夜風が頬を撫でる。
腰まで伸びた髪を風が攫う。
目の前には点々と明かりが灯る街が静かにたたずんでいる。
夜の空気を胸いっぱいに吸い込んだ。
月明かりがない今日は星がよく見える。
吐き出した空気を追うように目線を下に下げた。
五階から落ちても死なないらしい。
じゃあ六階なら死ねるかな?
きっと打ちどころが悪ければ死ねるはず。そうじゃないと困る。だってこの辺りで私が行動できる範囲で一番高い建物はここしかない。
カンッ。
風に乗って微かな音が響いた。
カンッカンッ。
空耳かと思ったこの音はどうやら明確にこっちに向かってきている。誰かが私と同じように扉の向こうの非常階段を登っているみたいだ。
音のする方をじっと見る。
ギィッと悲鳴を上げながら扉が開いた。奥から顔を出した人影は驚いたように声を上げる。
「あれ?先客がいる」
そう呟いた人影、いや彼を暗闇に慣れた目はほとんど正確にとらえている。
「こんな時間にこんな場所でなにしてるの?」
彼の言葉に私も言葉を返す。
「あなたこそこんな時間になにしてるんですか?」
驚いたような表情のままその彼は口を開く。
「うーん。別にその質問に答えてもいいんだけど、まずはそんなとこじゃなくてもっとこっちきて座って話そうよ」
そう言って私と入り口のちょうど半分のあたりに腰をおろした。私は仕方なく教室の机二つ分の距離をとって座った。
「さて、僕はとりあえず自己紹介でもしようと思うんだけど、どう?」
「……どうぞ」
「僕はそら。空が来るって書いて空来」
君は?と返されてため息と一緒にこぼした。
「私はほしね、です。星の音と書きます」
「うん。よろしくね。えっと……なんて呼んでほしい?」
「……好きな呼び方でどうぞ」
彼、いや空来はうーんと唸ってから「じゃあ」と口を開く。
「僕の方が年上だから呼び捨てで。よろしく星音」
僕の方が年上?なにを根拠に言ってるんだろう?
「何才ですか?」
「ん?僕?十八だよ」
十八……高校三年生。本当に私より年上だ。
「そうなんですね。私は十七です。さん付けがいいですか?」
「んーん。呼び捨てでいいよ。敬語もなし」
「そうですか。じゃあ、空来はなんでこんな場所来たの?」
「ーー星音を止めるため……かな」
即答されたこたえに首を傾げる。
「えっと、ここで初めて会ったよね?適当なこと言ってる?」
「え?そんなわけないじゃん。だいたい星音とは初対面じゃないよ。高校一緒だし」
え……。
「緑葉高校ですか?本当に?」
「うん。三年二組だよ」
しかも姉妹学級。でも待って……?
「じゃあ、私を止めるためってどういうことですか?」
くすくす笑われてキョトンとすると「敬語に戻ってるよ」と指摘された。
「私を止めるためってどういうこと?」
「そのまんまだよ。だってーー」
さぁっと風が吹く。
「死にたいんでしょ?」
「え……」
どうして、
「生きてるのに疲れちゃったんでしょ?」
告げられた言葉に声が震える。
「なんで……」
「見てればわかるよ。つらいんでしょ?」
今度こそ絶句するしかなかった。
「ずっとにこにこしてるのって大変そうだよね。しかも優等生なら特に」
なんでもないように言う空来が不思議だった。
「別に大変じゃないよ。もう慣れたし」
「でも、疲れるでしょ?嫌なことも辛いことも何もかも笑顔で隠してたら」
街の灯りがひとつ消えた。
「やらなきゃいけないんだから仕方ないでしょ?」
私が笑って頷けば丸くおさまるんだから、それでいいじゃん。
いいように使われてることくらいわかってる。
それでも、ひとりになるよりずっといい。
「仕方なくないよ」
「……え」
「仕方なくなんかないよ」
私に言い聞かせるように空来は続ける。
「たしかにやらなきゃいけないなら仕方ないのかもしれない。だけど、それで星音が我慢し続けるのは仕方なくないよ」
そっと風が星音の髪を撫でた。
「だから、我慢しないで言っていいんだよ。星音のつらさを」
真剣な空来の言葉で気づいてしまった。
「大丈夫。僕がいる。そばにいるから、絶対に君をひとりにしないから」
だから、話して?
