*
包帯と消毒と医療系の匂いが鼻を襲った。ふかふかのベッドとそれらの集う匂いがこの空間に充満している。
ここは保健室だ!
体を起こして地に足をつける。
「起きたー?」
カーテンを開ける前にそんな声が聞こえた。
「はい。今、起きました」と言葉を添えてカーテンを開ける。
白いナース服に似た上着を着た先生が目の前にいた。見た目と状況で、それと学校のどこかで見たような微かな記憶で勝手に解釈する。
「驚いたよー。朝学校に出勤して保健室に来てみればベッドですやすや寝てる君がいるんだからさー」
保健室の女性は話す。
「ここはどこですか?」
「ばーか」
保健室で正解のようで安心した。あれは夢だ。だって、如月香澄は既に死んでいる。
「ここが小学校とかじゃないですよね?」
「寝ぼけてんぞーばーか」
「一応先生ですよね」
「じゃないとここにいねーよ」
なんかちょっと思っていた保健室の先生と違って無駄な質問をしてしまった。
「すみません」
「気にしてねーよ。私の口が悪いんだし」
「承知済みでしたか」
「なんか生意気だなあんた」
「はい。すみません」
「良いことじゃないか。質問をたくさん出来る人間が才能を持ってたりするぞ」
「はい。だと良いですね」
少しの間が空いた。そういえば高校の保健室は初めてで目をキョロキョロとすればするほど興味が持てそうな物たちが並んでいる。
「なんか合わないねー。話のテンポというかリズムというか」
「それは最初からわかっていました」
「なんかじゃなくて絶対生意気だお前」
「お前って言わないでくださいよ先生」
「うるせー。生意気は生意気じゃ」
でも、話ていて飽きがないし、自然と口から言葉が出るのが一つの証拠だ。
「先生。今度また保健室に顔出しても良いですか?」
「暇だし特別に許してやろう」
こういう関わりやすい先生なんだ。だって、話しやすい。
「はい。じゃあまた来ます。さような───」
「ちょ、待てー!」
ドアに手を差し伸べようとした瞬間に呼び止められた。
「なんでここにいるのか聞かないのか? そして、今が何時とかも」
「確かにですね。どうしてですか?」
「あんたってやつは───」
ため息を吐いて、面倒くさそうな表情をしているけどちょっと笑顔が見えてくる。
僕は寝たんだが、どうやらそれが貧血かなんやらの症状で気絶したのだと間違えられしまったようだ。そこでクラスの学級委員が僕をおぶって保健室まで連れてきてくれたみたい。
「それでさー、しっかり閉ざされた保健室に行って開いていないことを知ったらしくてさ、職員室にも行ったらしいよ」
「そりゃそうでしょ。保健室の鍵は職員室にあるんだし、多分」
「すまん、付け忘れた。職員室にお前をおぶって行ったんよ」
自分で言いながら自分でケラケラ笑っていた。この状況でビールとか飲ませたらなんとなくやばそう。
「あれ? 笑えねーか。置いていけばいものをさ、わざわざごくそうさんだわ」
「はい、お疲れ様です」
もし、学級委員と話すことがあったら感謝しておこう。
「お前あれだ。最初に『はい』って言うのやめろ。嫌われるぞー。彼女とかぜってーいねーだろ」
「いますよ」
「嘘だー」
嘘だ。
「まーいいわ。なんかあったらまた来いよ」
先生のその言葉は僕の耳に綺麗に響いた。
保健室を出た先に時計があったので時間を確認するとちょうど十二時を指していた。僕の保健室には実はある規制があって、一時間の休息しか認められてなくそれを越すのならば授業へ戻るか早退しないといけない。
「このままクラスに帰ったら、またなんか言われるだろうなー」
後ろに進むことにした。保健室に引き返す。
「先生、戻ってきました」
「あんたがサボり魔とは思ってもいなかったよ」
呆れた顔で僕に言う。手を広げて「やれやれ」と溜め息も出てきた。
「でも、先生。僕は実質早退している身になっていると思うんですが……」
「え、バレた?」
目がまん丸と開いて口もポカンと空いている驚いた先生の顔は傑作だった。けど、その衝撃で笑った僕の顔を見たからかすぐに平静の顔へと戻る。
「それよりなんでバレた。私が既に君を早退と報告していたことを」
「勘です」
「またまた嘘だー」
これは、半分嘘で半分本当のさっきよりも難易度が上がる問題だ。一勝一敗で王手といったところか。
「だって、保健室は四時間もいたらダメなことになるはずです。朝礼で出欠はとっていないけど学級委員が職員室へと僕を担いでいったのなら別だ。そんな仰天なエピソードなら朝の職員室でちょっとした談笑の話題となるだろうし、担任へと伝わらないわけもない」
「凄い凄い。全部当たりだよ」
さっきよりも抑えられた驚いた顔が今度は広げず手を叩いた。
「将来は探偵かな。それとも、そのなんとなくのいたずらを暴ける頭脳を使ってミステリー作家かな?」
「残念ながらどれも違います。夢と希望とかは今は何も持ち合わせていません」
「ほう。その顔は捨てましたと言っているな」
先生って凄いと思う。僕と同じ人なのに相手の、今で言う僕の心を読んでいるぐらいに深く傷跡を見てくる。
「今はそれは大丈夫です」
「あら。吐いても良いんだよ。有耶無耶な心が人間で一番いらないと思うんだー。はっきり言ってゴミでしかないじゃん。嫌なやつの顔を思い浮かべてみなよ」
指示通りに嫌なやつを頭に浮かべる。
「何その顔! めっちゃ憎んでるやん!」
それを言う先生はお腹を抱えて笑う。まさか、これも落とし穴なのだろうか。
「まず、それから聞きたいんだけど。良いかな?」
「大丈夫です。ゴミ処理場がなかったから助かります」
素直じゃないように見えて僕は素直だった。
・
「渉ってさ、嫌いな人とかいないの?」
僕は小学四年生になった。あの日以来から僕は香澄と一緒に帰る日が増えた。それに僕から香澄を誘うことは激的に減少していた。
「今日もさ、一緒に帰ってくれてありがとう」
「僕も一人だし楽しいから大丈夫だよ」
逆にこうやって香澄が誘ってくれることが激敵に増加した。
今日の香澄はふんわりと柔らかく、自ら作ることができない笑った顔。そうではなかった。
「なんか、あったのか?」
その一言が香澄の顔に恐怖というか、いきなり怖い顔になったのだ。
「なんか怖いし、香澄の顔じゃない」
手を合わせ指を交差させる香澄。最近知った言葉でこれが図星なんだと知った。
「実は嫌いな人ができた……」
「なんだそんなことか」
唐突に口から出た。これが本心の叫びなのは間違えなかった。
