雪の降る夢を見る。



「天使?」
聞こえてきたクラスメイトの話し声に、晴野(はるの)ハルは解いていた数学のプリントから顔を上げた。
「うん、3組の秋田くんが見たんだって」
「えー、秋田くんが?寝ぼけてたんじゃなくて?」  
「あははは、ありえるー」
声の主は3人の女子だ。
彼女達は教室の隅に集まり、きゃらきゃらと笑い合っている。
「なんかぁ、泣きながら空飛んでたって」
「誰が?秋田くんが?」
「違うよ、天使だってー」
そこで、一際大きな笑い声が上がった。
彼女達が笑うたびに、きちんと手入れのされた黒髪がさらさらと揺れる。まるで上質の簾のようだ、とハルは思った。寝癖がうまく直せず、いつもお団子にして誤魔化しているハルとは全然違う。
制服の下から伸びる彼女達の手も、日焼けなんてしたことがないほど白い。その先にある爪も、きちんと手入れがしてあるのか、つるりとして傷ひとつない。
昨日服に引っ掛けてしまい、醜くひび割れてしまった己の爪を、ハルはそっと指で隠した。
「しかも、その天使、高橋先生に似てたんだって!」
「高橋先生って司書の?」
「そうそう」
「えー、秋田くん、高橋先生のこと好きなのかなぁ」
はたと気付いて、ハルは真っ白なプリントに視線を戻す。
彼女達の話を盗み聞きしている暇はない。次の授業が始まる前に、ハルはこの数学のプリントを仕上げなくてはいけないのだ。
高校2年にもなって、宿題を忘れるとか恥ずかしすぎる。だから休み時間を返上して必死に解いているのだが、問題が難しく、なかなか思うように進まない。
その上、よく通る彼女達の声に思考がどんどん引っ張られていってしまう。
彼女達が噂する秋田アキヒコのことを思い出す。
ハルと彼は去年、同じクラスだった。
いつも明るく、話も上手な彼は、クラスの人気者だった。そのくせ誰とでも分け隔てなく接してくれる気安さもあり、教室の端っこにいたハルにも、よく声をかけてくれた。
そんな彼が、天使を見たという。
「ねぇ、ハルちゃんは知ってる?」
突然名前を呼ばれ、ハルは驚いて顔を上げる。
教室の隅で話してたはずのクラスメイトのひとりが、机のすぐそばまで来ていた。
驚きでうまく言葉を発せずにいると、彼女はハルの机の上に置かれているプリントに気付き、あれ、と声を上げた。
「ハルちゃん、珍しいね。宿題忘れたの?」
「あ、うん、昨日、学校に置いていっちゃって……」
「そうなんだ。私の写す?あ、でも、ちょっと今日のは自信ないなぁ……。ねぇ、誰か、次の数学のプリント見せてー」
彼女の澄んだ声に、教室で各々自由に過ごしていたクラスメイト達の視線が一斉にハルに集まった。無意識に、ハルの体に力が入る。
「ハルちゃん、プリント忘れたみたい。誰か見せてあげてー」
「あ、じゃあ、あたしの見る?」
教卓のそばでおしゃべりしていた一人が、一番前の机の中からプリントを取り出し、ハルの前に持ってきた。
善意しかない視線が、容赦なくハルに突き刺さる。
ハルは、ありがとう、と下手くそな笑顔を浮かべ、おずおずとそれを受け取った。
邪魔しないようにという気遣いからか、彼女達は頑張ってね、と言い残し、またそれぞれのおしゃべりに戻っていった。
そして再び、ハルの周りから人がいなくなる。
ハルは昔からクラス運が良かった。
小学校の時も、中学校の時も、そして高校2年になった今も、一度もハズレだと思うクラスになったことはない。
クラス内に、暴言を吐くような子や乱暴な子は一人もいない。多少グループで別れることはあったとしても、基本みんな穏やかで、誰かひとりを爪弾きになどしない。むしろ悩んでいる子がいれば、どうしたのと気にかけ、その子のために何かできないかと真面目に考える。
テレビやネットの向こうではイジメや自殺、体罰などのニュースが流れてくるが、ハルのいるクラスにおいて、そんなものは存在しない。少なくとも、ハルのいる学校でそんな話は聞いたことはなかった。
穏やかな子が集まっている学校だと入学式で言われた記憶はあるが、それでも思春期というこの時期に、こんなにもみんな穏やかでいられるものなのだろうか。
この学校の生徒達こそ、天使のようだ。
さっきの噂が、ふと頭を過ぎる。
もし、本当に天使がいるとしたら。
自分のそばにいてほしくない、とハルは思う。
だって、絶対に比べられる。そんな綺麗なものと比較されたら、ハルに勝ち目などない。
整った字で書かれた数式と割れた爪を見下ろし、ハルは誰にも聞こえないように、小さく息を吐いた。



ハルがその手紙を見たのは、2学期の期末試験の最終日だった。
全てのテストが終わり、帰る準備を終えたクラスメイト達が続々と教室を出て行く。
ハルも、さっさと帰ろうと荷物をまとめていた時、不意に担任の冬岡に声をかけられた。
どうやら数日前になくしたと思っていたハルのボールペンが、図書室で見つかったらしい。
そのペンは、高校の入学祝いに父親からもらった特別なものだった。光沢のある紺色のボディに金色のラインが入っている、ハルのお気に入り。
なくなってから必死に探したが見つからず、半ば諦めながら、冬岡に、もし学校のどこかで見つかったら教えてほしいとお願いしていたのだ。
まさか本当に見つかるなんて。ハルは嬉しさで飛び上がりそうになった。
ボールペンは今、図書室で保管されているらしい。
ハルは冬岡に礼を言い、急いでリュックに荷物を詰め込み、教室を飛び出した。

試験が終わったばかりの校内は、がらんとして人気がなかった。
冬の冷たい空気が廊下に充満し、その中でハルの足音だけが不思議なほど静かな廊下に響いていた。
その静けさが嫌で、ハルはわざとリュックを背負い直す。リュックの中で荷物がぶつかり、がさりと大きな音を立てた。
窓の外には裸で寒そうに凍えている木々がいる。まだ雪はないが、年が明けたらきっとこの景色は真っ白になるだろう。
そんなことを考えているうちに、1階の端にある図書室に着いた。
スライド式の扉をがらりと開ける。
図書室は、少し前まで自習する生徒で溢れていたことが嘘のように、ひっそりと静まりかえっていた。
入ってすぐ左手にある貸し出しカウンターにも、人はいない。
どうしよう。勝手にボールペンを探して持っていってもいいのだろうか。
ハルは誰かいないかと、ぐるりと図書室を見回す。等間隔に置かれた本棚。手前には自習用の大きな机がある。
その時、ハルはそこに、1人の男子生徒がぽつんと座っていることに気付いた。
佐藤チトセ。去年の、ハルのクラスメイトだ。
その姿を視界に捉えた瞬間、不思議な感覚がハルを襲った。
懐かしいような、悲しいような。それは子どもの頃お気に入りだったぬいぐるみを、大きくなってから、押入れの隅で見つけた時のような気持ちに似ていた。
扉を開けた音で気付いたのか、彼はまっすぐにハルを見ていた。
あどけない子どものような、つるりとした瞳。彼は、ハルと同い年でありながら、まるで小学生のような見た目をしていた。身長も155センチのハルよりも小さく、顔立ちも幼い。その為、去年のクラスで、彼はマスコットのように可愛がられていた。
何か言わなくては。
ハルが咄嗟に口を開いた瞬間、彼はがたりと立ち上がった。
机の上に広げていたノートや筆記用具を慌ただしくかき集め、隠すように腕に抱える。そして体を丸め、まるで逃げるような勢いでハルの方に向かってきた。
彼はひどく焦っているようだった。その勢いに気圧され、扉の前に立っていたハルは、道を開けようと横にずれる。
だが、向こうもハルを避けようと同じ方向にずれた為、不幸にもハルと彼の肩がぶつかってしまった。その拍子で、彼が抱えていたものが腕から溢れ、バサバサとその場に散らばる。
「ごっ、ごめん」
それは久しぶりに聞いた彼の声だった。
こっちこそごめん、とハルは小さく返す。そう言うのが精一杯だった。
彼が落ちてしまったノートを拾う為に屈んだのを見て、少し遅れてから、ハルも慌てて床に膝をつく。
近くにあったボールペンとシャープペンシルを拾い、そして床にに放り出された1枚の紙に手を伸ばす。
だが、そこに書かれている文字を見て、ハルの体は石のように固まってしまった。
『好きです。付き合ってください。佐藤チトセ』
整った綺麗な文字だった。
その言葉が何を意味しているか考える前に、彼の手がその紙を奪うようにして拾い、そのまま走るように図書室から出ていった。
慌ただしい足音が遠ざかるのを聞きながら、ハルは呆然する。
今見たものは何だったのか。いや、わかる。多分、あれはラブレターだ。
彼が書いていたのか。そうか、だからハルが来て、慌てて片付けたのだ。
そう納得しつつも、ハルはこの事態にひどく動揺していた。
彼はクラスメイト皆から可愛がられてはいたが、本人は控えめな性格で、積極的に誰かと話したりするようなタイプではなかった。色恋の噂も聞いたことはないし、彼にそんな下世話な話をしてはいけないような雰囲気もあった。
彼が17歳の男の子にしては幼い見た目をしていたから、余計に皆そう思ったのかもしれない。
だけど、そうか。彼にも思う人がいたのか。
誰かが誰かを好きになることは当たり前のはずなのに、彼がそんな生々しい感情を誰かに抱いていることに、ハルはひどく戸惑ってしまった。
「あれ、どうしたの?」
鈴の音のような声が聞こえ、ハルは慌てて立ち上がる。
見れば、貸し出しカウンターの向こうに、グレイのパンツスーツ姿の大人びた女性が立っていた。
司書の高橋トオコだ。
「いえ、あの、前にボールペンをここに落としてしまって……」
ハルがそこまで言うと、彼女は何か思い出したらしく、カウンターの下からハルのボールペンを出してくれた。
「これのことかな?見つかってよかったね」
「あ、ありがとうございます」
お礼を言いながら、差し出されたボールペンを受け取ろうと手を出した時、ハルは自分が手に何かを握っていることに気付いた。
シンプルな黒のボールペンとシャープペンシル。
自分のものではない。これはさっき図書室を出て行った彼が落としていったものだ。
「そんなに手で持って。ちゃんとしまっておかないと、また落とすよ」
くすくすと笑う柔らかな声に、ハルは慌ててリュックを下ろし、お気に入りのボーダー柄の筆箱を取り出す。
返してもらったボールペンを入れ、ほんの少し迷った後、握っていたペンも一緒に仕舞い、全てまとめてリュックに押し込んだ。

図書室から出て、ハルは大きく息を吐いた。
探していたボールペンが見つかったのは嬉しい。だけど、新たな悩み事がハルの胸を重たくさせた。
いやでも、見てしまったものは仕方がない。こっちだって見たくて見たわけじゃない。
ハルは心の中で、必死に言い訳をする。
例えばこれが、彼が書いているのをこっそり覗き込んだとか、彼が見せたくないのを無理矢理見たとかならこっちが悪いのだが、実際は違う。本当に偶然だった。
だけれども、人のラブレターを見てしまったという妙な罪悪感がハルの上にのしかかる。しかも、相手はよりにもよってあの佐藤チトセだ。あどけなくて、人の悪いところを知らない子どもみたいな。それだけでさらに罪悪感が増す。
廊下をとぼとぼと歩きながら、ハルは自分の筆箱にしまった彼のペンのことを考える。
とにかく、これを彼に返さなくては。それで、その時に彼に弁明をしなければいけない。
でも何と言えばいい。何も見てないと言ってもそれは嘘だし、また、見たけど誰にも言わないと言ったところで、向こうが信じてくれるかはわからない。
悶々と悩みながら歩いているうちに、気付けば昇降口にたどり着いていた。
もういいや。とにかく今日は帰ろう。
そう思って靴箱に手を伸ばした時、ハルは後ろから声をかけられた。
「晴野さん」
聞こえてきた声に、弾かれるように振り向く。
そこにいたのは、今まさにハルが頭を悩ませている原因の人物だった。
突然のことに、ハルの頭の中が真っ白になる。
何も言えずにいるハルに、彼は気まずそうに視線を下げた。
少し沈黙の後、彼は意を決したように口を開いた。
「……見た?」
彼の聞きたい事はわかる。
見た。確かに見た。だが、見た、と言っていいものか。
胃が浮くような気持ち悪い緊張感の中、無言のハルの表情から、彼は何かを察したようだった。
「ごめん、言いにくいよね。えぇと、別に怒って無いよ。晴野さんが見たことを気にしてたら申し訳ないなと思って聞いただけで……」
「いや、その、……こっちこそ、ごめん」
「ということは、やっぱり見たんだよね?」
こくりと頷けば、彼はそっか、と困ったように笑った。
「あ、あの、誰にも言わないから。信用出来ないかもしれないけど。本当にごめん。見るつもりはなくて」
「わかってる。僕もあんなところで書いててごめんね」
確かに、どうして彼はあんなところで書いていたのだろう。いくら期末試験後で生徒はいないとはいえ、人の目はある。現に、あそこには司書である高橋もいた。
互いに謝りながら、ハルはそんなことを思った。
「あの、晴野さん。それで客観的な意見を聞きたいんだけど」
「なに?」
「……見て、どう思った?」
まさかの質問にハルは目を瞬かせる。
どう。どうって。
何と答えたらいいのかわからず、固まってしまったハルに、彼が慌てて言葉を付け足す。
「へ、変なこと聞いてごめん。ああいうの書くの初めてで、変じゃないかちょっと誰かに見てほしかったから……」
つまりハルに、あのラブレターの印象を聞いているらしい。
とはいえハル自身もラブレターなんて見るのは初めてだ。だから、特に言えることはない。
だけど、無理にでも何か言わなければ終わらない雰囲気に、ハルは必死に言葉を捻り出した。
「えぇと、ちょっと短か過ぎるんじゃないかな」
「つまり、もっと長くしたほうがいいってこと?」
彼の言葉にハルが頷く。
すると彼は、そっか、と呟いた。
「わかった。もう少し考えてみる。晴野さん、ありがとう」
「あ、いや、そんな……。その、頑張ってね。それじゃあ」
そう言って、ハルは急いで靴を履き替え、逃げるように外に飛び出した。
校門まで一気に駆け、そこで足を止める。
ゆっくりと振り向く。
あるのは、白い校舎だけだ。彼の姿はない。
頑張って、なんて白々しい。
脳内でハルを嘲る声がする。
ハルは、ぎゅ、と手を握り、校舎に背を向け、わざとゆっくり足を踏み出した。



ハルは、自分は恵まれていると思っている。
育ててくれた両親は優しい。厳しいこともあるが、理不尽にハルを怒ったりはしない。何かあっても、まずはハルの考えをきちんと聞いてくれる。2つ下の弟も、素直ではないところはあるものの、それでも姉であるハルを無下にしない。時折ハルのことを気遣って、不器用ながら話しかけてきてくれる。
生活にも困った事もない。毎日食べるものはあるし、毎月もらえるお小遣いを貯めて、自分で好きなものを買うこともできる。
学校生活もそうだ。クラスメイト達は皆優しく、うまくクラスに馴染めないハルを無視したりせず、話しかけてくれる。もちろん、いじめられたこともない。
ハルの生活は、平和そのものだった。
だが時折、いないはずの誰かがハルに囁く。
何もしていないお前が、こんなに優しくされていいと思っているのか。
その声にハルは同意する。
確かにそうだ。自分は、優しくしてくれた彼らに何もしていない。心を砕いてもらっておいて、彼らに何も返していない。
優しくしてもらったからには、何かそれに見合ったものを返すべきだ。
ハルはそう思う。だが、その返すべきものがわからない。
わからないから、優しくしてもらうたびにハルは戸惑ってしまう。
そんなにされても、何も返せない。何もあげられない。ハルには何もない。
せいぜいハルにできるのは、彼らを困らせないよう笑って静かにしていることだけ。
現状に不満などない。天使のように優しい人たちに囲まれて、不満などあるはずがない。
ハルは恵まれている。幸せで幸せで、幸せでしかない。
そのはずなのに、ハルは時折、無性に悲しくなる。
理由はわからない。ただ悲しい。
胸の奥に真っ暗な空洞があって、そこが悲鳴を上げているみたいだ。
ハルが優しくされればされるほど、その穴から悲しさが溢れてくる。
そうして囁くのだ。そんなに優しくされる価値が、お前にはあるのかと。
こんなに恵まれているのに。こんなに幸せなのに。
どうしてこんなに悲しいのだろう。
自分はひどい贅沢者だ。
ハルはそう自分を罵った。

期末試験が終われば、終業式はすぐそこだ。
授業が終わり、ハルは筆箱にシャープペンシルをしまった。
ペンや色とりどりのマーカーが入っているその中に、自分のものではないものが2本ある。
それはあの日、彼に返しそびれたものだった。
あの後、何度か隣の隣のクラスの彼に返しに行こうとしたのだが、ハルが行った時に限って彼はおらず、また誰かに預けるのも気が引ける為、あの日からずっと返せずにいた。
もうすぐ冬休みに入ってしまう。こんな気まずいものを抱えたまま、年を越したくない。
そう思い、ハルは今日も放課後、彼のクラスに行った。
教室は全て同じレイアウトのはずなのに、自分のクラスじゃないというだけで、何故か妙に居心地が悪くなる。だから、正直あまり長居はしたくなかった。
扉からちらりと覗けば、人で溢れる教室の中に彼の姿があった。
彼は窓際の1番前の席に座り、机の中から教科書を取り出していた。
確か彼はハルと同じで、部活には入っていなかったはずだ。だから、多分このまま帰るのだろう。
誰かに用事?呼ぼうか?と聞いてくれる優しい人達を断りながら、ハルは扉の影で彼が出てくるのを待った。
しかし、彼はなかなか出てこない。
気付けば、教室内は静まりかえっていた。
もしかして、彼が出て行ったのに気付かなかったのだろうか。
ハルが慌てて教室を覗けば、彼はさっきと同じ席にぼんやりと座っていた。
机の上には彼のものと思われる鞄が置かれたままだ。
誰かを待っているのだろうか、とハルが思った時、正面を向いていた彼の顔がふとこちらを向いた。
彼の目がハルを見て、驚いたようにぱちりと瞬いた。
「晴野さん。どうしたの?」
彼の声に、不意に胸が跳ねる。
よく考えたら、彼とこうして2人で話すのは随分と久しぶりだ。クラスが離れてから、あまり会うこともなかった。
そのせいだろうか、何故か妙に緊張する。
それを誤魔化すように、ハルは下手くそな笑みを浮かべながら教室に入り、握っていたペンを彼に差し出した。
「あの、これ、先週、図書室で拾ったの。ごめん、返すのが遅くなって」
「ううん、大丈夫。ちょうどよかった。ちょっと晴野さんに見てほしいものがあって」
はい、と、彼はペンと交換するように、机の中から1枚の紙を取り出した。真白い、なんの変哲もないルーズリーフ。
そこには、『ずっと好きでした。付き合ってください。佐藤チトセ』と書いてある。
「晴野さんの言う通り、長くしようとしたんだけど、なかなかうまく出来なくて……。他にどういうこと書いたらいいと思う?」
まさかの質問に、ハルは言葉を失ってしまった。
「え、えっと……」
「このことを相談できるの、晴野さんしかいなくて。どんなことでもいいから言ってくれないかな」
縋るような視線を向けられ、ハルは困惑した。
ハルには人に話せるような恋愛経験はない。告白された経験もないし、ましてやラブレターをもらったこともない。
そんな自分に、一体何が言えるのか。
ハルは必死に考える。
そもそも、ハルならどうするだろう。自分は、好きな人にこんな手紙を書くだろうか。
いや、ハルにはできない。こんな自分の気持ちをさらけ出すようなことは無理だ。自分の気持ちが書かれているものを誰かに見られるというだけで、羞恥で発狂しそうになる。
そう考えれば、彼はハルに手紙を見られてもそこまで狼狽えているようには見えない。
彼は見られても平気なのだろうか。
ハルにはなんだか信じられなかった。
「晴野さんは、この手紙をもらったらどう思う?」
なにも言わないハルに助け船を出すかのように、彼が聞いてくる。
もしハルがこの手紙をもらったら。
そんなの、嬉しいに決まっている。
誰かが自分のことを好きでいてくれる。その事実だけで、ハルは蕩けてしまいそうなほど嬉しい。
こんな自分を愛してくれる人がいる。それだけで、許された気持ちになる。
「……これでいいと思うんだけど」
ハルの答えに、彼は不満そうに唇を突き出した。
その子どものような表情が、彼には妙に合っていた。
「……でも、僕にはやっぱり、晴野さんが言ったみたいに何か足りない気がするんだ」
「私の言ったことは気にしなくていいよ」
「ううん。僕も確かにそう思うんだ」
だから悩んじゃって、と彼はハルの手からそっと紙を受け取り、そこに目を落とした。
「もっと書きたいけど、なにを足していいのかわからなくて」
「何を書きたいの?」
「……わからない」
彼は落ち込んだように呟いた。
これだけだと自分の気持ちが伝わる気がしなくて不安、ということだろうか。
でも、手紙にあまりに書きすぎてしまうと、それはそれで重いと思われてしまう可能性もある。
「やっぱり、これでいいんじゃないかな。長すぎても、読むのは大変だし」
「そう?」
「その代わり、渡す時に一言添えるとか、綺麗な便箋にするとか、そういうのどうかな?」
ハルの言葉に、彼は確かに、と頷いた。
「そうだね。この紙のままじゃない方がいいよね。今度、文房具屋にでも行ってみるよ」
「うん、頑張ってね」
それじゃあ、とハルは彼に背を向け、教室を出た。
扉から出た後、なんとなく振り向けば、彼は座ったまま、手の中にある紙を見つめていた。
嬉しそうに口の端を上げて、とても愛おしそうに。
まるで、その手紙の先に大事なものがあるみたいだ。
そんな風に想われるなんて、羨ましい。
湧き上がってきた感情を飲み込み、ハルはわざと足音を立てて廊下を駆けていった。



ハルには苦手なものがたくさんある。
酸っぱいトマトや、熟れて柔らかくなったバナナ。強い香水の香り。髪を洗っている時にふと見える鏡。身長の大きな人。大きな音。静かすぎる場所。毎年冬に必ず降る雪。
どれもこれも、致命的に駄目というわけではない。それなりに我慢できる。だから、ハルがこれだけ苦手なものを抱えていることを、多分家族ですら知らないだろう。
苦手なもののことをハルが他人に話したのは、たった一度だけ。

ハルはバスから降り、顔を上げた。
そこは駅前のロータリーで、多くの人が寒そうに背中を丸めて歩いている。
年明けから雪が徐々に降りはじめ、あっという間に街は真白に染まってしまった。
雪のせいで、いつもよりも静かに感じる街の中を通り抜け、ハルは駅前にある大きなビルに入った。
今は冬休み。暇を持て余したハルは、何か面白い本でもないかと、このビルにある書店に来たのだ。
エスカレーターで、書店のある6階に向かう。
ハルはエレベーターが苦手だった。
エレベーターで行った方が早いとわかっている。だが、ハルはどうしても、あの狭い空間が好きにはなれなかった。扉が開かなかったらどうしよう。もし閉じ込められたら、水などをどうやって確保したらいいのか。乗る前にコンビニで飲み物でも買ってこればよかった。そんなことをいつも考えてしまう。
その点エスカレーターは安心だ。出ようと思えば、いつでもコンベアベルトの外に飛び降りることもできる。囲われていないから、外の様子もよくわかる。だからハルは、いつもエスカレーターを使うようにしていた。
エスカレーターを降りれば、そこはもう書店の中。
冬休み中ということもあり、学生の姿も多くあった。
室内は暖房が効いていて暖かい。口元まで覆っていたマフラーを外し、腕にかける。
そして顔を上げた時に、ハルの視界に思わぬ人物がうつった。
高校生には見えない小柄な体。佐藤チトセだ。
「あ、晴野さん」
ハルが物陰に隠れるよりも先に、こちらに気付いた彼が笑顔で声をかけてきた。
明けましておめでとう、とにこにこと言ってくる彼に、ハルもぎこちなく年始の挨拶を返す。
同級生と学外で会うと、どうしてこんなに気まずく感じるのだろう。
もう少しちゃんとした格好をしてくればよかった、と、ハルは意味もなく、手に持ったマフラーをたたみ直した。
「晴野さんは、何か買い物?」
「うん。佐藤くんは?」
「僕は便箋を見にきたんだ」
そこで、ああ、と思い出す。
彼はまだ、あの手紙の事で悩んでいるのか。
「休みの間、色々と探したんだけど、なかなか良い便箋が見つからなくて」
困ったように彼は笑った。
「僕、こういうの決めるの苦手で、なんとか考えて決めても、それが的外れなことが多くて、いつも怒られちゃうんだ」
ぽつりと彼がこぼした言葉に、ハルは少し驚いた。
こんな優しい世界でも、彼にそんなことを言う人がいるのか。
ハルも優柔不断な方だが、少なくとも家族やクラスメイトから不満を言われた事はない。彼と同じクラスだった去年もそれは同じで、決断が遅い彼のことをクラスメイトは誰一人責めたりはしていなかった。
それとも、ハルの知らないところで、彼は何か言われていたのだろうか。
「あ、クラスの皆じゃないよ。クラスの人達は皆すごく優しい」
ハルの視線に気付いたのか、彼は慌ててそう言った。
「そうなんだ。そっちのクラスの人達は優しい?」
「うん、優しいよ。みんな優しくて、賢くて、なんだか自分が情けなくなってくる」
彼はそう、目線を下げて笑った。
その気持ちは、ハルにも痛いくらいにわかった。
ハルの周りのクラスメイト達は、とにかく人間ができている。理不尽なことで怒らないし、相手の話をきちんと聞こうとしてくれる。引っ込み思案なハルにも折々できちんと意見を聞いてくれるし、大したことが言えなくても責めたりしない。大丈夫だよ、と笑って受け入れてくれる。
その優しさに、ハルはたまに押し潰されそうになる。
「……わかる。私もたまに、あの人達の駄目なところを見てみたいって思う」
見て、安心したい。
あの人達も、ハルと何も変わらないのだと思いたい。
「……変なこと言ってごめん」
「ううん、僕の方こそ」
ハルが謝ると、彼は申し訳なさそうに眉を下げた。
正直ハルは、彼もクラスメイトと同じ、優しくて完璧な人間側だと思っていた。
だけど、そうか。彼もハルと同じようの悩んでいたのか。ハルだけでは、なかったのか。
その安堵が、ハルの心をほんの少し軽くしてくれた。
「便箋、良いの見つかるといいね」
「うん」
彼がいつものような笑顔を見せてくれる。
それだけで、ハルの胸が暖かくなった。
もし、と、ハルの口からするりと言葉が出てくる。
「また何か悩んだら、私でよかったら、また相談にのるよ。私もあんまりセンスないけど」
ハルの言葉に、彼は一瞬驚いたような顔をした。
その表情に俄に恥ずかしくなり、ハルは、それじゃあ、と少し大きめの声を出して、足早にその場から去った。
お気に入りの出版社の棚に向かい、彼の姿が見えなくなったところで、はぁ、っと息を吐く。
最後の言わない方が良かっただろうか。余計なお世話だろうか。
ハルが言わなくても、多分彼が悩んでいることを知れば、優しい誰かがきっと同じようなことを言うだろう。
だけど、ハルが言いたかったのだ。他の誰ではない、ハルが彼を励ましたいと、そう思ったのだ。
どくり、どくりと心臓がやけにうるさく鳴っている。
そのことに、ハルは必死に気付かないふりをした。



