*

 椅子から転げ落ちた。右の頬が痛む。
 起きてみたらの光景に驚きと不思議が重なった。ベッドで寝たはずが、僕は椅子から転げ落ちて、椅子の側で横になっていた。
 椅子が僕を向いて止まっている。
 見た夢は忘れると言われている。これは睡眠を取る上で欠かせない機能だ。怖い夢を見た幼少期はこれには喝采したけれど、当分そう思うことはなさそうだと思った。
 香澄との空間が夢にある。明確で証明もされないこの非現実的な妄想は度が過ぎているが、その度をしっかりと捉えている。
 さらに、驚くことに過去の夢を追い求める動作というより、いつしか共に過ごした思い出を眺めて物思いにふける感じがした。
 だから、全て忘れない。忘れられない安全なアルバムに模られていてくれる。
 香澄はここにいる。
 だから、少し嫌な思いが後を絶たなかった。
 
 あのとき、運命は邪魔をした。

 足元にたたずむ黄色い花びらは悲鳴の導引。

 その悲鳴の正体は寿命の宣告を受けたイカれた僕と萎れた桜を持ち泣いている香澄だった。

 ・

 桜が咲き誇る三月の小学校の玄関にときには笑って誤魔化して、けれど大体は泣いての卒業生で溢れる。その卒業生に僕も該当した。
 小学六年生、卒業式の思い出だ。
「香澄は泣かないんだね」
「そういう渉も泣いてないじゃん」
 ダサいし、かっこ悪いしで僕が泣くことはほとんどない。自分の悪という源が他人を狂わせるような、険しい道を知らずに渡るときに責任感が僕を威圧する。
 僕はそういうときに泣いてしまうのかもしれない。
 だが、矛盾が生じた過去がある。
 タンポポを殴り、香澄を狂わせた自分は何を考えたのだろう。涙は目の奥にも溜まることもなく、何ものにも遮られることもなかった。
 あれは、香澄が起こした騒動でも俺の体は訴えかけている気がした。素直に「香澄は君に合わない人間だ」と告げ口する体の声が聞こえてしまいそうだ。
 なら、体の命令に従おう。そうはならなかった。
 ある意味怖いが、これは僕の救世主だ。
 人を好きになることは、自分を忘れて周りも見えなくなる。おかげで、体は不適合者と共に過ごすため、しばらくしたら潰れる。
 それらを動かすための電源の反抗としか一見見えない感情を背負う責任がないと全部失う。もちろん電力もその一つで、それが潰えると何もなかった生活が訪れる。
 この小学校の生活は悪いものではない。そして、今から言うことも僕の電源が作動し、不適な体を故障のリスクへと追いやる衝動だ。それも超える自分でいて、訴えを切り裂くぐらいに叫ばなければならない。
「香澄、公園に行こうよ」
 きょとんとした顔をする香澄。自分の思い違いかの疑問を問い出すと、それには必ず続きがあった。
「遊園地行きたかった。渉とさ、あそこならめちゃくちゃ楽しいだろうなって。だけど───」
 目の前に浮かんだ顔は真実だ。そして、それが疑問の解なのだ。
「いつもの公園も思い入れあるし、楽しいし公園にしよう」
 行き過ぎな香澄の言動は僕の想像を遥かに上回る。その現実を突き付けられたみたいで、けれど近い未来の楽しみもそれと同時に生まれた。
 そして、その時はすぐだった。
「楽しかったよね。この公園でいろんなことあったなー」
 リラックスして座る香澄の横に僕はいた。
「いろんな思い出のある公園。しかもさ、それが全部小学校ってのもなんだかいいよね」
「何がいいのかわからないけど、この今の気持ちは多分それかな」
 心に残るモヤモヤとした感情には名前がない。そして、そのモヤモヤがさらにと強くなる。
 彼女の顔を見た。なんだか、物足りない。この空間に欠けている何かを僕はわかっっちゃいないみたいで、醜くさみたいなものを突きつけられ晒されている気分だ。
 だけれど、ここじゃないんだ。
 それは、君が楽しいと告げた場でそれを足そうと思う。

