「あ、三糸さんだー、ねえねえ、湊くんとつきあってたわけ?」
スマホを見つめて扉の前に立っていたわたしに、後ろから須川さんの声がかかった。ゆっくり振り向く。
スマホには、わたしの頬に手を当てる湊の姿。昨日のわたしたち。いつのまに撮られたんだろう。まったく気づかなかった。
他のクラスメイトも来はじめたから、わたしは扉を開けて中に入る。どうにか笑顔をはりつけた。
「須川さんごめんね。昨日、急に体調悪くなっちゃって。湊は、わたしの看病してくれただけだよ」
「えー、でも、距離感近くない?」
須川さんは、愉しそうだ。ちろちろと舌を出す蛇に睨まれたような心地がして、背中に冷や汗が伝う。それでも、他のクラスメイトにも聞こえるようにわたしは否定の声を出す。
「ふつうだよ。つきあってないし」
文化祭準備のために、全員参加することになったメッセージアプリのグループ。だれも返信はしない。だけど既読だけがついていく。着々と増えていく既読の人数に胸の底が冷えていく。いまクラスにいるみんなも、居心地悪そうにわたしたちに視線を投げていた。
須川さんの《愉悦》。みんなの、混ざり合って、よくわからなくなった感情たち。
気持ち悪い。逃げ出したい。窓の外を見る。でもすぐ「三糸さん」と呼ばれて、須川さんを見るしかなくなる。どうにか口角を持ち上げた。
「湊くんとつきあうとか、やるじゃん」
「だから、ちがうってば。だいたい、湊は彼女いるし」
「あー、そうだったねえ。え、じゃあ二股ってこと? 三糸さん、優等生の顔して、けっこうえぐいね」
ちがうんだって。でもその言葉が出なくて、代わりにこぶしを握る。
――大丈夫。須川さんだって、そんなことわかってる。わかってて、わたしをからかってるだけ。みんなだって、湊もわたしもそんなことしないって知ってる。
耐えればいいだけだ。
この前みたいにはなりたくなくて、意識して呼吸を繰り返す。笑顔を浮かべながら、話を切り上げるタイミングを見計らおうとする。でも、感情の渦のさなかに放り出されて、それどころじゃなかった。ただひたすら倒れないようにすることだけで、精いっぱいだ。
「湊くんも、かわいそうだよね」
なにがよ。こんなネタに巻き込まれたら、そりゃあ、かわいそうだけどさ。
「湊くん、二股なんてしたくないでしょ。三糸さんにたぶらかされちゃったんだよねー、きっと」
湊をたぶらかせるほど、わたしのこといい女だと思ってくれてるんですか。どうもありがとう。
後ろに回した左の手の甲に、爪を押し当てる。ぎゅっとつねって、その痛みに意識を集中させる。痛い。ふるえる右手の爪を、さらに押し当てる。どくどくと身体全体が心臓になったみたいに脈動している。
「でも三糸さん、湊くんにはやめてあげたほうがいいんじゃない? だって湊くんさ、トラウマあるでしょ。そういうの」
痛い。感情も、手の甲も。痛い。でも、聞き逃すことができない異様な単語があって、わたしの意識は須川さんに向いた。
トラウマって、なに。
わたしが反応したことが愉快なのか、須川さんの口角が持ち上がる。
「だってさ、湊くん、それでむかし、心中騒ぎあったんだもん。二股なんて、かわいそうだよ、三糸さん」
――え? 心中?
