チッチッチッと規則正しく鳴る秒針の音がこの部屋の沈黙を重くする。
空来が吐き捨てた言葉が今でもこの部屋に残っている気がした。
あの時の空来が何を思ってあの言葉をこぼしたのか私にはわからないけど。きっと空来にとって触って欲しくないところなんだ。そして、あのおばさんが言いたかったこと。
ーーあなた、あの子がどんな子なのか知ってるの?
ーーよくあんな子と一緒にいられるわね。
こんな事を言った意味もわかった気がした。
……空来が時々見せるあの表情。
何もかも諦めて、耐えて、それを隠すように笑ってる。
そんな表情をよく知ってる。
毎朝、鏡の中で目があうから。
画面を見つめたままピクリとも動かない空来の時間を動かすためにこの重すぎる沈黙を破る。
「ーー空来。……どうするの?」
私の言葉にハッとしたように笑みを浮かべた。
「どうもしないよ……大丈夫だから。そんな不安そうな顔しないで?親のことならどうせ大したことないだろうし、それにーー」
「ーー違うよ」
「え……?」
遮った私の言葉に驚いたように目を丸くする空来をまっすぐに見て言葉を重ねる。
「違うよ空来。そうじゃない。私が心配してるのは……空来のことだよ」
それに……こう言ったら失礼だけど空来のお母さんのところは大丈夫なのかな、くらいで大して心配してない。
「……僕のこと?」
「当たり前でしょ。他に何を心配するの?」
呆れたように私がそう言うと空来は目をぱちぱちさせて不思議なものでも見たような顔をした。その表情に少し戸惑いを覚えつつ言葉を続ける。
「空来は優しすぎるよ。あと、たぶん少しだけ私に似てる……と思う」
「……どうしてそう思ったの?」
空来の問いにまだ近くに置いてあったノートを示した。
「ごめんね。勝手に見ちゃった」
「そっか……」
そう言って空来はノートを拾い上げた。
「空来、嫌だったらいい。だけど……もしも話してくれるなら空来のことを教えて?」
拾ったノートを苦しげな眼差しで見つめる空来にこの言葉をかけるのが正解だったのかはわからない。それでも言わずにはいられなかった。
君が苦しんでる理由を。
ほんの少しでいいから私にも分けてほしかった。
「……うん。そうだね。じゃあ少しだけ僕の話を聞いてくれる?」
泣きそうな顔で笑った空来はゆっくりと言葉を紡いでいった。
遠くの空で鳴いた鳥たちは何を伝えたんだろう。
「……別に僕には大した理由なんかないんだ。ただ放置されてただけ。誰かに裏切られたとか誰かに消えてほしいと願われたとかそんなこともなくて本当に大したことないんだよ」
そう言って苦笑いを浮かべる。
「ただ誰からも相手にされなかっただけ」
誰からも相手にされないってどういうことなんだろう。どんな状況なんだろう。……想像すらできない私にかける言葉はなかった。
「僕がどこで何をしてても無関心で無反応。本当にただそこにいるだけで何もしない。話しかけることもましてや笑いかけることなんてあり得なかった」
そう言って拳を握った空来に私は黙って自分の手を重ねることしかできない。
「それでも、両親がそうなってしまった原因が僕にあることも全部わかってた」
「原因って……?どうして空来のせいなの?」
「僕の父親の方がね結構な会社の社長なんだって。その父親の母親……つまり僕の祖母がかなり厳しい人でね。僕の母親は普通の家の人だからそれをよく思ってなくてほぼ駆け落ち?みたいに結婚したんだってさ」
ははっ笑っちゃうよね、そう続けた空来はすごく苦しそうだった。
「だからほぼ絶縁状態のまま結婚生活を送っててそこに僕が生まれた。それでも会社を継げるのは父親しかいなくて、当時は父親の方が社長を継ぐタイミングもあってかなり忙しい時期で母親は誰にも頼れなかったらしい」
でも、そんなの……。
「誰にとっても迷惑なタイミングに僕が生まれてしまったんだよ。親からの愛情なんてかけらも感じたことがない。……僕の存在は空気以下なんだよ。空気はないと困るけど僕はいなくても困らないからね」
「……空来のせいじゃないっ!」
ついこぼしてしまった言葉が思ったよりも大きく響いた。
「そんなの、空来のせいじゃないじゃん。そんな理由でどうして空来が疎まれなくちゃいけないの?どうして無関心や無反応を空来が受け入れないといけないの?……なんで、空気以下なんて思わないといけないの?」
空気以下の存在。
それはどれだけつらいんだろう。
どれだけ……苦しいんだろう。
「星音?どうしてそんなに怒ってるの?」
「怒るに決まってる!」
ぎっと空来のことを思いっきり睨む。
「どうして……」
「うん?」
「どうして空来が死にたくなるほどそんな人たちのせいで苦しめられないといけなかったの?」