「今日、家に来ない?」
香澄がいきなりそんなことをいうから、僕の心臓の音は今体の中で一番目立つ存在となる。だが、それが痛くてどうにか抑えたかった。
「公園じゃダメなの?」
「だめ。家がいい」
ダメなのはこっちの方だった。けれど、言えなかった。逃れる理由も見当たらないし、万事休すだ。
結果、僕は香澄の家に行くこととなった。
「お邪魔します」
「さっき振りだね、渉」
「そうだな。さっき振り」
上がって上がってと手で表すから僕はそれについていく。そして、リビングにお出迎えされた。
「で、どうして僕は家に来ないと行けなかったの?」
「どうしてか全く予想してないの?」
「さっぱりわからないんだよね」
「それある意味才能で面白いけど、親友の悩みぐらいわかってないと頼り甲斐のない人間になっちゃうよ」
「わかったわかった」
親友という不可解が拭えなかったから、心が痛む。
「端的にその嫌いな人とどうこれからやっていけばいいのかってこと」
香澄のくせに、なんてちっぽけな理由なんだろう。意外な一面と思う。こういうどこか抜けているところが、香澄の一種の特徴でもある。
「関わらなければいい。接するのをやめればいい。ただ、それだけじゃダメなのか?」
首を横に振って香澄は続ける。
「向こうから直接声をかけてくるんだよ。そんな状況は初めてで、今はその渉が言ったような関わらないことをしてるけどやっぱり向こうから」
「他クラスの問題なのか……?」
これにはうんと縦に首を振った。小学四年生になって心残りで残念だと思っていることがそれだった。
「クラス離れちゃったね」
新学年として登校したら、玄関に香澄がいた。そのときの香澄から放たれた最初の一声がそれだった。
僕はそれに関して何も言わないでいようと「そうなんだ」のそっけない言葉で返した。
「なんかあのときもっと心配するべきだったのかなーって」
「何それ?」
「クラス離れてたことを玄関でわざわざ報告してきたじゃん。そのときからのことだったりするの?」
「ご名答です。確か二月頃に声掛けられ始めました」
「自慢とか言わないよね」
「もちろん。私からしたらいい迷惑になってるからね」
「そうなんだね……」
僕はここから文字を繋げることも、読点や接続詞を使って助言をすることもできず黙ってしまった。
「何も言わないのはどうして?」
「まずそこが気になるんだね」
「渉って私を見捨てたりしないだろうから。きっと物事を考えすぎて頭がいっぱいいっぱいなんだよ」
そのことに救われて、余裕も湧いてきた。
「海二かなって思って。最近クラスの前通るときに話してるの見かけるから。そして、クラスも同じだし」
「知ってるよー。だから、言えなかったんでしょ」
横を見ると香澄は遠くの方を見ている。見えるのは高々と連なる青で薄まる緑の山々だ。
僕の口は開いた。
「あのさ───」
片手をふんわりと前に出した。
「手、繋がない?」
香澄には僕がどう映っているのだろう。
「良いけど、もうすぐ別れ道だよ」
大丈夫だ。だって───、
「僕が最初に君について行くと決める。信じるから!」
波打つ鼓動が激しい。これは、緊張だ。シナリオに存在しない物語を僕は一秒も無駄にせず描いているみたいだ。
「最初に僕が君を信じるんだ!」
これは自分が白だと相手に告げるもの。しばらくの間と、耳から聞こえる心臓の音。その音は僕の体までをも揺らしてくれる。
「私が信じるのは、だめ?」
「……だめかな…………」
「じゃあ、ごめんなさい」
振られた感情。小学四年生という年での思い切った大胆な行動だからか、確かな感情ではないと思う。でも僕はこれを恋とは決めつけなかった。
「こっちこそごめん───」
正確にはこれは嫉妬で、意地汚い恋の敗北者だ。
海二と香澄が繋がらないために言いました───。
これが、僕が海二を意識した瞬間だ。
・
「小四からラブコメ貫いてるとかお前なかなかできるやつだな」
「先生は嫌いな人を聞きたかったんじゃ?」
「んなアホ! 四十過ぎのアラフォーでもそんなキュンキュンエピソードは聞き捨てならないよ。最近のアラフォーを舐めちゃ困るね」
「まあ、幸せでしたね」
「このチクショー!」
ポケットから出したハンカチを加えてはそれを引っ張って泣いている先生。
「今どき、そんな泣き方する人いるんですね。アニメと漫画だけだと思ってましたよ」
泣き過ぎて、声が聞こえていないのか先生はまだ叫んでいる。今日初めて会った先生だけれど、僕はこの先生がどんな先生なのかわかった気がした。
「こちらとら、この二十年間は独身で彼氏もいねーんだよー!」
しばらくはこんな調子で物事が進んだり、変わる様子がなかったから僕はこの光景を少しの間ずっとこうして見ていた。
「自分のことで泣けることって素晴らしいと思います」
先生はやっと泣くのをやめた。この空間ではそれをとても待ち望んでいた。
「嫌味だろうけど、その一言に感謝するよ」
そう言って先生は今まで噛んでいたハンカチをポケットにしまった。そして、立ち上がり簡易的なキッチンへと向かう。
「まさかなんですけど、泣いてました?」
何かを作っている先生は、その手を一旦止めてこっちを振り返った。
「君にはこれぐらいが十分だよ」
「騙したんですね」
「人聞きの悪い。君が私に心を許せるための一つの手段とでも考えておくれよ」
「僕は既に許してますよ」
「ありゃ、そうだった?」
けど、僕は悪い気はしなかった。少し生まれた会話の種として繋げるがための話題に過ぎなかった。
コーヒーだ。この保健室内に鼻を眩ませる苦々しい香りが行き渡る。
「コーヒーですか?」
「残念! 角砂糖を五個くらい入れたから微糖のコーヒー」
「それって微糖というのでしょうか?」
「私が微糖と言わなくなる区間は十個だからね」
「それは、もうカフェオレです」
「知らね。美味けりゃ良いんだよ」と先生はコップを口につけて顔を隠す。飲んだみたいでちょっと顔が変わっている。「コーヒー苦手なんですね」とは絶対に言わないでおこうと、そう思った。
「そういえばこのタイミングでどうしてコーヒーを?」
僕は少し不思議で自分に無価値の質問を問いかけた。だから、それが「君の嫌いな人について聞いてあげるよ」と言われたときは、日本語を忘れたような感覚に戸惑った。
「言えなかったんでしょ。この長い時間そのゴミという汚物的な存在が君の頭と体を蝕んで離れなかった。君が壊れて保健室にいるのも、そうしたら無理はない。全て筋が通る」
