消えてしまえば、いいのにね

 関わりたくないのに、つい遠藤さんを目で追ってしまう。無理してそう、と言った湊の声が、どうにも心の中に居着いていた。

「じゃ、グループごとに作業開始」

 文化祭実行委員の子の号令で、わたしたちは動き出す。文化祭は夏休みが明けてから一か月後。九月に開催予定だ。夏休みの間もちょこちょことクラスで集まって準備することにはなっているけど、なるべくなら、休みの日まで学校に来たくはない。みんな考えは同じらしく、担任の先生からの「テスト対策の自習時間にするか、学園祭の準備にするか、どっちがいい?」という言葉に、多数決で学園祭準備が勝った。

 自習したい派閥の子ももちろんいたけど、たいてい、そういう真面目な子は自己主張がすくない。文化祭の準備で、と決まったからといって反抗的な態度をとるクラスメイトはいなかった。

「のどかって、手先器用だっけ?」
「不器用って言ったら作業免除になる?」
「なりませーん」

 くすくす笑いながら、わたしは美里といっしょに、人形づくりグループの数人で手を動かす。材料は、紙とテープと割りばし。スマホで「影絵 人形」と検索しながら、紙に下絵を書いていく。わたしはカンパネルラを任された。

 主役はジョバンニという少年。でもそれと同じくらい出番のあるカンパネルラ。

「カンパネルラってさ、色素薄い系イケメンな気がするんだよね」

 美里が楽しそうに言った。

「なにそれ」
「しない?」
「しないよ。あ、やば。わたし、絵へたかも」

 これはとてもじゃないけど、見せられない。すぐさま消しゴムで消した。

「もう、のどかってば。カンパネルラはイケメンなんだから、シルエットからイケメン臭漂わせなきゃダメだよ。真剣につくりなさい!」
「イケメン臭ってなに」

 ていうか主役はジョバンニでしょ。カンパネルラより、そっちに気合い入れた方がよくない? ちなみにジョバンニは美里がつくっているけど、あんまりイケメン臭は感じなかった。むずかしいぞ、イケメン臭。

 人形づくりグループは、けっこう穏やかに作業が進んでいく。

「あたし、演劇部の子から発声練習教えてもらったんだよね」

 須川さんの声がした。ジョバンニ役の遠藤さんと、カンパネルラ役の須川さん。脇役のキャストたちも、須川さん寄りの派手めな子で固められていた。

 須川さんが声をやるんじゃ、カンパネルラも色素薄い系にはならないかもしれない。ぎらぎらして発光する系イケメンになってしまう。そんなぎらぎら系に囲まれて、遠藤さんは大丈夫だろうか。

「ほら、彩、お手本でやってみせてよ」
「……あ、あたし……?」
「だって主役じゃん。ほらほら」

 急き立てられる遠藤さん。人形づくりグループのほかの子たちも声には気づいているはずだけど、我関せずで自分たちの会話をつづけながら作業している。

《同情》《愉しい》《気まずい》《愉しい》

 蛇のように、いろんな感情が身体をなめるように這っていく。下書きのためのシャープペンシルを置いて、ため息をついた。見てはいけないと思うのに、ちらりと遠藤さんを見てしまう。目が合った。

 だけど遠藤さんの感情は、とくに伝わってこなかった。

 わたしは一度ゆっくりとまばたきして、窓の外に視線を移す。空の青と、海の青が交差する場所を見つめた。雲がひとつもない、いい天気だ。空と海の青は同じじゃない。微妙にちがう色合いをしている。

 青いな。うん、青い。

 遠藤さんも、窓の外を見たのかもしれない。

《ああ、青い》

 そんな声が聞こえた気がした。わたしに伝わるのは、いつも感情と呼ばれるような、あいまいなものばかり。でもときどき、まるでわたしの頭の中でささやかれているみたいに、そのひとの声まで聞こえてくることがある。

《青い。青い。青い。――つらい》

 ぴくりと、わたしの肩がふるえた。

「ご、ごめんね。ちょっと、お手洗い……」

 遠藤さんが席を立つ。須川さんたちはあからさまに顔を歪めたけれど、「すぐもどってきてよ」と催促するだけにとどまった。遠藤さんのか細い背中が、廊下に消えていく。

 心臓が、どくん、と嫌な音を立てる。

 ――どれだけ自分が苦しんだって、世界は変わらない。青い空は美しい。漫画みたいに、自分がつらいからって、空もいっしょに泣いてくれるわけない。世界にひとりぼっち。こんなにつらいのに、だれもわかってくれない。空は青い。海も青い。驚くほどに、きれいな青。あたしは、こんなにつらいのに――……。

「のどか?」

 ガタン、と立ち上がったわたしに、美里が不審を浮かべる。

 遠藤さんの感情が、べっとりと頭にはりついていた。

「のどか? ちょっと大丈夫?」
「……ごめん、お腹痛いかも」
「え、まじ?」
「すこし抜けるね」

 わたしはあいまいに笑って、教室を出た。しっかりと扉を閉めてから、遠藤さんの姿を探す。
 お手洗いと言っていたけれど、遠藤さんは階段をのぼっていくところだった。どこに行くつもりだろう。わたしの足は遠藤さんを追いかける。負の感情を受けた身体は、無性に重かった。それでも一歩一歩を前に押し出す。

 遠藤さんが入っていったのは、わたしたちの教室のちょうど真上にある空き教室。

 わたしは息をひそめて、扉の陰から中をうかがった。教室の中は、遠藤さんから染み出した静かな感情で満たされていて、まるで深海にいるように息苦しかった。音もなく光もない。わたしは怖くなる。

 この教室が怖い。遠藤さんが怖い。

 それでも窓の外に見える空と海は、まぶしいほどに明るくて。そんな外の世界を前に、白いセーラー服を身にまとっているはずの遠藤さんの姿が、真っ黒な影に見えた。

《青い》

 遠藤さんは、そっと窓の鍵を開ける。

《青い》

 海からの潮風が、教室に吹き込む。

《青い》

 潮風が、遠藤さんの短い髪を揺らす。


《つらい》


 遠藤さんが、窓枠に足をかけた。


「――駄目っ!」

 遠藤さんに飛びついて、その身体を羽交い絞めにする。

 遠藤さんは、飛びついてきたのがだれなのか確認することもなかった。腕を闇雲にふりまわして暴れる。どうやっても、窓の外に行くのだという意志を持って。遠藤さんが窓枠をつかむ。わたしはその手首をつかんで、引きはがそうとする。

「待って、遠藤さん! お願い! 待って!」

 いやだ、離して、と張り裂けそうな声がする。遠藤さんの爪が、わたしの目もとをかすった。ぴりっと痛みが走る。それでもわたしは、離さない。

「遠藤さん!」

《つらい、つらい、つらい、つらい》

 ぷつりと風船が割れて、破裂するように。遠藤さんのためこんでいた感情が弾けた。

 わたしはまともに正面から爆風を浴びた。息が苦しい。涙があふれる。手足がふるえる。どうしてこんなことになっているのか、と頭の中は混乱していた。それでも、遠藤さんを離さない。