つぎつぎ出てくる不穏な単語に、目を丸めた。
それと同時に、「ねえ、ちょっと」と須川さんといつもいっしょにいる女子が、須川さんを小突いた。須川さんは扉のほうを見て、「あ」とこぼす。
「み、湊くん。おはよー、いつからいたの?」
湊がいた。でも、いつもの湊じゃなかった。かすかに目を見開いた顔。湊の無表情が崩れるのは、はじめて見た。
須川さんも、美形な彼をいじめる気はなくて、わたしだけをからかいたかったんだろう。ぴりりと彼女の緊張が走って、わたしの肌を刺した。その感情が痛くて、わたしは無意識に、湊に助けを求めたんだと思う。知らず知らず、湊の瞳を見ていた。
その瞬間だった。
わたしは、その場に崩れ落ちていた。理解する暇もなく、身体がガクガクとふるえはじめる。視界が明滅して、意識が飛びそうになった。口を手でおおって、突然の恐怖に耐える。……なに、これ。
意味がわからなかった。わからなかったけれど、なにか、得体の知れない巨大な感情に触れてしまったことだけは、たしかだった。こんな感情は、駄目だ。こんなの、わたしが死んでしまう――……。
「え、あ、ちょっと、湊くん……⁉」
ほとんど白一色に染まりかけた世界で、湊がくるりと背を向けて去っていくのが、かろうじて見えた。
「のどか……! のどか、大丈夫⁉」
つづけて聞こえる、彩の声。ぐいと腕を引かれる。混沌に満ちた教室から、わたしは連れ出された。ほとんど彩にもたれかかるような形で、廊下を進み、近くに感じるのは彩の《心配》だけになる。
「のどか、のどか?」
「ご、めん……!」
わたしの瞳から、狂ったように涙がぼたぼたと落ちた。廊下にうずくまり、肩をふるわせる。自分では止められない。だって、どうして泣いているのか、わたし自身よくわからなかったから。ぜんぜん、理解ができなくて、困惑だけが募っていく。
彩がわたしの背中に手を当てた。
「みなと、は? どこ行ったの……?」
「わからない。……あたし、ここにいても大丈夫?」
不安そうな彩にうなずいた。
どうにか呼吸をつづけるわたしに、彩は根気よくつきあってくれた。
「クラスのみんなの感情が、駄目だった……?」
ようやく落ち着いたわたしに、彩が問う。
たしかに、それもあった。須川さんも、ほかのクラスのみんなも、全部の感情が混ざり合って、身体が八つ裂きにされるかと思った。だけど、そうじゃない。焼けるような喉から、声を絞り出す。
「湊が」
「湊くん?」
はじめて、湊から感情が伝わってきたんだ。でも、とても言葉にはできないものだった。どう表現していいのか、わからない。とにかく強くて、暗くて、濁流のような気持ちが、あの虚無の瞳の向こうから押し寄せてきた。
あれは、なんだったの。だって湊に感情がなくて怖いって、つい昨日思ったばかりだったのに。どうして、突然、こんな。湊のことが、わからない。
「湊は、どこ」
「さあ……。玄関で会って、教室まで湊くんといっしょに行ったんだよ、あたし。でも須川さんの声が聞こえて、それで湊くん、あたしには見向きもしないで行っちゃったから……」
彩も不安そうにまわりを見渡す。でもそこに湊はいない。
けっきょく、その日の文化祭準備に、わたしは参加できなかった。彩といっしょに図書室で過ごした。もしかしたら湊が来るかもしれないと思いながら。
わたしたちが図書室に入ったすこしあと、美里が駆け込んできた。メッセージアプリの写真に気づいたのと、クラスの子からわたしが倒れたことを聞いて、部活を放り出して来てくれたようだった。
ふたりの《心配》に包まれて、わたしはどうにか時間をやり過ごす。
だけど湊は姿を見せなかった。
スマホを見つめて扉の前に立っていたわたしに、後ろから須川さんの声がかかった。ゆっくり振り向く。
スマホには、わたしの頬に手を当てる湊の姿。昨日のわたしたち。いつのまに撮られたんだろう。まったく気づかなかった。
他のクラスメイトも来はじめたから、わたしは扉を開けて中に入る。どうにか笑顔をはりつけた。
「須川さんごめんね。昨日、急に体調悪くなっちゃって。湊は、わたしの看病してくれただけだよ」
「えー、でも、距離感近くない?」
須川さんは、愉しそうだ。ちろちろと舌を出す蛇に睨まれたような心地がして、背中に冷や汗が伝う。それでも、他のクラスメイトにも聞こえるようにわたしは否定の声を出す。
「ふつうだよ。つきあってないし」
文化祭準備のために、全員参加することになったメッセージアプリのグループ。だれも返信はしない。だけど既読だけがついていく。着々と増えていく既読の人数に胸の底が冷えていく。いまクラスにいるみんなも、居心地悪そうにわたしたちに視線を投げていた。
須川さんの《愉悦》。みんなの、混ざり合って、よくわからなくなった感情たち。
気持ち悪い。逃げ出したい。窓の外を見る。でもすぐ「三糸さん」と呼ばれて、須川さんを見るしかなくなる。どうにか口角を持ち上げた。
「湊くんとつきあうとか、やるじゃん」
「だから、ちがうってば。だいたい、湊は彼女いるし」
「あー、そうだったねえ。え、じゃあ二股ってこと? 三糸さん、優等生の顔して、けっこうえぐいね」
ちがうんだって。でもその言葉が出なくて、代わりにこぶしを握る。
――大丈夫。須川さんだって、そんなことわかってる。わかってて、わたしをからかってるだけ。みんなだって、湊もわたしもそんなことしないって知ってる。
耐えればいいだけだ。
この前みたいにはなりたくなくて、意識して呼吸を繰り返す。笑顔を浮かべながら、話を切り上げるタイミングを見計らおうとする。でも、感情の渦のさなかに放り出されて、それどころじゃなかった。ただひたすら倒れないようにすることだけで、精いっぱいだ。
「湊くんも、かわいそうだよね」
なにがよ。こんなネタに巻き込まれたら、そりゃあ、かわいそうだけどさ。
「湊くん、二股なんてしたくないでしょ。三糸さんにたぶらかされちゃったんだよねー、きっと」
湊をたぶらかせるほど、わたしのこといい女だと思ってくれてるんですか。どうもありがとう。
後ろに回した左の手の甲に、爪を押し当てる。ぎゅっとつねって、その痛みに意識を集中させる。痛い。ふるえる右手の爪を、さらに押し当てる。どくどくと身体全体が心臓になったみたいに脈動している。
「でも三糸さん、湊くんにはやめてあげたほうがいいんじゃない? だって湊くんさ、トラウマあるでしょ。そういうの」
痛い。感情も、手の甲も。痛い。でも、聞き逃すことができない異様な単語があって、わたしの意識は須川さんに向いた。
トラウマって、なに。
わたしが反応したことが愉快なのか、須川さんの口角が持ち上がる。
「だってさ、湊くん、それでむかし、心中騒ぎあったんだもん。二股なんて、かわいそうだよ、三糸さん」
――え? 心中?
