふっ、最低だね」
「――そうだな。だけど」
もう聞いていられないと思い、私はそっと、その場から逃げ出した。反対方向へ歩みを進めるたびにこないだまで感じた痛いとは違う痛みが胸を占めていく。気がついたら、両目から、涙が溢れていた。一歩踏み出すたび、一滴ずつ、涙が頬を伝う感触がした。
また、あれから1週間、前に本を借りてから10日が経ったから、私はいつも通り、図書館で本を返し、本を借りた。そして、いつものように図書館を出ようとしたら、やっぱり湊くんがいた。湊くんは小さく手を振ってきたけど、私はそれを無視して、下を向いた。
「佳奈じゃん」
「――私のことストーカーしないでよ」
「してないよ。ただ、佳奈が几帳面なだけだよ。だって、こないだも、その前も時間ぴったりなんだもん」
私は顔を上げて、湊くんのことを見た。湊くんはいつものように優しく微笑みかけてくれた。だけど、この微笑みはきっと、嘘だろうし、私を利用するための微笑みなんだ。
最初に会ったとき、私と同じで陰キャで、コミュ障だったって言ってたけど、結局、それもきっと私を利用するための嘘だったんだろうって思うと、どんどん悲しくなってきた。だから、私はもう嫌になって、再び歩き始めた。
だけど、湊くんはこないだと、全く同じように私の左腕をつかんできた。
「――は、離してよ」
「離さないよ」
私は何度か力強く左腕を振り払おうとしたけど、湊くんは私のことを離してくれなかった。
「佳奈、どうしたんだよ。今日」
「――い、いそいでる……から」
私は動揺して、上手く話せない。いつもより言葉に詰まるし、いつもより気持ちが乱されている。そう言ったあと、左腕を大きく上げて、そのあと、力強く振り下ろした。それとあわせて、湊くんは私の腕をすっと離した。だから、私はそのまま、走り始めた。
「――佳奈!」と後ろから大きな声が聞こえたけど、私はそれを無視して、走り続けた。
――もう、いいよ。
湊くんのその優しさがつらいんだよ。私はそのまま駅まで走り続けて、駅前のロータリーで思いっきり息が切れた。
11月になり、急に冬が本気を出した結果、私はすでにブレザーの上にマフラーをまとって登校している。家から駅まで黙々と歩き続けている。外の空気は先月、湊くんに初めて図書館の前で話しかけられたときから比べると、嘘みたいに冷たくなっていた。息を吸うと、冷たい空気と、冬が始まりそうな新鮮な香りがした。
あれから、10日が経った。
あれから、湊くんとは話していない。
私はいつもどおり帰りに図書館に寄る日だから、背負うリュックは借りた本の分だけ重かった。いつものように地元の駅に着き、モバイルSuicaの定期が入っているiPhoneをタッチした。
階段を降り、ホームに着くとちょうど反対方向の電車が発車していった。反対方向の電車はすでに人がたくさん乗っていた。だから、ホームはいつものようにガランとしていた。私が乗る方向の電車を待つ人はまばらだった。
ホームの端の方まで歩き、いつもの乗車口に立った。ブレザーのポケットからレモン味のハイチューを取り出し、そして、包み紙をあけて、口の中に入れた。急に口の中がさっきまで冬の空気で満たされていたのに、一気に夏みたいな爽やかさになった。
「へぇ。朝からハイチュー食べるんだ」
聞き覚えがある女の声がして、びっくりして、声がした右側を向くと、津久井萌夏が立っていた。私は驚きすぎて、なにを話せばいいのかわからなくなった。元々、人と話すときは頭が真っ白になるけど、今の状況が上手く飲み込めず、余計に頭の中が真っ白になった。
「無視しないでよ」
「……お、おはよう」
「あ、そうだね。おはよう。湊の彼女」
「……べ、べつに。ち、違うんだけど」
「違わなくないでしょ。元カノとして、湊から彼女だって聞いたんだけどなぁ。おかしいね」
「おかしく……ないよ」
「動揺しすぎでしょ」
津久井萌夏はそんな私に半ば呆れているようにそう言った。津久井萌夏の、その整った小さな顔でつんとした不機嫌な表情しているのも思わず見惚れるくらい絵になっていた。美人のボブ姿は無敵だなって余計なことばかり考えてしまう――。
てか、やっぱり、1軍女子のなかでは穏やかそうな性格に見える津久井萌夏もこうして二人っきりで話すと、性格がきつく感じた。私に敵意を向けているのか、なにがしたいのか私にはさっぱりわからなかった。
「ねえ」
「……な、なんですか」
「なにその急な敬語。まあいいや。私だって頑張って柊の行動パターン分析して、せっかく二人きりになれたんだから、手短にいくよ」
なんで、私なんかと二人っきりになる必要があるんだろう――。
「柊佳奈、湊のこと、どう思ってるの?」
どう思ってるって言われても、私は湊くんに利用されたんだ。だから、恋以前の話だし、なんで津久井萌夏なんかに話さなくちゃならないんだろう――。だから、私は困って、小さく横に首を振った。
「なにそれ。湊は本気で柊のこと心配してるのに」
「……えっ」
心配? 湊くんが私のことを?
「――ど、どなんして?」
あ、ダメだ。”どうして”と”なんで”が混じっちゃった。
「どうしてもなにも、『私だって知りたいよ』」
私がよくわからないことを言ったのに、津久井萌夏は私の変な話し方なんてどうでもいいみたいだった。じっと、隣で見つめてくる津久井萌夏の大きな瞳に吸い込まれそうになるくらいだった。
だけど、もしかしたら、それだけ本気で何かを私に伝えたいのかも――。
「てか、普通にまだ別れたばかりでこっちは気持ち引きずってるのに、どうしても何もないでしょ。だけど、”友達”の湊が本気で悩んでるから、助けたくなってこうやって柊なんかに話しかけてるんだよ。私も」
”柊なんかに”って、ところに毒を感じて、少し私は怖くなった。
「――悩んでるって。……ストーカーのこと?」
「あー、そうなるんだ。心晴のことなんて、もう、解決してるよ」
「えっ、違うんだ」
「そう。とにかく、湊に会ってくれない? 今日、図書館行くんでしょ」
「な、なんで……知ってるの?」
なんで、私の行動を津久井萌夏は普通に知っているんだろう。そこが怖くて、私は思わず、引いてしまった。
「私は湊と親友だから、なんでも知ってるんだよ。柊って普段、無口だから、常識人なのかと思ってたけど、ホントに鈍いんだね」と言って、急に津久井萌夏の口元がほころんだかと思ったら、そっと微笑んできた。
これはからかわれているのか、それとも、単純に私がおかしい反応を返したのか――。私はなんで、津久井萌夏が笑ったのかよくわからなかった。
「湊、この10日間、ずっと恋の病に悩んでるの。だから、会ってあげて。柊は何か、勘違いしてるみたいだけど、湊はきっと、柊が変わってくれないと平行線のまま終わっちゃうと思う。――ったく、もし、結婚したら、婚姻届の証人、私が書かなくちゃならないじゃん」
――本当だったんだ。だけど、なんで。
「あーあ。私はできなかったけど、湊のこと、幸せにしてあげて。たぶん、私より湊と合いそうな気がする。柊」
そう津久井萌夏が言っている途中で、ちょうど電車がホームに到着した。
私はいつも通り、図書館で本を返し、本を借りた。そして、いつものように図書館を出ようとしたら、やっぱり湊くんがいた。だから、私は思わずその場に立ち止まった。
「――佳奈」
「み、湊くん――」と私が言い終わると、湊くんはふふっと笑い始めた。私はただ、名前を呼んだだけなのに――。
「初めて名前、呼んでくれたな」
私は自分の中では湊くんのこと、名前で呼んでいたつもりだったから、驚いた。というより、心のなかではずっと、湊くんって呼んでたけど、湊くんの前では呼んだことがなかったんだ。
「顔、赤くなってる」
「――ど、どうも」
「困るとすぐにそう言うよな」
私の左腕はいつものように湊くんに掴まれた。だけど、10日前よりは弱くて、優しい触り方だった。
「自販機で飲み物買って、少し外のベンチで話そうよ」
「――いいよ」と私がそう返すと、湊くんはしっかりとした微笑みを返して、そっとだけど、しっかり手を握ってくれた。
10月に初めて話しかけられたときと同じように私と湊くんは公園のベンチに座った。ベンチは11月の冷気にしっかりと包まれていた所為ですごく冷たく感じた。だけど、適度に心臓はしっかりと一定のペースでドキドキしていたから、身体はどんどん温まっているように感じた。
「まず、話し始める前に、とりあえず、乾杯」
そう言って、湊くんは缶コーヒーを開けたから、私も慌てて、カフェオレの缶を開けた。そして、私からそっと、缶を当てた。湊くんは少し驚いた表情をしていたけど、私はそれを気にせず、カフェオレを一口飲んだ。
「俺より、積極的じゃん」
「た、たまにはいいでしょ?」
「いいかも」と湊くんはそう言ったあと、微笑んでくれた。そして、缶に唇をつけ、コーヒーを飲み始めた。私だって少しは『君のこと』知りたい。
「ねえ。湊くん」
「なに?」
「今日はストーカーはいないの?」
「――もう、いないよ」
「そうなんだ」
湊くんは不意打ちされたかのような、少し戸惑っている表情をしていた。今まで、余裕そうな雰囲気を出していた湊くんのこんな表情を見るのは初めてだった。
「佳奈。俺――。最初は本当に軽い気持ちだったんだ。だけど、このベンチでなぜかわからないけど、『なぜか自然に君にいろんなこと話してることに気がついたんだ。なんでだろうって思ったけど、たぶん、これが相性なんだろうなって思ったんだよ』。ここでしゃべりながらね」
私は小さく頷いた。すると、湊くんは最初、このベンチで話したときみたいに、私の左手の上に右手を重ねたあと、私の手を繋いだ。
「だから、あのとき"偽装"って言ったのすごい後悔した」
「――そ、そうなんだ。……でも、私、聞いちゃったんだ。……湊くんと津久井萌夏が話してるところ」
「あー、それかー」と悪気がなさそうなトーンで湊くんは返してきたから、私は少しだけ腹が立ってきた。だけど、きっと違うんだろう――。津久井萌夏があんなに言うなら。
「……私のこと。――り、利用したんじゃないの?」
「ごめん。あのときは萌夏の前だったから、思わずそう言っちゃったんだ。別れたばかりの萌夏にそんなこと言うのはそのとき、ためらったんだよ。反射的に。――たぶん、そのときのやり取り聞いてたんだな」
私はもう一度頷くと、あー、最低だな、俺と言って、湊くんはコーヒーをもう一口飲んだ。
「あのあと、すぐに萌夏に最初は利用するつもりだったって、言ったんだよ。マジでストーカーに悩んでたから。だけど、それは図書館で最初に話しかけたあの瞬間だけだったんだ。話してみたら、マジで気があったんだよ。マジで」
そうなんだ。やっぱり、湊くんが10月、私に優しくしてくれていたのは本当に気持ちがあったからだったんだ――。
「ねえ」
「――なに?」
「彼女になってあげてもいいよ――。本物の」
「えっ」
「――『私なりに考えた結果だよ』」
「ありがとう。――やっぱり、察しがいいね」
湊くんはそう言って、今までで一番柔らかくてきれいな微笑みを返してきたから、私も目一杯、そっと口角を上げた。
☆
「面白かったよ」
「ありがとう」
青色の中にペンで描いた無数の白いコスモスが咲くワンピースをまとった涼葉を目の前にしていると、いまだにドキドキしてしまう。金曜日に告白して、土曜日にデートをして、それでも満たされずに、日曜日になり、今日は午前中から駅ビルに入っているスタバで涼葉と話している。
一人がけのソファに座り、沈み込んでいる涼葉は満足そうな表情をしていた。右手でプラスチックカップを手に取り、中に入っている期間限定の焼きいもをモチーフにしたフラペチーノを一口飲んだ。
「2日に1本ペースって、凄すぎでしょ」
「ねえ、日比谷くん。すごいでしょ。私、樋口一葉の生まれ変わりだから」
「たけくらべ、大つごもり、5千円札」
「なにそれ。変な返し」
僕のことを冷たくあしらったのに満足したのか、涼葉は紙ストローを咥えて、もう一口フラペチーノを飲んだ。僕はノートを閉じて、テーブルの上にノートを置いた。ただ、相変わらず『』の意味はわからなかった。
「あーあ、何気ないこういうやりとりがずっと続けばいいのに」
「なに言ってるんだよ、日比谷さん」
「てかさ、いい加減、名前で呼んでよ」
「いやいや、小田切さんだって、まだ名前呼びしなかった癖に」
「日比谷奏哉くん」
「フルネームじゃん」
「じゃあ、呼んでよ。私の名前」
「……す、涼葉」
ただ、名前を呼ぶだけなのに胸は告白した時と同じくらい、激しく音を立て始めた。
「たどたどしいな」
「奏哉……岬くん」
「最果てかよ」
「ねえ、いつかさ、宗谷岬で年越ししてみよう」
「いやだよ。寒いの苦手だから」
「あそこでね、マイナス10℃の中でみんなでテント張って、年越すんだって」
「へえ。なんでそんなことするんだろう」
「ドキュメント72時間観れば、わかるよ。奏哉くんも感動すると思う」
「いや、その感動具合を今、教えてくれよ」
いやだ、教えなーい。と涼葉はそう言って、またフラペチーノを一口飲んだ。散々、人の名前で遊んだ癖に身勝手だなと思いながら、プラスチックカップを手に取り、僕も涼葉と同じように紙ストローを咥え、フラペチーノを口に含んだ。
☆
サイゼリヤで夕飯を食べ、結局、今日は10時間くらい、涼葉といたけど、駅で涼葉と別れると、さっきまでの楽しさの反動で簡単に寂しくなった。そんなことを思いながら電車に乗っていると、涼葉から《寂しいからもう少し話したい》とメッセージが来たから、単細胞な僕はそのメッセージで同じ気持ちだったんだと嬉しくなった。
電車を降りたあと、すぐに通話をするとさっきまでと、まったく同じテンションの涼葉の声が耳元で聞こえた。そして、またくだらない話の続きをして、僕と涼葉はそれぞれの家に着いた。
寝る準備を一通り終わらせて、机の上に置きっぱなしだったiPhoneを手に取り、真っ暗な画面をタップして、待ち受けにすると、涼葉からの新着メッセージがあると通知されていた。
僕はベッドに寝転んだあと、その通知をタップして、LINEの涼葉とのトークを開くと、こう書かれていた。
《ギリギリまで話したいな》
一瞬、明日学校だしとか、いろんな現実的なことが頭の中に浮かんだけど、たまに寝不足になってもいいんじゃないかなって気持ちに負けて、僕はまた通話ボタンを押した。
「もしもし」