「お願い! まって……!」

 満足に声も出せない。荒い呼吸しかできない。短い息しかできない。一瞬身体がカッと熱くなる。でもすぐさま、氷のように冷えていく。視界がチカチカと明滅した。それでも、遠藤さんを離さない。離しちゃいけない。ここで離しちゃ駄目だ。

 遠藤さんは獣のように暴れる。もう消えてなくなりたい、と叫びながら。わたしも必死に駄目、と叫びながら彼女を止める。だって、こんなの、駄目だよ。

「えんどう……、さん!」

「遠藤さん」

 ふいに、静かに響く声がした。

 ぐいと、羽交い絞めにしていたはずの遠藤さんの身体が、横から引っ張られる。遠藤さんは、目を見開いた。

「待って、遠藤さん」

 その声に頭の中を支配されたのか、遠藤さんはぴたりと動きを止めた。一湊(いっそう)(みなと)の声は、こんなときでも、驚くほどに静かだった。

 教室には、わたしの荒い息の音がする。息って、どうするんだっけ。吸おうとして、咳き込んだ。胸が動き方を忘れている。気道をなにかがふさいでいる。息できない。

「のどか」

 身体を折って床に座り込むわたしに、湊が言う。

「俺を見て」

 ゆるゆると顔を上げた。湊の静寂をたたえた瞳に、わたしが映るのが見えた。なにもない。湊の瞳には、静けさ以外、なにもない。

「息吸って」

 言われたとおりに、息を吸う。するりと、空気が気道を通っていく。

 大丈夫。息、できる。

 だんだんと落ち着いていく自分の呼吸音。

「平気?」

 こくん、とうなずいた。

 湊に捕まっている遠藤さんは、困惑した瞳でわたしを見ていた。
「さっきの、なに」

 遠藤さんはうつむいたまま、つぶやいた。

 場所は司書室。図書室内の、いつも委員会の子が座っているカウンターの奥にあった扉を越えた場所。そこは棚に収まりきらない本が詰め込まれた、小さな倉庫のような部屋だった。草本先生のものらしいノートパソコンが置かれた小さな机を挟んで、わたしと湊は、遠藤さんと向き合っている。

 担任の先生には、草本先生から事情を説明してくれるそうだ。ほかの生徒たちは授業中だから、図書室には草本先生とわたしたちしかいない。

 その草本先生は、「なにかあったら声をかけてね」と司書室の外に出て行ってしまった。カウンターにつづく扉も閉めていってくれたせいで、ここは密閉されている。

 さっきの、なに。

 空き教室からこの部屋に移っても、ずっと沈黙していた遠藤さんの、はじめての言葉。

 ――いまさら、なんで助けに来たの、とか言わないんだ。

 ずっと見捨てていたくせに、大事なところで邪魔をしにくるなんて、とわたしを責める言葉が出てくると思っていたから、すこし驚いた。

 いまの遠藤さんは、《悲しみ》にあふれていた。その感情をまともに受ければ、きっとわたしは溺れてしまう。だから、なるべく意識を湊のほうに集中させた。司書室に窓はない。海を見つめて気を紛らわすことはできなかった。

 わたしはどう答えるべきか迷った。あんな取っ組み合いをしたあとだったから、わたしも、あまり余裕がなかったんだと思う。

「感情が、わかるの」

 いつのまにか、口からは、うそでもごまかしでもない、真実がこぼれ落ちていた。

「他人の感情が、わかるの」

 ぽつりぽつりと、自分のことをふたりに話した。ひとに話すのははじめてで、たぶん、わかりにくい説明になっていたと思うけど、湊も遠藤さんも静かに聞いていた。他人の感情がわかるなんて突飛な話を聞かされたのに、ふたりとも「なにそれ」と疑いはしなかった。

「そうなんだ」

 遠藤さんはそれだけ言った。湊はふっと息をついて、「俺は?」と首をかしげる。

「俺といるときは、平気そうな顔してた」
「湊は……感情が読めないんだよ。ほら、湊、ポーカーフェイスだから」

 どうしてわたしが、他人の感情を知ることができるのかはわからない。それは魔法みたいな力なのかもしれない。だけど、もしかしたら、わたしが無意識のうちに他人の表情や声色、仕草なんかを観察して、そこから相手の感情を察しているだけなのかもしれない。

 共感性羞恥心とか、そういうものは、ふつうのひとにだってある。だれかがした恥ずかしい体験を見て、自分のことのように恥ずかしくなること。

 だれかの感動話を聞いて、泣けるひとだっている。

 わたしのこの体質は、そういうものと同類なのかもしれない。まあ、くわしいことなんて、わからないけれど。とにかく湊は、いつだって静かな表情をしている。だから、彼の感情はわたしにもわからないのかもしれなかった。

「――ごめんね、遠藤さん」

 わたしのつぶやきにも、遠藤さんは顔をあげない。じっと膝の上に乗せた自分の手を見つめている。

「遠藤さんが怖がっていることとか、つらいと思っていることとか、わたし、知ってた」
「……流れこんで、くるから?」
「うん」

 その力がなかったとしても、あの教室にいたら、だれでもわかることだ、とは言えなかった。

「そっか。ごめんね三糸さん」

 え、と口を開けたわたしに、あいかわらずうつむいたまま遠藤さんが言う。

「迷惑かけて、ごめん」

 そんなの、遠藤さんが謝ることじゃないのに。

 それにわたしは、自分がつらいからって理由だけで、遠藤さんを避けてきたわけじゃない。遠藤さんを助けて、須川さんたちに目をつけられるのが嫌だったんだ。ごめんなさい、とわたしはもう一度つぶやいた。だってそれ以上に言えることがなかったから。

 会話が途切れると、司書室にはひたすら静寂が満ちた。

「さっき、三糸さんが止めに来たとき」

 無音を、遠藤さんが破る。

「なんでいまさら、って思った」
「……うん」
「でも、ほんのちょっと、うれしかった」

 遠藤さんの声は平坦だ。

「だれも、あたしのことをわかってくれないって、思ってたから。あたしのことなんて、どうでもいいんだって」

 空は青い。海も青い。自分とは関係なく。

 遠藤さんの感情は、まだ脳の裏側にはりついている。

「でも、いたんだね、わかってくれるひと」

 それは決して《うれしい》とか、そんな感情ではなかったけれど。

「必死で止めに来てくれるひと、いたんだね」

 教室で感じた、あの燃えたぎるような感情ではなくて。すこし、ほっとした。だれにもわかってもらえないということが、彼女が命を断とうとしたきっかけになったのなら、一応はこれで、死ぬ理由はなくなったのかもしれない。

