その日、わたしは図書室にいた。彩と湊もいっしょだ。今日は珍しく文化祭の準備に湊も参加していて、練習が終わってからそのまま図書室に移動した。吹奏楽部の練習が終わり次第、美里も合流する予定だ。
どうせ図書室にはわたしたち以外来ないから、司書室ではなく、閲覧席の机を囲っている。草本先生は「ちょっとお昼食べてくるから、ごゆっくりー」と出ていった。ここには正真正銘、わたしたちしかいないことになる。それでも、図書室という場所だからか、わたしたちは小声になっていた。
「彩の声はきれいだから、銀河鉄道のイメージに合うね」
「そ、そうかな……?」
頬を赤くした彩は、うつむいて、パラパラと台本をめくった。そんな姿もかわいらしくて、わたしは頬杖をつきながら笑みを浮かべる。
ダメだ、どんどん彩を好きになる自分がいる。
この前、美里とないしょの恋愛話をしたとき、去り際に「わたしが部活に勤しんでいる間に、のどかが彩と浮気してるの、つらいんだけど!」と思い出したように叫ばれた。美里も彩も、どっちも大事な友だちだ。浮気とかじゃない、っていうか、いつわたしは美里とつきあったのよ。
口をとがらせていた美里を思い出して、くすくすと笑えてくる。
まあ、そんなこともあったから、今日は美里が来るのを待っているわけなんだけど。
「のどかも、キャスト陣だったら、もっと楽しかったと思うのにな」
「わたしには無理だよ。それを言うなら、湊のほうが合ってるんじゃない?」
「ん?」
湊は首をかしげた。
「ああ。湊くん、いい声だから」
「ね。カンパネルラとか似合いそうじゃん。美里が言うには、カンパネルラは色素薄い系イケメンらしいよ」
わかるかも、と彩が笑った。
開けた窓から風が吹き込んで、白いカーテンをふわりと膨らませる。カーテンのすき間から、海のきらめきが見えた。その輝きとともに、吹奏楽部の練習の音が入り込む。最近はやりの、女性ボーカルの曲だった。さわやかなその旋律を美里が何度も口ずさんでいるものだから、わたしも鼻歌を歌うときに無意識に選んでしまうようになったくらい。きっと文化祭のステージ発表で披露するんだろう。
頬杖をついたまま、その音色に耳を澄ませる。
窓のない司書室より、ここのほうが気持ちいい。三階にあるからか、図書室は地上にいるより澄んだ空気が入ってくるような気がする。
「あたし、ジュース買ってくるね」
彩が立ち上がった。草本先生から「熱中症怖いから、図書室でも水分とってよし。ただし絶対こぼさないこと」と言われているから、ジュースの持ち込みも問題ない。彩が扉の向こうに消えていくと、湊が彩の台本を手に取った。
「色素薄い系イケメンって、なに」
「透明感あって、儚いって感じかな」
「へえ。カンパネルラ死ぬもんね。たしかに儚いか」
どきり、とした。
死、というものが、わたしの心に傷痕を残しているらしいことは、わたし自身うすうす感じていた。もう彩は大丈夫だと思うけど……それでもひゅっと息が詰まってしまう。だから、わたしはあえて明るい声で笑った。
「色素薄い系は、そういうんじゃないよ。なんていうか、短命っていうより、こう、精神的かつ見た目の儚さ? みたいな感じ」
「なにそれ、むずかしい」
「そういう概念なんだよ」
「概念ね」
台本をめくるために伏せた湊の目に、前髪がかかる。すっと通った鼻梁を、わたしは見つめた。湊がページをめくるたびに、かさりと紙のこすれる小さな音がする。
いつのまにか、吹奏楽部の音は止まっていた。運動系の部活も休憩に入ったのか、声がしない。紙をめくる、かわいた音だけがする。
――きれいな顔。
いまこの瞬間は、世界にわたしと湊だけしかいないような気分になれる。この時間がずっとつづけばいいのに。でもそんな魔法のような願いが叶わないことはわかっているから、完成されたこの短いひとときを、わたしは身体中で感じることに意識を注いだ。
まだまだ「オトモダチ」だと、わたしの心は思ってくれないらしい。でも明日はそうなっているかもしれないから、いまだけは、この感情も大切にしておきたいと思う。
……なんて、こんな甘い考えだと、いつまで経っても変化は起きないかもしれない。まずい。
「カンパネルラって、友だちをかばって死ぬよね」
湊が台本を見つめたまま言った。わたしはうなずく。
ジョバンニとカンパネルラ、ふたりの少年が鉄道に乗って、不思議な銀河の旅をする物語。でも旅から帰ってきたのは、ジョバンニひとり。ジョバンニは家に帰る途中、川に落ちた友だちを助けたカンパネルラが、行方知れずになっていることを知って、終幕。美しさのなかに、死のもの悲しさが漂う、そんなお話だった。
「俺とカンパネルラは、似てないよ。俺は、だれかをかばって死ぬような、できた人間じゃないし」
「え?」
「そういう死に方、俺はできないと思う」
また、ページをめくる音。
わたしは湊を見つめた。湊はまだ、台本を眺めている。
彼はなにが言いたいんだろう。こういうときに感情が読めたらいいのに、湊のことはなにもわからない。これって、ふつうの世間話? でも、死ぬとかどうとか、あんまり、冗談でもしないでほしい。
「べつに、かばって死ぬのが正義ってわけじゃないでしょ。だいたい、溺れたひとを助けるために水に入っちゃダメって、よく言うじゃん」
わたしは、湊の様子をうかがいながら言う。
「溺れてるひとって、助かろうとしてめちゃくちゃ暴れるから、助けに行くのは危険らしいよ。って考えると、銀河鉄道、ちゃんとしてるね。救命活動のダメな例」
自分で言っておきながら、せっかくの名作も台無しな表現だな、と苦笑する。
湊の目は伏せられたまま。まつ毛が、影を落としていた。
――最近の湊は、へんだ。
この前、須川さんを中庭で見かけたときから、様子がおかしい。表情は変わらない、感情もあいかわらず読めない。じゃあなにがおかしいのって言われたら、わからない。だけど、へん。
須川さん、あのときなんて言ってたっけ。放火魔が湊かもしれない――だったかな。
なんでそんな話になったんだろう。湊はそんなことしないでしょ。でも火のない所に煙は立たない、かもしれない。
「ねえ、湊」
「ん?」
口を開こうととして……、やめた。ゆるゆると首をふる。
「なんでもない」
「そ」
わたしは、その一歩を踏みこめない。
たとえばわたしが、湊の恋人であったなら、ちがっただろうか。埋まらない距離を埋めるために、一歩を前に踏み出せた? 彼に指を伸ばすことができた?