「ねえ。奏哉くん」
「なに?」
「私、今、どんなパジャマ着てると思う?」
「全身、ピカチュウになるパジャマ」
「ドンキに売ってるやつ?」
「そう。似合うと思うよ」
「適当すぎでしょ」
「正解は?」
「男の子だから、ピンクのフリフリパジャマだと思うでしょ?」
「すごい決めつけじゃん」
「じゃあ、今、見せてあげる。耳から離して」
僕はそれで察して、iPhoneを耳元から離した。そして、画面を見ると、一瞬、グレーの丸がクルクル回ったあと、涼葉の顔と首元に広がるグレーのTシャツが映った。
「どう?」
「似合うよ」
「嘘つき。なんでも良いって言うもんじゃないよ」
「じゃあ、付き合いたてで部屋着なんか見せるなよ」
「いいの。少しでも私の事実を奏哉くんに見てもらいたかったの」
「変なのって言いたいけど、涼葉らしいかも」
「奏哉くんの白いTシャツ姿、見慣れなくて新鮮だね」
「やっぱ、変なの」
僕はそう言ったあと、ビデオ通話をオフにした。
「ちょっと、不貞腐れないでよ。格好よかったよ」
「嘘つき」
「あー、バレちゃった。あ、また夢で見たことあるやり取りなんだけどじゃん、これ。まあいいや。嘘がバレるくらいがちょうどいいかも」
「なんだよそれ」と返すと、スピーカー越しで涼葉はくすくすと笑った。そして、そのあと、涼葉が咳き込む音がした。
「大丈夫?」
「ごめん。いつものやつ」
「気をつけろよ」と僕が言っている途中で、涼葉はまた咳き込み、そして、その咳が落ち着いたころに、うんと少し苦しそうな声がした。だから、僕は涼葉が落ち着くまで、少しだけ黙ることにした。
「ねえ」
「なに?」
あ、もう大丈夫なんだ。
「私、もう眠いけど、無理やり通話してるんだ。だから、寝落ちしたら通話切ってね」
「えっ、どうして?」僕はわざと意地悪なことを聞くことにした。
「いくら好きでもいびきは聞かれたくないよ」
「じゃあ、聞いてあげる」
「いやだよ。約束だよ?」
「いいよ。約束する」
「寝る前に言っておくね。奏哉くんのこと、自分のこと晒して、わからなくなるくらい好きになったよ。――おやすみ」
「なんだよそれ」と返すと、数秒間だけ、マイクが涼葉の部屋の空気の音を拾っているノイズだけが聞こえた。
「――涼葉?」
僕がそう聞いてみても、向こうの世界からは空気のノイズが聞こえるだけだった。だから、僕は諦めて、通話を切ろうとした。
「私のこと、好き?」
不意に飛び込んできた涼葉の声に僕は少しだけ驚いた。だけど、僕は素直にこう伝えることにした。
「――好きだよ」
そう伝えても、向こうの世界からの答えはなかった。聞こえる音はまたノイズだけになり、そして、寝息のようなそっとしたリズムが聞こえたから、僕は涼葉に言われたことを守って、通話を切った。
☆
いつものように図書室の鍵を取りに職員室に行くと、顧問から涼葉が休みであることを告げられた。昨日の夜まで話していて、今日、休んだんだと少し驚いてしまって、顧問に理由を聞いたら、あれを見ろと言って、顧問が指をさした。その方を見ると壁には備え付けのホワイトボードがあった。
2年の病欠の欄に涼葉の名前が書いてあった。
ドアの鍵を開け、図書室に入った。そして、電気をつけ、カウンターへ向かい、いつもの事務椅子に座った。グラウンドから聞こえる運動部の掛け声だけが図書室の中で小さく響いていた。
「窓を突き破るくらいの声出して、なにになるんだろう」
僕がぼそっと言った愚痴は、図書室の中には響かず、そして、そんなことを優しく返してくれる人なんて存在しなかった。とりあえず、バッグからiPhoneを取り出し、《サボるなよ 大丈夫?》って涼葉にメッセージを送ったけど、すぐに既読はつかなかった。
右手にiPhoneを握ったまま、数分間、涼葉とのトーク画面をじっと見ていたけど、既読がつかなかった。だから、僕はカウンターテーブルにiPhoneを置いたあと、古いノートパソコンの電源ボタンを押した。
静かな図書室の中で、パソコンがハードディスクを派手に読み込む音が響いた。
☆
ホームで電車を待っている間、もう一度、涼葉とのトークを開いたけど、既読がつかなかった。2日連続のデートのことや、昨日、寝る直前まで涼葉と話したことを思い出した。
思い出す要素、すべてにおいて、涼葉に未読スルーされる要素なんてないように思えた。ため息を吐いたあと、iPhoneをバッグに戻した。
そして、気持ちを紛らわせるために涼葉が住んでいる街の方へ続く、レールを見た。4本のレールは沈みかけた夕日が黄色くキラキラと反射していた。
☆
火曜日になっても、既読がつかず、そして、水曜日になり、一人、図書室で退屈な時間を過ごし、そして、木曜日になってしまった。
目覚めて、すぐにベッドの横においているiPhoneを手に取り、メッセージが来ていないか確認した。だけど、今日も涼葉からのメッセージはなかった。そして、僕は半分、諦めながら涼葉とのトークを開いた。
すると、僕の間抜けなメッセージの横に既読が表示されていた。
そして、そのあとすぐにメッセージが届いた。
《連絡できなくてごめんなさい 入院しました だけど、大丈夫、小説書けるくらい回復してるから安心して》
僕は嬉しくなった。だから、こう返すことにした。
《今から、会いに行くから、病院教えて》
そのあとすぐ、学校の電話番号を検索し、学校に電話をかけ、頭痛と腹痛と悪心の仮病を伝えた。
☆
「バカでしょ」
「バカかもね」
病院の大きな吹き抜けのロビーにある、小さくて丸いガラステーブルを挟んで向き合うように僕と涼葉は座って話始めた。
あのあと、メッセージで病院のURLを涼葉から送ってもらった。そして、病院に着いたのを伝えると、涼葉は入院用の紺色のパジャマ姿のまま、この吹き抜けの広場にやってきた。僕から見て左側は3階分くらいの高さがガラス張りになっていて、ガラスの先は四角い庭園になっていていて、庭園を囲むように病院の建物がコの字に見えた。
そして、右側は通路になっていて、その先には、院内出店の小さなローソンや会計、そして、カフェが見えていた。
「大丈夫なのかよ」
「それよりも、これ先に読んでよ」
そう言って、涼葉は微笑みながら、手に持っていたノートを僕に差し出してきた。だから、僕はノートを素直に受け取った。小説を読んだあと、じっくり話を聞けばいいだけだ。
涼葉の顔色は黄色っぽくなっていて、いい顔色ではなかった。
6、夏色の君に願いを込めて。
全ての恋はシステマティックなのかもしれない。
だって、恋なんて、結局はどうやって、お互いに惹かれて、お互いのことを理解して、そして、そのまま二人で過ごすのか、それとも、お別れしましょうって、なるのか。
その程度のことだ。
その中で、思い出というたくさんの重石をエメラルドとか、サファイアとか、ダイヤモンドとか、そういうメジャーな宝石を紐でくくりつけて、それを心の奥にあるハートにぶら下げる。
別れたら、その宝石は意識的に切り落としていく。
バツっ。バツっ。ってハサミで紐を切っていくことで、その人の思い出を忘れていくんだと思う。
だけど、中には切りたくても無意識が邪魔をして切れない思い出があり、それはきっと、その恋が終わって、何十年経っても、一定の重さを心に与えたまま、自分が死ぬまで一定の質量を与え続けるのかもしれない。
それを思い出すたびに、つらいのか、それとも青かった切なくて、甘酸っぱい、いい思い出になるのかは人それぞれだと思うけど、多かれ少なかれ、失恋を経験した人は、心にブラ下がったままのカラフルで時折、差し込む光を重厚感ある反射をする、エメラルドとか、サファイアとか、ダイヤモンドとか、そういうのを、カフェで一人、ぼんやりとコーヒーを飲んでいるときに、ふと、思い出すのかもしれない。
つまり、私が言いたいことは、恋は全てシステマティックになっていて、大きな恋も、小さな恋も、すべて、その人の人生に影響を与え続けるということだ。
さらに、私が言いたいのは、それは人類が無自覚だけど、意識しているという点、人類すべてに共通しているという点で、システマティックさを感じる。
だから、私はこの現象のことをこう言おうと思う。
システマティックロマンス、と。
かくいう私は、今、海がしっかりと綺麗に見えるベイエリアにあるスターバックスの中で、グラスに入ったアイスコーヒーを飲みながら、さっき思いついたことをiPhoneにかき殴った。
――20歳。
多くのことを学んだようで、学んでいないなと、ふと自分のことを振り返り、左手でアイスコーヒーが入ったグラスを持ち、一口飲んだ。あたりを見回すと、みんなフラペチーノを飲んでいた。
当たり前だ。
先週末に発売された期間限定のフラペチーノを飲みたいって、みんなそう思っているから、世の中、全ての商売が成立するんだから。これも恋と同じでシステマティックなんだ。
高校生までの私は痛かった。
その行動原理ができあがったのは、きっと、恋を覚えたからかもしれない。
そして、それらは未だに自分の中でも不可解だと思っているし、私の場合、宝石が心の中にぶら下がっている感覚はなく、宝石を模した、ダイヤモンドカットされた、プラスチックの塊が心の中でまだ、一生懸命にキラキラと輝いているに過ぎなかった。
小学生の頃までは少なくとも私は痛くなかったと思う。中学2年生で上大内真斗(かみおおちまさと)くんに恋したのが大きな原因だと思う。
上大内真斗くんは、幼稚園のときから一緒だった。小学校に上がり、4回、同じクラスにもなった。
そして、中学2年生になり、また一緒のクラスになった。そして、奇跡はさらに加速して、上大内くんと、隣の席になった。
それは夏休みまであと49日になった5月末の出来事だった。ちなみになんで私が、夏休みまでの残り日数をカウントしていたのかというと、単純に学校が嫌いだったからで、この頃の私は小学生の頃、嘘みたいにそこそこ楽しく過ごしていた日々なんてすっかり忘れてしまうくらい、鬱屈していたからだった。
中学2年生の私にとって、学校へ行く楽しみは上大内くんだけになっていた。
ゴールデンウィークが終わった直後、日直に当たったとき、日直者の名前と、意味もなく、今日の日付を書く、黒板の右端に『夏休みまであと、65日!』と書いたら、先生に無意味に休みの喪失感を強くするなと、朝の会で言われ、クラスの3分の1程度がクスッと笑った出来事を起こした。
元々、4月の時点であまりクラスになじめていなかったこともあり、私は簡単にクラスの婦人公論からは外された。
私はそれなりに勉強し、その間も、まだ、上大内くんしか使っていない、消しゴムの包み紙を外して、『上大内真斗♡夏目芽衣香』という表記をじっと見つめて、頬の弛緩を楽しんだ。隣に上大内くんが座っている日々は楽しかった。
たまに声をかけてくれて、私が、休み時間文庫本を読んでいると、何読んでいるのと聞かれたり、おはよう、暑いな、今日。と言いながら、ワイシャツの胸元を右手でぎゅっと握りながら、バタバタとあおいでいる上大内くんのことを何度も思い出した。
そのたびに、もっと近づけたら、どんなことになるんだろうって、ずっとワクワクし、そのたびに、胸がピンク色に染まる感覚がした。
そんな状況下、上大内真斗くんと私の接点ができたのは、消しゴムのおかげだった。
「なあ、夏目芽衣香(なつめめいか)。消しゴムもうひとつ持ってない?」
上大内くんはすっかり声が変わったばかりの低い声でそう私に聞いてきたから、私の両手は瞬時に汗で滲んだ。
左隣にいる上大内くんは教室の一番窓側の後側という強運の持ち主だった。
そして、その隣に私がいて、教室の隅で、二人で並んでいる、この感覚は海の底に潜り始めた小さい潜水艦の窓から、二人で無数の熱帯魚を見ているような気分に思えた。
「うん、いいよ」と私はできるだけ、かわいくて、静かな声を作り、元々、2つ持っていた消しゴムを渡した。
「え、新品だけど、いいの?」と上大内くんが驚いた表情をしながら、私の方を見てきた。
その間にも授業では三内丸山遺跡の充実ぶりをモデルルームの営業の人みたいに女教師が語っていた。ゴミ捨て場から、ヒスイや土偶がたくさん見つかるくらい、もしかしたら、充実していたのかもって、冗談めいたように女教師は言ったけど、きっと、そのときゴミだと思ったから、捨てたんだよ。
「いいよ、あげる。好きに使って」
「マジ? ありがとう」
上大内くんはそっと、微笑んでくれた。左側で開け放たれた窓から、強風がブワッと入り込み、上大内くんの髪先が、輝きながら揺れていた。それをずっと見ていたいと思ったけど、上大内くんに変に思われるのは嫌で、再び私は開きっぱなしの教科書に視線を落とした。
ドキドキする。
そのドキドキは恋なのか、それとも、スリルなのか――。
そのときの私はまだ、よくわかっていなかった。だけど、20歳の私が思うにこれはスリルだ。
だって、貸した消しゴム、紙で覆われた露出していない箇所には、『上大内真斗♡夏目芽衣香』って書いてあったんだから――。
結局、人生で最初と言っていい、恋愛関係での、このスリル体験は私の心の中にキラキラと光って、ぶら下がったままだ。
そんな上大内くんと1か月後、手を繋ぐことになる――。
夏休みまで、あと、3日。この日は、期末テストが終わり、誰がどう見ても最高な日だった。
だけど、依然として、上大内くんから、なにもリアクションが返って来なかったから、私はこのまま、何も起きずに夏休みに入ってしまうのかと思うと、少しだけ嫌になった。
というか、今更だけど、自分の行動原理が謎だなって、後悔もしていた。そもそも、《上大内真斗♡夏目芽衣香》って書いてある消しゴムを反射的に上大内くんにあげるなんて、どうかしている。
本当に後先なんて考えていなかったと、あれから一ヶ月も経ったのに今更、後悔し始めていた。
テストが終わり、この日も私はぼっちのまま、そそくさと、教室を出て、まだ誰もいない、玄関まで直行した。
玄関はまだ電気がついていなくて、薄暗かった。
そして、ひんやりした空気が、下校一番乗りであることを教えてくれているように感じた。
それが唯一の誇りだと、そのときの私はなぜか、そう思っていた。
一年ちょっとで、薄汚れ、マッキーで書いた自分の苗字が少し黒から、藍色がかり始めた上靴を脱いだ、そのとき、
「夏目芽衣香」と低い声で呼ばれ、え、私と同じくらい早く帰る人がいるの?