 うまく調合されたドリンクを二人で飲もう。 
 過不足もない、お互いという存在に入り浸れる。

 これは今人生最大の目標だ。

「来週。遊園地に行こう。公園以外にも楽しいと思える場所を増やしたい」
 本心を紛い物にしない。彼女に気づかれないようそっと心で唱えた。
 彼女の答えは明るい。

 それから、遊園地までの前日。僕たちはまた公園にいた。
 お互いに揺れる心の落ち着き場が無いらしいという、妄想をしているものの香澄もその様子から決してそれが拭えないわけではなかった。
 合わせた手が指を交差して、優しく撫でる。早くなったり、遅くなったりのペースで違和感というか自然な香澄の姿を間違った風に象っている。
「明日だね、遊園地。私、しばらく行ったことなかったからとても楽しみなんだ」
 香澄がいるからだろうか、自分も香澄のような間違った姿を築き上げようとする。   
 まだ、涼しい冬が忘れた空気が二人の間に吹き通った。僕はそれを吸い、肺に冷たい空気を送り込む。
 体は温かい。心臓の加速するポンプの作動が活発だから、体は熱するばかりであった。 
 調和された体だ。
「思い出、いっぱい作ろうね」
 僕の心臓が代わりにそれに答えた。
 僕の声だ。

「お待たせー!」
 走って駅に急いだ。昨日から僕の声がうるさい。なんとなく、理由はわかって香澄と遊園地デートとか考えられなかった。
 しかし、それは今実現していて私服姿の香澄が今目の前にいる。
「ちょいちょい。遅刻したらダメでしょー」
「ごめん、寝坊です。焼くなり、炙るなりしてください」
 完全に寝坊なのだ。遠足の前日、楽しみすぎて寝れない小学生のエピソード過ぎて逆に笑えてくる。
「そんな、渉初めて見たよ!」
 申し訳ない気持ちはもちろんある。だけれど、香澄は笑うから僕も笑う。
「ごめんね。今度は気をつけるから」
「次したら、ジェットコースター乗せるし大丈夫」
 親指と人差し指で小さな丸を作る。絶叫系のアトラクションが苦手なのが、既に香澄にバレている時点で香澄は僕の性格とかを細かく読み取っていそうだ。
 そうとなれば、この寝坊の原因もバレているのかもしれない。そう考えると、また僕の声はうるさい。
 いや、今日は終始うるさい。
 無理もない。『告白』だ。
 もし、僕がそれをしたら香澄はどんな返答をするのか。
 それも二択だけど、二択にしては確率がおかしい。これに、確率なんて存在するのだろうか。
 絶対はないんだ。
 そうわかる午前一時のベッドの上。
 眠りを拒むため、なんとか別のことを考えようとしてみるが、耳に入る音とそれを伝える体の衝撃。
「時間もあれだし、早く行こうよ。私先に切符買っておいたから、そのまま改札ね」
 そう言って改札に向かう香澄。僕はまだ、走ってきたときの疲労が残っていてその場に残ってしまう。行かなくちゃなんだけど、なかなか体力は戻らない。呼吸を求める体は今は、無駄な体力の消費をしたくないようにも見える。
 手が浮いた。そんな感触だ。
「引っ張ってもいい? 急がないと時間無いよ」
 香澄は戻ってきてくれた。そして、浮いた手は香澄が僕の手を握って持ち上げていた。
「私が連れて行くから少しは歩いてね」
 不恰好だ。
「まさか、手繋ぎたかった?」
 そんな優しい一面をバカみたいな発言でおちょくるから、香澄は僕の頬を叩いた。顔も赤くて、手も少し温かい。
 電車にも乗り目的の駅の改札を抜けた後も手の温度は変わらない。なぜ、それがわかるのか。
「ねえ。電車の中でも手を繋ぐってどうだったの?」
 今の今まで手を繋いでいた。諦めたのか、さっきと答えは変わらないのか。香澄は無言を遊園地に着くまで貫き通した。
 何も話さないでいた。"はなさないで"と香澄が言ったような気がした。
 彼女との無言の時間はすぐに慣れる。何を話せばいいともたついてしまうこともなければ、いざとなって会話に困るわけでもない。
 彼女は手を強く握るときがあった。僕も強く握り返す。
 なぜか、安心した。
 横に香澄がいるんだって思うとなかなか離せなかった。