――いいな、柊木先輩。
先輩なら、戸惑わずに、それができてしまうんだろう。わたしはこの距離から動けない。ここから見ていることしかできない。
「なに?」
湊が目線をあげた。澄んだ瞳とぶつかる。瞬間、思ってしまう。
――好き。
わたしは、湊が好き。
そう言えたら、きっと楽だった。
「ううん、なんでもないよ」
でもわたしは微笑んで、窓の外を見つめることしかできない。夏の太陽を浴びた海は、あちこちで宝石のような光を散らしている。きれいだ。
彩、はやく帰ってこないかな。
自分の気持ちに、だれか、ブレーキをかけてくれないだろうか。
わかってるんだよ。だって湊には柊木先輩がいる。わたしなんかが出る幕じゃない。ずっとずっとわかってる。それなのに、自分ひとりじゃ、どうしようもないんだ。好きって、気持ちが、あふれそうになる。わたしみたいな体質のひとがいたら、きっとすぐにばれてしまうくらい、感情があふれてしまうんだ。
どうしよう。わたしは、どうすればいいのかな。
ぜんぜん大丈夫じゃないよ、美里。
「のどか」
呼ばれて、わたしは海を見つめたまま、のんきに聞こえるような返事を、必死の思いで返す。
「んー?」
波の音を聴こうとしていたわたしの耳に、するりとすべり込む、湊の声。
「別れたほうがいい? 先輩と」
わたしは、なにを言われたのか理解するまでに数秒必要だった。ゆっくりと、首をもとの位置に戻す。そんな動作にすら、数秒かかったような気がする。
「え?」
「のどかが言うなら、別れるけど」
別れるって……、柊木先輩と? わたしが言うなら? なに、それ。
一瞬、甘い考えがよぎる。わたしのために、そう言ってくれているのか、と。
――でも、たぶん、ちがう。そうじゃない。
なぜだか、わたしの胸には不安が押し寄せていた。なぜなのかは、わからない。だけどこれは、あまりよくないことだと思えた。一度ぐっとくちびるをかんでから、不安の理由を探るためにも口を開く。
「湊は……、わたしが望むから、別れるの?」
「ん。まあ、あとは、先輩もそう思ってそうだし」
先輩が? あんなに湊のことを好きだと思ってるのに?
顔をしかめたわたしに、湊はいつもと同じ顔で、なんでもないように言う。
「別れたほうがいいのかも、って先輩、最近考えてるみたいだから」
「みたいって……、そう言われたわけじゃないんだよね?」
「そう。俺がそう思っただけ。でも俺、そういうのよく当たるから」
――湊くんは、相手がしてほしいことしか提案しないの。
先輩の言葉を思い出した。湊は、わたしたちの望むことをしてくれる。そうだとしたら、先輩は本当にそう思っているの? なんで?
問いが頭の中をぐるぐると回る。
ていうか、待ってよ。わたしが、別れてほしいから。先輩が、そう思っているから。だから湊は、先輩と別れるって……?
段々と、あいまいだった不安の姿が形になって現れてきた。わかってしまったからこそ、不安はどんどん大きくなっていく。
「……湊」
わたしは、そっと口を開いて言葉を押し出す。
「そこには、湊の気持ちって、あるの?」
「俺の?」
湊はとても不思議そうな顔をした。
告白されたからつきあって。願われたから別れる。そこに、湊の意志がないように思えた。そうして、わたしは、うすら寒さを感じていた。湊の感情が、わからない。どんなひとからでも、わたしは感情のほとばしりを感じることができた。それなのに、湊は一度だって、それがない。助かるなあ、と思っていたその現象が、急に薄暗いものに思えてきた。
こくん、と緊張を呑み込む。
「湊は、どうしたいの? 先輩と別れたいの?」
湊はなにも言わずに、わたしを見つめた。静かな、なにもない瞳。それから、わずかに首をかしげてみせる。
「ごめん、読み間違えた? 相手の望み、はずしたことって、あんまりないんだけど」
「……そうじゃなくて」
わたしはこぶしを握って、湊の瞳をじっと見つめた。そこに感情を見つけたくて。でも、駄目なんだ。いつもみたいに感情なんて、伝わってこない。
ううん。伝わってこない、わけじゃない……?
それに気づいたとたん、ぞくりと、足もとから悪寒がのぼってきた。いや、そんなはず……と否定したいのに、できないことが、怖い。
「――湊、さ」
「うん」
「わたしがいま、先輩と別れて、わたしとつきあってって言ったら、どうするの」
「先輩もそれでいいって思っていそうだから、のどかの言うとおりにするよ」
「それって……、わたしのこと、ちゃんと好き? 恋愛として好きなの? 柊木先輩のことは? いままでどう思ってた? 好きだった?」
矢継ぎ早に問いかけるわたしを、湊は見つめている。
湊は、言ってた。柊木先輩につきあってほしいって言われたから、つきあってるだけだって。嫌いではないけど、好きでもないって。
わたしの中で不安はますます大きくなる。なのに、湊の表情はなにも変わらない。ゆっくりと、もう一度聞いた。
「湊は、なにを考えてるの」
湊は首をかしげる。答えは、端的なひと言だった。
「なにも」
わたしの心臓が、緊張を身体中に運んでいく。湊を見つめているわたしの身体が、とぷんと暗い虚無に呑みこまれてしまいそうな恐怖を味わった。
「じゃあ、さ……、湊、なんでいま、わたしや彩といっしょにいてくれるの?」
ふるえそうになるのを我慢するわたしとはちがって、湊はなんなく答える。
「のどかが、俺にそばにいてほしいって思ってるから。そうじゃないと、体調悪くなるんでしょ? 遠藤さんも、最初は俺に近づいてほしくないと思っていそうだったから、放置してた。でも最近は、俺のこと友だちだと思ってくれているみたいだし、いっしょにいる」
「湊自身が、わたしたちといたいわけじゃないってこと?」
「みんなが望んでるから、俺はここにいる。迷惑だったら、俺は消えるけど」
なに、それ。
足もとがぐらぐらと揺れているみたいだった。湊と結ばれていた絆が、ぷつん、と切れたような心地だった。
湊の意思は、どこにある?
探したいのに、見つめた湊の瞳はどこまでも澄んでいて、無垢で、虚無だ。その虚無に、わたしは溺れそうになる。湊が、怖い。だって彼の瞳にはなにもない。
わかった気がした。湊の感情は、わたしに伝わってこないわけじゃなかったんだってことが。どうしてなのかはわからないし、そんなことがありえるとも思えなかったけど、もしかしたら最初から、湊の感情なんて、どこにもないんじゃないだろうか。
伝えるべきものを、湊はなにも、持っていない――?
でも、そんなの、感情がないひとなんて、いるわけないのに。そう思うのに、湊からはあいかわらず、なにも感じられなくて。まるで死んでいるように、湊は生きている。そんな湊が、怖い、と思ってしまった。
わたしが立ち上がるのにあわせて、椅子が派手な音を立てて倒れた。
「ただいまー」
「やっほー、ふたりとも。やっと部活終わったよー……、って、どうかした?」
図書室に入ってきた彩と美里が、目をまたたいてわたしたちを見る。ただでさえ湊の虚無に溺れかけているわたしに、ふたりの《不審》《心配》がぶつかって、身体から血の気が引いていくのがわかった。
「……ごめん、わたしもジュース買ってくる」
わたしは鞄をつかんで、足早に彼女たちの脇を抜けた。
図書室を飛び出したわたしは、中庭に向かっていた。自然と中庭に足が向いてしまうのは、湊がよくここにいたからだ。助けてほしいときは、湊にすがってしまう。もう癖になっていた。
でもその湊が、いまこの瞬間、よくわからなくて怖い。
なんの感情も意思もない。深淵をのぞいてしまったような恐怖を、わたしはついさっき感じたばかりだった。生きていて、感情がないひとなんて、いるんだろうか。
それに、わたしが望むからいっしょにいただけ、なんて……。そんなの、わたしの一方通行の思いでしかなかったのかな。湊は、わたしのことなんてどうでもよかったってこと? いっしょにいて楽しいって思っていたのは、わたしだけだった? わたしが望まなくなれば、すぐ離れてしまうくらいの、そんな関係だった?