あれはまだハルが高校1年生だった頃。
あの日は図書室で図書委員会の集まりがあった。
委員会が終わり、多くの生徒が図書室を出て行く中、ハルはひとりそこに残り、借りたばかりの本を読んでいた。
窓の外は雪が降っていた。ハルの苦手な雪が。だから、なんとなく帰る気になれなかった。
静かな図書室で時間だけが過ぎていく。
そのうちに陽が陰ってきて、辺りは徐々に暗くなっていった。
雪が降っている上に、暗い道を歩くのはさすがに嫌だ。
ハルは読んでいた本を閉じ、諦めて立ち上がった。
そうして図書室を出てたどり着いた昇降口で、ハルは思わぬ人物から声をかけられた。
その人物とハルは同じクラスだが、特別仲が良いというわけではない。ハルは自分から男子と話す方ではないし、彼も積極的に誰かと話す方ではない。彼はどちらかというと受け身で、誰かに話しかけられても、申し訳なさそうに答えている印象がある。
そんな彼が突然、一緒に帰ろう、と言ってきたのだ。
突然の彼の誘いに、ハルはひどく驚いた。
断ろうかとも思ったが、断ったところで校門まではどうせ一緒になる。それも逆に気まずく、また辺りはだいぶ暗くなってきているし、苦手な雪も降っている。こんな時はひとりではなく、誰かと一緒にいたい気持ちもあった。
だから、ハルは彼の誘いにこくりと頷いた。

静かな薄暗い道を、ハルは佐藤チトセと並んで歩く。
ハルの手には使い慣れた薄紫色の傘。彼の手には、透明なビニール傘。
その上から、白く重たい雪がはらはらと降り注いだ。
2人の間に特に会話はない。そもそも共通の話題も浮かばない。
校門の前にあるコンビニの辺りまでは、雪がすごいね、くらいの会話はしていたが、その話もすぐに終わってしまった。
ざく、ざく、と雪を踏みしめる音だけが、誰もいない道に響く。
無言の時間が苦痛になり、ハルが一緒に帰ることを後悔し始めた時、思い出したように彼が口を開いた。
「そう言えば昨日、家で卵を割ったら黄身が2つあって」
突然何の話かと思ったが、やっと生まれた会話に、ハルは飛びついた。
「そうなんだ。珍しいね」
ハルの答えに満足したのか、彼は安堵したように話を続ける。
「うっかり混ぜちゃってから、写真撮っておけばよかったって後悔して」
「わかる。そういうのって、後で気付くよね」
「もう1回卵割っても普通ので」
「まぁ、そうだろうね」
「写真撮りたくて、家にある卵全部割っちゃったから、昨日の夕食はすごく大きな卵焼きだった」
「そうなんだ。たくさん割って怒られなかった?」
「誰に?」
「え?」
誰って。
ハルは一瞬絶句してしまった。
もしかしたら、これは聞いてはいけないことだったのだろうか。
それとも彼は一人暮らしだったのだろうか。確かに高校から寮や親元から離れて一人暮らししている人がいるということは知っているけど、ハルの高校では珍しい。
いや、彼が一人暮らしだったのなら、一人暮らしだから、と言ってくれたらいい話だ。
それなのに彼が驚いたように固まってこっちを見ているから、ハルは余計に焦ってしまった。
「ご、ごめん。変なこと聞いちゃった。それで?続きは?」
「あ、いや、僕の方こそ、ごめん……」
そこから、彼は電源の切れた機械のように何も言わなくなってしまった。
やってしまった、とハルは頭を抱えたい気分になった。
どうしてそこであんなことを聞いてしまったんだろう。家族のことなんてデリケートな話題に決まっている。聞かれたくないこともあるだろうし、本人だって言いたくないはずだ。
聞くにしてももっと別のことを尋ねればよかった。
こういう配慮ができない自分が、ハルは本当に情けなくなる。
何か言わなければ。
だけどハルが焦れば焦るほど、話すべき言葉は浮かんできてくれない。
気まずい空気が2人の間に流れ始めた時、彼がようやく口を開いた。
「……ごめんね、急に一緒に帰ろうなんて言って」
驚いたよね、と気落ちしたような声が雪の中に静かに浮かぶ。
ちらりと彼の顔を見れば、彼はハルを見ておらず、そっと目を伏せていた。
彼のまつ毛が、薄茶色の瞳に影を落としている。
なんとなく、子供の時に見たフランス人形のことを、ハルは思い出していた。
「その、晴野さんが一人で帰ろうとしているのが見えて、もう暗くなるし、一人で帰るのは危ないから一緒に帰ろうと思ったんだけど……。よく考えたら、急に誘われたらびっくりするよね。気まずい思いをさせちゃってごめん。せめて僕が、もっと話し上手だったらよかったんだけど……」
「そんなことないよ」
ハルは慌てて彼の言葉を否定した。
「そんなことないよ。私だって、それは同じだよ」
ハル自身が話し上手だったら、もっと2人の会話を盛り上げていたら、きっと彼だってこんな風に落ち込んだりはしなかっただろう。
そう言うが、彼の眉は下がったままだ。
どうしよう。ハルは困ってしまった。
彼は悪くない。クラスの他のみんなと同じ、ただ優しい人だ。
一人で帰るハルを気遣ってくれただけ。何も悪いことをしていない。それなのに、こんなにも申し訳なさそうにしている。
ハルに優しくしたせいで、彼は落ち込んでしまったのだ。
ハルが、ハルのせいで。
腹の奥で、何かが締め付けられるような気がした。
「違う、佐藤くんのせいじゃない」
ハルには、もうそれしか言えなかった。
優しい人が自分のせいで落ち込んでいるのは嫌だった。
優しい人に何も問題はない。優しいことは悪くない。悪いとしたら、その優しさをきちんと受け止められないハルの方だ。
せっかく優しくしてもらったのに、ハルは何も返せない。優しい人を傷付けることしかできない。
この優しい世界に、自分は必要なのか。
何も言えなくなったハルに、彼が困ったような笑顔で、もう一度、ごめん、と言った。
その言葉が、静かにハルを責め立てる。
どうしよう。どうしよう。
悩んでいる間にも、ハルの家が見えてくる。
ハルの家は高校から歩いて15分くらいのところにある。
そこで彼との帰り道は終わる。でも、こんな気まずいままで終わりたくない。
ぐるぐる考えている間にも足は動き続け、とうとう家の前に辿り着く。
それじゃあ、と言う彼の口が「そ」の形になった時、ハルは頭が真っ白になり、そして気付けば、彼に明日も一緒に帰ってもいいかを聞いていた。


どうしてあんなことを言ってしまったんだろう。
次の日の放課後、ハルは昨日勢いで言ったことを後悔し始めた。
でも、嫌だったのだ。ハルに優しくしてくれた彼を落ち込ませたままでいるのが。
言うなれば、ただの自己満足だ。
だが、今更悔やもうと、約束をしたのだから、ハルはこの後、彼と2人で帰らなくてはいけない。
一応いくつか話題になりそうなものは考えてきたのだが、その話に彼が興味を持ってくれるかはわからない。
でも、やるしかない。だってハルから言い出したことだ。
約束したのだ。約束は守らなくてはいけない。
よし、と心を奮い立たせて、ハルは彼のいる教室を覗いた。
まばらに残っている生徒の中に彼の姿はない。
あれ、と思って玄関に向かう。そこにも彼はいない。
もしかして急用ができて、先に帰ってしまったのだろうか。
彼に連絡を取ろうにも、連絡先もわからない。
さて、どうしようかと悩んでいると、後ろからバタバタと慌ただしい足音が聞こえた。
振り向くと、廊下の向こうから彼が走ってくるところだった。
「ごめん!うっかり高橋先生と話し込んじゃって……!」
彼の話によると、図書室の前でばったり会い、立ち話をしているうちに時間が経ってしまったらしい。
他の人とは普通に話が盛り上がったりするんだ。
ハルは無意識に、ぎゅ、と自分の手を握る。
「大丈夫だよ。私も今来たところだから。高橋先生と何の話していたの?」
「あ、いや、大した話じゃないよ」
彼は誤魔化すような笑みを浮かべ、ハルの前を通り過ぎていった。
その態度に、ほんの少し胸が騒ついた。

彼と並んで歩きながら、ハルはたくさん彼に話しかけた。
昨日見たテレビのこと。教室で聞いた面白い話。可愛かった犬の話。
だけどどれもこれも上滑りをしているような気がして、それが不安でハルはさらに多くのことを話し続けた。
こんな話、面白くもなんともないだろう。
ハルは思う。
でも、彼はどんなつまらない話でも、うん、うん、と頷きながら聞いてくれた。
彼は優しかった。こんなハルの話もにこにこと聞いてくれる、優しい人だった。
そんな人を昨日は悲しませてしまったのかと思うと、情けなくて自分をぐちゃぐちゃに千切ってやりたい気分になる。
ごめんなさい、と心の中で詫びながら、ハルは話し続けた。
話して、話して、話して。ふと気付けば、目の前にハルの家があった。
そこで、ようやくハルのおしゃべりが止まる。
話しながら歩いてきたせいか、はぁ、はぁ、とハルの息が上がっている。
いつのまにか、空から大嫌いな雪が降っていた。だけど、話すことに夢中で、今の今まで気付かなかった。
こんなこともあるのか、とハルがぼんやり思った時、彼がゆっくりと口を開いた。
「今日は、たくさん晴野さんの話を聞かせてくれてありがとう。すごく楽しい帰り道だった」
ふわりと笑って言われた言葉に、カッと体の中が熱くなった気がした。
今思えば、あれはただの社交辞令かもしれない。だけど、あの時はまさかそんなことを言ってくれるなど思っても見なかったから、ただただ驚いた。そして、嬉しかった。ハルの無駄かもしれない頑張りを、彼はちゃんとわかってくれたような気がしたのだ。
「私の方こそ」
気付けばハルの口から言葉が飛び出していた。
「私の方こそ、ありがとう。昨日、本当は一人で帰るのが嫌だったの。私、正直、雪があまり好きじゃなくて、一人で帰るのは心細かったから。だから、佐藤くんが一緒に帰ろうと言ってくれて嬉しかった」
彼の目が驚いたように、きゅうと開かれた。
その反応に、途端にハルは恥ずかしくなる。
「とにかく、ありがとうね。それじゃあ!」
そう言って、逃げるように家の中に駆け込む。
バタンと扉を閉め、その扉に寄りかかり、両手で口を押さえる。
変なことを言ってしまっただろうか。
いや、あれはただのお礼だ。おかしいところは何もなかったはず。
ハルの予想では、彼がそんなことないよ、と笑って、それで、また明日、と普通に別れるはずだったのに。
あんな驚いた顔をしなくても。ハルがお礼を言うことがそんなに驚くようなことだったのか。そんな礼すら言わないような人間だと思われていたのだろうか。それはそれで悲しい。
落ち着かせるように息を吐き、ハルはゆっくりと扉についている覗き穴を覗く。
そこにはもう誰もいなくて、白い雪だけが音もなく降っていた。

それから、ハルはなぜか彼の顔を見るのが恥ずかしくなり、彼と一緒に帰ったのは、結局この日が最後だった。



「あ、ハルちゃん。奈津川(なつかわ)さん、知らない?」
3学期が始まったある朝。
教室に着き、鞄から教科書を出していると、不意に名前を呼ばれた。
ハルの席は廊下側の一番後ろだ。
教室の後ろの扉に近いせいか、こうして他クラスの生徒から声をかけられることが増えた。
またか、と思って振り向くと、そこには去年同じクラスだった秋田アキヒコが入り口から顔を覗かせていた。
ハルよりも頭ふたつ大きな身長。ハルの苦手な大きな人なのに、不思議と怖くない。それは多分、彼がゴールデンレトリバーを思わせるような愛らしいふわふわとした茶色い髪と、人懐っこい笑顔をしているからだろう。
彼には、人の警戒心を解いてしまう不思議な魅力があった。
「えっと、奈津川さん?」
「うん、奈津川さん。もう来てる?」
彼の言う奈津川さんとは、ハルと同じクラスの奈津川ナツキのことだろう。美術部で、確かいつだったか何かの賞をとったと全校集会で表彰されていた。
ハルが来た時、彼女はすでに教室にいて、荷物を片付けていた。だが、今教室にその姿はない。トイレにでも行っているのかもしれない。
「奈津川さんは、さっきまでいたはずなんだけど……」
「そっか、先生から渡してほしいものがあるって頼まれたんだけど……。なら、ちょっと待とうかな。ハルちゃん、最近どう?」
「ふ、普通かな」
ハルは答えながら、ぎこちない笑みを返す。
秋田アキヒコという人は、誰が相手でも、こうして気安く話しかけてくれる。その分け隔てない態度が、多くの人に好かれる要因でもあるのだろう。
現に、ハルのなんの面白みのない答えにも、普通が1番だよ、とにこにこと相槌を打ってくれている。
「あ、そういえばハルちゃんも聞いてる?俺が天使見たって話」
「う、うん。高橋先生似の天使を見たって……」
「そう、その噂!マジで迷惑なんだけど!」
突然大きくなった声に、ハルは目を見開く。
大きい声は苦手だった。勝手に体がすくむ。自分が怒られていなくても、自分が怒られている気分になる。
固まってしまったハルに、彼は慌てて謝ってきた。
「あ、大きな声出してごめんね。でも、その噂、違うんだよ」
「違う?嘘ってこと?」
「うん。俺、天使なんか見てないし」
その言葉に、ハルは目を瞬かせる。
「気付いたら、あんな噂が広がっててさ。しかも、俺が高橋先生に惚れてんじゃないかって噂まで流れてるし。これはさすがにヤバイと思って、今、少しずつその噂を訂正してるところ。ハルちゃんも誰かに聞かれたら、違うって言っておいてくれない?」
わかった、とハルは頷いた。なんてことだ。あれが完全なデマだったとは。
誰かに言わなくてよかった、とハルはこっそり胸を撫で下ろした。
その時だ。ふと廊下に視線を向けた彼が何かに気付き、声を上げた。
「あれ、チトセ、久しぶりー。誰かに用事?」
チトセ、という名前に、ハルの心臓が大きく鳴った。
佐藤チトセは去年、ハルと同じクラスだった。つまり当然、秋田アキヒコとも顔見知りだ。
いや、だが、まだ本人と決まったわけではない。チトセという名前も、そこまで珍しいものではない。
だが、ハルの願いも虚しく、教室の入り口から申し訳なさそうに顔を出したのは佐藤チトセ本人だった。
「あの、晴野さん、図書室で高橋先生が呼んでて……」
「え?」
一体何の用だろう。考えてみるが、特に思い当たる節はない。前は図書委員会だったが、今はもう違う。
教室の壁にかけられている時計をちらりと見る。朝のホームルームが始まるまで、あと15分。
だが、呼ばれているなら行かなくては。早くしないと間に合わなくなってしまうだろう。
とりあえずハルは2人に、じゃあ、と小さく頭を下げ、図書室に向かうことにした。

図書室を生徒が自由に使っていいのは、昼休みと放課後だ。
だから今のような朝の時間、図書室に向かう廊下に人気はない。
そこに、ぱた、ぱた、とハルの足音が響く。そしてその後ろから、足音がもう一つ追ってくることに気付いた。
ハルは足を止め、振り向く。
「どうしたの?佐藤くん」
気まずそうにこちらを見る彼に、ハルは尋ねた。
何か伝え忘れたことでもあったのだろうか。
彼はハルの問いに、あ、う、と言葉を漏らした後、ごめん、と言った。
ハルは首を傾げる。
「どうしたの?」
「その、ごめん。本当にごめん」
「私は大丈夫だよ。どうしたの?」
ひどく戸惑っている彼を焦らせないよう、なるべくゆっくり尋ねる。
すると彼はぼそぼそと話し出した。
「本当は、高橋先生は晴野さんのこと呼んでなくて……」
「あ、そうなの?」
「うん。あの、晴野さんにこっそり話したいことがあって……。でも秋田くんと話してたから、後にしようとしたら秋田くんに見つかっちゃって……」
そこで正直に言うわけにもいかず、咄嗟に嘘を言ってしまった、ということらしい。
もう一度、頭を下げて、ごめん、と謝る彼に、ハルは、いいよ、と返す。
確かに、2人で話したいことがあるから、と呼び出すのは、いささかハードルが高い。
ハルも同じ立場だったら、彼のように嘘をついていただろう。
「それで、私に話したいことって?」
「あ、うん、その」
そう言って彼はブレザーの内ポケットから、白いシンプルな封筒を出してきた。よく見ると、真っ白ではなく、うっすら黄色い花の模様が描かれていた。
彼が宛名面を胸に当てるように持っているせいで、宛名は見えない。
不意に彼が書いていたあの文章を思い出し、ハルの心臓がどくりと大きく鳴る。
「手紙、ちゃんと自分で便箋選んで、書くことができたんだ」
「うん」
ハルの喉がごくりと鳴る。
どうしてこんなに緊張してくるのか、ハルにはわからない。だけど、心臓の音がうるさいくらいに鳴っていることだけはわかる。体が熱い。顔が熱い。
これはまさか。もしかして。
「それで」
彼の目がハルを見る。
何も知らない子どものような、薄茶色の瞳。
それが、真っ直ぐにハルを見つめている。
「こういうのって、いつ渡したらいいと思う?」
その質問の意味が、ハルには一瞬わからなかった。
目を瞬かせ、たっぷり数秒置いて、ハルは尋ねた。
「……いつ、って?」
「あ、その、僕、こういう手紙を書くのも初めてだけど、渡すのも初めてで、ふさわしい時期ってあるのかなと思って。もうすぐバレンタインだし、それと一緒の方がいいかな、とか。だから、晴野さんの意見も参考に聞いてみたくて……」
恥ずかしがるように言う彼に、さっきまで上がっていたハルの体温がさっと冷めていく。
一体何を考えていたのだろう。一体、自分は何を期待していたのだろう。
彼に告白されるとでも思っていたのか。あの手紙が実は自分宛だったとでも。
馬鹿馬鹿しい。調子に乗るのも大概にした方がいい。頭に虫でも湧いているのではないか。
そうだ、いつでも相談してと言ったのは自分だ。それなのに、どうしてそんな考えに至ってしまったのか。
ハルの頭の中で、様々な罵り言葉がぶつけられていく。それをハルはただ呆然と受け入れる。
そうだ、本当に、自分は何を思っていたのか。
言いようもない羞恥がハルを襲う。
恥ずかしい。恥ずかしい。恥ずかしい。
彼から思われているなんて、思い上がるにも程がある。
それとも、彼だったら自分のことを好きになってくれる。そうとでも思っていたのか。
だったら、その感情は彼に対しても失礼だ。全く、本当にどうしようもない。
嵐のような感情がハルの中を暴れ回る。
何も答えないハルに、彼が不安そうに眉を下げる。
早く何か答えなくては。質問は何だっけ。たしか、いつ手紙を渡したらいいか、だ。
もうすぐバレンタインだからそれに合わせた方がいいのか。それとも、気にしなくてもいいのか。
そんなのどっちでもいい。知らないよ、そんなこと。好きにしたらいい。
ハルの中の誰かが叫ぶ。
そんなことを言ってはいけない。言ったら、自分がとんでもなく醜いものになってしまう気がする。
だから背中の後ろで手をぎゅっと握りしめ、ハルは無理やり笑顔を作る。
さっきの秋田アキヒコみたいに笑えていたらいい。あんな風に誰からも愛される人気者のように。むしろハルが秋田アキヒコだったら、最初からもっと上手くやっていたはずだ。
でも最初って、いったいいつだろう。
それは多分、あの雪の日。初めて一緒に帰った日からだ。
あの日、彼を悲しませることなく、楽しく帰ることができていたら。ハルが彼にこんな感情を抱くことはなかった。
どうしていいかわからない恋心など、持つことなどなかったのに。
「そうだなぁ。バレンタインに告白されるのもロマンティックだよね」
口が意思から乖離したように、パクパクと勝手に動く。
言った言葉はどこかの雑誌で見た文言だ。ハルが心の底から思っていることではない。
彼の告白は成功するだろうか。彼の想いびとは、彼の気持ちに応えてくれるだろうか。
彼は不器用ながら一生懸命悩み、あの手紙を書いていた。恋愛のことなど何も知らないハルに、藁にもすがる思いで相談してくるほどに。
だから、叶ってほしいと思う。彼の想いが届いたらいいと。
でも、そうなったら、校内や帰り道で彼とその人が歩く姿を見ることになるかもしれない。
それは、今のハルにはまだ辛かった。
だから言った。
「でも、暖かくなってからの方がいいんじゃないかな。冬よりも気分が開放的になるし。桜の時期とか、素敵だと思う」
笑って答えながら、ハルは心の中で謝った。
ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。心の狭い人間で、ごめんなさい。
だが、何度謝っても、胸の痛みがとれることはなかった。



いったい自分は何をしているのか。
きらびやかなデパートの催事場を歩きながら、ハルは小さく息を吐く。
悩んでいる時、一人でいるのは心細い。だけど、誰かにうまく相談することもできない。誰にどこまで相談したらいいのか、ハルにはよくわからなかった。
多分優しいクラスメイト達なら、快くハルの悩みを聞き、それは辛いね、と共感してくれるだろう。絶対に、ハルの悩みを笑ったりはしない。
だけど、わかっていても、どうしてもその一歩が踏み出せなかった。
ハルはぼんやりと、クラスメイト達に相談した時のことを想像する。
彼女達なら、なんと言うだろう。
『佐藤くんに好きな人がいるの?ええ、そうなんだー、びっくりー』
彼女達が大袈裟に驚く姿が目に浮かぶ。
『そうなの、驚いたの』
ハルは頭の中で想像のクラスメイトに答える。
『本当に驚いたの。佐藤くんが誰かを好きになるなんて。ラブレターを出したいと思うくらい、恋愛経験もろくにない私にアドバイスを求めてくるくらい、好きになった人がいただなんて』
『いたらいけないの?』
ハルの言葉に、彼女達は不思議そうに首を傾げるだろう。
『いけなくない。いけなくないけど、ひどく裏切られた気分になったの』
『どうして?』
『だって』
だって。
ハルは答えられない。答えたら、自分がとんでもなく醜い生き物になる。こんな優しい世界にふさわしくない程、醜悪なものに。
だけど、頭の中の彼女達は容赦無い。隠していたハルの心を引き摺り出していく。
『もしかして、優しい佐藤くんなら、こんな自分でも好きになってくれるかもしれないって思ってたの?』
彼女達の顔が、馬鹿にするように醜く歪む。
ハルは何も言えずに俯いた。
『それってひどい思い上がりだよね。たかだか1回一緒に帰っただけでしょ?その後、まともに会話しないままクラスも変わって会わなくなった。ハルちゃんは何もしていない。それで好きになってほしいだなんて、冗談でしょ?それに、佐藤くんなら、ってどういう意味?佐藤くん程度のレベルの男の子だったら、ハルちゃんなんかでも好きになってくれるって思っていたの?佐藤くんを、ハルちゃんは見下していたの?』
『違う、違う。見下してなんかない』
『だって、そういうことじゃない?秋田くんとは釣り合わないけど、佐藤くんだったら、って言っているのと同じでしょ』
『違う。同じじゃない。そういうことじゃない。ただ』
『ただ?』
ハルは思い出す。彼と初めて一緒に帰った日のことを。不器用な彼の姿を。
この世界には優しい人が多い。優しくて、何でもできてしまう人が多すぎる。
それが、ハルには息苦しかった。
誰もうまくできないハルを責めない。うまく返せないハルを罵らない。だけど、ハルだけはいつもハルを責めた。
みんな優しい。頭もいい。こんなたいして賢くもない自分にも優しくしてくれる。
何かを返さなくては。優しくしてくれる彼らに何かを。だけど、返すものがわからない。
でも、きちんと返していかなければ、もらったものを返さなくては、いつかハルは捨てられる。
彼はみんなと違って器用ではなかった。だけど、精一杯ハルに優しくしようとしてくれた。
その姿を、ハルは愛おしいと思ったのだ。完璧で優しいどの生徒よりも、不器用な彼が。
『佐藤くんに好かれたら、嬉しいなぁって思ったの。ただ、それだけだったの』
彼とだったら、器用じゃないもの同士、ゆっくりゆっくり2人で並んで進んでいけると思った。彼は、ハルがうまくできなくても笑ったり馬鹿にしたりしない。ハルがなんとか挽回しようとするのを優しく待っていてくれる。多分、デートとかの段取りも2人ともうまくできなくて、ごめんね、ごめんねって互いに謝りあって、でもそれでも2人でいられるだけで嬉しくて、話せるだけでも胸がきゅうっとしまって。手を繋ぐだけでもかなりの時間がかかりそう。でも、それでいい。それがいい。そんな時間を、彼と過ごしていきたいとハルは思ってしまったのだ。
クラスが変わって、ハルと彼は会う機会は減った。
それでも、ハルの中で彼は特別だった。特別のままだった。
好きだった。だけど、どうしていいかわからない。
彼から好かれたいと思っているくせに、うまく好きになってもらう方法がわからない。
わざと彼のいるクラスの友達に教科書を借りに行ったり、彼がよく図書室のいるから、今年も図書委員に立候補したりもした。ほんの少し会えるだけでいいと思っていた。でも、それらはうまくいかなくて、彼とは全然会えなかった。
だから、あの2学期の期末テストの最終日。図書室で会えたのは本当に奇跡だと思った。
だけど、彼はあの時からもうハルの知っている彼ではなくなっていた。
だって彼は、ハル以外の誰かを好きになったから。
ハルを置いて、彼は新しい世界に歩み出そうとしていた。
頭の中で会話を続けるハルの周りを、多くの人々が追い越していく。
今日のデパートの催事場は、バレンタインが近いこともあって、チョコレートの匂いが立ち込めていた。
女性達が真剣な目で、綺麗に包装されたチョコレートがあるガラスケースをのぞいている。
ハルはその人混みを遠巻きに見ながら、デパート内を周遊する。止まったら死んでしまう魚のように。
『嫌だ。佐藤くんに、私以外を好きにならないで欲しかった。私だって好きだったのに。佐藤くんと一緒に帰ったのは私だったのに。どうしてその人は佐藤くんに好きになってもらえたの?どうしたらよかったの?』
『だって何もしてないじゃん』
想像の中のクラスメイトがハルを嘲笑う。
『何もしていないからだよ。何もしないハルちゃんを、彼が好きになるわけない。このままだと、本当に佐藤くんはハルを置いていくよ。それでいいの?』
『よくない。絶対嫌だ』
ハルは胸の中で叫ぶ。
いやだ、いやだ、いやだ、と繰り返すたび、ハルの目が潤み、鼻水が出そうになる。
泣きそうなのを誤魔化すために、ハルは俯き、コートの袖で目を擦った。
『好きなの。本当に好きなの。でも一体今更、何ができるの』
『何がしたいの?どうなりたいの?』
『わからない』
『このまま黙って見ているだけなの?それとも、戦うの?』
『あはは、戦うって。喧嘩じゃないんだし』
いつかのように、想像の彼女達もきゃらきゃらと笑い合う。
『喧嘩じゃないけど、でもここで頑張らないと、ハルちゃんが欲しいものは手に入らないよ。このままだと、佐藤くんはハルちゃんがこんなに悩んでいることを知らないまま誰かと付き合うんだよ?そんなのずるいと思わない?ひどいと思わない?』
彼女達の言葉に、ハルは苦笑いしそうになる。
こんなこと、本物の優しい彼女達は絶対に言わない。
やはり、ハルの本性は醜い。こんなところに、自分の性根の悪さが出てしまう。
多分、そもそもハルは優しい人間ではないのだろう。
自分は優しくない。彼女達のように優しくできた人間ではない。
だから、彼の恋を大人しく応援してあげることができないのは当たり前なのだ。
ハルは思う。
ハルが彼女達のように優しい人間だったら、この恋は無かったことにするだろう。
だって、彼は優しい。ハルの恋心を知ったら、彼は傷付くだろう。だから大好きな彼の為にも、自分の恋を黙って捨てるはずだ。
だけど、ハルは優しくない。優しくなれない。
彼が誰を好きでもいい。誰と付き合ってもいい。
だけど、ハルが恋していたことは知っていてほしい。
あなたの恋の下には、ハルの恋という犠牲があったことをわかってほしいと、ハルを置いていく彼にも、ハルと同じように傷付くことを願っている。
醜すぎる感情に、ハルはこっそり唇を歪める。
でも、これがハルの本性だ。
優しくもない、賢くもない、自分のことしか考えられない人間らしい人間。それがハルだ。
絶対、黙って祝福なんかしてやるものか。
ハルは俯いていた顔をあげる。
目の前には、多くの人々で賑わうチョコレート売り場が広がっていた。



