カーテンが揺れて朝日が顔に当たった。
……昨日、窓を閉め忘れたのか。
ぼうっとしたままベットから降りて窓を閉める。
私たちはあの後お昼を食べてから少しだけ好きなもの探しをしたんだっけ?
時間も時間だったから散歩して見つけた雑貨屋さんで過ごしてから、解散した。
ぐるっと部屋を見回す。
いつのまにか私の部屋にはものが増えていた。
ベッドの上には前に連れて行かれた水族館のイルカの大きいぬいぐるみ。机の上には動物園に行った時の虎の赤ちゃんのキーホルダー。クローゼットの方には空来が似合うからと買ってくれた帽子やネックレス。思えば全部、空来が私に買ってくれたものだ。昨日の雑貨屋さんでも可愛いボールペンを買ってくれた。……ていうか払わせてくれない空来が悪い。
雑念を振り払うように奥の部屋に入る。ここにはみんなの遺品がたくさんある。そして真ん中にみんなの笑った写真。
静かすぎるこの部屋の真ん中で星音は考えていた。
空来と決めた期限まであと1週間ちょっと。
そろそろ私は、決めないといけない。
リンッと音を鳴らしてから手を合わせる。
なんか、ひさしぶりな気がするな。そんなはずないのにね。お父さん、お母さん、お姉ちゃん。私まだ生きてるよ。あの日からもう2週間くらい経ったかな?
みんなきっと怒ってるでしょ。もっと自分を大切にしなさいとか言うんでしよ?自分の命より大切なものなんてないって、言いたいんじゃない?……でもさ、それが出来たらあんな選択しないよ。
これからどうするかは正直、私にもまだわからない。もしかしたら今までの選択は間違ってるのかもしれない。これから選択を間違えるのかもしれない。でも、あの日死のうとしたこと。あの時、走り出したこと、後悔はしてない。
だから、私はひとつだけ決めたよ。これはまだ内緒。ーー……ねえ、ずっと聞きたかったことがあるんだ。私がそっちに行ったら、教えてくれる?
……なんてね。もう行くね。
星音が閉じていた目をそっと開くと同時にカタンッとものが落ちた。その音に振り返る。
「……気のせい?」
特に何も落ちてるものはない。
不思議に思いながらも彼女は部屋の扉を閉めた。
時計は6時30分を指している。
今日は早く起きちゃったな。
さて、どうしようかなと動き始めようとした時にピンポーンとありきたりなインターフォンの音が響いた。
こんな時間に誰だろう?
そう思いながら画面を確認する。
「えっ?空来」
いや、たしかにどこからどう見ても空来だし、昨日送ってくれたから家を知ってるのは驚かないんだけど……。
思わずこぼした声に返事が返ってくる。
『おはよう、星音。ちょっといい?』
「えっうん。ってダメ!ちょっと待ってて」
ふと自分の格好を思い出して慌てて訂正する。流石にたった今起きましたって格好じゃ人前に出られない。
『うん、ゆっくりでいいよ〜』
そう言って穏やかに笑う空来を尻目に星音は寝室に駆け出した。
たっぷり5分は使ってからようやく玄関の扉を開ける。当たり前だけどそこには空来が待っていた。珍しく荷物を持ってる。……紙袋?
「おはよう。星音」
「おはよう、ごめんね待たせちゃって。どうぞ」
朝らしい爽やかな笑顔を見せられて少しの罪悪感に視線を逸らした。
……人がこの家にいる光景がずいぶん久しぶりだ。
「で、えっと、どうしたの?」
「えっああ、というかごめんね。いちおう連絡はしてあったんだけど、やっぱり朝早かったよね?」
「えっ、ごめん!気づかなかった」
「大丈夫だよ。気にしないで」
「うん……ごめんね。それで、結局どうしたの?」
私の問いに空来は何も言わずに笑った。
「うん。その前に星音の家族にあいさつしてもいい?」
「え……うん。いいけど」
わざわざどうしたんだろう?
不思議に思いながら星音は空来を奥の部屋に案内した。
「初めまして。宮原空来といいます。星音さんにはお世話になっています」
空来を部屋に残してお茶の準備を始める。テーブルにお茶を用意し終えたところで、空来が戻ってきた。
「お帰り。なんか、ごめんね」
「なにが?こっちこそ急だったのにありがとう」
空来のありがとうになんで返せばいいかわからなくて笑って誤魔化した。
「ううん。とりあえず座ろっか」
「そうだね」
お互いが席に着いたところで改めて空来に問いかけた。
「で、どうしたの?」
「うん。星音に話があって」
そう言って空来は持っていた紙袋から何かを取り出した。
「……ノート?」
しかも見覚えがある。
「うん。これを見て欲しいんだ」
珍しくにこっと音がつきそうな笑顔を浮かべた空来に戸惑いながら口を開く。
「えっと……これ読んじゃったって空来にも言ったよね?」
「うん。だけど、読んでないよ。もう一度ちゃんと読んで欲しいんだ」
そう言われたら何も言えなくて黙って手を伸ばす。
パラパラとページをめくる音が響く。
……やっぱり読んだよね?