 ――ずっと見ないふりをしてきたわたしが、死ぬのだけは止めるなんて。

 自分勝手だろうか。

 でも、遠藤さんはなにも悪くないんだ。死ぬ理由なんてない。死んでほしくはないと思う。

「逃げたっていいんじゃない」

 湊の声は静かだけど、いまの遠藤さんとはまたちがった平坦さだった。

「そんなにつらいなら、学校なんて来なければいい」
「でも……」

 遠藤さんの言葉はつづかなかった。彼女の気持ちは、わかる。いじめられていることなんて、親には言いづらい。自分が弱者であることなんて、言えないんだ。休むにしたって、転校するにしたって、迷惑をかけるだろうし。

 それに、「なんで」「なにがあったの」なんて訊かれたら、どう答えていいのかわからない。聞かないでほしいと思う。傷をえぐらないでほしい、と。

「でも無理して、自分がつぶれたら、意味ない」

 遠藤さんが、すこしだけ顔をあげた。

「逃げるのは、悪いことじゃない。死ぬのは駄目だけど」

 湊はゆっくりとまばたきをして、遠藤さんを見つめる。

「逃げていいよ」

 遠藤さんの瞳に涙の膜がはった。ぷっくりと目のふちにたまった涙が、頬を伝う。けれど遠藤さんはぼんやりとしていて、涙をぬぐうこともしなかった。

 しばらくして、とんとん、と小さなノックの音がして草本先生が顔をのぞかせた。わたしと湊は教室にもどることにしたけど、遠藤さんは司書室に残った。司書室の扉をぱたんと閉めて、わたしは息をつく。だけどなかなか動きだせずに、扉の外に立ち尽くした。

 ――遠藤さんは、これから、どうしたい?
 ――あたし、は……。

 扉越しに、そんな会話が聞こえる。

 逃げてもいいよ、遠藤さん。たぶん、須川さんたちは変わらない。わたしたちを取り巻く世界は、そう簡単に変えられないし、いままでの苦しさがなかったことにはならない。それなら、教室という世界を抜け出してしまったほうが早い。

 わたしたちなんて、無力なんだから。

「のどか、行くよ」
「……うん」
 遠藤さんといっしょに姿を消していたわたしと湊に、クラスメイトたちは好奇の視線を向けてきた。わたしはあいまいに笑ってごまかす日々を送るしかない。

「悪いなあ、三糸」
「いえ」

 昼休み。職員室のコピー機で、わたしは午前中にとったノートを複写していく。その様子を見ながら、担任は言う。

「遠藤のこと、頼むよ」

 わたしはひとつまばたきをして、笑顔でうなずいた。

「はい」

 ――なんで、またなの。まあ、やるけどさ。一応、ちょっとは優等生ってことになってるし。

 コピー機から生み出されていくノートの複製品。積み重なっていく紙の束を、じっと見つめた。

 遠藤さんは、けっきょく学校をやめなかった。でも司書室登校をしている。教室ではなく、司書室に直行して、司書室から帰る。そういうのって保健室は聞くけど、司書室ってなかなかないなと思った。でもまあ、遠藤さんにとっては司書室のほうが落ち着くのかもしれない。草本先生と仲よさそうだったし。

 わたしは担任から、ノートのコピーをとって遠藤さんに届ける役目を任された。

 先生がプリントをつくって持っていけばいいのに、友だちとの接点は残したほうがいいだろうとのことで、わたしに一任されたらしい。おかげさまで、わたしは授業中に居眠りができなくなった。

 ノートのコピーを持って、わたしは職員室から図書室に移る。草本先生にあいさつしてから、司書室で待つ遠藤さんを訪ねた。

「おはよ、遠藤さん。はいこれ、午前中のノート」
「ありがとう。三糸さん」

 遠藤さんは、わたしに小声で言った。あいかわらず顔色は悪いけど、前みたいにわたしが気持ち悪くなるほどの《恐怖》は感じなかった。それどころか、命を助けるなんて字面にするとなんともかっこいいことをしたわたしに気を許してくれたのか、会いに行くとすこしの会話をしてくれる。

「三糸さんの字は、ちょっと丸っこいよね」
「そうかな?」
「うん。この前、一湊くんのノートもらったけど、一湊くんの字もきれいだった」

 ああ、そういえば。たまにはちがう子とも接点を、とかなんとかで、一回だけ湊にノートのコピーをとるように、担任が言っていたんだ。でもけっきょく、その一回以外はわたしがやってるんだけど。おひとよしのオーラでも出ているんだろうか。それとも、ちょっと優等生なキャラづくりのせいか。面倒ごとは全部わたしに回ってきがち。

 それでも笑って、遠藤さんに手をふる。

「じゃあ、また放課後くるね」
「うん」

 遠藤さんは、ほんのかすかに笑みを浮かべてくれた。

 ――また放課後、か。あんまり、来たくないけどなあ。

 図書室を出て、自分の教室にもどる。その前に、廊下で須川さんとすれちがった。

「あ、三糸さんだ。大変だねー、彩のお世話」

 わたしは意識して口角を持ち上げた。手を背中の後ろにまわして、爪でぎゅっとつねる。

 須川さんから流れてくるのは《不愉快》。それを一応は薄いベールで隠そうとしているけれど、中身が透けて見えるから意味がない。

「先生に頼まれちゃったから」
「へえ。三糸さん優等生だもんねー」

 とりあえず、かわせたようだ。須川さんは、あふれだす感情はそのままだけど、それ以上なにも言わずに去っていく。ほっと肩から力を抜いた。

 けっきょく、こんなものだ。遠藤さんがいなくなったって、世界はたいして変わらない。須川さんに考えを改めさせるだとか、そんなことはむずかしい。

 教室の自分の席につく。後ろの席では、湊が机に突っ伏して眠っていた。すやすやと安眠しているようだ。にくらしいなあ、もう。

 美里は、ちらっとこっちを見たけれど、話しかけてくる様子はなかった。わたしもひとりで頬杖をついて、窓の外を見つめる。

《警戒》

 クラスのみんなの感情が、ぴりっと肌を刺してくる。美里もそうだ。

 そう、こんなもんなんだ。

 遠藤さんが去年、だれかをかばって須川さんを敵に回したのなら、遠藤さんを助けたわたしも、いつ須川さんたちの逆鱗に触れるかわからない。そんなわたしには関わらないほうがいい。美里がしているのは、わたしが遠藤さんにしていたのと同じこと。

 世界はそうやって、なにも変わらずぐるぐると回っていく。なんて、つれない世界だろう。

 ――つぎは、わたしの番か。いや、うまくやれば回避できる? もう無理かな?