ってよくわからない考えを思い浮かべながら、左側を向くと、上大内くんが、右手を上げて、立っていた。
「えっ」と私はそう返すのが精一杯で、約3秒間の時が失われたように感じた。
「一緒に――、帰ろう」と、上大内くんは少し詰まり気味に、そう言ったから、私は信じられなかった。
だって、これ、『夢で見た光景、そのまんまだったから』――。
という設定にしたら、きっと恋が成就するだろうなと思いながら、私は満足げな気持ちに浸っていた。
それなりにテスト勉強をしたご褒美が上大内くんと二人きりなんて最高だ。153センチの私の横にいる、上大内くんとはきっと身長差が20センチもある。上大内くんはきっと、170センチを超えているし、それが、大人っぽく感じるし、何より、はたから見たら、それはきっと、理想的な身長差で、私と上大内くんは似合っているに違いないと思った。
「ねえ、夢で見たままだよ」
当時の私は中二病を拗らせているなんてこと、気にも留めずにそう言ってあげた。そうすることがいい女の条件だし、ロマンティックだと思っていたから。
「なんだよ。それ」と、わりと真剣なトーンで聞き返した上大内くんは、なんでこんなに純粋でかわいいんだろうって、いい女設定のまま、たった一言、そう聞き返してくれた上大内くんに対して、上から目線でそう思った。
「玄関で、話しかけられると思ったんだ。いつか」
《いつか》と付けたのは、そういう願望がありますよって、アピールだ。ちゃお、りぼん、なかよし、フラワーコミックス。世の中の少女コミックから頂いた、必殺恋愛術だ。
「マンガみたいだな、それ」と軽く笑いながら、返され、図星すぎて、嫌な気持ちになった。
だけど、この田舎町の潮風は夏らしい潮風をしっかりと運んできてくれていて、潮の香りでその気持ちすらも、一瞬で爽やかな気分になった。
そこで私は、もうひとつ試してみたいことを思いついた。
「ねえ」
「なに?」
「――帰るだけじゃないよね?」
「えっ」と驚かれてしまい、私の方がむしろ、その3倍くらい驚きそうになったけど、ぐっと我慢した。きっと、上大内くんはこういうことに疎いんだ。だから、こんな、かわいい驚き方をするんだ。だったら、私から、引っ張ってあげるしかない。胸の中で、親がいつも車の中でよく聞いていた、ZARDの《負けないで》のイントロが流れ始めて、私の気持ちは勝手に舞い上がり始めた。
「――二人で、コーラ飲みながら、海見よう」とそっと、言うと、急に顔が熱くなるのを感じた。首から上がり、頬も、そして、耳の先まで一気に血流が巡るのを感じた。
「せっかくだし、そうするか」と上大内くんはそう言って、右手を前に突き出したかと思うと、上大内くんの右手の人差し指の先には赤い自販機があった。
手に持つコーラは冷たく、そして、太陽はジリジリしている。
砂浜から続く海岸線の先には半島の先端が見えていて、お椀をひっくり返したような低い山には薄くて白いベールがかかっていて、はっきりしていなかった。
「そこに座ろう」と上大内くんは、砂浜へ続くコンクリート階段を指さした。
15時過ぎの平日金曜日。田舎町の浜辺にいる人はまばらだった。数人の人が砂浜の上にレジャーシートを敷いて、海を眺めていたり、海に入っている人の姿が見えた。
階段に座ると、夏の熱気を感じた。上大内くんとこんなに至近距離になれたのは始めてのことだったし、何より、男の子として意識した友達とこうして、学校以外の場所で横並びになって座るのは単純にドキドキした。
上大内くんはそのあと、なにも言わずに缶を開けて、炭酸が抜ける音が涼しく感じた。
だから、私も缶を開け、缶から二酸化炭素を排出し、地球温暖化に参加した。フロンガスでオゾン層が破壊されるとか、海面上昇しているとか、そんなのは私にとってどうでもよかった。
それはきっと、上大内くんにとっても同じで、そんなことよりも、将来、大きくなったときに軌道エレベーターで、月の海原を一望できるホテルに一緒に行ってみたい。
まだ、そんな関係じゃないけどね。
上大内くんは缶を口づけ、喉を鳴らして、コーラを飲んだ。
首を上げたときに喉がぼこっとしているのが見えて、男らしいなって思い、そう思っている自分に急に緊張を感じたから、上大内くんと同じように、私はわざと喉を鳴らしてコーラを飲み始めた。左手で缶を持ったまま、右手を喉に当てると、飲み込むたびに、上下に動く自分の喉を感じた。
私はそれに満足したあと、なんとなく、いい女風になればいいなと思って、海を眺めることにした。ちょっと前に読んだ、恋愛のコラムで男は追われるより、追うほうが恋に燃えるっていうのを思い出した。
「なんで喉に手あててるの?」
あ、しまった。喉に手を当てながらコーラを飲む女なんて、全然、魅力的じゃないじゃん。
「――喉ごしにコーラの冷たさを感じるかなって」
いつもの変な癖が出てしまった。私は私のことが嫌になって上大内くんを見ることができなかった。
「ホント?」と聞かれたから、結局、私は上大内くんを意識的に見ることにした。
上大内くんがいる左側に視線を向けると、上大内くんは、さっき私がコーラを飲んだときのように、左手で缶を持ち、缶を口に当て、右手を喉にあてていた。
私はそのことが受け入れられなくて、少しだけ引いた。
実際に他人がそうやって私の変なところの真似をされると、よくわからない気持ちになる。
「なあ」
「なに?」
「消しゴムみたよ」
「えっ」
私の中で急に時が止まりそうになり、危うく持っている缶を落としそうになった。
あー、やらかしてたんだ、私。
上大内くんへの恋が終わったかもしれない。そう思いながら、恐る恐る上大内くんを見ると、上大内はなぜか優しく微笑んでいた。
「夏目芽衣香」
「ねえ。ここまで来たら……。下の名前で呼んでよ」
なにかのドラマで言っていたなセリフを焼き回して、小さな声で上大内くんにそう返してあげた。そして、瞬時に頭の中でZARDの《揺れる想い》が流れ始め、恋が始まる予感を私はしっかり味わうことにした。
「じゃあ。……芽衣香」と上大内くんは慎重そうな低い声でそう言ってくれたから、私は運命を受け入れる決意をするために、息を飲んだ。
「大体さ、私と一緒に居てもいいことないと思うよ」
これも焼き回しのセリフだ。
「芽衣香、違うよ、それは。俺はもっと知りたいと思ったんだ」
「――何を知りたいの」
「全てだよ」
上大内くんは前を向いたままだったから、私は上大内くんの横顔を眺めていた。制服の白い長袖ワイシャツを腕まくりした腕は、しっかりとした筋肉質で、すこしだけ日焼けしていた。
耳に少しだけかかっている長めの髪は風で揺れていて、大きいはずの目をあえてなのか、細めながら、海を眺めている、そんな上大内くんは最高に夏が似合うと思った。
「――がんばって」
私も同じ気持ちだよ。いつか読んだ恋愛コラムで、男の子が告白するのを、ためらっていたら、そう言えばあなたの気持ちは伝わるよって。そして、男の子のハードルもぐっと下がるって。
「え、なにを?」
――なにを? って決まってるじゃん。
「意外と鈍感なんだね」
私はそう言って、上大内くんの頬にキスをした。触れた頬は柔らかくて、私が唇をそっと離すと、すでに上大内くんの顔は赤くなっていた。
「やっぱり、変わってるな。そういうところが好きだよ」
そのあとすぐ、私の唇は簡単に塞がっていた。
『だから、告白されて嬉しかったよ』
全ての恋はシステマティックなのかもしれない。
20歳の私は一通り、自分の恋愛観をiPhoneに書きなぐり終わると、少しだけ気持ちがすっきりした。
テーブルにiPhoneを置き、スタバの中心から、店内の様子を見渡した。私が自分のなかに潜っている間も、穏やかな空気は変わらないままだった。グラスを持ち、紙ストローでコーヒーを一口飲んだあと、再び、グラスをテーブルに置いた。
上大内くんとの恋は、結局、一年すら持たなかった。
付き合い始めて、数ヶ月して、付き合い始めたことをクラスメイトに目撃されて、そこから、二人で付き合っている雰囲気ではなくなり、クリスマスが来る前に自然消滅してしまった。高校も別の学校へ進んでしまったため、本当に接点が無くなってしまった。
私の痛い価値観を初めて肯定してくれたのは上大内くんだったし、そんな私をしっかり知ろうとしてくれていたのは、今まで知り合った男の子の中でも、上大内くんだけだった。
みんな、私のことをバカにしたり、もう少しまともかと思っていたとか、そんなことを言って、からかった。言った本人は冗談だと思っているだろうけど、私にしてみたら、やっぱり普通じゃないんだと、そう言われるたびに嫌な気持ちになった。
そのあとから、私は上手く恋愛ができなくなってしまった。20歳になるまでの間、上大内くんを超えるような人なんて現れなかった。
「おまたせ」と後ろから声がした。
だから、私はソファの背もたれ越しに振り返ると、そこには20歳になった上大内くんが目の前に立っていた。
「久しぶり。というか、こないだはタイミング合わなくてごめんね」
「いいよ。インスタのアカウント教えてくれたじゃん」
上大内くんはそう言いながら、私の向かい側に座った。左手にはグラスのアイスコーヒーを片手に持っていた。
「フラペチーノじゃないんだ」
「それはこっちのセリフだよ。店入ったとき、芽衣香の席見たら、フラペチーノじゃないから合わせてみた」
「変なの」と私が答えると、それはこっちも言いたいよと言って、上大内くんは弱く笑った。
20歳になった上大内くんとの再会は電撃的だった。
昨日の夕方、駅でばったり会った。私はバイトに行く途中だったから、上大内くんの誘いを断ってしまった。
「声、かけられると思わなかった」
「これを見てもそう思う?」と言いながら、上大内くんは右手を下の方に下ろし、なにかをパンツのポケットから取り出そうとしているように見えた。そして、握った右手をテーブルの真ん中に置き、そして、握っていたものを置いた。
「あのときから、ずっと持ってたよ」
テーブルには新品に近い消しゴムが置いてあった。私はそれをためらいもなく、手に取り、包み紙を取ると、《上大内真斗♡夏目芽衣香》と消しゴムの表面に書かれていた。
「――つまり」
「やり直そうってこと。あのとき、自然消滅させて、悪かった」
「いいよ」と私はもう、別にいい女ぶる年頃でもないから、そう素直に答えた。
「芽衣香」
「――なに?」
「芽衣香と一緒にいたほうが、絶対よかったよなって思うことがたくさんあったんだ」
「――私もだよ」
「芽衣香のこと、もっと知りたい。『君のことがずっと好きだったから』」
視線を消しゴムから、上大内くんに向けると、上大内くんは、寂しそうな表情で微笑んでいたから、私は久々に上大内くんのことを知りたいと思った。
☆
「具合悪いのに、よく書けたな」
「私、才能あるから」
いつもなら、だったらその才能を世に出せって強く言い返していたところだけど、涼葉の血色の悪い顔を見ていたら、そんな気になんてなれなかった。
「面白かったよ」
「――ありがとう」
涼葉は静かにそう僕に返してくれた。左側の背の高いガラス窓から、午前中の白くて爽やかな光が差し込んでいて、今、座っている場所が少しだけ暑く感じた。もうすぐ10月になるのに、ここだけ夏が戻ったようなジリジリした暑さに感じた。
「ただ、心配だよ」
「――実はね、大丈夫じゃないんだ。私」
涼葉の声は静かすぎて、嘘を嘘と言えるような雰囲気ではないように感じた。というか、きっと、大丈夫じゃないのは本当なんだと思う。
”自分がこの世界に存在していることを自分の言葉で残したら、かっこいいかなって。”
そう言っていたことを思い出した。まだ2週間も経っていないあの言葉がすべてを語っていたのかもしれないと突然、頭の中で結びつき、そして、まだなにも起きていないのに、嫌な気持ちで息が詰まりそうな感覚がした。
「まさか――」
「そう。そのまさか。余命宣告では1年前に死んでる予定だった」
その瞬間、A Day in the Lifeが流れ始めた。静かで夢の中みたいな穏やかな曲と、アラームで起こされ、慌ただしい日常が始まる曲が1曲になった世界で、その穏やかな世界が終わるとき、オーケストラのストリングスが徐々に大きくなり、不気味さを作る。
そして、不気味さで夢から現実に戻る。
この不気味なストリングスのところだけが、何度も脳内で再生されているように感じた。
「私、1年前には死ぬはずの診断だっただよ」
「待って。もう、余命宣告は受けてたってこと?」
「珍しく察しが悪いね。そうだよ。もう、中学生のときに余命宣告されてたんだ。だから、今、こうして奏哉くんが私と話してること自体、奇跡なんだよ」
僕は次に涼葉にかける言葉が思いつかなかった。そして、少し前のやりとりをまた思い出した。
”もし、人が死んじゃうまでの残りの日数を見ることができるようになったらどうする?”
”じゃあ、質問を変えるね。もし、もうすぐ死ぬのが、私だったらどうする”
「あの話、全部、涼葉のことだった」
「気づいちゃった?」
いつものようにおどけて、そう返す涼葉のあどけない表情はいつも通りだけど、そんな表情、黄色い顔してじゃ、似合わないよ。
「あのとき、言ってくれたこと嬉しかったよ。だから、今日、言うことに決めたんだ」
「なあ」
「なに?」
「カフェインは飲んでも大丈夫なの?」
「ふふっ、なにも脈絡ないじゃん」
「ちょっと待ってて」
僕はそう言いながら、立ち上がり、カフェの方へ向かった。
☆
なんとなく、身体を冷やしちゃいけないと思い、ホットのカフェラテを2つカフェで買って、ペンギンみたいな間抜けな歩き方をしながら、涼葉がいるテーブルへ戻った。
遠くから涼葉を見ると、ノートを広げて、何かを書いているようだった。
ゆっくり慎重に歩き、ようやっと涼葉の元へ辿り着き、カフェオレが入った紙コップを涼葉の前に置くと、ありがとうと小さな声でそう言いながら、ペンでノートに何かを書き続けていた。
僕が椅子に座っても、その作業が終わる気配がなかったから、僕はバッグからAirPodsと、iPhoneを取り出した。そして、AirPodsを耳につけた。
「ねえ」
涼葉は急に書くのをやめて、顔を上げた。
「なに?」
「片耳で聞かせてよ」
「えっ。ダサい曲しか入ってないよ」
「いいの。ビートルズの明るい曲聴きたい気分なの」
弱く微笑んだ涼葉は左手をこちらに差し出してきたから、僕は左耳のAirPodをとり、そして、涼葉に手渡した。
「なに聴きたいの?」
「そんなのわからないよ。私、ヘルプしか知らないもん」
「わかった。じゃあ、とびっきりダサい曲かけてやる」
僕はiPhoneでSpotifyを開いて、抱きしめたいを流した。すると、涼葉ふっと鼻で笑ったあと、再び何かをノートに書き始めた。
☆
「できたー」
「おつかれ」
僕がそう返すと、涼葉はペンを机の上に置き、両手を組んだあと、両腕をあげて身体を伸ばした。
テーブルに置いたiPhoneをタップして待ち受けを表示させると、涼葉がノートに何かを書き始めてから、2時間が経っていた。その間に僕はずっとニュースフィードを見たり、SNSを見ていた。
その行為は涼葉と比べて、あまりにも無駄に思えた。涼葉の時間は限られているのに。
「ねえ、奏哉くん」
「なに?」
「どんな話、書いたと思う?」
「恋愛小説に決まってるだろ」
「わからないよ。急にミステリーとか書いたらどうする?」
「ノートを閉じて、ビートルズを聴くことに戻る」
「酷いなぁ」
「嘘だよ。どんな小説でも読むよ。涼葉の小説だったら」
「ありがとう。じゃあ読んでね」
そう言って、涼葉は開きっぱなしだったノートを僕の方に向けて、差し出してきたから、僕は両手でノートを手元に寄せた。
7、ずっと一緒に生きていたいな。
体は必死に生きようとしている。
酸素マスクをつけ、僕はベッドの上で仰向けになっている。
呼吸の仕方がわからず、身体が痙攣して動いている。
自分が思っている以上に意識が追いついていない。
アラートが鳴り続けている。
アラートのたびに意識が歪み、苦しさが時間を支配しているのを感じる。
もう、終わりなのかもしれない。
