桜となる頃、また君と。

 私も家に帰ろうと前を向くと、そこには小学校低学年くらいの男の子と母親の姿が。男の子の手には一本の萎れた薔薇が握られている。お母さんの方はお腹が膨れ上がっているので、妊婦さんに違いない。



「あ、あの。ここは松田海さん?の式場でお間違いないでしょうか」



「あ、はい。そうですけど・・・どちら様で・・・」



「実はこの子が海さんが亡くなられた当日に一本の薔薇を頂いたらしくて・・・」



 男の子は下を向いたまま、むせながら泣いていた。私は一生その泣き顔を忘れることはないだろう。



 だって...少し海に似ていたから。



「そうなんですね。海は先ほど、霊柩車で・・・」



「そうでしたか。あと少し早くきていれば、間に合ったかもしれませんね」



 母親の目には悲しげな海の死を心から悔やんでいるのが感じ取れる。



「お、お姉ちゃん。お兄ちゃんは本当にしんじゃったの?ぼく、お兄ちゃんとやくそくしたんだ。ママとこんどいっしょにお花やさんにいくって・・・またねって言ったの・・・」



 こんなに小さい子に嘘をついたら余計に傷つけてしまうかもしれない。だからと言って、本当のことを話すのも心が痛い。



「あ、海は・・・」



 大きな手が私の頭を包み込むように、そっと静かに置かれる。



「海はね、死んじゃったよ・・・でもね、ボクがいい子にしてたらきっとまたどこかで会えるかもしれない。だから、たくさん笑って、たくさん泣いて、たくさん勉強しなさい。そうしたらね・・・」



 後ろを振り向くと、そこには疲れ切った様子が隠しきれていないけれど、笑顔で話しかけている海パパの姿。



 私がどう答えればいいか困っていたのを見かけて助けてくれたのだろう。海に似て本当に優しいお父さん。いや、海がお父さんに似たのだ。



「ぼくがいい子にしてたら、また会えるのかな・・・それならぼくがんばるよ」



「あぁ、必ず会えるさ。またいつか必ず。海もボクも心優しい子だからね。きっと神様はそんな君らのことを見ていると思うよ」



 "あぁ、やっぱり二人は意味があって海という名前をつけたんだ"



 海の両親もまた海に出会えると信じているのかもしれない。たった五文字。でも、その五文字には言葉では言い表せない、強い気持ちが込められていた。



 男の子の母親にお辞儀をして去っていく海パパ。手には満面の笑みを浮かべている海の遺影を大切に持ちながら。



「申し訳ありません。この子がどうしてもと聞かなくて。命日には必ず、お墓参りに行くのでこれからもよろしくお願いします」



 深々とお辞儀をしているお母さんを真似て男の子も一緒にお辞儀をする。そのまま彼らは太陽が輝き照らす道へと歩いていった。



 きっとあの男の子は海の命日に、薔薇の花を添えるのだろう。海と彼を結んだのはたった一輪の真っ赤な薔薇だった。
 一週間ぶりに学校に行くが、私の隣には誰もいない。人生で初めての一人登校がこれほどまで喪失感があるなんて一週間前の私は気付くはずもなかった。



 海は心臓が弱かったけれど学校は無遅刻無欠席で、小学生の頃から毎日私と一緒に登校してくれた。ついこの間、2人で遅刻したのが懐かしい。



 毎日歩いていたはずの通学路がなぜだか、いつもとは違う道のようにさえ感じる。景色もそこまでは大きく変わってはいないはずなのに...