そう続けた空来は私の瞳にはどうしようもなく悲しそうに映った。
「……本当にーー」
「うん」
「ーー本当に……くだらないことかもしれないよ?笑っちゃうくらいどうでもいいことかも……」
「大丈夫だよ。くだらないなんて思わないから」
優しく笑う彼の言葉に背中を押されるように口を開く。
「ーー……嫌われたくないの」
「誰に?」
「私と関わる人」
クラスメイトもそう。友達もそう。先生もそう。……家族だってそうだった。
「どうして?」
「……傷つきたくないし傷つけたくもない」
誰からも好かれるような生き方をしてれば傷つくことも傷つけることもないと思うから。
「じゃあ、どうして今そんなにつらそうなの?どうしてこんな場所で死のうとしてるの?」
こんな場所……たしかにそうだ。
誰からも好かれるような生き方をしてればこんな廃ビルの屋上で死のうなんて思わないだろう。
「……つかれたからかな。私が私を、『天野星音』を演じることに……」
星音は苦笑して続ける。涙がこぼれないようにそっと上を向いた。
「だって、みんなが知ってる『天野星音』は……私じゃない」
「星音とみんなが知ってる『星音』。何が違うの?」
空来の言葉に笑ってこたえる。
「全部。みんなが口を揃えて言うんだよ。『星音は優しい。頼りになる。星音に任せれば大丈夫』って」
優しいわけじゃない。
頼りになるわけじゃない。
大丈夫なわけじゃない。
「みんなのなかでは、それが私なの。私の普通なの。だから私はそれに応え続けた」
優しさは全てにいいよとこたえた。
頼りにされても困らないように常に先のことまで気を配り続けた。
任されたことはその時できる最善で終わらせた。
毎日、毎日。
必死でみんなが思う私を演じてきた。
「上手くやれてると思ってた……」
これ以上ないってくらい精一杯演じた。誰にでも好かれるような人になれてると思ってた。
だけど……やっぱりダメだった。
「わかってたんだよ……?みんなが私をいいように使ってるって……利用されてるだけだって……だけど……だけどね」
「うん」
「もしかしたら、純粋に私のこと友達だと思ってくれてる子もひとりくらい……いるんじゃないかなって……」
ぱたぱたと雫が屋上の床におちた。
「そんなはずなかったのにさ。ありえないって……わかってたはずなのに……」
夢を見てしまった。
期待してしまった。
信じてしまった。
「みんなが好きなのは『星音』で演じてない私じゃない。そんなこと……わかってたのに」
あの日、私だけがいない教室でみんなが言った言葉はいつまでも消えてくれない。
ーー星音って真面目だけどノリいいしすごい都合良くない?
ーーわかる。八方美人だけど仲良くしてたらなんでもやってくれるよね。
そんな会話にみんな笑って同調してた。
「馬鹿だったんだ。私が傷つきたくなくて必死にやってたのに……なんの意味もなくて……全部、全部。無駄だった……」
ぽろぽろとこぼれてくる涙を止めるように手をきつく握りしめる。
「その時にわかったんだ。あぁ、私生きてなくていいじゃんって。今までの人生全部無駄だったなら死んだほうがいいじゃんって」
だから私は死ぬんだよ。
そう続けた星音は綺麗すぎる笑顔を見せた。
「意味はあるんだよ。星音の全部が無駄だったなんて誰にも言わせない」
今まで黙っていた空来の真剣すぎる声に一瞬だけ怯む。
「……何それ?意味なんかなかった。無駄だったことなんて私が一番よくわかってる」
「ううん。意味はある。絶対に星音の人生は無駄じゃない」
「……どうしてそんなこと言えるの?」
同情なんていらない。
憐れみなんてほしくない。
「僕が証明する。君の人生は無駄じゃないって。君のそばにいて君の隣で君に伝える。君が無理して笑うことないんだよって。君は君でいいんだよって。ううん。君は君だからいいんだよって」
なんで、どうして。言いたい言葉は喉の奥に引っかかって出てこなかった。
ただ、空来の真っ直ぐな言葉に嘘がないことだけはわかった。
「……本気でそんなこと思ってるの?」
「もちろん。僕は星音には嘘つかないよ」
「意味わかんないよ……」
「いいよ。星音はわかんなくて」
僕がわかってるから。そう続くような気がした。
ーーだけど。
「……ごめんね空来。話聞いてくれてありがとう。私はもういくね」
夜が明ける前に私はこの世界から消える。そう決めたから。
立ちあがろうとした星音の腕を空来が掴む。
「待って。星音にお願いがあるんだ」
……お願い?
「夏休み中に星音の人生が無駄じゃなかったって僕が証明してみせるからっ……だから……僕に時間をちょうだい」
空来の真剣な声に少しだけ怯む。
「……もしそれで私が納得しなかった時はどうするの?」
私の問いに空来は寂しそうに眉を下げて「もし、そうなったら今度は止めない」
と言った。
星音はしばらく考えるようにして俯いたまま口を開く。
「……期限は夏休みが終わる日の前日まで、それでいいなら……今はいかない」
「十分だよ。ありがとう」
そう言った空来はほっとしたように笑った。
まだまだ暗いけど、もうすぐ夜が消えてしまう。
それでも、私のこの思いはまだまだ消えそうにない。
腰まで伸びた髪を風が攫う。
目の前には点々と明かりが灯る街が静かにたたずんでいる。
夜の空気を胸いっぱいに吸い込んだ。
月明かりがない今日は星がよく見える。
吐き出した空気を追うように目線を下に下げた。
五階から落ちても死なないらしい。
じゃあ六階なら死ねるかな?