先生は言ってやったぜとやや強気な表情だが心底興味はなかった。
「別に先生に煽られても……」
「煽ってなんかねえよ」
きっぱり言ってのけていたけど、ちょっと残念そうだった。腰が曲がって今にも溜め息をこぼしそうな状況でめちゃめちゃやられてる。
少しだけ意志を固くしてみた。
「今は心が整っていないのか、そのつもりは全くありませんでした。けどそうですね───」
僕は続けようと思った。けれど、いざとなってこんな状況で何を言えば良いのかわからなくなった。単純な問題なのだ。僕は今こんなことをされてこんな目に遭っています。それでも、僕はこう生きている価値はあるのですかと。
言ってみようと思った意志はだんだん薄くなって、やがて消えていく。
「すみません。何もありません」
そういえばこのことを僕はまだ言ったことがない。
僕は死ぬはずだった───。
・
学校の玄関にクラス替えの紙が貼られている。友達と一緒に見るために待ち合わせをする人と、既に集まりその紙に群れて騒ぐ者。そんな状況で今日のこの時間帯の玄関はごった返していた。
小学五年生になってクラスが同じ二組になった。今年も玄関に香澄がいた。いつもの何気ない日常での香澄の顔だが今の僕からしたらなんだか笑っているように見える。
去年は、香澄のつまらなさそうな顔も相まってか自身のダメージが大きかった。だから、今年は僕は先回りしてクラス替えの結果を知っている。
僕はあのときから香澄を意識していたんだと思う。まず、誰と同じクラスになりたいかと考えた矢先に出て来た人物が紛れもない香澄だった。
そして、新しい学級なのだから最初に話したい同級生も香澄ただ一人だった。
友達がいない、という点も絡んでそれが成り立ってしまうということも考えられるけど特にそれで自分が何かに陥ったり、不貞腐れるとかなかったから別に良い。
「おはよう、香澄」
だから、僕はこうして香澄に声を掛けれたんだと思う。
「おはよう、渉」
日常の時間を忘れる顔が華やかに彩られた瞬間だった。笑っているように見えた顔は、実際に笑っていて僕も釣られて笑う。
「なんでそんなに笑顔なの?」
僕は聞いた。
「この世界にたった一人しかいない子と同じクラスになるのって、嬉しいじゃん」
ごった返す玄関だったが、次第に人は教室へと流れ込んでいき静寂な空間へとなりつつある。
「もう一度、紙見ようか? 僕の見間違えかもしれないし───」
「って。やっぱ先に見てたかー」
「気になるんだよ香澄が嘘をついているかもしれないから───」
どうして気になるのかなんて馬鹿らしい想いが、今のこの空間を彩るのは可笑しかった。意味を成すためか、学校の前に咲く桜の花びらが一枚、僕らを見守って降りていくのが見えた。
新しい学級になると、身体計測やら、体育だったら体力テストがある。今日がその難関となる日だった。
「今日は持久走をします」
準備体操が終わって体育を担当する今年担任の小川先生がみんなに向けて言った。まず初めに飛び交った言葉が「えー」みたいな、嫌がる様子を連想する合唱だ。
今知りましたという状況だがこれは昨日に明日の予定として公表されていた。
『二限 体育 持久走』
これを見て始まった昨日の出来事を思い出す。それは、些細な会話だ。
最近は何があると問われると何もない。同じクラスになれたし、いつもよりも一緒にいれるとばかり思っていたけど、香澄も一人とした人間で誰かに縛られるわけがある人間じゃない。そう心ではわかっているはずなんだ。
香澄に何も言われない日がいっぱいあって、それを表す教室の景色をみたり、こうやって一人歩く道を辿る。
中途半端な重さのランドセルなんだと思う。重くもないし、軽くもない。入学式から背中にのせて慣れしたんだ形状と適合だ。
今日も間違いなくそれだ。だけど、弾け飛ぶシャボン玉はいつか消える。
「何が一人しかいないだ」
今日だった。
「何が同じクラスだ」
爆撃が一回では終わらない。
「何が嬉しいだ!」
ランドセルをぶん投げた。
そいつの声か、ぶつかる音なのか。どれかはわからないけど、悲鳴だ。
僕は駆けた。足を前にへと出して走るんだ。春の涼しい空気を口と鼻から思いっきり吸ってエネルギーに変える。
駆けたのと今の酸素、僕の複雑な中身はほとばしる。
投げたランドセルを拾いまた駆ける。
何語かわからない低い音を汽車の蒸気のように鳴らす。
脱線だ───。
車輪の不具合だ───。
僕は息を狂わし、転んだ。
膝から血が流れる。鮮やかの赤色とは裏腹に自分の感情も混ぜてしまったような黒い色彩が鼠色の道を一層黒くした。
無くしたくないものばかりなのに、何もかもを粗末に扱う自分の涙が口に入った。それは少ししょっぱかった。
「渉、何見てるの?」
教室の予定黒板の前にはランドセルをしまうための木製のロッカーがある。そこに体を寄せて、物思いに耽っているかのようにそれを見ていた。
「まさか、明日の持久走が嫌なんでしょ。渉走るの遅いもんねー」
「持久走はほぼ体力勝負でしょ」
「流石にわかるか」
「おい」とからかう香澄に言う。そして、お腹を抱えて笑う。
「何か用?」
「学校終わったらさ、遊ばない?」
この頃、帰ることも、それとも重なって遊ぶことも。一緒にいるという時間さえが少なかった。
「僕は拗ねているのかな。なんだか嬉しくない」
「小学生が嫉妬かなー?」
「そうなのかもしれないけど、そうじゃないって言っておくよ」
「強がりめ。けど、私も私だし今回は許そう! ごめんね、しばらく一緒にいられなくて」
僕は拗ねていないし、嬉しかった。早い反抗期と捻くれた恋心が本心をどこか遠くへ投げ飛ばしたんだと思う。僕を忘れるくすんだ景色だ。
「一緒に帰ろ?」
心が跳ねてジャンプした。
中途半端なランドセルの重さを極端に軽いと思う。
「お花を摘みに行きたいんだ。自分の部屋に飾るお花」
タンポポ以来の出来事だった。あのときのトラウマで僕は花が嫌いです、みたいなのはない。むしろ、それの反省という謝罪の気持ちで花を尊敬したいと思っている。「何摘みに行くの?」
「桜だよ───」
前を向いたまま、顔の向きを変えずにいる香澄はこの桜に何か目的があるかのようだった。けれど、その後に僕の方を向きニヤリと表情を崩したから少し疲れているのだと思った。
「ここは少しだけ周りと遅れているんだ」
