雨に打たれて疲れた体は空来が用意してくれたシャツとジャージに包まれている。
 空来の向かい側に腰を下ろした星音はテーブルに視線を落としていた。
『言いたいこと、あるよね』
 その言葉に頷いた。
 だけど……なにを話せばいい?
 言いたいことはある。
 ききたいこともある。
 でも、言葉が出てこない。
 部屋の中に落ちた沈黙を先に破ったのには空来だった。
「ーーごめん」
「え……」
「ごめんね、星音」
 掠れた声で空来は謝った。
「別に……っ」
 いいよ、気にしないで。
 そう続けようと思った。でも、続けられなかった。
 いいはずがない。
 覚悟はあった。
 だからあのとき何のためらいもなく足が前に出た。あの瞬間本気で思ったんだ。
 やっと終わる。
 そう思ったのに、気づいたら泣きそうな空来に止められてて……。
「星音、嫌だったらこたえなくていいから訊いてもいい?」
 星音は黙って首を縦に動かした。
「あのとき誰に謝ってたの?」
 ガンッとどこかに雷が落ちた。
「さっき公園を出るときに『ごめんなさい』って言ってた。僕に言ったわけじゃないでしょ?」
「そんなこと言ってたんだ……」
 完全に無意識だ。
 あの瞬間に私が謝る相手なんてーーあの人たちしかいない。
「え?ごめん。上手く聞き取れなかった」
「あっううん。なんでもない」
 怪訝そうにする空来に少しだけ笑ってこたえる。
「本当に謝ってたんだったらたぶん……家族だよ」
 私の言葉にぴくっと眉を動かした。
「……家族?」
 確かめるように呟かれた言葉に頷く。
「うん。あー……もういいや、空来なら。もう2回も死ぬところ止められてるし」
 急に投げやりな言い方になった私に戸惑いながら空来は「星音?」と名前を呼んだ。
「……話すよ、全部。もう疲れたし。それに隠してることに意味もないし」
 声が震えなかったのが不思議なくらい手が震えてる。
 今から話そうとしてることを考えたら当然か。
 星音の手が震えてることに気づいた空来は「無理しなくていいよ」と柔らかく笑った。
「ううん……たぶん今じゃないといけない気がするから」
 震える手を深呼吸してなんとか落ち着かせる。
「わかった。教えて、星音のこと。ゆっくりでいいから」
 優しい声に背中を押されて本当に少しずつ言葉を紡いでいった。
 止みそうにない雨は静かに降り注いでいる。


「私は本当はずっと前にこの世界から消えられたはずだった」
 ぽつっとこぼした言葉に空来が反応した。
「それは……病気なの?」
 不思議に思うほど真剣な顔で恐る恐る呟く空来に思わず笑みがこぼれた。
「えっ?いま笑うところあった?」
「ううん。病気ね……たしかにそのほうがよっぽどよかったかも。……なんて、言っちゃいけないかな」
 そう言って星音は困ったように苦笑した。
「違うの?」
「全然違うよ。どっちかというと残念なくらい健康だと思う」
「じゃあなんで?」
「……事故。ものすごい規模だった。本当に……一歩間違えば死んでた」
 玉突き事故だった。
「私にはね、二つ上のお姉ちゃんがいたの。お父さんもお母さんも仲が良い家族だった。……私が小3の頃にみんないなくなっちゃった」
 私だけ残して。私だけ置いていってしまった。
「その事故で……?」
「うん。私だけ奇跡的に生き残っちゃった」
 あの日の傷はまだ癒えていない。
「ほら、これみて」
 星音は少し大きいシャツの袖をたくし上げる。隠れてた肌をみた空来は驚いたように息を詰まらせた。
「まぁこれ以外にもたくさん古い傷は残ってるんだけど……本当よく生きてたよね」
 救急隊が来た時にはもう意識がなかった。
 ーー……目が覚めたら病院だった。
「もちろんすぐに聞いたよ。みんなはどこ?って」
 空来は黙ったまま先を促すように頷いた。
「誰も教えてくれなかったよ。ある程度回復してから初めて教えてくれた。その間に私はいろいろ検査されて記憶が所々なくなってることがわかったけど、生活に支障はなかったみたい」
「じゃあ、星音はどうしたの?」
「私は……何もしなかった。何もできなかった。ただ、周りの大人たちが慌ただしく動いてこそこそ話している内容に耳を澄ませていただけ」
 目をつぶればすぐに蘇ってくる。あの日の光景も会話も全部。
 ーー星音ちゃん。まだ小学生でしょ?