きっと打ちどころが悪ければ死ねるはず。そうじゃないと困る。だってこの辺りで私が行動できる範囲で一番高い建物はここしかない。
カンッ。
風に乗って微かな音が響いた。
カンッカンッ。
空耳かと思ったこの音はどうやら明確にこっちに向かってきている。誰かが私と同じように扉の向こうの非常階段を登っているみたいだ。
音のする方をじっと見る。
ギィッと悲鳴を上げながら扉が開いた。奥から顔を出した人影は驚いたように声を上げる。
「あれ?先客がいる」
そう呟いた人影、いや彼を暗闇に慣れた目はほとんど正確にとらえている。
「こんな時間にこんな場所でなにしてるの?」
彼の言葉に私も言葉を返す。
「あなたこそこんな時間になにしてるんですか?」
驚いたような表情のままその彼は口を開く。
「うーん。別にその質問に答えてもいいんだけど、まずはそんなとこじゃなくてもっとこっちきて座って話そうよ」
そう言って私と入り口のちょうど半分のあたりに腰をおろした。私は仕方なく教室の机二つ分の距離をとって座った。
「さて、僕はとりあえず自己紹介でもしようと思うんだけど、どう?」
「……どうぞ」
「僕はそら。空が来るって書いて空来」
君は?と返されてため息と一緒にこぼした。
「私はほしね、です。星の音と書きます」
「うん。よろしくね。えっと……なんて呼んでほしい?」
「……好きな呼び方でどうぞ」
彼、いや空来はうーんと唸ってから「じゃあ」と口を開く。
「僕の方が年上だから呼び捨てで。よろしく星音」
僕の方が年上?なにを根拠に言ってるんだろう?
「何才ですか?」
「ん?僕?十八だよ」
十八……高校三年生。本当に私より年上だ。
「そうなんですね。私は十七です。さん付けがいいですか?」
「んーん。呼び捨てでいいよ。敬語もなし」
「そうですか。じゃあ、空来はなんでこんな場所来たの?」
「ーー星音を止めるため……かな」
即答されたこたえに首を傾げる。
「えっと、ここで初めて会ったよね?適当なこと言ってる?」
「え?そんなわけないじゃん。だいたい星音とは初対面じゃないよ。高校一緒だし」
え……。
「緑葉高校ですか?本当に?」
「うん。三年二組だよ」
しかも姉妹学級。でも待って……?
「じゃあ、私を止めるためってどういうことですか?」
くすくす笑われてキョトンとすると「敬語に戻ってるよ」と指摘された。
「私を止めるためってどういうこと?」
「そのまんまだよ。だってーー」
さぁっと風が吹く。
「死にたいんでしょ?」
「え……」
どうして、
「生きてるのに疲れちゃったんでしょ?」
告げられた言葉に声が震える。
「なんで……」
「見てればわかるよ。つらいんでしょ?」
今度こそ絶句するしかなかった。
「ずっとにこにこしてるのって大変そうだよね。しかも優等生なら特に」
なんでもないように言う空来が不思議だった。
「別に大変じゃないよ。もう慣れたし」
「でも、疲れるでしょ?嫌なことも辛いことも何もかも笑顔で隠してたら」
街の灯りがひとつ消えた。
「やらなきゃいけないんだから仕方ないでしょ?」
私が笑って頷けば丸くおさまるんだから、それでいいじゃん。
いいように使われてることくらいわかってる。
それでも、ひとりになるよりずっといい。
「仕方なくないよ」
「……え」
「仕方なくなんかないよ」
私に言い聞かせるように空来は続ける。
「たしかにやらなきゃいけないなら仕方ないのかもしれない。だけど、それで星音が我慢し続けるのは仕方なくないよ」
そっと風が星音の髪を撫でた。
「だから、我慢しないで言っていいんだよ。星音のつらさを」
真剣な空来の言葉で気づいてしまった。
「大丈夫。僕がいる。そばにいるから、絶対に君をひとりにしないから」
だから、話して?