連れてこられた場所は僕たちの住む地域から一つ、二つと離れたところにある河川敷だった。右横には僕たちの住む地域にも流れるここら辺を代表する川が流れていた。
そして左横のピンクに染まる木をまたまた春を感じる。今は四月下旬なのだがもうすっかり、夏の暖かさが顔を覗かせていて、長袖が暑く感じやすくなる時期だ。
「この時期に満開の桜が見れるなんて思わなかったな」
「毎年ここはそうなんだよ。昔からここによく来てたから私の秘密基地みたいな感じがして来るんだよ」
左横にすぐある桜の木を香澄はそっと撫でて言う。
「タンポポも好きだけど、桜が一番好きなんだよなあ」
次は桜の木を見上げ香澄はそう呟いた。
「あのさ───」
それに続け僕は言った。
「桜ってどうやって摘むの? 桜って花びらのイメージだから実感沸かなくて」
「実は私もわからなくて。花びらごと持って帰って良いのかな?」
「それは桜が可哀想だと思う」
「やっぱ、そうだよね……」
香澄は悩んだ。腕を組んで、目を瞑り顔を傾ける。
「見てるだけじゃダメなのか?」
見ていて痛まれない気持ちになった僕は聞いてみた。そもそもどうしていきなり桜を持ち帰りたいと思ったのだろうか。
そんなことを考え始めたら香澄のことが気になって、その想いが強くなるにつれ心臓の音が大きくなる。
夜寝るときもそれが目立ってあまり寝ることはできなかった。
だからなのかもしれない。
次の日の持久走はとても疲れた。乱れたリズムとタイミングは僕の走るそれを盛大にずらして走った気がしなかった。
「渉って足遅いんだー」
「今日のはたまたまだよ。昨日あんまり寝れなくて、寝不足だよ寝不足」
「言い訳する渉もかっこいいよ!」
「言い訳なんてしてないよ」
必死に否定する僕を見て、あまりの必死さだったのか香澄はお腹を抱えて笑う。
「待って。笑いすぎて、涙が」
そこまで、と呆れる僕はこの光景を面白がっていた。
なんせ、香澄と話せるし、楽しいし、笑う香澄は可愛い。
これは"恋"と呼ぶ。
・
「で、何がなんだって? 途中で辞めないでよ。気になるじゃないのよ」
「すみません。話していくうちに心臓が張り裂けそうなくらいの感情になってしまって……」
目に意識がいってしまった。なぜか、流すはずのない涙を目が溜め込んでいた。
「なんかあったのか?」
「いいえ。何も」
微小ながら心は叫んだんだと思う。
もう帰ることにした。もう、と言っても過去の話をしたら保健室の時計は一九時を示していた。
帰っている途中、保健室での出来事が嫌でもそれを否定して紛れ込む。
「あの涙は真実だ……」
そっと放り投げた真っ黒な言葉。暗いものに暗いものをぶつけても変わらない景色だけれど体にのしかかる重みは自分が当たり前になって感じ取る損傷の代償なんだそ思う。
何も考えない。
家に着いて、お風呂に入って、明日の身支度を済まして布団に入る。
何も考えないようにしていたけれど、頭によぎることは避けられないようだ。僕は呟いた。帰っている時に投げた言葉と同じ部類。
不思議と寝ることができた。
「香澄……。今、何してるの?」
*
「渉じゃん! 久しぶりって言っても今日会ったばっかだよね」
僕はあの木製のロッカーがある教室に香澄と二人きりでいた。その香澄は自分の当時の席に座って何かを書いている。懐かしい。ちゃんと小学校の規則にしたがって鉛筆を使っていた。
「サクラってね綺麗だよね。ふと思い出してさ、それについて思ったこと書いてるの。見てみて!」
そう言って、僕を手で招いて書いている物を見せてくれた。それはノートに書かれていた。
『私にとって"サクラ"は力の源だ
渉にはそんなものあるのかな
あったらさ、お返しに持って行きたかったな
私だけなのがいまだに許せてないんだよね
恩返しってなんなのだろう……?
それを許されなかった私にはわかりません
それでも私は"サクラ"を信じます』
詩といえばそうにも見えるけれど、どこか読み手側の心を殴りつける言い方に聞こえた。僕が知っている香澄が決して使う言葉ではなかった。
「これもちゃんとした私なんだよね」
ノートは香澄によって回収されて、もう見ることはできなくなった。
「これ、秘密だよ」
彼女は、浅く閉じた唇に右手の人差し指をそっと置いた。目は僕と距離を取りたそうに後退りたそうに見えた。
「僕が怖い?」
「いや怖くない」
「嘘だ……」
彼女の動揺した顔には落ち着きはないし、視線を合わない。目を合わせようとずっと彼女と目を合わすも向こうはすぐにそれを逸らす。
「合わないね。何にどう動揺する意味があるのかわからないけれど、僕には知ってほしくないことがあるみたいじゃないか」
こんなにキレることもないのになぜかムキになった。
合わない視線が憎たらしかった。
香澄が僕のことを好きなわけないじゃないか───。
何も得られていない優越感で得られた感情の価値を僕はこのとき、大変素晴らしく美しい物と見惚れてしまった。この一瞬が深く心に優しい傷をつける瞬間となって欲しかった。
「桜ってさ、怖い意味があるんだよ」
桜をどうして持ち帰りたかったかはわからない自分に安心を求める。自分の利己的な考えを押し付けているようにも思えてしまうし、情けない一面でもある。
「私はあのときからなんです。だから、私と同情してくれるサクラをどうにか持って帰りたかった。そんな怖い意味は当時知らなかったけど、多分こればかりは持って帰ったと思う」
当時の自分は知る由がなかったけれど、なんとなくを生きていれさえすればこれらの行動一つ一つの行動に批判する自分の縋っていたと思う。
"思う"という一単語が僕を後悔へと黒い谷底へ追いやるのだ。簡易的な落とし穴なんて序の口で、バンジージャンプの命綱がアクシデントで外れ、黒い景色に包まれるひょっとしたらの僕の姿が頭に思い浮かぶよう。
「止めた自分がアホまっしぐらで笑えてくるよ」
「まあまあ、君はタンポポの運命を誓ったのだから良いじゃないか」
あのタンポポの件はとある条約で忠誠を誓うかのように、内証の約束となった。それは、誰も知らない餡を温もりに包まれる淡い生地で包んだ桜の上生菓子のように優しい記憶。
「私はね……」
教室の窓から溢れる朝日がいきなり強くなった。
「今幸せだよ。渉のそばにいれて───」
朝日は照らした。そして、香澄を輝かせた。顔でもなく、姿でもなく、目に残る僅かな水晶の水滴を。
包帯と消毒と医療系の匂いが鼻を襲った。ふかふかのベッドとそれらの集う匂いがこの空間に充満している。
ここは保健室だ!