 ーーかわいそうに……。
 ーーそうだけど……どうして星音ちゃんだけ助かったんだろうって思っちゃうわね。
 ーー惜しい人たちを亡くしたよな。
 周りの大人の言葉を傷だらけのまま聞いていた。
 最初はまだ頭がぼんやりとしていてわかってなかったけど、唐突に理解した。
 死ぬべきだったのは私なんだ。
 生き残るべきなのは私じゃなかった。
「誰かが言ってた。私を守るように3人は倒れてたんだって。私のせいでみんな死んだんだよ」
「でも、それはーー」
「ーー私のせいだよっ。だって小3だったんだよ?人が死ぬことの意味くらいわかってたよ。……みんなが自分のことを守ってれば……そもそも私なんかほっとけばよかったんだよ。そしたらまだ生きていられたかもしれないのに」
 そうすれば、あの日死んでたのは私だけで済んでたのかもしれない。
 お葬式では声をあげて泣いた。
 ーーごめんなさい。私のせいで……ごめんっ私、わ、わたしがっ……ごめっ……なさい。
 声が枯れても謝り続けた。
 私だけ生き残ってしまってごめんなさい。
 私が死ぬべきだったのにごめんなさい。
 言えない思いを全部涙に変えたみたいに泣き続けた。
「その様子を見た周りの大人は優しい言葉をかけてくれたよ」
 ーー星音ちゃんは悪くない。
 ーー守ってもらったんだから3人の分まで頑張って生きなきゃ。
 投げられた言葉は体にあるどの傷よりも痛かった。
「まぁ、おばあちゃんに言われた言葉が1番きつかったかな」
 疲れたように笑いながら続けた。
「泣いてる私を見ながらなんて言ったと思う?……生きてるのが星音だけなら星音は誰よりも頑張りなさい。お姉さんもお父さんもあなたの何倍もよくできる子だったんだから、だって」
 ぐっと強く拳を握る。
「そりゃそうだよね。生きてるのが落ちこぼれの私だけなんだもん。3人の命を犠牲にして私は息をしてるんだからその分努力しなきゃ……だから、遊びも甘えも全部やめた。だけど」
「ーー待って」
 空来が私の声を遮った。
 静かだけど反論を許さない雰囲気に戸惑う。
「……ごめん。落ちこぼれってなに?どういう意味?」
 怒ってる。明らかにそう感じさせる声音だった。
「……言葉通りだけど、そういえば言ってなかったね。私のお父さんの家はかなり厳しい家でね。学歴とかそういうのにすごくうるさいの。で、お父さんのお母さん。つまりおばあちゃんは私のお母さんのことが嫌いなんだ」
 どうしてお母さんのことを嫌ってるのか幼すぎて最初はわからなかった。
「だから、当然お母さんの子供のことも嫌ってたんだけど。小学生になって勉強が数字で評価され始めると態度が変わった。お姉ちゃんはすごく頭が良くてねそれでいてスポーツも人並み以上にできた」
 そのことを知ったおばあちゃんは少しだけ態度を改めた。
「でもね、私は人並みだった。スポーツは可もなく不可もなくで特筆できるようなところが一つもなかった。……だからおばあちゃんは私にことあるごとに言った。お前の姉さんはできるんだからもっと頑張りなさい。って……それでも成績は上がらなくて私は落ちこぼれになった」
 どんなに頑張っても、落ちこぼれというレッテルは剥がせなかった。
「……なんで、そうなるの?星音にはいいところたくさんあるよ。人の気持ちに敏感で気配りができて優しいーー」
「ーーそんなのは空来が私のことを知らないから言えることでしょっ!……私は、そんな子じゃない。空来が言ってくれたような子じゃない……」
 空来の言葉を遮るようにでた言葉は責めるような口調になってしまった。
 だけど……。
 可愛いも気配りができるもお姉ちゃんのものだ。
 優しいも私以外の家族のものだ。
 私がもらえる言葉は何もない。
「……空来にそんなふうに言ってもらえる資格は私にはないよ」
 ふっと乾いた笑いがこぼれた。
「私は3人の分も頑張ろうと決めた。だから泣いてる暇はないと自分を奮い立たせて無理やり笑って学校に通って友達と過ごした……でも、家族を失っても笑って過ごす私を周りは受け入れてくれなかった」
 ーーあの子おかしくない?
 ーーどうしてずっと笑ってるの?