昨日読んだ最後のページを読んで次のページを開く。そこには昨日と同じように白いページが広がっていた。
そこでノートを閉じようとすると「まだ、次のページ開いて」と空来の声が響く。
疑問に思いながらもう一枚ページをめくった瞬間に手が止まった。
「え……」
記されていた文字に思わず声がこぼれた。
君の笑顔に救われた
君の言葉に助けられた
花のような君に
月のような君に
言葉にできない感謝を
ペラっと音を立てて次のページが開いた。
生きていてよかった
君に会えてよかった
心からそう思える
この想いもこの希望も
君が僕に教えてくれた
もしも、君があの日の僕と同じ想いを抱いたなら
どうか思い出して
君だけの輝きを
これは、あきらかに君に宛てたものだ。
そしてきっと、空来に似てる人。だって、私も思った。空来は月みたいな人だって。月みたいに傷ついた部分を隠して笑ってる……そんな人が君なんだ。
ゆっくり次のページを開いた。
少しだけ大人になった君は変わってなかった
悲しすぎるくらい優しい君はあの日のままで
残酷な世界を見ていた
あの日の僕と同じ瞳で黙って笑う君に
僕はなにを君に返せるだろう
「今、星音にみてもらったのは全部ある人に宛てたものなんだ」
不意に空来の言葉が降ってきた。
「うん。それは、読んでたらわかる。だけど……空来は何が言いたいの?」
「うん。順を追って色々説明するね。僕もそろそろ種明かしをしたいし」
少しだけ楽しそうに笑う空来を軽く睨む。
種明かしって何?
「まず確認。星音は僕と初めて会った日のこと覚えてる?」
……それは、もちろん。
「夏休みが始まった日の深夜にあの廃ビルの屋上で初めて会ったよね」
私の返しに「やっぱりそうだよね」と寂しそう眉を下げてに笑った。
「え……?」
本当になんなの?
訳がわからないまま時間が進んでいく。
「あのさ、あの日僕が初対面じゃないよって言ったの覚えてる?」
「うん。覚えてるけど……?」
「あれ、高校が一緒とかじゃなくてもっとずっと前に会ってるんだよ。僕が小3で星音が小2の時に」
空来の言葉に目を丸くする。
「うそ……」
私がこぼした言葉に「本当だよ」と苦笑した。
「初対面はそこ。あの日は人生で1番びっくりしたかもしれない。だって僕と星音があったのは、僕がーー」
グラスの中の氷がカランッと音を立てた。
「ーー死のうとした日なんだから」
なんでもないようにその言葉を紡いだ。そんなに幼い日にその決断をすることがどれだけ大変なのか全くわからない。
「いやー参ったよね。あの日は子供なりの覚悟を持ってあの屋上に行ったのに、まさか人が来るなんて思わないでしょ?」
クスッと笑った空来はどこか懐かしそうに目を細めた。
「その子が声をかけてくるまで全然気づかなくてさ。声のした方をみたら僕のことじっと見てて、しばらく黙ってたんだけど」
そこでおかしそうに肩を揺らした。
「そしたらその子が何してるの?って不思議そうに聞いてきたんだよ。だから、別にって僕は答えたんだけど、楽しいの?ってさっきの何倍も心底不思議そうに言うんだよ。そんな訳ないのにさ」
まあたしかに楽しいわけないだろう。それにーー。
「その子はなんのためにそこに来たの?」
小2であの今にも壊れそうな錆だらけの非常階段を登ろうなんて普通は考えないと思う。
「それね、僕もさすがにおかしいと思って聞いてみたんだけど、お兄ちゃんが1人で登ってるのが見えたからだって」
それは、なんと言うか。
「ーーすごく、変な子だね」
私の言葉に空来はまじまじとこちらを見てから堪えきれないとでも言いたげに笑いをこぼした。
「ふ、はははっーーそう、うん。変な子だよね、星音って」
「は……?」
いや、さっきのは私の話じゃなくてその女の子の話で……。
「ははっ……全然わかってないね」
目元に浮かんだ涙を拭いながら空来は私を見る。
本当に訳がわからない。
「だから、さっき星音が自分で言ったじゃん。変な子だねって」
「だから、それはその女の子の話で……って、え?」
それはつまり……。
「だから、その女の子が星音なんだよ」
さらっと伝えられた言葉に混乱する。
星音はテーブルに肘をつけて頭を抱える。
「嘘でしょ?えっ?……あれ?」
いや待てよ、そういえば話の流れとかどう考えても私の話してた……?