17歳、僕は十分生きることができたのかな。できたら、もう少し自由に身体を動かして、『もっと自由に青春を過ごしてみたかったな』。この状態になって、2週間が経った。もう、十分なのかもしれない。
去年、お互いに病弱だった僕と君が奇跡的に元気だった頃を思い出した。君とはもう会うこともできないんだと思うと、つらくなった。君も僕と似たようにベッドの上で戦っているらしいから、最後にLINEで「今まで、ありがとう」とだけ、伝えたかったな。
花火の日、君はこう言っていた。
「あーあ、ずっと一緒に生きていたいな。もし、私が先にいなくなっても忘れないでね」
先にいなくなるのは僕のほうかもね。
僕は君との世界をもっとしっかり作って、楽しみたかったよ。
僕はずっと、君のことを思い続けるよ。
そう思い、去年の夏、君と一緒に見た花火のことや、君の顔を思い出しているうちに、君との初恋が儚く消えていくように、瞼が自然に落ち、意識がふわりと飛んだ。
気がつくと、僕は立っていた。
辺り一面、青くて透き通った色をしていて、空を見ても、地面を見ても、どこも青かった。
なんで、こんなに青い世界なんだろうって、ふと、数秒間、考えてみた。
そして、僕はこんな結論を出した。
きっと、日差しのように、空から射す、光自体が透き通った青だからかもしれない、と。
右手を前に出し、手のひらを見つめた。何度か右手を握ったり、開いたりを繰り返したけど、感触はいつもどおりで、そのままだった。そのあと、右腕を上に上げたり、下げたりをしてみた。青みがかった影も一緒に上下した。
そして、僕は振り返って、反対側の空を見てみた。
青白い空の先には、青い球体が輝いていた。
月なのか太陽なのかわからない、今まで見たことのない色をした光源体だった。
すっと、息を吐いた。
そして、思いっきり息を吸った。空気はひんやりしていて、息をするたび、運動した後に水分を取ったときの爽快感のような心地いい冷たさでとても気持ちよかった。
きっと、南極の夏の空気はこれくらい澄み切っていて、朝起きたばかりのペンギンはこの空気を思いっきり吸い込んだあと、海に潜り、魚を取りにいくに違いない。
それくらい、僕にとってこんな澄み切った空気を吸うことは初めての感覚だった。
だけど、空気は冷えているはずなのに寒気のような冷たさはなく、風もない。
「こんなところで一体、何をすればいいんだろう」
空気を切り裂くつもりでそう呟いてみたけど、僕が発した言葉はきっと、誰にも届いていなかった。辺りを見渡したけど、なにもなかった。広がるのは青白い世界だけで、僕はこの世界の中で一体、何をすればいいのか、わからない。
そして、僕以外の誰かとこの状況を共有したくなった。単純に寂しいし、僕はこんなよくわからない世界の中でたった一人きりだってことを信じたくなかった。
昔、ひいおじいちゃんが言っていた。
自分から動かなかったことが人生の中で一番後悔したことになるって。
だから、僕はその言葉を信じ、なにかを見つけたくて、歩くことにした。
もう、どのくらい歩いたのかわからない。
感覚がわからないまま青白い地平線を眺めながら、ずっと歩き続けて、ようやっと、なにかが見えてきた。
横一直線に伸びている白い道とその脇にある二つの物体が見えた。最初は豆粒程度の大きさだった物がだんだんはっきりと形が見えてきた。
「誰かいるかも」
そう言ったあと、ふっと、息を漏らしながら笑ってみた。
だけど、孤独感はそんな簡単に消えなかった。
僕はその物体まで行くしかないと思った。それまでやることもないから、僕は歩数を数えながら、その物体の方へ歩くことにした。
2222歩目。
僕は物体の目の前にたどり着いた。
物体はベンチと奇妙な形をしているバス停だった。正直、がっかりした。
バス停は一本のパイプと簡単な看板でできており、パイプの下のほうはうねうねとらせん状になっていた。
ちょうど真ん中あたりで《く》の字にへし曲がっていて、へし曲がっているところの上からはまっすぐと天に向かって伸びていた。バス停の看板は黄色くて、三日月の形をしていた。
その下に、時刻表の看板がついている。
だけど、時刻表の文字や、バス停の名前を読むことができなかった。なんて書いてあるのかわからない。文字は書いてあるのはわかるけど、その文字がどんな音を発し、どんな言葉の意味なのか、全くわからなかった。
「バカになったのか」
バカ丸出しで、バカになったのかという自分がバカみたいに思えた。口があいたままだったことに気づき、僕は口を閉じ、鼻から息を吸って、そして、吐いた。
僕は仕方なく、ベンチに座ることにした。座ったところで大したことは起きなかった。
また、無性に寂しい気持ちになった。
僕はふと入院したときのことを思い出した。
こんな最果てみたいな世界で僕は一体、何をしているんだろう。病弱だった僕は入退院をこれまで何度も繰り返してきた。その間にどれくらい治療費がかかったのかわからないし、その治療費に対して、僕の余命を伸ばすことができていたのかわからない。
あらためてゆっくりと空を見ると、不思議だった。
青に白を混ぜたような色をしていた。しかし、透き通っているクリスタルのように濃くもなく、薄くもなくちょうど良い色をしている空だ。光源体は相変わらず濃いブルーが地表を照らし、空気は新鮮で、暖かさも、ゆりかごが置かれた部屋でしっかり管理されているエアコンくらい、程よくあり続けた。
遠くに何かが見えた。
それは最初こそは小さな点のようなものだったけど、こちらに近づいてきている。
僕は思わず立ち上がって、それを凝視し、近づいてくるまでの間、秒数を数えながら、近づいてくるのを待った。
456。
457。
僕はここで秒数を数えるのをやめることにした。
偶然にしては出来すぎていると思った。
僕と同い年くらいの女の子が目の前に立っていた。女の子は白いワンピースを着ていて、髪は綺麗な黒髪ストレートで肩までかかっていた。そして、ぶわっと強い風が吹き、髪先やワンピースの裾が右に流されていた。
しばらく、目を合わせたまま二人とも黙ったままだったから、僕は素直に今の気持ちを相手にぶつけてみることにした。
「――ようやっと人に会えた」
「あなただれ?」
そう言われたから、自分の名前を言おうとした。だけど、自分の名前がわからなくなった。
「――わからない。思い出せないんだ」
「なにを?」
「名前……」
「そんなわけないでしょ」
「じゃあ、名前教えてよ。君の」
僕がそう言い終わると、女の子はすっと息を吐いたあと、上を見上げてしまった。あー、やっぱりそうなんだって、素直に思ったのと、最後に花火をみたときに、僕の隣に一緒にいてくれた誰かのことをふと思い出した。
だけど、その誰かの名前も思い出すことができなかったし、あれだけ記憶をとどめようと努力したはずなのに、誰かの顔を思い出すこともできなかった。
ただ、『ずっと一緒に生きていたい』と言われた声だけは、はっきりと覚えていた。
「本当だったね」
「そうでしょ」と僕がそう返すと、女の子は両手で髪をくしゃくしゃとしたあと、髪をさっさっと、整え、そして微笑んできた。だから、僕もそっと優しさを意識して微笑みかえした。
「私以外の人が居て安心した」
「僕もだよ。歩き疲れただろ、ベンチに座ろう」と誘うと、女の子は小さく頷いた。
「君のこと、花火って呼んでもいい?」
「――なんで花火?」
「君を見た瞬間、花火のことを思い出したんだ」
「もっと、かわいくしてよ。それだったら、ハナがいい」
「そうだね。ハナ」
「じゃあ、あなたのことは、ヨルって呼ぶね」
「え、どうして?」と僕はどうせ、花火だから、それに合わせてくれたんだろうと思ったけど、それじゃあ、会話として味気ないと思ったから、ハナに理由を聞くことにした。
「あなたに会ったとき、――夜の住宅街で、誰かに手を繋がれた感触を思い出したからだよ」
それぞれ会った瞬間に、全く別な人のことを思い出していたんだと思うと、なんだか、僕らは本当に孤独で寂しさを抱えていたのかもしれないなって、ふと思った。
「似たような理由だね」
「私たちって、まだ会ったばかりなのに、似た者同士なのかもしれないね」
辺りにハナの声が響いた。それは真冬の雪が降り積もった森の中で、間違って冬眠から目覚めてしまったリスみたいな寂しさを感じた。きっと、ハナは今、隣で座っている印象そのままに、きっと現実世界でも透明感のある子なんだととも思った。もし、現実世界でハナと会っていたら、一体、僕たちはどんな関係になっていたんだろう――。
だけど、すでに自分の名前も忘れるほど、現実世界で暮らした記憶は薄くなっていっているような気がする。ここが現実ではないどこかの世界であるということはわかるけど、もし、この世界にとどまることになったら、青しかないこの世界で、一体、僕は何をすればいいんだろう。
忘れかけている記憶、現実世界に僕を大切に思ってくれていた人がいるのに。
「どこから来たんだろうね。僕たちって」
「せっかく、人と出会ったのにセンチメンタルを詰め合わせたような言い回ししないでよ。もっと楽しい話がしたい」
「こんな状況で、自分が何者なのかもわからなくなっている状況なのに、ハナはよくそんなことが言えるね」
「それは命には限りがあるから楽しんだ方がいいって、昔、母親に言われて育ったからかもしれない」
「お母さんのこと、覚えてるんだ」
僕がそう言うと、もう顔は思い出せないけどねと、ハナは弱く笑いながら続けてそう言った。
「ねえ、ヨルはどこから来たか覚えている?」
「わからない。僕も思い出せないんだ」
「そうでしょ。だって、私もわからないもん。だから、最初の話に戻っちゃうんだけど、どこから来たんだろうって、私に聞くことは不適切だと思わない?」
「そう思わないから、聞いたんだよ。もしかしたら、僕だけが現実世界の記憶を忘れてしまっていて、なにか知っているかと思ったから」
「意外と、似た者同士じゃないのかもね」とハナは急にぶっきらぼうにそう言ってきた。意外とハナは気難しいのかもしれないって僕は思いながら、両手を組み両腕を上げ、身体を伸ばした。
ただ単に僕が知らないことをハナが知っているかもしれないと思って、そう言っただけなのに、なんでそんなにハナは不機嫌になるんだろう。
「だけど、名前も、過去も、自分が何者なのかも、絶対に覚えているはずのことだろ。そんな大切なことを、どうして忘れたりするんだよ」
僕は両腕を下ろし、そして、左に座るハナの方をじっと見た。
「そんなこと、どうでもいいじゃん。今はこうして、何かを待つしかないんだから。記憶ってそんなに大切なものかな」
「大切なことだと思うよ、僕は。忘れたくない言葉や、人からもらった優しさ、そして、大切な人のことなんて忘れたくないだろ。こんなに重要なことなのに」
僕が言い終わると、沈黙が流れ始めた。僕はハナから視線をそらし、再び、前を向いた。前を向いても、青い世界が続くだけで、何もなかった。この世界に存在するのは、くの字のバス停と、ベンチ、そしてハナと僕だけだった。
「ねえ、ヨル」
「なに」
「――ここでの重要って何なの!」
突然、ハナが大きな声を上げたから、僕は余計に驚いてしまった。似た者同士だったんじゃないのかよ。僕はため息を吐いたあと、もう一度、ハナを見た。ハナの頬が濡れていた。その濡れた線が、青い光を弱く反射していて、色白のハナの透明感をより深くさせていた。
「私だって、忘れたくないよ。大切だった男の子の優しさとか、『ずっと一緒に生きたい』って言われたこととか、そういうの私だって全部取っておきたいよ。だけど、自分の名前も、自分が何者だったのかも、どんな人が私の周りに居たのかも、全部忘れてしまって、そして、自分が自分でなくなりそうで怖いんだよ。私だって」
僕は急に息が出来ないほどの息苦しさを感じ始めた。最初は弱く、息苦しさを感じていただけだったのに。僕は身体を丸めて、ハナの話を聞いていた。そうしないと、息ができないように感じた。
「――ねえ。大丈夫?」
「僕はもう、ここでお別れかもしれない」と小さな声で、答えると、背中に冷たい感触がした。そして、その冷たい感触はゆっくり、僕の浅い呼吸に合わせて、上下に揺れた。
「ねえ、私をひとりにしないでよ。もう、これ以上、寂しい思いしたくないの」
「どうせ、なにも変わらないよ」
「ヨルの背中、さすっても何も変わらないと思ってたら、さするわけないでしょ。意外とバカなんだね」
「僕は忘れなかったよ。ハナのこと」
「えっ」
「もし、僕が先にいなくなっても忘れないでね」
「……やっぱり、ヨルだったんだ。バカ」とハナはそう言ったあと、背中から、ハナの手の感触が消えた。そして、そのあとすぐに、背中に大きな衝撃を受けた。バチンと鈍い音と、痛みを感じたあと、急に息の吸い方がわかり、僕は思いっきりむせたあと、深く呼吸をした。
「思い出したよ」
そう言いながら、僕は丸めていた身体を起こし、ハナの方を再び見た。
「なに?」
ハナはすごく優しく穏やかな声でそう聞いてくれた。
「感覚だけは覚えている。ここに来る前の僕は苦しんでいた」
「息、できてなかったってこと?」と聞かれたから、僕はゆっくり頷いた。
「そう、息がつまる感覚。必死に呼吸しても苦しいんだ」
そう言い終わるのと合わせて、急に喉をつっかえるような熱さを感じたあと、気がついたら、涙が頬を伝う感触がした。右手の人差し指で左目の目頭を触ると、簡単に人差し指は濡れた。
「あなたの所為じゃないよ。苦しいのは。私もヨルの話聞いて、思い出したよ」
「なにを?」
「鈍い痛み」
そう言って、ハナは胸に左手を当てた。だから、僕はどうしても、ハナの思い出した胸の痛みを取りたくなり、思わず胸に当てたままのハナの手に僕の右手を当てた。
なぜかわからないけど、触れた瞬間、確かにハナの中に、何か重たいものを感じた。
僕はそれに驚き、ハナの胸から手を離した。
「僕たちは同じ痛みを抱えていたんだね」
「やっぱり似た者同士だったんだね。だから惹かれあったのかも」
ハナにそう言われて、僕は急に照れくさくなり、視線をバス停の方に向けた。バス停の看板が丸くなっていた。
「えっ、バス停の看板」
「看板がどうしたの」
「三日月だったのに、丸くなってる」
僕は思わずベンチから立ち上がり、そして、バス停を見た。バス停にたどり着いたとき、バス停の名前が書いてある看板は三日月だったはずだ。それなのに、欠けていたはずの3分の2が埋まり、黄色くて丸い看板は、満月のようになっていた。
看板や時刻表に書かれた文字は未だによくわからないままだった。僕の右隣にハナが来た。だから、ハナの方を見ると、ハナもバス停をじっと見ていた。看板の書いている文字が何を意味しているのかがわからない。文字を認識できていないのだ。まったく、頭に入ってこない。
「これがどういう意味だかわかる?」
「わからない。どうやって読むのかすらわからない。今までこれをずっと読んで生きてきたはずなのに」
まだ、ハナはバス停を睨んでいた。僕も文字の配列を見たまま、考え込んでしまった。
頭で考えるほど読めなくなっているような感覚がした。頭の奥に何か重たいものが段々と大きくなっていき、それが頭の中を侵食して、脳みそを溶かすかのように、急に痛みが頭を覆い尽くした。
僕はその場にかがみこみ、痛みを堪えた。
ハナは依然として看板の前に立ったままだった。そんなハナの姿を下から覗いた。ハナは泣き始めていた。声も出さずに静かに泣いていた。
どんどん頭が痛くなっていく。
その時、何かの気配を感じた。なにかが、ゆっくりと近づいてくるのがわかった。音をした方を見ると、丸い二つ目のヘッドライトをつけた銀色のバスがやってきた。
そしてバスは、まるで何事もないかのように、このバス停の前に止まり、ドアが開いた。そして、ハナはそのバスに乗り込み、ドアの内側から、僕をじっと見ていた。
僕は立ち上がろうとしたけど、頭の痛みの所為なのか、わからないけど、足に力が入らず立ち上がることができなかった。
「どうして、そんな簡単にバスに乗ったんだよ」
「あなたにはまだ早い」
「早いって、どういうことだよ」
「私はバス停の文字、読めちゃったんだ」
「だから、バスに乗ったの? 教えてよ。ハナ」
「この文字は読むものじゃない。感じるの」
「よくわからないよ!」