 そんな言葉たちを聞いて途方に暮れた。
「どうすればよかった?……泣いてればよかったの?」
 だけど、泣くことを周りの大人たちは許してくれない。
 そのくらい、私はわかってた。
「答えは簡単だった。その時接してる周りの人が望む私になればいい。私は別に私じゃなくていい」
 そうすることが私が出せる正解だった。
「上手くできたよ。私が必要なくなるくらい上手にできた。『星音』がいれば私は必要ない。だから私は私を殺したかった。消したかった。……でも、無理だった」
 ーー守ってもらったんだから3人の分も頑張って生きなきゃ。
 刺さった言葉は私を生かそうとした。
 この程度の辛さで逃げるのか。
 この程度のしんどさで諦めるのか。
 お姉ちゃんやお父さん、お母さんはもっと苦しかった。もっとつらかった。それに比べたら大したことない。
 だからまだやれるだろ。
 もっと頑張れるはずでしょ。
 そうやって私の背中を押した。
「私は『星音』でいないといけない。誰よりもわかってる。それでもふとした瞬間に私に戻ってた」
 私に戻るといつも苦しかった。
 誰かの都合のいい道具になることを私が受け入れきれなかった。
「ーーあとはもう空来に話してあることだけだよ」
 力なく笑う星音に空来は眉を下げた悲しそうな顔で笑って言った。
「……うそつき」
「え……」
「まだあるよね?隠してること」
 そんな、こと……。
「星音が本当に隠したかったこと、隠したい想いはそれじゃないでしょ」
 なんで……。
 戸惑う私に空来は優しく笑いかけた。
「言っていいんだよ」
「えっ……?」
「ここには僕と星音しかいない。この家にこれ以上人は来ない。誰も星音を責めたりしない。だから、星音が言っちゃダメだと思ってる言葉。言えない言葉。全部、言っていいんだよ」
 ……そんははず、ない。
 私の中にあるこの言葉は……これだけは言えない。
「星音。自分で自分を責め続けちゃダメだよ。大丈夫だから。僕がいるから、だから、もう言っていいんだよ」
 その声にほんの少しだけ顔をあげる。
 同情なのかもしれない。そんな思いで空来を見た。
 そこには、いつもの空来しかいなかった。いつもみたいに月みたいにきれいに微笑んでいた。
 どうして……。
 私の話を知った人は大体態度を変えた。それは、同情だったり憐れみだったりいろいろあったけど。
 私は同情も憐れみも欲しくなかった。
 どうして空来は私の気持ちわかってるみたいに笑いかけるの?
 そんなことされたら、言ってしまいたくなる。この言葉を……私の中にあるものを捨ててしまいたくなる。
 でも、捨ててしまったら私はーー。
「ねぇ星音。抱えきれないと思ったら無理して持たなくていいんだよ。いったん置いておいてもいいし。誰かに頼ってもいい。君がひとりきりで抱えなくていいんだよ」
 空来の言葉に声に決意が揺らぐ。
「っ……でもーー」
 パタっと雫が落ちる音がした。
「大丈夫だから。星音が抱えてるもの僕にも分けて?ちゃんと全部受け止めるから、だから……泣かないで」
 そう言われて初めて泣いてることに気がついた。
「ーー……本当に、言っていいの?」
「うん。言っていいよ」
 星音は何度も言いかけては口をつぐんだ。
「私、は……」
「うん」
「……私はね、あの事故の日よりもずっと、ずっと前から……死にたかった」 
 ぽつっとこぼれた声はひどく掠れた。
「私は、お姉ちゃんたちに助けてもらえるような価値のある人間じゃない……」
 ずっと消えたかった。生きていたくなんかなかった。
「だから本当は事故にあった瞬間、思ったんだ。これで死ねたら楽だなって……」
 生きていたくなんかなかった。
 だから目が覚めた時は落胆してお姉ちゃんたちが私を庇ったから死んだという事実に絶望した。
「……だけど生き残ってしまったのは私で。私は誰にも必要とされてなくて……。まあ落ちこぼれだけいても邪魔なだけだもんね」
 周りの大人は必要最低限のことしかしなかった。
「ーー……私は生き残るべきじゃなかった。あの時死ぬべきだった。……誰よりも私がそう思ってる」
 愛されてないわけじゃなかったと思う。
 家族は私を、誇れるような娘じゃなくても愛してくれてはいた。
 でも、生き残るべきなのは落ちこぼれじゃ駄目だ。
「本当は、助けてほしくなんかなかった。あの時、死なせて欲しかった。私なんか残したところで何の意味もないのにどうして……っ」
 ずっと考えてた。
 どうして私を助けたの?
 どうして私を死なせてくれなかったの?
 どうして私だけ残していってしまったの?
