今日はかなり過ごしやすい天気だ。
 外を歩いていてもすぐに汗が止まらなくなったりはしない。
 隣には少し俯くように空来が歩いている。
「空来、大丈夫?」
「うん、大丈夫だよ。朝早い時間でごめんね」
 間髪入れずにそう言って笑った空来に苦笑する。
 もっと自分の心配すればいいのに。朝早くって言ったってもう9時だし気にしなくていいのに。
 やっぱりこわさが残ってるんだろう。
 それがわかるくらいには私は空来のことを知ってる。
 東病院は空来の家からだいたい1時間くらいでついた。そこから302号室まではあっという間で。驚くほどあっさり私たちの目の前に現れた。
 扉の前で何度も深呼吸する彼を星音は黙って見守った。
 何度目かの呼吸でやっとトントントン、とノックをする。
「どうぞ」
 中から女性の声で短い返事があり空来は扉に手をかけた。
 ガラッと音を立てて扉が開く。
 中にはベッドに横になっている女性とその奥の椅子に腰をかけている眼鏡をかけた男性しかいなかった。どうやら個室みたいだ。
 最初に反応したのは眼鏡の男性の方。
「空来、そこのお嬢さんは誰なんだ」
 ……言葉と雰囲気に棘があった。
「初めまして。天野星音と言います。空来、さんの友達です」
「……そうですか。私は空来の父です。申し訳ないがこれから大事な話をするんだ。帰ってくれないか」
 星音はぴくっと肩を振るわせる。
 笑顔の裏に有無を言わさない圧があった。
「僕が無理言って来てもらったんだ。星音が帰るなら僕も帰る」
 そう言って空来と空来のお父さんは無言で睨み合った。根負けしたのは空来のお父さんの方で深いため息を吐いて「とにかく入りなさい。ふたりとも」と言ってわたしたちを招き入れる。
 そう言われて私と空来は病室に足を踏み入れた。
 ベッドを挟む形で私達と空来のお父さんが座る。
 ちらっとベッドに横になっている女性の顔を見るとそこまで顔色が悪いようには見えなくて安心する。私たちが座るのと同時に女性もベッドに角度をつけて寄りかかった。
「……倒れたって、大丈夫なのーー……母さん」
 平坦な口調で空来が呟く。
 やっぱりこの人が空来のお母さんなんだ。
 改めて顔を見ると目元がよく似ていた。
「ああ、ただの過労だそうだ」
 空来のお父さんの言葉に少しだけほっとしているように見えた。
「なんで僕のこと呼んだんだよ」
 今日の本題である空来の問いに空来のお母さんが答えた。
「もう一度、私たちと一緒に暮らさない?」
「は……?」
 私たちの戸惑いがこぼれ落ちた。
 聞いていた話と目の前で起きている状況が違いすぎて頭が追いつかない。
「ーー……本気?」
 空来は動揺が隠しきれないほど声が震えていた。
「ああ、俺も母さんも本気で考えた結果だ。もう一度家族で暮らさないか?」
 そっと隣を見ようとした瞬間に声が響いた。
「なんのつもり?今さらそんなことできるわけないだろ」
 静かだけど、どこまでも沈んでいってしまいそうなほど重い響きだった。
「一度でも僕に関心があった?なかったでしょ?今さらなんだって言うんだよ、たとえ血の繋がりがあったとしても僕は他人なんだから。それにーー」
 パンッと響いた音に全員が驚いた。
「えっ……星音?」
 呆然とする空来に星音が口を開く。
「先に謝っとく。ごめんね。でもね空来。それ以上は駄目だよ。空来の気持ちわかるなんて言わない。だけど、それだけは言っちゃ駄目だよ」
 生まれなければよかった。
 産まなきゃよかった。
 そう続いた君の言葉は君の本心じゃないから。
 戸惑ってる空来をほっといて星音は空来のお父さんと向かい合う。
「改めまして。天野星音と言います。初対面で大変失礼ですが今の空来の言葉にどう返すんですか?」
「それは……」
「それはあなたには関係ないし言う必要もないわ」
 言い淀んだ空来のお父さん代わりに空来のお母さんが答えた。
「たしかにその通りです。私には関係ないことかもしれません」
 笑顔でそう頷けば空来のお母さんは少し怯んだように身を引いた。
「ですが、ここまで言わせたのは他でもないあなた方です」
「……だったら、なんなのかしら」
「私から言わないとわかりませんか?」
 ぴくっと空来のお母さんは不快そうに眉を動かした。
「じゃあ、あなたはどう思うの?」
「何に対してですか?」
「あなたは高校生が一人暮らししてることをどう思うの?あなただってご家族と暮らしているでしょ?」
 ドクッと心臓が嫌な音を立てた。
 空来のお母さんの言葉に空来が何か言おうとしてるのを遮るように言葉を絞り出す。
「残念ですが私も一人暮らしなんですよ。私の両親が何を思っていたのか私にはもう一生わかりません」
「一生なんて、大袈裟な。話せばいいじゃない。親子なんだから」
 呆れたように呟く彼のお母さんに苦笑する。
「いえ、決して大袈裟じゃないんです。文字通り一生わかりません。でも、そうですね。話せばよかったです。親子なんですから」
 私が言いたいことがわかったのか気まずそうに視線を逸らした。
 空来のお母さんが視線を投げた先には黙ったままうつむく空来がいる。向かい側には呆気に取られている空来のお父さんが私を見ていた。
 星音はその様子を見てふっと我に帰る。
「ご、ごめん空来。勝手にいろいろ言いすぎた!」
 慌てて謝ると「……ふっ」と空来から吐息が溢れた。「なに?」と聞き返すと堪えきれなくなったようにふはっと噴き出した。
「えっえっ、なに?笑ってるの?」
「ははっごめん。だってちょっとびっくりしてたら星音が急に父さんたちに喧嘩売り始めたから。あんなに怒ってる星音を見るのもレアだったし。そしたらだんだんおかしくなっちゃって」
 柔らかそうな髪を揺らしておかしそうに笑い続ける空来を見て星音は頬を膨らませて「別に喧嘩売ったわけじゃないし」と呟く。
「あははっうん。わかってるって……ふっははっーー……あーもう、星音には敵わないな」
「ちょっとそれ、どう言う意味?」
 目に涙まで浮かべて……笑いすぎでしょ。
 ふと視線を感じて空来の両親の方に顔を向ける。
「ーーわらっ、た……?」
 驚いたように目を丸くする空来のお母さんに私が驚いた。空来のお父さんは「もしかして、君が?」とよくわからないことを口にして私を見た。わけがわからなくて空来を見るとただ笑って頷いた。
「……父さん。さっきは少し言いすぎた」
「あ、ああ。俺も急にいろいろ言ってすまなかった」
 空来の真面目な声に驚いたように空来のお父さんは話を続ける。
「……でも、もう一度一緒に住もうと言ったのは本気で考えたことなんだ」
「……冗談で言ってないことくらい僕にだってわかってるよ」
「ならっーー」
「でも、僕は一緒に暮らさない」
 空来の硬い声が病室の中に落ちる。
 氷みたいな有無を言わさない空来の響きに誰も何も言えなかった。