ざっとこんなもんかな。
 星音は手にしたレジ袋を持ち直して空来のマンションに向かった。
 それにしても、空来の家が私の家の近くでよかった。……昨日のことがなければ知ることもなかったんだろうけど。一応確認のために連絡した。
『8階のいちばん奥』
 空来にしては短い返事だった。
 ……結構しんどいのかな。
 星音はぱんぱんになったレジ袋を抱え直してエレベーターが来るのを待った。
 後ろからコツコツとヒールの音が近づいてくる。
「こんにちわ」
 声をかけられたことに驚いて振り返ると化粧の濃いおばさんがいた。
「……こんにちわ」
 誰この人?
 そう思いながら挨拶を返すとおばさんは驚いたように目を丸くした。
 ……どこかであったっけ?
「あなた、あの子と一緒にいた子よね?」
 あの子……?ここ最近で私が一緒にいるのは空来くらいしか思いつかないけど。
「あ……」
 思い出した。昨日空来に話しかけた人。
「よくあんな子と一緒にいられるわね」
「え……」
 薄っぺらい笑みを貼り付けたままおばさんは続けた。
「あなた、あの子がどんな子か知ってるの?あの子はねーー」
「知ってますよ。あなたよりもよっぽどよく知ってます」
 空来がどんな子か?そんなの考えるまでもない。
 他人の感情に敏感で。
 他人のために無茶ができて。
 他人のために笑うような。
 馬鹿みたいに優しい人。
「あら、そうなの?じゃああの子と同じであなたも頭おかしいのね」
 そう言ったおばさんはゴミでも見るような目で私を見下ろした。
「……そうですね。頭がおかしいのかもしれません」
 笑顔で肯定した私におばさんは面食らったように一歩後ずさった。
「ただ、あなたの空来への評価に私は興味がありません。それに何もわかってないあなたが空来を馬鹿にできると思ってるんですか」
「なっーー」
 おばさんが口を開くのと同時にエレベーターが到着した。
 私は迷わず足を踏み入れ扉を閉める。
 星音は壁に寄りかかってため息を吐く。
 何あの人。あの人が何を知ってるのか知らないし何を言おうとしてたのかも知らないけど……。
 空来のこと何もわかってない人が空来を馬鹿にするのは許せなかった。
 空来はきっと……私に似ているから。
 星音の思考を切るように扉が開く。
 とにかく、少しでも悪化してなければいいな。
 空来の部屋は1番奥にある。
 そっとインターフォンを押すと返事の前に扉が開いた。
「あ、星音。ごめんねわざわざ」
 出てきた空来は思っていた以上に辛そうに息をしていた。
「別にいいんだけど私じゃなかったらどうするの?さすがに名前くらい聞いてよ」
「あー。そうだった」
 ぼうっと呟く空来の額に手を当てる。
「えっ?ちょっと待って。空来こんな熱あるのになんで……とにかく部屋戻って!」
 立ってるのもしんどそうな空来と一緒に部屋に入る。
「空来の部屋はどこ?」
 私の問いに返事をするのも億劫なのか無言で手前の部屋を指差した。
「じゃあ、そこで休んでて。いろいろ買ってきたけど後で薬持ってくから」
 空来を自分の部屋に押し込んでリビングに足を踏み入れる。
 人様の冷蔵庫を勝手に開けるのは気が引けたけど買ってきたものをダメにするわけにもいかない。
 ひと通り詰め終わって体温計と解熱剤。あと簡単に食べられるゼリーを持って空来の部屋に向かった。
「空来?入っていい?」
「…………」
 返事がなかったけど一応中を覗くと大人しくベッドに横になっていた。そっと近づいてみるとかなり苦しそうに顔を歪めている。
 もう一度声をかけるとゆっくりと私の方に顔を向けた。
「ごめんね。何か食べられそう?無理そうだったら薬だけでも飲んで欲しいんだけど」
「……大丈夫。ありがとう」
 そう言って空来は私からゼリーを受け取って少しずつ食べ始めた。空来は半分もしないうちに「ごめんね、食べきれそうにないや」とゼリーをおいた。
「少しでも食べれただけよかったよ。ほら薬飲んで」
 薬と一緒に体温計も渡すと空来は大人しく熱を測った。
 無機質な機械音が響いて表示された数字を見る。
「……39度か。かなり高いね。寒気とかはある?」
「……言われてみればたしかに寒い。でも大丈夫だよ」
 空来の言葉に星音は深く息を吐く。
「大丈夫じゃないよ。とりあえず薬も飲んだし今は寝てて」
「……うん。ごめんね」
 空来は本当に申し訳なさそうな顔をして力尽きたように目を閉じた。……いや、申し訳なさそうじゃなくて本当に申し訳ないと思ってるんだろうな。
 よしっと星音は小さく気合を入れてキッチンに向かう。
 ……お節介かな。
 そう思いつつキッチンをひと通り見る。やっぱり空来はちゃんと自炊してるみたいでかなり充実していた。これなら作れる。
 ぐつぐつする土鍋の音だけが家の中に響いている。
 本当に幼い頃。まだ家族がいた頃によく作ってもらっていた。
「ーーよし、こんなもんかな」
 火を止めて粗熱を取ってから冷蔵庫に入れた。
 作業が終わって空来の様子を見に部屋に戻る。
 ……よかった。少しだけ顔色良くなったかな。
 そっと額に手を当てる。
 ……熱も少しは下がったみたい。
 その様子にほっと息を吐く。
「……薬、ちゃんと聞いたみたいでよかった」
 私の声に反応したように空来が少しだけ目をあけた。不意に私の手を掴んだ空来は何かを呟いた。
「……空来?」
「……よかったーー」
 小さすぎて最後まで聞き取れなかった呟きを聞き返したけど空来はもう何も言わなかった。ただ繋がれた手を離すことはなかった。
 どうしようと途方に暮れているとふとノートが落ちているのが気になった。戻してあげようと思ってそっと空来の手を離してから拾い上げる。
 星音は拾ったノートを何気なく開いた。どのページにもびっしりと文字が詰まっている。
 書かれている文字を目で追う。