 何をしなくても香澄といる時間は短い。時計の秒針のいたずらが許せない。
「着いたね!」
 遊園地までおよそ一時間で、交わした会話もわずか。流れる感覚は本意を隠すため溺れたみたいだ。だけど、すぐに浮かんできた。
 我慢だ。それを、救うのは今じゃない。
「何から乗ろうか?」
「ジェットコースター! それ一択!」
「僕の若い寿命が虚しく泣いてるよ」
「そんなんで死なないからさ、ね。お願い!」
 ずるい。お願いなんて言われて断れない僕を知っている。
 ジェットコースターの列は意外と直ぐだった。昼頃だから、ご飯やら、子供向けのヒーローショーで比較的空いているみたい。
「死刑宣告されることをした記憶がないのだが……」
「ごちゃごちゃ言わないよ! 私が乗りたいもの、渉が乗りたいもの。それぞれ一つ付き合う。これ約束ね!」
「そんないきなり過ぎるって!」
「なら、渉は何も乗らなければいいんじゃないの?」
「うっ───」
 確かにジェットコースターは嫌だ。香澄の言う取引も悪い気はしないし、断っても別にいいんだけれど。
「乗ります」
「素直にそう言えばいいんだよ、怖がりめ」
「だけどさ、一つだけ───」
 これは、今日の最初のお返しとせめてもの望み。
「ジェットコースター乗ってるときに、手、繋いでいいかな」
 僕たちの順番が来た。係員の人に「安全バーを下ろしてね」と声を掛けられた。名前も知らないこの係員のこの言葉を最後に僕は恐ろしい挑戦に向かわないといけないのか。これが、僕の最後の望みなのか。
 指示通りに安全バーを下ろした。
「いいよ。ほら、手」
 差し出された香澄の手の上に自分の手を添える。それらは重なったまま安全バーの上に置かれた。
「出発します!」
 マシンは心を落ちつかせる暇もなく早いスピードで進み出した。
 傾いて、ゆっくりと上に上がる。これが今向かう頂上へと達したら、
「怖くないから大丈夫。しっかり手握ってて」
 繋ぐ手に力を込めた。この子供騙しのような恐怖なんて飛んでいけ!
「さあ、いよいよだよ!」 
 マシンはものすごい勢いで急降下した。

「なんか、お疲れ様」
「なんで、そんなに元気でいられるんだよ」
 ジェットコースターに連れられ、右左とか上下とか下ばかり見る僕は行き先の知らない恐怖の乗り物と言う感想しか出てこない。
「楽しくなかった?」
「楽しいわけがない」
 どうして、みたいな顔を浮かべる香澄だけれど、全面的にそれを否定するわけではなかった。実際香澄といる時間なんだと時折横を見ると精一杯楽しんでいる香澄がいる。
「けれど、香澄がいてくれたから乗れたんだよね」
「そうそう。私がいたからだよ!」
 見るからに僕はこれを乗ることを拒んだだろう。そして、それに乗らない人生という道を辿ったに違いない。
 たかがジェットコースターじゃないか。そう思えるのも乗る前。今乗ってみれば香澄との思い出だ。
「なんか、ありがとう」
「どういたしまして」
 ここで少し距離が縮むのかとラブコメな展開を予想していたのとは裏腹に「じゃあ、次はコーヒーカップ!」と言う香澄にまた手を持って行かれ休む間もなく香澄の行きたいところに連れて行かれる。
 その後のコーヒーカップを乗り終えた後も香澄の「これ乗ろう!」の大合唱は終わらずに混み合う園内をひたすらに散策した。
 だけど、これは言わせてほしい。
 僕たちが逸れて、少しでも離れ離れになることは今一度なかった。