どうして。なにが起きているの。
「あれー、三糸さんじゃん」
びくっと肩がふるえて、わたしは立ち止まった。
最悪だ。
そこには、須川さんたちがいた。
「どしたの? 気持ち悪い? 熱中症?」
案じるような言葉とは裏腹に、彼女たちには《悪意》がある。わたしの手足を絡めとって喰らおうとする彼女たちから離れたくて、後ずさった。
須川さんが眉をひそめた。
「えー、まじ、どうしちゃったわけ?」
「ごめ……、あの、いまはちょっと……」
お願い、近寄らないで。
一歩一歩、後ろにさがる。その足が、とん、と段差にぶつかって、わたしはその場に崩れ落ちた。
「ちょっとー、大丈夫? 三糸さんって、けっこうどんくさい系?」
くすっと笑いを含ませながら、須川さんが歩み寄ってくる。でも、その足音が止まった。彼女の動きを止めたのは、わたしの呼吸音だった。乱れはじめた呼吸音。
息を吸おうとするのに、身体が言うことをきかない。やっと吸えたと思っても、わずかな酸素しか取り込めずに、でも息をつくことすらできない。
「え、三糸さん? ねえ、大丈夫なの?」
さすがの彼女も、困惑した顔をする。近づいて来ようとする気配に、わたしは叫んだ。
「来ないで!」
その声は、おもいのほか大きく中庭に響いて、わたし自身驚いた。
「……はあ? なに、心配してんのに」
須川さんの困惑や不愉快の感情が大きくなって、わたしをなぶる。どくん、と心臓が跳ねる。胸を押さえて、必死に身体に命令を出す。落ち着いて。息をして。お願い……。でも身体はちっとも応じてくれない。空気にアレルギー反応でも起こしているみたいだ。呼吸ひとつすることすら拒んでいる。どうしよう。どうしたらいい?
「のどか……? のどか、どうしたの!」
美里の声がした。あわてて駆け寄ってくるような気配。伸ばされる手。でもわたしにとってそれは、わたしを脅かすものでしかなくて、反射的に美里の手を払いのけてしまった。
《心配》《怪訝》《驚愕》《不気味》《不快》
感情がうねって叩きつけてくる。冷や汗が噴き出した。
お願い。いまは、ひとりにして。お願い。
頭を抱えて、爪を立てる。肌に食い込む鈍い感覚がする。そのとき、わたしの手が、ぐいと引かれた。
湊だ。
わたしはすぐさまうつむこうとする。いまの湊は見たくない。でもそれは、湊が許さない。彼は、わたしの頬を両手で挟んで、わたしに上を向かせた。いやいやと首をふるわたしの耳に、湊の声がすっと飛び込む。
「俺を見て」
見たくはないのに、抗えずに、わたしは湊の瞳を見てしまう。
以前までなら、静かできれいだと言えた瞳。でもいまは、虚無としか思えない。それでも、わたしの呼吸は次第に落ち着きを取りもどしていた。うるさいほどの感情が抜き取られていったから。最後には、わたしの心にぽっかりと穴があいたような虚脱が襲ってくるだけになった。
わたしは地面にへたりこんだまま、呆然と息をする。
須川さんたちは、不気味なものを見る目でわたしを一瞥して、去っていった。
「の、のどか……?」
すこし離れた場所では、彩に腕をつかまれた美里が、立ちすくんでいた。
美里には、わたしの体質のことを話していない。わたしのことを知っている彩が、いまは近寄らないほうがいいと判断して、美里をわたしから遠ざけてくれたんだろう。
わたしはぽつりとつぶやく。
「美里、ごめん」
「それはいいんだけど、大丈夫なの?」
彼女がにじませているのは《不安》。拒んでしまったことを不快には思われていないようで、ほっとした。平気だよ、とどうにか笑顔をつくる。
わたしは湊を見ることなく、立ち上がった。
「わたし、もう帰るね。ちょっと夏バテかも」
「え、休んでからのほうがよくない?」
「ううん。さっさと家帰って寝ちゃうから」
「じゃ、じゃあ、家まで送る。鞄取ってくるから、ちょっと待って!」
「平気だって。ありがと。気持ちだけもらっておくね」
それでも心配してくれる美里に手をふって、わたしは校門まで小走りで駆け抜けた。湊と彩は、ひとりにしたほうがいいと察したのか、なにも言わずに見送ってくれた。
そうだ。いま、わたしは、ひとりになりたい。
イヤホンをつけて、音楽を大音量で流す。ひと通りのすくない道を選んで、駅まで無心で足を動かす。だれの感情にも触れていたくない。そっとしておいてほしい。お願いだから。
心を落ち着ける時間をちょうだい。
ただ、それだけを願った。
でも世界は、わたしに冷たい。
つぎの日の、文化祭の準備がはじまろうとする、すこし前のことだった。みんなが教室に集まりだす時間のこと。
クラス全員が参加しているメッセージアプリのグループに、写真が一枚送られた。
『三糸さんと湊くん、つきあってたの?』
文面からは、いつもみたいに感情を読むことはできない。だけどわかる。よくわかる。
ちょうど教室の扉を開けようとしたわたしの手が、動かなくなった。
「あ、三糸さんだー、ねえねえ、湊くんとつきあってたわけ?」
スマホを見つめて扉の前に立っていたわたしに、後ろから須川さんの声がかかった。ゆっくり振り向く。
スマホには、わたしの頬に手を当てる湊の姿。昨日のわたしたち。いつのまに撮られたんだろう。まったく気づかなかった。
他のクラスメイトも来はじめたから、わたしは扉を開けて中に入る。どうにか笑顔をはりつけた。
「須川さんごめんね。昨日、急に体調悪くなっちゃって。湊は、わたしの看病してくれただけだよ」
「えー、でも、距離感近くない?」
須川さんは、愉しそうだ。ちろちろと舌を出す蛇に睨まれたような心地がして、背中に冷や汗が伝う。それでも、他のクラスメイトにも聞こえるようにわたしは否定の声を出す。
「ふつうだよ。つきあってないし」
文化祭準備のために、全員参加することになったメッセージアプリのグループ。だれも返信はしない。だけど既読だけがついていく。着々と増えていく既読の人数に胸の底が冷えていく。いまクラスにいるみんなも、居心地悪そうにわたしたちに視線を投げていた。
須川さんの《愉悦》。みんなの、混ざり合って、よくわからなくなった感情たち。
気持ち悪い。逃げ出したい。窓の外を見る。でもすぐ「三糸さん」と呼ばれて、須川さんを見るしかなくなる。どうにか口角を持ち上げた。
「湊くんとつきあうとか、やるじゃん」
「だから、ちがうってば。だいたい、湊は彼女いるし」
「あー、そうだったねえ。え、じゃあ二股ってこと? 三糸さん、優等生の顔して、けっこうえぐいね」
ちがうんだって。でもその言葉が出なくて、代わりにこぶしを握る。
――大丈夫。須川さんだって、そんなことわかってる。わかってて、わたしをからかってるだけ。みんなだって、湊もわたしもそんなことしないって知ってる。
耐えればいいだけだ。
この前みたいにはなりたくなくて、意識して呼吸を繰り返す。笑顔を浮かべながら、話を切り上げるタイミングを見計らおうとする。でも、感情の渦のさなかに放り出されて、それどころじゃなかった。ただひたすら倒れないようにすることだけで、精いっぱいだ。
「湊くんも、かわいそうだよね」
なにがよ。こんなネタに巻き込まれたら、そりゃあ、かわいそうだけどさ。
「湊くん、二股なんてしたくないでしょ。三糸さんにたぶらかされちゃったんだよねー、きっと」
湊をたぶらかせるほど、わたしのこといい女だと思ってくれてるんですか。どうもありがとう。
後ろに回した左の手の甲に、爪を押し当てる。ぎゅっとつねって、その痛みに意識を集中させる。痛い。ふるえる右手の爪を、さらに押し当てる。どくどくと身体全体が心臓になったみたいに脈動している。
「でも三糸さん、湊くんにはやめてあげたほうがいいんじゃない? だって湊くんさ、トラウマあるでしょ。そういうの」
痛い。感情も、手の甲も。痛い。でも、聞き逃すことができない異様な単語があって、わたしの意識は須川さんに向いた。
トラウマって、なに。
わたしが反応したことが愉快なのか、須川さんの口角が持ち上がる。
「だってさ、湊くん、それでむかし、心中騒ぎあったんだもん。二股なんて、かわいそうだよ、三糸さん」
――え? 心中?
