耳を澄ませば、波の音も聴こえそう。
教室の窓から外を眺める。住宅街の向こうで、夏の太陽に照らされた海が、白い波間を散らしていた。山の中腹にある校舎は、登校するときは息が切れて困るけど、見晴らしがいいのは加点ポイントだ。
《楽しみ》《期待》《緊張》《そわそわ》
教室の中にある、たくさんの感情がジャマくさい。
「はーい、じゃあ配役きめまーす」
海に集中していたわたしの意識は、その声に教室の中へと引きもどされた。黒板には「文化祭二年一組 影絵劇《銀河鉄道の夜》」と大きな字で書かれている。
――けっきょく、影絵になったんだ。
カフェとか、お化け屋敷とか色々案が出ていたけど、地味なものに落ち着いたらしい。
「ねえ、のどかはなにやりたい?」
前の席に座っていた美里が振り返って、あ、と口をとがらせる。彼女がぐいと身を乗り出せば、白いセーラー服に影が落ちた。
「のどかってば、ぼーっとしてる。ダメだよー、ちゃんと参加しないと」
「なに優等生ぶってんの、美里。キャラじゃないじゃん」
笑えば、美里もいたずらっぽい笑みを浮かべた。
「そだね、優等生はのどかのキャラだった。で、どうすんの?」
「裏方の仕事あるよね?」
「うん。影絵のための紙人形つくったり、脚本用意したり」
「じゃあ、紙人形づくりにしようかな」
わたしには表の仕事は無理だ。裏方でひっそり生きていたい。
「主役級のジョバンニとカンパネルラ、このふたつから決めるよー。劇って言っても影絵だから、声当てるだけでいいし。だれかやらない?」
黒板の前で進行する実行委員の子には申し訳ないけど、また窓の外を見る。わたしはべつに、筋金入りの優等生ってわけじゃない。話し合いをさぼって外の景色を見つめるくらいする。ざわざわとする教室。でもざわめくだけで、なかなか決まらないのは、予想どおり。立候補なんて、だれもするわけない。わたしも嫌だから、なるべく関わらないように、そっぽを向く。
「でも、よかったよね。文化祭中止にならなくて。一応は、だけど」
美里もわたしと同じで、話し合いには参加しないと決めたらしい。
――そういえば、そんな話あったっけ。
「放火魔ね。迷惑なことしてくれちゃって」
この小さな海沿いの町で、春から連続放火魔が出現していた。幸いボヤ騒ぎぐらいで済んでいるけれど、もう三件発生している。最初が小学校で、つぎ二件は中学校。そのせいで、うちの高校では、文化祭がなくなるかもしれないピンチに陥っていたのだ。
一応、いまのところは開催予定だけど、もともと二日間の開催予定が一日になるかもしれなかったり、はたまた中止になったりする可能性は、まだある。
「中止になったら、どうしてくれんのって感じ」
美里がそう言って、心底嫌そうにため息をつく。
「まあ、わたしたちにはどうしようもないよ。放火魔のご機嫌と、先生の判断次第だね」
「のどかってばクールだなあ」
あきれた美里が肩をすくめたとき、「はーい」と須川さんの声がした。
「ジョバンニ役、彩がいいんじゃないかなって思いまーす!」
あ、と教室中、みんなが察した顔になる。一気に全員の視線が、ショートカットの女子に集まった。
「……あ、あの、あたしは」
彩――遠藤彩さんが、ふるえた声でつぶやき、うつむいた。
「あー、いいんじゃない?」
「ね。彩、やりなよ」
須川さんに賛同するように、何人かの女子がうなずく。遠藤さんは、ますます視線を下におろしてしまう。
――嫌だろうな、遠藤さん。
たとえばここで、「やめなよ、困ってるじゃん」なんて言ったら、助けてあげられるだろうか。……まあ、無理なんだけどさ。海を見つめる。きらきら輝く水面に、すこしは気が紛れる気がした。
けっきょく、ジョバンニを遠藤さんが、カンパネルラを須川さんがやることになった。「わたしがカンパネルラやってあげるからさ、彩もやりなよ」と須川さんが押し切ったのだ。教室の上下関係ははっきりしている。須川さんは強い。だから仕方ない。
「あれ、のどか? 体調悪い?」
美里が、わたしの顔を覗き込んだ。
やば。どんな顔してたんだろう、わたし。
あわてて笑顔をはりつける。
「ううん、なんでもないよ」
「そ? あ、人形づくりグループに、のどかの名前も書いてきてあげるね」
「ほんと? ありがとー」
いつのまにか、脇役のキャストも決まって、裏方のメンバー決めに移っていたらしい。美里の丸っこい字で、黒板の「人形づくりグループ」と書かれた横に、三糸のどか、とわたしの名前が刻まれていく。わたしはもう一度、海を見つめた。
――感情が。
《楽しみ》《かわいそう》《ああ、愉しい!》《……怖い》
教室中の感情が、ぐるぐるとわたしを取り囲む。冷や汗が、たら、と頬を伝った。気持ち悪い。意識的に深い呼吸に切り替える。海だけに集中しようとした、そのとき。
「ねえ」
背中を叩かれた。ゆっくり振り返ると、一湊湊の視線とぶつかった。
「大丈夫?」
静かな声。すこし長めの黒髪からのぞく瞳は、声と同じで静かな色をしている。黒色だけど、澄んだ硝子のように冷たい。白い肌に、その瞳は目立つ。いつだって、ほぼ完ぺきな無表情。でも不思議と、無愛想じゃない。
「……うん、平気。ありがと」
彼を見ているうちに、汗はすうっと引いていった。わたしの心にも、静けさがもどってくる。
