そっと扉を開く。
 生活感のかけらもない空間に足を踏み入れながらつぶやく。
「ただいま……」
 誰にも届かない言葉をかき消すようにカチャンと鍵を閉めた。
 玄関から中に入ってすぐ左側の部屋がリビング。その反対に私の部屋がある。リビングの奥にもう一室あって私は迷わずその中に入る。もう一度「ただいま」と呟いて部屋を出た。そのまま自分の部屋に入る。
 壁にかかってる制服も机の上の教科書もそのままだ。パッと見ただけなら自殺をしたいと思ってる人の部屋には見えないと思う。だけど、自殺するような人の部屋ってなんだろう?遺書とかあったらそれっぽい?でも、そんなのは他人が決めた勝手なイメージだ。私には関係ない。
 だから、遺書なんて必要なかった。
 ……だけど、今は少しだけ後悔してる。もしも書いていたならもっと強い覚悟があったなら私は今ここにいなくて済んだのかもしれない……。
 そんなどうしようもないことを考えながらクローゼットを開けた。
 ……何を着よう。
 またこんなことで悩むなんて思わなかったな……。
 遠くで吠えた犬の鳴き声に紛れて星音はため息をついた。


 ーー数十分前。
 ようやく街の人々が目を覚ますころ。唐突に空来が言った。
「ねぇ星音。早速好きなもの探しをしようと思うんだけど、とりあえず家に帰って二時間後に駅前に集合しない?」
 笑顔で言われた提案に首を傾げる。
「なんで二時間?」
 別に一回家に帰ってお金取ってくるのに二時間もいらない。
「なんでって、あっそっか」
「……なに?」
「うん。あのね今の服も似合ってるし可愛いんだけどさどっちかというとボーイッシュな感じだから可愛い系?の服着てほしいなって」
 ニコニコしながら言う空来をポカンと見つめる。
 さらっと私のこと可愛いとか言ってるけど、もしかして空来ってものすごく目が悪いんじゃ……ていうかーー。
「なんで?」
「なにが?」
 私の問いにきょとんとする空来に逆に困惑する。
「なにがって……どうして着替えてほしいのかなって……」
 私の言葉に「ああ、それね」と納得したように頷くとクスッと笑いながら口を開く。
「僕が見たいだけ」
 さらっと告げられた言葉に耳を疑った。
「え……?」
「あっ嫌だったら別にいいからね」
 慌てて付け足された言葉に「あっえ……別に、そうじゃないけど……」ともごもごと返す。
「本当?よかった」
 ほっとしたように笑った空来に負けて一つ交換条件を出すことにした。
「ただし空来も服変えてきてよ」
 空来は私の提案に不思議そうに首を傾げる。
「僕はいいけど、そんなことでいいの?」
「えっ?うん。ていうか他になにがある?」
「ううん。わかった。じゃあ二時間後に駅前の……うーん。やっぱり改札の前で待ち合わせ。僕は絶対に星音を見つけるから待っててね」
 そう言って笑う空来はさっと立ち上がって私の手をそっと引いた。
「行こう」
 二人はゆっくりと朝日に照らし出された街の中に戻っていった。


 ーーそして今。
 可愛い系ってなに?
 自分のクローゼットと睨めっこしながら星音は服を引っ張り出していた。
 時間的にもそろそろ決めないと……。
 ーーよし。こうなったら適当に取れた服にしよう。
「……これでいいかな」
 手早く着替えて用意してあったカバンを肩にかけて家を出る。
 約束まであと十五分くらい。ここからなら十分もあれば着く。
 不意に視界に入ってきた空を見上げた。雲ひとつない青がいつまでも広がっている。もっと時間が経てば夏らしい肌を焼くような暑さに包まれる一日になりそうだ。
 なんとなく気が滅入って下を向く。
 地面を覆うアスファルトは当たり前のように灰色だった。灰色が広がる足元をぼんやり見ながら使い慣れた駅までの道のりを歩く。
 一人になるとどうしても考えてしまう。
 なにがいけなかったのか。
 なんでここにいるのか。
 なにをしたかったのか。
 なんで、私は死ねないのか。
 どうして、いつも私は死ねないのか。
 死にたいと思うようになってから毎日のように自分に問いかけている。
 こんなどうしようもないことをいつまで考えればいい?いつまでこたえを探し続ければいい?