「そろそろ時間だね」
 何をしなくても香澄といる時間は短い。時計の秒針のいたずらが許せない。この自分に言い聞かせる言葉は間違いではなさそうだ。
 流れる感覚は本意を隠すため溺れて、すぐに浮かんでくる。
「渉の乗りたい物まだだったね。よし! 最後はそれに乗ろうか。何に乗るの?」
 それは一択だった。二人きりという空間を保てる唯一の場所。
「観覧車。乗ったことないから、どんななのか見てみたい」
 香澄は微笑んだ。空に浮かぶ月と同じ形だ。
「じゃあ、それ乗ろう!」
 僕たちは観覧車に乗り込んだ。
 香澄といて抑えられた僕の声。いざとなるとこれらは発せられて僕に異変を起こすみたいだ。でも今は、そんな中身のわがままなんて言ってられない。
 シナリオを作っていた。このときの為にどんな順序で言おうかを考えていた。やはり、観覧車が僕らを頂上へ導く地点で言いたい。最高の景色と共に、僕の想いを添えたい。 
 そのためにもだ。雰囲気を良くする必要がある。どうすればは単純だけれど、最初の行動になかなか手が出るか。
 正解じゃなくてもいい。自分の見ている恋愛を押し付けるわけではないけど、僕は香澄に満たされたい。
「私も観覧車初めてなんだ」
「一緒じゃん! え、でもどうして?」
「私高所恐怖症なんだよね」
「え?!」 
「嘘だよ。良い顔するね!」
 雰囲気はとりあえず良しなのかもしれない。
「どうしてさ、観覧車に乗りたかったの?」
 香澄のこの質問に答えを一時的に失う。だが、それも良いタイミングだ。
 このときに僕らの元に優しい風が包み込むのだろう。だけど、ここは観覧車という密閉空間。その風と僕はなれたらいいな。
 僕の声を言葉にしよう。 
 遠回しに逃げ出すんじゃなくて、ここで全部吐き出すんだ。
 "大丈夫、ほんの一瞬だ!"
「香澄!!」 
 力強い言葉であってくれ。僕の声はそんな弱いわけがない。
 僕が香澄を愛す想いは本物だ。小学生であろうとも、ここまでに会話を弾ませれて楽しいと思える人なんていない。
 それが、運命によって導かれたのはちょっと恥ずかしいけど、今が成り立つなら悪くは無い。
 灯せ。見えない僕の声に火を……。
「───」
 だいぶ透き通った声なんだな。
 感情は僕だ。
 伝う鼓動は全部心臓だ。
 僕の声は、そういえば心臓だ。
 声は見えた。
 僕の中にある。
 なんだろう、言葉が浮かび上がる。
 言葉だけじゃない。
 思い出も人も。
 嫌いな海二だっていた。
 そして、それと対称的な人物。
 
 "香澄、僕を置いて行かないでくれ"
 "置いて行くのは渉だよ"
 "違う。なら、どうして上に行く"
 "渉が下にいるの"
 
 僕の足は黒い泥に呑まれ、沈んでいく。上げようと思えば思うほど、それはだんだんと沈んでいく。

 "待って! 置いて行かないで!"
 
「る! ったる! わたる!」 
 香澄が叫んでいる。呼ぶ名前は紛れもない自分だと思う。この場に渉は僕だけだ。
 意識が遠のく感覚は空高くへと舞い上がる気分だ。だからか、見下す自分の体は死体に見えた。