「……私、なにも覚えてない」
本当になにも思い出せない。
戸惑う私に寂しそうに眉を下げて笑った。
「うん。大丈夫。無理に思い出そうとしなくていいよ。前言ってたよね?記憶がなくなってるところがあるって。ちょうどその頃なんじゃないかな?」
「あ……」
たしかに。
「ひとりは寂しいよね」
「え……?」
「さっきの話の続き。星音はそう言って僕の隣に座ったんだよ。僕より年下の小学2年生が出せる説得力じゃなかった」
ひとりは、さみしい?
「星音は、いてもいなくても変わらないならいない方がいいよねって悲しそうに笑ったんだよ。びっくりするくらい大人だった。だから僕は聞いたんだよ」
「なにを?」
「どうして君は生きてられるのって。僕と同じように考えてるのにどうして僕と同じ選択をしないのかわからなかったから」
子どもらしい無邪気な疑問。
「そしたらさ、お兄ちゃんがいるからって。僕のことさして言うんだよ。本当に変だよね」
そう言ってくすくす笑う。
「お兄ちゃんがいるから、ひとりじゃないから生きていられる。そう言って、笑みをこぼした星音にただ驚いたんだけど、その日は結局なにもしないで2人で階段を降りてまた明日って別れたんだよ」
ズキッと頭の奥で何かが引っかかった気がした。
「それから本当に毎日のようにあそこに来て一緒にいたんだよ。こんな無愛想といて楽しいのかって聞いたら星音は笑って楽しいよって言うし。お兄ちゃんはお兄ちゃんだもん。ってなんでもないように言うし。本当すごいよね」
私の知らない私の話はすこし不思議だ。
「でも、星音は急に来なくなって何かあったのかと思ったけど結局わからなくて。ただ毎日あそこに行くことしかできなかった。でもいっかいだけ傷だらけの星音が会いに来た」
傷だらけのまま?
「星音は泣いてた。でも、僕に気づくといつもみたいに無理して笑って。お兄ちゃん久しぶり。ごめんね。って言った後に、お兄ちゃんは何も言わずに、急にいなくなったりしないでね。って言うから、僕は君をひとりにしないよって頷いた。約束だよって笑った星音を見たのが最後になった」
「そう、だったんだ……。それで私とは初対面じゃないか。なるほど」
「ずっといつかまた会いたいってーー……っ星音?」
驚いたようにこちらをみる空来に首を傾げる。
「どうしたの?」
「どうしたのって……なんで泣いてるの?」
困ったように涙を拭ってくれる空来を見てやっと気づく。
「あれ?ごめん。どうしたんだろ?」
なんの涙だろう。
悲しいわけじゃないし、つらいわけじゃない。苦しくも、痛くもない。ただ、これはきっと。
悔しいんだ。
あの頃の空来になにもできなかったことが悔しい。
「本当は星音が新入生で入った時もすぐ気づいてたんだよ。ただ僕が急に声かけても迷惑だと思って様子見てただけになったけど。気になることもあったし」
「気になること?」
私の言葉にうんと頷いて続ける。
「星音、笑わないんだよ。不意にすごくつらそうにしてた。あの頃の僕と同じだってすぐわかったよ」
ふと、いっかいだけ校舎で見た空来のことを思い出した。遠目だったしどこを見てるかもよくわからなくてすぐ忘れてしまったけど。あの時ももしかしたら……。
「だから、止めたくて考えた。……どうして止めたのって聞いたよね?」
「……うん」
「簡単だよ。いなくなってほしくないから。消えてほしくないから。生きていて欲しいから。……星音はひとりじゃないから」
どうしてそこまで……。
「星音にとっては何気ないことだったのかもしれないけど、僕は星音がいたから救われたんだよ。僕がひとりじゃないって教えてくれた。僕は僕だって言ってくれた。本当に僕は生きてていいんだって思えたんだ」
「馬鹿じゃないの……?なんでそんな、誰にでも言えるようなことで、救われたなんて……っ」
止めたいのに涙が滲んだ。
「たしかに、誰にでもいえたかもしれないけど、誰も言わなかった。星音だけが僕に言葉をくれた。その言葉に救われたんだよ」
「でも、私は空来をひとりにしたんでしょ?」
「違うよ。ずっと星音のくれた言葉が笑顔が想いがあった。だからひとりだなんて思ったことはないよ。このノートに込めた想いが全てだよ」
そう言って私の手元のノートを示した。
「えっ、だってこれ大切な人に宛てたものなんでしょ?」
「うん。だから、星音以外あり得ないよ」
驚いて目を丸くする。
「だからこれも、きっと星音が知らないだけだよ」
そう言って紙袋の中からもう一冊ノートを取り出した。出てきたのは空来のものよりも一回り小さい手帳みたいな淡いピンク色のかわいいノート。
「……これも空来の?」
「ううん。違うよ」
「じゃあ、誰の?なんで空来が持ってるの?」
「うーん。強いて言うなら星音のかな。さっき見つけたんだ」
わたしの……?