体を起こして地に足をつける。
「起きたー?」
カーテンを開ける前にそんな声が聞こえた。
「はい。今、起きました」と言葉を添えてカーテンを開ける。
白いナース服に似た上着を着た先生が目の前にいた。見た目と状況で、それと学校のどこかで見たような微かな記憶で勝手に解釈する。
「驚いたよー。朝学校に出勤して保健室に来てみればベッドですやすや寝てる君がいるんだからさー」
保健室の女性は話す。
「ここはどこですか?」
「ばーか」
保健室で正解のようで安心した。あれは夢だ。だって、如月香澄は既に死んでいる。
「ここが小学校とかじゃないですよね?」
「寝ぼけてんぞーばーか」
「一応先生ですよね」
「じゃないとここにいねーよ」
なんかちょっと思っていた保健室の先生と違って無駄な質問をしてしまった。
「すみません」
「気にしてねーよ。私の口が悪いんだし」
「承知済みでしたか」
「なんか生意気だなあんた」
「はい。すみません」
「良いことじゃないか。質問をたくさん出来る人間が才能を持ってたりするぞ」
「はい。だと良いですね」
少しの間が空いた。そういえば高校の保健室は初めてで目をキョロキョロとすればするほど興味が持てそうな物たちが並んでいる。
「なんか合わないねー。話のテンポというかリズムというか」
「それは最初からわかっていました」
「なんかじゃなくて絶対生意気だお前」
「お前って言わないでくださいよ先生」
「うるせー。生意気は生意気じゃ」
でも、話ていて飽きがないし、自然と口から言葉が出るのが一つの証拠だ。
「先生。今度また保健室に顔出しても良いですか?」
「暇だし特別に許してやろう」
こういう関わりやすい先生なんだ。だって、話しやすい。
「はい。じゃあまた来ます。さような───」
「ちょ、待てー!」
ドアに手を差し伸べようとした瞬間に呼び止められた。
「なんでここにいるのか聞かないのか? そして、今が何時とかも」
「確かにですね。どうしてですか?」
「あんたってやつは───」
ため息を吐いて、面倒くさそうな表情をしているけどちょっと笑顔が見えてくる。
僕は寝たんだが、どうやらそれが貧血かなんやらの症状で気絶したのだと間違えられしまったようだ。そこでクラスの学級委員が僕をおぶって保健室まで連れてきてくれたみたい。
「それでさー、しっかり閉ざされた保健室に行って開いていないことを知ったらしくてさ、職員室にも行ったらしいよ」
「そりゃそうでしょ。保健室の鍵は職員室にあるんだし、多分」
「すまん、付け忘れた。職員室にお前をおぶって行ったんよ」
自分で言いながら自分でケラケラ笑っていた。この状況でビールとか飲ませたらなんとなくやばそう。
「あれ? 笑えねーか。置いていけばいものをさ、わざわざごくそうさんだわ」
「はい、お疲れ様です」
もし、学級委員と話すことがあったら感謝しておこう。
「お前あれだ。最初に『はい』って言うのやめろ。嫌われるぞー。彼女とかぜってーいねーだろ」
「いますよ」
「嘘だー」
嘘だ。
「まーいいわ。なんかあったらまた来いよ」
先生のその言葉は僕の耳に綺麗に響いた。
保健室を出た先に時計があったので時間を確認するとちょうど十二時を指していた。僕の保健室には実はある規制があって、一時間の休息しか認められてなくそれを越すのならば授業へ戻るか早退しないといけない。
「このままクラスに帰ったら、またなんか言われるだろうなー」
後ろに進むことにした。保健室に引き返す。
「先生、戻ってきました」
「あんたがサボり魔とは思ってもいなかったよ」
呆れた顔で僕に言う。手を広げて「やれやれ」と溜め息も出てきた。
「でも、先生。僕は実質早退している身になっていると思うんですが……」
「え、バレた?」
目がまん丸と開いて口もポカンと空いている驚いた先生の顔は傑作だった。けど、その衝撃で笑った僕の顔を見たからかすぐに平静の顔へと戻る。
「それよりなんでバレた。私が既に君を早退と報告していたことを」
「勘です」
「またまた嘘だー」
これは、半分嘘で半分本当のさっきよりも難易度が上がる問題だ。一勝一敗で王手といったところか。
「だって、保健室は四時間もいたらダメなことになるはずです。朝礼で出欠はとっていないけど学級委員が職員室へと僕を担いでいったのなら別だ。そんな仰天なエピソードなら朝の職員室でちょっとした談笑の話題となるだろうし、担任へと伝わらないわけもない」
「凄い凄い。全部当たりだよ」
さっきよりも抑えられた驚いた顔が今度は広げず手を叩いた。
「将来は探偵かな。それとも、そのなんとなくのいたずらを暴ける頭脳を使ってミステリー作家かな?」
「残念ながらどれも違います。夢と希望とかは今は何も持ち合わせていません」
「ほう。その顔は捨てましたと言っているな」
先生って凄いと思う。僕と同じ人なのに相手の、今で言う僕の心を読んでいるぐらいに深く傷跡を見てくる。
「今はそれは大丈夫です」
「あら。吐いても良いんだよ。有耶無耶な心が人間で一番いらないと思うんだー。はっきり言ってゴミでしかないじゃん。嫌なやつの顔を思い浮かべてみなよ」
指示通りに嫌なやつを頭に浮かべる。
「何その顔! めっちゃ憎んでるやん!」
それを言う先生はお腹を抱えて笑う。まさか、これも落とし穴なのだろうか。
「まず、それから聞きたいんだけど。良いかな?」
「大丈夫です。ゴミ処理場がなかったから助かります」
素直じゃないように見えて僕は素直だった。
・
「渉ってさ、嫌いな人とかいないの?」
僕は小学四年生になった。あの日以来から僕は香澄と一緒に帰る日が増えた。それに僕から香澄を誘うことは激的に減少していた。
「今日もさ、一緒に帰ってくれてありがとう」
「僕も一人だし楽しいから大丈夫だよ」
逆にこうやって香澄が誘ってくれることが激敵に増加した。
今日の香澄はふんわりと柔らかく、自ら作ることができない笑った顔。そうではなかった。
「なんか、あったのか?」
その一言が香澄の顔に恐怖というか、いきなり怖い顔になったのだ。
「なんか怖いし、香澄の顔じゃない」
手を合わせ指を交差させる香澄。最近知った言葉でこれが図星なんだと知った。
「実は嫌いな人ができた……」
「なんだそんなことか」
唐突に口から出た。これが本心の叫びなのは間違えなかった。
「今日、家に来ない?」