 美里とは、距離をおいたほうがいい。そのほうが、美里のためだ。わたしは空気みたいに溶けていなくちゃ。これ以上目立つのはまずい。

 左手の甲を、右手の爪でつねる。じんわり伝わる痛みを感じながら、海を見つめる。

 きらきら、きらきら。
 ああ、今日も青い。
 青い。青い。

 消えてしまえたら、楽なのに。

 ぎゅっと、肌に爪を立てた。
 放課後になって、宿題をする気力もない。早く教室から去りたくて、わたしは遠藤さんへの任務も果たして早々に駅に向かった。すると、そのとなりに湊が並んだ。最初、驚いて、口をぽかんと開けてしまった。湊は背が高いから、見上げる形になる。

「湊。なんでいるの。部活は?」
「今日は調子悪いから、パス」
「え、風邪?」

 眉をひそめると、湊はゆるく首をふる。

「そうじゃなくて、気分乗らなかったから」

 なんだ。ほっとしたけど、それでいいのかとつっこみたい気持ちもあった。そんなわたしに気づいたのか、湊は「いいんだよ」と言った。

「気分乗らないときは、写真も調子悪いから」
「そういうもんなんだ」
「そういうもん」

 まさか、わたしといっしょに帰るために……なんて考えが一瞬よぎったけれど、まあ湊なら本当にそれだけの理由なんだろう。でも、この状況、恋人の柊木先輩的には大丈夫だろうか。

 ……いやわたし、ただのクラスメイトだし。うん、大丈夫だ。他意はない。ただのオトモダチだ。

「俺、普通だけど。のどかは急行?」
「あ、いや、急行でも行けるんだけど、いつも普通に乗ってる」
「へえ。時間かかるのに」

 ホームから海を眺めながら、電車がやってくるのを待つ。いつもより早い時間帯だから、空も海もまだ青さをたもっている。

「だって急行、混むじゃんか」
「まあね」

 ちらっと、湊の横顔を盗み見る。つんと高い鼻に、すっとした顎。横顔のシルエットからして、きれいだ。あ、なるほど。美里の言っていたシルエットからイケメン臭って、こういうことか。

 黒い前髪がかかった瞳に、海の輝きが反射していた。なにを考えているかわからない湊だけど、海のことをきれい、とか思ったりするのかな。湊の澄んだ瞳に映る海は、実際の海より美しく見えるような気がした。

 電車がホームにすべり込んでくる。この駅で五分停車。

 車内はひんやりと涼しかった。当然のようにとなり同士の席に座るけど、すこし緊張する。だってほら、教室だと前後なんだもん。慣れない。

「のどかは、海見るの好きだね」
「え?」
「教室でもよく見てる」

 後ろの席の湊にはお見通しらしい。

「あー、まあ、きれいだからね」

 ホームから、笑い声が聞こえてくる。須川さんだった。あれ以来いっしょの車両になることはなかったのに。なんてタイミングだ。せっかくちょっと、湊といられて気分よかったのに。

 わたしは黙って海に視線を投げる。

 あ、なんか、気持ち悪いかも。

 お腹のあたりで、なにかがくすぶっている。指先から、じんわりと熱が引いていく。うつむいて、深呼吸を繰り返す。やっぱり、急行で帰ればよかった。湊には見られないように髪で横顔を隠して、眉をひそめる。今回ばかりは、湊に意識を集中しようとしても、不調が治まらない。

 唐突に、湊が「あ」と声をあげた。

「……え、なに? どうかした?」

 どうにか気合いを入れて顔をあげたわたしに、彼はあいかわらずの無表情で言う。

「喉渇いた」
「え?」
「おすすめのジュースある?」
「んん?」
「俺、普段ジュース飲まないから。おすすめ教えて」
「あ、ちょっと……!」

 さくさくと電車からおりてしまった湊の後ろ姿を、あわてて追いかける。

 車両から出ると、不思議なくらい、すっと呼吸がしやすくなった。潮風を胸に吸い込む。気持ちいい。

 自動販売機は、すこし離れた場所にある。湊はそこまで歩いていって五百円玉を入れると、「どれがおすすめ?」と首をかしげた。どこまでもマイペースだな。ちょっと笑えた。

「じゃあ、えっと、炭酸とか……?」

 これ、と指で示すと湊は迷うことなくボタンを押した。落ちてきたペットボトルのふたを開けると、プシュッとさわやかな音。湊はひとくち飲むと、「うん、炭酸」と、そのままの感想を言った。

「そろそろ電車出る。行くよ」
「あ、うん」

 言われるがまま、電車にもどる。自動販売機から近い、さっきとはちがう車両だった。

 アナウンスが流れて、扉が閉まる。電車はゆっくりとすべり出した。となり同士で座って、電車の揺れに身を任せる。イヤホンをつけずに電車に乗るのは、久しぶりだ。なんだか、へんな感じ。

 がったん、ごっとん。海辺を走るこの電車は、観光客に人気らしい。土日や観光シーズンはけっこうにぎわう。でも平日は、わたしたちみたいに流されるまま日々を生きる地元民が使う、ふつうの電車。

「のどか」
「うん?」
「なんかあった?」

 ぴくっと身体が反応してしまって、あわてて笑顔をつくろった。

「いや、べつに」
「そう?」
「うん。なんもない」

 会話はそこで終了した。新しくぽつぽつと話はするけれど、話題はもどってこなかった。

 なんもない……、わけじゃない。湊だってそれくらいわかるだろうに。同じクラスで、席は前後なんだし。美里のこととか、教室の空気感はよくわかるはずだ。でも深く聞かないのは、虚勢をはりたいわたしに対してのやさしさか。それとも、湊は本当にわからないのか。湊って、たとえわたしの立場になったとしても、ぜんぜん気にすることなく普段と同じ表情をしていそうだもん。

 なにをしても、湊は静かな瞳をしている。

 いいな。だったら、湊が担任からの任務を受けてくれればいいのにさ。わたしには、こういうのは荷が重い。

 ぎゅっと、肌に爪を立てた。

 それからどれだけ電車に揺られていたのだろう。たぶん、二十分くらいだろうか。

「俺、この駅」

 湊が腰をあげた。はっとして、笑顔をつくる。

「へえ、ここでおりたことないや」

 小さな駅だった。なんとなく物珍しくて、わたしはドアのところまでついていく。ひょいとのぞいてみたけれど、本当になにもない場所だった。湊はホームにおりたつ。

 べつに、名残惜しかったわけじゃない。

 本当は、なんかあった、ってもうひと押しくらいしてくれたら、相談できそうだったのに、とか思ってない。そこまで高望みはしない。できない。だってわたしは、湊の彼女でもないし。そこまで彼に頼れない。

「じゃ、また明日」

 わたしはそう言って手をふった。

 扉が閉まります。ご注意ください。定型文の、つまらないアナウンス。

 また明日、変化しない日常にもどっていく。まあ、なんとかなるでしょ。たぶん。おろした手をもう片方の手で支えながら、陰でぎゅっとつねった。

 ――大丈夫、うん、大丈夫だ。わたしは、がんばれる。

 すこし顔を伏せて、よし、と目線をあげる。湊の瞳を見る。静かな瞳に、もう一度笑みを送る。その直後だった。

 あ、と言う間もない。手首をとられて、ぐいと引かれた。背後で扉の閉まる音がする。

 へ、とやっと出た声は、電車の発車音にかき消された。

 わたしを置いて、電車はすべり出していく。夕焼けに染まっていく薄暗い世界で、車内の煌々とした明かりが湊の顔に影を落としては流れていった。わたしはその様子をぼんやりと眺める。