 透明になれればいい
 必要とされないなら
 誰も見てくれないなら
 いつかなくなるものなら
 最初から何もいらない
 何も持たなければ
 何も知らなければ
 失う痛みも失う悲しみも
 全部知らなくて済むんだから

「これ……詩、なのかな?」
 星音は空来の近くになるように腰をおろしてノートに視線を戻した。

 目があるから見たくないものまで見える
 耳があるから聞きたくない音まで聞こえる
 こんなことならないほうがいい
 見たくないものが見えて
 聞きたくない音が聞こえて
 それになんの意味がある
 意味がないならいらない

 これは空来が書いたものだ。きっと空来以外はありえない。
 なぜかそう確信した。
 悪いと言う気持ちもあったけど星音はそのままページをめくった。いくつか読み進めていくうちにこれまでとは少し違う内容のものがあった。

 僕が生きてる意味はなんだろう
 僕がこの世界にいる理由はなんだろう
 意味も理由もないのかもしれない
 僕は誰かに望まれていたわけじゃないから
 だったらこの世界は僕に何の用があるんだろう
 僕はもうこの世界に用なんかない
 僕が消えることがきっと最善なんだ

 ……殴り書き。そんな表現がぴったりなほど乱れた字で書かれていた。
 何を思って、どんな気持ちで、ペンを握ったんだろう。
 ううん、考えなくてもわかる。だって……同じだから。この気持ちも想いもぜんぶ痛いくらいにわかる。わかってしまった。
「……空来。あなたは何を隠しているの」
 呟いた言葉は部屋の中で行き場をなくすとしゃぼん玉のように弾けて消えた。
 星音は自分の呟きに苦笑してノートを閉じた。

 とんとん、と肩を叩かれる感覚に目を開く。
「あっ星音。おはよう」
 にこにこしてる空来にぼうっとしたまま頷く。
「おはよー……え?あ、わぁ!」
 徐々に覚醒してあまりの近さに思わず後ろに倒れた。
「ごめんね星音。大丈夫?」
 空来が心配そうに眉を下げる。
「だ、いじょうぶ。こっちこそごめんね。いつのまにか寝てた」
 思いっきり打った腰をさすりながら星音は座り直した。
「体調はどう?顔色は……うん。少しは良くなったみたいだね」
「おかげさまでずいぶん楽になったよ」
「そっか。よかった。……何か食べられそうならおかゆ持ってくるけど」
 おかゆと言う単語に空来が首を傾げた。
「あっごめんね勝手にあるもの使っちゃったんだけど」
 空来は私の言葉に納得したように頷く。
「それは全然いいよ。おかゆもらってもいい?」
「うん。ちょっと待ってて」
 そう言って部屋を出る。
 ……看病に来といて寝るとか、ありえない。
 自己嫌悪が頭の中で繰り返しきこえる中冷蔵庫の扉を開けておかゆを取り出した。
 冷蔵庫に入れといて本当によかった。さっき壁にかかってた時計を確認したらこれ作ってから1時間はたってた。さすがにこの暑さの中いくら冷房がきいているとはいえ1時間も放置したら腐る。
「ーーはい。お待たせ。美味しいかは保証しないけど」
 熱いから気をつけてね。と温め直したおかゆを差し出す。
「星音が作ったの?」
「え?そうだけど、どうかした?」
 逆に私以外に誰が作ったと思っているのか、あー……レトルトだと思ったのかな?
「ううん。ありがとう。いただきます」
 そう言って空来はゆっくりとした動作でおかゆを口に運んだ。
「……あっおいしい」
 驚いたように目を丸くして笑った空来に「何その反応」と星音がつっこむ。
「えっあっそっか。普通に失礼だったね。ごめん。変な意味はなくてただ、食べたことなかったから」
「……なにを?」
「おかゆ。美味しいんだね。作ってくれてありがとう」
 嬉しそうに笑う空来に私は「どういたしまして」しか言えなかった。
 今さらになって気になってしまったから。
 どうしてひとり暮らしなのか。
 どうして詩を書き続けているのか。
 それにそんな事を思った自分に私が戸惑ったから。
 ポンッと着信音が響く。
「あっ僕のだ」
 そう言ってスマホを見た空来は画面に目を向けたまま動かなかった。
「空来?どうしたの?」
 私の問いかけにも無反応。
 星音は心の中でごめんと謝って画面を覗き込んだ。
『明日、会って話がしたい』
 表示されていた文章はあまりにも簡潔だった。
 発信者は『父さん』と表示されている。
「……今さら、なんの話をするんだよ」
 吐き捨てるように空来がつぶやいたのと同時にもう一通届いた。
『母さんが倒れて東病院にしばらく入院することになった。父さんたちは動けないから302号室に来てくれ。そこで話そう』
「は……?」
「え……?」
 届いた内容に私たちは言葉を失った。
 うるさいはずの蝉の声がやけに遠く感じる。
 唯一この部屋の中で秒針の音だけが止まらずに鳴っていた。