湊は何事もなかったように、瞳をすっと黒板に向けた。わたしも息を吸って、湊から目をそらす。教室の感情に呑まれないよう集中して、黒板の前からもどってきた美里に「ありがとう」と手をふった。
背後にいる彼の気配に、ほっとする。
一湊湊。
彼の感情だけ、わたしは、読むことができない。だからこそ、わたしに安息をもたらしてくれるひとだった。
一湊湊という男子は、その名前と容姿から、入学してすぐ有名になった。
なかなかに、すごい字面だな、とわたしも思った。きっと、親がとんでもなく海が好きだったんだろう。
でも本人は、海というより湖とか泉とか、そういうイメージがある。森の中にひっそりと存在していて、時折吹く風に小さく水面を揺らされる、そんな静けさ。にぎやかな男子の中に囲まれると、その静けさが際立つ。どうやったって、注目を集めてしまう男子だった。
しかも肌は白いしキメ細かいし、まつ毛長いし、瞳は澄んでるし……、とにかく、女子がうらやむ容姿なのだ。そりゃあ、有名にもなるってものだろう。
ただ、彼には残念なことに、美人な彼女がいる。女子たちは、ひそかにため息をつく日々を送るしかない。
「のどか。はい、短冊」
美里が廊下に設置されている長机から、細長い短冊を渡してくる。
「ありがと。毎年毎年よくやるよね。小学生みたい」
「ほんとだよねー。まあ、季節感あっていいんじゃない?」
「でも、どうせまた文化祭になったら、願いごと祭りやるんでしょ。あのー、なんだっけ、願いごとの木?」
玄関に模造紙でつくった木の枝をはって、そこに生徒の願いを込めた花のカードを付け足して満開にしよう、とそんな趣旨の催しが、文化祭の恒例行事。小学生か、ともう一度つっこみたい。
「いいじゃんか、願いごといっぱいできて。うわさだと、七夕も文化祭も、生徒会のお眼鏡にかなったお願いごとは、生徒会総出で叶えてくれるらしいよ」
「うちの生徒会にそんな権力ないでしょ」
「わっかんないよー? 実は持ってたり!」
「ないない」
二年生になって同じクラスになった美里とは、席が近いこともあってすぐ仲よくなった。おちゃらけているけど、やさしい子だ。
廊下には、笹竹が飾られている。もちろん造花。近づいてみると、ほこりを被っていて、汚れが目立つ。去年の七夕に使われてから、ずっと倉庫に保管されていたんだと思う。
この高校では、毎年七月になると笹竹を飾って、願いごとを吊るす。参加は自由。でも意外とみんなおもしろがっているみたい。わたしたちも、せっかくだしやっとくか、と立ち寄ったわけなんだけど、
「美里、なに書く?」
「恋愛成就とか? ○○君とつき合えますように! なーんて」
「全校生徒に好きなひとばれるじゃん。はずいって」
「こっちの名前書かなければ問題なし!」
騒ぎながら、けっきょく美里は『期末テスト、赤点回避!』と書いた。
「のどかは?」
「んー、どうしようかな」
もし願うとすれば――目立たずに生きられますように、なんだけど。そんなこと書けるわけもないから、無難に『文化祭、成功しますように』と書いた。
「うわ、さすがのどか。優等生」
「なにも書くことなかったから、適当に書いただけなんだけど」
肩をすくめれば、美里はニヤッと笑った。嫌な予感。
「えー、あるでしょ、書くこと」
「ないよ」
「あるって。のどかが恋愛成就書かなくてどうすんのよ!」
瞬間、ぽっと頬に熱が集まりそうなのを気合いで引っ込めて、笑顔で首をふる。
「恋愛? ないない! なんでそうなるの」
「だって、湊といい感じじゃん」
出された名前に、心臓が妙な動きをした。でも、我慢。
「湊もさ、のどかにだけはなーんかやさしいし。いけるんじゃない?」
「いけるって……、湊、彼女いるからね」
それに湊がわたしにやさしいのは、わたしの体調が悪くならないよう気づかってくれているだけだ。わたしが彼の前でだけ呼吸が楽になることを、伝えたことはない。だけど、きっと湊は察しているんだと思う。でもそんなことを知らない美里は、瞳を輝かせた。
「彼女いるなら、奪っちゃえばいいじゃん」
「ダメですー。わたし、そんな悪女にはなりませーん」
「いやいや、悪女上等でしょ。というかさ」
美里の口の端が、にっと持ちあがる。
「彼女いなかったら、狙ってたってこと?」
わたしは無言で、デコピンをお見舞いしてやった。
「さーて、今年はみんな、どんなお願いごとしてるのかなぁ」
「いたたぁ……もう! 逃げるんじゃない! 白状しなさいよー!」
女子高生、みんな恋愛話は大好物なんだ。しかもその話が一湊湊という男が絡んでいるのだから、なおさら盛り上がる。ぶうぶう言っている美里のことは無視させていただいて、わたしは短冊を見上げた。
『彼女をください、神さま!』
『学校に隕石がぶち当たりますように。授業中止!』
『受験成功しますように……! まじで……!』
『わたしを見つけてください』
ぴたっと、目が止まった。
わたしを、見つけてください?
「のどか? どうかした?」
「なんか……中二病だなと思って」
「どれどれ? おお、なんというか……マジっぽい感じ。メンヘラ臭やば」
きれいな字だった。癖はなくて、お手本みたいな字。でも書いてあることが中二病。なんだこれ。どういう意味?