疑問を浮かべたまま星音は差し出されたノートを手に取る。とりあえず中を見ようと伸ばした手が止まった。
「……え」
ノートの隅に記された名前に目を疑う。
だってこの名前は……。
「おか、あさん……?」
ということは、これはお母さんのノート?なんで?今までどこにもこんなものなかったのに。
「っ空来、これ見つけたって言ったよね?どこにあったの?」
「星音の家族がいる部屋で見つけた」
じゃあ今朝の音はこれが落ちた音?それよりも、あの部屋にあったならこれは間違いなくお母さんのものだ。
「星音、そのノート見ないの?」
「え……あ、そうだよね」
でも……。
「きっと、星音がずっと知りたかったことが書いてあると思う。中を読んだわけじゃないからさすがにわからないけど、もしかしたら星音がずっと考えてたことが書かれてるのかもしれない」
わかってる。だからこんなに躊躇っているんだから。いつのまにか震えてしまっていた手に温かい手が重なった。
「だけど、僕もいる。一緒にいるから。見てみよう?」
そう聞いた空来の瞳は真剣で、少し肩の力が抜けてふっと息を吐く。
逃げていたってしょうがない。
それに、空来だってちゃんと家族と向き合った。私だってちゃんと家族と向き合いたい。その機会があるなら逃すわけにはいかない。
「そう、だよね」
星音は数回、深呼吸をしてノートを開く。
「え……?」
中に書かれていたのは手紙だった。
星音へ
これを星音が見つけたらどんな顔するのかな?戸惑ってるのかな?想像したらちょっとおかしいね。これはお母さんのいたずらってことにしてもいいかな?まあ、なんでこんな手紙を書いてるかっていうと最近の星音があまりにも悩んでるからかな。お母さんだからねーさすがにわかっちゃうよ。でも、なにに悩んでるかわかってあげられなくてごめんね。
星音はきっと自分のことがあんまり好きじゃないでしょ?そんな星音が少しでも自分のこと好きになれるきっかけになればいいなって思ってる。
だから、ここから星音のいいところたくさん書くよ。
まずね星音はすっごくかわいいよ。親の私が言うとなんか親バカみたいになっちゃうけど、いいよね。もう、とにかくかわいい。お姉ちゃんと同じくらい。ううん、2人とも世界一かな。
星音が優しい子なのもすぐわかるよ。まだ小さいのに周りが見えてて、空気を読むのも上手で気配りができて、心配になるくらい。それにすっごく頑張り屋さんだよね。なんでも一生懸命できるのは星音の才能だよ。
だからかな?自分のこと話すのは苦手だよね。わがままだって全然言わないし。
だけどね、もっとわがまま言っていいんだよ?もっと自分の気持ちを伝えても大丈夫。
お母さんもお父さんもお姉ちゃんも星音のことが大好きで本当に大切。だから星音はもっと自分に優しくしていいんだよ。もっと自分を大切にしていいんだよ。もっともっと私たちを頼っていいんだよ。
いつだって、お母さんたちは星音のことを助けに行ける。守ってあげる。もしも、たとえばお母さんたちがいなくなったとして星音をひとりぼっちにしてしまっても、必ずそばにいる。ずっとずっと、星音を見守ってる。どんな時も星音を想ってる。だからーー。
「…………っ」
もう、あふれてくる涙で読めなかった。ポロポロと落ちる涙で文字が滲む。
あの日伝えてくれようとした言葉はきっと。
『星音、あなただけでも生きてね』
これだったんじゃないかな。だってどこを読んでもこの手紙には私にいなくなって欲しいなんて書いてない。私はずっと私だけ生きることに対する恨み言が続くと思ってた。でも、それは間違いだった。
お母さんはこんなにもあったかい言葉を残してくれてた。
ずっと、わからなかった。
家族にとって私は、落ちこぼれの私はなんだったのか。やっとわかった。
落ちこぼれなんかじゃない。私はみんなにとってちゃんと家族だった。
「……ねぇ、空来」
「うん」
「っ……私、まだ、生きてていいのかな?」
私に釣られて涙を浮かべる空来は「もちろんだよ」と力強く頷く。
ねぇ、空来。
「あの日、屋上に来てくれて」
「うん……」
「あの時、追いかけてくれて」
「うん……」
「……私を止めてくれて」
「うん」
「ーーありがとう」
頬を濡らす一筋のひかりは下手くそな泣き笑いと同じくらい輝いていた。
空来がくれた言葉も想いも全部、全部。
ありがとう。
……昨日、窓を閉め忘れたのか。
ぼうっとしたままベットから降りて窓を閉める。
私たちはあの後お昼を食べてから少しだけ好きなもの探しをしたんだっけ?