「えっ……」
「だって、自分勝手すぎるよ。親の反対を押し切ってまで結婚したのも空来を生んだのも、全部空来のお父さんとお母さんが選んだはずなんだよ?それを空来のせいにしていいわけないのに……っ」
「どうして僕が死にたいって気づいたの?」
心底不思議そうにする空来に当然のように告げる。
「ノートに全部書いてあったから」
「えっ……あれでわかったの?」
空来の問いに星音は少し呆れたように笑った。
「むしろ私以上にわかる人なんていないと思うよ?」
思い出すだけで涙が出てきそうになるあの想いをわからないはずなかった。
「そっか……。まあそうだね。実際は死ななかったからまだ生きてるんだけど」
空来はそう言って笑った。
「あの時あの子がいたから僕は今ここにいるんだよ」
「あの子……?」
少しだけ胸がちくっとしたのは気のせい。
「うん。人間らしい感情もわからなくなった僕が死のうとした日に僕の前に現れた女の子。その子が僕に言ったんだ、もし、誰かに必要とされなくても認めてもらえなくても私がいる。って、ひとりじゃないよって止めてくれたから」
空来は星音を見ながら嬉しそうに笑った。
窓の向こうには茜色に染まり始めた世界が見えた。
「だからね今さらあの人たちに合わせる顔も話すこともないんだよ」
どうしてそんなことをそんな、なんでもないような顔で言うの?
「……うそつき」
そんな風に月みたいに綺麗に笑って。
どうして、月が欠けてしまうように悲しみを隠すの?
「え……」
「私には嘘つかないって言ったのに」
「えっうん。嘘ついてないよ?」
「じゃあさっきの言葉は撤回して」
「さっきの言葉?」
本気で戸惑っている空来を真っ直ぐ見つめる。
「あるに決まってるでしょ?そのノートに込められた想いも空来の苦しみも話さないといけないことはたくさんあるでしょ?」
ああ、こんなこと言うべきじゃない。
わかってるのに何がそんなに許せないんだろう。
「別に会いにいけないんて言わない。……絶対話してなんて言わない。言わないけど、お願いだから、そんな風に自分で自分を傷つけないでよ。……そんなに簡単に自分を諦めないでよ……」
自分がこぼした言葉に苦笑する。
誰が誰に何を言ってるんだ。
私には、こんなこと言う資格ないのに。
「星音……?」
「ーー……もしも、どっちかがいなくなってからじゃ遅いんだよ」
私の言葉に驚いたように目を丸くした空来は苦しそうに顔を歪めた。
「だけど……僕は」
「感情がわからないなんて嘘だよ。だって空来はこんなに苦しんでこんなに優しくて……っ」
感情がわからなくなったんじゃない。空来はただ感情を抑え込んで隠しただけだ。誰よりも上手に。だから、感情の出し方を忘れてしまった。たったそれだけのこと。
「あーもう、なんで星音が泣いてるの?」
「だってわかんないけど、出てきちゃったんだもん」
私の言葉にぐしゃっと表情を崩した。
「ふはっ、なにそれ。星音は……優しすぎるんだよ……そんなんじゃ僕まで……っ」
空来の瞳に光の膜が張ってすっと流れた。
「ごめんね少しだけ」
そう言って空来はそっと私の背中に腕を回した。
夜の帳が下りるにはまだ少し早い。
涼しさを纏った空気が部屋の中に入ってきた。
ふたりはしばらく泣きながら笑った。
「ごめんね星音。ありがとう」
「ううん。私こそごめん」
私が言っていいことじゃなかった。そんな言葉をらしくもなく言ってしまった。
「ううん。星音の言葉の意味を僕は知ってるから。それにいつかは向き合わないといけない問題でもあったからね」
「そっか……」
「うん。だから、会いに行くよ」
空来の言葉の強さに私は頷いた。
「大丈夫だよ。もしも何かあったとしても私は空来の味方だから」
「……あーあ。かっこ悪いとか見せちゃったな、ごめんね星音。見せちゃったついでにかっこ悪いこと言っていい?」
「……うん、いいけど空来はかっこ悪くないよ?私にできることがあれば言って」
何もできないけど私にだって話を聞くことくらいはできる。
「会いに行く時っていうか明日なんだけど一緒についてきてくれない?」
「もちろん。一緒に行こう。空来の両親に会いに」
怯えたような目の空来が少しでも安心できるように。
誰かに自分のことを聞くのがこわいなんて当たり前だ。それが自分にとって関わりが深い人ならなおさら。
今にも夜に飲み込まれそうな夕日が眩しいくらいに輝いていた。
空来が吐き捨てた言葉が今でもこの部屋に残っている気がした。
あの時の空来が何を思ってあの言葉をこぼしたのか私にはわからないけど。きっと空来にとって触って欲しくないところなんだ。そして、あのおばさんが言いたかったこと。
ーーあなた、あの子がどんな子なのか知ってるの?