つぎつぎ出てくる不穏な単語に、目を丸めた。
それと同時に、「ねえ、ちょっと」と須川さんといつもいっしょにいる女子が、須川さんを小突いた。須川さんは扉のほうを見て、「あ」とこぼす。
「み、湊くん。おはよー、いつからいたの?」
湊がいた。でも、いつもの湊じゃなかった。かすかに目を見開いた顔。湊の無表情が崩れるのは、はじめて見た。
須川さんも、美形な彼をいじめる気はなくて、わたしだけをからかいたかったんだろう。ぴりりと彼女の緊張が走って、わたしの肌を刺した。その感情が痛くて、わたしは無意識に、湊に助けを求めたんだと思う。知らず知らず、湊の瞳を見ていた。
その瞬間だった。
わたしは、その場に崩れ落ちていた。理解する暇もなく、身体がガクガクとふるえはじめる。視界が明滅して、意識が飛びそうになった。口を手でおおって、突然の恐怖に耐える。……なに、これ。
意味がわからなかった。わからなかったけれど、なにか、得体の知れない巨大な感情に触れてしまったことだけは、たしかだった。こんな感情は、駄目だ。こんなの、わたしが死んでしまう――……。
「え、あ、ちょっと、湊くん……⁉」
ほとんど白一色に染まりかけた世界で、湊がくるりと背を向けて去っていくのが、かろうじて見えた。
「のどか……! のどか、大丈夫⁉」
つづけて聞こえる、彩の声。ぐいと腕を引かれる。混沌に満ちた教室から、わたしは連れ出された。ほとんど彩にもたれかかるような形で、廊下を進み、近くに感じるのは彩の《心配》だけになる。
「のどか、のどか?」
「ご、めん……!」
わたしの瞳から、狂ったように涙がぼたぼたと落ちた。廊下にうずくまり、肩をふるわせる。自分では止められない。だって、どうして泣いているのか、わたし自身よくわからなかったから。ぜんぜん、理解ができなくて、困惑だけが募っていく。
彩がわたしの背中に手を当てた。
「みなと、は? どこ行ったの……?」
「わからない。……あたし、ここにいても大丈夫?」
不安そうな彩にうなずいた。
どうにか呼吸をつづけるわたしに、彩は根気よくつきあってくれた。
「クラスのみんなの感情が、駄目だった……?」
ようやく落ち着いたわたしに、彩が問う。
たしかに、それもあった。須川さんも、ほかのクラスのみんなも、全部の感情が混ざり合って、身体が八つ裂きにされるかと思った。だけど、そうじゃない。焼けるような喉から、声を絞り出す。
「湊が」
「湊くん?」
はじめて、湊から感情が伝わってきたんだ。でも、とても言葉にはできないものだった。どう表現していいのか、わからない。とにかく強くて、暗くて、濁流のような気持ちが、あの虚無の瞳の向こうから押し寄せてきた。
あれは、なんだったの。だって湊に感情がなくて怖いって、つい昨日思ったばかりだったのに。どうして、突然、こんな。湊のことが、わからない。
「湊は、どこ」
「さあ……。玄関で会って、教室まで湊くんといっしょに行ったんだよ、あたし。でも須川さんの声が聞こえて、それで湊くん、あたしには見向きもしないで行っちゃったから……」
彩も不安そうにまわりを見渡す。でもそこに湊はいない。
けっきょく、その日の文化祭準備に、わたしは参加できなかった。彩といっしょに図書室で過ごした。もしかしたら湊が来るかもしれないと思いながら。
わたしたちが図書室に入ったすこしあと、美里が駆け込んできた。メッセージアプリの写真に気づいたのと、クラスの子からわたしが倒れたことを聞いて、部活を放り出して来てくれたようだった。
ふたりの《心配》に包まれて、わたしはどうにか時間をやり過ごす。
だけど湊は姿を見せなかった。