 握られていた手が、あっさりと離れていった。

 すっかり電車がいなくなると、駅のホームには静寂が満ちる。

「のどか。なんかあった?」
 つぎの電車は四十五分待たなければ、やってこない。時刻表を確認して、湊は「うわあ」とこぼした。

「けっこう時間ある。のどか、うち来る? ここから近いよ」
「えっ、い、いやいやいや……!」

 彼女持ちがそんなこと言っちゃダメでしょう。わたしは全力で首をふる。たとえただのクラスメイトといっても、それはダメだ。柊木先輩に申し訳ない。

 わたしたちはホームのベンチに座った。夕焼けに燃やされていく海が見える。湊は夕焼けが嫌いだと言っていた。そんな時間につき合わせて、申し訳ないな。柊木先輩にも悪いし。気まずさに、手の甲をつねる。ぎゅっ、と。

「それ、やめたほうがいいんじゃない?」

 湊がわたしの手を見ていて、はっとした。あわてて隠すけど、もうばれているらしい。湊はたいして気にしていないような顔をしていたけれど、わたしは気になって仕方ないから、手を引っ込めたままにする。

「教室でも、ときどき見たら、手が真っ赤になっててビビる」
「湊でもビビるとか、あるんだ」
「あるよ」

 ビビっているようには見えないんだけどな、そんな無表情だと。わたしは小さく笑った。

 ――どうしよう。

 もうひと押しをしてくれたら、話せる気がしていた。だけど実際この状況になってみると、口が重くなる。面倒くさいな、自分。こんな女々しかったっけ。

 でも、つぎの電車まで四十五分もあるという事実。話さないと、この時間が無駄になるだけだ。

「……あのさ、他人の感情が読めるって、わたし、言ったでしょ」

 小さな駅でまわりにはなにもないから、つぶやくような声でも相手には伝わる。湊は「ん」とうなずいた。

「それ、中学生のときからなんだけど。その、中学のときもさ、いまと同じようなことがあったんだよね。まだこの体質になる前に」
「いまと同じ?」
「いじめっていうか……、まあ、そんな感じのヤツ」

 ちょっと浮いている女の子がいた。まわりと馴染めずにいた、というかいじめられていたその子に、わたしはなるべく声をかけるようにしていた。そのときのわたしも、ちょっと優等生って立ち位置だった。

 めちゃくちゃ優等生って子は真面目すぎて、先生もそういうことを頼みづらかったのかもしれない。わたしくらいの立ち位置の人間が、ちょうどいいんだろう。頼みは断らない、だけど深刻には考えず笑っていられるような子。だから、なにかと、その子とセットに扱われて「よろしく」と言われていた。

「でもそしたらさ、その子に、変に好かれすぎちゃったんだよね。その子が頼れるのが、わたしだけだったからだと思うんだけど、いつもべったりで、持ち物まで同じようなものを集め出して……。正直、ちょっと困って」

 わたしにだってべつの友だちがいたし、その子につきっきりは無理。それに、負担だった。そんなに頼られても、困る。だから、その子と距離をおきたかったんだ。

 だけど先生たちはあいかわらず、わたしとその子をセット扱いする。わたしもがんばってはみたけど、けっこう限界だったみたいで。すこしずつ、いや、たぶん露骨だったのかもしれない。その子から離れようとした。

「そしたらさ、その子、なんでって怒っちゃって。けっきょく、わたしとは縁切るって言って、べつの友だちをつくったのね」
「つくれたんだ。浮いてる子だったんでしょ」
「そこはまあ、こんにゃろーって感じで、がんばったんじゃない? だったら最初から、そうしてくれよって感じなんだけど。で、まあ、わたしだけが残っちゃったんだけどさ……」

 なぜだか、今度はわたしが、クラス内で浮いていた。

 先生に言われるがままになっていたわたしは、いい子ぶりっこだと思われたのか。みんなでいじっていた相手にやさしくする、空気の読めないやつだと思われたのか。

 つまりは、いまの遠藤さんとほとんど同じ立場だったというわけだ。助けに入ったら、被害を受けた。木乃伊取りが木乃伊になっちゃった。中学も高校も大差ないらしい。

「やっぱり、関わらなきゃよかったじゃんって思ったんだよね。変に目立たず、まわりに合わせて、空気みたいに生きていたほうが楽だったなあって。……って思っていたら、いつのまにか他人の感情がわかるようになってた」
「ああ、そういう流れ」
「うん」

 だから、やっぱりわたしは、無意識にみんなを観察しまくっているのかもしれない。まわりに合わせて、溶け込むために。それで感情がわかるようになった、ってことだろうか。

 わたしにだって、悪いところはあったと思う。こっちの都合で仲よくなって、こっちの都合で離れようとしたんだから。あの子も、わたしに振り回された被害者だと言えるだろう。でもわたしだって、しんどかったのは事実で。

 んー、と腕をのばした。

「だからね、いまの状況は、まったくの予想外なわけですよ。遠藤さんとは関わる気なかったのに、けっきょくまた、先生からよろしくーって頼まれるし、教室ではわたしが浮きはじめてるし」

 ぜんぜん空気になれてないじゃん、わたし。

「それでも助けたんだ? 遠藤さんのこと」

 湊の言葉に、うーん、とあいまいに笑う。

「なんでだろうねえ。本当にさ、そんな気なかったんだよ」
「やさしいからじゃない?」

 やさしい? わたしが……?

 あははっと嘲笑がこぼれた。

「ずっと見ないふりしてきたわたしが、やさしいわけないじゃん」

 思いのほか強い口調になってしまって、自分で驚いた。湊の言葉を真っ向から否定してしまったことを謝ろうかと思ったけど、開いた口を閉じた。

 でもだって……、そうでしょ?

 傍観者だって、罪はある。わたしはもうすこしで、遠藤さんを殺すところだった。彼女が世界から消えてしまう一歩手前の場所まで、追い詰めた。こんなわたしが、やさしいわけない。

「ほんっとにもう、うまくいかないよねー」

 くすくすと笑うわたしの視界がぼやけた。ものの境界がなくなって、溶けてぐちゃぐちゃになる。ああもう、と目もとをこすった。本当に、うまくいかない。

「遠藤さん、なんにも悪くないのにさ。なんであんなに追い詰められなきゃいけないんだっての。いじめる須川さんの考えが、ほんっと、わけわかんない。わたしだって、なにも悪いことしてないしさ……あ、いや、遠藤さんには悪いことしたんだけど、でも美里と離れなきゃいけないようなことはしてないのに、ギクシャクしちゃうし」

 ぬぐってもぬぐっても、涙があふれてくる。声がふるえる。

 美里が悪いわけじゃない。だけど、距離をおかれるのは、寂しい。教室のあの肌を刺すみんなの感情が、しんどい。

 ……でもそれは、遠藤さんがずっと耐えてきたものだろう。ならわたしも耐えるべき?

 お腹の底が重たくて、ぐっと下くちびるをかむ。遠藤さんのことを見捨てておいて、自分だけ寂しいつらいって騒ぐのは、どうなんだろう。ずるくない?