 沈んでいく思考と一緒にどんどん歩く速さも落ちていく。
 もうほとんど止まってしまっているような私の視界に突然見慣れないスニーカーが映った。「えっ……」と驚いて声をあげたのと同時に顔を上げる。
「見つけたよ」
 さっきぶりだねと続けて言われる。
「うん。……さっきぶり」
 優しく笑いかけてくる空来に力なく笑ってこたえる。
「……僕が頼んだんだからあれなんだけど、その……星音に可愛い系着てもらうのは早かったかも……」
 困ったように呟く空来を見て少しだけ不安になる。
「……そんなに似合ってない?」
 恐る恐る訊くと空来が驚いたように目を丸くした。
「なんでそうなるの?」
「えっいや、なんでって」
 困ってるみたいだったから……とはさすがに言えなかった。
「なんか誤解してるみたいだから言うけど。予想以上に星音が可愛くて困っただけだよ」
「……は?えっ?」
 なに?空耳?可愛い?なにが?服?
 私の容姿は普通だ。髪だって腰まで伸びてるだけだし。瞳がちょっと大きいくらい。だけど、だからなに?ってレベルだし。肌はまぁ少し白いけどそれは単に外に出ないからだし。
 ずっと思ってたけど……空来って人の何十倍いや、何千倍も目が悪いんじゃ……。
 もしくは、なんだろう?……ホスト?……うーん、あっ……たらし?
 黙って何かを考え込んだまま動かない星音に空来が怪訝そうに「星音?どうかした?」と声をかけた。
「えっ?あ、なんでもない」
「……そっか。じゃあ、どうしようか?」
「どうしてもいいけど……」
 どうしようかって言われても困る。別にやりたいことなんてない。
「じゃあ、こういうのはどう?全部その時の気分に任せる」
「……どういうこと?」
「簡単に言うと目的地も目的も決めないで思いついたままに遊ぶってこと。帰り道なんて調べればわかるし」
 たしかに。
「うん。いいよ」
 今の私たちにぴったりだ。
「じゃあ、とりあえず適当に来た電車に乗っちゃおっか」
「うん……」
 それから思い出したように空来が口を開く。
「あと、言ってなかったと思うから言うけどその服似合ってるよ」
「……あ、ありがと」
 さっきからあまりにも真っ直ぐに伝えられるから恥ずかしい。だいたいキャミワンピにショート丈のシャツを合わせてサンダルを履いただけで大したことはしてない。
「星音?あっそうだ、僕も一応着替えたけど変だったら言ってね。星音に恥ずかしい思いはさせないから」
 笑顔でそう言う空来に心の中で突っ込む。
 いや、もうすでに恥ずかしいけど……。そう言う意味じゃないとわかっていてもつい言いたくなった。
 改めてよく見ると確かに変わっていた。今は着てるけどさっきは上着羽織ってなかったし。空来の服は私と同じくらいシンプルにまとまっていた。半袖のTシャツに半袖の上着を羽織ってジーンズを合わせてる。でもそれが逆に空来らしくてよく似合っている。
「全然大丈夫だよ。空来らしくて……その、か、……かっこいいと思うよ」
 最後は小さすぎて聞こえなかったかもしれない。むしろ聞こえなければいいと思っていたけどしっかり聞こえたみたいだ。
 そらしていた目線を元に戻すと微妙に顔を背けている空来がいた。
「……ありがとう」
 耳を少し赤くしながら呟く空来を見て思わず笑いがもれた。
 あれだけ人に可愛いとか言っておいて自分が言われるのは恥ずかしいんだ。 
 我慢しようと思うたびにふふっと笑いがこぼれてしまう。
 ふいにぼそっと空来が何かを呟いた。
「ごめん、何か言った?」
「……ううん。なんでもないよ。ただ星音は笑ってるほうがいいよ」
 そう言って笑った空来はほんの少しだけ寂しそうだった。その空気をかき消すように空来が声を出す。
「よし。星音、パッと思いつく数字を言って」
 突然の質問に「えっ……と三?」と戸惑いながら答える。
「じゃあ三番目に止まった駅で降りよっか」
「わかった……」
 ホームに着くとすぐに電車が入ってきた。たくさんでもない人を飲み込んだ電車は時刻表の通りに進み始める。
 電車に揺られながら隣でドアに寄りかかりながら立ってる空来に話しかけた。
「ねぇ空来。空来は夏休みの予定とか大丈夫だったの?今さらだけど……」
「もちろん、大丈夫だよ」
 予想していた質問だったのか即答だった。
「……そっか。あのさ、空来は好きなものが二つあるって言ってたよね?」
「うん、あるよ」
「一つだけでいいから教えてよ」