時間も時間だったから散歩して見つけた雑貨屋さんで過ごしてから、解散した。
ぐるっと部屋を見回す。
いつのまにか私の部屋にはものが増えていた。
ベッドの上には前に連れて行かれた水族館のイルカの大きいぬいぐるみ。机の上には動物園に行った時の虎の赤ちゃんのキーホルダー。クローゼットの方には空来が似合うからと買ってくれた帽子やネックレス。思えば全部、空来が私に買ってくれたものだ。昨日の雑貨屋さんでも可愛いボールペンを買ってくれた。……ていうか払わせてくれない空来が悪い。
雑念を振り払うように奥の部屋に入る。ここにはみんなの遺品がたくさんある。そして真ん中にみんなの笑った写真。
静かすぎるこの部屋の真ん中で星音は考えていた。
空来と決めた期限まであと1週間ちょっと。
そろそろ私は、決めないといけない。
リンッと音を鳴らしてから手を合わせる。
なんか、ひさしぶりな気がするな。そんなはずないのにね。お父さん、お母さん、お姉ちゃん。私まだ生きてるよ。あの日からもう2週間くらい経ったかな?
みんなきっと怒ってるでしょ。もっと自分を大切にしなさいとか言うんでしよ?自分の命より大切なものなんてないって、言いたいんじゃない?……でもさ、それが出来たらあんな選択しないよ。
これからどうするかは正直、私にもまだわからない。もしかしたら今までの選択は間違ってるのかもしれない。これから選択を間違えるのかもしれない。でも、あの日死のうとしたこと。あの時、走り出したこと、後悔はしてない。
だから、私はひとつだけ決めたよ。これはまだ内緒。ーー……ねえ、ずっと聞きたかったことがあるんだ。私がそっちに行ったら、教えてくれる?
……なんてね。もう行くね。
星音が閉じていた目をそっと開くと同時にカタンッとものが落ちた。その音に振り返る。
「……気のせい?」
特に何も落ちてるものはない。
不思議に思いながらも彼女は部屋の扉を閉めた。
時計は6時30分を指している。
今日は早く起きちゃったな。
さて、どうしようかなと動き始めようとした時にピンポーンとありきたりなインターフォンの音が響いた。
こんな時間に誰だろう?
そう思いながら画面を確認する。
「えっ?空来」
いや、たしかにどこからどう見ても空来だし、昨日送ってくれたから家を知ってるのは驚かないんだけど……。
思わずこぼした声に返事が返ってくる。
『おはよう、星音。ちょっといい?』
「えっうん。ってダメ!ちょっと待ってて」
ふと自分の格好を思い出して慌てて訂正する。流石にたった今起きましたって格好じゃ人前に出られない。
『うん、ゆっくりでいいよ〜』
そう言って穏やかに笑う空来を尻目に星音は寝室に駆け出した。
たっぷり5分は使ってからようやく玄関の扉を開ける。当たり前だけどそこには空来が待っていた。珍しく荷物を持ってる。……紙袋?
「おはよう。星音」
「おはよう、ごめんね待たせちゃって。どうぞ」
朝らしい爽やかな笑顔を見せられて少しの罪悪感に視線を逸らした。
……人がこの家にいる光景がずいぶん久しぶりだ。
「で、えっと、どうしたの?」
「えっああ、というかごめんね。いちおう連絡はしてあったんだけど、やっぱり朝早かったよね?」
「えっ、ごめん!気づかなかった」
「大丈夫だよ。気にしないで」
「うん……ごめんね。それで、結局どうしたの?」
私の問いに空来は何も言わずに笑った。
「うん。その前に星音の家族にあいさつしてもいい?」
「え……うん。いいけど」
わざわざどうしたんだろう?
不思議に思いながら星音は空来を奥の部屋に案内した。
「初めまして。宮原空来といいます。星音さんにはお世話になっています」
空来を部屋に残してお茶の準備を始める。テーブルにお茶を用意し終えたところで、空来が戻ってきた。
「お帰り。なんか、ごめんね」
「なにが?こっちこそ急だったのにありがとう」
空来のありがとうになんで返せばいいかわからなくて笑って誤魔化した。
「ううん。とりあえず座ろっか」
「そうだね」
お互いが席に着いたところで改めて空来に問いかけた。
「で、どうしたの?」
「うん。星音に話があって」
そう言って空来は持っていた紙袋から何かを取り出した。
「……ノート?」
しかも見覚えがある。
「うん。これを見て欲しいんだ」
珍しくにこっと音がつきそうな笑顔を浮かべた空来に戸惑いながら口を開く。
「えっと……これ読んじゃったって空来にも言ったよね?」
「うん。だけど、読んでないよ。もう一度ちゃんと読んで欲しいんだ」
そう言われたら何も言えなくて黙って手を伸ばす。
パラパラとページをめくる音が響く。
……やっぱり読んだよね?