 考えても考えてもこたえなんか出てこなかった。
「もう、つかれた。……最低でしょ?助けてもらっておいて助けてほしくなかったなんて」
「……僕はそうは思わないよ」
「……なんで?お姉ちゃんもお父さんもお母さんももっと生きたかったはずなんだよ?もっとやりたいことがあったはずなんだよ?その時間を私が奪ったのに……生きてる私は死にたいなんて、思っていいはずないでしょ?」
 もらった麦茶にはひどい顔をした自分が映り込んでいた。
「ーー……私は死ぬべきだったんだよ。あの事故の日に」
 私を残すべきじゃなかった。
 私が残すべきだったんだ。
 吐き出された言葉はどの言葉よりも悲しく響いた。
「ねぇ星音」
「なに……?」
 星音の怪訝そうな声に空来は困ったように笑ってから口を開いた。
「僕は星音が死ねばよかったなんて思わないよ。星音の努力が無駄だったなんて誰にも言わせない。もちろん星音自身にもね」
 空来の真剣な瞳には戸惑っている私が映っている。
「君は誰?」
「……え?」
「君は誰なの?」
 突然の問いかけに頭が回らない。
「わ、たしは……私、だよ……」
「うん。知ってる。君は君だ」
 ふっと表情を緩めた空来に困惑する。
「どういう意味?」
「不器用で、一生懸命で、純粋で、努力家で、誰よりも優しい君。それでいて脆くて、強がりで、ちょっとだけ泣き虫な君。どっちも君だ」
 ぱたっと水が落ちる音がした。
「どっちも含めて、君は天野星音というひとりの人間だ」
 なに、それ。
 誰のこと言ってるの。
 私の顔を見て空来は驚いたように目を丸くして笑った。
「やっぱり星音は結構泣き虫だ」
「あれ?……おかしいな。泣くつもりなんかない、のに……」
「僕は前に言ったよね?君は君のままでいいんだよって」
「うん……」
 正直なに適当言ってるんだって思った。そんなはずないと私がいちばんよくわかってるから。
「誰がどう思っても何を言っても、僕はそのままの君がいちばんだと思ってる。君のことを必要ないなんて思わない。君が死ぬべきだったなんて絶対にありえない」
 どうして、そこまで……。
「生きたいと思わなくてもいいよ。死にたいって思ってもいい。これから先の人生で必ずいいことがあるなんて無責任なこと言わないよ」
 そこで一旦言葉を切った空来はにこっと笑って「だけどね」と続けた。
「僕は君と出会えて本当に救われたんだ。君は落ちこぼれなんかじゃない。星音のことを否定するような人の意見なんか聞かなくていいんだ。だからそんな人の評価で苦しまなくていいんだよ。君の味方はここにいる。誰かの都合のいい『星音』じゃない。君の味方がちゃんといるってことを、覚えていて欲しいんだ」
 ……どうして私なんかにそこまで言えるのかわからない。
 初めて話した時からそうだ。
 空来の言葉はいつだって私を優しく包んでくれた。だけど、それ以上に空来は意味不明で、理解不能で……今だってどうしてそこまでって思う。
 私は必要とされてなくて、『星音』だけが必要で。
 生き残ってしまったのが私だけだから仕方なく存在を許されていた。
 なのにーー。
 ぽろぽろと頬を伝う涙は止まることを知らないみたいに溢れてくる。
「ずっとひとりで頑張ってたんだよね。でも、もうひとりじゃないから、僕がいるから。……だから、つらいって苦しいって……我慢してた分たくさん泣いていいんだよ」
「っ……別に、つらくなん、か……っ」
 本当はずっと泣きたかった。
 つらいって苦しいってもうずっと心は悲鳴をあげていた。
 たった一言。
 ーー頑張ったね。
 これだけでよかった。
 頑張って頑張って頑張って頑張り抜いて。
 それでも無駄だった。できなかった。
 だけど、頑張ったことくらい……私じゃなくていいからその努力だけでも認めて欲しかった。
「僕は君の味方だよ。これまでもこれからも」
 空来の言葉にさらに涙が溢れてくる。
 私ってこんなに泣けたんだと思いながらも言葉を紡いでいく。
「これからもって……そんなのわからないでしょ」
 私の言葉に空来は「ううん。わかるよ」と笑った。
「なんでそんな自信あるの……」
「僕は星音には嘘つかないんだよ。それに想像できないし」
 なにそれ。
 嘘つかないかわりに隠してることなんて山ほどあるんだろう。それがなんなのかはわからないけど……。
「ねぇ空来」
 これから先のことなんてわからない。……だけど。
「ん?なに?」
 滲んだ視界の先で笑う空来にそっと呟く。
「ーー……ありがとう」
 目を丸くする空来に涙でぐしゃぐしゃの顔で笑った。
 止みそうになかった雨はいつの間にか止んでいる。
 不意に窓の向こうにみえた暗く厚い雲の隙間から差し込む光が無性に綺麗だと思った。