「歩道ってこんなに広いんだ・・・」



 二人で歩いていた時は肩が触れ合うくらい狭かったのに。



 学校が近くなってきたこともあり、私の周りには同じ制服を着た生徒たちが少しずつ増えてくる。友達と楽しそうに話しながら登校している人、カップルで登校している人、どこを見ても皆楽しそうな様子をしているように見えてくる。



 私とは住んでいる世界が違うかのような錯覚さえ覚えてしまう。



 時折、私のことをチラチラ見てくる人もいたが、心底どうでもよかった。今までのように尊敬の眼差しなのか、海を失ったことへの哀れみなのか。



「希美、おはよう。久々の学校だな」



 普段とは違う声のトーンで話しかけてくる想太。今までなら彼の声には明るさを含んだ、少し鬱陶しいくらいの元気さがあった。それが今はない。それでもこの声に気付けるのは幼馴染だからなのだろう。



「うん、生まれて初めて一人で学校に登校したよ。私と海は一度も学校を休んだことがなかったから・・・孤独感がすごかった」



 話してから口に出さなければよかったと後悔する。想太といっちゃんの顔に哀しみの色が広がる。



「だよね・・・よければ私たちと毎朝登校しない?」



 そういってもらえて嬉しい気もするが、付き合っている二人の邪魔をしすぎるのは良くないと思い、いっちゃんの優しさを踏み躙らないようにやんわりと断った。
 教室に入ると私の席の隣には、花瓶に入れられた花が添えられていた。もちろん、あるのはわかっていた。でも目にした途端、もう彼はみんなの視界には映らなくなってしまったのだと思うと、耐えられなかった。



 元々海は目立つような人柄ではなかったけれど、ちゃんとこの教室には存在していた。それがもう思い出という形でしか、残らない存在になってしまったのが苦しい。



 そんな私にみんなは声をかけることもなく、ただ"見守っている"一歩距離を置いた雰囲気。



 大半が哀れみを含んだ、"可哀想に"という表情を顔に貼り付けている。誰にも哀れんでほしいなんて頼んでもいないのに。



 鞄を静かに下ろし、自分の席に座る。いつも隣で優しく見守っていてくれた彼のいない教室は、私にとって何の価値もない場所と化してしまった。



 窓の外には今にも散ってしまいそうな桜の木が、風に揺られながらも懸命に咲き誇っている。ひとひらずつ青い空へと舞い上がっていく。彼方遥か遠くのどこかを目指して。



 もしかしたら、海も遠くのどこかで...と淡い願いを胸に抱えながら、私は再び目線を教卓へと向ける。



 彼の目指したもののために努力をすると、心に深く刻んで。
「きみせんせー! さよーなら!」



「はい、さようなら。みんな車には気をつけて帰るのよ!」



 教壇に立ちながら一人一人の顔を見ながら、挨拶をする。夢や希望を抱いている様子の子どもたち。自分にもこんな時期があったのだと思うと随分と昔のように感じてしまう。



 運がいいのか、私は自分が育った小学校の隣の小学校の一年生の担任をしている。実家からも近いので、いつでも顔を出すことができるので、とても都合がいい。ゆくゆくは自分が生まれ育った小学校の担任になってみたい。



 今の小学校の教師になって二年目の春を迎えた。去年は、初任ということもあり、四年生の担任をしていたが、今年は一年生の担任になってしまった。



 二年目でわからないことはだいぶ減ったが、それでも一年生はまだまだ不安が多い。



 何しろ、この前まで幼稚園や保育園だった子たちに一から教えないといけない。小学校とはなんなのか、してはいいこととダメなこともここからはっきりさせていく必要がある。



 まだ小さいので優しくするが、時として厳しく接しないといけない時だってある。それが難しいのだが...



 誰もいなくなった教室で、私は二枚の写真を取り出す。一枚は高校を卒業した時に三人で校門の前で撮った集合写真。手には卒業証書を抱えて、涙ぐんだ様子の三人が写し出されている。



 そして、もう一枚は最近一人暮らしをするために実家の掃除をしていた時に見つけた、高校の入学式の時に四人で撮った集合写真。あどけなさを含んだ幼い私たちがそこには写っていた。