 そう思うと、言葉が喉のあたりでつっかえて、ぎゅっと目を閉じた。言葉を呑み込んで、涙も抑えようと努力する。これ以上は、たぶん、湊にも迷惑をかけるから。だからもうちょっと、がんばってよわたし。

「言わないの?」

 湊の声がした。

「え?」
「言わないの?」

 湊の澄んだ瞳に、わたしの顔が映る。

 言いたい。聞いてほしい。助けてほしい。そんな感情が、湊にはすっかり伝わっているような気がした。湊には、わたしみたいに感情を読む力はないはずなのに。

「聞くよ」

 湊は、わたしの欲しい言葉をくれる。

 ぽろっと、瞳から涙が落ちた。

 ――逃げてもいいよ。

 湊が、遠藤さんに言った言葉。もしかしたら、あのときの遠藤さんもわたしと同じ気持ちだったのかもしれない。遠藤さんも、逃げていいよって、言ってほしかったのかもしれない。

 湊の言葉には、そういう不思議な力があった。
 わたしは、湊から視線をはずして、海へと投げた。やっぱり海はきれいで、にくらしい。

「先生たち……、先生たちもさ」
「うん」
「なんで、わたしばっかりに頼るかなあ。よろしくー、じゃないってば……。そんなん、わたしに言われても困るし……」
「うん」
「だいたい遠藤さんも――」

 空が海が青いと、死にたいと、そう思った遠藤さんは。

「わたしに謝る必要ないんだよ。感謝する必要もないのに、ありがとうって言ってくるしさ! やめてよ、罪悪感えぐいから!」

 ノートのコピーを渡しに行くたびに、ありがとう、とかすかに笑ってくれる遠藤さん。見殺しにしそうになったわたしに、そんな笑顔向けないでよ。

 これ以上なつかれて中学みたいなことになったら嫌だな、とか思っちゃうわたしが最低すぎて、気持ち悪くなるじゃん。ただひたすら、自分が汚いものみたいに見えてくる。お礼なんて言われる資格、わたしには、ないのに。

「わたし、そんないい子じゃない……っ!」
「たぶん、遠藤さんは本当に、うれしかったんだと思うよ」

 鼻を鳴らしながら、わたしは湊を見る。湊はわたしじゃなくて、海を見ていた。湊が嫌いな、夕焼けに燃やされる海。

「のどか、必死に遠藤さんを止めてたし。だれかに、死なないで、生きていて、って言ってもらえたことは、うれしかったと思うよ」

 わたしはぽかんと湊の横顔を見つめて、くちびるをかんだ。

「……やだやだ、湊がムダにやさしい」
「ムダなの?」
「ムダじゃないけど」

 ぼろぼろと涙がこぼれるから、やめてほしい。

 いい子じゃないよ、わたし。

 それでも、湊は首をふる。

「いじめてるか、ずっと傍観決め込んでるクラスメイトしかいないんだから。その中じゃ、のどかは一歩リードしてるんじゃない?」
「うわ、なにその最底辺争い」
「まあ俺もなにもしてこなかったし、その最底辺なんだけど」
「湊も、遠藤さん助けたじゃん」
「一応ね。でもそれまで、関わってこなかったし」
「なんで?」

 つい訊いていた。湊だったら、わたしみたいにまわりのことを気にしないで、遠藤さんを助けていてもおかしくなかったから。だって、わたしのことも、何度も気づかって助けてくれたし。

「遠藤さんが、俺には近寄ってほしくないって思ってたから」

 その言葉が意外で、わたしは、え、と目を丸めた。

「俺がいっしょにいると、余計に須川さんがいらつくから、近寄らないでって。実際言われたことはないけど、そういうこと考えてそうだったから、近寄らなかった」

 意味がわからなくて一瞬考えてしまったけれど、なるほどと理解する。湊はモテるから、そんな湊に助けられたんじゃ、須川さんたちの嫉妬を買うってことか。遠藤さんも、わたしと同じで須川さんの顔色をうかがっていたんだ。

 わたしはうなりながら、膝の上に乗せた鞄におでこをつける。

 なんなんだよ、須川さん。そこまで遠藤さんが気を使わなくちゃいけないほど、須川さんって偉いの? 同じ高校生のくせに。

「……遠藤さん、大丈夫かなあ」
「大丈夫だよ。遠藤さんは、そこまで弱くないと思う」
「えー?」

 顔の位置をすこしずらして、湊を見上げる。やっぱり湊は、海を見ている。

「あと、のどかも、大丈夫」
「えええ? なにが?」
「今回は、俺と半分こだから」

 意味がわからなくて、「うん?」と訊き返す。

 てか、半分こて。かわいいな。

「遠藤さんを助けたのは、俺も同じ。依存されたとしても、俺と半分にわけられる。中学のときよりは負担少ないんじゃない? ノートのコピー、俺も手伝うよ」
「まじ?」
「まじ。教室でハブられるなら、俺もいっしょにハブられるし」
「……それでも湊、なんにも苦じゃなさそうなのが怖い」
「まあ、だれに嫌われても困らないし」
「うわ、メンタル鬼つよ」

 ふふっと笑った。なにがあっても、湊はこの無表情のままを貫いていそうだ。いいなあ、まわりに合わせてご機嫌うかがいの笑顔をふりまいているわたしとは、大ちがい。

 そっかあ、半分こかー。なんだか笑えてくる。

「半分こなら、わたしも楽かも」
「でしょ」
「うん」

 海がすこしずつ、夜の藍に染まっていく。遠くに電車の明かりが見えた。もう四十五分経ったらしい。けっこう、あっという間だった。もうすこし、話していたい気もするけれど、そんなことまで望めない。もうすこし、いっしょにいたいなんて言ったら、湊を困らせるだろう。

 もし、わたしが湊の恋人だったなら、そんなわがままも許してもらえたのかな。

 そんな考えを振り切るように、わたしはベンチから立ち上がった。

「ごめんね、湊。変な話聞いてもらって」
「ううん」

 電車の明かりが近づいてくる。まぶしくて、目を細めた。

 ――大丈夫。

 今度はちゃんと、そう思えた。だって、湊と半分こだ。

「みなとー、ありがとうー。今度なんかお礼するねー」

 湊はゆっくりまばたきをして、わたしを見た。

「助けてもらいっぱなしは、嫌だもん。なんか好きなお菓子とかある? 買ってくるよ」
「とくにない」
「えー? ならほかに、してほしいことない?」
「ない」

 甲高いブレーキ音を鳴らして、電車が止まった。望みがなにもないなんて、遠慮されているんだろうか。ああでも湊が無欲なのは、っぽいなあ。

 扉がぱっかりと開かれる。

「じゃあ、なにかお願いごとができたら、教えてよ。それまで保留ね」

 湊には今日含めて、ずーっと助けられてばっかりだ。ちゃんとお返しをしないと、わたしも気持ち悪くなってしまう。恵んでもらうだけなんて、人間関係のバランス悪いでしょ。

 なんで湊って、こんなにやさしいのかなあ。ほかの女子にもこんな感じ? 美里は、わたしにだけ湊はやさしい、なんて言ってたけどさ……。

「また明日」
「ん」

 乗り込んで、振り向いた。ひらひらと手をふると、湊も片手をあげた。四十五分前は、ここで湊に手を引かれたんだ。思い出してしまって、なんだか恥ずかしくなってくる。

 ――指先、きれいだなあ。

 その指を、柊木先輩の指と絡めたりするんだろうか。

 がたん、と揺れて、電車は動き出す。しばらく手をふりつづけてから、ふうと息をついた。扉に背をあずけて、目を閉じる。

 ――駄目だよ、わたし。

 深呼吸を繰り返す。湊には、柊木先輩がいる。出しゃばっちゃいけない。これ以上、彼に近づいちゃいけない。そう自分に言い聞かせる。そうじゃないと、わたしの気持ちは駄目な方向に舵を切ってしまいそうだったから。