雪の降る夢を見る。
子供の頃からよく見る、いつもの夢だ。
ハルは、すらりと伸びた街灯の下で座っている。
辺りは真っ暗。だけど、頭上にある明かりのおかげで、ハルのいる周りだけスポットライトのように明るく照らされている。
自分の周りには雪。空からも、ぼたぼたと容赦なく雪が降り注いでいる。
今日は朝から寒かった。耳の先や鼻の頭がきん、と冷えていた。
こんな日は家にいた方がいい。
それなのに、ハルはここにいる。
家に帰らなくては。
だけど、ハルの体が動かない。
時折灰色の空を見上げ、寒そうに息を吐くだけ。
ハルの4つの足は完全に雪に埋れてしまっている。
それでも、夢の中のハルは全く慌てていない。
寒さを感じてないはずはない。
現にハルの体は小さく震え、まつ毛は凍っている。足の爪先も痛い。
口から出る息はもはや白くない。体の芯から冷え切っているのだろう。
それでも夢の中のハルは、そこから動こうとはしなかった。
どうして。
夢の中でハルは自分に問いかける。だけど、答えはない。
ハルの小さな体に、どんどん雪が降り積もる。
頭を振って体についた雪を払うけれど、それも一瞬のこと。
すぐに新しい雪が体につき、冷たい風が体温を奪っていく。
がちがち、と牙がぶつかって醜い音を立てて鳴る。
寒い。寒い。寒い。
だけど、ここで待たなければ。
何を。誰を。ハルにはわからない。
だけど、ここでハルは何かを待っているのだ。
待たなければ。だって、ここで待つように言われたから。
ハルはここで待っていなければいけない。
気付くと、真っ白い雪が体の半分を埋めていた。
いくら振り払っても、顔に雪がつく。
がちゃり、と首の後ろで固い音が鳴った。
冷たい。寒い。痛い。耳が痛い。脚が。鼻が。頭が。
痛い。痛い。痛いのは嫌だ。
いやだ、いやだ、いやだ、助けて。助けて。助けて。
静かにしている。大きな声で吠えない。わがままも言わない。何も欲しがらない。何も言わない。
言うことを聞くから。きちんとここで待っているから。
だからどうか許して。
目を開けているのに、何も見えない。見えるのは白色だけ。
足が動かない。声も出ない。体が勝手に地面に伏せていく。
だけど、ここで待つように言われたのだ。
待たなければ。ハルにはそれしかできない。
優しくしてもらえる術が、もうそれしかわからない。
雪が降る。どんどんどんどん、ハルの体を埋めていく。ハルの体が白くなっていく。
気付けば、ハルの肌は全て雪に埋れ、覆い尽くされていた。
息が苦しい。体が重い。眠たい。
まぶたが閉じるほんの一瞬前、ハルは温もりを感じたような気がした。
ああ、あったかい。
ハルは安堵に包まれ、かすかに笑う。

そこでいつも夢は終わる。
だからハルは、雪が苦手だ。



やってしまった。

バレンタイン当日。
ハルは教室で頭を抱えていた。
あの後、勢いでチョコレートの材料を買い込み、彼に渡す用に小さなトリュフを作ったのまでは良かった。不器用なハルにしてはラッピングにも気を遣って、綺麗にできたと思う。出来は満足している。
だけど、今日。
そのチョコレートを鞄に入れ、意気揚々のと登校したのだが、意外といつも通りの雰囲気の教室に、ハルは怖気付いてしまった。
確かに冷静に考えれば、バレンタインだからといって、学校全体が告白モードになるわけではない。
学校は基本は勉強をするところだ。チョコレートを持ってきている子はいても、それは主に友人と交換する為のもの。
本気のチョコレートを持ってくるような浮かれた奴は、もしかしたらハルしかいないのかもしれない。
問題は他にもある。そもそも、いつどうやって彼にチョコレートを渡すのか、ということだ。
彼とはクラスが違う。前みたいに放課後、彼がたまたま1人で残っていてくれたら渡しやすいが、今日も彼がいてくれるとは限らない。そもそも彼はハルと同じ帰宅部だ。前のように残っている方が珍しい。
そして、あの日は何もない普通の日だったからまだよかったものの、バレンタインデーに特定の男子を待っているとか、それはもうその人が好きだと公言しているようなものではないのか。
百歩譲って、彼にハルの気持ちが知られるのは仕方がないとしても、彼以外の人にハルの気持ちは知られるのは嫌だ。
悶々とした気持ちが、ハルに重くのしかかる。
いっそ渡すのをやめてしまおうか。でも、せっかく作ったし。だけど、他の人に自分の恋がバレるリスクをおかしてまで、今日チョコレートを渡す必要はあるのか。もっと機会を見た方がいいのではないのか。
ハルは悩んだ。おかげでその日の授業の内容なんて、全く頭に入ってこない。昼食のパンもどこか上の空で食べ、クラスメイトからもらったチョコも、なんだか味がしなかった。
いっそ、ただの義理チョコということで渡してしまおうか。告白は後日にして。何もこんなわかりやすい日にしなくても。
時間が経つにつれ、あれだけ勇んでいたハルの気持ちもだんだんと萎んでいく。
昼休みになっても、ハルは学校内を歩き回りながらずっとそのことを考え続けていた。
もう、一体どうしたらいいのか。
「あ、晴野さん」
そしてどうしてこんな日に限って、彼とばったり会ってしまうのか。
多くの生徒が行き交う廊下で、ハルは偶然彼と会った。
突然、心臓が大音量で騒ぎ出す。
体が熱くなる。うまく頭が回らない。
今チョコレートを渡すべきか。いや、こんな人が多いところでそれは無理だ。そもそも、チョコレートは教室のリュックの中に置いてきたから持っていない。
どうしよう。何か言わなければ。
ハルはからからになった喉から、必死に声を絞り出す。
「ど、どうも」
ぎこちない笑みを浮かべて、ハルは足を一歩後ろに引く。
「あれ、晴野さん、どこか行くところ?」
「あ、うん。ちょっと……」
「ちょっと?」
「ええと、と、図書室に行くところ」
必死に浮かんだ嘘を並べ立てる。
挙動不審なハルに、彼がわずかに眉をひそめた。
彼が何かを聞く前に、ハルは慌てて口を開く。
「さ、佐藤くんは?」
「僕も図書室に行くところ。よかったら、一緒に行かない?」
「あ、うん、じゃあ……」
今から行くところ、と言ってしまった手前、断ることもできず、ハルは彼と図書室に行くことになってしまった。
賑やかな声が溢れる廊下を歩きながら、ハルはチラリと彼を見る。
まつ毛が長い。肌が白く、透き通るようにきれい。
前を見ていた彼目がこっちに向きそうになり、ハルは慌てて目をそらした。
彼と2人で並んで歩くのは初めてではないのに、どうしてこんなにも落ち着かないのだろう。
今日がバレンタインだからだろうか。
そこで、ふと思う。
彼も、バレンタインにチョコレートを贈ったりするのだろうか。
最近は男の子がチョコレートを贈るのも珍しいことではなくなった。
あんなラブレターを書くくらいなのだから、彼も何かしらのことはするだろう。それとも、ハルのアドバイスに従って、暖かくなるまでは何のアプローチもしないのだろうか。
いや、そもそも、彼の好きな相手が彼にチョコレートを贈る可能性もある。もちろん、その好きな相手が、彼じゃない相手にチョコレートを贈る可能性も。
「晴野さん」
突然呼びかけられ、ハルの体がびくりと跳ねる。
慌てて彼の方を向くと、彼は困ったように眉を下げてこちらを見ていた。
「あ、ご、ごめん。ぼうっとしてた」
「大丈夫だけど……。何かあったの?」
心配そうな彼の声に、ハルは戸惑った。
何か言わなければ。でも、何をどう言っていいのか。
「いや、あ、あのね」
驚くほど上擦った声が、口から飛び出す
「お、同じクラスの子の話なんだけど。その子から、バレンタインに告白したいんだけど、どうすればいいって相談されちゃって」
佐藤くんといい、どうしてみんな私に聞いてくるんだろうね、とハルは笑って気まずさを誤魔化す。
「チョコレートも手作りで用意したんだけど、どうしようって悩んでるみたいで。私、うまく答えられなくて。佐藤くんは」
ハルの喉が、緊張でゴクリと鳴る。
「佐藤くんは、バレンタインに手作りチョコレートを渡されて告白されるのって、どう思う?」
あくまでただの世間話のように。笑顔を崩さずに彼に問いかける。
えぇ、とハルの質問に彼は照れたように笑った。
「困ったな。僕、あまり参考になることは言えないんだけど」
「なんでもいいよ。私も全然浮かばなかったし」
「うーん、そうだなぁ」
彼は困ったように眉を下げながら、指で頬を掻いた。
「バレンタインに告白するのはいいんじゃないかな」
「本当?」
「うん。誰でも、好きって言ってもらえるのは嬉しいと思う」
その言葉に、ハルの胸がぶわりと熱くなる。
本当に。ハルの気持ちを彼に言っても、彼は嫌がらないだろうか。聞いてくれるだろうか。
「ああ、でも、手作りのチョコレートはどうなんだろう」
「……え?」
彼は眉をひそめた。
「ほら、手作りってなに入ってるかわからないって嫌がる人、多いでしょ?だから、無理に作らなくても、売ってるものでいいんじゃないかな?」
「……佐藤くんも、そう思う?」
「僕?うーん、そうだね。僕も売ってるもののほうが安心かな」
好きな人からもらえるのなら、なんでもいいんだけどね。
恥ずかしそうにそう付け足す彼に、そうだよね、とハルは空っぽの言葉を返す。
「ありがとう、その子にも伝えておくね」
ハルの顔は笑った形のまま、凍りついたようにしばらく動かなかった。

本日最後の授業が終わり、多くの生徒が帰るための支度を始める。
ハルも机の横にかけてあるリュックを取り、教科書をしまうために蓋を開ける。
その中にあるのは、ラッピングされたチョコレート。
昨日の夜、彼の為にハルが一生懸命作ったものだ。
でも、これは彼には渡せない。だって彼は、手作りのものは嫌だと言った。
本当に馬鹿だ。贈るのなら、そういうところもきちんと調べてからやればよかった。そうすれば、材料もお金も無駄にならなかったし、ハルも余計に傷付くこともなかった。
ぎゅ、と唇を噛みしめ、空いているスペースに教科書や筆箱を詰めていく。
何をやっているんだろう、本当に。もっと考えて動けばよかった。
でも、今更後悔しても遅い。
彼は告白するのは別に構わないと言っていた。それだけがハルの救いだった。
告白するのは許された。でも、できればハルは彼にチョコレートを渡したかった。
だって、せっかくのバレンタインなのだ。好きな人にチョコレートを贈りたい。
どうせハルの想いは届かない。だからせめて、初めての本命チョコレートくらいは彼に受け取ってほしかった。
それできっと諦められる。いや、諦めなくてはいけないのだ。
だから、ハルの恋を終わらせるためにも、どうか許してほしい。
ハルは立ち上がる。
校門の前には、多くの生徒が利用するコンビニがある。
そこになら、まだチョコレートは売っているかもしれない。
ハルは財布を持ち、コートを着てマフラーを巻いた。
「ハルちゃん、もう帰るの?」
前の席のクラスメイトが、振り向いて問いかける。
「ううん。ちょっとコンビニまで買い物」
「そっか、わかった。また明日ね」
ばいばい、と優しく手を振る彼女を置いて、ハルは教室を飛び出した。

廊下を走り、階段を駆け下り、昇降口でばたばたと靴を履き替える。
外に飛び出した瞬間、はあ、と白い息が出た。
広がるのは真っ白な雪だ。
こみあげる恐怖を振り切るように、ハルは雪の中、傘もささずに駆け出す。
転ばないように気をつけながら校門を抜け、その前にあるコンビニに飛び込んだ。
あたたかで明るい店内は、バレンタインの装飾でいつも以上に賑やかな雰囲気だった。
だが、チョコレートの棚は無残のほどに空で。
ハルはその前で茫然と立ち尽くした。
まさか、ここまでなにもなくなっているなんて。
目を皿のようにして探せば、子どもの頃に食べた小さなマーブルチョコレートが下の棚で転がっているのが見えた。
これだけしかないのか。でも無いよりはマシか。
それを掴み、すがる思いでレジ横の棚をみれば、きれいにラッピングされたチョコレートがいくつも置かれていることに気付いた。
あった。
赤い包装紙に金色のリボンがかかっている、小さな正方形のそれを手に取り、マーブルチョコレートと一緒にハルはレジに出した。
興奮と緊張で震える手でお金を払い、ナイロン袋に入れられたそれを受け取り、ハルは猛然と来た道を引き返した。
帰る生徒たちの波を逆流するかのように校門を抜け、昇降口に飛び込む。
急いで靴を履き替え、教室に戻ろうと顔を上げた時。
「晴野さん」
鞄を持った彼がそこにいた。
ちょうど今から帰るところらしい。
危なかった。ぎりぎりだった。
偶然にも今、ここにはハルと彼しかいない。
もたもたしていたら他の生徒が来るかもしれない。
だから、渡すなら今だ。今しか、彼には渡せない。
「さ、佐藤くん」
心臓が大きく鳴り出す。
周りの音が聞こえない。
うまく話せない。
だけど、言わなくては。
これ、よかったら食べて、と。
もうそれだけでいい。それだけで十分だ。それ以上は望まない。
告白しても叶わない。彼には好きな人がいる。ハルの気持ちは受け取られない。
だから、彼がチョコレートを受け取ってくれたら、もうそれでいい。それでおしまいでいい。
「あの」
「コンビニに買い物?」
か細いハルの声が、彼の声でかき消される。
ハルは慌てて頷いた。
「あ、うん、ちょっとチョコレートを」
緊張で、頭がうまく回らない。
言わなくていいことまで言ってしまったような気もするが、もう止められない。
「いや、その、バレンタインだし?せっかくだからチョコレート贈ろうかなって。私も、好きな人にチョコレートくらい贈っても、今日ならバチは当たらないかなって思って」
好きな人に。
彼の唇が、ハルの言葉をなぞって繰り返した。
「晴野さん、好きな人がいたんだ」
「いや、そんな、その付き合いたいとか、付き合えるわけはないんだけど。その人、好きな人いるし。だから諦めるつもりでいたんだけど、だけど、チョコレートくらい贈ってもいいかなって。今日はバレンタインだし、そんなことも許されるかなって」
ほら、佐藤くんも昼休みに好きって言ってもらえるのは嬉しいって言っていたし。
言い訳のように彼の名前を出す。
「あの、だから、それで」
「……それで、その人に贈る為のチョコレートを今買ってきたの?」
静かな彼の声に、ハルは頷いた。
「だったら、コンビニのはやめた方がいいんじゃないかな」
彼はきっぱりと言った。まるでハルを諭すように。
「それ、前のコンビニにあったやつだよね?学校の生徒だったら皆見たらわかるよ。なんだ、コンビニのかよって思われちゃうから、それなら、やめた方がいいんじゃないかな」
静かな彼の声を聞きながら、ハルの目線はどんどん下がっていく。
あれ、どうしてだろう。どうして彼に怒られているような気分になるのだろう。
実際に彼は怒っているわけではない。怒鳴っていない。声も静かなままだ。
だけど、ハルは初めて彼が怖いと思った。
無意識に、持っていた袋をぎゅう、と握りしめる。
どうしよう。何か言わなければ。何か言わないと、彼がハルの知っている彼じゃなくなってしまいそうだ。
「だ、だって」
「だって?」
まるで詰問される子どものように、ハルは必死に言葉を探す。
顔を見られない。怖い。今この瞬間、彼がどんな顔をしているのか知るのが恐ろしい。
「……手作りは嫌だって言われたから……」
そうだ、そもそも彼が手作りは嫌だって言うから、ハルはわざわざコンビニにまで買いに行ったのだ。彼がそんなことを言わなければ、ハルだってコンビニでチョコレートを買わずに済んだのに。
昨日一生懸命作ったチョコレートを、そのまま渡せたのに。
「私だって、ちゃんとチョコを作ったよ。用意したよ。作ったチョコを、渡したかったよ」
レシピを探して、板チョコを何枚も買って、砕いて溶かして、綺麗に固まらなくてまたやり直して。ラッピング用にかった箱も好きな色とか全く知らないから、どんな色だったら似合うかな、とか、この色は嫌いじゃないかな、とか考えながら悩みに悩んで。リボンの形がうまく決まらなくて何度もやり直しているうちにくしゃくしゃになって、新しいリボンに変えたり、学校に着くまでに鞄の中で潰れないよう、すごく気を遣って持っていったのに。
それなのに、渡すこともできないなんて。
渡すことすら、できないなんて。
悔しくて情けなくて、涙が出そうになる。
俯いたまま、ハルは唇を噛みしめた。
「……好きな人に、手作りは嫌だって言われたの?」
「……うん。ちゃんと、前もって調べておかなきゃいけなかったんだけどね」
ハルは乾いた笑いを溢す。
その声は、静かな廊下に虚しく響いた。
ふと、袋の中にあるマーブルチョコレートが目に入る。
もう、これでもいいんじゃないだろうか。市販のものだし、チョコレートだし。
そう思いついたハルは顔を上げ、袋の中に手を突っ込み、マーブルチョコレートを取り出した。
「食べる?」
「いらない」
彼はふるふると首を横に振った。
そっか、と呟き、ハルは袋にマーブルチョコレートを戻した。
本当に何も受け取ってもらえないのか。
何も。チョコレートも。この気持ちも。
「晴野さん」
「なに?」
「晴野さんは、そんなにその人が好きなの?手作りのチョコレートを断られても、新しいのを買ってくるくらい」
恐る恐る彼を見る。
さっきまでの怖い雰囲気が嘘のように、彼はなんだか泣きそうに見えた。
「……そうだね。そうだったみたい」
それくらい、ハルは彼のことが好きだったようだ。
ハルの答えに、彼は戸惑ったように目をさ迷わせた後、きゅ、と唇を噛みしめた。
「晴野さんは、どんなチョコレートを作ったの?」
「……普通のトリュフだよ。溶かして丸めて、ココアの粉を周りに塗したもの」
「それ、今どこにあるの?」
「教室だけど……」
見たいの?と冗談めかして尋ねれば、彼は真面目な顔でこくりと頷いた。

教室に戻れば、そこにはもう誰もいなかった。
廊下側の一番後ろのハルの机の上には、ハルのリュックがポツンとハルの帰りを待っていた。
一緒に持っていけばよかったかな、とハルはどこかぼんやり考えながら、リュックを開ける。
教科書を退かし、中から、白い紙袋を取り出す。
さらにその中にある茶色い箱を出し、隣に立っている彼に見せる。
「……これなんだけど」
どうして彼はハルが作ったチョコレートを見たいだなんて言ったのだろう。
手作りは嫌だと言ったくせに。
内心ぶつぶつと文句を言いながら、昨日一生懸命結んだ白いリボンを外し、箱を開ける。
4つに区切られた空間。そのそれぞれに、不格好な丸いトリュフが入っている。
彼はそれを無言でじっと見つめている。
少しの間の後、食べてもいい?と彼が聞いてきた。
「え、なんで?」
「だって、美味しそうだし」
へへ、と眉を下げて笑う彼に、ハルは信じられないものを見るような目を向ける。
「いや、だって、これ手作りだよ?佐藤くん、手作りは嫌だって言ってたのに」
「……見てたら、お腹空いてきちゃって。駄目かな」
駄目、ではない。
だってこれはもともと彼あげる為に作ったものだ。彼に食べて欲しくて作ったもの。だから、彼に食べてもらえるのは嬉しい。どうせこのまま持ち帰っても、捨てるかハルが食べるだけだ。食べてもらった方がいい。
だけど。
なにも言えずにいるハルを置いて、彼はトリュフに手を伸ばした。
彼の白い指を、トリュフついたココアパウダーが汚す。
あ、とハルが言う間もなく、彼が口にトリュフを放り込んだ。
もぐもぐと口を動かす彼をハルは呆然と見る。
そして少しの後、彼はにっこりと笑った。
「すごく美味しい」
その一言で、ハル胸の奥がぎゅう、と締まった。
彼は言う。
「甘さもちょうどいいよ。舌触りもすごくよくて、僕、すごく好きだよ」
その優しい声に、ハルの視界がぐにゃりと歪む。
鼻がツンとする。
ひく、となりそうな喉を、ハルは必死に抑えようとした。
「おいしいよ、晴野さん。もっと食べていい?」
ハルはなにも答えられない。だって、口を開けたら、喉が震えてしまいそうだ。
こくりと頷いたハルを確認して、彼はパクパクとトリュフを食べていく。
「うん、すごくおいしいよ。今日、晴野さんのチョコレートを食べられてよかったな。ありがとう。晴野さん」
歪んだ視界が突然クリアになる。
ついに限界を超え、ぼたり、とハルの机の上に何かが落ちる。
一度溢れたそれは、止まることなく次々とハルに目から溢れていく。
はく、とハルは口を開ける。空気の漏れるような音しか出ない。
だけど、ハルは聞きたかった。
「ほんとうに?」
弱々しいハルの問いに、彼は目を見開いた後、泣きそうな笑顔で頷いた。
「うん。とってもおいしいよ」
「おいしい?」
「うん。すごくおいしいよ」
「本当に?」
「うん、本当だよ」
ハルの問いに、彼は優しく何度も答えてくれた。
ハルの涙は止まらない。喉の震えがさっきよりも激しい。
みっともない声で、ハルは言った。
「ありがとう」
私の気持ちを食べてくれて、本当にありがとう。
受け取ってくれなくても、拒否しないでくれてありがとう。手作りのものが嫌なのに、私のために食べてくれてありがとう。
その気持ちを、ありがとう、という短い言葉に詰め込む。
たとえそれが友情や憐れみからの行為であっても、ハルはとても嬉しかった。
彼が食べてくれたから、ハルは報われる。これで、ハルの恋は眠りにつける。
彼が、全部きちんと食べてくれたから。
「ありがとう、佐藤くん」
少しマシになった視界で、まっすぐに彼を見る。
そこにあった彼の表情に、ハルは思わず息を呑んだ。
彼の顔は、ハルに負けず劣らず、涙で濡れていた。
ただその表情だけは、優しい笑顔のままかろうじて保たれていた。
「違うよ、晴野さん」
彼の声は震えていた。
「お礼を言われるようなことは何もしてない。僕が勝手にやっただけだ。僕がどうしても晴野さんのチョコレートを食べたかったから」
彼の頬に、幾つもの涙の跡ができる。
「どうして。晴野さん。どうしてそんな人を好きになったの。こんな一生懸命作ったチョコレートを平気な顔でいらないって言える人を好きになったの?優しい人はいっぱいいるんだよ。なのに、よりにもよって、そんなひどい人を好きになるなんて」
ずるい、と彼は言った。
「僕は好きになってほしくて、いっぱい話しかけて、優しくしていたのに。ずるいよ。そんな僕より、平気でいらないって言える人のほうが好きになってもらえるなんて。どうして。どうしたらよかったの。僕はどうしたら」
晴野さんに好きになってもらえるの。
いつもにこにこと笑っている彼の顔が、ぐしゃりと歪んだ。
「ずっと好きだった。僕はいろんなことがあまり上手くできなくて、周りに迷惑かけてばかりで、毎日たくさん落ち込んでた。だけど、そんな時、晴野さんが『一緒に帰ってくれて嬉しかった』って言ってくれた。ただの社交辞令だったのかもしれないけど、それでも僕は嬉しかった。こんな僕でも役に立てることがあるんだって思った。晴野さんの言葉で、僕は救われた。それから、晴野さんは僕の特別だった」
誰もいない教室で、彼の湿った声が響く。
「でも、クラスが離れてしまって、全然会えなくなって。このままなのは嫌だったから、勇気を出して告白しようと思った。直接だと緊張するから、手紙を書いた。あの日、まさか晴野さんが図書室に来ると思わなくて。見られてしまって焦ったけど、どうせだったら晴野さんの好きなように書こうって色々聞いた。あの手紙のおかげで、晴野さんとまた話せるようになって嬉しかった。こうやって少しずつ近付いていけば、もしかしたら晴野さんともっと仲良くなれるかもしれない。そんなことまで夢を見た。だけど」
彼の目から、ぼろりと涙が落ちた。
「好きな人がいるって。その人が手作りが嫌だなんて言ったから、わざわざ走って買いに行って。もちろん今日、僕がチョコレートを貰えるだなんて、そんなおこがましいこと思っていなかった。だけど、晴野さんに好きな人がいて、その人に晴野さんがチョコレートをあげるなんてことも想像もしていなかった。見通しが甘いって、いつも僕は怒られる。僕も本当に思った。どうしてそこまで僕は頭が働かなかったんだろう。どうして、僕は簡単に期待してしまったんだろう」
彼は涙を拭うことなく話し続ける。
「相手がすごく優しい人だったら、僕だって諦められた。晴野さんのためにも諦めなきゃいけないって思った。だけど、ひどい。どうしてそんな相手なの。どうしてそんな相手を好きになったの。いらないんだったら、そのチョコくらい僕が食べてもいいじゃない。僕だって、晴野さんが好きなんだから」
涙に滲む彼の言葉をハルは呆然と聞いている。
彼の言っていることが少しずつ頭に染みていく。その度、乾きかけていたハルの涙が、再びぼろぼろと溢れてくる。
それを見て、彼ははらりと涙をこぼした。
男の子が泣くのを、ハルはこの日、生まれて初めて見た。
「ずるい。本当にずるい。どうせだったら、秋田くんにしてよ。秋田くんだったら、まだ諦められるのに」
人気者の秋田アキヒコは今日、紙袋5つ分のチョコレートをもらい、ハルのクラスまでわざわざ見せに来ていた。確かに彼なら、既製品でも手作りでもコンビニチョコでも喜んで受け取ってくれただろう。
「……私の好きな相手が秋田くんだったら、諦めてたの?」
「……諦めるしかないよ。優しくてかっこよくて気遣いもできる秋田くんに、僕がかなうはずないし」
「でも私は、秋田くんより、佐藤くんの方が好きだよ」
大好きだよ。
そう言うと、彼はその目をさらに大きく開いた。
「ひどい。どうして晴野さんはそんなにひどいことを言うの」
「ひどくないよ。それなら、手作りチョコは嫌だとか、コンビニのチョコは嫌だって言った佐藤くんもひどいよ」
「だってそれは、手作り苦手な人が増えてるのは本当だし、コンビニのチョコは、だって晴野さんが」
「私が?」
「晴野さんが、好きな人がいるって言うから」
ずるいって気持ちで頭がいっぱいになった、と彼は言った。
「それに、一般的にコンビニのチョコは本命には向いていないって聞いたことあるし、でも、これでコンビニのチョコを何も知らないその相手がもらうって思うとすごく嫌な気分になって、どうしてもそのチョコを渡したくなくて」
「そうだったんだ」
「うん、そうだった」
「でも、私はちゃんと手作りのチョコレートをちゃんと好きな人に食べてもらえたよ。嬉しかったよ」
目を見てそう告げれば、彼は少し考えたあと、首を傾げた。
多分全くわかっていない。そのきょとんとした顔に、ハルは思わずふきだしてしまった。
「どうして笑うの。晴野さんはひどい。本当にひどい」
「ごめん。本当にごめん」
「嘘つき。だって、顔がまだ笑ってる」
「ごめんって」
こみ上げる笑いを必死に抑えながら、ハルは思う。
あと何回彼に好きだと言えば、彼はハルの気持ちを信じてくれるだろう。
わからない。だけど、何回でも言える。今のハルは不思議な力に満ちていた。
嬉しそうに笑うハルを、彼が不思議そうに見る。
その顔に、もう一度ハルはふきだした。
こんな気持ちになったのは、生まれて初めてだった。