つぎつぎ出てくる不穏な単語に、目を丸めた。
それと同時に、「ねえ、ちょっと」と須川さんといつもいっしょにいる女子が、須川さんを小突いた。須川さんは扉のほうを見て、「あ」とこぼす。
「み、湊くん。おはよー、いつからいたの?」
湊がいた。でも、いつもの湊じゃなかった。かすかに目を見開いた顔。湊の無表情が崩れるのは、はじめて見た。
須川さんも、美形な彼をいじめる気はなくて、わたしだけをからかいたかったんだろう。ぴりりと彼女の緊張が走って、わたしの肌を刺した。その感情が痛くて、わたしは無意識に、湊に助けを求めたんだと思う。知らず知らず、湊の瞳を見ていた。
その瞬間だった。
わたしは、その場に崩れ落ちていた。理解する暇もなく、身体がガクガクとふるえはじめる。視界が明滅して、意識が飛びそうになった。口を手でおおって、突然の恐怖に耐える。……なに、これ。
意味がわからなかった。わからなかったけれど、なにか、得体の知れない巨大な感情に触れてしまったことだけは、たしかだった。こんな感情は、駄目だ。こんなの、わたしが死んでしまう――……。
「え、あ、ちょっと、湊くん……⁉」
ほとんど白一色に染まりかけた世界で、湊がくるりと背を向けて去っていくのが、かろうじて見えた。
「のどか……! のどか、大丈夫⁉」
つづけて聞こえる、彩の声。ぐいと腕を引かれる。混沌に満ちた教室から、わたしは連れ出された。ほとんど彩にもたれかかるような形で、廊下を進み、近くに感じるのは彩の《心配》だけになる。
「のどか、のどか?」
「ご、めん……!」
わたしの瞳から、狂ったように涙がぼたぼたと落ちた。廊下にうずくまり、肩をふるわせる。自分では止められない。だって、どうして泣いているのか、わたし自身よくわからなかったから。ぜんぜん、理解ができなくて、困惑だけが募っていく。
彩がわたしの背中に手を当てた。
「みなと、は? どこ行ったの……?」
「わからない。……あたし、ここにいても大丈夫?」
不安そうな彩にうなずいた。
どうにか呼吸をつづけるわたしに、彩は根気よくつきあってくれた。
「クラスのみんなの感情が、駄目だった……?」
ようやく落ち着いたわたしに、彩が問う。
たしかに、それもあった。須川さんも、ほかのクラスのみんなも、全部の感情が混ざり合って、身体が八つ裂きにされるかと思った。だけど、そうじゃない。焼けるような喉から、声を絞り出す。
「湊が」
「湊くん?」
はじめて、湊から感情が伝わってきたんだ。でも、とても言葉にはできないものだった。どう表現していいのか、わからない。とにかく強くて、暗くて、濁流のような気持ちが、あの虚無の瞳の向こうから押し寄せてきた。
あれは、なんだったの。だって湊に感情がなくて怖いって、つい昨日思ったばかりだったのに。どうして、突然、こんな。湊のことが、わからない。
「湊は、どこ」
「さあ……。玄関で会って、教室まで湊くんといっしょに行ったんだよ、あたし。でも須川さんの声が聞こえて、それで湊くん、あたしには見向きもしないで行っちゃったから……」
彩も不安そうにまわりを見渡す。でもそこに湊はいない。
けっきょく、その日の文化祭準備に、わたしは参加できなかった。彩といっしょに図書室で過ごした。もしかしたら湊が来るかもしれないと思いながら。
わたしたちが図書室に入ったすこしあと、美里が駆け込んできた。メッセージアプリの写真に気づいたのと、クラスの子からわたしが倒れたことを聞いて、部活を放り出して来てくれたようだった。
ふたりの《心配》に包まれて、わたしはどうにか時間をやり過ごす。
だけど湊は姿を見せなかった。
「昨日はごめん」
つぎの日の図書室。湊はなんでもない顔をして現れた。先に集まっていたわたしと彩、美里はぽかんと目を丸める。
「だ、大丈夫だったの……?」
「なんでもないよ。須川さんに驚いただけ。あと写真、いつ撮られてたのかわからなくて、びっくりしたから」
驚いたって……、そんな言葉で済ませられるようなことじゃなかったのに。わたしたち女子組は顔を見合わせた。
「今日は部活あるから、そっち行ってくる」
湊は軽くそれだけ言って、図書室を出て行ってしまった。残されたわたしたちは、呆然とする。
「湊のやつ、うそついてるよね? 絶対そんな軽い感じのじゃなかったもんね? いや、わたしはのどかたちから聞いただけで見てないから、なんとも言えないけど」
そんな美里に、彩がこくこくとうなずく。
「深刻そうだったよ、絶対」
「どうしちゃったのかなあ……って、まあ、あんなうわさ流されたんじゃ、さすがの湊もまいっちゃうかなあ」
え?
わたしは美里の言いぶりに、あわてて彼女の肩をつかんだ。
「ちょっと待って。美里、湊のうわさ知ってるの? 昨日、須川さんが言ってたこと」
「へ? あ、ああ、うん。ちらっとうわさ聞いただけなんだけど」
なにそれ。早く言ってよ!
