空来はいろんなところに私を連れ出した。
 初めて入るカフェ。海。水族館や動物園。全然知らない街の高台。
 どこに行っても空来は私の隣で笑っていた。
 嬉しそうにニコニコして。
 悲しそうに柔らかく笑って。
 泣きそうなほど優しく微笑んだ。
 夏の風に混じって緑の匂いがした。
 太陽はもういちばん高いところまで進もうとしている。
「星音?どうかした?」
 閉じていた目をゆっくり開けると空来が心配そうに私を見ていた。
「いや、どうもしないよ」
「本当に……?」
 疑いの眼差しで私をみる空来に苦笑しながら答える。
「本当に大丈夫だよ」
 私の言葉に「そっか」と安心したように笑った。
 ……信用ないなあー。まあ当たり前か。
 今日は通ったことのない道をひたすら歩き続けて見つけた公園でのんびりしている。
 テーブルの上には近くのお店で買ったサンドイッチとか飲み物が置いてある。今回も結局お金は空来が払ってくれた。どうやら空来は私にお金を払わせる気がないらしい。ぼうっとしていると不意に近くで子供の声がした。
「次!お前が鬼なー!」
「ええっ!待ってよー!!」
「あんまり遠くに行かないでねー」
 その様子を見ていた空来が「家族で遊びにきてるのかな」とこぼした。
「そうみたいだね」
 遠くで蝉がうるさいくらいに鳴いていた。
 目の前では楽しそうに遊ぶ子供たちがいてそれを温かく見守る親がいて……なんて、幸せな日常なんだろう。
 ピクニック、なのかな?
 そう思っていると近くでサイレンの音がした。
 火事でもあったのかな。
 サイレンの音が嫌に耳につく。
「…………ね」
 遠くで誰かが何か言ってる気がするけどサイレンの音がうるさくて聞こえなかった。
 まるで自分の中で反響してるみたいにガンガン頭の中に響いてくる。
「ーー?ーーほしーー?」
 うるさい。
 うるさい。
 うるさい。
 うるさい。
 ふっと急にサイレンの音が消えた。そのかわりに懐かしい声が聞こえた。
『星音、あなただけーー』
 ねえあの時なんて言ったの?
 ぱんっと音がしたと同時に左の頬が熱くなった。
「星音!しっかりして」
「……え?火事、は?サイレンの音が……近くで」
 私の言葉に空来が怪訝そうに眉を寄せた。
「火事?サイレンの音なんてしてないよ」
 ゆっくり周りを見渡せばいつのまにかさっきの家族もいなくなってた。
 人どころか鳥すらいない。
 この公園にいるのは私と空来だけだった。
「……そっか、ごめん。もう大丈夫だから」
 すうっと辺りが暗くなった。……太陽が雲に隠されたみたいだ。
 幸せそうな家族。
 楽しそうなピクニック。
 晴れた空。
 どれもあの日の記憶と重なる。
 体が持っていかれる感覚。
 誰かの悲鳴。
 遠くから鳴り響くサイレンの音。
 喉が痛くなるほどの煙の匂い。
 オレンジ色の熱気。
 全部、覚えてる。
 からだに触れる風が冷たかった。
「星音?大丈夫、じゃないよね?顔色すっごく悪いよ」
 太陽を覆った雲はいつのまにか厚みを増していた。
 紙よりも白くなった顔で星音が呟く。
「ーー……空来、やっぱり駄目だよ」
「駄目って、なにが?」
 戸惑う空来に星音は歪に笑った。
「私は、ここにいちゃいけない……」
 ぽつぽつと薄暗くなった街に雨が降り始めた。
 無理やり持ち上げた口角が痛い。真っ白な顔をした星音の表情に感情はなかった。真っ黒な感情を煮詰めたような瞳の中には一筋の光も入ってない。
「ここって……どこにいちゃいけないの?」
 星音は空来の言葉に平坦な声でこたえた。
「私は、この世界にいちゃいけない……やっぱり生きてちゃいけないんだよ」
 ぱんっぱんっと大粒の雨が屋根を叩きつける。
「そんなことないっ!生きてちゃいけないなんてそんなことないよ」
 いつもより強い口調で言う空来に笑ってこたえる。
「そんなことないはずないんだよ……少なくとも私はこの世界で今を生きる資格なんてない」
「なんでそんなことわかるの?」
 少し怒ったような声音に首を傾げる。
 空来が怒ってる理由がわからない。
 ゴロゴロと遠くで雷が鳴り始めた。
「生きる資格ってなに?どうすれば生きる資格ってもらえるの?」
 思いっきり眉間に皺を寄せて怒る空来に星音は呆気に取られていた。
 なにに怒ってるのか本気でわからない。
 毎日。
 毎日、毎日、毎日。いつ死ぬんだろうって思いながら生きてる私に資格がないって言ってなにが悪いの?