 お願いと手を合わせると相変わらず優しい声で「いいよ」と言った。
「え……いいの?」
 ダメ元で聞いたことだったからあっさり頷かれて逆に驚く。
「うん。いいよ」
「……ほんとに?」
「なんでそんなに疑うの?」
 くすくす笑いながら言われてゔっと言葉に詰まる。
「僕ってそんなに信用ない?」
「あっいや、そうじゃなくて……」
 と返事にならない言葉を繰り返す。
 信用があるとかないとかそれ以前に私は空来のことなにも知らない。
 考え込んでいて油断していた星音の体がぐっと前に持っていかれてバランスを崩した。その体をそっと空来が支えて手を引いたまま「ここで降りるよ」と言って電車を降りた。
 この駅で降りたのは私たちを含めて六人くらい。
「空来、さっきはありがとう」
「どういたしまして。あれくらい気にすることないのに」
 空来は穏やかに笑って言った。
「そうだとしてもお礼は言うべきでしょ?」
 私のこたえに「やっぱり星音は優しいね」と笑った。
 ……優しくなんかない。もし本当に優しいなら、きっと……死にたいなんて思わない。
「ーーところで星音」
「……なに?」
「太陽も高くなってきてこれから暑さもピークになると思うんだけど、この辺を散歩しない?」
「別にいいけど……」
 出来れば日陰を歩きたい。そんな考えを読んだかのように空来が「もちろん星音は日陰を歩いてね」と念を押すように言った。
 ……たまに思うけど空来ってエスパーなのかな?……そんなわけないか。
 自分のあり得ない考えに苦笑する。
 散歩というだけあって私と空来の足取りはとてもマイペースなものだった。
 基本的に日陰を目指して歩いて道端に咲く花とか雲の形とかどうでもいいことを話しながら進む。
「あっ星音見て」
 少し嬉しそうな声で空来が話しかけてきた。
「なに?どうしたの?」
「僕こういうのあんまり見つけたことないんだ。ほら、四つ葉だよ」
 そう言ってはいつと渡された。私の手の中におさまった四つ葉はこれまで見た中で一番綺麗な形をしていた。
「……あ、りがとう」
「うん、どういたしまして」
 お礼がぎこちなくなったことを突っ込まれなくてよかった。
 どうして空来はこれを見つけようと思ったんだろう。……いや、きっとこれは特に意味があったわけじゃないんだ。
 ぼんやりとしたまま歩いていたら不意に空来が立ち止まった。
「どうしたの?」
「星音、お腹すいた?」
「え……」
「あそこ、多分カフェだと思うんだけど、そろそろお昼にしよっか」
そう言いながら空来が指を足した方向を見る。たしかにお店があった。空来が多分って言った意味もわかる。ぱっと見ただけだと普通の家に見えなくもないからだ。唯一お店らしいのは入り口の前にある『ゆきやどり』という看板と営業中の札だけだ。
「入ってみよっか」
 空来の言葉にこくっと頷く。持っていた四つ葉はハンカチにくるんでそっとカバンにしまった。
 空来が扉を押すと風鈴の音が響いた。その音で奥にいた女の人が「いらっしゃいませ」と笑顔で近づいてきた。
「二名様でよろしいですか?」
「はい」
 空来の言葉に頷いて「では、こちらへどうぞ」と奥にあるボックス席に案内された。少し離れたところに私たちと同じくらいの年の男女のグループがいた。
「……空来はこういうところよく来るの?」
 全体的に落ち着いたおしゃれな雰囲気で値段も良心的。女の子はきっと好きだと思う。
「ううん。全く。初めて来たよ?」
 予想とは違って即否定した空来に驚く。こういうお店は慣れてるんだろうなって思ってたから……。
 そんなも思いでじっと空来を見ていると苦笑しながらつぶやいた。
「そんなに驚くことかな?だってこういう場所って女の子が好きそうでしょ?そういうところには行かないよ」
「……そうなんだ、ちょっと意外」
 思わずこぼした言葉に空来が「星音は僕のことなんだと思ってるの?」と苦笑した。
「えっと……正直に言っていい?」
 とりあえず確認してみると「もちろん」と力強く頷いた。その様子に星音は「じゃあ言うけど」とひと呼吸おいてから口を開く。
「……ホストかなにか」
 星音の言葉に空来は「えっ……」と呟いたきり固まってしまった。
 外では夏の暑さを主張するようにセミが鳴き始めていた。
 考え込む空来をおいといてひとまずお昼を頼むことにした。その様子に気づいた空来が「星音とおんなじのでいいから僕のもお願いしていい?」と言うのでオムライスを二人分頼んだ。