大きな声を出すと、さらに頭の痛みは酷くなった。そして、さっきのように息苦しくなり始めた。
「ありがとう、ヨル。『あーあ、ずっと一緒に生きていたかったな。もし、私が先にいなくなっても忘れないでね』」
ハナは忘れられないくらい、優しく微笑んでいた。僕は痛みの中でも、ハナになにかしたいと強く思ったから、微笑み返すことにした。そのあとすぐに、バスのドアが閉まり、そして、バスは僕を乗せないで、遥か彼方へ行ってしまった。
ひとり残された僕は、しばらくバス停の前でかがみこんだままだった。
「ずっと一緒にいきていたかったよ。僕も」
そのまま、僕は頭の痛みに負け、横向きに倒れた。頭を地面に打ったあと、自然に瞼が落ちてきた。
最後に見えたのは、青白い地平線だった。
最後の光景は、ハナだったらよかったのに。
アラームが鳴り続けている。
医師と看護師があわただしくベッドに横になっている僕の周りでなにかやっていた。
さっきの息苦しさや、頭の痛みは和らいでいた。
もしかすると、君がいなくなったのはついさっきなのかもしれない。そう考えると、急にさっきのことがつらくなった。
あの青い世界でも一緒に君と花火が見たかったな。
僕はそう強く思い、君に願いを込めた。
☆
「いいね」
「ありがとう」
僕はいつものように涼葉を褒めると、涼葉はいつものように嬉しそうな表情をしていた。僕は紙カップを手に取り、残ったままだったカフェオレを飲みきった。カフェオレからは熱が消え、ミルクが溶けきり甘ったるくなっていた。
「やっぱり面白い話書くね」
「そうでしょ。だって、私――」
「天才だから」と僕は涼葉が言いそうなことを先回りして、口に出すと、ちょっと、私のセリフ取らないでよ。と少しいじけたように涼葉はそう返してきた。そして、僕の手元に置いたままだったノートをすっと自分のほうへ取り、そして、ノートを閉じた。
涼葉は、さっきより気持ち、顔色がいいように見えた。こんないつもの調子の涼葉を見ていると、余命宣告から1年以上経っている彼女が消えるわけがないと思った。
僕は涼葉が小説を書いている間のこの2時間、ずっと彼女の命について考えていた。本当に彼女が言う通り、人があと何日生きれるのかを数字で見ることができたらいいのにと思った。さっき、涼葉は余命宣告をもうとっくに過ぎたって言っていた。
新たな余命宣告はされているんだろうか。
それとも、もう、余命宣告した頃から時は過ぎたから、予断はできない状態で、いつ死んでもおかしくないとか、そんなこと言われているんだろうか。
そんなことを涼葉に聞くなんて、残酷すぎるから聞きたくない。
だから、僕は自分を強く保つしかない。
ただ、僕が不意に聞いた残酷な事実をしっかりと受け入ればいいんだ。
「ねえ、奏哉くん」
「なに?」
「――そんな寂しい顔しないでよ」
「してないよ。ただ、腹減ってきたなって思っただけだよ」
「嘘つき」と涼葉はしっかりと通る、真剣そうな低い声でそう言った。
その一言で、一瞬で時が凍ったみたいに思えた。そんなに考えていたことが表情に出ちゃってたかな。それだったら、涼葉に謝らないと――。
「ねえ」
「なに?」
「奏哉くんは優しいよね。優しいけど、奏哉くんの気持ちが見えないし、わからないよ。いつも、相手のことばかり考えているんだろうけど、たまに奏哉くんはどこにいるんだろうって思うことがあって、寂しい」
どうして寂しいんだろう。だって、僕はただ涼葉のことが好きだから、涼葉が一番いいと思うことをしようとしているだけなのに。
「――寂しい思いさせてるなら、謝るよ」
「いや、謝らなくていいよ。謝らなくちゃならないのは私だから。――本当は余命宣告受けて、それが過ぎていること告白受けてからすぐに言おうと思ったんだ。だけど、それがすごく嫌だったの」
「――どうして」
「どうしてって、バカじゃないの。そんなことも察しがつかないの? 優しい癖に。片思いだと思ってた男の子にようやっと告白されて嬉しかったからに決まってるじゃん」
そのまま、涼葉は下を向いてしまった。僕はすっと息を吐いた。ガラス窓から3階分の吹き抜けに差し込む日差しはいつの間にか、午前の黄色さから、昼過ぎの白さに変わっていた。
そっか、僕にしてみたら始まったばかりのつもりだったけど、彼女にしてみたら、遅すぎる始まりだったんだ。涼葉とは最初からやけに話が合うし、どうしてこんなに楽しいんだろうとしか思ってなかった。だけど、それが彼女にしてみれば、あまりにも遅すぎたんだ。
僕がそんなことを考えているうちに、涼葉は余命宣告まで残りわずかで、僕が知らないうちに余命宣告より先の誰にもわからない世界を彼女は一人ぼっちで生きていたんだ――。
「――これからはひとりじゃないよ」
僕がそう言うと、涼葉は顔を上げて、じっと見つめてきた。いつもの吸い込まれそうな瞳が神秘的でミステリアスな雰囲気を感じる。
「これからはひとりじゃないし、余命なんて関係ない。だって、今、余命を越して涼葉は生きているじゃん。僕はただ、その事実だけでいいし、すぐに死ぬなんて思わないよ」
思ったことを言い終わると、ちょうど院内放送のチャイムが流れ、誰かが誰かを呼び出していた。僕はあの日、涼葉にされた質問の返しを思い出した。
「ねえ。もし、私の寿命が残り30日を切ってたらどうする?」
「涼葉と最後まで一緒にいたい。1秒でも長く。そして、次の小説ができるのを待つよ」
「――ありがとう。また新しいの書くね」
涼葉は寂しそうな目をしたまま微笑んだ。その姿をみて、僕は胸の奥からじわっと締め付けられる感覚がして、すべてが嫌になった。
☆
木曜日は憂鬱のままぼんやり過ごし、そして、金曜日になった。
放課後になり、僕はいつも通り職員室に行った。そして、顧問に用事があるから図書室を開けないと伝えた。
職員室を出たあと、バッグからiPhoneを取り出し、涼葉にLINEを送るとOKのスタンプが返ってきた。
病院に着き、水曜日に座った吹き抜けの広場へ行くと、水曜日と同じテーブル席に紺色のパジャマを着た涼葉が座っていた。いつものノートを開き、何かを読んでいるように見えた。
もしかしたら、また新しい小説を書いたのかも知れない。僕はそんな彼女を見ながら、一歩ずつ彼女の方へ近づき、そして、手が届くくらいの場所までたどり着いた。
「なに書いたの?」
そう言いながら、椅子を引き座った。涼葉は顔を上げたあと、
「遅いよ。たった今書き終わったところ」
涼葉はそう言って、ノートを閉じたあと、微笑んでくれた。
「なに書いてたんだよ」
「今回は内緒」
「なんだよ。いつもならすぐに見せてくれるのに」
「ねえ、いい知らせあるんだけど」と涼葉は僕の話題をさえぎって、いきなり右手の人差し指を僕の方に指してきた。
「悪い知らせは?」
「明日、退院できます」
人差し指を僕の前でぐるぐるさせたあと、涼葉は満足そうな表情をして、指を引っ込めた。
「お、マジで。おめでとう」
「ありがとう。このまま居ても手の打ちようがないからいいんだって」
涼葉は微笑みながら、いつもの調子でさらっとそんなことを言うから、胸の奥から、つらい気持ちが込み上げてくる感覚がした。だから、僕はその内側を悟られないように、その言葉がなかったかのように話を続けることにした。
「月曜日から、また一緒に図書室で話せそうだな」
「ううん、日曜日から一緒にいたい。本当は土曜日から一緒にいたいけどね」
「えっ、大丈夫なのかよ」
「大丈夫に決まってるでしょ」という無駄に元気そうな涼葉の声が辺りに響いたけど、その大丈夫の主成分は失望がほとんどのように感じた。
「わかった。またどこかで話そうぜ」
「私、夏の名残が終わる前に海に行きたいな」
涼葉はそう言ったあと、念を押すように、ねえ、いいでしょ? と聞いてきた。そのあとすぐ、お団子にまとめていない肩までかかった髪先が空調の風で揺れた。
☆
通話を始めてから、光が強い部屋のシーリングライトを消した。
机に置いてあるライトグリーンのデスクスタンドの電球色が心細く、部屋のなかを柔らかく照らしている。ベッドに寝転がりながら、涼葉の優しい声を聞き、いつものようにお互いにくだらないことばかりを話していた。
話は尽きることはなく、たまに時計の針を見ると、あっという間に進んでいた。
「ねえ、奏哉くん」
「なに?」
「日曜日になったね」
土曜日は、涼葉との3時間くらいLINEでの通話で簡単に終わってしまった。こうして話しているだけだと、涼葉が簡単にこの世界からいなくなってしまうなんて思えなかった。
「そうだね」
「今日もね、小説書いたんだ。すごいでしょ」
「すごすぎる。小説書いてて疲れないの?」
「全然、疲れない。むしろ、毎日ベッドで横になってたときのほうが疲れたわ。――私、もっと早く書き始めてたらよかったかも」
よかったかも。ともう一度、僕の頭の中で涼葉の声が響いた。それは秋が終わりを告げて、真夜中に初雪がそっと降り始めたみたいな寂しさだった。
「うーん、思いついたときに始めるのがベストなんじゃない?」
「もっと、はやく始めてたら、小説書くのが生きがいになってたかも」
「――今からでも遅くないと思うよ」
僕は適切な言葉を選んだつもりだったけど、言ったあと、冷静になると、やっぱり適切じゃないように思えた。
「――そうだよね。小説家、目指そうかな」
「いいと思うよ。高校生でもデビューしてる人、たくさんいるらしいし」
普通だったら、こんな他愛のない漠然とした将来の夢の話をすることは、普通に感じると思う。だけど、涼葉とこんな話をすると、すべて空虚に思えた。
「だよね。長い小説でも書いてみようかな」
「――読みたいな。涼葉の長い小説」
「わかった。じゃあ、長い夢みたいな小説書くね」
「待ってるよ」
「まかせて。天才だから」
さっきよりも涼葉の声が弾んでいるような気がして、僕は少しだけほっとした。
☆
待ち合わせ時間より3分早く着いた。僕はバッグからiPhoneを取り出した。
そして、iPhoneをタップし、LINEを起動したあと、涼葉にメッセージを送った。駅の入口の前で立っていると、駅に向かって来るいろんな人が目につく。先週より少しだけ柔らかい黄色になった日の光がバスロータリーを照らしていて、コの字の端には2台のバスが止まっていた。
「おまたせ」
左側から聞き慣れた声がしたから、その方を向くと涼葉が小さく手を振って、こっちに駆け寄ってきた。黒の袖のないワンピース、ワンピースの内側に長袖の白くて柔らかそうなニットを着ていた。その姿は大人っぽく、落ち着いた雰囲気に見えた。
「袖なしのワンピース、大人っぽくていいね」
「いいでしょ、黒のキャミワンピ。なんとなく黒の気分だったんだ」
そう言って、涼葉は柔らかく微笑んだ。今日はいつものように色白の顔をしていて、僕はほっとした。たぶん、退院してから調子がよくなったんだ。病院で見ていた涼葉と比べて、僕は根拠なんてないことに安心した。
「秋の海に似合いそう」
「海に行く前にスタバに行こう。小説読んでよ」
いいよと僕が答えると、涼葉は僕の左手を繋いだ。それで一気に心拍数があがったけど、涼葉はそんな僕のことなんて構わない様子で、僕を引っ張るように駅ビルの中にあるスタバの方へ歩き始めた。
8、君とロマンティックを透明にしたい。
傷ついた君の心を癒やしたいから、
そっと抱きしめて、時を止めた。
降り続く雪は君の髪にそっとつもり、
簡単に水滴になって、白さは消えていく。
いくつになっても君のことを
ずっと見ていたいから、今は落ち着けよ。
肩を震わせて泣き始めた君は
はぐれて、孤独なペンギンみたいに
怖さをすべて、知っているように感じる。
どんな絶望もすべてに熱を加えて、
キャンディを溶かしてもう一度作り直そう。
楽しさをたくさん、作っていこう。
だから、ずっと、
このままでいようね。
今日も、俺は詩を書き終え、それをインスタに投稿した。すると、あっという間にいいねが増えていく。暗い部屋の中、ベッドの上でアカウントを更新し終えた。
いつものことだ。ベッドの上で、iPhoneひとつで世界を変えることは簡単だ。
ベッドに横になりながら、親指で画面をスクロールして、他の人たちの世界をいつものように眺め始めた。
どこかの誰かが、俺の知らない街で、知らない世界を体験している。
そんな画像がどんどん下へ流れていく。
そんないつも通り、ダラダラとタイムラインを遡っている最中にDMが来た。
いつもなら、DMなんてほとんど無視しているのに、俺は思わず、アカウント名を見て、DMを開いてしまった。
あれから、1ヶ月くらい、DMが続いている。一日一通の何気ないやり取りだ。
私は勇気を出して、ハルくん。いや――。
《sad_spring》さんにDMしたのが、このやりとりの始まりだった。理由は詩に使われている画像が私の住む街と同じだったから、もしかしたら、会えるかもって思ったのと、もう一つ、直感的に私の妄想が働いたからだった。
そして、高校生で、同じ歳であることも、公表していたから、同級生同士のDMなら、返事をしてくれるかもと思った。
《sad_spring》さんは、すでにフォロワーが8000人もいたけど、そんな私のDMになぜか返してくれた。
《君の詩もいいよね》
《ありがとうございます》
《DMのたった一言だけ「いいね」って言っても、『これだけじゃ、つたなすぎて、気持ちを伝えられないから、あとで手紙で伝えるね』って言いたいところだけど、それは物理的に不可能だから、簡単な言葉になっちゃうけど、許してね。あと、タメでいいよ》
《ありがとう。大丈夫だよ。褒めてくれただけでめっちゃ嬉しい》
私は《sad_spring》さんとのDMの履歴をさかのぼりながら、ため息を吐いた。
今日も、私はスタバにいき、発売したばかりの期間限定フラペチーノをiPhoneで撮り、そして、インスタ上で加工を始めた。私のフォロワーは、《sad_spring》さんと違って、100人もいない。
だから、このアカウントは、私の日記にすぎない。
スタバで君への思いを浄化さたくて、
甘さをしっかりと味わうことにしたよ。
君との世界は一緒だってこと、
信じることができるけど、
涙はなぜかわからないけど、溢れてしまうよ。
あの日、君が好きと言った言葉、
それが本当だったなら、
私は今日、
こんな寂しい思いしてなかったのに。
そして、思いっきり、《sad_spring》さんに影響を受けている、ポエムを添えて、フラペチーノの画像を投稿した。私は右手に持っていたiPhoneをテーブルに置き、プラスチックカップを手に取った。そして、紙ストローを咥え、フラペチーノを一口飲んだ。口に含むと、チョコとホイップクリームの甘さが口いっぱいに広がった。
あれだけやり取りをしていたのに、もう、1週間も《sad_spring》さんから、DMが返ってきていなかった。私はそれに少しだけ憂鬱だった。
――上手く行ってると思ったのに。
《sad_spring》さんからの、最初の返信で、ハルって呼んでと言われたから、その次の返信から、《sad_spring》さんのことをハルくんと呼ぶようになった。まだ、お互いにどの高校に行っているとか、そういう話はできていない。だけど、《ハル》という名前を知って、私はドキッとした。
幼稚園のとき、ものすごく仲がよかった、ハルくんじゃないのかなって、思ったからだ。
そう思っているのは私の勝手な思い込みじゃなくて、《ルナちゃんって子、幼稚園のとき、仲がよかったな》ってハルくんから、メッセージが来たからだった。
高校2年生になった今、幼稚園の頃のハルくんとの遊んだ記憶は断片的だけど、誕生日の日に、園庭で摘んだたんぽぽの束をくれたことや、好きだよって、告白してくれたことは忘れなかった。
だけど、小学校ですでに、別の学校へ進み、私たちは離れ離れになってしまった。
今となってはどんな顔だったかも、曖昧になっているし、どうして、仲がよかったのかも思い出すことができない。『ただ、ひとつだけ』、しっかりと今でも覚えているは、ハルくんは幼稚園を休みがちだったということだ。
たまに長い間、幼稚園に来ないときがあって、クラスの先生に《ハルくんは?》とよく聞いていた。