 観覧車にいた自分の体は病院のベッドへと運ばれた。貧血とか、あのときの緊張が最大限に働いて自分が変になったのだと思っていた。
 ベッドの上で知らされたこと。
 僕が目覚めたときには既に親が医師から診断の結果を聞いていた。そして、伝言ゲームのように僕に伝わる。
 母さんが口を開いて、僕は復唱した。
「特発性拡張型心筋症───」
 この人生、生きてきて初めて聞いた病名に困惑を隠せない。
「えっ、治るんだよね」
 母さんの顔はなんとも言えない顔をしていた。口に出して良いのか、悪いのか。僕を気遣うための行動を取ろうとしている。
 アニメとか小説の世界だけかと思っていた。実の母にこんな手間をかけてしまうなんて考えなかった。
「大丈夫。何があっても僕は受け止める」
 いつかは伝えないといけない現実。僕はいつしかそれを聞かされてそれに直面するのだ。心構え、覚悟。それらをせずにどう今の感情を保てるのだ。
「なら、言うよ」
 唾を飲み込む音が病室内に低く響いた。
「この病気は最近の医療の発達で発症五年間の生存率は劇的に高くなった。だけど、渉の場合はまた違ってくる」
 遂に病室に第三者の音が聞こえなくなる。
「渉がそれを発症したと見られるのが小学四年生のとき。そこから五年経つと考えると、三年間は高確率で生きていける」
 母さんは涙をこのとき流し始めた。
 前述したものは定義上の定められた見解に過ぎない。だけれど、ある保証はされたいない。
「治るのは難しい。医師は治るとは言わないし、命の保証は……」
 目から溢れ出て、漏れる涙を決して見せまいとする姿だった。だから、顔を両手で覆った。ポケットからもハンカチを取り出して涙を染み込ます。
 僕がまだ意識が戻っていないときもこれを聞いて泣いたと思う。目の下には涙を流した跡が見られたし、手を洗った後だからかもしれないが、ハンカチにもくしゃくしゃになって使われた跡が見られた。
「死ぬまでさ、笑っていれば良いんだよ。だから、泣かないで」
 人生を諦めると言うのだろうか。小さい命は何も実っちゃいない。
 卒業式を終えた自分はおおよそ十二年間生きてきた。
 そんな自分は何をした。
「香澄……香澄はどこにいるの?」
 心残りというか、それにしか費やしてこなかった人生と僕は思う。最近は常日頃、香澄のことで頭がいっぱいだった。
 だってそうだ。告白だって、頭がそれでいっぱいだったからしようと展開を組み立てて決心したんじゃないか。
 不確かな希望なんて一ミリも無い。
 貫いた言葉は正義じゃないけど、僕にとっては最後の思い出かもしれない。
 それも相まって僕は香澄の行方を知りたいと思ったんだ。
 "あなたは最後に誰と過ごしたい?"
 仮にそう母さんか医者か、女神に問われたとしよう。
 他に誰がいる。僕を身近に支えてきた他人が、あそこまで笑ってくれて、遊んでくれて。
「私の顔を見て発症したと思ってるからお見舞いにはまだ来てない」
 気分の調子は狂いやすい。まさにこれが現実だ。
 利己的で自分勝手な妄想だ。
 現実は、アニメや小説じゃない。
 正解の道とか、選択肢なんてないんだ。

 入学して一ヶ月。僕はゴールデンウィーク後に初めて中学校に登校することができた。 
 入院期間は抗がん剤治療や投薬でなんとかこの病気と戦っていた。
 僕の髪の毛は抜けた。朝起きて枕元を見ると考えられないくらいの髪の毛が置かれている。
 最初は疑った。頭に触れても、まだ軽い髪の毛がいっぱい頭に生えていた。生えているという感覚もなくて、あるのは当たり前の感じだ。
 そんな感じがなんと三日ほどで逆転する。
「何これ……」
 後ろに続ける言葉が見当たらない。それぐらいの光景を僕は見た。
 最悪の朝。そんな言葉で片付けるのは優しい程度。白い枕は黒い髪の毛によって覆われて黒くなる。
 もう、今の僕の頭からは髪の毛は生えない。
 そう考えてしまう一日になってしまった。香澄のことをつい考えてしまうから、普段あまりしてこなかったテレビゲームをして暇と頭に浮かぶ考えことを軽くさせた。
 でも、ゲームをしていてもそんな軽くなることはない。
 頭には毎日一定の重さの髪の毛が生えていた。その感覚をいきなり忘れろと言われても僕にはできない。
 時折頭が痒くなってかいてしまうときも、髪の毛に触れることはないから自分の指が強く当たる。
「母さん……。どうして僕は生きていないといけないの?」
 正直僕には記憶がない。だけど、こう語っているみたいなんだ。何もすることがなくなってボーッと目の前を見ている自分がいる。そいつは必死に自分の病気をサポートする母さんの頑張りを今まで見て見ぬふりをしてきたみたいだった。
「私にできることはするから、そんなこと絶対に言わないで!」
 そう言って母さんは僕にしがみついてきた。
 そこで僕は気づいたんだ。
 僕は強がっている。だけれど本心は病気にも侵されて、荒廃したものになる。悪いのは自分だと、病気の存在自体さえ否定する。
 二重人格になってしまったようだ。
 