「えー、天使の噂って嘘だったの?」
クラスメイトの話し声が聞こえてきて、ハルは顔を上げた。
今は放課後。授業も終わり、生徒達は帰り支度や部活に向かう準備をしている。
帰宅部のハルも、ちょうど荷物を詰め終わったリュックを背負ったところだった。
「うん、そうみたい。他のクラスの子が言ってた」
「じゃあ、秋田くんは天使を見てなかったってこと?」
「そもそも天使って何?って話だったじゃん。本当のわけがないって」
教室の隅に集まって、今日も彼女達は楽しそうに話している。
「秋田くんもかわいそうだねー。変な噂に巻き込まれて」
「私に教えてくれた子、あんまり嘘つくような子じゃないんだけどなぁ。秋田くんから聞いたって言ってたし。なんか勘違いしちゃったのかな」
「やばー。私も人にその話ちゃったから、訂正しとこ」
どうやら本人の努力の甲斐もあり、秋田アキヒコが天使を見た、という噂は無事に沈静化しそうだった。
よかった、よかった、と思いながら、ハルは教室の扉を開ける。
「あ、ハルちゃん、バイバーイ」
出て行くハルに、お喋りをしていたクラスメイトが笑顔で手を振ってくる。
ハルはおずおずと手を振り返し、教室を後にした。

バレンタインから数日が経った。
あの日から、ハルとチトセは恋人になった。
とはいえ、お互いに初めての異性との付き合いなので具体的にどうしたらいいか分からず、特に何も変わっていない。
むしろ、廊下で出会うだけで、妙にギクシャクするようになってしまった。
このままではいけないと思ったのか、彼の方から今日は一緒に帰ろうと声をかけられた。
もちろん、ハルは即座に頷いた。
彼と一緒に帰るのはいつ以来だろう。1年の時のあれが最後だろうか。
走り出しそうな気分を押さえながら、待ち合わせ場所である昇降口にたどり着く。
だが、そこにはまだ誰の姿もない。
少し早かっただろうか。
腕時計を確認すると、約束の時間の5分前だった。
中で待つか外で待つか少し考えた後、ハルは靴を履き替え、雪が積もる真っ白な外に出た。
冷たい風が顔に当たり、ハルは巻いていた紺のマフラーに顔を埋める。
ハルの吐く白い息が、ふわりと天にのぼっていく。
それとすれ違うように空から降ってくる雪を、ハルはぼんやりと眺めた。
だが、約束の時間を過ぎても、彼はなかなか現れなかった。
遅いな、と思った時、不意に夢の光景が頭を過った。
あれとは違う。
浮かんだ景色を振り払うように、ハルは首を振る。
あれほど雪は強くないし、ハルの足は雪に埋れていない。
体にぶつかってくる風もなく、ハルはいつでも暖かい建物の中に戻ることができる。
それなのに、妙に心臓が騒つく。
どくり、どくりと、早る脈動がハルの心を焦らせる。

彼も、もう来ないのではないか。

そんな不安がハルの奥底からじわじわと這い上がってくる。
まさか、そんなはずはない。
だって、ハルは彼と約束した。ここで待ち合わせると。
彼は約束を破るような人ではない。そんなひどい人じゃない。
なのに、どうして彼は来ないのか。
ハルは腕時計を確認する。約束の時間はとうに過ぎている。
さらに5分過ぎ、10分経っても彼は現れない。
彼と連絡を取ろうと思うが、ハルの学校はスマホの持ち込みは禁止されている。そのせいか、スマホ自体を持っていない生徒も多い。彼もその一人だった。
時々生徒が現れては、軒下で立ち尽くすハルを横目に帰っていく。
みんなどんどん先に進んでいく。
ここで立ち尽くしているのは、ハルだけだ。
次第に、だんだん頭が重くなってきた。
まるであの時のよう。頭にたくさん雪がのしかかっているみたいだ。
そんなはずはない。
そのはずなのに、ハルの足元は気付けば雪に埋れていた。
ハルは恐怖で叫ぼうとした。
だが、喉が凍りついたように声が出ない。
歯がカタカタと鳴り出す。
恐る恐る顔をあげれば、あたりは真っ白で何もなくなっていた。
いつも見ている校門も、チョコレートを買いに行ったコンビニも、学校も何も見えない。
見えるのは白だけ。
ハルを包み込む、容赦のない色。
ハルは目を見開く。だけど見えるものは何も変わらない。
どこを見ても、振り向いても、世界は白しかない。
何も聞こえない。何の音もしない。体が動かない。
雪が、白が、ハルの腰まで来ていた。
ついにハルは叫んだ。だが、その音すらも雪が全て吸い込んでいく。
ああ、もう駄目だ。
やっぱりハルは捨てられたのだ。
誰もハルを迎えにこない。
約束を守っても、いい子にしていても、誰もハルを迎えに来てくれない。
わかっていても、ここで待っていろと言われたら、ハルはもうここで待つしかない。
何があっても、どんなに辛くても、寒くても、痛くても、寂しくても。
ハルは約束を守らなくてはいけない。約束を守らなければ、愛してもらえない。それしか愛される術がわからない。
本当は叫びたかった。誰か助けて、と。
待って、置いていかないで。誰でもいいから、私を助けて。ひとりにしないで。
優しくして、怒らないで、愛して。こんな私でも受け入れて。何もしなくても、何かを返さなくても、返せなくても、ただ愛して。
それだけで良かったのに。
あの時流れなかった涙が、はらりと落ちる。
はらはらと溢れた雫は雪の上に落ち、あっという間に飲み込まれる。
まるではじめからそこには何もなかったかのように。
ハルも同じだ。
このままハルはこの白に飲み込まれる。
そして何もなかったことになる。
ここにハルがいたことも、ハルという存在がいたことも。ひとりで必死に耐えていた命があったということさえも、誰にも知られずに消え去るのだ。
あの夢と同じように。
「晴野さん!」
まぶたが閉じかけたその時、ガシャン、バタッ、バサバサ、という凄まじい音と共に名を呼ばれた。
ハッとしてハルは振り向く。
そこにはいつも通りの校舎があり、見慣れた昇降口があった。
慌てて足元を見るが、雪はない。降っている雪も粉雪程度で、そんなに激しくない。
そもそもハルは屋根の下にいるのだ。雪に埋れてしまうはずがない。
おかしい。どうしたのだろう。目を開けたまま寝てしまったのだろうか。
首を傾げていると、いつかのように両手に筆箱やノートと抱えた彼が、玄関から飛び出して来た。
「遅くなって本当にごめん!」
彼はハルを見るなり、ガバリと頭を下げた。
「すぐに行こうとしたんだけど、こういう時に限って先生に捕まって。適当に話を切り上げようとしたんだけど、それも全然うまくできなくて、約束をしているからまた明日にしてくださいって言ったら、誰と何の約束か根掘り葉掘り聞かれちゃって。あ、でも、晴野さんってことは言ってないよ!晴野さんの許可を取らずに人に話すのってあんまり良くないしね。そのあと、秋田くん
が図書室に行きたいけど高橋先生に会うのは気まずいから一緒に来てくれって言われて、断ろうかとも思ったんだけど、本当に秋田くんが困ってたから、じゃあ図書室の前までだけだよって言ってついて行ったんだけど、秋田くん全然図書室の前から動こうとしなくて、もう僕いくよって言ったんだけど、もう少しもう少しって言われて付き合って気付いたらすごい時間すぎてて、慌てて昇降口に来たら転んで荷物ばらばらにしちゃって……」
どうやら、彼が転んだのが、さっきの音の正体だったらしい。
焦ったまま、ただひたすら早口で話す彼を、ハルは呆然と見た。
「とにかく、こんなに寒いところに待たせてごめん!やっぱり待ち合わせは教室とかの方が良かったよね?ごめん、気が回らなくて。待ち合わせも全然うまく出来なくて。本当にもっと考えればよかった。次は、ちゃんと時間通りにくるから」
泣きそうな彼の目が、まっすぐにハルを見る。
「待たせてごめんね。寒い中、待っててくれてありがとう。一緒に帰ろう」
その言葉は、ハルがずっと欲しかったものだった。
次の瞬間、ぶわりとハルの中から熱が溢れた。
そうだ、ハルはずっとそう言ってほしかった。
寒く寂しいあの場所でずっと待っていたハルの名を呼び、一緒に帰ろうと言ってほしかった。
ずっとずっと、その言葉をハルは望んでいた。
胸の中でずっと凍りついていた何かが、凄まじい熱で溶かされていく。
空っぽだったはずのところに、その灼熱が押し込められる。
声が出ない。うまく思考がまとまらない。
彼が驚いたように目を開いているのだけが見える。
「晴野さん!」
再び彼が叫ぶ。
だけど、さっきよりも切羽詰まっている声だった。
突然どうしたのだろう。そんな必死に、こちらに手を伸ばして。
不意に、ハルの体がふわりと後ろに引っぱられる。
ハルはぼんやりと後ろを見る。
そこには空があった。
気付けばハルの体は宙に浮いていた。
すごい、空を飛んでいる。
普段だったら、ハルは驚いて悲鳴を上げていただろう。
だが、なぜかハルの心はひどく穏やかだった。
全身を包む暖かさのせいだろうか。
体の中に生まれた熱が、ハルの体全体に広がっている。
そのうちハルの体がの輪郭が淡く光り、細い線になってほろほろと解けていく。
体から離れたそれは光になり、徐々に空に吸い込まれる。
「待って!晴野さん!」
彼の声で、ハルはもう一度下を見る。
彼は必死にハルを見上げ、手を伸ばしていた。
今ならまだ、手を伸ばせば彼に触れられそうだ。
ハルも光に包まれた手を、彼に向けた。
その時、大きな歓声が湧き上がった。
ハルが周りを見ると、学校の中の生徒や教師、校門の前を歩いていた人、コンビニの店員、学校の前の家の人がみんな、ハルを見ていた。
その顔は等しく笑顔で。ハルに向かって、本当に嬉しそうに手を振り、拍手をしている。
おめでとう。おめでとう。よかったね。おめでとう。おめでとう。おめでとう。生まれ変わったら、どうか次は、幸せに。
遠く離れているはずなのに、ハルには彼らの祝福の声がはっきりと聞こえた。
多くの人が、嬉しそうな顔でハルを見ている。
だから、ハルはこれがとでもめでたいことなのだと思った。
「晴野さん!」
泣いているのは彼だけだ。
好きだと言われた時のように、いや、あの時以上に彼は悲しそうな顔で、涙を流しながらハルの名を叫んでいた。
その涙は次々に溢れ、綺麗な頬の上に幾筋も跡をつけて流れていく。
彼はどうして泣いているのだろう。
ハルは不思議に思う。
他の皆は喜んでいるようだし、これはきっと悪いことではないのだ。
だから大丈夫だと安心させるように彼に笑いかけるが、彼はふるふると首を横に振った。
「嫌だ!待って、行かないで!」
晴野さん、と彼は叫んだ。
喉から血が出そうなほど、悲痛な声だった。
どうして彼が悲しそうなのか、ハルにはもうわからない。
だって、ハルは幸せだった。彼の言葉のおかげで、ハルは満たされた。
待っててくれてありがとう。一緒に帰ろう、と。
彼がそう言ってくれたから、ハルは今こんなにも幸せなのだ。
「待って!連れていかないで!お願いです!御使(みつか)いさま!」
彼の叫びが、周囲の歓声でかき消される。
彼の涙が、多くの笑顔に塗りつぶされていく。
そんなに泣かないで。
ハルは思った。
どうして彼は泣いているのだろう。
ぼんやりとした頭で考える。
ああ、そうか、一緒に帰れないからだ。
帰る約束をしたのに、ハルが先に行ってしまうからだ。
ハルが逆の立場だったら、確かにそれは寂しいだろう。
彼が泣いている。目の周りを真っ赤にして。
悲しそうな彼の顔は、見ているだけで辛くなる。
泣いている彼を一人にするのは嫌だった。
どうしよう。どうしたら、彼は泣きやんでくれるだろう。
ハルは考える。そして思いつく。
そうだ、ハルが彼を待っていればいい。
ハルは先に行くが、どこかで彼が来るのを待とう。
彼がいつ来るのかはわからない。
だけど、ハルは待つのは得意だ。どんなに寒くても、辛くても、ちゃんと一人で待つことができる。
彼が来るのは、たぶん遅くなるだろう。今日だって遅かった。
だけど、それでも彼はハルの元に来てくれる。ハルは心の底からそう信じることができる。
寒いかもしれないし、辛いかもしれないけれど、寂しくはない。
だって、彼はきちんと来てくれる。絶対にハルを置き去りしはしない。
また、遅くなってごめんと焦りながら、ハルのところに来てくれる筈だ。
ハルはにっこりと笑った。
彼が目を見開いてハルを見る。
「ちゃんと待ってるから。佐藤くんを」
そうしたら、一緒に帰ろう。
あの日よりももっとたくさん話をしよう。
また面白い話をたくさん覚えて来たし、彼に聞きたい話もたくさんある。
だから、また一緒に帰ってくれると嬉しい。
「約束だよ」
ハルはもう一度手を伸ばす。
彼も手を伸ばした。
その指が触れる前にハルの体は光に包まれ、ふっと空に消えた。





この街は、ひとりの子どもの死から始まった。

その子どもは貧しい家庭に生まれ、小さな体でいつも幼い弟と妹を両親の暴力から守っていた。満足に食事も与えられず、食べ物を求めて野山に入り、ようやく小さな木の実を見つけたところで野盗に出会し、嬲られ、野犬に食い殺された。
子どもの魂はその痛ましい経験から傷だらけになっており、今にも崩れてしまいそうだった。
その魂を見つけたのが、ひとりの御使いだった。

ひどい。ひどい。なんてかわいそうなの。

己の手の中にある、今にも消えてしまいそうな光を見下ろし、御使いは嘆いた。
魂から涙のように溢れ出る悲惨な記憶に触れ、慈悲深い御使いの心は張り裂けそうだった。

だって、まだ数年しか生きていない。せっかく生まれることができたのに、辛い目に遭って、このまま消えてしまうなんて。本当なら、もっともっと生きられたはずなのに。こんなにあっさり消えてしまうなんて。
せっかくあの御方が作られた命なのに、なんてもったいない。

なんとかできないだろうか、と御使いは思った。
御使いの主たるあの御方に頼めば、魂の修復など簡単だ。
だが、こんな境遇の魂など珍しいものではない。悲劇は世界中で起きている。だから、こんなことでいちいち主の手を煩わせるわけにはいかなかった。
かといって、この魂を放ってはおけない。
傷さえ治すことができれば、この魂はまた生まれ変わることができ、別の場所で新しい生を得ることができるのだ。
そうすれば、せっかくの命も無駄にせずに済む。
問題はそれをどうやるかだ。
御使いは考える。

ひどい扱いをうけて傷だらけになってしまったのなら、その逆をしたらどうだろう。

御使いは試しに、その魂に人の形を与えてみた。
壊れる寸前の魂が形を成せたのは、生まれたばかりの赤子だった。
御使いはその赤子の世話をするものを作り、優しく愛情を込めて育てるように指示をした。
赤子は暖かな寝床と十分な食事を与えられ、すくすくと成長した。言葉を話せるようになる頃には、魂の傷はまだ残っているものの、出会ったころのようなか弱さは消えていた。
御使いの考えは当たっていた。
つまり、その魂を他者が慈しむことで、魂の傷は癒せるのだ。
これを利用すれば、一度傷付いて壊れかけていた魂でも修復できる。そして、完全に回復したところで生まれ変わらせ、新たな生を歩ませるのだ。そうすれば、あの御方が作られた命を無駄にせずに済む。
その瞬間、御使いの頭に天啓が下りた。
もちろんこれは比喩で、本当に主たるあの御方からの言葉があったわけではない。だが、これこそが自分が為すべきことだと、御使いは思った。

そうだ、それがいい。そうしよう。
そうすれば、きっと慈悲深いあの御方もお喜びになるはずだ。

御使いは街を作ることにした。傷付いた魂達が、その傷を癒すための場所を。
そこは飢えも疫病も争いもない平和な世界。誰も他者を虐げることのない、優しい世界。突然何かが奪われることも、喪われることもない穏やかな世界。
そこで傷付いた魂達を癒してやればいい。そうすれば、魂は再び、生まれ変わることができるようになり、あの御方から頂いた尊い命を最後まで使いきることができるだろう。
浮かんだアイデアの素晴らしさに、御使いは眩暈がしそうだった。
御使いは決意した。
傷付いた魂をこの街にたくさん集めよう。愛されず、傷付けられ、生を全うできずに死んでしまった哀れな魂達を。
彼らを世話し、慈しむものも増やそう。家も必要だ。それらしい世界の仕組みも作らなければ。
魂達は過去の傷に敏感だ。森で死んだ者は森を恐れ、海に沈んだ者は水を嫌う。
それらに触れなくても貶したり貶めたりしない、優しい友人も用意しよう。親のない子には親を。子を望むものには子を。承認欲求を満たしてくれる才能を。才覚を発揮できる理想の場を。彼らの望むものを与え、その傷を癒そう。
そうして傷が癒えた時、彼らはまた新たな生を手に入れることができる。
そうすればきっと、あの御方は褒めてくださるに違いない。

希望に目を輝かせる御使いの隣で、人の形をもらった魂がきょとんと首を傾げる。
何も知らないその無垢な顔を見て、御使はにっこりと微笑んだ。

そうして、この街は生まれたのだ。



少女の体が空に消えた後、それまでのことが何もなかったかのように、そこにいた者達は日常に戻っていった。
教師は職員室に。生徒は部活動や勉強に。店員は店の中へ。歩いていた者も、再び散歩に戻る。
つい数秒前に起こったことを気にしている者など、もう1人もいない。
雪の中、学校の前で座り込む少年だけが、もう何もない空間を茫然と見つめ、はらはらと涙を流し続けていた。

駅の方で『のぼり柱』が出たらしい。
そんな声が聞こえてきて、奈津川ナツキは勉強していた手を止め、顔を上げる。
夜の図書館のカフェは、学生やサラリーマンで混み合っていた。カウンター席に腰をかけたまま辺りを見回すが、声の発信源はよく分からなかった。
ナツキはテーブルに置いていたスマホを手に取り、SNSを確認する。するといくつかのアカウントがその写真をあげていた。
四角い駅舎の上に伸びる、白い光の柱。その先は細く、そのまま青い空に吸い込まれていきそうだった。
ナツキも一度だけ、のぼり柱を見たことがある。
あれは今年の3月、ナツキがまだ高校2年生だった頃。
部活に向う途中、廊下の窓の外が突然明るくなり、何かと思って見ると、昇降口の前に白い光の柱が立っていたのだ。
のぼり柱がどういう現象なのか、ナツキはよく知らない。
珍しい自然現象のひとつで、空気中の塵や埃に太陽の光が反射して光の柱ができる、というところまではかろうじて覚えているが、それ以上の詳しい説明は無理だ。多分、大人でもできない人は多いだろう。
ただ昔から、のぼり柱は傷ついた魂が天に昇る時に現れると言われていたらしく、そのせいか、現代ではのぼり柱にお祝いの言葉をかけると幸せになれる、なんて迷信も残っている。
ナツキがそれを目撃した時も、周りの生徒は各々拍手をしたり、祝福の言葉を口々に述べたりしていた。
何故こんな迷信をみんな心の底から信じられるのだろう。
ナツキは冷めた目でその光景を見下ろしていたのを覚えている。
SNSを閉じ、ナツキは小さく息を吐く。
ホーム画面にうつし出された時間は20時55分。
もうすぐ閉館時間だ。そろそろ帰らなくては。
ナツキは重い気持ちを引きずって、椅子から立ち上がった。

図書館の外はもう真っ暗になっていた。
藍色の空には、まんまるな白い月とビーズのような星が煌き、ナツキを見下ろしている。
ナツキが放課後に図書館で勉強するようになってから数ヶ月。
高校3年になり、受験勉強をきちんとしたいから、というのは表向きの理由。
本当は出来るだけ家に帰りたくなかった。
ナツキの両親は2人とも働いている。母親は印刷会社の事務で、父親は機械メーカーの管理職だ。勤務時間は規則正しく、二人は大体18時半から19時の間には家に帰ってくる。
決してナツキは、両親が嫌いなわけではない。どちらかというと大好きだ。両親も、一人娘であるナツキを大事にしてくれている。
ただ、家にいるのが落ち着かないだけだ。一刻も早くここから出なくては、という焦りが、常にナツキの中で燻っている。
その感情に引きずられるように、ナツキの家に帰る時間はどんどん遅くなっていった。
帰りの遅いナツキを、両親は当然のように心配した。ナツキ自身も、こんな訳のわからないことで2人に心配をかけさせる自分は、最低だと思っている。
だが、自分でもどうしてこんなに家にいたくないのかわからないのだ。
居心地のいいはず場所なのに、寄りつきたくない。怖い。
何が原因なのだろう。それがわかれば、2人を少しは安心させられるのに。
そんなことを考えながら、ナツキは大通りを渡り、田んぼの横の道を抜ける。するとコンビニの白い明かりが見えてくる。
店内から漏れる明るい光に、思わずナツキは吸い寄せられそうになるが、昨日もお菓子を買ってしまったことを思い出し、なんとか振り切る。
頬に当たる風は生温い。
夏はあまり好きじゃない。暑くて、臭くて、気持ち悪い。
自分が熱気の中にどろどろに溶けていく気がする。
早く冬になればいいのに。
冷え切った空気と真白い雪に思いを馳せながら、ナツキは足を動かした。
コンビニを通り過ぎ、一本道を行く。
両側に並ぶ商店はもう閉まっていて、街灯の明かりだけがぽかりと浮かんでいた。
そして、なんとなくその下に視線を動かした時、ナツキはぎょっとした。
誰かが道の端でうずくまっている。
ひとつのお団子頭に紺色のマフラー。顔は伏せられ、膝を抱えている。多分、同い年くらいの女の子だ。着ている服も、ナツキの学校の制服と同じ紺のブレザーに見える。
この近所に住む同じ学校の子かな。具合でも悪いのだろうか。
ナツキが戸惑っていると、ひく、としゃくりあげる音が聞こえた。その後に鼻を啜る音が続く。
もしかして彼女は泣いているのかもしれない。
どうしよう。誰か呼んできた方がいいのか。それとも具合が悪いのだったら、先に救急車か。
ナツキは混乱しながらも、俯いて泣いている少女に一歩近付いた。
その時、あれ、とナツキは思った。
もう一度、その女の子を見る。
ひとつにまとめられたお団子頭。首に巻かれた紺色のマフラー。顔は伏せられていて見えない。着ているものは紺色の長袖のブレザーで、ナツキの学校の制服と同じもののようだ。ナツキの学校の、冬服と。
思わず、ナツキは足を止める。
今は7月だ。夏本番じゃないとはいえ空気も蒸している。今ナツキが着ている制服も半袖だ。
陽は落ちているとはいえ、ここまで厚着しているのはおかしいのではないか。
瞬間、ナツキの背筋が寒くなる。嫌な汗が背中を伝う。
おかしい。この子はおかしい。関わらない方がいい。
幸い、向こうはまだ顔を伏せたままだ。ナツキが声をかけなければ、こちらに気付かないかもしれない。
ナツキは彼女から離れようと、足を後ろに引く。
だが、不幸なことに、履いていた革靴の踵が地面の上にあった砂利を踏んでしまった。
静まり返った空間に、ざり、と乾いた音が大きく響く。
やってしまった。
後悔する間もなく、ずっと俯いていた小さな頭がゆっくりと持ち上がる。
どくどくと心臓の音が激しく鳴る。
走って逃げた方がいい。わかってる。わかっているけど、目が離せない。
体が動かない。動いてくれない。足が地面に溶けて癒着しているみたいだ。
まるで、暑い地面に熱されて動けなくなってしまった蛙のよう。目を閉じることもできない。
どうしよう。どうしよう。
硬直するナツキの前で、ゆっくりと顔が上がっていく。
そこにあったのは。
「あれ、奈津川じゃん。こんな遅くまで部活か?」
聞き慣れた声が、強張った空気を一瞬で破壊した。
弾かれるように振り向けば、そこにいたのは同じクラスの鈴木ゴロウだ。ナツキと同じ制服姿で、その手には白いビニール袋がぶら下がっている。おそらく、さっきのコンビニで買い物でもしていたのだろう。
そこではたと思い出して、ナツキは慌てて少女がいた方を見る。
そこには何もなかった。
俯いて泣いている少女も。啜り泣く小さな声も、なにもかも。