「なんか、これは、アレだね……」
「うん。見なかったことにしよう」
「そうしよう」
わたしたちは顔を見合わせてから、あははと笑った。冗談まじりの口調の陰に気まずさをにじませながら、わたしたちは笹竹の前を去る。たぶん、美里もわたしも、同じことが頭をよぎった。
わたしは、彼女の筆跡は知らない。だけど、なんとなく、あの言葉を見たとき彼女の顔が浮かんだ。だから見ないふりをする。
教室の中はみんな平等、なわけがない。上下関係ははっきりしていて、強者は須川さんたち。じゃあわたしはと言えば、中間層だ。傍観者とも言う。強者に近づかず、怒らせなければ、何事もなく生活できるだろう、という立ち位置。
さて、それなら弱者は?
クラスの人間ならだれもがこう答える。
遠藤彩、と。
文化祭の劇で、ジョバンニ役を押しつけられた女の子。ショートカットで、運動が得意。一年生の体育祭のときは、選抜リレーのメンバーにも選ばれていた。でも、彼女が輝いていたのは、そのときまでだったと思う。
残念ながら、いまの彼女は、須川さんたちに喰われる側の人間だ。
昼休み。わたしは美里とお昼を食べてから、ひとりで教室を出た。
どうしても教室にいると、みんなの感情がうるさい。がんばって耐えるけど、ときどき息苦しさに絞め殺されそうになったときは、ひとりで図書室に行くことにしている。三階の図書室なら、昼休みだろうと、ほとんど人がいない。わたしにとっての安息の地だ。
静かに扉を開けると、カウンターに座っていた図書委員の女の子がちらりと目を向けてくる。軽く頭を下げて、本棚に向かった。
読書が趣味なんて言うほど、優等生じゃない。でもとりあえず、人に囲まれているより、本に囲まれているほうがずっといい。すう、と息を吸う。古い紙の匂いが、鼻を通って肺に流れていく。教室のごちゃごちゃした空気を押し出して、静かな空気で身体を満たしていった。やっぱり図書室はいい。本はともかく、この空気は百点満点。
話し声がして、なんとなく本棚横の机を見た。どきりとした。
遠藤さんだ。
ショートカットの遠藤さんが、小さく、でもたしかに笑っていた。遠藤さんの前にいるのは、穏やかな笑顔を浮かべた女のひと。司書の草本先生だった。
遠藤さんは、笑うとえくぼができるみたい。かわいい顔だった。
――なんだ、笑える場所あるじゃん。
「あら、三糸さん。こんにちは」
草本先生がわたしに気づいて、その笑顔を向けてきた。
「……あ、はい。こんにちは」
遠藤さんが、わたしを見てびくっとする。瞬間、わたしに流れ込んでくるのは《恐怖》。わたしも遠藤さんと同じように、冷や汗をかいた。あわてて一礼して別の本棚に向かう。
遠藤さん、草本先生と仲よさそうだったな。図書室の常連なのかな。だとしたら、ここに来にくくなっちゃった。でも草本先生、誰にでもすぐ話しかけにいくお節介な先生だし。もしかしたら、遠藤さんは今日はじめて図書室に来たのかも。
「……きまず」
椅子に座って顔を伏せ、寝たふりをした。そうやって、どうにか昼休みの時間をつぶして、図書室を出て行こうとしたときだ。
「三糸さん」
草本先生に呼び止められた。となりには、遠藤さんがいる。
「三糸さんって、遠藤さんと同じクラスでしょ? せっかくだし、いっしょに行きなよ」
「え」
「ほらほら、早く行かないと、遅刻しちゃうわよ」
えええ、ちょっと待ってよ。抵抗しようとしても、わたしと遠藤さんはぐいぐいと先生に背中を押されて、図書室を追い出されてしまった。遠藤さんとふたり、廊下に立ち尽くす。気まずい。気まずいよ。草本先生のバカ。
「あー、えっと……行こっか」
頬をかきながら、そう言うしかない。わたしは、めちゃくちゃな優等生なわけじゃない。でも、ちょっと優等生なのだ。先生に頼まれると、嫌とは言えない。
「……うん」
遠藤さんは、先生と話していたときの笑顔をひっこめて、うつむいた。
ふたりで廊下を歩く。いつのまにか七夕の笹竹は撤去されていた。
「……遠藤さんさ、願いごと書いた?」
「え?」
「七夕の」
遠藤さんは首をふる。
「ううん、書いてない」
「……そっか」
ちらりと窓の外に目をやれば、海が見える。その波間の輝きに意識を集中させた。星みたいだ。昼間の星は空で輝くのをやめて、海で光ってる。
そういえば、銀河鉄道の夜って、どんな話だったっけ。なんかむずかしい話だった気はするんだけど、覚えてない。でも文章はところどころ、すっごくきれいなものがあって、「うわ、さすが宮沢」と思った気がする。宮沢賢治、銀河鉄道の夜以外知らんけど。
《怖い》
流れ込んできた感情に、動かしていた足が、ぴくっと止まる。
「……三糸さん? どうかした?」
遠藤さんが首をかしげる。ショートカットの髪が、さらりと首筋をなでた。
《怖い》
その間も流れてくる、遠藤さんの恐怖。ああ、駄目だ。気持ち悪い。
「み、三糸さん? どうしたの……?」