わたしは肩をつかむ手に力をこめた。だって、なにがあったのか、わたしにはまったく理解できていなかったから。そんな状態で、湊にかける言葉なんて見つかるわけない。知らなきゃ、と思った。
「なんなの? 湊、それで困ってるんでしょ? いったいなにが」
「あー、ちょっと待って、のどか。ストップストップ!」
美里がどうどう、と手で制す。わたしはむっとした。彩はハラハラとした顔でわたしたちを見守っている。
「のどか、ほんとに知りたい?」
「だって、知らなきゃ、湊になんて言えばいいかわからないよ」
だけど美里は困り顔で頭をかいた。
「んー、なんていうかさ……これ、けっこう下世話なうわさなんだよね……」
「え?」
「だから、そのぉ、湊はあんまり、このうわさを広められたくないと思うんだ。湊が昨日逃げたってことは、うわさは突拍子もないつくり話って言えないかもだし……。それを勝手に話すのは、どうなのかなあって」
美里がわたしをうかがうように見る。
「のどか、本当に知りたい?」
今度は、言葉に詰まってしまった。湊が嫌がったうわさを、聞いていいのかどうか。
美里も本気で訊いてきている。わたしにも湊にも気遣って……、そういうやさしさが、美里からあふれていて、わたしの心を鎮めていった。それでも簡単に決められることじゃなくて、わたしは時間をたっぷり使った。そうして、けっきょく首を横にふった。
「やっぱり、いい。話さないで」
気になるけど、湊が嫌がることはしたくない。中庭で放火魔がどうのこうのと話していた須川さんの会話も、湊はわたしに聞かせたくないようだった。それと昨日のうわさがつながっているのかすらわからないけど、湊が嫌がるなら聞かないほうがいいだろう。
「そっか。……のどかは、本当に湊のこと好きなんだねえ」
「……かもね、でも湊には、柊木先輩がいるし」
わたしはふいと目をそらして、窓の向こうを見る。好き、だけど、わたしにはなにもできないや。
「のどか、大丈夫……?」
彩が眉をさげて、わたしを見た。となりでは、美里も同じような顔をしている。
「だいじょ――」
言いかけて、きゅっと口を結ぶ。ふたりに心配をかけないように、大丈夫と言いたかったけど、はああああ、と重い息をつく。そう、ぶっちゃけて言えば、まったく。
「大丈夫では、ないかな……。しんどい」
そうこぼした瞬間、美里が「のどかー!」と抱きついてきた。彩はわたわたしたけれど、思い切ったように、ひしっとわたしと美里に抱きついた。
「うわあ、なに、ふたりとも!」
「だって、のどか、そりゃしんどいよ。しんどくて当たり前よ。乙女心やばいね」
「のどか、いい子。幸せになってほしい」
「えええ? ありがとう……?」
ふたりの体温と、真綿のようなやさしい感情に包まれて、わたしは笑った。そんなにいい子じゃないよ、わたし。恋人いる男を好きになっちゃったわけだし。そう思うけど、ふたりの感情が心地よかった。
「もうさ、どっか遊びに行こうよ、のどか! 気分転換しよ! せっかくの夏休みだもん。あ、ほら、来週お祭りあるじゃん。いっしょに行かない?」
美里がスマホのカレンダーを見ながら言った。たしかに、来週は夏祭りだ。思い出していると、彩も「あたしも行きたい」と控えめながらしっかりと手をあげた。
「もち! いこいこ! どうせだから湊も誘おうよ」
「いや、湊は柊木先輩と行くんじゃない?」
つっこんだわたしに、美里が「あぅあ」と妙な声をあげる。急にやる気を削がれたみたいに、へろへろと肩を落としてしまった。
「やりにくいなあ、彼女持ち男子……って、やば。部活はじまるわ。とりあえず、のどかと彩は夏祭り決定ね!」
びしっと指を立てて言うと、あわただしく美里は図書室を出て行った。彩も「わたしも教室行ってくる」と鞄をつかむ。
「のどかは、今日はおやすみするよね?」
「うん……ちょっと、行く気力がないかな。ここで待ってる。彩、ほんとにひとりで平気?」
「うん、がんばってくる。いってきます」
《緊張》を抱えながら微笑む彩に、わたしは手をふった。強くなったなあ、彩……と、胸にじんわりしみた。
さすがに昨日の今日で、わたしは文化祭準備に顔を出すことはできなかった。人形づくりグループとしての役目はもう終わっているんだから、参加しなかったとしても、だれもわたしを責めないだろう。でも彩だけを教室に放り出すのは申し訳なくて、一応図書室までは来てみたというわけだ。
それに、湊のことも心配だったし。
思ったより、湊はふつうの態度だった。拍子抜けするほどに。でも昨日の湊は、確実におかしかったんだ。嫌なことがあったなら、言ってくれればいいのに。相談でもなんでも乗るつもりで、わたしは今日ここに来たはずだった。
――うまくいかないなあ。
湊への謎が深まっていくばかり。夏休みがはじまる前のほうが、湊との距離が近かったように思える。
「しんどい」
窓にもたれかかって、つぶやいた。
なにをするでもなく、窓の向こうを見つめる。一瞬顔を見せた草本先生が「あら、三糸さんひとりは珍しいわね」と言ったけれど、なにかを察したのかすぐに司書室にこもってしまったから、閲覧席にはわたしひとりだ。
吹奏楽部の音色を聴きながら海の波間を見つめて、音楽室の美里と教室にいる彩、そして部活動に励んでいる湊を思う。うそ。湊のことが大半を占めていた。美里と彩、ごめんね。
そうしてどれくらい経ったころか、下から「のどかちゃーん」とわたしを呼ぶ声がした。ぼうっとしていたから、驚いた。あわてて見ると、外を歩く柊木先輩がわたしを見上げて手をふっていた。ぺこりと頭をさげる。するとなにを思ったのか、「そっち行っていい?」と柊木先輩が声を張った。
えええ? なんで? わたし、なんかした?