ナツキは生まれてこの方、心霊現象というものにあったことはない。
一応、おばけや幽霊などの存在も信じてはいるが、この目で見たことはなかった。
でも、昨日のは。あれは、自分の中でどう処理していいかわからないものだった。
見間違いだったのか。それとも、暑さで幻覚でも見たのだろうか。
昨夜からそのことを考え続けていたせいで、なかなか寝付けず、その結果、ナツキは寝坊してしまい、朝から走って学校に来る羽目になった。
一応遅刻は免れたものの、朝から汗だくで気分が悪い。
廊下側の一番前にある自分の席に座り、ぱたぱたと下敷きを団扇代わりにして仰ぐ。
教室はクーラーが効いていて涼しかった。昔はクーラーがないのが当たり前だと言われたが、ナツキには信じられない。そんな場所でどうやって勉強に集中しろというのか。
そんなことをぼんやりと考えていると、ナツキのすぐ前にある扉ががらりと開き、1人の男子生徒が入ってきた。
その瞬間、どくり、と心臓が鳴る。
「ゴロウ、ごめん!現国の教科書、貸してー」
入ってきたのは、隣のクラスの秋田アキヒコだ。ナツキの隣の席の鈴木ゴロウと親しいらしく、こうしてよく教科書を借りにやってくる。
ナツキは慌てて下敷きを置き、持っていたハンカチで顔の汗を拭いた。汗をかいているところなど、彼に見られたくなかった。
「いいけど、忘れたのか?」
「うん、学校に置きっぱなしにしてたはずなんだけど無くて。もしかしたらうっかり家に持って帰ったのかも」
鈴木から教科書を受け取った彼は、助かった、と、にかりと笑った。
「ありがとう。そっちの現国って何時間目?それまでには返すよ」
「んー、何時間目だったっけ?なぁ、奈津川」
突然名前を呼ばれ、ナツキは驚いて顔を横に向ける。
整った顔が2つ並んで、こちらを見ていた。
緊張で、ナツキは思わず持っていたハンカチを握りしめる。
「えっと、ごめん、何?」
「現国って何時間目?」
「4時間目だよ」
そっか、サンキュー、とにこやかに言ってくる2人に、ナツキはなんとか愛想笑いを返す。
2人はあまり親しくない人にも平気で話しかけられるタイプらしく、鈴木と席が隣になってから、こうして2人に話しかけられることが増えた。
別にナツキは2人のことが嫌いというわけではない。だが、ナツキにとって彼らは友人ではなく、ただの顔見知りだ。しかも、どちらもタイプは違えど雑誌に載っていてもおかしくないほど顔が整っており、女子の間で人気は高い。そんな2人から友人のように気安く声をかけられるのは、正直慣れなかった。
そんなナツキの心情など知らず、秋田アキヒコは首を傾げ、心配そうにこちらを見てきた。
「あれ、奈津川さん、なんか疲れてる?どうしたの?」
「あ、いや、ちょっと今日遅れそうで、走ってきたから……」
何の邪気もない、優しい大型犬のような眼差しに、ナツキはぎこちない笑みを返し、体を少し引く。万が一にも汗臭いと思われたくないからだ。
秋田アキヒコはみんなに優しい。ここにいるのがナツキじゃなくても、きっとこんなふうに心配するだろう。その分け隔てない優しさが、ずっとナツキを苦しめている。
「期末テストが終わって、気が抜けて寝坊でもしたのか?」
興味をもったのか、鈴木が揶揄うように言ってきた。
「いや、ちょっと、実は」
昨日、変な女の子を見て。
そう言いそうになったのを、ナツキは慌てて飲み込む。
言ったら絶対に変な奴扱いされるし、言ったところで信じてはもらえない。昨日だって、直後に会った鈴木にも、あの女の子のことは言えなかった。
暑くてなかなか寝られなくて、と当たり障りのないことを言えば、2人は、たしかになぁ、と穏やかに返してくれた。
そのまま会話を続ける彼らを、ナツキは作り笑いを張り付けて見守る。
気を抜いたところに2人から会話のパスが飛んでくるものだから、なかなか気が休まらない。
いや、どうでもいい相手なら、いくら話しかけられても構わない。適当に相手をすればいい。
でも、そうではないから困るのだ。
「そういや、アキヒコ。また最近学校で噂流れてるの、知ってるか?」
「えっ、俺の?」
彼が不快そうに顔を歪める。
確か去年の終わり頃、秋田アキヒコが天使を見た、という噂が、突如学校中に広がった。しかもデマだったらしく、訂正するのに彼は随分苦労したらしい。
「違ぇよ。今回は怪談。怖い話」
悪戯っぽく鈴木が笑う。
「なんでも、この暑い中、冬服で徘徊している女子高生のお化けが出るんだとよ」



放課後の美術室。
ナツキの前に置かれているのは、小さな黒い台座だ。その上には、昨日ナツキが針金で作った芯材が固定されている。
ナツキは小さく息を吐き、その芯材に白い粘土を慎重にくっつけていく。
ナツキは美術部だ。
と言っても、絵が好きで美術部に入ったわけではない。
絵はどちらかというと苦手だった。頭の中ではこんなに綺麗に描けているのに、白い画用紙の前に立つと、あっという間に思い描いていたものは崩れ、似ても似つかないようなものが出来上がる。
それなのに何故美術部に入ったのかというと、彫刻がしたかったからだ。
ナツキには、幼い頃からずっと作りたいものがあった。
だが、絵ではそれをうまく表現できなかった。何度描いても思うものができず、悶々とした日々を送っていた時、ナツキは小学校の図工で粘土のうさぎを作った。デフォルメされたキャラクターではない。実際のウサギの写真を見ながら作った、本物そっくりのうさぎを。
自分は絵が苦手で図工も苦手だと思っていたナツキだったが、このうさぎだけは親も先生も友達も褒めてくれた。
粘土だったら、ナツキの頭に描いたものを限りなく忠実に再現することができた。
これだ、と、ナツキは震えるほど感動した。
それからナツキは中学、高校と美術部に入り、ずっと彫刻を続けている。
受験生であるナツキは、この夏休みで部活を引退する。夏休みにある美術展用の作品は、とっくに完成して提出しており、ナツキの美術部としての活動はすでに終わっている。
それでもナツキは美術室にたったひとり残り、今日も彫刻を作っていた。
その理由は単純。まだ作品を作りたかったからだ。
部活を引退してしまえば、ナツキがこの場所で自由に作品を作る権利は失われる。
もちろん、きちんと顧問や後輩に連絡すれば使ってもかまわないのだろうが、引退した上級生がずっとここに居座っているのはあまり良くない気がした。だから、そうなる前に、正真正銘、高校最後の作品を作っておきたかったのだ。
後輩達はとっくに全員帰ってしまっている。残っているのはナツキだけ。
同じ美術部の子には、美術室にひとりで残るの怖くない?とよく聞かれた。気を遣って一緒に残ってくれた子もいたけど、遅くまで付き合わせるのが申し訳なくて、ひとりの方が集中できるから、と先に帰ってもらっている。
それに、遅くまで残っているからこそ見られるものもあるのだ。
ナツキはちらりと壁にかけられている時計を見る。
もうすぐ最終下校時間だ。部活や勉強で残っていた生徒たちが、美術室の前を通って昇降口に向かっていく。
そろそろかな。
ナツキは顔を美術室の入り口に向ける。
美術室の扉には、四角く透明なガラスが嵌め込まれている。その狭い窓から廊下を通る生徒の顔が見えるのだ。
ぱたぱたという足音と共に、四角い窓の向こうを何人もの生徒が通り過ぎる。
その中の1人が、美術室にいるナツキに気付き、柔らかく笑いながらひらりと手を振った。
ナツキは慌てて小さく頭を下げて、ぎこちなく手をあげる。
ほんの一瞬の邂逅。
ナツキに手を振ってくれた秋田アキヒコの姿は、あっという間に扉の向こうに消えていった。
これが、ナツキの密かな楽しみだった。
もちろん、彼が毎日この時間まで残っているわけではない。また残っていても、美術室の前の廊下を通るとも限らないし、仮に前を通っても、ナツキがそれに気付けない時もある。
でも、今日は気付いてもらえた。
密かに想う相手の姿を見れた喜びで、ナツキの顔が自然と弛む。言葉にならない嬉しさが体の中に充満する。
だが、その熱が冷めるのは早い。
こんなことをして、一体何になるのか。
すぐに自己嫌悪がナツキを襲う。
相手は学年でも有名な人気者だ。彼を想う人などたくさんいるだろう。そしてその中には、ナツキよりも綺麗で、ナツキよりも可愛い子もいる。
彼がナツキに手を振ってくれたのも特に他意はない。知り合いがいたから挨拶をしただけ。彼はそういう気遣いができる人だ。
わかっている。あんな人を好きになったところで、ナツキにはどうしようもない。
いっそのこと、さっさと告白して振られてしまった方がすっぱり諦められるんじゃないかと思ったこともある。
でも、そもそも告白するような度胸はナツキにはない。もしあったのなら、去年のバレンタインに、たくさんチョコレートをもらっている彼に気遅れして、せっかく用意したチョコレートを鞄から出さず、そのまま家に持ち帰る、なんて失態をおかさなかったはずだ。
現状を壊す勇気もなく、ただ遠くから眺めているだけなんて。なんと不毛なのだろう。
ナツキは重い息を吐き出して立ち上がる。
外はすでに真っ暗だ。窓は鏡のように反射し、美術室にいるナツキの姿を映している。
その時ふと、朝聞いた噂話を思い出した。
冬服で徘徊している女の子の幽霊。
鈴木の話によると、夜、ひとりで歩いていると、その子は現れるという。
季節外れの冬服に、お団子頭。そして首には紺色のマフラー。
特に何をするわけではなく、虚な目で泣きながらふらふらと暗い道を歩いているそうだ。
間違いなく、それは昨日ナツキが見たあの子のことだろう。
粘土で汚れた手を洗いながら、昨日の出来事を思い出していると、突然後ろの扉ががらりと開いた。
思わず、ナツキの肩がびくりと跳ねる。
弾かれるように振り向くと、そこにいたのは司書の高橋だった。
グレイのパンツスーツ姿の彼女は、固まってしまったナツキに、「ごめんなさい、驚かせてしまって」と申し訳なさそうに眉を下げた。
ナツキは慌てて首を横に振る。
きっと、まだ校内に残っているナツキを注意しに来たのだろう。
ナツキがバタバタと荷物をまとめ、急いで美術室から出ようとすると、「ちょっと待って」と柔らかな声がナツキを呼び止めた。
正直、ナツキはこの高橋という司書があまり好きではなかった。
理由は、去年の年末ごろ広まった、『秋田アキヒコが天使を見た』という噂にある。
彼が、司書の高橋によく似た天使を見た、というあの噂。それだけだったらよかったのだが、その噂が広まるにつれ、『秋田アキヒコは高橋先生が好きなんじゃないか』という噂も一緒に広まってしまったのだ。実際のところ、高橋はナツキのクラスの担任である冬岡と、この春に結婚したため、彼とどうこうなることはない。だが、それでも彼に思いを向けられているかもしれない、というだけで、ナツキは気に入らなかった。
とどのつまり、ただの嫉妬だ。
艶やかな茶色の髪に優しげに細められた目元。可愛らしい大人の女性を体現している高橋を、ナツキが勝手に羨んでいるだけ。
正直ナツキは、こんな綺麗な先生、ひどくやっかまれて嫌われるんじゃないかと思っていた。けれど、クラスや部活でこの司書の悪口を言う人は1人もいない。本当に、ただの1人も。
そもそも、この学校の生徒は悪口を言わない。あの人ムカつくよね、とか、いなくなればいいのに、とかそんなマイナスな話をしない。
本当、この学校の生徒はみんな人間ができていると思う。
それなのにナツキは、いろんな人を羨んだり、彼と噂になっただけでこの司書に苦手意識を持ったり。
こんな自分が、あの人に好かれるはずもない。
ぐちゃぐちゃに織り混ざった感情を飲み込み、なんですか、とナツキは高橋に向き直る。
「奈津川さんって、毎日図書館で勉強してるって聞いたんだけど……」
「……そうですけど」
申し訳なさそうに声をかけてくる高橋に、ナツキの答えはそっけない。
「図書館近くに新しい白いマンションがあるのわかる?3階建てで、外観が蔦の這っているデザインの」
「……隣に小さな公園があるマンションですか?」
「そう!そのマンションの103号室のポストに、これを入れてきてほしいの」
そう言って、彼女は手に持っていた茶色い封筒をナツキに差し出してきた。
封筒の表面には黒いペンで『佐藤くんへ』と書かれている。
この佐藤って、もしかして。
ナツキの視線から何かを感じ取ったのか、彼女はほんの少し眉を下げた。
「……奈津川さんのクラスの佐藤くん。あの子、3年になってから、まだ一度も学校に来てなくて。こうやって、時々お知らせのプリントを渡しているの。はじめは私や担任の冬野先生が行ってたんだけど、それがプレッシャーになったのか、最近は顔も見せてくれなくなっちゃって……」
「でも、私」
ナツキはたしかに今年この佐藤という生徒と同じクラスだが、今まで特に話したこともない。去年も一昨年も違うクラスで、おそらく一度も関わったことがない。佐藤という名前以外何も知らない。顔だってわからない。
そんな自分が、これを届けていいのだろうか。
戸惑うナツキに、高橋は大丈夫、と笑った。
「扉のポストに入れるだけだから、そんなに難しく考えなくて大丈夫。奈津川さんが毎日図書館で勉強してるって聞いたから、ついでにお願いできるかなって思っただけ。それに、万が一会うことがあっても、知らない子の方があの子も気が楽かもしれないし」
「はぁ……」
たしかに知り合いが行くよりも、全く知らない人間の方が、ただ頼まれてきただけなんだな、と重く受け止めなくていいのかもしれない。
ナツキは差し出された封筒を戸惑いながら受け取った。
角二封筒。指で触ると、数枚のプリントの厚みが感じられた。
「103号室。左側の一番奥の部屋なの。よろしくね」
そう言った司書は、聖母のような柔らかな笑みを浮かべていた。


佐藤という生徒のことを、ナツキはよく知らない。
わかっているのは、同じクラスに新学期から一度も学校に来ていない生徒がいることと、その名前が佐藤であること。ただそれだけ。下の名前も知らない。
何か他に思い出せることはないかと考えているうちに、ナツキは図書館の前に着いていた。
駅から少し離れたところにある図書館の一帯は数年前に再開発され、ここだけでひとつの街のようになっていた。
両側に並ぶ街灯に見下ろされながら、ナツキは綺麗に舗装された道を進む。小さな公園を通り過ぎ、目的のマンションの前で足を止めた。
一見、ただの白い四角い箱に見えるその建物。よく見れば等間隔に窓がつけられており、その壁面には緑色の蔦が這っている。エントランスにも緑の蔦があしらわれており、全体的にコンクリートが自然に侵食されている意匠になっていた。
正直、家賃は高そうだった。佐藤という生徒は、もしかしたら裕福な家の子供なのかもしれない。
そんな下世話なことを想像しながら、ナツキはエントランスを抜け、言われた通りに左の通路に進み、一番奥の扉の前に立った。左上のプレートには103とだけ書かれている。
表札がないのは少し不安だが、ナツキに確認しようがない。
黒に近い灰色の扉の真ん中に、銀色の蓋が被った四角い穴が空いている。エントランスに集合ポストがなかったから、ここがポストなのだろう。
ナツキは背負っていた鞄を下ろし、中から頼まれていた封筒を出した。
少し曲がってしまった角を指で直し、その四角い口に差し込もうとしたその時、がちゃ、という音と共に目の前の扉が動いた。
何が起こったか一瞬理解できず、その体勢のままナツキは固まった。
目の前でみるみる扉が開いていき、中から人影が現れた。
その姿を見て、ナツキは目を見開いた。
ひとつにまとめられたお団子頭に、首に巻かれた紺色のマフラー。ナツキの学校と同じ制服の冬服。
昨日、ナツキが見た幽霊がそこにいた。
「えっ、あっ……」
対する幽霊も、ナツキがここにいたことに気付かずに扉を開けたようで、驚いて言葉を失っている。その目の周りは真っ赤で、昨日からずっと泣き続けているように腫れ上がっていた。
何か言わなければ。ナツキは咄嗟に口を開いた。
「……あの、佐藤くんのプリントを届けにきたのですが……」
「あ、ど、どうも、ありがとうございます……」
幽霊はおどおどしながらもナツキの差し出した封筒を受け取り、ペコリと頭を下げた。
封筒を持ったということは、きちんと実体がある。なら、この子は幽霊ではない。
そのことに、ナツキはほんの少し安堵した。
そして次に思ったのは、じゃあこの子は一体誰なのだろう、ということだ。
佐藤くん、と封筒に書いてあったから、ナツキは佐藤という生徒は男だと思っていた。でも、言われてみれば女子生徒をくん付けで呼ぶ教師はいる。
もしかしたらこの子が『佐藤くん』なのだろうか。それともその妹とか。学校に行かなくなった兄のことで悩んでいて、昨日からずっと泣いていた可能性もゼロではない。
だが、初対面でそれを聞く度胸はナツキにはなかった。
じゃあ、とナツキは頭を下げ、逃げるようにその場を後にした。



あつい。あつい。あつい。
暑いのは嫌い。体から流れる汗も、体に張り付く服も、溶けてどろどろになった体から溢れる匂いも、何もかもが気持ち悪い。
冷たかったはずの床はとっくに体温で温まり、不快さは増える一方だ。
起きて、体を拭いて、着替えなければ。
シャワーを浴びて、クーラーの効いた部屋でアイスを食べて休みたい。
汗で汚れた床もきちんと水拭きしておかないと。カビでも生えたら、あの父親はもっと帰って来なくなってしまう。
そうわかっているのに、体が動かない。目も開けているはずなのに、何も見えない。
おかしい。どうしたんだろう。
ずきりと頭が痛む。
そうだ、さっき学校から帰ってきて、自分の部屋に行こうとして階段で足を滑らせ、そのまま落ちてしまったんだった。痛いのも、その時に頭を打ってしまったからだろう。
どのくらい寝ていたのか。
口を動かすが、出たのは言葉にならない呻き声だけ。体が動かない。鞄から携帯を出すことすらできない。
どうしよう。どうしたら。誰か。誰か。
母親はずっと前に出て行った。父親も最近はあまり帰ってこない。
ならば一体、誰がナツキを助けてくれるのだろう。
学校の友達。バレエの先生。近所の人。その姿が脳裏に浮かんでは消えていく。
だめだ。昔ならともかく、最近は家のことにかかりきりで疎遠になり、助けてと気軽に言えるような関係ではない。
どうしてこんなことになってしまったのか。
胸の奥から溢れ出る悲しみに、じわりと視界が歪んでいく。
どうして皆、ナツキを置いていくのだろう。どうして、誰もナツキを選んでくれないのだろう。
お母さんは見知らぬ誰かを取った。お父さんもナツキから逃げていった。友達も近所の人も、ナツキがこんなことになってから、うっすらと距離を取り出した。
どうして、と責めそうになった唇を、ナツキはぎゅっと噛み締める。
違う、みんなは悪くない。
きっと自分が悪いのだ。きっと、知らないうちに何か悪いことをしてしまったのだ。
だから、みんなナツキから離れていった。
ナツキが今こうなっているのは、きっと、その罰なのかもしれない。
現実から逃げるように、ナツキは目を閉じる。
想像するのは、明るい照明の下、舞台で踊る自分の姿だ。
あの頃は幸せだった。父がいて母がいて、いつも笑っていた。ナツキの世界は、まだ幸せのままだった。
ずっと舞台の上で踊り続けていたかった。
まどろむ意識の中でナツキは思う。
そうだ、そうすれば、きっとこんなことにはならなかった。ずっと幸せなままでいられたのに。
こんな悲しい思いをせずにすんだのに。
不意に、むわりと蒸した空気が、床と体の隙間から沸き上がった。
どうやら今日も熱帯夜になるらしい。



「奈津川、なんか顔色悪くないか?」
休み時間、鈴木にそう声をかけられる。
今日は朝からひどい夢をみた。
それは暑い廊下に寝転がったまま動けず、そのままじわじわと苦しみ続ける夢。
子どもの頃から何度も見ているものなのから、夢の中でこれは夢だと気付くことができたらいいのに、夢の中のナツキは毎回律儀に苦しんでいる。
この夢を見た日は、頭も体も重い。よほどひどい顔をしていたのか、両親はナツキに学校を休でもいいんだよ、言ってくれた。だが、家に1日中いる方が、今のナツキには耐えられない。
もうすぐ受験だから、と言い張り、ナツキは重たい頭引きずって学校へ来たのだ。
寝不足で、とナツキが苦笑いをしながら言った時、前の扉が開き、温い風と共に彼が入ってくる。
「ゴロウ、地理の資料集貸してー。別のクラスの奴に貸したんだけど、返すの忘れて持って帰っちゃったみたいで」
この席になってから、彼のこの困り顔を何度見ただろう。そして、鈴木の呆れるような顔も。
「またかよ、アキヒコ。しょうがねぇなぁ」
「助かるー。後で飲み物奢るよ」
じゃあ、と彼がクラスに戻ろうとした時、ナツキとばちりと目が合った。
やばい、疲れていたせいで無意識に彼を見てしまっていた。何か言われるだろうかと内心あたふたしていると、彼が怪訝そうに眉をひそめた。
「あれ、奈津川さん、顔色悪くない?」
「そ、そうかな。さっきも鈴木に言われたんだけど、そんなにひどい?」
作り笑いを貼り付けながら、ナツキは慎重に言葉を返す。
「なんかすごく疲れてるように見えるけど、なんかあった?」
「いや、ただの寝不足で……」
「そうなの?なんか怖い夢でも見た?」
あっけらかんと聞いてくる彼に、そんなところ、と濁して答える。
同じ夢を小さな頃から繰り返して見てる、というのは、なんだか普通ではないような気がして言えなかった。彼に変な奴だとは思われたくなかった。変な奴、という括りで、覚えてほしくなかった。
「そうなんだ、俺もたまに見るよ、怖い夢」
警戒するナツキに、彼はからりと笑った。
「へぇ、どんな夢なんだ?」
鈴木が、にやにやと笑いながら彼に尋ねる。
「なんか、ワイドショーを見てる夢。俺は自分の家のリビングでそのワイドショーを見てるのね。でもその家も今の家とは違うやつ。でも、俺はそこを自分の家だと思ってんの」
その感覚はナツキにもわかる。ナツキがよく見る悪夢に出てくる家も、今のナツキの家とは違う。今のナツキの家はマンションで、夢の中は一戸建てだった。
「ワイドショーでね、なんか女の子が死んじゃった事件のことを報道してて、それでコメンテーターの女の人が泣いちゃって、それで」
「それで?」
どこか楽しそうに鈴木が先を促す。
「画面が中継に変わって、そこに俺の親が2人で映ってて……。もちろん、今の本当の親じゃなくて、あくまで夢の中の親なんだけど、なんか報道陣にインタビューされてた」
「……そのワイドショーの事件起こしたのは、実は夢の中のお前の両親だったとか?」
「うっわ、やめろよ、そういうこと言うの。眠れなくなるだろ」
彼はそう言いながら口を尖らせる。そんな子供じみた表情も可愛らしいと思ってしまう自分は、きっとどうしようもない。
「でも多分、違うよ。夢の中のニュースだと、女の子は殺人じゃなくて事故死みたいだったから。ただ発見がすごい遅れて、それで話題になってたみたいで」
その時、ナツキ達の頭の上で、始業のチャイムが鳴った。
はたと気付いた彼が言葉を止め、切り替えるように笑った。
「とにかく、夢なんだから、奈津川さんも気にしない方がいいよ」
じゃあ、また、と彼はナツキに笑いかけ、バタバタと自分の教室に戻っていく。
彼がいなくなった扉を見ながら、やっぱり無理して学校に来てよかった、とナツキは小さく思った。