昨日読んだ最後のページを読んで次のページを開く。そこには昨日と同じように白いページが広がっていた。
そこでノートを閉じようとすると「まだ、次のページ開いて」と空来の声が響く。
疑問に思いながらもう一枚ページをめくった瞬間に手が止まった。
「え……」
記されていた文字に思わず声がこぼれた。
君の笑顔に救われた
君の言葉に助けられた
花のような君に
月のような君に
言葉にできない感謝を
ペラっと音を立てて次のページが開いた。
生きていてよかった
君に会えてよかった
心からそう思える
この想いもこの希望も
君が僕に教えてくれた
もしも、君があの日の僕と同じ想いを抱いたなら
どうか思い出して
君だけの輝きを
これは、あきらかに君に宛てたものだ。
そしてきっと、空来に似てる人。だって、私も思った。空来は月みたいな人だって。月みたいに傷ついた部分を隠して笑ってる……そんな人が君なんだ。
ゆっくり次のページを開いた。
少しだけ大人になった君は変わってなかった
悲しすぎるくらい優しい君はあの日のままで
残酷な世界を見ていた
あの日の僕と同じ瞳で黙って笑う君に
僕はなにを君に返せるだろう
「今、星音にみてもらったのは全部ある人に宛てたものなんだ」
不意に空来の言葉が降ってきた。
「うん。それは、読んでたらわかる。だけど……空来は何が言いたいの?」
「うん。順を追って色々説明するね。僕もそろそろ種明かしをしたいし」
少しだけ楽しそうに笑う空来を軽く睨む。
種明かしって何?
「まず確認。星音は僕と初めて会った日のこと覚えてる?」
……それは、もちろん。
「夏休みが始まった日の深夜にあの廃ビルの屋上で初めて会ったよね」
私の返しに「やっぱりそうだよね」と寂しそう眉を下げてに笑った。
「え……?」
本当になんなの?
訳がわからないまま時間が進んでいく。
「あのさ、あの日僕が初対面じゃないよって言ったの覚えてる?」
「うん。覚えてるけど……?」
「あれ、高校が一緒とかじゃなくてもっとずっと前に会ってるんだよ。僕が小3で星音が小2の時に」
空来の言葉に目を丸くする。
「うそ……」
私がこぼした言葉に「本当だよ」と苦笑した。
「初対面はそこ。あの日は人生で1番びっくりしたかもしれない。だって僕と星音があったのは、僕がーー」
グラスの中の氷がカランッと音を立てた。
「ーー死のうとした日なんだから」
なんでもないようにその言葉を紡いだ。そんなに幼い日にその決断をすることがどれだけ大変なのか全くわからない。
「いやー参ったよね。あの日は子供なりの覚悟を持ってあの屋上に行ったのに、まさか人が来るなんて思わないでしょ?」
クスッと笑った空来はどこか懐かしそうに目を細めた。
「その子が声をかけてくるまで全然気づかなくてさ。声のした方をみたら僕のことじっと見てて、しばらく黙ってたんだけど」
そこでおかしそうに肩を揺らした。
「そしたらその子が何してるの?って不思議そうに聞いてきたんだよ。だから、別にって僕は答えたんだけど、楽しいの?ってさっきの何倍も心底不思議そうに言うんだよ。そんな訳ないのにさ」
まあたしかに楽しいわけないだろう。それにーー。
「その子はなんのためにそこに来たの?」
小2であの今にも壊れそうな錆だらけの非常階段を登ろうなんて普通は考えないと思う。
「それね、僕もさすがにおかしいと思って聞いてみたんだけど、お兄ちゃんが1人で登ってるのが見えたからだって」
それは、なんと言うか。
「ーーすごく、変な子だね」
私の言葉に空来はまじまじとこちらを見てから堪えきれないとでも言いたげに笑いをこぼした。
「ふ、はははっーーそう、うん。変な子だよね、星音って」
「は……?」
いや、さっきのは私の話じゃなくてその女の子の話で……。
「ははっ……全然わかってないね」
目元に浮かんだ涙を拭いながら空来は私を見る。
本当に訳がわからない。
「だから、さっき星音が自分で言ったじゃん。変な子だねって」
「だから、それはその女の子の話で……って、え?」
それはつまり……。
「だから、その女の子が星音なんだよ」
さらっと伝えられた言葉に混乱する。
星音はテーブルに肘をつけて頭を抱える。
「嘘でしょ?えっ?……あれ?」
いや待てよ、そういえば話の流れとかどう考えても私の話してた……?