だから、もしかすると、今、DMでやり取りしているハルくんは、幼稚園のとき、大好きだったハルくんの可能性がかなり高いような気がした。
右手に持った、プラスチックカップをテーブルに置き、テーブルに置いたままのiPhoneの画面ロックを解除して、右手の人差し指で、インスタのタイムラインを遡りはじめた。すると、《sad_spring》の新しい投稿を見つけた。投稿も、2週間ぶりだったから、私はその投稿をすぐにタップした。
堤防の青芝が西日で淡い。
北の村に遅い夏が来た。
君と肩をくっつけ、川をぼんやり眺める。
夕方のサイレンが鳴り、変わりたくない時が終わった。
君が立ち上がり、歩きだす。
30年も直していないアスファルトがボロく、悲しい。
西日のオレンジ、逆光でも君はキレイだ。
私は何度も、投稿された文章と、いつもより、エモくないどこか見覚えのある住宅街の画像をしばらくの間、眺めた。
「雰囲気、変えたのかな」
思ったことを、口にしたあと、いつもより少ない、いいねの数が気になったけど、ハートマークを人差し指で赤く灯した。
《久々の連絡になって、ごめんなさい 近いうちに会うことはできますか》
そう打ち込んだメッセージを送信すると、一気に心臓が騒がしくなった。もうそろそろ、会わなければいけない。そんなことを思いながら、窓越しに夜の街を眺めた。部屋の窓越しに見える街は、青白く輝いた。
そして、はるか先に見える海は闇の中で、くっきりと街と、海の境界線がわかる。その境界線を作っているのは、国道の白い街灯で、右側に向かってゆるく孤を描いていた。
ルナちゃんは、きっと、知っている人だと思う。同じ幼稚園の園庭を走り回っていたかもしれない。やり取りや、今までのことの整合性を取ると、そうなのかもしれないと日に日に、確信できるようになった。
もう、過去の悲しみは抜けそうだなって思った。
右手に持ったままのiPhoneに通知が来たことを知らされ、プッシュ通知をタップした。
インスタが勝手に起動し、DMの画面が表示された。そして、やっぱり、ルナちゃんだった。
《まだ、月曜日が始まったばかりだよ ゆっくり話してみたいから、今週の土曜日、会いたいです》
そっか。
今日はまだ、世間的には何もかも動き始めた日だったか。すっかり曜日感覚が消えてしまっていて、不審に思われないかと少しだけ心配になった。
ちょうど、港の方から、大きな汽笛が聞こえた。いつものフェリーの出港時間だ。
《だよね 今、汽笛聞こえたね》
《うん てか、やばいね やっぱり同じ街じゃん》
やっぱり、そうだったんだ。
《だね そうだと思ってた 土曜、13時に駅で待ってるね》
《うん、会うの楽しみ》
すぐに返ってきたルナちゃんからのメッセージをしばらく眺めたあと、インスタを閉じた。そして、iPhoneを握ったまま、また窓越しに夜の街を眺め始めた。
忘れないうちに何度も言葉を自分の内側に繰り返す。
私は忘れやすいから、
ちょっとした言葉とか、
これからの人生に影響しそうな出来事とか、
結構忘れる。
今この瞬間を今生きているって感じは毎日するけど、
今の積み重なりを振り返ることが苦手。
青春あっという間、ってそういうことか。
「やっぱりテイスト変えたのかな」と私はまた、思わず独り言を吐いてしまった。『私が言いたいことは、』誰も聞いてくれるはずもなく、簡単に宙を舞った。
バスに乗り、学校に向かっている途中、朝からインスタのタイムラインを見ていた。バスの窓越しの世界は雨で濡れていて雨粒の先に灰色に濡れた街が流れいた。
《sad_spring》のアカウントをタップすると、こんなテイストの詩がずらりと並び始めていた。これで、5日連続、こういう感じのテイストの詩だった。
この5日でフォロワー数が一気に下がっているような気がする。10や20じゃなく、もう、300人以上はフォロワーが減っているような気がする。
コメント欄も応援コメントよりも、いい加減、元に戻してくださいとか、言われていて、結構、荒れている。別にそんなこと、言わなくてもいいじゃん。って思いながらも、最新の投稿から、人差し指で、過去に遡ってみた。
「地球は青かった」
ガガーリンのように決め台詞を言いたい
なんで感動している最中にあんな言葉が出てくるのだろう
宇宙の冷たさで冷えっ冷えっの
コーヒーを飲みながら言うならわかるけれど、
宇宙船の計器を常に確認しながら、
孤独の中で言うのだから、
尊敬しますわ
地球?青いよ
過去を忘れることを決めた日、
今しか見ないことを決めた。
生きることに集中するって、
仕事だけじゃないことにようやく気付いた。
テレビでド田舎に住んでいる人の意味がわかった気がする。
結局、過去を捨てれない自分が惨めだ。
時空がプリズムみたいに歪んだ。
雨上がりの路面に赤信号が反射していた。
死にたがりだったあの子が、
赤信号を待っているとき、
なんで生まれてきたんだろ。
と言ってたことを思い出した。
哲学すぎてわからないと答えたら、
あの子に浮いた印象を与えた。
結局、あの子は死ぬことはなかった。
コンクリートの非常階段から夜景を眺めていた。
夏が始まったばかりだから、少し冷たい。
時々、なぜこんなに人が都会に暮らすのか疑問に思うけど、
便利で仕事があるからに尽きる。
セブンスターが燃え切ったとき、
遠くで隕石が落ちていくのが見え、手が震えた。
一瞬であの日の一瞬に戻ったみたいな夢で、
もう、会うはずもない君と、
ずっと、心地よいお話をしていたい。
目覚めて、現実に戻り、
まるで、今にタイムスリップしたような
感覚を覚えるくらい、
過去の中の君の笑顔は素敵だった。
君とは、もう、世界線が違うのに、
君のことを、未だに夢で見てしまうのは、
期限切れの恋が忘れられないからだよ。
冷たい朝を続けたくて、
窓を開けて、
冷蔵庫からアイスコーヒーを
取り出して、グラスに注いだあと、
君の名前をそっと口に出してみた。
なにがあったんだろう――。
明日、ハルくんと、会うことになるのに、最近のハルくんの不調が気になる。そして、隕石の詩と、タイムスリップの詩の間には、とても差があるように感じた。タイムスリップの詩は、もちろん、更新が止まる前のものだった。その詩はまるで、私に当てられているような気がして、これを読んだ2週間前はものすごくドキドキした。
だけど、ここ5日の詩は、やっぱり、雰囲気が変わっていた。
別に私自身、詩人とかじゃないけど、技術的に戻ってしまったような、そんな雰囲気が出ていて、何が原因なのか、すごく気になった。
とにかく、明日、会うことになっているハルくんが、幼稚園のときのハルくんだったらいいな。
それと、晴れてくれたらいいなって思っていたら、バスはあっという間に高校近くのバス停に着いた。
《私はハルくんがわかるように黄色いワンピースを着ていくね》
《わかった 見つけるよ》
という、昨日の夜のやり取りをもう一度、確認したあと、iPhoneを先月、ノースフェイスで買ったばかりの、カーキのショルダーバッグに入れた。
駅の外は今日も雨が降り続いていて、きっと、ワンピース姿で来るルナが寒くないか、少しだけ心配だった。
だけど、こんな冷たい雨が降り続くなか、黄色のワンピースを着た、同じ歳くらいの女の子がバスターミナルから、歩いてきているのが見えた。だから、その方へ、ゆっくりと歩き始めることにした。
「え、ちがうと思います」
私は混乱した。私の目の前には、黒髪ロングで、カーキのショルダーバッグを肩から下げている、私と同じ歳くらいの女子が目の前に立っていた。ボーイッシュな格好で、ベージュのキャップに、白のゆったりとしたTシャツ、そして、ジーンズの出で立ちだった。
だから、私は、慌てて、さっきバスを降りた方へ、歩き出そうとすると、思いっきり、右手首を掴まれた。
「ちょっと、離して」
「いや、だから、待ってよ。ルナちゃん」
「馴れ馴れしく、ルナちゃんって、呼ばないでよ」
私は、女子の方を振り向き、目を細めた。精一杯の敵意を込めたあと、掴まれた手を振り払うために、右手を何度か、上下に振ったけど、女子は全く手を解く様子はなかった。
「落ち着いて。いろいろ、あなたに伝えなくちゃいけないことがあるから」
女子はそう冷静な声で、真剣そうな表情でそう言ったから、私は諦めて、わかったと返した。すると、掴まれた手は離された。
「私、まだ、限定のフラペチーノ飲んでないんだ」と女子にそう言われたから、また少しだけ、ムカついた。
スタバの店内は土曜日の昼過ぎの所為か、ほとんどの席が埋まっていて、いろんな人たちの声とピアノが主旋律を奏でるジャズのBGMが混じっていた。
私とルナちゃんは、限定のフラペチーノをカウンターで受け取ったとき、ちょうど、テーブル席が空いたから、私はルナちゃんに聞かずに、その席へ向かうと、ルナちゃんもついて来た。
テーブル席に座り、ルナちゃんと向い合せになった。
女二人でスタバって、完全に仲いい子同士がやることだけど、もちろん、私とルナちゃんは初対面だ。私はどうやって、話せばいいのか、わからなくて、思わず天井からぶら下がっている電球型の照明を数秒間、見つめた。
だけど、いい案が思いつかないし、ルナちゃんも無口のままだったから、とりあえずこう、声をかけることにした。
「とりあえず、飲もっか」
「そうだね。せっかくのフラペチーノだからね」
「インスタに上げなくていいの?」
「先々週上げたから、大丈夫」
そうルナちゃんは低い声で言ったあと、プラスチックカップを持ち、フラペチーノを一口飲んだ。だから、私もとりあえず、ルナちゃんと同じようにフラペチーノを一口飲んだ。
「あなた、名前なんていうの?」
あ、そっか。まだ、私、名前すら名乗ってなかったのか。
「ツキノって言うの」
「へえ」
「ルナちゃんと、きっと名前の着想は一緒だよ」
「そうだね。ツキノさんよりもさ、ハルくんに会いたかったんだけど、私」
「そうだよね。騙すつもりはなかったんだけど、こうするしか方法がなくて」
と私がそう言い終わると、ルナちゃんはふーん、と興味がなさそうな声で、そう返していた。だから、罪悪感を打ち消すために、もう一口フラペチーノを飲んだ。そして、すっと息を吐いたあと、私は覚悟を決めた。
「あのね。ハルは本当に居たの」
「じゃあ、なんでハルくんじゃなくて、ツキノさんがここに来てるの? いたずら?」
「違うよ。落ち着いて聞いてね。――ハルは2週間前、死んだの」
ちょうど、ピアノの音が切なく途切れ、そして、ジャズは終わり、一瞬の静寂に包まれた。
「……死んだって。――本当に?」
思わず止まってしまった呼吸を再開した。
え、ウソでしょ。
どうして、こんなこと、起きるのと、私が抱いていた淡い恋や、ハルくんへの思いと、そんな聞きたいことばかりが頭のなかでグルグルと飲み干したフラペチーノをかき回すように、虚しい気持ちになった。
「本当だよ。昔から身体、弱かったから、これでも生きたほうなんだよ」とツキノは落ち着いた声でそう返してくれた。
そもそも、ツキノはハルくんとどんな関係なんだろう。もしかしたら、ハルくんの彼女だったのかな。
それなら、なんで2週間前に死んだ、ハルくんになりきって、私にDMする意味があったんだろう。
てか、そもそも、ハルくんは昨日まで詩を毎日、インスタに上げていたじゃん。ってことは――。
「ツキノさんが、ハルくんのインスタ操作してたってこと?」
「そう。そういうこと。ハルが死ぬ前にお願いされたの」
「――じゃあ、最近の詩は、ツキノさんが作ったの?」と聞くと、ツキノは少しだけ、頬を緩めながら、小さく頷いた。
「あれでも、私なりに頑張ってみたの。sad_springっぽい感じだったでしょ?」
「ううん。あれはハルくんっぽくなかったよ」
「そっか。やっぱ、兄ちゃんっぽく、書けなかったかー。私」
「え、兄妹なの?」
と私が驚きながら、そう聞くと、またツキノは照れくさそうに小さく、うんと頷いた。
「年子なの。私たち。兄ちゃんの一個下なんだ」
「彼女なのかと思った」と言うと、いや、そんなわけないじゃんと、弱く笑いながら、ツキノはそう言った。
ツキノが笑ったから、私も小さく笑い返しながら、カップを手に取り、またフラペチーノを一口飲んだ。ツキノの奥に見える大きな窓は相変わらず濡れていた。
「ねえ、ルナちゃん」とツキノはそう言いながら、カーキのショルダーバッグから、何かを取り出し、それをテーブルの真ん中に乗せた。
それはピンクのハートがらの封筒で、封筒の真ん中には、《ルナちゃんへ》と書いてあった。
ルナちゃんへ
本当は君に会いたかったというのが正直なところです。
しかし、現実問題として、俺はもう外には出られなさそうです。
だから、手紙をツキノに託すことにしました。
こんな偶然、あるんだって言うのが最初の率直な感想だったな。
DM開いて、アカウント名みて、もしかしてって思ったよ。
誕生日の数字も覚えている数字と一緒だったしさ。
しかも、話していたら、同級生だし、
インスタの投稿される写真の景色は見覚えあるものばかりだし。
奇跡だと思ったよ。
今でもあのときのまま、ルナちゃんのことが好きなことは忘れてなかったし、
いつか、会えるかもって、なんとなく考えていたんだ。
だから、本当は会いたかった。
ただ単に幼稚園の頃に戻ったように、純粋な気持ちでハルちゃんと話してみたかったな。
ひとつだけ、お願いがあるんだ。
ルナちゃんの詩、俺はすごく好きだったよ。
俺みたいだなって、最初は思ったけど、
素直な気持ちに触れているみたいに感じた。
だから、俺がインスタを更新できなくなったら、
俺のアカウント、引き継いでくれたら嬉しいな。
『生きている証が君によって、続いたら、すごくいいなって思ったんだ』
もちろん、嫌だったら断ってもいいよ。
そうなったら、現世の思い出はツキノに消してもらうつもりだから。
だから、『重いお願いになるけど、受けてくれたら嬉しいな』
『最後にひとつだけ伝えるね』
無邪気な『君のことが好きだった』
読んでくれてありがとう。さよなら。
ソーダ水の中で、君と泳いだ日々は、
遥か遠くの思い出になってしまったけど、
私はずっと忘れないよ。
君は優しかったね。
もし、あの日々が続いていたら、
私たち、どうだったんだろうって、
たまに考えるんだ。
悲しいことや、芽吹き始めた木々の葉や、
苦しいことや、眩しすぎる夏至の朝日を見た日とか、
そういうのをもっと、
ふたりで一緒に感じたかったな。
だけどね。
これだけは言えるんだ。
君は私の胸の中で生きているよ。
私はiPhoneをそっと、テーブルの上に置き、フラペチーノを一口飲んだ。
『やっぱり、想いを伝えるのって、手紙みたいに上手くいかないね。言ってること、ぐちゃぐちゃじゃん』
音楽みたいにもっと文章を『奏』でることできたらいいのにな。本当にそんなことできたら、きっと、私は嬉しい気持ちになるし、心も軽くなると思う。それだけ、ハルくんのアカウントを引き継いだのを重く感じるときもあるんだよ。
だけどね、たまに上手く表現できるときがあって、その時は本当にすっきりするよ。気持ちいい海辺の真ん中で、快『哉』を叫ぶように。
『くん』れんから、たんれんへ。
あーあ。『自分らしく強く生きてね』って言われたいな。
私はもっと、ハルくんみたいな文章力がほしいとそっと願った。
☆
「これが昨日、書いたやつ?」
「そう。面白かったでしょ」
ひとりがけのソファに沈みこんでいた涼葉はそう言いながら、テーブルの方に身を乗り出した。そして、紙カップを手に取り、ホットの抹茶ティーラテを一口飲んだ。僕はテーブルにノートを置いたあと、僕も涼葉と同じようにプラスチックカップを手に取り、アイスのドリップコーヒーを一口飲んだ。
「今回もよかったよ」
「ありがとう。そう言ってくれて嬉しいよ。本当にいつもありがとう」
「なんだよ、急に」
縁起でもない。と続けて言いそうになったけど、直前になって気づき、言うのをやめた。今は嫌なことなんて忘れて、今を楽しむことに集中しよう――。
「本当にそう思ってるからだよ」
「次も待ってるよ」
僕はそう言ったあと、さっき思ったことを誤魔化そうと思い、ストローをもう一度咥え、アイスコーヒーを飲んだ。
「――ねえ、これで最後にしようと思ってるんだ」