「奈津川さん、何度もごめんなさい。今日もお願いできるかな?」
放課後。帰っていく秋田アキヒコを美術室の小さな窓から眺めた後、ナツキは昨日と同じように高橋に声をかけられた。なんでも、昨日封筒に入れ忘れたものがあったらしく、また『佐藤くんへ』と書かれた封筒を渡された。
そういえば、結局、昨日のあの子は何だったのだろう。
それとなく高橋に聞いてみたところ、『佐藤くん』は一人暮らしで、兄妹もいないらしい。それ以上のことは、なぜそんなことを聞くのか高橋に突っ込まれるのが嫌で、聞けなかった。
モヤモヤとしたものを抱えながら、ナツキは昨日来たばかりのマンションの前に立つ。
2度目ともなれば、さすがにナツキも多少は慣れる。迷いなくエントランスを抜け、103号室の扉にあるポストに封筒を入れた。
すとん、と扉の向こうに封筒が落ちた音がしたのを確認した後、いつものように図書館に行こうと足を踏み出した。
その時だ。
部屋の中からばたばたと走るような音がしたかと思うと、次の瞬間、重そうな金属の扉がバタンと開いた。中から飛び出してきたのは、昨日も見た冬服のあの子だ。今日は髪は結んでおらず、長い髪が緩く巻かれた状態で肩に垂れ下がっている。
厚い前髪の隙間から現れたギラリとした目が、ナツキを射抜いた。
思わずナツキの体が硬直する。
一体なんだ。何か言われるのか。混乱したまま、ナツキは開いた扉の前で立ち尽くした。
小さな口が、はくりと動く。
ごくり、とナツキは無意識に唾をのんだ。
「あ、あの、この前、道で、驚かせてごめんなさい……」
その言葉に、ナツキはパチリと目を瞬かせた。
この前とは、まさか夜道で出会った時のことだろうか。
思わず見返すと、髪の隙間から覗く目が、逃げ場を求めるように左右に揺れる。
「お、驚かせるつもりはなくて、本当にごめんなさい……」
「い、いや、別にいいけど……」
彼女の雰囲気につられて、ナツキも少し吃ってしまった。
「あの、あんなところで何を……?」
「散歩してて……」
ぼそりと彼女は答えた。
「あの日、すごく夜空が綺麗で、月も大きくて星もよく見えて、それで気分転換に外に出たんだけど」
彼女の眉がへにゃりと下がる。
今にも泣き出しそうに、目にじわじわと透明な膜が張っていくのが見えた。
「本当に空がすごく綺麗だったんだ。ひとりで見るのがもったいないくらいの綺麗さで。ふと、晴野さんに見せてあげたいなぁって思ったんだ。一度そう思ったら、どんどん悲しくなってきちゃって。どうして晴野さんはここにはいないんだろうって思うと辛くて、一歩も歩けなくなって」
そこを奈津川さんに見られてしまったんだ、と彼女は言った。
「なんで私の名前……」
「学年集会で、表彰されてるの見たことがあったから……」
彼女はもう一度、ごめんなさい、と呟いた。ナツキは思わず首を横に振る。
「その、晴野さんって……?」
「……僕の好きな人」
彼女の声のトーンが、一段低くなる。
晴野。はるの。学校ではあまり聞いたことのない名前だ。一度でも同じクラスになった子なら、ナツキも覚えている。そうじゃないということは、別の学年の子なのだろうか。
「でも、晴野さん、いなくなっちゃって……。せっかく、せっかく仲良くなれたのに」
「……いなくなったって、その、引っ越しとか?」
ナツキの問いに力なく首を横に振る彼女を見て、ナツキは聞いたことを後悔した。
そうか、そういうことか。
無神経に聞いた自分を、ナツキは殴りたくなった。
「晴野さんがいなくなって、どうしたらいいかわからなくなって。ちゃんとしなきゃって思っているのに、学校に行くと晴野さんのことばっかり考えちゃって、外に出ても晴野さんとこうしたかったなっていう後悔ばかりが浮かんできて」
彼女の目から、ついに涙がぽろぽろと溢れだした。
次から次に溢れるそれは雨にように地面に降り注ぎ、冷たい石の地面に水玉模様を作る。
「な、泣いてばかりでごめんなさい。わかってる。わかってるんだけど、思い出すとやっぱり悲しくなって……」
ひぐ、という彼女が喉を震わせる音が、あたりに小さく木霊した。
ナツキは何と言っていいかわからず、気まずそうに自分の腕を抱いた。
「……あの、ごめん、なんか変なこと聞いちゃって……」
「ううん、奈津川さんは悪くない。僕が……」
そう言って、彼女はまた濡れた目から涙をぽろぽろと落とした。
「あの、さ、一応確認してもいい?ずっと学校休んでいる佐藤くんって、あなたでいいんだよね?」
ナツキが問いかけると、彼女は少し迷った後、こくりと頷いた。
やはり、この子が『佐藤くん』だ。つまり、佐藤くん、ではなく、佐藤さん、だったということだろう。
何と紛らわしい。だったら封筒に『佐藤くん』なんて書かないでほしい。
ナツキは高橋のことがさらに嫌いになった。
「あなたはその、晴野さん、っていう人のことが好きだったの?」
ナツキの言葉に、彼女は涙目のまま、こくりと頷いた。
「好きだった。ずっとずっと好きだった。好きって言ってもらえて、恋人になれたのに。もっともっと、いろんなところに出かけたかったのに」
彼女ははっきりとは言わないが、おそらく、その晴野という人物は亡くなってしまったのだろう。そして、彼女はそのショックで、学校に来れなくなった。
「晴野さんがいなくなってから、いろんなことがよくわからなくなって。暑いのも寒いのも、眠いのも痛いのも、空腹も、自分の顔も」
ぼろりと大きな涙が、彼女の頬からこぼれ落ちる。
「ただ辛くて悲しい。晴野さんがいなくなっちゃった。みんなの中からも消えてしまった。僕も、いつかは忘れてしまうかもしれない。それは嫌だった。嫌で嫌で、毎日泣いていて、ある時ふと鏡を見たら、鏡の中に晴野さんがいた」
ああ、とナツキは思った。
きっとこの子は、好きな人が突然いなくなって、おかしくなってしまったのだ。
「僕が試しに冬服を着て、晴野さんと同じ紺色のマフラーをしたら、そこには晴野さんがいた。晴野さんはもういない。わかってるけど、鏡の中には晴野さんがいたんだ。その瞬間、ほんの少しだけ寂しくなくなった。僕が晴野さんがよくしていたお団子頭にしたら、鏡の中の晴野さんは、より晴野さんらしくなった。晴野さんが、この世界に戻ってきたような気がしたんだ」
だから、この子はこんな季節外れの格好をしているのだ。恋人の格好を自分ですることで、なんとかその存在を自分の中に留めようとしている。いなくなった悲しみを、なんとか紛らわそうとしている。
「晴野さんの格好をしている時は寂しくなかった。それなら外にも出られた。でも、駄目だって怒られた。馬鹿なことをするな、そんなことをして何になるって。……そんなの、僕にもわかってる。だけど、僕がこの格好をやめたら、晴野さんが消えてしまう。本当に、この世界から晴野さんがいなくなる。そう思うと怖くて、やめられなくなって……」
そうして夜な夜な徘徊する冬服の幽霊が生まれたのだろう。
学校で噂している人達はきっと、彼女のこんな事情を知らない。
「奈津川さんもごめんなさい。プリント届けさせちゃって……」
「いや、別にそれはいいんだけど……」
ナツキは家に帰るまでの時間潰しができたらそれでいいのだ。大した手間ではないし、謝ってもらう必要はない。
だけど、恋人がいなくなって泣き続けるこの同級生を見ていると、妙に胸の奥が騒ついた。
「……あのさ、そんなに晴野さんって人のことが好きだったの?」
恐る恐る尋ねると、彼女はこくりと頷いた。
「好き。ずっと好きだった。本当に、大好きだった」
彼女の声に、迷いは一切なかった。
「付き合ってたんだよね?」
「うん」
「告白はどっちから?」
「えっ……、えーと、僕、かなぁ?」
「そうなんだ、すごいね」
ナツキが言うと、彼女は少し驚いたように目を瞬かせた後、そうかな、と少し照れ臭そうに笑った。
それは彼女が初めて見せた、泣き顔以外の表情だった。
「どうして告白できたの?」
「え、どうしてって……」
「振られるって思わなかった?好きって言って、引かれるって思わなかったの?」
今までの関係を壊すことが怖いと思わなかったのか。しかも今のこの格好を見るに、晴野さん、というのは女の子だろう。この子も女の子。異性に恋する子が多い中、同性に告白する勇気は凄まじいものだとナツキは思う。
ナツキの問いに、彼女は考えるように黙った。そして少し迷った後、ゆっくりと口を開く。
「僕、馬鹿だったから。クラスが変わって全然会えなくなって、それで焦って、なんとか僕のこと見てほしいって、それだけだったから……」
何も考えていなかった、と彼女は困ったように眉を下げた。
「……そっか」
自分には無理だ、とナツキは思う。そこまで向こう見ずになれない。
ナツキはみんなに好かれている人気者のあの男に、身の程知らずの恋をしている。
だからこそ、この恋を口に出すのは怖い。だって、叶わないことがわかっている。
望みなんてはじめからない。告白したところで傷付くだけ。向こうにも、余計な気遣いをさせてしまうだろう。
そんなのは嫌だった。それなら、ただの顔見知りとして認識されているだけで十分だ。
だからこそ、それを乗り越えて自分の気持ちを伝えられた彼女を、素直にすごいと思った。



「ねえ、うちのクラスの佐藤って子のこと、何か知ってる?」
掃除の時間、教室前の廊下を箒で吐きながら、鈴木に尋ねる。
鈴木はその人見知りしない性格もあって、顔が広く情報通だ。ナツキが知らないあの子のことを何か知っているかと思ったのだ。
「佐藤って佐藤チトセのこと?」
そう、とナツキはこくりと頷いた。鈴木は、んー、と考えるように宙を見上げた。
「実は俺もよく知らないんだよな。話しかけても、あいつ、俺にビビってんのか、あんまり会話にならねぇし」
そうなのか。でも言われてみれば、あの子はどちらかと言えば気弱そうだし、短髪でガタイもいよく、はっきりと物を言う鈴木は少し怖く見えるのかもしれない。
当てが外れてしまった、とチトセが内心がくりと肩を落とした。
「珍しいね。立ち話?」
その時、突然割って入ってきた思わぬ声に、ナツキは勢いよく振り返る。
そこには、柔らかな笑みを浮かべてこちらに近付いてくる秋田アキヒコがいた。
「なんだよ、アキヒコ。掃除ちゃんとしたのか?」
「したよ。同じ掃除班の子が優秀ですぐに終わっちゃった。で、何の話してたの?」
首を傾げて聞いてくる彼に、鈴木が簡単に説明する。
すると彼は、ああ、と頷いた。
「チトセのことだったら、1年の時同じクラスだったから知ってるよ」
チトセ。彼は大抵の人のことを名前で呼ぶ。
彼は距離の取り方が上手なのだ。突然名前で呼ばれても嫌な気はしない。
でも、彼はナツキのことは名前で呼ばない。ずっと苗字にさん付けだ。
前はなんとも思わなかったのだが、彼に恋をしてから、その呼び方がひどく気になるようになった。考えすぎかもしれないが、名前を呼ばれるたびに、お前は範疇外だと言われているような気がするのだ。
だけど、彼に「私も名前で呼んで」と言う勇気もない。言って、嫌な顔をされたら怖い。図々しい奴だと思われたくない。それならば、今のままでいい。ナツキには現状を壊す勇気などない。
色々な感情を飲み込み、ナツキは彼に尋ねる。
「本当?どんな子だった?」
「えーと、優しい子だったよ。優柔不断なところはあったけど、俺が困ってた時もなんだかんだ助けてくれたし」
「へぇ、何があったんだ?」
「いや、たいしたことじゃないよ。……ちょっと、図書室についてきてほしいって頼んだだけ」
その答えに、一拍置いた後、鈴木が大笑いした。
「だって、あの噂があってから高橋先生に1人で会うの気まずいんだよ!あ、あと、チトセと言えば童顔かな。正直、あまり同い年には見えなかった」
ナツキは昨日見た佐藤チトセの顔を思い浮かべ、あれ、と思う。
別に老け顔というわけではないが、特段すごく幼いという印象は受けなかった。でも、それは個人の感覚の差だろうか。
「仲良かった子とか知ってる?……付き合ってた子とか」
「んー、誰かいた気もするけど、ごめん、あんまりよく覚えてない。あ、でも、チトセ、ずっと体調崩して休んでるんでしょ?大丈夫かなぁ」
その顔は、本当に心からあの子のことを心配していて。
もし。もしナツキがあの子のように突然学校に来なくなったら、彼はこういう風に気にしてくれるだろうか。それとも、ナツキがいないことなど気にせず、別の子ににこやかに話しているのだろうか。
腹の奥から噴き出てくるどろどろとしたものを押し込め、そうだね、とナツキは当たり障りのない答えを返した。


もし告白して、振られてしまっても、彼は今まで通り普通に話しかけてくれるのだろうか。
図書館のカフェで、ガラスに反射する自分の顔を見ながらナツキは考える。
何の面白みのない顔だ、と静かに自嘲する。
かわいいわけでもない。綺麗なわけでも、化粧で化ける顔でもない。
もし、ものすごく自分が可愛いかったら、彼はナツキのことを名前で呼んでくれただろうか。
ナツキちゃん、と。あの澄んだ夏の空のような声で。
うっかり想像してしまい、ナツキは小さく首を振る。
そんなふうに呼ばれてしまったら、ナツキは間違いなく勘違いするだろう。
そう考えると、さん付けされている今の状況の方が、変に期待することもなくて、はるかにマシなのかもしれない。
そう自分を納得させようとするものの、自分だけ名前で呼ばれていないという状況は、どうしても引っかかってしまう。
別に好きになってもらえるだなんて思ってはいない。
だけど、せめて他の人と同じように扱ってほしい。みんな名前で呼ぶなら同じようにしてほしい。特別にしてなんて言わない。ただ、みんなと同じであれば、それでいいのに。
ガラスに映るナツキが、ぎゅっと眉を寄せた。
その時だ。
ナツキの顔の向こうに、見覚えのある人物がふらりと現れた。
季節外れの冬服に身を包んだ少女が、夜の道をひとり歩いている。
いつかのナツキと出会った時のように、また散歩でもしているのだろうか。
少し考えた後、ナツキは手早く荷物をまとめて立ち上がり、図書館から出た。
外は昼間の熱気が残っているせいか、むわりと蒸していた。
夢の光景を一瞬思い出し、ナツキは慌てて首を振る。
あれはただの夢だ。気にすることはない。
図書館の外壁に沿うように少し歩けば、カフェの外側にたどり着く。
その向こう側に探していた影を見つけ、ナツキは足を早めることなく、慎重に近付いていった。
ひとつに結ばれたお団子頭。首には暑そうなマフラー。紺色の冬服が、彼女の周りだけ冬になったような錯覚を覚えさせる。
彼女は、今日もたったひとりで、温い空気の中を揺蕩うように歩いていた。
その周りに人の姿はない。暗い街の中を、夜の海を泳ぐ魚のようにゆらゆらと進んでいく。
マフラーはまるで背びれのように、彼女の後ろで揺らめいていた。
「今日も散歩?」
声をかけると、弾かれたように彼女が振り向いた。
その目はいつかのように透明な膜で覆われていて。
声をかけたナツキの顔を見て、彼女は安心したように表情を緩めた。
「うん。奈津川さんは?」
「図書館で勉強してた。そうしたら姿が見えたから」
答えながら、彼女の隣に並ぶ。
彼女の目は相変わらず赤く腫れていた。きっと、今日も恋人を思って泣いていたのだろう。
もしも秋田アキヒコがいなくなったら、ナツキはここまで悲しむことができるのだろうか。
ナツキにはわからない。そこまで彼にのめり込むことも怖いと思う。
だから、真っ直ぐに恋人のことを思える彼女が、ほんの少し羨ましかった。
「あのさ、ちょっと聞いてもいい?嫌なら答えなくていいから」
「うん、何?」
「……いつから、その晴野さんのことが好きだったの?」
輪郭をゆっくりなぞるように、いつから、と彼女が小さく口を動かした。
「……1年の時から」
「中学は一緒だったの?」
「ううん。高校で会って、同じクラスになって。特に仲が良かったわけではなかったんだけど、ある日一緒に帰ることになって」
大切な思い出を丁寧に紐解くように、ぽつぽつと彼女は話しだした。
「冬で、雪が降ってる日で。晴野さん、雪が嫌いだって聞いたから、一人で辛い思いをしてほしくなくて。だからって僕が何かできるわけじゃないけど、横に誰かがいることで、ちょっとでも気が紛れたらいいなって思って、一緒に帰ろうって声をかけたんだ」
「自分から誘ったの?すごいね」
ナツキだったら、いくら心配でも、友達でもない人に自分から声をかけることはなかなかできない。せいぜい、後ろからこっそりついていくくらいだ。
「でも僕、話もそんなうまくなくて、質問にもうまく答えられなくて、結局晴野さんに気まずい思いさせてしまったんだ。それで落ち込んでたんだけど、晴野さん、そんなことないよって言ってくれて」
「優しいね」
「……うん、晴野さんは優しいんだ。そんな僕に、明日も一緒に帰ろうって言ってくれて」
びっくりした、と、その時の何かを思い出したのか、彼女は泣きそうな顔で笑った。
「それでまた一緒に帰ることになったんだけど、今度は晴野さんがたくさん話してくれて。多分、気まずくならないように、たくさん話題を探して来てくれたんだと思う。すごく嬉しくて、こんな僕のために頑張ってくれた晴野さんは、すごく優しいんだと思った。そして別れ際に晴野さんが、『本当は不安だったから、一緒に帰ってくれて嬉しかった、ありがとう』って言ってくれて」
真っ赤に腫れた目の縁から、また涙が膨れ上がるのが見えた。
「僕、いろんなことがあまり得意じゃなかったから、そんなふうに真っ直ぐに感謝されたのは初めてで。嬉しくて、気付いたら晴野さんのことで頭がいっぱいになった。もっと晴野さんと話したいと思ったし、晴野さん本人にも、晴野さんはこんな僕に優しくしてくれるくらい、すごい優しい人なんだよって伝えたくなった」
鼻を啜る音が静かな夜の道に響く。
彼女ははたと気付いて、慌てて袖で目を擦り、泣いてごめん、と誤魔化すように笑った。
ナツキは思う。
彼女達は、きっとお互い相性が良くて、惹かれあったのだろう。だけど、その恋人は彼女を残していなくなった。取り残された彼女はひとりで毎日泣き暮らしている。
これが振られたとかだったら、彼女もしばらく泣いた後、また立ち直れたのかもしれない。
でも、現実は違う。『晴野さん』は若くして、突然死んでしまったのだろう。
そんな悲劇が、テレビやネット越しではなく、こんな身近にもあったなんて。
ナツキは、きゅ、と小さく唇を噛み締める。
そんなナツキに構わず、彼女がボソボソと話を続ける。
「晴野さんがいなくなって、悲しくて悲しくて。本当は喜ぶべきことだったのに、全然そうは思えなくて。……僕は本当に出来損ないだ」
喜ぶべきこと、という言葉に引っかかりを覚えたが、口を挟める雰囲気ではなく、ナツキは黙っていた。多分、ただの言い間違えだろう。悲しんでいる彼女に、いちいちそんな言葉の間違いを突っ込めるほど、ナツキは空気の読めない人間ではない。
小さく震える肩を、ナツキは静かに見下ろす。
彼女と違って、ナツキは彼に告白するつもりはない。現状を変える勇気もないし、例え彼に恋人ができて、自分の恋が駄目になってとしても、彼女のように泣くことはできないだろう。
彼女は、ナツキがどこかで諦め、捨ててきた何かを、きちんと全部持っていた。
自分とは全く違う形で恋をしている彼女。
そんな彼女のことを、ナツキはもっと知りたいと思った。



放課後の美術室。
今日もナツキはひとり、作りかけの彫刻と向かい合っていた。
粘土で肉付けされたせいで、作品はだいぶ人らしい形になってきた。あとは衣装部分を作り込めれば、完成が見えてくる。
だが、そこで、不意にナツキの手が止まった。
正直、最近はいろいろなことがありすぎて、あまり作品作りに集中できていなかった。
気を抜くと、泣いている佐藤チトセの顔が頭を過ぎる。そこから芋づる式に秋田アキヒコのことを考えてしまい、手がぴたりと止まってしまうのだ。
これがスランプというやつだろうか。
ナツキが溜め息を吐いた時、廊下が俄に騒がしくなった。最終下校時間が近くなったから、残っていた生徒が帰ろうと昇降口に向かっているのだろう。
もうそんな時間になったのか、と視線を上げれば、ちょうど彼が扉の向こうを通り過ぎるところだった。
彼の目が一瞬こちらを見て、そのまま扉の影に消えていく。
今日は手を振ってもらえなかった。それが当たり前だ。その姿が見れただけでも幸せだと思おう。期待なんかしたところで、どうせ碌なことにはならない。
視線を手元に戻す。ナツキの前に鎮座する台座にいるのは、まだナツキの頭の中にあるものとは程遠い。早く作らなくては。この部屋を使える時間は限られている。ぼんやりしている暇などないはずなのに、ナツキの手は一向に動いてくれなかった。
たいしてかわいくもなくて、性格も良くなく、勉強だってそこまで得意ではないナツキが誇れるのは、この彫刻くらいしかなかった。
だが、それすらもできないとなると、一体、自分に何の価値があると言うのだろう。こんな自分を、一体誰が愛してくれると言うのか。
思考と共に頭も重くなる。思わず俯きかけた時、がらりと美術室の扉が開く音がした。
美術部の顧問だろうか。それともまた高橋が何か頼みに来たのだろうか。
面倒だと思いながら、のろのろと顔を上げる。
そしてそこにいた人物を見て、ナツキは目をむいた。
「遅くまでお疲れ様ー。調子はどう?」
秋田アキヒコがナツキの前でにこやかに手を振っていた。
あまりに突然のことにナツキは言葉を失った。
固まってしまったナツキに、邪魔してごめん、と彼は苦笑いをしながら、手に持っていたものをトン、とナツキの前に置いた。
「いや、さっき自販機で飲み物買ったら違うもの出ちゃって。俺、甘い紅茶飲めないから、よかったらもらってよ」
机の上に置かれたのはペットボトルのミルクティー。
彼から初めて何かをもらった。
その事実だけで、ナツキの頭は今にも弾け飛びそうにだった。
使い物にならなくなった頭のまま、とにかく礼を言わなければとナツキはなんとか口を開く。
「あ、ありがとう。ちょうど喉乾いてたから……」
「本当?よかったぁ」
安堵するように笑う彼に、ナツキの体の奥がきゅうと締まる。
どうしよう。急に顔が熱くなってきた気がする。心臓の音もいつもよりもうるさいし、膝の上に置いている手もかすかに震えている。
とりあえず変なことだけはしないよう、ナツキは腹の奥に力を込めた。
「奈津川さん、毎日残ってるよね?コンクールとかでもあるの?」
「いや、そういうわけじゃないけど。夏休み入っちゃうと受験で忙しくなっちゃって、ゆっくり作品を作る暇もないだろうから、最後になんか作っておこうかなって……」
どうして自分は今、彼と2人きりで話しているのだろう。
ナツキは混乱しながら必死に考える。
そんなナツキの緊張など露知らず、そうなんだ、と彼は感心するような声を上げた。
「そうやって何かを作れるのって、本当すごいよね。俺、奈津川さんのファンだから、応援してる」
ファンという彼の言葉に、ナツキは一瞬どきりとした。
だがすぐに深い意味はないはずだと思い直し、ありがとう、と笑って頭を下げる。
「冗談でも嬉しい。秋田くんにそう言ってもらえるなんて光栄だよ」
「冗談なんかじゃないって。俺、本当に奈津川さん作ったもの、好きだからさ」
彼は当たり前のような顔で、そう言ってきた。
今度こそナツキは言葉を失う。
違う、違う。その好きはあくまでナツキの作ったものに対してであって、ナツキに対してではない。余計な気が起きないよう、ナツキは何度も自分に言い聞かせる。
だけど、彼の口から出た、好き、という言葉に、どうしても動揺が隠せない。
何か言わなくては。彼に変だと思われてしまう。
ナツキが必死に言葉を探していると、彼が扉を見て、あ、と声を上げた。
そこには、四角い窓の向こうで、ひらひらと手を振る鈴木がいる。
「一緒に帰る約束してたんだった。ごめんね、渡してすぐ帰るつもりだったのに邪魔しちゃった。じゃ、また明日」
そう言い残し、彼は慌てるように美術室から出ていった。
ぴしゃりと閉じられた扉をナツキは呆然と眺める。
今日は一体どうしたのだろう。わからない。だけど、彼と2人きりで話すことができた。
嬉しかった。嬉しくて嬉しくて、そのまま体が燃えて消えてしまいそうだった。
思い返すだけで、耳の奥まで熱くなる。
こんな日はもう来ないかもしれない。そう思えるくらい、すごく恵まれた時間だった。
熱に浮かされたまま、ナツキはふらりと立ち上がる。
ここを片付けて帰らなければ。でも、体がふわふわしてあまり現実感がない。放っておくと、顔が勝手ににやけてしまいそうだ。
だけど喜べば喜ぶほど、愚かな期待をしている自分が否応にでも浮き彫りになっていく。
馬鹿馬鹿しい。そんなことあるはずはないのに。
そう自分に言い聞かせるナツキを嘲笑うかのように、それから彼は、ナツキしかいない美術室にたびたびやってくるようになった。