ーーよくあんな子と一緒にいられるわね。
こんな事を言った意味もわかった気がした。
……空来が時々見せるあの表情。
何もかも諦めて、耐えて、それを隠すように笑ってる。
そんな表情をよく知ってる。
毎朝、鏡の中で目があうから。
画面を見つめたままピクリとも動かない空来の時間を動かすためにこの重すぎる沈黙を破る。
「ーー空来。……どうするの?」
私の言葉にハッとしたように笑みを浮かべた。
「どうもしないよ……大丈夫だから。そんな不安そうな顔しないで?親のことならどうせ大したことないだろうし、それにーー」
「ーー違うよ」
「え……?」
遮った私の言葉に驚いたように目を丸くする空来をまっすぐに見て言葉を重ねる。
「違うよ空来。そうじゃない。私が心配してるのは……空来のことだよ」
それに……こう言ったら失礼だけど空来のお母さんのところは大丈夫なのかな、くらいで大して心配してない。
「……僕のこと?」
「当たり前でしょ。他に何を心配するの?」
呆れたように私がそう言うと空来は目をぱちぱちさせて不思議なものでも見たような顔をした。その表情に少し戸惑いを覚えつつ言葉を続ける。
「空来は優しすぎるよ。あと、たぶん少しだけ私に似てる……と思う」
「……どうしてそう思ったの?」
空来の問いにまだ近くに置いてあったノートを示した。
「ごめんね。勝手に見ちゃった」
「そっか……」
そう言って空来はノートを拾い上げた。
「空来、嫌だったらいい。だけど……もしも話してくれるなら空来のことを教えて?」
拾ったノートを苦しげな眼差しで見つめる空来にこの言葉をかけるのが正解だったのかはわからない。それでも言わずにはいられなかった。
君が苦しんでる理由を。
ほんの少しでいいから私にも分けてほしかった。
「……うん。そうだね。じゃあ少しだけ僕の話を聞いてくれる?」
泣きそうな顔で笑った空来はゆっくりと言葉を紡いでいった。
遠くの空で鳴いた鳥たちは何を伝えたんだろう。
「……別に僕には大した理由なんかないんだ。ただ放置されてただけ。誰かに裏切られたとか誰かに消えてほしいと願われたとかそんなこともなくて本当に大したことないんだよ」
そう言って苦笑いを浮かべる。
「ただ誰からも相手にされなかっただけ」
誰からも相手にされないってどういうことなんだろう。どんな状況なんだろう。……想像すらできない私にかける言葉はなかった。
「僕がどこで何をしてても無関心で無反応。本当にただそこにいるだけで何もしない。話しかけることもましてや笑いかけることなんてあり得なかった」
そう言って拳を握った空来に私は黙って自分の手を重ねることしかできない。
「それでも、両親がそうなってしまった原因が僕にあることも全部わかってた」
「原因って……?どうして空来のせいなの?」
「僕の父親の方がね結構な会社の社長なんだって。その父親の母親……つまり僕の祖母がかなり厳しい人でね。僕の母親は普通の家の人だからそれをよく思ってなくてほぼ駆け落ち?みたいに結婚したんだってさ」
ははっ笑っちゃうよね、そう続けた空来はすごく苦しそうだった。
「だからほぼ絶縁状態のまま結婚生活を送っててそこに僕が生まれた。それでも会社を継げるのは父親しかいなくて、当時は父親の方が社長を継ぐタイミングもあってかなり忙しい時期で母親は誰にも頼れなかったらしい」
でも、そんなの……。
「誰にとっても迷惑なタイミングに僕が生まれてしまったんだよ。親からの愛情なんてかけらも感じたことがない。……僕の存在は空気以下なんだよ。空気はないと困るけど僕はいなくても困らないからね」
「……空来のせいじゃないっ!」
ついこぼしてしまった言葉が思ったよりも大きく響いた。
「そんなの、空来のせいじゃないじゃん。そんな理由でどうして空来が疎まれなくちゃいけないの?どうして無関心や無反応を空来が受け入れないといけないの?……なんで、空気以下なんて思わないといけないの?」
空気以下の存在。
それはどれだけつらいんだろう。
どれだけ……苦しいんだろう。
「星音?どうしてそんなに怒ってるの?」
「怒るに決まってる!」
ぎっと空来のことを思いっきり睨む。
「どうして……」
「うん?」
「どうして空来が死にたくなるほどそんな人たちのせいで苦しめられないといけなかったの?」
「えっ……」