「えっ、だって昨日――」
「うん、昨日言ったでしょ。次は長い夢みたいな小説書くって」
「そうじゃん。なのに、なんで最後なんだよ」
僕がそう返すと涼葉はじっと、僕のことを見つめてきた。いつものように透明感がある瞳にまた今日も僕は吸い込まれそうな気分になった。
「――さすがに手書きはキツかなって思って」
「えっ?」
「手書きは最後にしようと思ったんだ」
「なんだよ、それ。びっくりした」と言うと、涼葉は、ふふっと弱く笑った。騙されたー。と僕は心の声をそのまま口に出したあと、手に持ったままのカップを口元に寄せて、ストローを咥え、さらにアイスコーヒーを飲んだ。
「だから、このノート、一回預けてもいい?」
「え、なんで。意味わからないじゃん」
「いいでしょ。私、しばらく長い小説、iPadで書くことにしたから。親にそれ言ったら、昨日、キーボード買ってくれたんだ」
「ちゃっかりしてるな」
「でしょ。私、本気で目指すから。応援して」
誇らしげな表情をしながら、涼葉は紙カップを手に取り、そしてまた、抹茶ラテを一口飲んだ。
「応援はもちろんするよ。てか、めっちゃ楽しみだし。だけど、ノート預かるのは意味わかんない」
「なぞの抵抗じゃん、それ。うーんとねぇ。私、長い小説書いてる間、奏哉くん、読むものなくなるでしょ。すると、退屈じゃん。だから、退屈しのぎに貸してあげるの」
カップを置いたあと、再び涼葉は僕のことをじっと見つめてきた。
「なんかそれ、僕がすごい暇人みたいじゃん」
「とにかく、長い小説が完成するまで預かってほしいの。私がこの世界に存在していることを残したいから」
じっと見つめられたまま、そう言われて僕は次に言い返す言葉なんて思いつくはずもなかった。
「――いいよ。長い小説完成させるまで預かるよ」
そう返すと涼葉はニコッとした表情を浮かべた。
「ありがとう。――愛してるよ。マイダーリン」
急にそんなこと言われたから、僕は思わず鼻から息を抜くように、ふっと笑ってしまった。
☆
スタバを出て、学校と反対方向の切符を買い、ホームで数分電車を待ち、そして、電車に乗った。日曜日の11時台の電車は比較的空いていて、僕と涼葉は青いロングシートの端に横並びで座ることができた。
5駅先の終点で、その終着駅の先に僕たちの目的地がある。
「疲れてない? 大丈夫?」
「大丈夫だって。私のこと、病人扱いしないで」
「別に病人じゃなくたって、聞くよ」
「まだ、スタバ行って、電車乗って、1時間ちょっとしか経ってないのに?」
「ごめんなさい」
「なんか、それ嫌だなぁ。私が脅したみたいじゃん。謝らないで。そんなことより、ビートルズ聴きたいな」
そう言われて、僕は思わず左側に座る涼葉を見た。涼葉はニヤニヤした表情を浮かべていた。今日はお団子ではなく、青いレースのシュシュで髪は一本にまとめられていた。隣に座っていると、そのシュシュが視線に入り、思わず意識してしまう。
「ダサかったんじゃないのかよ」
「気にし過ぎだよ。奏哉くんは。別にいいじゃん、好きな人の好きな音楽を聴きたいって思うのは自然なことでしょ」
そう言われて、僕ははっとした。
「――あわせなくていいよ」
「違うよ。私は奏哉くんが好きなものを好きになりたいだけなんだよ。だから、聴かせて。テンションあがる曲」
バッグからAirPodsと、iPhoneを取り出した。そして、ケースからAirPodsの片方を取り出し、それを涼葉に渡した。涼葉は優しい表情を浮かべながら、ありがとうと言ってくれた。
だから、僕はiPhoneでSpotifyを起動し、She Loves Youを選んだ。曲をタップしてすぐにアップテンポの軽いドラムが流れてすぐに、ジョン・レノンとポール・マッカートニーのダブルボーカルで歌い始めた。
「これ、聴いたことある」
「初期の代表曲だよ」
「そうなんだ。ヘルプくらいしか、わからないからなんか、新鮮かも」
「でしょ」
「古臭いけどね。ねえ、どうしてビートルズのことが好きになったの?」
「おじいちゃんレコードコレクターで小さいとき、よく聴かせてくれたんだ。ビートルズもそうだし、ボブ・ディランとか、ドアーズとか、ビーチボーイズとか、レッド・ツェッペリンとか、色々聴いて好きになったんだ」
「そうなんだ。ボブ・ディランしか名前わからない」
「だよね。曲聴けば、聴いたことはあると思うよ。レジェンドばっかりだから」
「へえ。その中でもビートルズなんだ」
「うん。ポール・マッカートニーもいいけど、なぜかわからないけど、ジョン・レノンが手掛けた曲のほうが好きなんだ」
そのことをおじいちゃんに言ったら、奏哉はジョン派かと言って笑ってくれたのを思い出した。おじいちゃんは自分の部屋に大量のレコードを残したまま4年前に旅立ってしまった。
「へえ。イマジンだっけ。よくものまねされる方だよね? メガネの」
「そうだよ。切なくて変わった曲が多いんだ。この曲もレノンが作ったって言われてる」
「へえ。――悪くないね」
「でしょ」
僕がそんなことを言っている間に電車は1つ目の駅に到着し、惰性で僕の肩が涼葉の肩に触れた。
☆
終点に着いたあと、そこからバスに乗った。後ろから2番目の左側の席に横並びで座った。バスも空いていて、車内には僕と涼葉以外に、数人しか乗っていなかった。そして、バスは動きだした。小さなロータリーを出て、右折し、丘の上にある駅から、バスは岬に向かって下っていく。
下り坂の先には深い青色の海が広がっていて、水平線は白くキラキラしていた。バスの中でもお互いの片耳にAirPodsをつけて、ビートルズを聴き流していた。
30分くらいでバスは岬の前のバス停に着いた。バスはそこで終点みたいで、客は僕と涼葉しか残っていなかった。
バスを降りると、涼葉はまたいつものように咳き込み始めた。
「大丈夫?」
「病人扱いしないで」
まだ整わない声で涼葉はそう言ったあと、僕の背中を軽く叩いてきた。
「咳してたら、心配するよ」
「優しいね。ありがとう」
「落ち着いた?」
そう言って、僕は右手を差し出すと、涼葉は左手を出して、そして僕の手を繋いだ。
「だけどね、優しくしないで。もういろんなところがダメで弱ってるんだから」
「そんなこと言うなよ。――いこうぜ」
ゆっくりと歩き始めると、涼葉はやる気のないピクミンみたいにゆっくりと歩き始めた。
☆
岬の展望台に着いた。岬の先端には白くて、古そうな灯台が立っていた。そして、手前の広場には、スチールの棒のハートの形のモニュメントがあった。ハートが浮いていて、ハートの先には白い灯台が見えていた。
ハートの下の尖っているところは地面に埋まっていて、地面から45度くらいの角度で左右に伸びたスチールはそれぞれ空中で半円を描いている。その半円と半円が繋がり、ハートの頭になっていた。
「こんなのあったんだね」
そう言って、涼葉は僕の手を離し、僕の数歩先まで出た。そして、左側のスチールに触れた。ハートのモニュメントはお昼の太陽の光を反射して、所々、白く見えた。
僕は思わず立ち止まり、バッグからiPhoneを取り出し、カメラを起動し、画面越しに涼葉を見た。それに気づいた涼葉は、スチールに左手を置いたまま、右手でピースサインをして微笑んだから、その瞬間をデータ化した。iPhoneの画面越しで見る世界は、空には薄くて白い霞がかかっていて、海が白くキラキラ日差しを反射していた。そして、白い灯台は秋の弱くなった日差しでも存在感を出していた。
「青が似合うよ」
「変なこと言わないでよ。しかも、また、夢で見たことあるし」
「なんだよそれ。僕はただ、素直にそう思っただけだよ」
「変なの。奏哉こそ、小説書けそうだよね」
「中二病こじらせてたとき書いてた」
「やっぱりそうだよね。今度、小説書いてよ」
「嫌だよ。自分の文章、下手なの知ってるから」
「いいじゃん。それでも読みたいな」
涼葉はそう言いながら、黒のバッグからiPhoneを取り出した。そして、すぐにシャッター音がした。
「どこ撮ってるんだよ」
「いいじゃん。山側の奏哉くん。ビートルズが好きすぎて世間から逆行している奏哉くん」
「そんなことより、ふたりで写真撮ろうぜ」
僕は涼葉の方へ歩いた。そして、涼葉の隣に着いたから、涼葉の肩に左手を回し、そして、僕の方に抱き寄せた。涼葉の髪からほのかにバニラの香りがした。僕はその匂いを感じながら、iPhoneのカメラ設定をインカメラにして、涼葉と僕のふたりだけしかいない世界を保存した。
「――ねえ」
「なに?」
「もっと近づきたいな」
「――いいよ」
右手にiPhoneを握ったまま、僕は両腕で涼葉を抱きしめた。弱い風の音と、打ち寄せる波の音が世界の80%の音量を締めているように思えた。左肩が涼葉の首元に当たっていて、微かに涼葉の脈を感じた。
☆
「潮風にあたれば元気になるんだって」
「これで元気になれるね」
「奏哉くんもね」
灯台の横にあるベンチに座り、涼葉と横並びでぼんやりと午後の海を眺めていた。岬の岩肌に時折、強い波が打ち寄せ、灰色の岩が白くなっているのが見える。その先には深い青色が広がっていて、そのさらに先は、キラキラと太陽の光を反射して眩しかった。
「ねえ、奏哉くん」
「なに?」
「私、自分が書いた小説の登場人物みたいに達観できなよ」
「達観?」
その意外な言葉を聞き、僕は思わずそう聞き返してしまった。涼葉を見ると、涼葉はただ前を向いたまま、海を眺めていた。弱い風で涼葉の前髪が微かに揺れた。
「まだまだ、やりたいこと、いっぱいあるなって――」
「――できるよ」
そう言ってみたものの、どこか頼りない返しになってしまったような気がする。
「なんで、私、身体弱く生まれてきたんだろう」
「――余命宣告だって打ち破ったじゃん。これから先もきっと大丈夫だよ。奇跡の連続が起きる気がする」
「ふふっ。奇跡ね。やっぱり優しいよね」
「ううん。これは優しさじゃないよ。僕の本心だよ」
もう一度、弱い風が吹き、涼葉の前髪がまた揺れた。膝に置いたままの涼葉の左手の上に僕の右手を重ねた。涼葉の手は冷たかった。
「あー、なんでだろう」
その小さな声がなぜか、大きく虚しく辺りに響いたような気がした。泣きたいのかもしれないと思い、涼葉をもう一度、見ると涼葉は前を見たままだった。
目元は濡れてなかった。
涼葉はただ、寂しそうな表情をしていた。
☆
サイゼリヤでディナーを食べ終え、ピザが入っていた大皿を店員が持っていったあと、ほとんどの時間を、こうして手を繋いでいた。話している時は人目なんて気にしないで、ずっとテーブルの上で手を繋いでいた。
オレンジ色が窓から差し込む電車に乗り、地元に戻ったあと、その足で入った店内は比較的空いていたはずだったのに、いつの間にか、多くの人たちでテーブルが埋まっていた。左側の窓を見ると、世界は闇に包まれていて、駅前通りを走る車がLEDの優しくない白色のベッドライトをつけながら、何台も店の前を通り過ぎていった。
さっき岬で見た寂しそうな表情なんて何もなかったかのように、いつものくだらないをしていた。
「長い夢の小説のこと、ネタバレしてもいい? 今、思いついた」
「今、思いついたんだ。すごいね」
「すごいでしょ。話していい?」
「いいよ。聞きたい」
そう返すと、涼葉は口角を弱く上げて、満足そうな表情を見せた。
「書き出しなんだけど――。あ、ちょっとまって。一回、ノート返してもらってもいい?」
「わかった。書いたほうが早いってことか」
「そう。そういうこと」
僕は涼葉から、手を離し、バッグからノートを取り出して、渡した。涼葉はノートを開いたあと、バッグからペンケースを取り出し、その中から、シャーペンと消しゴムを取り出した。そして、すっと息を吐いたあと、何かを書き始めた。
どんな書き出しなんだろうと、思いながら、僕はグラスを手に取り、コーラを一口飲んだ。そして、グラスをテーブルに戻した。その間にもノートの一段目は文字で埋まっていった。
「できた」
涼葉はノートを僕のほうに向けてきたから、僕はノートを手元に寄せて読み始めた。ノートにはこう書かれていた。
〈切なさの音符が旋律上で暴走する。長い夢の中で迷子になった私は君に、また会えるの? と聞き忘れてしまった。起きてその後悔が強くて、私は自分自身の人生が思うように上手くいかないなって、ため息を吐いた。
また会える日を楽しみにしてるよ。どんなことがあってもまた一緒になりたい。
私の寂しさは胸で青色に溶けて、そして切なさは胸の中で生き続けていた。〉
「雰囲気ある」
「でしょ。それでね、夢で会った男の子と白い灯台のある岬で、運命の再会をするんだ」
「今日行った、岬の灯台?」
「そう。そういうところ。それで、夢の中でまた会えるのって聞き忘れてしまったって、急に男の子に話しかけられて、そこから一気に恋が実っていくの」
僕は開いたままのノートを涼葉のほうに戻した。すると、涼葉はノートを受け取り、手元に寄せた。
「それで、そのさきは?」
「焦らないでよ。それで、色々あって上手くいくんだけど、男の子には、重大な秘密があるの」
「なんだよ。もったいぶって」
「なんだと思う?」
そう聞かれて、少しだけ考えてみたけど、その男の子の秘密なんて思いつかなかった。
「わからないや」
「その男の子は死神なの」
「え、じゃあ、死神に口説かれてる話ってこと?」
「そう。それで、その死神は元々、死神じゃなくて、普通の男の子だったんだけど、ある日、行方不明になって、死神に任命されちゃったんだ。だけど、男の子は死神として、誰のことも今まで殺めたことはなかったの」
「そしてどうなるの?」
「男の子は偉い死神から、女の子を殺めるように言われるけど、それが出来ないでいるの。だから、夢の中で女の子を口説いた。だけど、それが奇跡の出会いだった。実は女の子は自分でも自覚していないだけで、巫女の才能があって、神社で死神から殺める力を失わさせる効力を持っていて、男の子から無事、その死神の能力を失わさせて、よかったねっていうハッピーエンドな話」
そう一気に言い終わったあと、涼葉はカップを手に取り、ジャスミンティーを一口飲んだ。そして、テーブルにカップを置いた涼葉はものすごく満足そうな表情をしていた。
さっき、言ったことだけで、小説を書き切ったみたいな、そんな雰囲気に見えた。
「思ったより壮大」
「でしょ。大作になる予感しかしないでしょ。あ、これ画像にしなきゃ」
涼葉はバッグからiPhoneを取り出し、それをノートに向けた。そして、シャッター音がしたあと、iPhoneをバッグのなかに戻した。
「やっぱり、ノート持って返ったほうがいいんじゃない?」
「違うの。奏哉くんの暇を埋めてあげるの。私の小説で」
「やっぱり、暇人扱いじゃん」
「ううん。奏哉くんの時間を少しでも私で埋めたい独占欲だよ」
そんな、間接的な告白で僕は少しだけ恥ずかしくなった。そんな僕のことなんて構う様子なんてなさそうに、涼葉はノートを閉じ、そしてノートをまた差し出してきた。だから、僕はノートを受け取り、自分のバッグにいれた。
「あーあ、いつまでもこんな時間が続けばいいのに」
ポツリとそう言ったことが、すべての本音だと僕は思い、ただ、胸が締め付けられるように苦しくなった。
9、すべての『』を繋げた君へ。
☆
家に帰ってから、1時間くらい涼葉と通話をした。そして、明日が来なければいいのにと、涼葉は何度も言っていた。
そして、月曜日に会うことを約束して、月曜日になる1時間前に通話を切った。
月曜日になり、いつも通り退屈な学校生活をこなした。涼葉と過ごした昨日が夢みたいに思え、一日中ぼんやりとしていた。放課後になり、図書室でお団子ヘアの涼葉とまたいろんな話をした。そして、火曜日は図書室で会わずにイオンのフードコートで話をして、適度な時間に帰り、夜、少しだけ通話をした。
そうして、図書室で会う日、図書室で会わない日はこうやって過ごし、土曜、日曜のどちらか1日は外でデートをした。
そして、本当に平和なまま、9月に入院していたことなんて忘れたまま、涼葉が退院してから、2週間が経ち、10月になった。
☆
月曜日。
僕はいつものように職員室に図書室の鍵を取りに行った。涼葉は来てますかと、顧問に聞くと、顧問が壁に備え付けのホワイトボードを指した。