不安になったけど、「どうぞー!」と叫び返す。待っていると、先輩がひょっこりと図書室に顔をのぞかせた。湊が部活中なら、もちろん柊木先輩だって部活中。カメラを携えた彼女はにこりと微笑む。
「夏休みの図書室、窓辺の少女。っていい題材だと思うんだよね。ビビッときちゃった」
「えっ。撮らないでくださいよ?」
あわてて言うと、先輩は「残念」と肩をすくめる。それから、いたずらっぽい顔で首をかしげた。
「なんでここに先輩が、って思った?」
ぎくりとする。美里たちとあんな話をしたばかりだし、気まずい思いはあった。わざわざ図書室まで来るなんてどうして、とは、たしかに思ってしまった。
「わたしね、のどかちゃんのことは、すぐ見つけちゃうんだ。のどかちゃんセンサーがついてるんだと思う」
先輩がカメラをいじりながら、朗らかにそう言った。わたしはあいまいな笑みを返す。のどかちゃんセンサーって、なんだ。
「ほんとだよ? わたしが一番警戒してるの、のどかちゃんだから」
なんですかそれ、と言おうと思ったわたしは、口をつぐむ。カメラから目を上げた先輩が、にっこり笑顔を浮かべた。
「わたしが負けるとしたら、のどかちゃんだろうな、って思ってさ」
「……えっと」
「あ、勘違いしないでね。わたし、のどかちゃんのこと好きだし。のどかちゃんになら、負けても仕方ないかって思いはじめてて……うーん、なんかどれだけ言葉を尽くしても、怖い先輩になっちゃいそうだなあ」
「……あの、なんの話ですか」
先輩はすこし眉を下げて、言った。
「聞きたい?」
わたしは、ゆっくり目を閉じて迷ってから、首を横にふる。
湊のこと、なんだろう。それはわかる。だけど、先輩がなんの意図を持ってここでそんな話をしているかまではわからない。でもきっと、聞いたら先輩の心を傷つけてしまいそうだった。
先輩と別れたほうがいいかとわたしに訊いてきた湊と、まだきっと湊のことを好きなのに、こんな話をしてくる柊木先輩。複雑そうな恋人ふたりと、それからわたしも入れた関係性が、よくわからない。
先輩はわたしのとなりに来ると、窓枠に肘をつく。風がさらさらと先輩の黒髪を揺らした。陽の光にあたると、きらきらキューティクルが光る。わたしはそっと目をそらして、そのまま視線を海に投げた。
「先輩」
「なあに?」
「夏祭りとか、湊と行きますか?」
先輩は沈黙して、ちらりとわたしを見る。
「どうして?」
「あの、最近の湊、その、ちょっと疲れてるみたいで……」
しどろもどろ言うわたしを先輩がじっと見つめてきて、余計にわたしは言葉に迷う。自分がなんでこんな話をしているんだか、わからなくなってきた。だけど、そう、わたしは湊にも気分転換をしてほしいんだと思う。
「先輩と遊びに行けたら、湊も喜ぶんじゃないかなと、思うんですが」
「行かないよ」
先輩は微笑んだ。きっぱりとした物言いに、わたしは目を丸めてしまう。微笑みとは裏腹に、暗い感情が先輩からにじみ出していて、わたしの心を苛んだ。
「誘うかどうか、迷ってたんだけど、行かないことにした」
「……なんで」
「聞きたい?」
先輩はとても魅力的な微笑で首をかしげ、それからわたしの横を通って図書室の扉に向かう。
「その日、湊くんはフリーだよ」
夏祭りは海岸沿いの車道にいくつもテントが並び、ふだん車が通っている道をみんなが歩いて、思い思いの賑やかな時間を過ごしていた。すっかり陽が落ちて暗いはずなのに、提灯の明るさでまばゆく彩られている。潮騒も、今日ばかりはひとの声にかき消されていた。
「のどかー、なにから食べる? わたしはフランクフルト!」
「ベビーカステラ。彩はりんご飴だっけ?」
「うん」
浴衣で行こうかという話にもなったけど、けっきょくわたしたち娘三人衆は普段着で祭りに参加していた。ひと混みを歩くなら、こっちのほうが楽だろうという、かわいげのない理由だ。
わたしは振り向いて、後ろを歩く湊を見た。
「湊は? なに食べる?」
「……じゃあ、ベビーカステラ」
こちらも普段着の湊が、すこし迷ってから答えた。制服じゃない湊は新鮮だ。……そんなこと言ったら美里や彩だってそうなんだけど、こう湊は……ちょっと特別枠だから。
それぞれ目当ての品を買ってから合流することになり、わたしは湊といっしょにベビーカステラの屋台に並ぶ。
「祭りといえば、ベビーカステラなんだよね。わたし」
「そうなんだ。俺はあんまり、祭り自体来ないから」
そう言う湊は、わたしが「お祭りいっしょに行かない?」と誘ったら、とくになんの迷いもなく「わかった」とうなずいたのだった。図書室での柊木先輩とのやり取りはだれにも言っていないけれど、美里と彩は「湊来るんだ⁉」ととても驚いていた。それから、ちょっと不安げな顔になっていた。
彼女たちには、わたしと湊と柊木先輩の関係図が、よくわかっていないんだろう。でも大丈夫。わたしもよくわかっていない。
湊は、わたしのことも柊木先輩のことも、とくになんとも思っていない。柊木先輩は、まだ湊のことが好きなのに、どこか冷めた態度。
――もしかして先輩も、湊の心が自分に向いていないことを知ってしまったんだろうか。
わたしは、湊をじっと見つめた。今日こそは、彼の心を見ることができるのではないかと淡い期待を持って。だけど駄目だった。わたしに伝わってくるのは、祭りに来ているその他大勢の賑やかな感情だけ。
どっどっど、と心臓がリズムを刻むのは、その他大勢の感情を受けて、わたしまで妙に気分が上がってきているからだろう。これだけのひとに囲まれていたら、普段なら気持ち悪くなるところだけど、みんながみんな似たような明るい感情だから、そこまで脳に不可がかからなかった。ただただ、わたしを妙な空元気に誘うだけ。
屋台のおじちゃんからベビーカステラの入った鮮やかな紙袋を渡されて、袋のあたたかさに、なんとなく幸せな気分になる。
「楽しそうだね、のどか」
「うん。湊は楽しい?」
湊はすこし考えるような瞳をしてから、「ん」とうなずいた。でも《楽しい》の感情は、湊からは伝わってこない。本当に、そう思ってるのか、わからない。
美里と彩と合流して、わたしたちは歩き出す。ベビーカステラは、毎年変わらない甘さだ。どこの祭りに行こうと、どの屋台で買おうと、だいたい同じなつかしい味がする。残念ながら、そこまで繊細な味覚を持っていないから、屋台のちがいとかわからない。
それぞれ買ったものをひと口分け合いながら、わたしたちは提灯の明かりの下を練り歩く。湊もベビーカステラを食べながら、ついてくる。
金魚すくいやりたいけど、金魚持って帰っても仕方ないよね、だとか。射的の景品って、高校生にもなるとしょぼくてやる気にならないよね、だとか。冷やかしとしか思えないようなことをささやき合い、笑い合いながら、わたしたちは歩いた。そんなだから、ろくに屋台で遊ぶこともできていない。
だけどわたしは、なにも生み出さないその無駄な時間が愛おしくて、楽しかった。
「湊」
「ん?」
「楽しい?」
わたしはしつこく、そう訊いてしまう。湊はうなずいた。彼の感情はわからないけれど、楽しいなら、いいか――いいのかな。なんとなく、湊は楽しいとは思っていない、だけど退屈とも思っていない、そんな気がしてしまう。だからわたしは、そっと湊のとなりに並んだ。背の高い湊を見上げる。
「なに?」
湊の黒い瞳に、屋台の明かりが反射する。その光の奥の静けさを見つめながら、わたしは首をふる。
「なんでもない。……湊、寄りたい屋台あったら言ってよ? 言わなきゃ、美里主導の屋台巡りになっちゃう。あ、彩もけっこう先導してるけど」
美里はそうだろうなあと思っていたけど、彩もいっしょになって、わたしと湊を引っ張っていた。もともとは、わたしの気分転換のためのお出かけだったはずなんだけど、ふたりとも、もうそんなことは忘れているらしい。
いいんだけどね。ふたりが楽しければ。