 そんな俺が学校に登校した。通常の登校時間の一時間遅れて、職員玄関から入り進路指導室へと向かう。
 保健室は辞めてもらった。病院で過ごすのに、学校に来ても医療関係のものが側にあるのに発作を起こしかねないとの判断だ。
 実際、あの二重人格は発作から起きたことみたいだった。
「勉強でわからないことはあるかね?」
 進路指導室には担任の先生が入ってくる。
 一年二組。これが僕の教室らしいが、そんな普通な空間は今の僕には高価すぎて一生手に入らないものと見てしまう。
 実際そうだ。
 クラスのみんなに見られながらあの教室に入る。そこで一日を過ごすのは自分の恥を延々と晒すのと変わりない。
 それも中学校。まだまだ、思考など未熟な学生が多いだろう。いじめの対象にもなりかねない。
「特にないです」
 この無価値の坊主頭には何も与えられない。

 中学一年生ははたから見れば特別というか変わっている生活に見える。病院が家代わりで、学校に通う。それも授業は受けずに進路相談室で同級生とは会わない。
 こんな生活、一週間したら過ごしている方は普通というか何も面白味もない。
 小学校のことを思い出しながら進路指導室で過ごしていた。やることが自習しかないから、何もしたくない無気力な時間もやってくる。それに遭遇してみれば、勉強に飽きて背筋を伸ばして机に突っ伏す。
 そこで思い出すのだ。
 小学校の楽しみといえば、香澄と会うこと、帰ること、話すこと。
 他にもあるけれど、どこにでも香澄はいる。
 母さんからクラス替えの名簿を見せてもらって、どうやら一年生のときは同じクラスだったらしい。
 ということは、小学校のときとほぼ同じ楽しみを抱いて過ごすことができたはずだ。
 こんなことを言うのも僕の楽しみはない。ただただ、自分が嫌々ながら作り上げたシナリオを嫌々成しているだけだし、楽しみがないって言う言い訳なんて母さんは聞きたくないと思う。
「抗がん剤治療をやめたいです」
 母さんからそう聞いた。また僕みたいだ。中一の六月。
「これは弱音か? 負わないといけない仁義か何かか?」
 せめての健康診断等は受けることにして抗がん剤治療だけはやめてもらった。自分の人生、最後は病気じゃなくて精神に病んで終わるなんて嫌だったと本心は語る。
「必死になって叫んでた……」
「そうなんだ……」
 中二に学校に通うことにした。そうしたら、髪の毛も通常通りに履いているだろうしなんの問題もない。
 俺の予想は当たっていて僕は中二から普通を取り戻すことに成功した。
 普通の髪型、普通の学力。自習のときに授業に遅れても問題ないよう、僕は中学の範囲全てをなんとか独学で済ました。だから、いざの授業となっても問題はない。
 クラス替えの名簿は小学校と同じで玄関前に張り出される。
 二年三組。そこには"如月香澄"の名前もあった。
 いざ、教室に入ってみると知らない人だらけだった。香澄もこの場にいないし、去年の積み上げと言うべきか特定のグループというものが既に出来上がり僕はどこか見放されている違和感を身に纏う感覚でしかなかった。
「あの、俺の席はどこですか?」
 クラス内で一番ゲラゲラ笑う男子に声を掛けてみた。躊躇った。躊躇ったけれど、その一年の遅れをなんとか取り戻さないといけないから声を積極的にかけたかった。
「名前は?」
「田中山渉って言います」
「ああ。あそこだよ」
「ありがとう」
 俺に費やすターンというのはこれだけのようだ。
 席に着くと小学校と違う景色が見える。あのときのように小さい面影はなくて、みんな一回りも二回りも大きくなっている。
 小学校から中学校へは公立だったため特に受験みたいなのはなくて、小学校で見たことがある顔がいくつか見かけるが小学校のあの可愛らしさがない。
 声を掛けても、返してもらうのは遠い道のりかもしれない。そもそも、名前も覚えてもらっているかわからない次元なのかもしれない。
 先生が教室に入ってきて、朝礼が始まる。
 香澄の姿はなかった。
「先生!」
 俺は手を挙げて尋ねる。
「如月さんはどうして休んでいるのですか?」
「───」
 これは先生の返答だが、クラスの雰囲気と言ってもおかしくはない。ただ、僕は知らなかった。
 中学に入って、香澄が僕と同じ不登校となっていることに。