「こんばんは」
図書館の前で、ひとりでふらりと歩いていたチトセに、ナツキは声をかける。
「こ、こんばんは」
ナツキに気付いたチトセが、はにかんだような笑顔を見せた。
はじめは呼びかけるたびにビクついていた彼女も、日を追うごとにナツキに慣れてきたのか、今ではが表情も随分柔らかいものに変わっていた。
彼女にプリントを届け、言葉を交わした日から数日。
ナツキは彼女を見かけると、こうして声をかけるようになった。
美術室で最終下校時刻まで過ごした後、図書館に向かい、チトセがいれば彼女と話して家に帰るまでの時間を潰す。それがナツキの新しい日課になっていた。
彼女との話題のほとんどは、『晴野さん』との思い出話だった。
正直、人の恋愛話には興味がなかったナツキだったが、不思議と彼女の話は聞きたいと思った。
それは、彼女の思いはあまりに真っ直ぐで、生々しかったからかもしれない。
生々しいというのは、ドラマのような作りものじゃない、という意味ではない。多かれ少なかれ、人は本音を隠して生きている。こんなことしたらみっともないとかかっこ悪いとか。特に大人になればなるほど、みんなカッコつけたがる。かっこいいと思っても素直にそう言わないし、欲しいものがあっても強がっていらないふりをする。ナツキだって、彼のことが好きなはずなのに、好きという態度はとれない。
だけどチトセは違う。恋人のことを素直に好きだといい、亡くしてしまったことを心から悲しんみ、外聞など気にせず涙を流す。
そんな彼女の生々しさが、ナツキは少し羨ましかったのかもしれない。
どうしたらそんな素直でいられるのか。どうしてそう、好きなものを好きだと真っ直ぐに言えるのか。
その疑問から、ナツキはチトセに色々なことを聞いた。恋人との馴れ初めだけではなく、その好きなところや、恋人といて何を思っていたかなども。
一度、さすがに根掘り葉掘り聞きすぎてしまった、と彼女に謝ったこともある。
すると、彼女は慌てたように首を横に振った。
「ううん、僕も晴野さんのことたくさん聞いてもらえて嬉しいんだ。今までこんなこと誰にも言えなかったし。それに、奈津川さん、いろんなことを聞いてくれるでしょ?だから、話すたびに僕もいろんなこと思い出すことができる。晴野さんとこんなことも話したなぁとか、あの時、晴野さん、こんな顔してたなぁって。晴野さんのこと、たくさん考えることができた。ひとりだと悲しい時のことばかり思い出しちゃうから、奈津川さんのおかげで悲しい時じゃない、楽しかった時の晴野さんをたくさん思い出すことができたんだ」
謝ったはずなのに、逆に、ありがとう、と言われてしまい、ナツキはどういう顔をしていいかわからなくなった。
そんな裏も表もない彼女に引きずられるように、気付けばナツキは彼女に自分の片想いを打ち明けていた。
同じ学年の人に恋をしていると。秋田アキヒコの名前は伏せて。
「その人、2年の前期の委員会が一緒でさ」
ナツキが偶然入った美化委員会。そこに秋田アキヒコもいた。
はじめは、クラスも違うこともあって、彼と特に関わりはなかった。ナツキとしても、あれが人気と噂の秋田アキヒコか、くらいにしか思っていなかった。
急接近したのは夏頃のことだ。
「その頃、委員会でポスターを作ろうって話になったんだ。当然、美術部の私に話が来たんだけど、私、彫刻以外は本当に何もできなくて。でも、周りはそれを謙遜としか思ってないみたいで、いくら断っても大丈夫だよって励まされるばっかり。どうしようかと思ってた時、前の席に座ってた彼が『じゃあ、俺がやります』って手を挙げてくれたの」
その時の真っ直ぐに伸びた背中と白いシャツを、ナツキは今日のことのように思い出せる。
ナツキにとって、それは救いの声だった。
描きたい人がいるなら是非そっちに。そう言うナツキに、周りの生徒達は、じゃあ、せっかくだから2人にお願いしようかな、と笑顔で言い放ち、結果、ナツキは彼と2人でポスターを作ることになったのだ。
「はじめは2人で作業するのがすごい気まずくて。そもそもあまり関わりのない人だった上に、かっこよくて人気のある人だったから。彼に好意を持っている人から睨まれたらどうしようって不安だった」
だが、彼はそんなナツキの壁を、あっさりと笑顔で飛び越えてきた。
彼はよく喋った。ナツキが気まずく感じる暇もないくらい、いろんなことをナツキに聞き、話してくれた。ポスターも彼が率先して色々動いてくれ、ナツキはほとんど絵を描かずに済んだ。
彼がナツキに気を遣ってくれていたのはすごくわかった。その優しさに、ナツキは心から感謝した。
「だから、ポスターが完成した時にお礼を言ったの。何から何まで本当にありがとうって」
その時、彼は言ったのだ。
『実は俺、前に奈津川さんが作ったやつ見たことあってさ。去年、美術室に飾ってあった踊ってる女の人のやつ』
ナツキはいつも、バレリーナがモチーフの作品を作っている。
彼が言っているのは、去年ナツキが作ったもので、コンクールに出すために美術室においていたものだろう。
『俺、あれがすごい好きでさ。あれ見た時から、ずっと奈津川さんのファンだったんだ』
だから、ちょっと張り切っちゃった、と彼は子どものように笑った。
その言葉はナツキにとって信じられないものだった。
だって、相手は学年トップクラスの人気者だ。そんな関わりのない相手が、ナツキが作った粘土彫刻を見てくれていたなんて。
「もちろん、彼の言葉はただのお世辞かもしれない。だけど、それでも嬉しかった。私の知らないところで私が作ったものを見て、好きだと思ってくれる人がいてくれたことが」
それがナツキの恋の始まりだった。
「その人に、好きって言ったの?」
チトセが無垢な目で聞いてくる。
「まさか。私は、チトセみたいに告白する勇気はないよ」
「どうして?」
不思議そうに彼女が首を傾げる。
どうしてって。そんなの、言えるわけがない。
だって、言ったところで、何にもならない。むしろ失うものの方が多すぎる。
だから言わない。何も言わない。今のままでいるほうがいい。
「……さっきも言ったけど、その人、人気あるんだよね。私なんか相手にされるわけない。むしろ、私が横に立ってたらおかしいし。だから」
言わないし、言えない。
ぽつりと漏らしたナツキの本音。それに彼女からの返事はない。
変に重くなってしまった空気に、ナツキは慌てて付け加える。
「ほら、今から受験だし。受験前にお互いに変なことしたくないしね。心穏やかに受験したいじゃん。だから別に言わなくても。それに、最近、彼がよく美術室に顔を出してくれるんだ。そんな長い間じゃないけど、毎日ちょっとだけ2人で話せる時間が増えた」
あの飲み物をもらって以来、彼は毎日帰り際に美術室に入ってくるようになった。
調子はどう、と言いながらナツキの手元を眺め、軽い世間話をして、また明日、と去っていく。
そんな夢のような時間が続いている。
だからこそ今、変なことを言って、この時間を壊したくはなかった。
「それだけで十分。欲張っても、いいことなんかない」
「でも」
チトセの声が、わずかに滲む。
「言えるうちに言っておいたほうがいいよ」
いつ言えなくなっちゃうかわかんないから。
彼女の言葉が、夜の空気に重く響く。
でも、とナツキは思う。
もし彼がナツキの思いを伝える前にいなくなったとしても、おそらくナツキは後悔しないだろう。
だって、こんな醜い下心を彼に知られずに済んだのだ。ナツキの面目は保たれる。
チトセはきっと、その綺麗で真っ直ぐな想いを受け止めてもらえた経験があるから、そう思うことができるのだ。
ナツキは、この思いの行先がゴミ箱であることを知っている。
だけど、それを純粋なチトセに言うことはできない。
「……そうだね」
いつかそうできたらいいな、とナツキはチトセに笑いかける。
彼女は何も言わず、悲しそうにそっと唇を噛み締めた。



誰もいない、放課後の美術室。
作りかけの彫刻の前で、ナツキは額を机に押し当て、小さく唸る。
彫刻の進捗が芳しくない。
こんなに彫刻に集中できないのは、高校になってから初めてだった。
原因など考えなくてもわかる。秋田アキヒコのことだ。
ただでさえ、毎日チトセと恋愛の話をしているせいで、いやでも自分の恋愛感情に向き合う羽目になっているのに、そこにきて、恋する相手が毎日ナツキのいる美術室に来るようになってしまった。短い時間とはいえ、ナツキの冷静さを失わせるには十分だ。
文字通り寝ても覚めても彼の顔が、声が、頭をよぎってしまう。
「どうしたの?大丈夫?」
突如頭の上から降ってきた声に、ナツキは慌てて体を起こした。
ずっと机に押し当てていたせいで額が少し痛いが、今はそれどころではない。
目の前に、心配そうにこちらを見る秋田アキヒコがいた。
いつの間に美術室に入って来たのか。考え込んでいたせいで全く気付かなかった。
ナツキは慌てて前髪を整え、姿勢を正して彼を見る。
「……ごめん、なんでもない」
「そうなの?奈津川さんが机に突っ伏してたからさ。もしかして具合でも悪いのかと思って焦っちゃった」
なるほど、どうやら彼にはナツキが倒れているように見えたらしい。
やっぱり彼は優しい、という思いと、好きでもないなら放っておいてくれ、という思いが胸の中でぐちゃぐちゃになる。
ナツキは唇を引き締め、大丈夫、とそっけなく答えた。
「なかなかうまく作れなくて悩んでただけだから。気にしなくていいよ」
「えー、気になるよー。俺、奈津川さんのファンだし」
言ったじゃん、とへらりと笑われて、どきりとする。
わかってる。彼はファンという言葉を、ナツキが思うよりも軽い意味で使っている。深い意味はなく、ナツキが期待する意味もない。その証拠に彼は何度もファンだと言ってくる。
それでも、好きな人から好意的な言葉をかけられて、喜ばない人間はいないだろう。
ナツキは緩みそうな頬に力を込め、どうも、と小さく答えた。
「そういえば、奈津川さんがいつも作ってる、あの踊ってる女の子って、誰かモデルいるの?」
「……いるっていうか、いないっていうか」
ナツキの返事は歯切れが悪かった。
ナツキがいつも作っているバレリーナのモデルは、ナツキの悪夢の中に出てくる子だ。死にかけた自分が想像している、過去の自分。だから、彼女のモデルはいるのだが、誰かと聞かれると説明に困る。
どう答えていいかわからず言葉を濁していると、彼は近くに置かれていた椅子を引っ張ってきてナツキの前に、すとん、と腰を下ろした。
完全に話を聞く体勢だ。
これで何も話さないと、アーティストぶって秘密にしている、と思われるかもしれない。
ナツキは恐る恐る口を開いた。
「……夢に出てくる子で」
「夢?」
こてんと首を横に傾げる彼に、ナツキはこくりと頷いた。
「うん、夢。……あの子にはずっと踊っていてほしいから」
彼女が踊っている限り、不幸なことは襲ってこない。全ての悪夢は、彼女が舞台を降りてから始まったのだ。彼女の踊りは、ナツキにとって幸せの象徴だった。
でも、それをどう彼に説明していいのかわからない。
きょとんとした顔をしている彼を見ていると、だんだん居た堪れないような気持ちになり、ナツキは慌てて誤魔化した。
「意味不明でキモイよね。ごめん、忘れて」
「えっ、なんで?」
「なんでって……、だってキモいでしょ。夢に出てくる子を作ってるとか」
言えば言うほど、自分の行動の気持ち悪さが明確になっていくような気がする。
やはり言わないほうが良かったと悔やむナツキに、彼は真剣な顔で言った。
「キモくなんかないよ。ね、そのことって他の誰かに言ったことある?」
「彫刻のモデルが夢の中の子だって?まさか、言うわけないし。絶対引かれる」
今だって、本当は正直に言う気なんてなかったのだ。ただ彼が期待したような目で見るから、思わず言ってしまっただけ。
「じゃあ、このこと知ってるのって俺だけ?」
「うん」
すると彼は、目を輝かせて笑った。
「やった、嬉しい」
彼の予想外の反応に、ナツキは目を瞬かせた。
嬉しいってどういうこと。その言葉を、どういう風に受け止めたらいいかわからない。
驚きのあまり、言葉を発せずにいるナツキを置いて、彼はひとり、子どものように喜んでいる。
「奈津川さんの作品の秘密を知ってるのが俺だけって、すごい特別感があっていいね」
ただひたすら上機嫌な彼に、ナツキは、はぁ、としか返せない。
おそらく彼は、誰も知らない秘密を一番に知ったから喜んでいるのだろう。
そこで、ナツキははたと気付き、慌てて彼に懇願した。
「ま、周りに絶対言わないでね。キモいって思われたくないし」
「大丈夫、絶対言わない。だって、もったいないじゃん。せっかく2人だけの秘密なんだし」
そう言って、悪戯っ子のように笑う彼に、ナツキの頭は真っ白になった。
期待してはいけない。期待するだけ無駄だ。そう何度も言い聞かせてきたのに。
どうしよう。溢れてしまって止まらない。もしかしたら、と思ってしまう。
だって、現に彼はナツキと秘密を共有できたことに喜んでいる。そしてそんなことを、好意のない人間相手に思うはずがない。
違う、違う。そんなはずない。そんな奇跡、そんな『もしも』があるはずない。
だが、いくら理性が叫んでも、溢れる熱が全てを溶かしていく。
『言えるうちに言っておいたほうがいいよ』
チトセの言葉が、ぐらりと頭を揺らす。理性を崩す。その気遣いの言葉を、今、ナツキは愚行の言い訳にしようとしている。
からからに乾いた口を、ナツキは開いた。
「あの」
「あ、もうこんな時間じゃん」
時計を見た彼が立ち上がった。
ガタリという音が、茹で上がったナツキの頭を現実に引き戻す。
どく、どく、とうるさい鼓動が、ようやくナツキの耳に届いた。
危なかった。熱に浮かされて、変なことを言いそうになった。
ナツキは動揺を落ち着かせるために、机の下でぎゅ、と手を握る。
「もしよかったらさ、途中まで一緒に帰らない?」
その瞬間、おさまったはずの鼓動が再び大きく鳴った。

「下駄箱で待ってるから」
彼はそう言って美術室を出ていった。
その背を見送った後、ナツキはどこか夢見心地のまま、最速で片付けをした。
何があるわけでもないけれど、粘土で汚れた手をいつもより念入りに洗い、無駄に丁寧に机の上を綺麗に拭いた。そして出していた筆箱を鞄に投げ入れ、美術室を後にした。
夏の夜の廊下は、教室から漏れ出るエアコンのおかげで涼しかった。
走り出したいのを我慢しながら、ゆっくりと一歩一歩進んでいく。
彼を待たしているから、本当は走っていきたかったが、走るほど一緒に帰りたかったのかと思われるのも恥ずかしかった。
この廊下の角を曲がれば昇降口だ。
そうして慎重に一歩を踏み出した時、彼が誰かと話している声が聞こえた。
ナツキは思わず曲がり角の影に隠れる。
「俺は後で帰るから、先に行ってていいよ」
「ふぅん、わかった」
返ってきた声は、ナツキにも馴染みのある鈴木の声だった。
彼らはよく一緒に帰っているようだった。だから、今日は鈴木に先に帰るように言っているのだろう。
ナツキと帰るから一緒に帰れない、と暗に伝えていることが、なんだか気恥ずかしかった。
鈴木がいなくなってから彼の元に行こう、とナツキは心に決めた。
「そういや、アキヒコ。お前、奈津川に聞いたの?幽霊の話」
唐突に耳に入ってきたその言葉に、ナツキは思わず彼を見た。
だが、ナツキの場所からだと彼の表情は下駄箱に隠れてしまっていて、よくわからない。
「……まだ、聞いてない」
彼の答えに、なんだかひどく嫌な予感がした。
「なんで?やっぱり口固い?」
「そうじゃなくて、急に美術室に行って、そのこと突然聞いたら変だろ」
「え、じゃあ、何?お前、最近よく美術室に行ってるけど、何も聞かずにただ世間話してただけ?」
「そう」
「マジで?」
呆れるような鈴木の声。
これは一体何の話をしているのか。
どくり、どくりとナツキの心臓が大きな音を立てる。
「でも、気になるなら俺を使わないで自分で聞けよ。席も隣なんだし」
「えー、俺が聞いても奈津川は答えないって。アキヒコの方が絶対いい。この学校でお前を嫌ってるやつなんていねぇし」
「そっちも同じだろ」
めんどくさそうに彼が息を吐く音がする。
「なんでテンション下がってんだよ。そっちだって、奈津川があの幽霊と2人で歩いてたって話を聞いた時は乗り気だったくせに」
「そうだけどさぁ」
つまり、彼が美術室に来てナツキと話すのは鈴木の差し金で。
「何?あいつと2人で話すの、そんなに嫌?別に変な奴じゃないと思うんだけど」
「嫌っていうか、騙してるみたいだし」
「騙してねぇだろ。アキヒコがさっさと幽霊とのこと聞けば終わりじゃん」
彼の目的は、ナツキが仲良くしているという噂の幽霊の話を聞くこと。
ここ最近、美術室に来てナツキと話してくれたのも、全部幽霊とのことを聞き出すためで。
ナツキは、それを知らずに馬鹿みたいにひとり喜んでいただけ。
「だって、奈津川さんに、『幽霊?何それ』って言われたら、俺、馬鹿みたいじゃん」
「そうしたら俺が慰めてやるから」
「全然嬉しくないし!」
下駄箱の向こう側で、楽しそうな笑い声が上がる。
どうしよう。視界がゆらゆらと揺れている。だけど、ここで泣くわけにはいかない。
泣いているところをもし彼らに見られたら、なぜ泣いているのか不思議がられるだろうし、そんなことで泣いてるのかと思われるのも嫌だ。
ナツキは音を立てないよう慎重に踵を返し、今来た廊下を戻る。
そして、再び美術室の中に入り、後ろ手で扉を閉めた。
ぱたり、と足元に雫が落ちた。
馬鹿みたい。馬鹿みたい。馬鹿みたい。
勝手に期待して、馬鹿みたいに喜んで。
馬鹿みたいではない。馬鹿だ。本当に。救いようもない、ただの馬鹿だ。
あの彼が用もなく自分の話しかけてくれることなんてあるはずない。なかったのだ。それなのに、馬鹿な自分は勝手に盛り上がって浮かれてた。
ついさっきまでの自分を鈍器で殴りたい。そんなことあるわけないだろうと水を被せてやりたい。
現実を見ろ。よく考えろ。自分が彼につり合うとでも思っていたのか。彼が好きになってくれるような人間だと、思っていたのか。
そんなのただの思い上がりだ。自分なんてたいしたことない。彼のように人気者でもない。
今、彼と話せるのは、彼と仲のいい鈴木と席が近いから。それだけ。席替えをして離れてしまったら、きっともう話すこともなくなる。そのまま受験になって、大学はきっとバラバラになる。そうして、ナツキは彼に忘れられていくのだろう。
ひくりと喉が鳴る。歯を食いしばっても、嗚咽が喉の奥から溢れてくる。
どうしよう。こんな状態で彼と帰れない。さっきまですごく幸せだったのに。この上ないくらい嬉しかったのに。
今はもう羞恥で死にそうな気分だ。
どうしよう。どうしたら。
剥き出しの腕でぐい、と目を擦った時、背中にある扉が、コンコン、と叩かれた。
「奈津川さん、大丈夫?」
彼の声だった。
きっといつまで経っても玄関に来ないナツキを心配してきたのだろう。
いつもだったら感動する優しさだ。だが、今は鬱陶しい以外の何ものでもなかった。
ナツキはゆっくりと息を吐き出し、お腹に力を込めた。
「ごめん、忘れ物ないか確認してただけ」
そうしてくるりと振り向き、扉の向こうにいる彼に向き直る。
「大丈夫、なんでもない」
自分に強く言い聞かせるように、そうはっきりと言った。
なんでもない。そう、全部なんでもないことだ。
こんなもの、たいしたことではない。よくある話だ。そもそもナツキの恋がうまくいく可能性は限りなく低いのだ。優しい彼の言葉で勝手にナツキが舞い上がっただけ。
誰も何も悪くない。ナツキが馬鹿だっただけだ。
ただそう自分に言い聞かせても、一度萎んでしまったナツキの心がすぐに戻るわけではない。
こんな状態で一緒に帰れるわけがない。
ナツキはがらりと扉を開け、彼に向かってにっこりと笑った。
「ごめん、やっぱりもう少し作業したいから、先に帰っててくれる?」
ナツキが笑顔のままきっぱり言うと、彼は戸惑ったように目を瞬かせた。
「え、そうなの?」
「うん、ごめんね、また明日」
手をひらひらと振ると、彼は戸惑いながらも頷いてくれた。
これで今日のところは大丈夫だろう。そう思ったのも束の間、先程の彼と鈴木の会話が蘇る。
もし、彼が今日ナツキから幽霊の話を聞き出せなかったら、彼はまた明日も美術室に来るのだろう。そしてナツキはまた、今日のこの気持ちを味わう羽目になる。
だったらもう、今日終わらせてほしいと思った。ナツキのことが好きじゃないのなら、もう一切関わってほしくなかった。
「そうだ、秋田くん、私が噂の幽霊と仲が良い話が聞きたいんだって?」
そう聞けば、彼は悪戯がバレた子どものように、大きく目を見開いた。
「えっ、なんで……」
「まぁ、いいじゃん。で、何が聞きたいの?言っとくけど、あの子、幽霊じゃないよ」
あなたも知っている佐藤チトセだ、と胸の中で付け足す。
そこまで言ってやろうかとも思ったが、言ってしまうと、彼女が学校に戻ってきたときに変な噂が立つかもしれない。
今のところ、あの幽霊の正体を知っているのは、教師とナツキくらいだ。噂関係に敏感な鈴木も、あれが同じクラスで不登校になっている佐藤チトセだとわかってはいないようだった。むしろ正体を知らないからこそ、仲良くしているナツキに探りを入れようとしたのだろう。
だからこそ、これからの彼女のために、ナツキはその名を言うわけにはいかなかった。
「じゃあ、何?」
開き直ったのか、彼も固い声で問い返してきた。
「何って……、ただの同い年の女の子だよ」
「うちの制服着てるってことは、うちの生徒?」
「どうだろうね」
はぐらかすように、ナツキはへらりと笑う。
「なんで冬服着てるの?」
「ああ、それ知りたい?」
ナツキの嗜虐性に火が灯る。
口元にうっすらと笑みを湛えて、ナツキは答えた。
「あれ、あの子の恋人が最期にしてた格好なんだって。恋人が死んじゃって悲しくてどうしようもなかったけど、あの服装をしてると、恋人がまだそばにいるような気がするんだって」
その言葉に、彼は少なからずショックを受けたようだった。
そんな理由であの格好をしているなんて思いもせずに、鈴木に言われて軽い気持ちで踏み込んできたのだろう。ナツキ自身も、チトセから聞いた時は驚いた。
傷付いた表情を浮かべる彼に、ナツキは心の中でざまあみろ、と罵る。
鈴木に唆されて、聞いてこなければよかったのに。そうしたら、そんなにショックを受けずに済んだのに。
ナツキは嘲笑うように口の端をあげる。
「もういいかな?作業したいから、そろそろ出てってくれる?」
感情を置き去りにして、口だけがペラペラと動く。
棚に置かれた物言わぬ粘土の塊達が、それを黙って見つめている。
「……奈津川さん」
「出てって。これ以上、私の邪魔をしないで」
目も向けずにそう告げれば、少しの間の後、彼が唇を噛むように俯き、こちらに背を向けた。
そのまま廊下の向こうに消えていく背中を、ナツキは立ち尽くしたままぼんやりと眺めた。
夢の時間は終わってしまった。
その事実がナツキの心を容赦なく突き刺した。


別にいいのだ。
ナツキはそう胸中で呟きながら、再び作りかけの彫刻に向き合う。
もともと彼とどうこうなれると思っていなかった。彼がナツキの作品を気に入ってくれたと言ってくれたのも、多分リップサービスのようなものだし、真に受ける方が馬鹿馬鹿しい。最近よく話していたのも、たまたま彼と仲のいい鈴木がナツキの隣の席にいたからで、席替えがあればその縁も簡単に切れる。
だから、これでナツキは彼と適正な距離感に戻れることができるのだ。
そう自分に言い聞かせながら、ナツキは必死に手を動かす。
頭の中では、いつもの少女が舞台の上でひとり踊っていた。
彼女を作らなければ。ずっとずっと彼女に踊っていてもらわなくては、幸せは続かない。そうだ、今日のこれも、彼女をもっと早く作らなかったから起こったのかもしれない。
プリエ。前の足を伸ばして、そこに体重を乗せる。手を上に。胸も腹も全て引き上げて。
そしてアラベスク。
上から差し込む白い光。その中で、彼女は伸びやかに手足を伸ばす。
気付けばナツキの目から、ぽろりと涙が溢れていた。
ぽろぽろとこぼれ落ちたそれはナツキの膝に落ちて、スカートの醜い染みになる。
それでもナツキは頬を拭うことなく、粘土を指で伸ばし続けた。
手は天に引っ張られるように高く真っすぐ。背中を弓形に反って、美しい曲線を描いて。足を後ろに。
「奈津川さん?」
名前を呼ばれて、反射的に振り向く。涙のせいで視界がぶれた。
そこにいたのは司書の高橋だった。手には鍵束を持っている。
そのままゆるりと視線を壁の時計に向ける。
もう8時半をとっくに過ぎていた。
「……すみません。帰ります」
ガタリと立ち上がれば、高橋は慌てたように、ゆっくりでいい、と答えた。
泣いている生徒にはきつく言いにくいのだろう。
ほんの少しの申し訳なさを抱えながら、ナツキは手を洗い、黙々と片付けを始めた。
ずっと後ろから高橋が見ているのが気になるが仕方がない。気まずいのはあっちも同じだ。
特に話すこともなく、無言で手を動かしていると、不意に高橋が口を開いた。
「あのね、先生は超能力者なの」
突然何を言い出すのかと、ナツキは泣いているのを忘れて高橋を見る。
一体なんの冗談かと思ったが、その顔は至って真剣だった。
「実は人の記憶を消すことができるの。やり方も簡単。人の頭に手をかざすだけで、その人の消したい記憶を消せることができるの」
「はぁ」
すごいでしょ、と言わんばかりの口調に、ナツキはどう返していいかわからず、口から気の抜けた声が漏れる。
この人は不思議ちゃんの属性もあったのか。
半ば呆れながら眺めていると、だからね、と高橋が意を結したように言った。
「奈津川さんがやりたいようにやって大丈夫だから。もし何かあっても、先生が超能力で記なんとかしてあげる。……だから、どうか悔いのないようにね。何があっても、先生達は、先生は」
あなたの味方だから。
その言葉で初めて、この司書が、泣いているナツキを励まそうとしていたことを知った。