香澄がいきなりそんなことをいうから、僕の心臓の音は今体の中で一番目立つ存在となる。だが、それが痛くてどうにか抑えたかった。
「公園じゃダメなの?」
「だめ。家がいい」
ダメなのはこっちの方だった。けれど、言えなかった。逃れる理由も見当たらないし、万事休すだ。
結果、僕は香澄の家に行くこととなった。
「お邪魔します」
「さっき振りだね、渉」
「そうだな。さっき振り」
上がって上がってと手で表すから僕はそれについていく。そして、リビングにお出迎えされた。
「で、どうして僕は家に来ないと行けなかったの?」
「どうしてか全く予想してないの?」
「さっぱりわからないんだよね」
「それある意味才能で面白いけど、親友の悩みぐらいわかってないと頼り甲斐のない人間になっちゃうよ」
「わかったわかった」
親友という不可解が拭えなかったから、心が痛む。
「端的にその嫌いな人とどうこれからやっていけばいいのかってこと」
香澄のくせに、なんてちっぽけな理由なんだろう。意外な一面と思う。こういうどこか抜けているところが、香澄の一種の特徴でもある。
「関わらなければいい。接するのをやめればいい。ただ、それだけじゃダメなのか?」
首を横に振って香澄は続ける。
「向こうから直接声をかけてくるんだよ。そんな状況は初めてで、今はその渉が言ったような関わらないことをしてるけどやっぱり向こうから」
「他クラスの問題なのか……?」
これにはうんと縦に首を振った。小学四年生になって心残りで残念だと思っていることがそれだった。
「クラス離れちゃったね」
新学年として登校したら、玄関に香澄がいた。そのときの香澄から放たれた最初の一声がそれだった。
僕はそれに関して何も言わないでいようと「そうなんだ」のそっけない言葉で返した。
「なんかあのときもっと心配するべきだったのかなーって」
「何それ?」
「クラス離れてたことを玄関でわざわざ報告してきたじゃん。そのときからのことだったりするの?」
「ご名答です。確か二月頃に声掛けられ始めました」
「自慢とか言わないよね」
「もちろん。私からしたらいい迷惑になってるからね」
「そうなんだね……」
僕はここから文字を繋げることも、読点や接続詞を使って助言をすることもできず黙ってしまった。
「何も言わないのはどうして?」
「まずそこが気になるんだね」
「渉って私を見捨てたりしないだろうから。きっと物事を考えすぎて頭がいっぱいいっぱいなんだよ」
そのことに救われて、余裕も湧いてきた。
「海二かなって思って。最近クラスの前通るときに話してるの見かけるから。そして、クラスも同じだし」
「知ってるよー。だから、言えなかったんでしょ」
横を見ると香澄は遠くの方を見ている。見えるのは高々と連なる青で薄まる緑の山々だ。
僕の口は開いた。
「あのさ───」
片手をふんわりと前に出した。
「手、繋がない?」
香澄には僕がどう映っているのだろう。
「良いけど、もうすぐ別れ道だよ」
大丈夫だ。だって───、
「僕が最初に君について行くと決める。信じるから!」
波打つ鼓動が激しい。これは、緊張だ。シナリオに存在しない物語を僕は一秒も無駄にせず描いているみたいだ。
「最初に僕が君を信じるんだ!」
これは自分が白だと相手に告げるもの。しばらくの間と、耳から聞こえる心臓の音。その音は僕の体までをも揺らしてくれる。
「私が信じるのは、だめ?」
「……だめかな…………」
「じゃあ、ごめんなさい」
振られた感情。小学四年生という年での思い切った大胆な行動だからか、確かな感情ではないと思う。でも僕はこれを恋とは決めつけなかった。
「こっちこそごめん───」
正確にはこれは嫉妬で、意地汚い恋の敗北者だ。
海二と香澄が繋がらないために言いました───。
これが、僕が海二を意識した瞬間だ。
・
「小四からラブコメ貫いてるとかお前なかなかできるやつだな」
「先生は嫌いな人を聞きたかったんじゃ?」
「んなアホ! 四十過ぎのアラフォーでもそんなキュンキュンエピソードは聞き捨てならないよ。最近のアラフォーを舐めちゃ困るね」
「まあ、幸せでしたね」
「このチクショー!」
ポケットから出したハンカチを加えてはそれを引っ張って泣いている先生。
「今どき、そんな泣き方する人いるんですね。アニメと漫画だけだと思ってましたよ」
泣き過ぎて、声が聞こえていないのか先生はまだ叫んでいる。今日初めて会った先生だけれど、僕はこの先生がどんな先生なのかわかった気がした。
「こちらとら、この二十年間は独身で彼氏もいねーんだよー!」
しばらくはこんな調子で物事が進んだり、変わる様子がなかったから僕はこの光景を少しの間ずっとこうして見ていた。
「自分のことで泣けることって素晴らしいと思います」
先生はやっと泣くのをやめた。この空間ではそれをとても待ち望んでいた。
「嫌味だろうけど、その一言に感謝するよ」
そう言って先生は今まで噛んでいたハンカチをポケットにしまった。そして、立ち上がり簡易的なキッチンへと向かう。
「まさかなんですけど、泣いてました?」
何かを作っている先生は、その手を一旦止めてこっちを振り返った。
「君にはこれぐらいが十分だよ」
「騙したんですね」
「人聞きの悪い。君が私に心を許せるための一つの手段とでも考えておくれよ」
「僕は既に許してますよ」
「ありゃ、そうだった?」
けど、僕は悪い気はしなかった。少し生まれた会話の種として繋げるがための話題に過ぎなかった。
コーヒーだ。この保健室内に鼻を眩ませる苦々しい香りが行き渡る。
「コーヒーですか?」
「残念! 角砂糖を五個くらい入れたから微糖のコーヒー」
「それって微糖というのでしょうか?」
「私が微糖と言わなくなる区間は十個だからね」
「それは、もうカフェオレです」
「知らね。美味けりゃ良いんだよ」と先生はコップを口につけて顔を隠す。飲んだみたいでちょっと顔が変わっている。「コーヒー苦手なんですね」とは絶対に言わないでおこうと、そう思った。
「そういえばこのタイミングでどうしてコーヒーを?」
僕は少し不思議で自分に無価値の質問を問いかけた。だから、それが「君の嫌いな人について聞いてあげるよ」と言われたときは、日本語を忘れたような感覚に戸惑った。
「言えなかったんでしょ。この長い時間そのゴミという汚物的な存在が君の頭と体を蝕んで離れなかった。君が壊れて保健室にいるのも、そうしたら無理はない。全て筋が通る」