 下げられたメニューの代わりに置いていかれた氷水を口にする。
 ぼうっとしていると少し離れたところにある集団の声が聞こえてきた。
「ーー雪はお店の手伝いしなくていいの?」
 ふと声がした方に目を向ける。
「うん。今は休憩。優花がいる時は長めにしてくれるの」
 嬉しそうに話してるのはたぶん雪って呼ばれた子だと思う。誰もが認める美少女ってきっとこういう子のこと言うんだろうな。
「えっじゃあ私あんまり来ないほうがいい?なんかごめんね?」
 で、この子が優花って呼ばれた子かな。この子は隠れファンがすごく多そう。
「いや、絶対違うだろ。やっぱり優花って天然だよな」
「いやいや、私が天然じゃないって誰よりも夕夜がよくわかってるでしょ?だいたいなに笑ってんの?」
 くすくす笑ってるイケメンは夕夜っていうらしい。
「そんな怒んなって」
「別に怒ってないし」
「まぁ、とりあえず雪は優花が来てる時はいつもよりさぼれて嬉しいんだよ。わかったか」
「うるさいよ織見くん。優花と二人の時間取られたくないからって」
「ちょっ雪!なに言ってんの!?」
「そうだけどなんか文句あんの?」
「はあ!?夕夜もなに言ってんの!?」
「うんうん。優花が可愛いのは十分わかったから」
「えっあれ?雪もどうしたの?ついていけないの私だけ?!」
 可愛いカップルだなぁ。と一人で勝手になごんでいると「あっわかった」と久しぶりに空来が言葉を発した。
「……なにが?」
「どうして星音が僕のことホストって思ったのかわかったよ」
「というと……?」
「理由。わかったからこそもう一度言うよ。星音、僕のことなんだと思ってるの?」
 少し怒っているような声音に驚く。
「僕は女の子になら誰にでも可愛いとか言うと思ってる?」
「えっと……」
 言いよどむ私を遮るように空来が口を開く。
「そんなことしないよ」
 ぼそっと呟かれた言葉に耳を疑う。
 星音が聞き返そうと口を開きかけた時、一瞬早く「なんでもない」と空来が笑った。
「ところで星音。僕の好きなもの知りたいんだっけ?」
「えっあ、うん」
「そうだなーあんまり胸を張って好きって言えるものじゃないけど、詩を考えるのは好きだよ」
 ……言葉と表情が噛み合ってない。
 好きなものの話をしてるとは思えないほど何かを耐えているような表情だ。
「詩って、いわゆる詩?」 
「そうだよ。もう数え切れないくらい書き溜めてあるんだ」
 そう呟いて笑った空来の瞳に見覚えがあった。
 何かを思い出して、その何かを誰にも言わないで口を閉ざす時。
 人はだいたい同じ瞳をしている。……少なくとも私はそうだと思う。
「どうしてーー」
「お待たせいたしました」
 私の声は営業スマイルの女の人の声にかき消されてしまった。
「こちらご注文のオムライスがおふたつになります。ご注文は以上でよろしいでしょうか?」
「あ、はい」
 あっけに取られたまま返事をすると「それではごゆっくり」と一礼して去っていった。
 並べられたオムライスは綺麗な黄色でほかほかの湯気と一緒に美味しそうなにおいを漂わせている。
「……食べよっか」
 流れてしまった私の言葉はまだ近くでうだうだ漂ってる気がした。
「ーーいただきます」
 ふたりで手を合わせてひとくちだけ口に入れた。
「ーー……美味しい」
 びっくりして思わず口に出してしまった。この感覚は久しぶりだ。あの日からなにを食べても美味しいなんて思わなかった。それこそ砂を食べても変わらないと思うほど食べることはただの作業になっていた。
 それなのに、どうして……?いつもとなにが違うのか考えてふと思いつく。
 もしかしてひとりで食べてないからそう感じたのかな……。
 そう思ってそっと目の前に座ってる空来の様子を見る。そこには何かにすごく驚いたように目を丸くしてる空来がいた。
「空来?どうかした?」
 あまりにも驚いたような顔をしているからついそう聞いてしまった。
 私の言葉に空来ははっとしたように顔をあげていつもみたいに優しく笑った。
「ううん。なんでもない……このオムライス、美味しいね」
「え、あ、うん、美味しいね」
 月のように綺麗に笑った空来を見てふと思った。
 ……君が作る詩はきっと、どうしようもなく優しいんだろう。
 なぜかそんな考えが頭に浮かんだ。
 店の外では飽きずにセミが会話を続けている。その騒がしさが夏の暑さを主張しているみたいだった。