近くにいるからか、美里と彩の《楽しい》は、ほかのだれよりも強く伝わってきて、笑えてくる。エンジョイしすぎ。
「いいよ、俺は、みんなについて行くから」
湊は静かに言う。わたしはちょっと、眉をひそめた。
そうして、すこし、油断していた。
「あ、こら! 待ちなさい!」
そんな女のひとの叫びが、ぱっと閃光のように駆け抜けた。
びくっと、思わず肩をふるわせる。だけど、なんてことはない。はしゃいで走って行こうとする子どもを、その母親が叱ったというだけの場面だった。ちょっとお母さんの声が大きかっただけで、ふつうの光景だ。びっくりしたー、と安堵する。ひとの大声って、けっこう耳に痛い。
美里も彩も驚いていたけれど、気を取り直して歩いて行こうとする。わたしもつづこうとした。だけど振り返る。
「湊?」
湊はじっとその場に立ち尽くしていた。彼の瞳が、さっき叫んでいた親子を見ている。わずかにいつもよりも大きく開かれた瞳で、見つめている。食い入るように、見つめている。声をかけても、こちらを見ない。まるで聞こえていない。まわりの喧騒のせいではないだろう。どうしたの。さすがにへんだ。
わたしは声を大きくして、呼んだ。
「湊!」
雷に打たれたように、湊が身体を跳ねさせた。わたしを見る、その瞳の奥。そこに見出した感情が、わたしに一瞬で迫った。
ぐっと刃物を喉もとに突きつけられたような《恐怖》。
「……ごめ、んなさい……」
そんな、小さな湊の声が、聞こえた気がした。
わたしは動けなくなった。指一本動かせず、呼吸もできず、身体を硬直させる。でもそれは、湊だって同じらしい。彼は微動だにせず立ち尽くしていた。かと思えば、くるりと背を向けた。彼が走り出す。
「え、ちょっと、なに? どうしたの?」
異変に気づいた美里があわてる。彩も「湊くん!」と呼び止める。だけど湊は振り返らない。そこにきて、ようやくわたしの硬直も解けた。だけど直後に、なにがなんだかわからないという困惑の硬直が訪れた。
三秒ほど、かかったと思う。
はっとして、名前を呼びながら、湊を追いかける。ただでさえひとの多いお祭り会場だ。わたしはひとにぶつかってしまって、まともに走ることはできなかった。それなのに、湊は驚くほど素早く駆けていく。
わけがわからない。なにがどうなってるの。困惑はしている。でもそれは頭のすみに追いやって、前に進む。必死に進もうとした。それでも、いつのまにか湊の姿を見失っていた。それどころか美里や彩ともはぐれてしまった。ひとりで不安顔をさらしているわたしを、まわりのひとが訝しむ。
そうだ、スマホ。
ポケットから出して、湊に電話をかけた。だけど、出ない。メッセージも送る。既読はつかない。よくわからない。だけど、ただごとではないだろう、とそれだけはわかる。
「湊……」
まわりを見渡すけど、湊の姿はない。それどころか、大勢のひとの感情に、わたしの不安が圧し潰されてしまいそうで、今度ばかりは気持ち悪くなってきた。ひとの波から離れてうずくまる。
スマホがふるえて、もしかしたら湊かな、と思ったけれど、それは彩からだった。心配してくれた彩たちとなんとか合流して、行方知れずの湊を探しはじめる。あいかわらず、湊に送ったメッセージの既読はついていない。
そうして、そのまま、湊は見つからなかった。
湊は夏祭り以降、文化祭の準備にも写真部の活動にも、姿を見せなくなった。
そもそも文化祭の準備はそう何回もあるものじゃない。影絵の劇も形になってきたから、もうあとは夏休み明けでいいかということで話はまとまってきた。この準備が終わってしまえば、わたしが夏休み中に湊と会う機会はほとんどない。それなのに、湊は来ない……。
「三糸さん、今日は大丈夫そう?」
「うん。ありがとう」
「体調悪くなったら言ってね」
例の写真騒動があってからは、ずっと遠巻きに見ていただけのクラスメイトたちが、わたしにそっと声をかけてくるようになっていた。わたしが、いじめのせいで倒れたと思っているんだろう。
わたしが彩を助けたときと同じだ。さすがに、目の前で追い詰められた様子を見せられると、手を差し伸べずにはいられないらしい。彼らだって、やさしさを秘めた傍観者だった。
須川さんもさすがに怯んだのか、あれ以降目立って絡んでくることはない。
――まあ、倒れたのはみんなっていうより、湊がきっかけなんだけど。
あの日感じた、湊の感情。そして夏祭り以降、姿を消した湊。あれは、なんだったんだろう。湊になにが起きているんだろう。考えるだけで、胸が苦しくなる。
「のどか、無理してない? 大丈夫?」
帰り道。今日は準備も早く終わったから、図書室でのリフレッシュタイムを過ごしても、まだ一時を過ぎたあたりだった。分かれ道まで来て心配そうな顔をする彩に、わたしは笑みを浮かべる。
「平気だよ」
「湊くん、今度は来てくれるといいね。もう文化祭の準備も、あと二日くらいでいいって話だし。最後くらいは」
「うん、そうだね……」
「のどか。無理だけはしちゃ駄目だよ。絶対」
「ふふ、心配しすぎだって」
「するよ。友だちだもん」
言い切る彩に、わたしはぽかんとした。それから、じんわりと胸の奥からあたたかさが広がって、「ありがとう」と微笑む。
わたしたちは手をふって別れた。最近になってようやく知ったのだけど、彩は電車通学ではなく、徒歩通学だった。学校と海との間にある住宅街の中に、彼女の家はあるそうだ。
ひとりになると、わたしはイヤホンを耳につっこみ、世界を閉ざす。
駅まで歩いて改札をくぐると、ホームはがらんとしていた。図書室で過ごしている間にクラスメイトたちは帰っている子が多いから、ここで鉢合わせする可能性は低い。いつものように普通列車が来るのを待った。
海を眺めて、ポケットからスマホを取り出す。昨日湊に送ったメッセージには、既読すらついていなかった。
いったい、なにが起きているんだろう。
教室での写真騒動のとき、須川さんはなんて言ってたっけ。夏祭りで、なにに湊は驚いて逃げ出したんだろう――。
記憶をたどっていると、普通列車が甲高い音を立ててホームにやってきた。冷気を放出しながら開けられた扉の奥に、身をすべり込ませる。すみの席に座り、窓から海を見つめた。青い。
スマホを握りしめる。トーク画面を開いてみるけど、変化はない。
そうやって、何度も海とスマホの画面の間で視線が行き来しているうち、イヤホンでかけている音楽越しに、見知った駅名が聞こえた。片耳だけイヤホンをはずして、繰り返される駅名を聞く。やがて、ゆっくりと電車が止まったのは、なにもない小さな駅のホームだった。
湊の最寄り駅。ここから家が近いって、言っていたはず。ここでおりれば、会えるのかな――。
「あ」
いつか、湊とわたしが座っていたホームのベンチに人影を見つけて、わたしは思わず車両をおりた。相手も、わたしに気づいて驚きに染まった顔をあげる。
「あれ、のどかちゃんだ」
「柊木先輩……」
おりたはいいけれど、ホームにひとり座っていた柊木先輩を前に、どうすることもできずに立ち尽くす。背後で扉のしまる音がした。電車はまたのろのろと走り出す。
先輩はわたしを見つめて、首をかしげた。
「のどかちゃんも、この駅なの?」
「あ、いえ、わたしは」
「もしかして、会いに来た?」
誰に、とは言わなくてもわかる。わたしは迷ってから、ゆっくりうなずいた。
「そっか。わたしも同じだよ。ちょっと話さない?」
柊木先輩は、ベンチのとなりのスペースをぽんと叩く。おずおずとそこに腰をおろせば、ふたりで海を眺める形になる。夏風がさわさわと前髪を乱して通り過ぎていった。
湊が部活にも来ていないというのは、柊木先輩から教えてもらったことだった。部長として恋人として、先輩も放っておけないはず。
「先輩、湊に会ってきたんですか……?」
先輩は首をふる。
「ううん。まだ」
「え、でも」
先輩は、わたしが来る前から、ここに座っていた。いつから、ここにいたの?