先生は言ってやったぜとやや強気な表情だが心底興味はなかった。
「別に先生に煽られても……」
「煽ってなんかねえよ」
きっぱり言ってのけていたけど、ちょっと残念そうだった。腰が曲がって今にも溜め息をこぼしそうな状況でめちゃめちゃやられてる。
少しだけ意志を固くしてみた。
「今は心が整っていないのか、そのつもりは全くありませんでした。けどそうですね───」
僕は続けようと思った。けれど、いざとなってこんな状況で何を言えば良いのかわからなくなった。単純な問題なのだ。僕は今こんなことをされてこんな目に遭っています。それでも、僕はこう生きている価値はあるのですかと。
言ってみようと思った意志はだんだん薄くなって、やがて消えていく。
「すみません。何もありません」
そういえばこのことを僕はまだ言ったことがない。
僕は死ぬはずだった───。
・
学校の玄関にクラス替えの紙が貼られている。友達と一緒に見るために待ち合わせをする人と、既に集まりその紙に群れて騒ぐ者。そんな状況で今日のこの時間帯の玄関はごった返していた。
小学五年生になってクラスが同じ二組になった。今年も玄関に香澄がいた。いつもの何気ない日常での香澄の顔だが今の僕からしたらなんだか笑っているように見える。
去年は、香澄のつまらなさそうな顔も相まってか自身のダメージが大きかった。だから、今年は僕は先回りしてクラス替えの結果を知っている。
僕はあのときから香澄を意識していたんだと思う。まず、誰と同じクラスになりたいかと考えた矢先に出て来た人物が紛れもない香澄だった。
そして、新しい学級なのだから最初に話したい同級生も香澄ただ一人だった。
友達がいない、という点も絡んでそれが成り立ってしまうということも考えられるけど特にそれで自分が何かに陥ったり、不貞腐れるとかなかったから別に良い。
「おはよう、香澄」
だから、僕はこうして香澄に声を掛けれたんだと思う。
「おはよう、渉」
日常の時間を忘れる顔が華やかに彩られた瞬間だった。笑っているように見えた顔は、実際に笑っていて僕も釣られて笑う。
「なんでそんなに笑顔なの?」
僕は聞いた。
「この世界にたった一人しかいない子と同じクラスになるのって、嬉しいじゃん」
ごった返す玄関だったが、次第に人は教室へと流れ込んでいき静寂な空間へとなりつつある。
「もう一度、紙見ようか? 僕の見間違えかもしれないし───」
「って。やっぱ先に見てたかー」
「気になるんだよ香澄が嘘をついているかもしれないから───」
どうして気になるのかなんて馬鹿らしい想いが、今のこの空間を彩るのは可笑しかった。意味を成すためか、学校の前に咲く桜の花びらが一枚、僕らを見守って降りていくのが見えた。
新しい学級になると、身体計測やら、体育だったら体力テストがある。今日がその難関となる日だった。
「今日は持久走をします」
準備体操が終わって体育を担当する今年担任の小川先生がみんなに向けて言った。まず初めに飛び交った言葉が「えー」みたいな、嫌がる様子を連想する合唱だ。
今知りましたという状況だがこれは昨日に明日の予定として公表されていた。
『二限 体育 持久走』
これを見て始まった昨日の出来事を思い出す。それは、些細な会話だ。
最近は何があると問われると何もない。同じクラスになれたし、いつもよりも一緒にいれるとばかり思っていたけど、香澄も一人とした人間で誰かに縛られるわけがある人間じゃない。そう心ではわかっているはずなんだ。
香澄に何も言われない日がいっぱいあって、それを表す教室の景色をみたり、こうやって一人歩く道を辿る。
中途半端な重さのランドセルなんだと思う。重くもないし、軽くもない。入学式から背中にのせて慣れしたんだ形状と適合だ。
今日も間違いなくそれだ。だけど、弾け飛ぶシャボン玉はいつか消える。
「何が一人しかいないだ」
今日だった。
「何が同じクラスだ」
爆撃が一回では終わらない。
「何が嬉しいだ!」
ランドセルをぶん投げた。
そいつの声か、ぶつかる音なのか。どれかはわからないけど、悲鳴だ。
僕は駆けた。足を前にへと出して走るんだ。春の涼しい空気を口と鼻から思いっきり吸ってエネルギーに変える。
駆けたのと今の酸素、僕の複雑な中身はほとばしる。
投げたランドセルを拾いまた駆ける。
何語かわからない低い音を汽車の蒸気のように鳴らす。
脱線だ───。
車輪の不具合だ───。
僕は息を狂わし、転んだ。
膝から血が流れる。鮮やかの赤色とは裏腹に自分の感情も混ぜてしまったような黒い色彩が鼠色の道を一層黒くした。
無くしたくないものばかりなのに、何もかもを粗末に扱う自分の涙が口に入った。それは少ししょっぱかった。
「渉、何見てるの?」
教室の予定黒板の前にはランドセルをしまうための木製のロッカーがある。そこに体を寄せて、物思いに耽っているかのようにそれを見ていた。
「まさか、明日の持久走が嫌なんでしょ。渉走るの遅いもんねー」
「持久走はほぼ体力勝負でしょ」
「流石にわかるか」
「おい」とからかう香澄に言う。そして、お腹を抱えて笑う。
「何か用?」
「学校終わったらさ、遊ばない?」
この頃、帰ることも、それとも重なって遊ぶことも。一緒にいるという時間さえが少なかった。
「僕は拗ねているのかな。なんだか嬉しくない」
「小学生が嫉妬かなー?」
「そうなのかもしれないけど、そうじゃないって言っておくよ」
「強がりめ。けど、私も私だし今回は許そう! ごめんね、しばらく一緒にいられなくて」
僕は拗ねていないし、嬉しかった。早い反抗期と捻くれた恋心が本心をどこか遠くへ投げ飛ばしたんだと思う。僕を忘れるくすんだ景色だ。
「一緒に帰ろ?」
心が跳ねてジャンプした。
中途半端なランドセルの重さを極端に軽いと思う。
「お花を摘みに行きたいんだ。自分の部屋に飾るお花」
タンポポ以来の出来事だった。あのときのトラウマで僕は花が嫌いです、みたいなのはない。むしろ、それの反省という謝罪の気持ちで花を尊敬したいと思っている。「何摘みに行くの?」
「桜だよ───」
前を向いたまま、顔の向きを変えずにいる香澄はこの桜に何か目的があるかのようだった。けれど、その後に僕の方を向きニヤリと表情を崩したから少し疲れているのだと思った。
「ここは少しだけ周りと遅れているんだ」