くらりと眩暈がして、壁にもたれかかった。わたしの顔を覗き込もうとする遠藤さんを片手であしらって、近づかないでと示す。無理だ、頭が痛い。ひとりにして。お願い――……。
「のどか」
その声に、ゆっくり、振り返る。
湊がいた。
相変わらず、凪いだ水面みたいな雰囲気を背負っている。
「大丈夫?」
湊が白い指で、とんとんっと自分の目もとを示す。
「俺を見て」
すっと、息を吸うのが楽になる。湊の澄んだ瞳に、恐怖が吸い取られていくみたいに落ち着いていく。わたしは叫び出しそうだった感情を、こくん、と飲み込んだ。
「……ごめん、もう大丈夫。ありがと」
「そ。教室いこ。遠藤さんも」
遠藤さんは不安そうな顔のまま、わたしたちの後ろをついてくる。やっぱり、湊の感情だけは、わからない。ほかのひとの感情は、うるさいほどに、流れてくるのに。
湊と遠藤さんと歩きながら、わたしは海を眺めていた。とにかく遠藤さんにだけは、注意がいかないようにする。彼女の感情に呑み込まれないようにしなきゃ、危険だ。
――感情が、うるさい。
そう、感情が。
わたしの身体には、他人の感情がなだれ込んでくる。
《うれしい》《悲しい》《寂しい》《イライラする》《緊張する》
そんなだれかの感情が、まるで境界線なんて無視して、赤の他人のわたしを襲う。それはときに、ゆるやかな感情の波として。それはときに、恐ろしい津波のようにして。
最初はそれでも、この特異な体質を便利だと思った。だって、世界を生き抜くためには、他人の心を読むことが必要だから。
わたしたちはまわりに合わせて、人間関係をつくっていくしかない。一歩でも輪から外れてしまえば、弱者になる可能性がある。弱者。異端者。ぼっち。イタイやつ――。
なるべく世界に溶け込んで、波風立たせず、ひっそりと生きる。それが、わたしが考える処世術。だから、ひとの心を読めたら、きっと生きるのが楽になる。そう思った。
結果を言えば、簡単なことじゃなかった。
うれしいとか楽しいとか、そういう気持ちなら、まだいい。でも怒りや悲しみが唐突に、しかも激流のように流れ込んでくるときは、気持ち悪くて頭が痛くて息ができなくて、しまいには倒れそうになる。
たぶん、その感情の持ち主よりも、わたしのほうがしんどいんじゃないだろうか。自分の感情と、他人の感情が混ざり合って、反発して、どれが自分の感情だかわからなくなるんだ。わたしの身体はひとつしかない。他人の感情なんて、処理しきれるわけがないんだから。
遠藤さんは、危険だ。
先頭を歩く湊が、教室の扉を開けた。
「あ、おかえり、のどか。ってなんか、顔色悪くない?」
美里が、びっくりした顔で駆け寄ってくる。
「ううん、大丈夫。平気平気」
「そう? ほんとに?」
美里から流れてくる感情は、あたたかい。ほっとした。
「あの、三糸さん……」
控えめな声をかけてくるのは、遠藤さん。遠藤さんも、心配そうな顔。わたしは、にこりと笑みをつくろった。
「じゃあね」
須川さんたちに目をつけられないうちに、美里を連れて窓際の自分の席につく。遠藤さんがなにか言いたそうだったのは、気づかないふりで乗り切る。
お願い遠藤さん。近づかないでよ。
わたしは目立たずに生きていたいの。そっとしておいて。
放課後、教室で宿題を終わらせるころには、夕陽の橙が海の色を染めていた。海は青いなんて、うそだ。時間ごとに、色は移り変わっていく。
スクールバッグを肩にかけて廊下に出たわたしは、偶然にも司書の草本先生と出会った。偶然にも……というか、もしかしたら先生は、わたしに会いに来たのかもしれない。
「どう? 昼休みのあと、遠藤さん、ちゃんと教室行けた?」
世間話をいくつかしたあと、先生はそう言ったのだ。
もしかして、先生、遠藤さんに相談でもされたのかな? だったら、わたしに話しかけるんじゃなくて、須川さんたちを怒ってくれればいいのに。そっちのほうが、ぜったい効率いいよ。
「大丈夫でしたよ」
「そっかあ。うんうん、それならいいの」
なにがいいのか、よくわからない。
わたしたちクラスメイトには、なにもできないよ、先生。上下関係の図は、きっちり描かれているんだから。どうやったって、わたしにはクラスの状況を変えられない。もし変えたいなら、その図の外にいる先生たちに、がんばってもらわないと。
わたしはただ、自分の平穏な生活を守ることしか、考えられないんだから。
わたしは、背中の後ろで手を組み合わせる。ぎゅっと、手の甲を爪でつねった。目の前の現実から、肌にじわりじわりと走る痛みに、意識をそらす。
「ねえ、三糸さん」
「はい」
一度力を抜いてから、すぐとなりの肌を狙って爪を立てる。それでも、顔には笑顔をはりつける。だってわたし、ちょっと優等生って立ち位置だし。先生に反抗的な態度なんて取れない。
「遠藤さんと、仲よくしてあげてね」
え、と口から声がこぼれた。
仲よく?