「……私、なにも覚えてない」
本当になにも思い出せない。
戸惑う私に寂しそうに眉を下げて笑った。
「うん。大丈夫。無理に思い出そうとしなくていいよ。前言ってたよね?記憶がなくなってるところがあるって。ちょうどその頃なんじゃないかな?」
「あ……」
たしかに。
「ひとりは寂しいよね」
「え……?」
「さっきの話の続き。星音はそう言って僕の隣に座ったんだよ。僕より年下の小学2年生が出せる説得力じゃなかった」
ひとりは、さみしい?
「星音は、いてもいなくても変わらないならいない方がいいよねって悲しそうに笑ったんだよ。びっくりするくらい大人だった。だから僕は聞いたんだよ」
「なにを?」
「どうして君は生きてられるのって。僕と同じように考えてるのにどうして僕と同じ選択をしないのかわからなかったから」
子どもらしい無邪気な疑問。
「そしたらさ、お兄ちゃんがいるからって。僕のことさして言うんだよ。本当に変だよね」
そう言ってくすくす笑う。
「お兄ちゃんがいるから、ひとりじゃないから生きていられる。そう言って、笑みをこぼした星音にただ驚いたんだけど、その日は結局なにもしないで2人で階段を降りてまた明日って別れたんだよ」
ズキッと頭の奥で何かが引っかかった気がした。
「それから本当に毎日のようにあそこに来て一緒にいたんだよ。こんな無愛想といて楽しいのかって聞いたら星音は笑って楽しいよって言うし。お兄ちゃんはお兄ちゃんだもん。ってなんでもないように言うし。本当すごいよね」
私の知らない私の話はすこし不思議だ。
「でも、星音は急に来なくなって何かあったのかと思ったけど結局わからなくて。ただ毎日あそこに行くことしかできなかった。でもいっかいだけ傷だらけの星音が会いに来た」
傷だらけのまま?
「星音は泣いてた。でも、僕に気づくといつもみたいに無理して笑って。お兄ちゃん久しぶり。ごめんね。って言った後に、お兄ちゃんは何も言わずに、急にいなくなったりしないでね。って言うから、僕は君をひとりにしないよって頷いた。約束だよって笑った星音を見たのが最後になった」
「そう、だったんだ……。それで私とは初対面じゃないか。なるほど」
「ずっといつかまた会いたいってーー……っ星音?」
驚いたようにこちらをみる空来に首を傾げる。
「どうしたの?」
「どうしたのって……なんで泣いてるの?」
困ったように涙を拭ってくれる空来を見てやっと気づく。
「あれ?ごめん。どうしたんだろ?」
なんの涙だろう。
悲しいわけじゃないし、つらいわけじゃない。苦しくも、痛くもない。ただ、これはきっと。
悔しいんだ。
あの頃の空来になにもできなかったことが悔しい。
「本当は星音が新入生で入った時もすぐ気づいてたんだよ。ただ僕が急に声かけても迷惑だと思って様子見てただけになったけど。気になることもあったし」
「気になること?」
私の言葉にうんと頷いて続ける。
「星音、笑わないんだよ。不意にすごくつらそうにしてた。あの頃の僕と同じだってすぐわかったよ」
ふと、いっかいだけ校舎で見た空来のことを思い出した。遠目だったしどこを見てるかもよくわからなくてすぐ忘れてしまったけど。あの時ももしかしたら……。
「だから、止めたくて考えた。……どうして止めたのって聞いたよね?」
「……うん」
「簡単だよ。いなくなってほしくないから。消えてほしくないから。生きていて欲しいから。……星音はひとりじゃないから」
どうしてそこまで……。
「星音にとっては何気ないことだったのかもしれないけど、僕は星音がいたから救われたんだよ。僕がひとりじゃないって教えてくれた。僕は僕だって言ってくれた。本当に僕は生きてていいんだって思えたんだ」
「馬鹿じゃないの……?なんでそんな、誰にでも言えるようなことで、救われたなんて……っ」
止めたいのに涙が滲んだ。
「たしかに、誰にでもいえたかもしれないけど、誰も言わなかった。星音だけが僕に言葉をくれた。その言葉に救われたんだよ」
「でも、私は空来をひとりにしたんでしょ?」
「違うよ。ずっと星音のくれた言葉が笑顔が想いがあった。だからひとりだなんて思ったことはないよ。このノートに込めた想いが全てだよ」
そう言って私の手元のノートを示した。
「えっ、だってこれ大切な人に宛てたものなんでしょ?」
「うん。だから、星音以外あり得ないよ」
驚いて目を丸くする。
「だからこれも、きっと星音が知らないだけだよ」
そう言って紙袋の中からもう一冊ノートを取り出した。出てきたのは空来のものよりも一回り小さい手帳みたいな淡いピンク色のかわいいノート。
「……これも空来の?」
「ううん。違うよ」
「じゃあ、誰の?なんで空来が持ってるの?」
「うーん。強いて言うなら星音のかな。さっき見つけたんだ」
わたしの……?