「だって、自分勝手すぎるよ。親の反対を押し切ってまで結婚したのも空来を生んだのも、全部空来のお父さんとお母さんが選んだはずなんだよ?それを空来のせいにしていいわけないのに……っ」
「どうして僕が死にたいって気づいたの?」
心底不思議そうにする空来に当然のように告げる。
「ノートに全部書いてあったから」
「えっ……あれでわかったの?」
空来の問いに星音は少し呆れたように笑った。
「むしろ私以上にわかる人なんていないと思うよ?」
思い出すだけで涙が出てきそうになるあの想いをわからないはずなかった。
「そっか……。まあそうだね。実際は死ななかったからまだ生きてるんだけど」
空来はそう言って笑った。
「あの時あの子がいたから僕は今ここにいるんだよ」
「あの子……?」
少しだけ胸がちくっとしたのは気のせい。
「うん。人間らしい感情もわからなくなった僕が死のうとした日に僕の前に現れた女の子。その子が僕に言ったんだ、もし、誰かに必要とされなくても認めてもらえなくても私がいる。って、ひとりじゃないよって止めてくれたから」
空来は星音を見ながら嬉しそうに笑った。
窓の向こうには茜色に染まり始めた世界が見えた。
「だからね今さらあの人たちに合わせる顔も話すこともないんだよ」
どうしてそんなことをそんな、なんでもないような顔で言うの?
「……うそつき」
そんな風に月みたいに綺麗に笑って。
どうして、月が欠けてしまうように悲しみを隠すの?
「え……」
「私には嘘つかないって言ったのに」
「えっうん。嘘ついてないよ?」
「じゃあさっきの言葉は撤回して」
「さっきの言葉?」
本気で戸惑っている空来を真っ直ぐ見つめる。
「あるに決まってるでしょ?そのノートに込められた想いも空来の苦しみも話さないといけないことはたくさんあるでしょ?」
ああ、こんなこと言うべきじゃない。
わかってるのに何がそんなに許せないんだろう。
「別に会いにいけないんて言わない。……絶対話してなんて言わない。言わないけど、お願いだから、そんな風に自分で自分を傷つけないでよ。……そんなに簡単に自分を諦めないでよ……」
自分がこぼした言葉に苦笑する。
誰が誰に何を言ってるんだ。
私には、こんなこと言う資格ないのに。
「星音……?」
「ーー……もしも、どっちかがいなくなってからじゃ遅いんだよ」
私の言葉に驚いたように目を丸くした空来は苦しそうに顔を歪めた。
「だけど……僕は」
「感情がわからないなんて嘘だよ。だって空来はこんなに苦しんでこんなに優しくて……っ」
感情がわからなくなったんじゃない。空来はただ感情を抑え込んで隠しただけだ。誰よりも上手に。だから、感情の出し方を忘れてしまった。たったそれだけのこと。
「あーもう、なんで星音が泣いてるの?」
「だってわかんないけど、出てきちゃったんだもん」
私の言葉にぐしゃっと表情を崩した。
「ふはっ、なにそれ。星音は……優しすぎるんだよ……そんなんじゃ僕まで……っ」
空来の瞳に光の膜が張ってすっと流れた。
「ごめんね少しだけ」
そう言って空来はそっと私の背中に腕を回した。
夜の帳が下りるにはまだ少し早い。
涼しさを纏った空気が部屋の中に入ってきた。
ふたりはしばらく泣きながら笑った。
「ごめんね星音。ありがとう」
「ううん。私こそごめん」
私が言っていいことじゃなかった。そんな言葉をらしくもなく言ってしまった。
「ううん。星音の言葉の意味を僕は知ってるから。それにいつかは向き合わないといけない問題でもあったからね」
「そっか……」
「うん。だから、会いに行くよ」
空来の言葉の強さに私は頷いた。
「大丈夫だよ。もしも何かあったとしても私は空来の味方だから」
「……あーあ。かっこ悪いとか見せちゃったな、ごめんね星音。見せちゃったついでにかっこ悪いこと言っていい?」
「……うん、いいけど空来はかっこ悪くないよ?私にできることがあれば言って」
何もできないけど私にだって話を聞くことくらいはできる。
「会いに行く時っていうか明日なんだけど一緒についてきてくれない?」
「もちろん。一緒に行こう。空来の両親に会いに」
怯えたような目の空来が少しでも安心できるように。
誰かに自分のことを聞くのがこわいなんて当たり前だ。それが自分にとって関わりが深い人ならなおさら。
今にも夜に飲み込まれそうな夕日が眩しいくらいに輝いていた。