「あ、えっと……」
仲よくしてあげて、とか、まるで小学生みたい。もうわたしたち、高校生ですけど。だれと仲よくするかくらい、自分で決めさせてよ。だけど、わたしの口から自然とこぼれるのは、「はい」って返事だけ。しかも笑顔つき。
だって、仕方ないじゃん。「嫌です」なんて言ったら、余計な波風が立つ。わたしは、穏やかに生きていたいんだ。ここでは、そう答える選択肢しか存在しない。わたしは一礼して、その場から早歩きで逃げ出した。
心臓が、いつもより速く動いている。嫌だ嫌だ嫌だ。これじゃ、むかしと同じだ。わたしは、ひっそりと生きていたいのに。
靴箱からローファーを取り出して、投げる。力任せに足を突っ込んで履くと、玄関を抜けた。グラウンドから野球部の声がする。熱血、努力。そんな暑苦しい感情から逃げるように、中庭に進む。見つけた姿に、やっと、すこし息が落ち着いた。
わたしに気づいたのか、振り向いた湊はカメラを構えたまま、静かな瞳を向けてくる。白のカッターシャツは無垢で涼しげ、その色にわたしの心も染められていく。やっほ、と私は片手をあげた。
「なに撮ってるの?」
「花」
湊は、人差し指で地面を示す。コンクリートのすみっこに、もさもさした葉と、白い花が繫茂していた。けっこうどこにでも咲いている雑草だ。
「ドクダミって言うんだって」
「へえ」
湊は、カメラのシャッターを切る。彼は写真部だから。
わたしは帰宅部。だって、やりたい部活なかったし。美里は吹奏楽部だ。毎日忙しそうに音楽室に向かっていく。だから放課後は、わたしひとりになることが多い。今日はそれが災いした。まさか草本先生に捕まるなんて。
――湊も、どっちかといえば帰宅部っぽいのに。
やりたいこと、なさそうだし。だって湊の感情は、なにもわからない。その澄んだ瞳でなにを見て、どう考えているのか、わたしにはさっぱりわからないんだ。
「湊は、なんで写真部入ったんだっけ」
長いまつ毛で目もとに影を落としながら、湊はカメラを見つめる。
「朝香さんがカメラ持ってて。やってみたら、って言われたから」
「朝香さん? だれ?」
「ハハオヤ」
パシャっと、またシャッターを切る、気持ちのいい音。カメラはさっぱりだけど、シャッター音は、けっこう好きだったりする。
「あと、ひとを見てるのが好きだから、とかかな」
「へえ、意外。湊って、他人とかどうでもよさそうなのに」
「そうでもないよ」
地面から目線を上げて、湊は校舎を見る。窓越しに、一階の職員室を出入りする先生の姿があった。湊は何気ない仕草でカメラを向ける。
「うわ、盗撮?」
「まさか。撮らないよ。見てるだけ」
それのなにが楽しいんだか、わからない。湊は、そこそこ不思議くんだ。でもまあ、湊が楽しいなら、いいか。わたしは笑って、鞄から財布を取り出した。すぐ近くにある自動販売機で、炭酸飲料を買う。ごとん、と重たい音が鳴って落ちてくるペットボトル。ぷしゅっとふたを開けたときの音も、けっこう好き。
喉を突き刺しながら通り抜けていく炭酸に、肩の力が抜けた。
カシャッ。
「えっ」
あわてて見ると、湊はわたしにカメラを向けていた。せっかく喉とお腹がひんやり気持ちよくなったのに、かっと顔に熱がこもる。
「うそうそ、いま、撮った?」
「いい飲みっぷりだったから」
「ちょっと、盗撮しないって言ったじゃん」
「じゃあ許可ちょうだい」
湊は小さく首をかしげる。長めの前髪が、瞳にかかる。
「だめ?」
一湊湊は、顔がいい。ぐっと、わたしは言葉に詰まった。ずるい、それはずるい。
「あああー、あのさ、わたし撮るより、空とか撮ったら?」
ぐいっと人差し指を空に向ける。夕陽がまぶしいほどに光っていた。夜に呑み込まれる前の最期のあがきみたいに、必死に輝いている。写真の題材としては、もってこいな気がした。すくなくとも、わたしよりはいい題材だ。
「撮らない。俺、夕焼け嫌いだし」
「そうなの?」
「世界が燃えてるみたいで、嫌い」
なんだ、それ。わからないけど、とりあえず笑顔を浮かべておく。世の中、笑っていれば、たいてい悪いようにはならない。
「あー、まあ、学園祭も、放火魔のせいでなくなるかもだしね。燃やされるのはわたしも困るなあ」
「学園祭楽しみなんだ?」
「授業なくなるし。楽だなあと思うよ」
「へえ」
花を切り取るシャッター音がつづく。それ以降、会話はなかった。わたしは気にしないし、湊もたぶん気にしてない。
帰る前に、もう少しだけ、湊といっしょにいたかった。ただ、それだけだった。でもそんな小さな願いも、わたしには大それたものなのかもしれない。
「湊くん、そろそろ部室もどってー。あ、のどかちゃん」
手をふって歩いてくる女子生徒に、わたしはぺこっと頭を下げた。
「こんにちは。柊木先輩」
「こんにちは。お話中だった? ごめんね。でも部活解散だけさせて。全員そろってからじゃないと、できないから」
申し訳なさそうに眉を下げて言う柊木先輩は、つややかな黒髪の美人さんだ。白いセーラー服に黒髪がなびくさまは、わたしも見とれてしまうくらいに美しい。それに、先輩はやさしい。わたしが男だったら、絶対好きになるし告白してる。
「わたしのことはお気になさらず。ただの部外者なので」
「そう?」
「はい。あともう帰りますし」