疑問を浮かべたまま星音は差し出されたノートを手に取る。とりあえず中を見ようと伸ばした手が止まった。
「……え」
ノートの隅に記された名前に目を疑う。
だってこの名前は……。
「おか、あさん……?」
ということは、これはお母さんのノート?なんで?今までどこにもこんなものなかったのに。
「っ空来、これ見つけたって言ったよね?どこにあったの?」
「星音の家族がいる部屋で見つけた」
じゃあ今朝の音はこれが落ちた音?それよりも、あの部屋にあったならこれは間違いなくお母さんのものだ。
「星音、そのノート見ないの?」
「え……あ、そうだよね」
でも……。
「きっと、星音がずっと知りたかったことが書いてあると思う。中を読んだわけじゃないからさすがにわからないけど、もしかしたら星音がずっと考えてたことが書かれてるのかもしれない」
わかってる。だからこんなに躊躇っているんだから。いつのまにか震えてしまっていた手に温かい手が重なった。
「だけど、僕もいる。一緒にいるから。見てみよう?」
そう聞いた空来の瞳は真剣で、少し肩の力が抜けてふっと息を吐く。
逃げていたってしょうがない。
それに、空来だってちゃんと家族と向き合った。私だってちゃんと家族と向き合いたい。その機会があるなら逃すわけにはいかない。
「そう、だよね」
星音は数回、深呼吸をしてノートを開く。
「え……?」
中に書かれていたのは手紙だった。
星音へ
これを星音が見つけたらどんな顔するのかな?戸惑ってるのかな?想像したらちょっとおかしいね。これはお母さんのいたずらってことにしてもいいかな?まあ、なんでこんな手紙を書いてるかっていうと最近の星音があまりにも悩んでるからかな。お母さんだからねーさすがにわかっちゃうよ。でも、なにに悩んでるかわかってあげられなくてごめんね。
星音はきっと自分のことがあんまり好きじゃないでしょ?そんな星音が少しでも自分のこと好きになれるきっかけになればいいなって思ってる。
だから、ここから星音のいいところたくさん書くよ。
まずね星音はすっごくかわいいよ。親の私が言うとなんか親バカみたいになっちゃうけど、いいよね。もう、とにかくかわいい。お姉ちゃんと同じくらい。ううん、2人とも世界一かな。
星音が優しい子なのもすぐわかるよ。まだ小さいのに周りが見えてて、空気を読むのも上手で気配りができて、心配になるくらい。それにすっごく頑張り屋さんだよね。なんでも一生懸命できるのは星音の才能だよ。
だからかな?自分のこと話すのは苦手だよね。わがままだって全然言わないし。
だけどね、もっとわがまま言っていいんだよ?もっと自分の気持ちを伝えても大丈夫。
お母さんもお父さんもお姉ちゃんも星音のことが大好きで本当に大切。だから星音はもっと自分に優しくしていいんだよ。もっと自分を大切にしていいんだよ。もっともっと私たちを頼っていいんだよ。
いつだって、お母さんたちは星音のことを助けに行ける。守ってあげる。もしも、たとえばお母さんたちがいなくなったとして星音をひとりぼっちにしてしまっても、必ずそばにいる。ずっとずっと、星音を見守ってる。どんな時も星音を想ってる。だからーー。
「…………っ」
もう、あふれてくる涙で読めなかった。ポロポロと落ちる涙で文字が滲む。
あの日伝えてくれようとした言葉はきっと。
『星音、あなただけでも生きてね』
これだったんじゃないかな。だってどこを読んでもこの手紙には私にいなくなって欲しいなんて書いてない。私はずっと私だけ生きることに対する恨み言が続くと思ってた。でも、それは間違いだった。
お母さんはこんなにもあったかい言葉を残してくれてた。
ずっと、わからなかった。
家族にとって私は、落ちこぼれの私はなんだったのか。やっとわかった。
落ちこぼれなんかじゃない。私はみんなにとってちゃんと家族だった。
「……ねぇ、空来」
「うん」
「っ……私、まだ、生きてていいのかな?」
私に釣られて涙を浮かべる空来は「もちろんだよ」と力強く頷く。
ねぇ、空来。
「あの日、屋上に来てくれて」
「うん……」
「あの時、追いかけてくれて」
「うん……」
「……私を止めてくれて」
「うん」
「ーーありがとう」
頬を濡らす一筋のひかりは下手くそな泣き笑いと同じくらい輝いていた。
空来がくれた言葉も想いも全部、全部。
ありがとう。