 それから遠藤さんを思い浮かべる。

 明日のノートを渡すときは、もうすこし、声をかけてみようか。
 つぎの日、わたしは登校してから教室ではなく、司書室に最初に顔を出した。スマホに遠藤さんからの連絡があったからだ。ノートのコピーを渡すときに、連絡先は交換していた。でも、遠藤さんから呼び出されるのははじめてだ。

 草本先生にあいさつすると、「遠藤さん、もういるわよ」と微笑まれた。

 すこし不安になりながら扉を開ければ、遠藤さんは司書室で本を読んでいた。立ち上がって、わたしに「おはよう」と言う。

 ぴりっと《緊張》の波が来た。わたしはバッグの持ち手を握る。昨日決意した想いが、すこし揺らぐ。いったい、なんなんだろう。感情は伝わっても、遠藤さんの考えていることまで伝わらないのは不便だ。彼女が緊張しなきゃいけないことって、なに。

 それでもわたしは笑顔をはりつける。

「おはよう。どうしたの、遠藤さん」
「あの、今日のノートなんだけど……」

 ノート?

「今日は、その、美里さんにお願いしたから、三糸さんは気にしなくていいよ」
「え?」

 わたしは驚いて目を丸めた。なんで美里? 急にどうしたの?

「き、昨日ね、美里さんにお願いしたら、いいよって言ってくれて」
「そうなんだ……、でもなんで?」

 ぜんぜん話が読めなくて、眉が寄ってしまう。遠藤さんはびくっとしたけれど、目を閉じて、それからゆっくり開いた。

「三糸さんにばっかり頼っていちゃ、駄目だと思って」

 いよいよわたしの目はまん丸になる。だって、ぜんぜん、こんなの予想していなかった。

「あの、ね、……三糸さん困ってるみたいだったし、このままじゃ悪いなって……」

 ばれていたのか。緊張が走った。だって、中学のときそれで、いろいろとこじれてしまった。一気に不安になってわたしも目線を落とす。でも遠藤さんはちがった。

「けっきょく、ノート貸してもらうことになるから、三糸さんにも美里さんにも、迷惑かけちゃうんだけど……。だけど、三糸さんばっかりに頼らなくていいように、最後はちゃんと自分の足で立てるように……、がんばってみたい、から」

 遠藤さんと美里は、去年同じクラスだったそうだ。だから美里なら、助けてくれるかも、と思ったらしい。あとわたしと仲がよさそうだったから、美里もいい子なんだろう、と思ったのもあるらしくて。

 そういう事情を、遠藤さんは緊張しながら、ゆっくり話してくれた。

「……ねえ、遠藤さん。なんで学校やめないって決めたの?」

 わたしはついそう訊いていた。

 逃げてもいいよって、湊も言ってた。たしかに遠藤さんは、教室から逃げた。それでも、学校に来てる。そのうえ、美里にまで声をかけるなんて。たぶん、すごく怖かったはずなのに。

 世界なんて、わたしたちに冷たいじゃんか。

「須川さんたちに、心入れ替えてごめんなさい、って言わせるなんて、たぶん無理だよ。逃げちゃったほうが、早くない?」

 きっとわたしなら、そうする。いや、逃げることもできないから、状況を受け入れる。なるべくなら、目立たないように、ひっそりと生きてやり過ごす。……まあ最近それができてないんだけど。とにかく、逆らおうなんて、思わない。

 遠藤さんは沈黙を落とした。視線を伏せてから、「いろいろ、考えたんだけどね」とつぶやく。

「やっぱり、このまま負けるのは、嫌だな、と思って」
「負けるって……?」
「自分の生活を犠牲にするのって、嫌。その……、死のう、って思ったときは、本当に死ぬ気だった。だけど、いまは、なんでそんなことしたんだろう、って思うんだ」

 胸に緊張が走った。そうだよね、遠藤さんは死のうとしたんだもんね。いまこうして話ができているけど、そんな未来がなかったかもしれないんだ。そう思うと、ひやりと胸に氷を突きさされたような心地になった。

「わたし、この図書室好きだし。草本先生と話すの楽しいし。転校したり学校やめたり、死んじゃったりしたら……、その楽しいことも手放さないといけないから。それは嫌だなって。須川さんたちのために、そんなことしたくないなって」

 遠藤さんは、わたしを見て、小さな笑みを浮かべる。

「それに、ここには、三糸さんもいるし」
「わたしは――、そんなにやさしくないよ。ずっと遠藤さんのこと見捨ててきたし」

 つい、強い口調でそう言っていた。だって罪悪感につぶされてしまいそうなんだ。わたしが本当にやさしかったら、もっとはやく、遠藤さんを助けてあげられた。死のうなんて、思わせなかった。

 でも遠藤さんは首をふる。

「それでも、助けてくれた。あのとき、もう今日で終わりにしようって、たしかに思ってた。だけど、怖くもあったんだと思う。だれにも邪魔されたくなくて、でもだれかに助けてほしくて、止めてほしくて――そこに、三糸さんが来てくれたから。だから、ありがとう」

 小さく微笑んだ彼女の頬に、えくぼができる。かわいらしいな、と思った。瞬間、じわっと、涙がにじんだ。

「……そっか」

 遠藤さんの笑顔は、とても、とても、かわいらしい。

 遠藤さんが、生きていてくれて、よかった。

 目もとをこするわたしに遠藤さんがあわてたから、手をふって大丈夫と伝える。どうも昨日から涙腺がおかしい。湊のせいだ。それでも伝えなければと思って、私は無理やり口を開いた。

「遠藤さん」
「なに……?」
「遠藤さんは、なにも悪くないからね」

 息を整えて、必死に伝える。

「ごめんね、ずっと。あとノートのこと、あんまり気にしないで。遠藤さんに見せなきゃって思うと、いつもより授業に集中できるから助かるし」
「そう、かな……うん、なら、よかった。いつもありがとう、三糸さん。でも今日は、大丈夫だからね」
「美里がいるもんね。わかった、了解」