連れてこられた場所は僕たちの住む地域から一つ、二つと離れたところにある河川敷だった。右横には僕たちの住む地域にも流れるここら辺を代表する川が流れていた。
そして左横のピンクに染まる木をまたまた春を感じる。今は四月下旬なのだがもうすっかり、夏の暖かさが顔を覗かせていて、長袖が暑く感じやすくなる時期だ。
「この時期に満開の桜が見れるなんて思わなかったな」
「毎年ここはそうなんだよ。昔からここによく来てたから私の秘密基地みたいな感じがして来るんだよ」
左横にすぐある桜の木を香澄はそっと撫でて言う。
「タンポポも好きだけど、桜が一番好きなんだよなあ」
次は桜の木を見上げ香澄はそう呟いた。
「あのさ───」
それに続け僕は言った。
「桜ってどうやって摘むの? 桜って花びらのイメージだから実感沸かなくて」
「実は私もわからなくて。花びらごと持って帰って良いのかな?」
「それは桜が可哀想だと思う」
「やっぱ、そうだよね……」
香澄は悩んだ。腕を組んで、目を瞑り顔を傾ける。
「見てるだけじゃダメなのか?」
見ていて痛まれない気持ちになった僕は聞いてみた。そもそもどうしていきなり桜を持ち帰りたいと思ったのだろうか。
そんなことを考え始めたら香澄のことが気になって、その想いが強くなるにつれ心臓の音が大きくなる。
夜寝るときもそれが目立ってあまり寝ることはできなかった。
だからなのかもしれない。
次の日の持久走はとても疲れた。乱れたリズムとタイミングは僕の走るそれを盛大にずらして走った気がしなかった。
「渉って足遅いんだー」
「今日のはたまたまだよ。昨日あんまり寝れなくて、寝不足だよ寝不足」
「言い訳する渉もかっこいいよ!」
「言い訳なんてしてないよ」
必死に否定する僕を見て、あまりの必死さだったのか香澄はお腹を抱えて笑う。
「待って。笑いすぎて、涙が」
そこまで、と呆れる僕はこの光景を面白がっていた。
なんせ、香澄と話せるし、楽しいし、笑う香澄は可愛い。
これは"恋"と呼ぶ。
・
「で、何がなんだって? 途中で辞めないでよ。気になるじゃないのよ」
「すみません。話していくうちに心臓が張り裂けそうなくらいの感情になってしまって……」
目に意識がいってしまった。なぜか、流すはずのない涙を目が溜め込んでいた。
「なんかあったのか?」
「いいえ。何も」
微小ながら心は叫んだんだと思う。
もう帰ることにした。もう、と言っても過去の話をしたら保健室の時計は一九時を示していた。
帰っている途中、保健室での出来事が嫌でもそれを否定して紛れ込む。
「あの涙は真実だ……」
そっと放り投げた真っ黒な言葉。暗いものに暗いものをぶつけても変わらない景色だけれど体にのしかかる重みは自分が当たり前になって感じ取る損傷の代償なんだそ思う。
何も考えない。
家に着いて、お風呂に入って、明日の身支度を済まして布団に入る。
何も考えないようにしていたけれど、頭によぎることは避けられないようだ。僕は呟いた。帰っている時に投げた言葉と同じ部類。
不思議と寝ることができた。
「香澄……。今、何してるの?」
*
「渉じゃん! 久しぶりって言っても今日会ったばっかだよね」
僕はあの木製のロッカーがある教室に香澄と二人きりでいた。その香澄は自分の当時の席に座って何かを書いている。懐かしい。ちゃんと小学校の規則にしたがって鉛筆を使っていた。
「サクラってね綺麗だよね。ふと思い出してさ、それについて思ったこと書いてるの。見てみて!」
そう言って、僕を手で招いて書いている物を見せてくれた。それはノートに書かれていた。
『私にとって"サクラ"は力の源だ
渉にはそんなものあるのかな
あったらさ、お返しに持って行きたかったな
私だけなのがいまだに許せてないんだよね
恩返しってなんなのだろう……?
それを許されなかった私にはわかりません
それでも私は"サクラ"を信じます』
詩といえばそうにも見えるけれど、どこか読み手側の心を殴りつける言い方に聞こえた。僕が知っている香澄が決して使う言葉ではなかった。
「これもちゃんとした私なんだよね」
ノートは香澄によって回収されて、もう見ることはできなくなった。
「これ、秘密だよ」
彼女は、浅く閉じた唇に右手の人差し指をそっと置いた。目は僕と距離を取りたそうに後退りたそうに見えた。
「僕が怖い?」
「いや怖くない」
「嘘だ……」
彼女の動揺した顔には落ち着きはないし、視線を合わない。目を合わせようとずっと彼女と目を合わすも向こうはすぐにそれを逸らす。
「合わないね。何にどう動揺する意味があるのかわからないけれど、僕には知ってほしくないことがあるみたいじゃないか」
こんなにキレることもないのになぜかムキになった。
合わない視線が憎たらしかった。
香澄が僕のことを好きなわけないじゃないか───。
何も得られていない優越感で得られた感情の価値を僕はこのとき、大変素晴らしく美しい物と見惚れてしまった。この一瞬が深く心に優しい傷をつける瞬間となって欲しかった。
「桜ってさ、怖い意味があるんだよ」
桜をどうして持ち帰りたかったかはわからない自分に安心を求める。自分の利己的な考えを押し付けているようにも思えてしまうし、情けない一面でもある。
「私はあのときからなんです。だから、私と同情してくれるサクラをどうにか持って帰りたかった。そんな怖い意味は当時知らなかったけど、多分こればかりは持って帰ったと思う」
当時の自分は知る由がなかったけれど、なんとなくを生きていれさえすればこれらの行動一つ一つの行動に批判する自分の縋っていたと思う。
"思う"という一単語が僕を後悔へと黒い谷底へ追いやるのだ。簡易的な落とし穴なんて序の口で、バンジージャンプの命綱がアクシデントで外れ、黒い景色に包まれるひょっとしたらの僕の姿が頭に思い浮かぶよう。
「止めた自分がアホまっしぐらで笑えてくるよ」
「まあまあ、君はタンポポの運命を誓ったのだから良いじゃないか」
あのタンポポの件はとある条約で忠誠を誓うかのように、内証の約束となった。それは、誰も知らない餡を温もりに包まれる淡い生地で包んだ桜の上生菓子のように優しい記憶。
「私はね……」
教室の窓から溢れる朝日がいきなり強くなった。
「今幸せだよ。渉のそばにいれて───」
朝日は照らした。そして、香澄を輝かせた。顔でもなく、姿でもなく、目に残る僅かな水晶の水滴を。