昼休み。わたしは美里とお昼を食べてから、ひとりで教室を出た。

 どうしても教室にいると、みんなの感情がうるさい。がんばって耐えるけど、ときどき息苦しさに絞め殺されそうになったときは、ひとりで図書室に行くことにしている。三階の図書室なら、昼休みだろうと、ほとんど人がいない。わたしにとっての安息の地だ。

 静かに扉を開けると、カウンターに座っていた図書委員の女の子がちらりと目を向けてくる。軽く頭を下げて、本棚に向かった。

 読書が趣味なんて言うほど、優等生じゃない。でもとりあえず、人に囲まれているより、本に囲まれているほうがずっといい。すう、と息を吸う。古い紙の匂いが、鼻を通って肺に流れていく。教室のごちゃごちゃした空気を押し出して、静かな空気で身体を満たしていった。やっぱり図書室はいい。本はともかく、この空気は百点満点。

 話し声がして、なんとなく本棚横の机を見た。どきりとした。

 遠藤さんだ。

 ショートカットの遠藤さんが、小さく、でもたしかに笑っていた。遠藤さんの前にいるのは、穏やかな笑顔を浮かべた女のひと。司書の草本先生だった。

 遠藤さんは、笑うとえくぼができるみたい。かわいい顔だった。

 ――なんだ、笑える場所あるじゃん。

「あら、三糸さん。こんにちは」

 草本先生がわたしに気づいて、その笑顔を向けてきた。

「……あ、はい。こんにちは」

 遠藤さんが、わたしを見てびくっとする。瞬間、わたしに流れ込んでくるのは《恐怖》。わたしも遠藤さんと同じように、冷や汗をかいた。あわてて一礼して別の本棚に向かう。

 遠藤さん、草本先生と仲よさそうだったな。図書室の常連なのかな。だとしたら、ここに来にくくなっちゃった。でも草本先生、誰にでもすぐ話しかけにいくお節介な先生だし。もしかしたら、遠藤さんは今日はじめて図書室に来たのかも。

「……きまず」

 椅子に座って顔を伏せ、寝たふりをした。そうやって、どうにか昼休みの時間をつぶして、図書室を出て行こうとしたときだ。

「三糸さん」

 草本先生に呼び止められた。となりには、遠藤さんがいる。

「三糸さんって、遠藤さんと同じクラスでしょ? せっかくだし、いっしょに行きなよ」
「え」
「ほらほら、早く行かないと、遅刻しちゃうわよ」

 えええ、ちょっと待ってよ。抵抗しようとしても、わたしと遠藤さんはぐいぐいと先生に背中を押されて、図書室を追い出されてしまった。遠藤さんとふたり、廊下に立ち尽くす。気まずい。気まずいよ。草本先生のバカ。

「あー、えっと……行こっか」

 頬をかきながら、そう言うしかない。わたしは、めちゃくちゃな優等生なわけじゃない。でも、ちょっと優等生なのだ。先生に頼まれると、嫌とは言えない。

「……うん」

 遠藤さんは、先生と話していたときの笑顔をひっこめて、うつむいた。

 ふたりで廊下を歩く。いつのまにか七夕の笹竹は撤去されていた。

「……遠藤さんさ、願いごと書いた?」
「え?」
「七夕の」

 遠藤さんは首をふる。

「ううん、書いてない」
「……そっか」

 ちらりと窓の外に目をやれば、海が見える。その波間の輝きに意識を集中させた。星みたいだ。昼間の星は空で輝くのをやめて、海で光ってる。

 そういえば、銀河鉄道の夜って、どんな話だったっけ。なんかむずかしい話だった気はするんだけど、覚えてない。でも文章はところどころ、すっごくきれいなものがあって、「うわ、さすが宮沢」と思った気がする。宮沢賢治、銀河鉄道の夜以外知らんけど。

《怖い》

 流れ込んできた感情に、動かしていた足が、ぴくっと止まる。

「……三糸さん? どうかした?」

 遠藤さんが首をかしげる。ショートカットの髪が、さらりと首筋をなでた。

《怖い》

 その間も流れてくる、遠藤さんの恐怖。ああ、駄目だ。気持ち悪い。

「み、三糸さん? どうしたの……?」

 くらりと眩暈がして、壁にもたれかかった。わたしの顔を覗き込もうとする遠藤さんを片手であしらって、近づかないでと示す。無理だ、頭が痛い。ひとりにして。お願い――……。

「のどか」

 その声に、ゆっくり、振り返る。

 湊がいた。

 相変わらず、凪いだ水面みたいな雰囲気を背負っている。

「大丈夫?」

 湊が白い指で、とんとんっと自分の目もとを示す。

「俺を見て」

 すっと、息を吸うのが楽になる。湊の澄んだ瞳に、恐怖が吸い取られていくみたいに落ち着いていく。わたしは叫び出しそうだった感情を、こくん、と飲み込んだ。

「……ごめん、もう大丈夫。ありがと」
「そ。教室いこ。遠藤さんも」

 遠藤さんは不安そうな顔のまま、わたしたちの後ろをついてくる。やっぱり、湊の感情だけは、わからない。ほかのひとの感情は、うるさいほどに、流れてくるのに。