「そっか。気をつけて帰ってね。かわいい子は、不審者に狙われちゃう」
本当に心配そうに言ってくれる先輩に苦笑した。美人にそんなこと言われても、自分がみじめに思えるだけだから、やめてほしい。
「だれもわたしのことなんて狙いませんって。先輩こそ、お気をつけください。って、湊いるから大丈夫かな」
ふふっと笑顔をつくって、それではと背を向ける。ちらりと振り返れば、ふたりが部室に向かっていくのが見えた。
――手をつなぐとかは……、ないか。
柊木先輩は三年生で、写真部の部長。そして、一湊湊の恋人。とても美人さんだから、湊に片思いしている女子たちも、口出しすることはできない。反対に、柊木先輩のことを好きな男子たちも、「湊なら仕方ない」と諦めるしかないのだから、あのふたりはある意味で最強の布陣だった。
柊木先輩といっしょにいると、《好き》って感情が流れ込んでくる。もちろん、湊に対しての。
だけど湊はといえば、やっぱり感情が読めない。
読めないけれど、本人から聞いた。べつに、柊木先輩のことが好きなわけじゃないって。でも嫌いでもない。告白されたから、つきあってる。それだけ……ということらしい。湊の感情が読めたなら、それが本心かどうかわかるんだろうけど――。
スクールバッグの持ち手をぎゅっと握る。まあ、彼の本心がどうであったとしても。
わたしはただのクラスメイトで、柊木先輩は恋人。その事実は変わらない。
期末テストが近づいてくると、憂うつになる。でもそれを乗り切れば、夏休み。二学期に入れば、文化祭。それなら、テストもひと踏ん張りしてみるか、なんて思うわけで、どうにか生きている。
吹奏楽部の練習の音を聴きながら校門を抜けた。その音の中には、美里の奏でたクラリネットの音色もあるのかもしれないけれど、どれがどれだかわからない。
横断歩道を抜けると坂道があって、住宅街のある一角に出る。そこも抜けると駅。さらに進めば、海だ。
わたしは改札を通って、海を見渡せるホームに出た。ちょうど来ていた電車に、真っ白な制服を着た生徒たちが詰め込まれているのを眺めながら、イヤホンを耳につける。夕焼けに染まっていく海を見つめながら、音楽を流した。潮風がさわさわ髪を揺らす音と学生の笑い声があった世界は、すぐさま女性ボーカルの声に塗り替えられる。
本当は、みんなと同じ急行の電車に乗ればいい。その方が、わたしの家にはたった四駅でつく。でも、わたしはいつも普通列車に乗る。十三駅くらいを、ゆっくり揺られるのだ。
人混みは嫌い。感情に吞まれやすいから。
急行の電車が大勢の生徒を詰め込んで走っていくと、すこしして普通列車が走ってきた。余裕のある車内ですみの椅子に座って、空と海の境界線を眺める。数人の生徒たちが乗り込んできたけれど、さっきの比じゃない。
人混みは嫌い。でも、好き。世界に溶け込んでいると思えるから。
とくに電車は不思議な場所だ。ほかの場所だったらあり得ないくらいに他人との距離が近いのに、みんな他人を気にしない。そういうところにいると、わたしは透明になって世界に溶け込んでいると思える。
色なんてなくていい。わたしは、空気に溶けてさえいられれば、満足だ。消えたように存在していたい。
「あはは、やばーっ!」
「まじウケるんだけど」
イヤホン越しでも、声が聞こえた。目を向けると、須川さんたちだった。急行に乗ってくれればいいのに、せめてべつの車両に乗ってくれればいいのに、彼女たちはわたしのいる車両に乗り込んできた。
「あ、三糸さんだぁ」
わたしは微笑みをつくって、ぺこりと頭を下げる。
そっとスマホを操作して、音量を上げた。膝に乗せた鞄を抱えて、目を閉じる。このまま鞄だけじゃなく、膝も抱えてしまいたくなった。でも動かず、騒がず、空気に溶けることを選ぶ。
頭にちら、と遠藤さんの顔が浮かんだ。
――遠藤さんも、あんなことしなきゃよかったんだ。
もともと、いじめられていたのは遠藤さんじゃなかった。一年生のときのことだ。おとなしくて、ひととしゃべるのが苦手な女の子が、最初の弱者。まあ、そのときわたしは須川さんたちとはべつのクラスだったから、うわさで聞いただけなんだけど。
遠藤さんは、最初は須川さんのグループにいた。だけど、根底の部分で須川さんたちとは相いれなかったのかもしれない。
こういうの、やめようよ。遠藤さんは、そう言ったそうだ。こういうのっていうのは、もちろん、いじめのこと。須川さんたちは、そんな遠藤さんがおもしろくなかったんだろう。だんだんと、いじめの標的は遠藤さんに移っていった。
遠藤さんに助けられた子は、いま、べつのクラスになって、平然と学校生活を送っている。損をしたのは、遠藤さんだった。やっぱり、ああいうことには関わらないのが一番なんだろう。
「じゃね。また明日」
ちょうど一曲が終わったタイミングだったから、須川さんの声が耳に届いた。つい目を開けてしまって、電車をおりようとする須川さんと視線がぶつかる。わたしは笑って、小さく手をふった。笑顔でいれば、たいてい、うまくいく。
進路希望と書かれた紙に、ぴんとデコピンをする。いや、紙におでこはないんだから、この場合はなんと言えばいいんだろう。とにかく、わたしにとってはやっかいな紙だったから、攻撃せずにはいられなかった。