 せっかく、遠藤さんが勇気を出して美里に頼んだんだ。美里もそれを了承した。それなら、わたしが心配することじゃない。

 遠藤さんは、ちゃんと前に進もうとしている。その姿は、まぶしく見えた。

 予鈴が鳴った。もうすこし話していたいなと思ったけれど、わたしたちは手をふって別れた。つい「また昼休み」と言おうとして、今日は美里がいるんだった、とあわててしまう。遠藤さんは、ほんのすこしだけ、愉快そうに笑ってくれた。
 教室に向かう廊下で湊に会うと、彼は全部察しているみたいだった。

「遠藤さん、大丈夫だったでしょ」
「うん」

 湊は、昨日の遠藤さんと美里の会話を聞いていたのかもしれない。それなら、教えてくれればよかったのに。いやでも、今日遠藤さんの口から聞けたから、よかったのかも。

「遠藤さんは、強いね」
「ん、そうだね」

 教室に入ると、須川さんがわたしを見た。日に日に、須川さんの視線はチクチクしているような気がする。《不愉快》って感情も、強くなる。クラスのみんなも、なるべくわたしに関わらないようにしているのがわかった。みんなの感情は、お腹の底からわたしの不安をあおる。

 いまの教室は、暗い感情ばかりが渦巻いていて、気を抜くと倒れそうになる。

 遠藤さんが教室に来なくなったからといって、クラスにたいした変化はない。

 当たり前だ。自分ひとりの考えを変えることだってむずかしいのに、他人の考えを変えるなんて、凡人のわたしには無理だ。このクラスの空気を入れ替えるなんて、無理。

 それでも遠藤さんは、世界のすべては無理でも、自分を変えて、前を向いて生きようとしている。

 ――わたしにも、なにかできるかな。

 美里は、やっぱりわたしを見ようとしない。彼女が放つのは《緊張》。トゲみたいに突き出していて、近づくのが怖い。臆病なわたしは、なかなか動けない。それでも昼休みに入って、美里の姿を見たとき、声をかけたくてたまらなくなった。

 美里は、廊下の端にある学生用のコピー機を使っていた。遠藤さんに渡すノートをつくっているんだと思う。でもここだと、自分でお金を出さなきゃいけない。遠藤さんに渡す分は、職員室で頼めば、教師用のコピー機を無料で使わせてもらえる。その話までは、美里も知らないんだ。

 美里がわたしを警戒して緊張しているなら、ここで話しかけちゃいけない。美里のために、話しかけないことを選ぶべき。だけど……。

 須川さんたちのために、わたしは、美里との仲を捨てるの?

 そう考えると、心がちくりと痛い。

 どうしてわたしが、我慢しなきゃいけないんだろう。わたしはわたしの気持ちを殺してまで、この小さな世界に溶けていたいの?

「……美里」

 びくっと美里が振り返った。

《緊張》《小さな恐怖》

 わたしはこくりと喉を鳴らす。ふるえそうになっていることを隠したくて、ゆっくり慎重に口を開いた。

「それ、遠藤さんに渡すコピーでしょ? 職員室で、ただでやらせてもらえるよ」
「え、あ……、そうなんだ」
「うん」

 そわそわと落ち着かない美里の視線。彼女の《緊張》が高まる。

 ――やっぱり、話しかけちゃ迷惑だったかな。

 弱気がむくりと首をもたげた。残念ながら、わたしはそんなに強くない。というか臆病だから、耐えきれずに、くるっと背を向けてしまおうとする。

「……じゃあ、わたしは行くね」

 でも。

「あ、待って、のどか!」

 美里があわててノートを抱えて、一歩を踏み出す。

「職員室って、えっと……、どうすればいいの? 先生に頼む系?」
「そうだけど。事情話せば、職員室のコピー機を使わせてもらえるから」
「えええ、わたし、職員室入ったことない。……いっしょに来てよ」
「え?」

 わたしは目を丸めた。いっしょに、って言葉に驚いた。だけどわたしの口からは、なぜだか悪態が飛び出した。

「ちょっと美里、日直とかで職員室行くでしょ? 日誌取りに行ったり」
「あー、それは、ね……! ずっとペアの子に任せてる!」
「えええ。ウソでしょ」
「ホント。いやあ、悪いとは思ってるんだけどさ。職員室怖いじゃん」
「怖くないって。ただ先生がいるだけじゃん」
「それがやだ。先生の巣窟とか、行きたくない」

 不思議なくらいに、ふつうの、いままでどおりの、平凡な会話に、わたしたちは顔を見合わせる。そうして同時に、ぷっと噴き出した。

 ――なんだ、ちゃんと話せるじゃん。

 拍子抜けした。拍子抜けしすぎて、ちょっと泣きそうだった。

「もう、仕方ないなあ。いいよ、いっしょに行こう」
「ありがと。あとあのー、あれ……、のどか、もうお昼食べた?」
「まだ」

 美里が恥ずかしそうに、笑みをこぼした。

「じゃあさ、いっしょに食べよ」
「いいの?」
「もち。……それと、ごめんね、あのぉ、あれ……」
「あの、と、あれ、しかなくてわかんない。でも……、いいよ。とりあえず、職員室ね」

 美里が今度はぱっと笑顔になる。《緊張》はかき消えた。ふわっとわたしの肌をなでる感情はやさしくて、また泣きたくなってしまった。

 ――なんだ、そうだったんだ。

 美里が緊張していたのは事実。だけど、その緊張は「のどかといっしょにいたら、自分もいじめられるかも」って緊張だけじゃなかったのかもしれない。「それでも話しかけたい。でも、どうしよう……」そういう《緊張》だって、あったのかも。

 わたしたちは職員室でコピーをつくって、司書室の遠藤さんに届けた。遠藤さんは「ありがとう」とはにかんで、わたしたちはまた笑った。

「あ、のどかのから揚げおいしそー」
「食べる? その代わり、美里の玉子焼きちょうだい」

 教室で、取引に応じた美里の弁当箱に、ひょいっとから揚げを放り込んであげる。空いたスペースに、玉子焼きが入れられた。頬張った玉子焼きは甘くて、おいしかった。

 今度は、遠藤さんともいっしょにご飯を食べてみようか。それもいいかもしれないな。

 わたしがまわりの顔色をうかがって、世界に溶けたまま生きていたら、遠藤さんの笑顔を見ることはできなかった。遠藤さんのえくぼがかわいいな、って思うことも、なかった。こうして美里とお弁当を食べることも、できないままだったんだろう。

 そのために払った代償は、小さくない。いまも須川さんたちのチクチクが刺さる。でも彼女たちのために、自分の心を殺すなんて、わたしが損をしてばかりだと思う。

 それなら、いまの状況がつらくても、自分の行動に後悔はないと思えた。

 かたん、と後ろの席から椅子を引く音が鳴った。主不在だった席に、湊がもどってきたんだ。振り向くと、静かな瞳と目が合った。

「よかったね」

 湊はそれだけ言って、きれいな瞳を海に向けた。

「――うん。ありがとう」