「二本前の電車でここに来て、ずっと座ってる。笑えるでしょ」
いつも穏やかに微笑んでいる先輩が、自嘲の笑みを浮かべた。その表情にも、発言にもわたしは目を見開く。普通列車は本数が少ない。二本前といえば、けっこうな時間ここにいたことになる。
「湊くんにね、会いに行っていいかな、ってメッセージ送って、でも返事がなくて。もし返事があったら、すぐ家まで押しかけてやろうって思って、ここで待ってたんだけど」
「ずっと、ですか?」
「うん。ストーカーみたいだよね」
「い、いえ、そんな。先輩は、彼女さんですし」
わたしは、ベンチから投げ出した足先を見つめた。なんで電車おりちゃったのかな。なにをしようって言うんだろう。
湊も湊だ。こんな美人な恋人が心配してくれているのに、なんで返信しないの。こんな暑いなか、ひとりで待ってくれているのに。わたしのメッセージはともかく、柊木先輩のメッセージには返信しなさいよ。
灰色のコンクリートの地面に、どこからか青葉が吹き込んできて、わたしはつま先でざりっと踏みつけた。
「のどかちゃん、湊くんのこと好きでしょ」
なんの前触れもなく、先輩が断言した。
心臓が止まるかと思った。否定することも、うなずくことも、視線を動かすこともできないわたしに、先輩は言う。
「ごめんね。わたし、邪魔だったよね」
行儀よくそろえられていた先輩の足先が、わたしのとなりに並んだ。
「あの、先輩……?」
困惑して、先輩を見る。先輩は空を仰いで、息を吸った。
「のどかちゃん、ちょっと話を聞いてもらいたいんだけど、いいかな?」
「え?」
「なんでそんな話をって思うかもしれないけど、いまね、話を聞いてほしくて。わたしもいろいろ考えてたんだけどね、もうなんだか、頭の中ごちゃごちゃして、だれかに聞いてほしくなっちゃった」
駄目かな、と先輩がわたしを見る。わたしは困ってしまって、もう一度自分のつま先を見つめた。でも「駄目です」なんて言えるわけもなく。こくんとうなずき「どうぞ」と先輩の後押しまでしていた。
ぴりぴりと静電気みたいに伝わってくる、先輩の《緊張》。それでも先輩は、声にやわらかさをつくり出す。
「ありがとう、のどかちゃん。まずね、安心してほしいな。わたしと湊くんは、恋人らしいことなんにもしてないの」
「……え?」
「名ばかりの恋人っていうのかな。好きだったのは、わたしだけ。恋人っていってるけど、ただのわたしの片思いだった」
先輩の足がゆらゆらと揺れる。三年生なのに、ローファーはつま先までぴかぴかで、さすが先輩だな、とわたしは思った。
「つきあってほしいって言ったらね、先輩がそう望むなら、とか湊くんは言うの。わたしあのとき、湊くんはほかの女の子に告白されても、同じように返すんだろうなって思ったんだ。それで、だれかに取られちゃうくらいなら、って、つきあってもらうことにした」
先輩の声はきれいで、耳に心地いい。だけど話していることは、心にちくりと痛い。
「いつか湊くんが好きになってくれるときまで、恋人らしいことはしなくていいよって、わたしが言ったの。だってなんだか、両思いじゃないのにそういうことするのって、寂しいしむかつくじゃない? お情けなんて必要ありませんって感じ。まあ、お情けでつきあってもらってるわたしが、なに言ってるんだって話なんだけど」
はあ、とも、ふん、ともつかない、あいまいな相づちを打つ。わかるような気もしたし、わからないような気もした。
先輩は、すこしの間口をつぐんだ。ぎゅっと先輩が自分の鞄を抱き寄せる。
「わたしは、ずっと待ってた。好きにさせてみせるぞ、って思ってた。だけどね、虚しくなってきちゃって。たぶん、湊くんは一生わたしのことをそういう目で見ないって、わかってきたんだよね。最近は、とくにそう思う」
ふと心に浮かんだことが、そのまま口をついて出る。
「だから、別れたいって、思ったんですか?」
ゆらゆら揺れていた先輩の足先が、ぴたりと止まる。
「それ、湊くんが言ってた?」
図書室でのやり取りを思い出して、苦い思いが広がった。返事はしなかったけど、先輩は納得したらしい。また、ゆらゆらを再開させた。
「そっかあ。やっぱり湊くんにはばれてたか。……本当に、相手の望みを察する天才くんだよね」
先輩が海に向けて手を組み、ぐーっと伸ばす。
「そう。このままつきあっていても仕方ないかなあって思った。だって、望みはゼロだなって気づいちゃったから。だからのどかちゃん、わたしに遠慮しなくていいよ」
わたしは先輩を見つめた。笑ってる。だけど、彼女の本心はちがう、と伝わってくる。胸がきゅっとしめつけられた。
「先輩、まだ湊のこと好きなのに、いいんですか」
湊に会うために、駅まで来ているのに。ずっと待っていたのに。
笑顔だった先輩が、一瞬真顔になった。でもすぐに、くすっと笑う。
「好きになってもらえないんだもん。つきあってるのは、意味ないでしょ」
でもそれは、わたしだって同じだ。きっと、湊に告白すれば、彼はいいよと言ってくれる。でもそこに、彼の心はない。
――どうしてだろう。
わたしは、助けを求めるように先輩を見つめた。
「先輩は、むかし湊になにがあったのか、知っていますか?」
ううん、と先輩は首をふる。
「湊くんは、自分の話をしてくれなかったから」
わたしたちの間に、さあっと風が吹き抜ける。潮の匂いを含んだ風は、いつもなら心地いいのに、いまは濃厚な死臭にしか思えなかった。海からは絶えず、死の気配が運ばれてくる。先輩の泣き叫びたくなるような感情と相まって、胸がいっぱいになった。
ふと、わたしの目がなにかをとらえた。
「あっ」
勢いよく立ち上がると、先輩も視線を動かして、同じように「あ」とこぼす。
駅の柵の向こうに、湊がいた。ずっと会えなかった、湊だった。こちらに気づかず歩いていく湊を、わたしと先輩の目が追いかける。たぶん、先輩もわたしも、お互いの出方を探っていた。先に動いたのは、柊木先輩だった。
「行っておいでよ、のどかちゃん」
先輩が、そっとわたしの背を押した。
「わたしは、もう、ここから動けない」
先輩は寂しそうに笑って、ひらひらと手をふる。
わたしだって、動けないよ。足が重いんだもん。それでも、先輩の手で押されて、一歩を踏み出した。重い重い一歩を踏み出してしまえば、自然とつぎの足も動く。よろよろと数歩進んで、わたしは先輩を見た。先輩は微笑みとともにうなずく。
湊の姿が道の先に消えてしまう。
先輩の顔から、感情から、わたしは視線をはずして背を向けた。今度は自分の力で駆け出して、自動改札機に定期を叩きつける。
――わたしは、湊に会いたい。
開かれた改札機を抜けて、わたしは走った。