 私の大好きな彼もぶかぶかの制服に身を包んで、緊張した顔で写っている。



 二枚を見比べて見ると、三人とも身長や顔つきが大人に近いものになっていて、途端に懐かしさが込み上げる。
「・・・あれから八年も経つのか、あっという間だったな」



 四人で写っている写真を手に取り、彼の顔をそっと指でなぞる。八年前のあの春に高校生のまま取り残してしまった彼を。



 今日は彼の命日で、早退することになっているので、職員室に戻り鞄を持って帰る支度をする。



「あ、ちょうどいいところに春川先生。明日から、春川先生のクラスに新しい子が入るので、よろしくお願いしますね」



 教頭先生が私に微笑みながら話しかけてくるので、急いでいるが無視するわけにもいかない。教頭先生は異常なくらい優しくて、私が新任の時には色々と面倒を見てもらったのだが、話が長いのだ。



 それに、この先生は...今日は暗くなってしまう前に海のお墓に行きたかったので、思わぬ相手に肩を落とす。



「え、この時期にですか?」



 入学式から既に二週間経過しているので、時期的になかなか珍しい。



「そうなんだよ、転勤とかで色々あったらしくてね。明日からでないとダメだったらしいんだ」



「どんな子なんですか?」



 早く切り上げたかったが、どんな子なのか聞かないわけにはいかない。明日から私のクラスになる子だから。



「んー、それが少し変わっていてね。妙に大人っぽいんだよ」



「え、どんなところがですか?」



 そんな一年生がいるのだろうか。今私が見ている子どもたちは、みんな子ども特有のあどけなさがあるというのに。



「いや、話はしなかったんだ。ただね、私とその子と親御さんで話している時にその子はずっと窓の外を見ていてね。その横顔がどうしても私には、一年生のするような表情には見えなかったんだよ。寂しそうな、悲しげな表情をしていてね・・・」



「そうなんですね。頑張って話しかけてみようと思います」



 少しだけ不安もあるが、不安を抱いたところで何も変わらないので、家に帰ってから考えようと思い荷物を肩にかける。



「春川先生・・・」



「教頭・・・いえ、小林先生。今日は彼の命日なんです。だから今日はこの辺で・・・」



「あぁ、そうだったね。これ以上は野暮だね。気をつけて行ってらっしゃい、希美ちゃん」



「先生・・・その呼び方はダメですよ。今は同僚なんですから」



「つい昔を思い出してね・・・」



 目頭を指で押さえながら笑顔で私の背中を押してくれる私たちの恩師。顔には昔よりも皺が増えていたけれど、優しい笑顔なのは変わらないみたいだ。



 海を支えてた言葉を授けてくれた先生とこうして共に働けているのも、もしかしたら海のおかげなのかも。



「行ってきます」
 海が亡くなってからの八年の月日はあっという間だった。



 あれから私は、海が生きていた頃よりも勉強に専念し、高校三年間ずっとトップの成績を収め続け、二年生になってからは生徒会長にもなった。



 これだけ聞くと輝かしい過去のように思えるが、実際はそうではなかった。海の死後から私は変わってしまった。



 私の顔から笑顔という表情が消えてしまったのだ。



 友達もそれなりにできたし、私を尊敬してくれる後輩にも巡り出会えた。でも、いつになっても笑顔は戻らなかった。



 いつも出てくるのは仮面をつけているかのような作り物の笑顔。私はその顔が心底嫌いだった。



 当然人なので、私のことを好きな人もいれば、嫌いな人だっている。



 私のことが嫌いな人が、私につけたあだ名は『氷の女王様』



 高校生の時は嫌で仕方がなかったが、今となってはこんなにしっくりくる言葉は他にないのではないかと思うほど、私の表情は氷のように固く凍ってしまっていた。
 高校卒業後は日本で有名な大学に合格し、そこの教育学部で四年間しっかり勉学に励んだ。もちろん勉強しかしていなかったので、大学も首席で合格したが何も感じなかった。