第一希望、第二希望、第三希望と書かれた、がらんと寂しい枠。言わずもがな、大学名を書く場所だ。ため息をついて、図書室のすみに設置された、大学のパンフレットコーナーに立ち尽くす。
一年生のときは、「入学したては大事な時期」。
二年生になると、「進路に向けて舵を切る大事な時期」。
きっと三年生になれば、「受験に向けた大事な時期」とでも言われるんだろう。
けっきょく、いつも大事な時期なんじゃん。先生の言うことは信用ならない。大事っていう言葉はここぞというときに使わないと、効果はないのに。先生はもうちょっと国語の勉強をすればいいと思う。単語の使い方を覚えましょう。
棚には色とりどりのパンフレットが並んでいる。どれも、ぴんとこない。
やりたいこと? とくにない。
看護だとか保育だとか、専門の学校に進む自分は想像できない。就職には有利かもしれないけど、その職場にいる自分の図なんてまったく描けないし。
文系、理系。まあ、文系……かな。ビジネス科だとか、国際交流科だとか、よくわからない単語が視界に入る。
「わかんないよな」
「うわぁっ」
とつぜん声がして、わたしは跳び上がった。はっと口を押さえて、まわりを見回す。幸い図書室で騒ぐことを怒るひとはいないようだった。
「湊、もう、びっくりした」
「ごめん」
となりに並んだ湊が、わたしと同じようにパンフレットを眺める。その黒い瞳には、どんな文字がとまるだろう。わたしはわずかな緊張とともに見守った。でも湊は天井を仰いだ。
「よくわからない」
思わず、ふっと噴き出してしまう。
「湊もか。まあ、そうだよね。未来のこととか、知るかって感じ。わたしはいまを生きるのに精いっぱいです」
「ん」
「湊は、精いっぱいって感じしないけど」
「そう?」
「いつも余裕ありそう」
湊は小首をかしげた。彼が動揺するところとか、見たことない。そんな湊に、いつも助けられている。どれだけ他人の感情に振り回されても、湊といると落ち着くのだから不思議だった。
「湊は、なに考えてるのかよくわからないんだよね」
そう言ったわたしを、湊はじっと見つめた。静かな瞳。数秒見つめあって、あ、とわたしはあわてる。
「褒めてるよ? ポーカーフェイスいいねってこと」
「そ」
いや待てわたし。彼女持ちの男に褒め言葉を送っていいのだろうか。大丈夫? わたし、嫌な女ムーブ取ってない? ううむ、とぐるぐる悩む。
ふいに湊が「あ、ごめん」と言って、パンフレットの前からどいた。それでわたしも気づく。振り返れば、遠藤さんが立っていた。彼女も進路希望の紙を手にしているから、わたしたちと同じ目的だろう。
わたしはさりげなく、湊のほうに移動した。遠藤さんから距離を取りたくて。あくまでさりげなく、したつもりだった。でも遠藤さんには、わたしの考えなんてお見通しらしい。ほんのわずかに、眉が下がった。
わたしは襲い来る《悲しみ》を予想して、息を吸った。
だけど不思議と、その波は来なかった。
遠藤さんは、ふいと視線をそらして、パンフレットを眺める。もともとスポーツが得意で、健康的な肌の色をしていたし、ほっそりと無駄な肉なんてない小顔がきれいだった遠藤さん。だけどいまは、弱々しい。体重が劇的に減っているわけでも、頬がこけているわけでもない。だけど、身体から発する雰囲気が、彼女の疲労を語っていた。
どれだけ見つめても、遠藤さんの感情は伝わってこない。おかしいな、と思う。前までは、こっちが倒れるくらいの感情だったのに。かといって、元気になった、と言えるような姿でもないし。むしろ、壊れてしまう一歩手前のような危うさを秘めているように思えた。
「遠藤さんさ」
湊がパンフレットを一枚抜き取りながら、何気なく言った。
「学校やめたら?」
わたしは思わず湊を見た。遠藤さんも、湊を見るためにゆっくりと顔の向きを変える。
たいして興味のない大学だったのか、湊はすこし眺めてからパンフレットを棚にもどした。それから遠藤さんを見て「あ」と小さく口を開ける。
「ごめん。無理して学校来る必要なくない、って意味」
あ、なんだ。そういうことか。急になにを言い出すんだ、湊も須川さんたちの側だったのか、とびっくりしたじゃないか。もう、心臓に悪い。
遠藤さんは、「ああ」と、ほとんどため息のような応答のあと、ぽつりと答える。
「でも、親に迷惑かけるし」
ろくにパンフレットを見ずに、遠藤さんは背を向けた。そのまま図書室を出ていってしまう。わたしたちは、そんな遠藤さんの背中を見つめた。
「大丈夫かな、遠藤さん」
湊がなにも表情を変えることなく、そう言った。
「無理してそう」
「……無理なんて」
わたしは、くちびるのはしを持ち上げた。
「無理なんて、ずっとしてるでしょ」
わたしには、なにもできないけどさ。でも、たしかに……、遠藤さんの様子は、いままでとすこしちがった気がした。
「大丈夫かな」
けっきょく、湊と同じ言葉を繰り返してしまう。
「あれ、湊くんとのどかちゃんじゃん。ふたり、ほんとに仲いいね」
遠藤さんと入れ替わるように、図書室に柊木先輩が入ってきた。片手に本を抱えている。いつも過疎が激しい図書室に、なぜだか今日はひとが集まる。
――ていうか、仲いいねって、嫌味だったりする……?