そう続けた空来は私の瞳にはどうしようもなく悲しそうに映った。
「……本当にーー」
「うん」
「ーー本当に……くだらないことかもしれないよ?笑っちゃうくらいどうでもいいことかも……」
「大丈夫だよ。くだらないなんて思わないから」
優しく笑う彼の言葉に背中を押されるように口を開く。
「ーー……嫌われたくないの」
「誰に?」
「私と関わる人」
クラスメイトもそう。友達もそう。先生もそう。……家族だってそうだった。
「どうして?」
「……傷つきたくないし傷つけたくもない」
誰からも好かれるような生き方をしてれば傷つくことも傷つけることもないと思うから。
「じゃあ、どうして今そんなにつらそうなの?どうしてこんな場所で死のうとしてるの?」
こんな場所……たしかにそうだ。
誰からも好かれるような生き方をしてればこんな廃ビルの屋上で死のうなんて思わないだろう。
「……つかれたからかな。私が私を、『天野星音』を演じることに……」
星音は苦笑して続ける。涙がこぼれないようにそっと上を向いた。
「だって、みんなが知ってる『天野星音』は……私じゃない」
「星音とみんなが知ってる『星音』。何が違うの?」
空来の言葉に笑ってこたえる。
「全部。みんなが口を揃えて言うんだよ。『星音は優しい。頼りになる。星音に任せれば大丈夫』って」
優しいわけじゃない。
頼りになるわけじゃない。
大丈夫なわけじゃない。
「みんなのなかでは、それが私なの。私の普通なの。だから私はそれに応え続けた」
優しさは全てにいいよとこたえた。
頼りにされても困らないように常に先のことまで気を配り続けた。
任されたことはその時できる最善で終わらせた。
毎日、毎日。
必死でみんなが思う私を演じてきた。
「上手くやれてると思ってた……」
これ以上ないってくらい精一杯演じた。誰にでも好かれるような人になれてると思ってた。
だけど……やっぱりダメだった。
「わかってたんだよ……?みんなが私をいいように使ってるって……利用されてるだけだって……だけど……だけどね」
「うん」
「もしかしたら、純粋に私のこと友達だと思ってくれてる子もひとりくらい……いるんじゃないかなって……」
ぱたぱたと雫が屋上の床におちた。
「そんなはずなかったのにさ。ありえないって……わかってたはずなのに……」
夢を見てしまった。
期待してしまった。
信じてしまった。
「みんなが好きなのは『星音』で演じてない私じゃない。そんなこと……わかってたのに」
あの日、私だけがいない教室でみんなが言った言葉はいつまでも消えてくれない。
ーー星音って真面目だけどノリいいしすごい都合良くない?
ーーわかる。八方美人だけど仲良くしてたらなんでもやってくれるよね。
そんな会話にみんな笑って同調してた。
「馬鹿だったんだ。私が傷つきたくなくて必死にやってたのに……なんの意味もなくて……全部、全部。無駄だった……」
ぽろぽろとこぼれてくる涙を止めるように手をきつく握りしめる。
「その時にわかったんだ。あぁ、私生きてなくていいじゃんって。今までの人生全部無駄だったなら死んだほうがいいじゃんって」
だから私は死ぬんだよ。
そう続けた星音は綺麗すぎる笑顔を見せた。
「意味はあるんだよ。星音の全部が無駄だったなんて誰にも言わせない」
今まで黙っていた空来の真剣すぎる声に一瞬だけ怯む。
「……何それ?意味なんかなかった。無駄だったことなんて私が一番よくわかってる」
「ううん。意味はある。絶対に星音の人生は無駄じゃない」
「……どうしてそんなこと言えるの?」
同情なんていらない。
憐れみなんてほしくない。
「僕が証明する。君の人生は無駄じゃないって。君のそばにいて君の隣で君に伝える。君が無理して笑うことないんだよって。君は君でいいんだよって。ううん。君は君だからいいんだよって」
なんで、どうして。言いたい言葉は喉の奥に引っかかって出てこなかった。
ただ、空来の真っ直ぐな言葉に嘘がないことだけはわかった。
「……本気でそんなこと思ってるの?」
「もちろん。僕は星音には嘘つかないよ」
「意味わかんないよ……」
「いいよ。星音はわかんなくて」
僕がわかってるから。そう続くような気がした。
ーーだけど。
「……ごめんね空来。話聞いてくれてありがとう。私はもういくね」
夜が明ける前に私はこの世界から消える。そう決めたから。
立ちあがろうとした星音の腕を空来が掴む。
「待って。星音にお願いがあるんだ」
……お願い?
「夏休み中に星音の人生が無駄じゃなかったって僕が証明してみせるからっ……だから……僕に時間をちょうだい」
空来の真剣な声に少しだけ怯む。
「……もしそれで私が納得しなかった時はどうするの?」
私の問いに空来は寂しそうに眉を下げて「もし、そうなったら今度は止めない」
と言った。
星音はしばらく考えるようにして俯いたまま口を開く。
「……期限は夏休みが終わる日の前日まで、それでいいなら……今はいかない」
「十分だよ。ありがとう」
そう言った空来はほっとしたように笑った。
まだまだ暗いけど、もうすぐ夜が消えてしまう。
それでも、私のこの思いはまだまだ消えそうにない。