 なんなら、高校に合格した時の方が百倍嬉しかったと思う。



 大学でも容姿と成績のこともあり、目を惹かれる存在になったけれどひたすら無視をし続けた。それでも私の周りから人がいなくなることはなかった。



 今ではあんな態度を取っていた私にいつも優しくしてくれた大学の友人には感謝しかない。最初はひどいものだったが少しずつ打ち解けられるようになった。



 社会人になってからは、大学の友達とは月一で飲みに行くぐらいになってしまったが、今でも関係は良好と言ってもいいだろう。



 一度だけその友達と言い争いになってしまったことがあった。



 大学三年生の時も私は常に成績をトップに維持し続けた。周りのみんなが就活に力を入れ始める頃、自然とみんながどんな職業に就きたいか話し合っていた。



 私たちの大学は日本でも有名な大学だったので、もちろん就職先は誰でも知っている大手企業や外資系企業などが当たり前だった。当然周りの友達たちも私は、その中でもトップクラスの企業を受けるものだと思っていたらしい。



 しかし、私が口にした言葉を聞き、みんなの口が開いたまま塞がらなかったのを覚えている。



 それもそのはず、私がなりたいと言ったのは小学校の先生だったから...彼の夢の。
 みんなには猛反対された。



『なんで、先生なの。せっかくこの大学でトップの成績なんだから』



『みんなが入りたくても入れないところに希美は入れるかもしれないんだよ』



『小学校の先生なんていつでもなれるじゃん。もっと夢をみようよ』と正面から反対されたが、私の心が揺らぐことは一切なかった。もちろん、大学の教授たちにも渋い顔をされたが...



 喧嘩とまではいかなかったが、少し友達たちとは気まずい雰囲気にはなってしまった。海のことを彼女らには話したことがなかった。話して哀れみの目で見られるのが嫌だったからかもしれない。



 しかし、いつまでもその空気でいることに耐えられなかった私は海のこと、そして私がどうして小学校の先生を目指すのかを話した。みんな泣いて私の話を聞きながら、『辛かったね』と私と同じ目線に立って話してくれたので、私まで高校を卒業して以来泣いていなかったのに、釣られて泣いてしまったのを思い出してしまう。



 その日から彼女らは私の夢を誰よりも応援してくれたおかげで、私はこうして海の夢だった小学校の先生になることができた。



 両親にも海が亡くなった後から『小学校の先生になる』と言っていたので、反対はされなかった。むしろ両親はそうなることを喜んでいた気もする。きっと海の夢を背負うと言った私が誇らしかったのだろう。
 昔を思い出しながら、車のエンジンをかける。この車は私の就職祝いに両親からプレゼントしてもらった黄色のラパン。右足でアクセルを踏み、車を走らせる。Bluetoothで車のスピーカーと携帯を接続して音楽をかける。



 もちろんかける音楽はモーツァルトの『レクイエム』。春の温かい風を車で切るかのように進んでいく。少し窓を開けると、隙間から桜の匂いが車に漂い始める。



 私はこの桜を一人で何度見たのだろうと想いに耽るが、それはこの先も同じに違いない。



 彼と見た桜はもっと生き生きと咲いていた気がする。



 十分ほど車を走らせると、実家が目の前に見えてくるので、慎重に駐車をして車から降りる。運転をしてしばらく経つが未だに駐車だけは苦手。



「ただいま〜」



「あら、おかえりなさい。やっぱり家に帰ってきたわね」



 皺は増えたけれど、まだまだ元気そうな母親を見ると少し安心してしまう。何歳になってもやはり私はこの人の子どもなんだなと実感する。



「うん、だって今日は命日だから・・・」



「そうね、もう八年だもんね。あっという間だったわね。海君も生きていたら、今頃希美と同じ小学校の先生になっていたのかしら・・・」



「どうだろうね。海が生きてたら、私は小学校の先生にはなってなかったかもしれないな・・・」



「そうかもしれないわね」



 二人の間に沈黙が訪れる。毎年この時期になると母も海のことを思い出してしまうのだろう。



 私の両親も海のことを実の息子のように可愛がっていた...それに将来は義理の息子になると勝手に張り切っていたのが懐かしい。



「歩いてお墓に行くから、駐車場に車置いて行くね」



「わかったわ。気を付けて行ってらっしゃい。今日は夕飯家で食べてく?」



「うん、食べてく」