ホワイトボードの2年の病欠欄には、涼葉の名前はなかった。
ドアの鍵を開けて、図書室に入ろうとしたとき、
「おつかれー。ダーリン」と後ろから声がした。だから、僕は後ろを振り返ると、制服姿の涼葉が胸元くらいの高さで、右手を小さく振っていてた。涼葉を見ると、いつもよりも色白く見えた。色白を越して、すこし青みがかっているようにも見えた。唇もルージュを塗ったみたいに淡い紫に見えた。
日曜日は会わず、土曜日にスタバで少しだけ話した。そのあと、具合が悪いと言ったから、帰ることになり、日曜日はメッセージだけのやり取りだけで終わっていた。
「大丈夫?」
「大丈夫。さすがに学校はサボらないよ」
「いや、顔色悪い」
「いいよ。具合悪くなったら、帰るから少しでも一緒にいたい」
僕はもう一度、強く止めようと言おうと思った。だけど、いつになく真剣そうに、なにかを訴えかけてくる、そんな涼葉の表情で言い出せなかった。
カウンターにいつものように横並びで座っているけど、やっぱり、涼葉は具合悪そうに見えた。座っているのもキツそうな雰囲気だ。
「床に座ろうぜ」
「え、でも、カウンターから人、いなくなっちゃうじゃん」
「こうすればいいんだよ」
僕は立ち上がり、カウンターを出て、図書室のドアを締め、鍵をかけた。そして、ドアの窓についている〈閉館中〉の札をつけた。
「嘘つきじゃん」
ふふっと、弱々しい涼葉の笑い声が響いた。
「蔵書整理日。どうせ、だれも来ないよ。みんな部活か、バイトだ」
「だよね。ごくわずかの利用者の陰キャに優しくないね」
「いいんだよ。ほら、椅子に座るのやめようぜ」
そう言うと、涼葉はゆっくり立ち上がり、そして、カウンターの中の壁側まで歩き、壁に寄りかかってカーペットに座った。蛍光灯の明かりの下で見る涼葉の顔色はやっぱり青白かった。僕はカウンターに戻り、涼葉の隣に座った。
「――もうダメかも」
僕が座ってすぐ、そんなこと言うから、本当に身体がきついんだと感じた。
「そんなこと言うなよ。まだ、長い夢の小説、できてないだろ」
「これでも、毎日書いてるんだよ」
「だから、完成させないと」
「ねえ。もし完成できなかったら奏哉くんが引き継いで書いてね」
「――なに言ってるんだよ」
僕はそれしか返す言葉がでなかった。そのあと、すぐ涼葉はいつものように何度か咳をした。だから、僕は涼葉の背中をさすった。
「ずっと、優しいままだったね。奏哉くんの印象、ずっと変わらなかったなぁ」
「そういう冗談はやめろよ」
「いいじゃん。弱ってるときなんだから、少しは本当に思ってること話しても」
そう言ったあと、また弱々しく、へへっと涼葉は笑った。エアコンの送風の音と、時計の秒針だけが静かに響いていて、ここの中が無菌室や水槽の中のように感じた。ずっと、涼葉とふたりでこの中で暮らしたら一体、どんな生活になるんだろうと、どうでもいいことを僕は考えた。
「ねえ、ビートルズ流してよ」
「いいよ」
僕は一歩先くらいに置いてある自分のバッグに手を伸ばし、バッグを手繰り寄せた。そして、バッグからiPhoneを取り出し、Spotifyを開き、一番最初に表示された〈ザ・ビートルズ・アンソロジー2〉をタップした。
不安定で繊細な聞き慣れたReal Love のイントロが流れ始めた。
「いい曲だね」
「でしょ。ビートルズ最後の曲」
「レットイットビーじゃないの?」
「ジョン・レノンが死んだあとにデモテープをもらって、残りの三人で作ったんだ。だから、これが最後の曲」
「本当に好きなんだね。もっと自信持ってもいいと思うよ」
「ありがとう。そうする」
そう言うと、涼葉は微笑んでくれた。
「ねえ。ひとつだけお願いがあるんだけどいい?」
「いいよ」
「ただ、抱きしめて」
「――いいよ」
隣に座っている涼葉の背中に左手を回すと、涼葉は僕に寄りかかってきて、僕の胸の中にきた。髪からほのかにバニラの香りがした。そのまま右手も涼葉の背中に回し、涼葉のことを抱き寄せた。涼葉も両手を僕の背中に回し、僕と涼葉はただ、密着した。
黙ったまま、僕の左肩に頭を乗せていて、このまま時が止まってしまえばいいのにって強く思った。だけど、Real Loveは流れ続けているし、時計の秒針は一秒一秒をしっかりと刻んていたし、エアコンもしっかりと外の風を図書室に送り込んでいた。
「――やり残したこと、いっぱいあるなぁ」
「大丈夫。まだ涼葉は生きてるだろ」
「今はね。――私、たまにデジャブ見るんだ。今もそうだよ」
「じゃあ、今まで言ってたのも、本当に夢で見てたんだ」
「なに言ってるの。私は本当のことだから、素直に言ったのに」
「なんか、小説書いてる延長みたいなものかと思ってた」
「変なの」と言って、涼葉は弱く笑った。今まで一度も、そんな経験をしたことがないから、本当にそんなことがあるんだと、よくわからないけど、僕は納得してしまった。
「デジャブってどんな感じなの?」
「なぜか一言だけ、印象に残ってたりするの。ほとんどは一瞬見た光景とか、一言とかだけなんだけどね」
「へえ。そうなんだ」
「だけどね、今回のデジャブはね。ちゃんとオチがあるんだよ」
「オチ?」
「――ここで死んじゃうの」
涼葉の声が震えていた。本当に怖い夢だったんだと思うけど、まだ何も起きてないよ。って言おうと思ったけど、そんなこと言わずにただ、両腕に力を入れて、涼葉をしっかり抱きしめた。
「――私、死にたくない」
「大丈夫だよ。涼葉」
お互いに二人しか聞こえないような小さい声でそうやり取りをした。いつの間にかReal Loveは終わっていて、Yes It IsがiPhoneから流れていて、僕と涼葉だけを置いて、穏やかでのほほんとした空気になっていた。そして、涼葉はそっと、僕の背中から両腕を離し、僕から離れ、抱きしめる前と同じように、壁に寄りかかった。
「もっと、奏哉くんとたくさん楽しいことして、ずっと一緒にいたかったな」
「変わらないよ。今も、この先も」
「――だけど、もう、十分自分がこの世界に存在していることを自分の言葉で残した気がする。あとはお願いね」
涼葉は左手で胸をさすり始め、鈍い表情をしていた。
「ダメだ。痛むんだろ」
僕が立ち上がると、涼葉は僕の左腕を掴んだ。だから、僕はもう一度、涼葉の前に座った。
「……行かないで」
「ダメだよ。助け呼ばないと」
「ふふっ。このシーンも夢で見たな。やっぱり、私、今日で最後かもね」
「やめろよ! もっと、楽しいことたくさんしよう。そして、ずっと一緒にいよう」
涼葉は微笑んでいた。だけど、いつの間にか、頬は濡れていて何粒も、涙が蛍光灯で輝いているのが見えた。
「……奏哉くん。愛してます。一緒にいてくれてありがとう」
そのあと、左腕を掴まれていていた力が急に弱まった。そして、涼葉を見ると、涼葉は目をつぶっていた。
「――この世界から消えないでほしい」
僕はそう呟いたあと、再び立ち上がった。
☆
涼葉は火曜日に亡くなった。
その火曜日から、僕の心は何者かに鷲掴みにされて、そしてきれいに抜き取られたように空っぽだった。なにも考えられない日々が続き、それは涼葉の葬儀の日も同じだった。
葬儀が終わり、僕は駅のホームで電車を待っていた。夜のホームには数人がポツポツと立っているだけで寂しかった。本当は家まで我慢しようと思ったけど、僕は我慢できなくなり、涼葉の母から受け取った青い花柄の封筒をバッグから取り出した。
ベンチに座り、両手に持った封筒をじっくりと見た。
『奏哉くんへ』
いつも、ノートで見慣れた丸っこい字でそう書かれていた。
「遺書ってことか」
そうぼそっと呟いてみたけど、僕の隣で、笑ってくれる人なんて、もう存在しなかった。封筒を開けて、手紙を取り出した。そして、手紙を開くと、ノートと同じように見慣れた字がたくさん並んでいた。
『奏哉くんへ
これを書いているのは、土曜日に具合が悪くなったからだよ。
お医者さんから、この症状があると危険だって症状がとうとう出ちゃったんだ。
だから、口では言えない、大事なことを伝えるね。
まず、なんで奏哉くんのことが好きになったかを言いたいんだ。
中学3年の受験生だったとき、うたた寝をしたとき、変な夢をみたの。
男の子に「この世界から消えないでほしい」って言う夢だったんだ。
そのことをノートの小説で〈冬の始まりの凛とした空気よりも、君は透明だった。〉にしたんだ。
あの小説で書いたことがそのまま夢で起きた感じだったんだよ。
それでその小説を奏哉くんに見せたら、奏哉くんがいいねって言ってくれたから、
嬉しかった。
それでね、その夢に出てきた男の子がまさに奏哉くんだったの。
図書局に入って、奏哉くんのこと見たとき、奇跡だと思ったよ。
そして、運命なんじゃないかってことも。
だから、同じ曜日に入るようにしたの。
だけど、高校合格したあとすぐに余命1年って宣告を受けてたから、
本当は今すぐに付き合いたかったけど、
1年後に死ぬのわかってて、そんなことするって、
ものすごくつらいことだと思うから、やめちゃったんだ。
だけど、宣告された時期も過ぎて、
死期を逃した私は残り時間に縛れずに残りを生きようと思ったんだ。
だから、小説を書き始めたし、
自分と向き合うことができた気がするんだ。
ある意味、長く生きるとか、そう言うことは諦めて、
開き直ることにしたの。
そんな中、奏哉くんが告白してくれたんだ。
嬉しい反面、身体弱いこと言わないといけないとも思った。
だけど、なかなか言い出せなかった。
だって、楽しいんだもん。
もっと、生きたいって、余命宣告受けて、
その時期を越して、せっかく開き直ってたところだったのに。
そして、私の小説を読んで、褒めてくれたのは毎回、すごく嬉しかったよ。
だから、その気になって、長編小説書こうとしたのにさ。
無理だったから、約束通り引き継いでね。
これが私からの本当の最後のお願い。
ただ、無理はしないでね。
何十年でも完成するのを待ってるし、
完成できなくても、奏哉くんのこと、とがめないから安心して。
小説はクラウドの中に入ってます。
クラウドのIDとパスワード、別の紙に書いたから、よろしくね。
最後に人に愛されることを知れた私は幸せ者でした。
ありがとう、愛してます。
PS ノートの最後から2つ前のページをみてください。
お空へ行った涼葉より』
☆
電車を降りたあと、僕はホームを走り、改札を抜け、外に出た。少しでも早く家に帰りたくて、シャッターが閉まり、すずらん街灯で薄暗い見慣れた商店街を走り抜けた。10月の夜の空気はすでに秋に満たされていて、少しだけ冷たかった。そして、商店街を抜け、住宅街に入ったとき、息が切れてしまい立ち止まってしまった。
何度か大きく、息を吸い込むとやっぱり僕だけが生きているんだと、つらくなった。涼葉が咳き込んでいたことをふと思い出した。
息が少しだけ整い、空を見上げた。深い藍色の空には、今日は月は浮かんでいなかった。その代わりにいくつかの一等星がまたたいているのが見えた。こんなにじっくりと夜空を見上げたのは、いつ以来だろう。
涼葉が隣にいれば、こんなくだらないこと言っても、受け止めてくれてたんだろうな――。
つらい波が胸のなかで何度も打ちつけ、喉の奥が熱くなりそうになった。
「泣くにはまだ早いだろ」とぼそっと言いながら、頬はすでにいくつもの粒で濡れた感触がした。
☆
部屋につき、机の下に置いてある椅子を引き、座った。そして、机に置きっぱなしの青いノートを手に取り、涼葉に言われたとおり、ノートの最後から2つ前のページを開いた。そこにはこう書いてあった。
〈9、すべての『』を繋げた君へ。〉
〈書いた小説の順に『』を拾ってね。私から奏哉くんへの最後のお願いだよ〉
その文章の下に〈『〉が書かれていて、ページの一番下に〈』〉が書かれていた。そして、その間にそれぞれ数字が書かれていた。
『1→
4→
5→
3→
6→
2→
7→
8→ 』
「そういう意味だったんだ――」
僕はノートの一番最初のページを開き、ひとつずつ涼葉がこの世界に残した小説を読み始めた。
☆
『1→
『もし、こっちが世界から消えたら、忘れてね。』
『一瞬だけでも君と過ごせてよかったと思ってるよ。だから、忘れて。氷が溶けたあとの水たまりみたいにね。だからね、』『君が大切だってことを伝えたいんだ』
4→
『身体には何本もの線が繋がれていて、それらの線は心電図の機械にまとめられていた』
『あのとき、ものすごく失望していたんだ』
『こんな自分の運命を受け入れることができなかったんだ』
『だけど、あれのおかげで、君の優しさに触れることができたし、初めて愛しいと思える人と出会えました』
5→
『そのとき、』『見た夢の中でね』
『少しでも長く君と一緒にいて、話がしたいなって思った』
『私だって知りたいよ』『君のこと』
『なぜか自然に君にいろんなこと話してることに気がついたんだ。なんでだろうって思ったけど、たぶん、これが相性なんだろうなって思ったんだよ』
『私なりに考えた結果だよ』
3→
『たまに予知夢、みるときがあるんだ』
『この前ね、』『死ぬ夢、みちゃったんだ』
『ふわふわしたような、嫌な気持ちは消えなかったよ』
『瑞々しかった過去の出来事になりつつあるのが少しだけ寂しく感じたから、そのまま伝えようと思ったんだ』
6→
『夢で見た光景、そのまんまだったから』
『だから、告白されて嬉しかったよ』
『君のことがずっと好きだったから』
2→
『孤独を好むタイプな』『君のことが好きだよ』
『なにかをインストールされるような、そんな気持ちにふわふわしていた気持ちが固まり始めていることにふと気がついてしまったよ』
7→
『もっと自由に青春を過ごしてみたかったな』
『ずっと一緒に生きていたい』
『ずっと一緒に生きたい』
『あーあ、ずっと一緒に生きていたかったな。もし、私が先にいなくなっても忘れないでね』
8→
『これじゃあ、つたなすぎて、気持ちを伝えられないから、あとで手紙で伝えるね』
『ただ、ひとつだけ』
『私が言いたいことは、』
『生きている証が君によって、続いたら、すごくいいなって思ったんだ』
『重いお願いになるけど、受けてくれたら嬉しいな』
『最後にひとつだけ伝えるね』
『君のことが好きだった』
『やっぱり、想いを伝えるのって、手紙みたいに上手くいかないね。言ってること、ぐちゃぐちゃじゃん』
『奏』『哉』『くん』『自分らしく強く生きてね』
』
この怪文書を完成させてしまうと、僕は涼葉に強くお願いされているように感じた。本当に長い夢の小説を完成させたかったんだと思う。だけど、それができなかったんだ。
「いいよ。自分らしく生きてやる」
ぼそっと、そう言いながら、失った事実が、青く、深く、胸に押し寄せてくる感覚がしたから、息を思いっきり吐いた。
吐いた息はすでに熱くて、その熱を感じている間にまた頬は簡単に濡れてしまった。
☆
僕は小説が書けるようになるために勉強を重ねた。そして、文学部に合格し、僕は上京した。この街で涼葉と過ごした思い出は少しずつ、遠のいていくのは、ものすごく寂しく感じた。
だけど、僕は涼葉が残した残りの言葉を紡ぎたかった。
あれから2年が経ち、僕は19歳になった。
その間に何度も、涼葉が残した小説を読み直し、そして、涼葉が中途半端に残したままの長い夢の小説をどうやって完成させようかこの2年、ずっと悩み続けていた。
そして、月曜日。
真夜中、僕はローテーブルの上に置いたMacBookのキーボードを叩いていた。
耳につけたAirPodsからは、ストロベリー・フィールズ・フォーエバーが心地よく流れていた。
〈「僕は君に出会えたことが奇跡だったし、君が本当に必要だったんだ。だから、ありがとう。もし、僕がこっちが世界から消えたら、忘れてね」
「忘れるわけないでしょ。私は絶対、忘れないよ」
気がつくと黄色と白が交じる朝日で8時間の藍色は水色に変わっていた。と一緒に溶け始めた死神を私はただ、抑えられない涙を我慢できずに、ただ見つめているだけだった。〉
日曜日から5分過ぎて、涼葉が残した長い夢の小説を僕は完成させた。
「すべての『』を繋げた君へ。」
僕は小説のタイトルをぼそっと言ったあと、マグカップに入っているカフェラテを一口飲んだ。