彼氏がほかの女子といっしょにいて、楽しいわけないよね。心配になって、わたしは柊木先輩の瞳をうかがう。
「ん? どうかした?」
嫌味なのかどうかまではわからない。だけど、柊木先輩からそよ風のように伝わってきた感情は《寂しさ》。ああ、これはこれで、よろしくない。
「ただのクラスメイトですよー。じゃ、わたしはこれで失礼します」
笑顔をつくって、わたしも図書室から逃げ出した。
もし、わたしと同じように、他人の感情がわかるひとがいたとしたら。いまのわたしの感情をどう表現するだろう。自分でも言い表すことができない、この感情を。
関わりたくないのに、つい遠藤さんを目で追ってしまう。無理してそう、と言った湊の声が、どうにも心の中に居着いていた。
「じゃ、グループごとに作業開始」
文化祭実行委員の子の号令で、わたしたちは動き出す。文化祭は夏休みが明けてから一か月後。九月に開催予定だ。夏休みの間もちょこちょことクラスで集まって準備することにはなっているけど、なるべくなら、休みの日まで学校に来たくはない。みんな考えは同じらしく、担任の先生からの「テスト対策の自習時間にするか、学園祭の準備にするか、どっちがいい?」という言葉に、多数決で学園祭準備が勝った。
自習したい派閥の子ももちろんいたけど、たいてい、そういう真面目な子は自己主張がすくない。文化祭の準備で、と決まったからといって反抗的な態度をとるクラスメイトはいなかった。
「のどかって、手先器用だっけ?」
「不器用って言ったら作業免除になる?」
「なりませーん」
くすくす笑いながら、わたしは美里といっしょに、人形づくりグループの数人で手を動かす。材料は、紙とテープと割りばし。スマホで「影絵 人形」と検索しながら、紙に下絵を書いていく。わたしはカンパネルラを任された。
主役はジョバンニという少年。でもそれと同じくらい出番のあるカンパネルラ。
「カンパネルラってさ、色素薄い系イケメンな気がするんだよね」
美里が楽しそうに言った。
「なにそれ」
「しない?」
「しないよ。あ、やば。わたし、絵へたかも」
これはとてもじゃないけど、見せられない。すぐさま消しゴムで消した。
「もう、のどかってば。カンパネルラはイケメンなんだから、シルエットからイケメン臭漂わせなきゃダメだよ。真剣につくりなさい!」
「イケメン臭ってなに」
ていうか主役はジョバンニでしょ。カンパネルラより、そっちに気合い入れた方がよくない? ちなみにジョバンニは美里がつくっているけど、あんまりイケメン臭は感じなかった。むずかしいぞ、イケメン臭。
人形づくりグループは、けっこう穏やかに作業が進んでいく。
「あたし、演劇部の子から発声練習教えてもらったんだよね」
須川さんの声がした。ジョバンニ役の遠藤さんと、カンパネルラ役の須川さん。脇役のキャストたちも、須川さん寄りの派手めな子で固められていた。
須川さんが声をやるんじゃ、カンパネルラも色素薄い系にはならないかもしれない。ぎらぎらして発光する系イケメンになってしまう。そんなぎらぎら系に囲まれて、遠藤さんは大丈夫だろうか。
「ほら、彩、お手本でやってみせてよ」
「……あ、あたし……?」
「だって主役じゃん。ほらほら」
急き立てられる遠藤さん。人形づくりグループのほかの子たちも声には気づいているはずだけど、我関せずで自分たちの会話をつづけながら作業している。
《同情》《愉しい》《気まずい》《愉しい》
蛇のように、いろんな感情が身体をなめるように這っていく。下書きのためのシャープペンシルを置いて、ため息をついた。見てはいけないと思うのに、ちらりと遠藤さんを見てしまう。目が合った。
だけど遠藤さんの感情は、とくに伝わってこなかった。
わたしは一度ゆっくりとまばたきして、窓の外に視線を移す。空の青と、海の青が交差する場所を見つめた。雲がひとつもない、いい天気だ。空と海の青は同じじゃない。微妙にちがう色合いをしている。
青いな。うん、青い。
遠藤さんも、窓の外を見たのかもしれない。
《ああ、青い》
そんな声が聞こえた気がした。わたしに伝わるのは、いつも感情と呼ばれるような、あいまいなものばかり。でもときどき、まるでわたしの頭の中でささやかれているみたいに、そのひとの声まで聞こえてくることがある。
《青い。青い。青い。――つらい》
ぴくりと、わたしの肩がふるえた。
「ご、ごめんね。ちょっと、お手洗い……」
遠藤さんが席を立つ。須川さんたちはあからさまに顔を歪めたけれど、「すぐもどってきてよ」と催促するだけにとどまった。遠藤さんのか細い背中が、廊下に消えていく。
心臓が、どくん、と嫌な音を立てる。
――どれだけ自分が苦しんだって、世界は変わらない。青い空は美しい。漫画みたいに、自分がつらいからって、空もいっしょに泣いてくれるわけない。世界にひとりぼっち。こんなにつらいのに、だれもわかってくれない。空は青い。海も青い。驚くほどに、きれいな青。あたしは、こんなにつらいのに――……。
「のどか?」
ガタン、と立ち上がったわたしに、美里が不審を浮かべる。
遠藤さんの感情が、べっとりと頭にはりついていた。
「のどか? ちょっと大丈夫?」
「……ごめん、お腹痛いかも」
「え、まじ?」
「すこし抜けるね」
わたしはあいまいに笑って、教室を出た。しっかりと扉を閉めてから、遠藤さんの姿を探す。