 どうして空来は何かを耐えてるみたいな表情で怒ってるんだろう?
 わからない。
 生きるべきは私じゃないのに。
 誰よりも私がいちばんよくわかってる。
 普通に見られたかった。
 傷つきたくなかった。
 そのためになんでもした。
 必死になって演じた。
 だけど、無駄だった。
 私はあの人たちみたいに誰かに認めてもらえることなんてない。
 そんなこと、誰に言われなくても私がいちばんよくわかってる……っ。
 ……別にこの世界に未練なんてない。
 そんなもの、あってたまるか。
 黙ったまま動かない星音に空来が怪訝そうに声をかける。
「星音?」
「ーーーー」
「え?」
 ふらっと立ち上がった星音は空来の言葉を無視して外に駆け出した。
「えっ……星音!?」
 驚いたような空来の声を背中で聞きながら星音は走り続けた。
 いつのまにか滝のような雨に変わっていてすぐに全身がびしょびしょになった。
 肌に張り付く服が気持ち悪い。
 びしゃびしゃと足元で雨が跳ねる。
 なにがいけなかったんだろう。
 どうしてこんなに息をするのが苦しいのかわからない。
「星音っ!」
 後ろから名前を呼ばれて思わず振り返った。
 私と同じように全身びしょびしょの空来が私を見ていた。
「どうして……?」
 出てきた声は情けなく震えていた。いつのまにか雨とは違うもので頬が濡れている。わけがわからないまま星音は空来から逃げるようにまた走り出した。
 あそこにいけば終わる。
 その思いだけでひたすら走った。
 やっと辿り着いた先はあの廃ビルだった。
 息が上がって苦しい。
 それでも、星音は非常階段を駆け上った。
 目指すのは……屋上。
 ぎいっと錆びついた扉が開く。
「……はぁ、はぁっ……やっと、着いた」
 星音は扉を閉めて深く息を吸いこむ。
 自殺したら地獄に行くんだっけ?むかしなにかの本で読んだ気がする。
 きっと、あの人たちは天国に行ったんだろうな。ぱしゃっと音を立てながら屋上を進んでいく。
 雨のせいなのか体が異常に重い。
 カンッカンッと大粒の雨が空気を揺らす。
 終わりはもうすぐそこだ。
 あと三歩。
 もう少し……。
 あと二歩。
 あとちょっと……。
 あと一歩。
 ……やっと……。
 終わるんだ……やっと。
 あるはずのない地面に足を出して星音の身体がゆっくり傾く。
 ぐっと下に行く感覚に目を閉じると不意に腕に熱いものが触れた。えっ……と思った時にはすごい勢いで上に戻されて気がついたら倒れていた。
 近くでトクトクと規則正しいリズムが聞こえる。
「な、んで?」
 私を抱きかかえるように屋上に座り込んだ彼がくしゃっと顔を歪めた。
「ごめん、星音。……でも、間に合ってよかった」
 ぐっと空来の腕に力がこもる。
 雨は相変わらず止む気配がない。
 容赦なく打ちつけてくる雫に混ざってあたたかいものが首筋を伝う。
「……な、んで?……どうして……」
「……星音?」
 どうして私は死ねないの?
 どうして私を死なせてくれないの?
 冷たい雨が星音の体から熱を奪っていく。
 俯いたままの星音に空来が声をかける。
「ごめん。許さなくていいから、怒ってくれていいから、文句もいくらでも聞くから、だから……今は、ここから出よう」
 なにも言わない星音の手を引いて空来は錆びた扉に向かって歩き出した。