学校を背に、とぼとぼと暗い道をひとり歩く。
空に輝く白い星が、そんなナツキを無言で見下ろしていた。
今日はさすがに図書館に寄るつもりはなかった。本当はチトセに会いたかったけど、学校に遅くまでいたせいで、普通に帰るだけで9時近くになってしまうだろう。
門に向かいながら、ナツキは彼との美術室でのやりとりを反芻する。
彼に、あそこまでキツく言う必要はなかったかもしれない。
彼に言ったことを思い出し、今になってナツキは少し後悔した。
正直、あの時は動揺して、頭に血が上っていた。もっと違う言い方をすればよかった。そうすれば明日以降、彼と会っても気まずい思いをせずに済んだだろう。それどころか、ナツキのやりようによっては、今まで通り、彼と美術室で話すこともできたかもしれない。
だが、ナツキはそれを選ばず、全て壊すことを選んだ。
好きになってもらえる保証がないのなら、これ以上、優しくされることが辛かった。
いっそのこと、ナツキのことを嫌ってくれた方が気が楽だ。その方が、ナツキだって諦めがつく。そう思っていた。
だけど。
楽しかった美術室での記憶が、ナツキの胸の中を掻き乱す。
彼がナツキに話しかけていたのは、ナツキから噂の幽霊の話を聞き出そうとしていただけ。
そうとは知らず、馬鹿みたいに浮ついていた自分が恥ずかしくて、彼にあんな冷たい態度を取った。
でも逆に、彼の方から近寄ってきてくれたことをチャンスと捉えて、彼との距離を縮めることだってできたはずだった。
そっちの道を選べなかった自分の短慮さに、ナツキはなんだか笑いたくなった。
止まったはずの涙が、苦い後悔と共にまた込み上げてくる。
どうか悔いのないようにね、と高橋は言った。
言うのが遅すぎる、とナツキは胸中で高橋を罵る。
もし明日、彼に謝ったら、彼は許してくれるだろうか。
優しい彼はきっと許してくれる。だけど、何もなかったことにはならないだろう。
あんなこと言わなければよかった。そうしたら、これからも彼と話し続けられたかもしれない。
あの時、自暴自棄にならなければ。そうすれば、もしかしたら全部今まで通りでいられたかもしれないのに。
「奈津川さん」
まさかの声に、ナツキは思わず振り向いた。
そこにいたのはナツキが恋する男。
「……秋田くん」
学校の門の影に、彼は無表情で立っていた。
それは、いつも快活な表情をしている彼からは結びつかないような険しいもので。
どうしてそんな怖い顔をしているのか。
そう思った瞬間、彼の姿に、見知らぬ大人の男の姿が重なった。
え、と思う間もなく、唐突に、ナツキの頭に知らない記憶が蘇った。
あれは、習っていたバレエで初めてソロの舞台に立った時のことだ。
出番が終わり、楽屋に戻ると、いつもそこで待っていてくれた母親の姿がなかった。
代わりに先生達がバタバタしていた。他の子の親達が変な目でこっちを見ていた。
どうしたんだろう。明らかにいつもと違う。何があったのか。
ナツキが困惑し始めた時、楽屋にスーツ姿の父親が現れた。
そして言ったのだ。お前の母親はもういない、と。
『お前も俺もあいつに捨てられたんだ。くだらないバレエも今日でおしまいだ。さっさと帰るぞ』
そう言って父親は、ナツキの手を無理矢理引いた。
その父親は今の優しい父親とは全く違う。でも自分の父親なのだとナツキは知っている。
ナツキの生活は、それから一変した。
『一体何をやってたんだ。男と遊んでいたのか』
父親が仕事から帰ってきた時に、ナツキが食事の準備や掃除が終わらせてないと、ひどく怒られるようになった。違うと言っても聞いてくれなかった。ナツキは今まで踊ることばかりで、家事をしたことがなかった。だから、学校から帰った後に買い出しや料理をしていたら間に合わなかっただけ。でも、母親に捨てられ、ひどく傷付いた父親にそんな娘を慮る余裕はなく、そのうち父親もあまり家に帰って来なくなった。中学生になったばかりのナツキを、ひとり家に残して。
後から聞いた話だが、母親はバレエ教室の若い男のスタッフと駆け落ちしたらしい。ナツキをバレエに熱心に通わせたのも、その男に近付く為だったそうだ。
「驚かせてごめん。俺、奈津川さんに、どうしても言いたいことがあって」
聞こえてきた声が、果たしても誰のものか、ナツキにはもうわからなくなっていた。
ナツキは無意識に一歩下がる。
聞いてどうする。それを聞いたら、ナツキは不幸になるかもしれない。彫刻もできなくなり、またひどく怒られる日々が続くかもしれない。そして最後、ナツキはひとりで苦しんで、床に、溶けて。
恐怖が蘇り、ナツキの体が小刻みに震え出す。
まだ間に合う。これ以上聞いてはいけない。逃げなければ。逃げなければ。
じゃないと、またナツキは不幸になる。
「待って!」
気付けば、ナツキは彼から逃げるように駆け出していた。
すぐ後ろから誰かが追いかけてくる音がする。
怖い。怖い。怖いものが追ってくる。
ナツキを不幸にするために。夢のように、ナツキを正しく不幸にするために。
ずっと思っていた。この世界は平和すぎると。親も同級生もみんな優しくて、出来過ぎている。
だから多分、あの夢の中がきっと現実なのだろう。
こんな都合のいい夢を見るな、いい加減目を覚ませと、あの夢がナツキを追ってきているのだ。
「奈津川さん!」
時間も遅いせいか、道には人がいなかった。とはいえ、周りは住宅街だ。助けて、と叫べば誰か出てきてくれるかもしれない。だが、今のナツキにそんな余裕はなかった。
逃げなければ。その思いだけがナツキを突き動かしていた。
足音が、後ろから追いかけてくる。
走っても走っても、後ろの足音は止まらない。
その時、再び覚えのない記憶が蘇る。
ナツキは走っていた。今のように制服を着ていて、あたりには誰もいなくて。
後ろから追ってきているのは若い男だった。黒い服を着ていて、中学から一人で帰るナツキの前に現れて突然腕を掴んだ。近所で不審者が出ているから気を付けろと、学校で言われていたのを瞬時に思い出し、反射的に通学カバンを相手の顔にぶつける。その隙に逃げたけれども、怒った男が追いかけてきた。
怖くて声も出ない。助けを呼ぶこともできない。
とにかく早く家に帰りたかった。家に帰って鍵をかければ安全だと思った。
記憶の中のナツキは必死に走って、誰もいない家に飛び込んだ。震える手で鍵をかけ、それでも恐怖がおさまらず、自分の部屋に鍵をかけて閉じこもろうと、慌てて階段を駆け上がった。
そうだ、その時だ。その時、足を滑らせて、ナツキは。
「……奈津川さん?」
知っている声に誘われるように、ナツキの意識が今に戻ってくる。
気付けばナツキは、見覚えのある部屋の前に立っていた。
声をかけてきたのは、佐藤チトセだった。
いつの間にここまで走ってきたのだろう。全く覚えていない。
チトセはいつもの制服姿で。扉を開けた状態のまま、自分の部屋の前にいるナツキを不思議そうな顔で見ている。
「たすけて!」
ナツキは咄嗟に叫び、彼女の胸に飛び込んだ。
2人の体が玄関に倒れ込む。
その後ろで、重い扉が閉まる音がした。

玄関の中は、いつかのように暗く、蒸し暑かった。
鍵をかけなければ。でないと、怖いものが入ってくる。
はたと気付いたナツキは、鍵をかけようと慌てて体を起こした。
「……あれ?」
そこでふと、そばに佐藤チトセの気配がないことに気付いた。
ナツキは彼女の体に飛び込むようにして部屋に入ってきた。だから、彼女がここにいないはずはない。
一体、どこに行ったのだろう。
ナツキは扉から目を離し、恐る恐る視線を部屋の中に向ける。
そこにあるのは漆黒だった。一切の光のない闇。
ナツキは暗く、蒸し暑い家の中にひとりでいた。それは、夢の中の光景にひどく似ていて。
恐怖で、ひゅ、と喉の奥から息が漏れる。
これは夢だ。きっと走り過ぎて酸欠になり、あのまま倒れてしまったのだ。それで、おかしな夢を見ているのだろう。
必死にそう自分に言い聞かせながら、ナツキは額の汗を拭おうと右手を持ちあげた。
べちゃ。
嫌な音がした後、不快な匂いが鼻についた。
暗くて見えないはずなのに、それが何かわかった。
ナツキの右腕が、腐って落ちたのだ。
思わず、音の方に目をやる。
腕は暑さでぐじゅぐじゅに溶けていた。皮は醜く破れて、腕の形を留めることもできていない。暗闇の中で、剥き出しになった骨が、異様に白く光っていた。
ナツキは叫んだ。腹の底から。叫んだはずだった。
だけど声が出ているのかはわからない。だって、腐っているのは右手だけではない。制服から伸びる左手も、両足も、ナツキが声を上げるたび、みるみるうちに崩れていく。
顔からもぼたぼたと液体が垂れてくる。涙じゃない。それも混ざっているかもしれないが、大体は耐え難い匂いを放つ不快なもの。
床に落ちた自分の体だったものから逃げようと体を捻る。だけど、胴体が腐り落ちた今、体を起こしていることなどできず、ナツキはそのままべしゃりと床に倒れこんだ。
体が動かない。見えるのは暗い天井だけ。夢で見たものと同じだ。
だからこれもきっと夢なのだ。そうじゃないと、おかしい。こんなひどいこと、現実で起こるわけがない。
ナツキは何度も自分に言い聞かせる。
「奈津川さん!」
遠くで誰かが呼んでいる。
これが誰の声であったか、ナツキはもうよくわからない。
ずっと求めていた母親の声でもない。ナツキに押し付けるだけ押し付けて、碌に帰って来なくなった父親のものでも。疎遠になった友達の声でもない。
こんな声の知り合いはいただろうか。
顔の横に耳がぼたりと落ちる。音がさらに遠くなった。
「奈津川さん、しっかりして!ここは夢の中じゃない!」
ここが夢の中じゃないとしたら、これが現実だというのだろうか。
不審者に追いかけられ、逃げ帰ってきて、家の階段から落ちて動けなくなり、そのまま誰にも見つけられず腐り落ちていく。そんなひどいことが現実だとでもいうのだろうか。
「ちゃんと見て!奈津川さん!」
誰かが肩を強く掴んだ。
そんなに掴んだら体が崩れてしまう。どろどろの肉に指が食いこみ、ナツキの体をさらに崩れさせていく。
ふと、何かが頭に触れたような気がした。
「奈津川さん!思い出しちゃ駄目!今思い出したこと、全部忘れて!今すぐに!」
稲妻のような声が暗闇を切り裂いた。
その瞬間、腐った肉の匂いも、ぼろぼろになった体も、何もかもがかき消されていく。
真っ白な空間に、突然放り出されたような感覚。
それと同時に、ナツキの意識がふわりと遠のいた。
『実はね、先生は超能力者なの』
不意に、高橋の言葉が頭に浮かんだ。
『もし何かあっても、先生が超能力で記憶を消してあげる』
そうか、この子も超能力者だったのか。
そんなことを思いながら、ナツキの意識は泡のように消えた。
そして。

「奈津川さん!」
呼びかけられて、パチリと目を開ける。
明るい天井が見える。
一瞬自分がどこにいるのかわからなくなり、慌てて体を起こして辺りを見回す。
そこでナツキは自分が見慣れない玄関に座り込んでいることに気付いた。
「だ、大丈夫……?」
すぐ横には、チトセが泣きそうな顔でこちらを見ている。
一体自分はここで何をしているのか。
きょとんと目を瞬かせていると、彼女がおどおどと説明してくれた。
チトセがいつものように外に出ようとした時、部屋の前にひどく怯えた表情のナツキが立っていた。声をかけたら突然ナツキが飛び込んできて、一緒に玄関の倒れ込んでしまったらしい。
その時、咄嗟にナツキの体を支えようとしたがうまくいかず、勢い余ってナツキは玄関の壁に頭を打ちつけてしまい、数秒ほど意識を失っていたそうだ。
そう説明されて、ようやくナツキは、秋田アキヒコに追われて、ここまで走ってきたことを思い出した。
そういえば、どうしてあの時はあんなに焦っていたのだろう。
今となっては遠い昔のようで、あまりうまく思い出せない。頭をぶつけた影響で、少し記憶が飛んだのだろうか。
とにかく、突然押しかけ、挙句勝手に倒れてしまったことを彼女に詫びると、彼女は慌てて首を横に振った。
「ぼ、僕も受け止めきれなくてごめん……。頭痛くない?大丈夫?」
「うん、平気。たんこぶとかもできていないみたい」
そう答えれば、彼女はよかった、と安堵したように笑った。
「それで、何かあったの?」
「あー、うん。実は……」
ナツキはのろのろと立ちあがり、美術室であったことを説明した。
片思い相手が一緒に帰ろうと誘ってくれて、少し期待してしまったこと。だけど、それは全部ナツキから話を聞き出すためのものだったこと。
「全部、私の勘違いだったんだよね。美術室に来てたのも、人に言われて、私から話を聞き出そうとしてただけだし。それがわかって、私、なんかすごく恥ずかしくなっちゃって。誤魔化すために彼にもうここに来ないでって言っちゃった。……せっかく仲良くなれるかもしれなかったのに、自分から突き放しちゃった」
それでも彼はナツキと話そうとしてくれた。だから、門のところで待っていたのだろう。でも、ナツキはその時、恐怖に駆られて逃げてしまった。
一体、自分は何に怯えていたのだろう。今となってはよくわからない。
「……突然押しかけて本当ごめんね。帰る」
「あっ」
気まずくなって、部屋から出ようとした時、チトセが呼び止めるように声を上げた。
振り向くと、彼女は迷ったように視線を左右にさまよわせ、ひどく申し訳なさそうに口を開いた。
「あの、僕が言うことじゃないけど、謝りたいのなら、早いうちにやったほうがいいと思う。それができるうちに」
そう、彼女は言った。
それは彼女が言うからこそ重みのある言葉で。
「僕でよければ、いつでも話を聞くから。奈津川さんが僕の話を聞いてくれたように、いくらでも話を聞くから、だから」
どうか自分の気持ちを諦めないで、と彼女は震える声で言った。
「……なんで、そっちが泣きそうになってんのよ」
ナツキは思わず笑ってしまった。
笑った勢いで、目尻からぽろりと涙が溢れる。
それを誤魔化すように、ナツキはさらに笑った。笑って出た涙だと言うかのように。
笑って、笑って、笑って。
堪えきれず、ナツキは両手で顔を覆った。
「……話、聞いてくれる?」
「うん」
チトセの声に嘘はなかった。
「どんなみっともない話でも、聞いてくれる?」
「もちろん。僕の方が、みっともない話いっぱいしてるよ」
「……そんなことない」
ナツキは顔を覆ったまま、答えた。
「あんたの気持ちは、いつもまっすぐで綺麗だったよ。私も、あんたみたいになりたいと思ってた」
今からでも間に合うかな、とナツキはチトセに尋ねた。
もちろん、と彼女は笑って答えた。彼女はいつもまっすぐで、絶対に嘘は言わない。だから、きっとそうなのだろう。ナツキは素直にその言葉を信じることができた。
「大丈夫だよ。きっと大丈夫」
優しい彼女の言葉が、ナツキの背中をそっと押した。


チトセの部屋を出て、ナツキは夜の道を進む。
大嫌いな生暖かい風が身体中にまとわりついていたが、不思議と心は落ち着いていた。
今日は本当にいろいろなことがあった。
彼と話して、彼の嬉しそうな顔を見て、彼に一緒に帰ろうと誘われて舞い上がって、そして聞きたくないことを聞いて悲しくなった。それで彼の話も聞かずに逃げ出した。
こう見ると、自分は本当に馬鹿だなと思う。勝手に期待して勝手に落ち込んで、それに彼を付き合わせて。
多分、ナツキが謝るべきなのだろう。突然怒ってごめん、と。その一言さえ彼に言えたら、もしかしたら、もう一度やり直せるかもしれない。
でも、本当にそうだろうか。いくら優しい彼でも、ナツキに呆れたんじゃないか。
臆病な自分が、そう囁く。
だったらもう、そんな面倒なこと放っておけばいい。別にもういいじゃん。言ったところで彼がナツキのことを好きになってくれるわけじゃない。
そう逃げようとする心を、優しいチトセの声が否定する。
大丈夫、きっと大丈夫。
心の中でそう呟きながら、ナツキは大通りを渡り、田んぼの横の道を抜け、コンビニの前を通る。
その時だ。
「あれ、奈津川じゃん」
いつかのように、聞き慣れた声がした。
顔を上げると、白い袋を持ってコンビニから出てくる鈴木がいた。そしてその後ろには。
「……秋田くん」
思わず、ナツキの口からその名が溢れた。
彼はナツキの顔を見た途端、ぴたりと足を止め、気まずそうにその顔を伏せた。
謝ろうと意気込んでいたナツキも、突然のことになんと言っていいかわからずに押し黙る。
その間で、なんの状況もわかっていない鈴木が、おかしな雰囲気の2人に眉を顰めた。
「お前ら、どうしたんだ?」
鈴木の問いに、ナツキも彼も答えなかった。
その態度が何かあったことを物語っているのだが、冗談で誤魔化せるほどまだ傷は癒えていない。
何か言わなくては鈴木が変に思うだろう。だけど、そもそもの発端は、鈴木が彼を使ってナツキからチトセのことを聞き出そうとしたことだ。
それを今この場で詰めてもいいのだが、流石に彼の前ではやりにくかった。
一向に口を開こうとしない2人に、鈴木が小さく息を吐いた。
「あのさ、何があったか知らねぇけど、今日あったことは今日のうちに始末つけといた方がいいぞ。先延ばしにしても、いいことなんか何もねぇし」
言えるうちに言っておいた方がいい、と鈴木がぼそりと付け足す。
それは奇しくもチトセが言ったことと似ていて。
そう言えば、高橋にもどうか悔いのないように、と言われたのだった。
みんな同じことを言うのだな、とナツキはなんだか笑い出したい気分になった。みんな、まるで明日にでもナツキが死ぬと思っているようで。
それとも、鈴木も高橋も、チトセのように何かを喪って後悔したことでもあるのだろうか。それで、同じ間違いを起こそうとしているナツキに忠告しているのかもしれない。
そう思うと、ナツキの悩みなどひどく贅沢なものに思えてきた。
確かに、彼らの言うように、こういうのは早い方がいいのだろう。もういい。さっさと終わらせて帰ろう。後のことなんて知るもんか。何があっても、優しいあの子はちゃんと聞いてくれる。
だから、大丈夫。
腹を決めたナツキは、鈴木の後ろに立っている彼に向かって、深く頭を下げた。
「さっきはごめんなさい」
そう謝れば、頭の上で、奈津川さん!と彼が慌てたような声を上げるのが聞こえた。
「せっかく誘ってくれのに、あの時はちょっと色々あって苛ついてて。逃げたのも、失礼だったと思う。本当にごめん」
「……俺の方こそ、ごめん」
沈んだような彼の声が降ってきて、ナツキは恐る恐る顔を上げる。
そこには何かを堪えるように唇を噛み締めた彼がいた。
ぱちりと目が合った後、彼はゆっくりと頭を下げた。
「追いかけて、ごめん。どうしても話を聞いてほしかったんだ。怖がらせてごめんなさい。ゴロウからも怒られた。……本当にごめん」
当の鈴木は、少し離れたところでスマホをいじっていた。こんな状況になってしまって、帰るに帰れなくなったのかもしれない。
「ただの好奇心で、奈津川さんに探りを入れてるって思われたくなかったんだ。嫌われてもいいから、そこだけは誤解を解きたくて、奈津川さんの気持ちも考えずに、追いかけてしまった」
「……誤解って?」
尋ねると、彼がゆっくりと顔を上げた。
「ゴロウに言われて、奈津川さんから話を聞き出そうとしたのは本当。だけど、それだけじゃないって言いたかった」
コンビニから漏れる明かりが、彼の顔を照らしている。
真剣な眼差しが、真っ直ぐにナツキを見ていた。
その迫力に、ナツキは思わずごくりと唾を飲む。
すると、彼の表情が不意に緩んだ。
「奈津川さんってさ、その幽霊の子と結構仲良くなったんだね」
「……仲良くっていうか、私が勝手に話しかけてるだけだけど」
質問の意図がわからず、戸惑いながらナツキは答えた。
そうなんだ、と彼は眉を下げて笑った。笑っている顔なのに、どこか寂しそうにも見えた。
「なんか珍しいね。奈津川さん、特定の誰かとあまり仲良くしないから」
「……それ、友達いないって言ってる?」
「違う違う、そうじゃなくて。……羨ましいなぁって」
彼の口から漏れたどろりとした感情に、ナツキは思わず目を瞬かせた。
彼は構わず続ける。
「あの子と、いつもどんな話してたの?」
「……あの子の恋愛の話かな」
そうなんだ、と彼が目を輝かせた。
その表情はいつもの彼のもので。さっきのは気のせいだったのかと、ナツキは密かに胸を撫で下ろした。
「それって奈津川さんも話したの?いいなぁ。俺も奈津川さんの恋愛話聞きたい!奈津川さんって、どんな人がが好み?」
「えっ、いや、好みとかないよ」
そもそも片想いしている本人にそんなこと言えるわけがない。
ナツキは誤魔化すように笑って、顔の前で手を振った。
「じゃあさ、当てていい?」
「当てるって?」
「奈津川さんのタイプ。奈津川さんさぁ」
俺みたいな誰にでも良い顔してる奴、好きじゃないでしょ。
彼は無邪気に笑ったまま、そんなことを言った。
「変なこと言ってごめん。でも、そうでしょ?こんな俺は奈津川さんの好みじゃないってわかってた。でも、こんな俺じゃないと、奈津川さんに話しかけることもできなかった」
そんなことない、とナツキは言おうとした。現に、ナツキは彼に恋をした。だけど、彼の雰囲気に飲まれてしまい、その言葉は喉の奥で止まってしまった。
「それでも、俺は奈津川さんと話したかった。俺、奈津川さんの彫刻見て、すごい好きだって思ったんだ。これを作った人はどんな人なんだろうって気になった。委員会で話してみると、俺なんかと違って大人で、しっかりしててかっこいいんだけど、照れたりするとすごく幼くなって可愛くて。そんな奈津川さんのこと、もっともっと知りたいって思ったんだ」
だけど、と彼の声が弱まる。
「奈津川さん、いくら話しかけても全然で、ファンだって言っても警戒解いてくれないし。もっと仲良くなりたいけど、クラスも違うし、委員会も変わってしまって、話すきっかけがどんどん減っちゃって。どうしていいかわからなくて悩んでたら、ゴロウから奈津川さんが幽霊と仲良くしてる話を聞いたんだ。……すごく羨ましかった。なんで俺じゃないんだろうって思った。頑張って明るくなったのに、どうしてって」
そこで彼は力無く笑った。
「俺さ、ずっと明るくなりたいって思ってたんだ。子供の頃からよく見る夢があって、その夢の中の俺は、いわゆる引きこもりだった。角部屋のベッドの上。誰もいない家の2階の部屋で、ずっと蹲ってた。外から聞こえてくる同い年くらいの子どもの声が全部気持ち悪くて、いつもイヤホンをつけてた。外で普通に過ごせている子達が羨ましくて妬ましくて大嫌いだった。なんでみんな普通にできているのかわからなかった。でも、ある時、隣の家の子が死んじゃって。僕はずっと家にいたのに気付けなくて、ただでさえ混乱してたのに、お前が何かやったんじゃないかって、みんなから疑われて」
はくり、と彼が喘ぐように息を吐いた。
「……普通じゃないから、なすりつけられた。普通じゃないと、簡単にみんな疑ってくる。僕がもっと明るかったら、絶対そんなことはなかったのに。だから、次は絶対明るくなろうと思った。僕が明るかったら、あの子だって、何かのタイミングで仲良くなれて、助けられたかもしれない。一緒に遊べたかもしれない。だから、明るくなったのに。そうしたら全部うまくいくって思ってたのに」
全然だったなぁ、と彼は口の端を歪めた。
「……さっき、追いかけて本当にごめん。怖がらせるつもりはなかったんだ。ただ、あのまま奈津川さんに嫌われたくなかった。ゴロウから美術室に入る口実をもらったのに、いくら話しても全然奈津川さんと距離が縮まってる気がしなくて、この間にも幽霊の子とどんどん仲良くなってるのかと思うと焦ってきて。このままだと、幽霊の子に奈津川さん、とられちゃうんじゃないかって」
「だ、大丈夫だって」
彼を落ち着かせるように、ナツキは笑って大袈裟に言った。
彼が何をそんなに気にしているのかよくわからなかったが、おそらく、彼に対するナツキの態度が良くなかったのだろう。
もともとナツキは素直な方ではないし、自分の好意が漏れるのが嫌だったから、彼に対してそっけない態度をとっていた。
それが彼の何かに引っかかってしまったのかもしれない。
「秋田くんを嫌う子なんて、あの学校にいないよ。私もそうだよ」
嫌うなんてありえない。事実、ナツキはずっと彼のことが好きだったのだ。
「本当に?」
「本当。すごく優しい人だなって思ってるよ」
そう告げると、彼の顔が悲しげにぐにゃりと歪んだ。
「そうじゃない。そんなみんなが言うような言葉がほしいんじゃなくて、俺はあの子みたいに、奈津川さんの特別になりたかった」
「……秋田くんも特別だよ」
「嘘だ」
「嘘じゃないって」
本当だよ、とナツキは言う。
だって、それ以外言いようがない。本当に好きだった。憧れていた。それ以上、どう言えばいいかわからない。
「そっちこそ」
気付いたらナツキは言い返した。
「秋田くんにそっけない私が珍しくて、気なってるだけでしょ」
「違う」
「違わない」
「違うよ。そんなんじゃない」
「じゃあ、なんで私のことは名前で呼ばなかったの」
ずっとナツキが気にしていたこと。自分だけ名前で呼ばれなかったこと。
一度でも話したことのある子のことを、彼は必ず名前で呼んだ。同じ委員会になって、それなりに話をしたはずのナツキ以外は。
確かにナツキは彼に対してそっけない態度をとっていたかもしれないが、彼だって、ナツキを弾いていた。他の子と同じように扱ってくれなかった。
「それは」
彼が迷うように口を開いた。
「……気にしてくれるかなって」
言っている意味が分からず、ナツキは首を傾げる。
彼はうっすらと頬を赤くして、気まずそうに目線をそらした。
「女々しいからあんまり言いたくないんだけど、だって、俺だけ奈津川さんのこと気にしてるとかすごく嫌で、奈津川さんにも俺のこと気にしてほしくて。だから意地でも名前で呼ばなかった。……呼びたかったけど」
「いや、名前くらい好きに呼んだらいいじゃん」
「嫌だよ。だって」
俺ばっかり好きみたいで。
恥ずかしそうにぽつりと付け足した彼に、ナツキは言葉を失ってしまった。
「待って、特別ってそういうこと?そういう意味なの?冗談じゃなくて?」
「本当だよ。俺は、ずっと奈津川さんが好きだったんだ。幽霊の子みたいに俺とも話してほしかったし、バレンタインにチョコだって欲しかった。バレンタインの日、ちょっと期待して奈津川さんのクラスに行ったし」
「いや、だって、秋田くん、あの日、チョコいっぱいもらってたじゃん」
ナツキは覚えている。チョコが沢山つまった袋を持って、ナツキのクラスの来ていた彼のことを。
「もらったチョコの自慢してんだなぁと思ってた」
「違うよ、ああやっていけば、あのタイミングでチョコくれる子もいるから、奈津川さんも勢いで来てくれるかなって思ったのに」
「いや行けるわけないよ、そんなノリで本命には渡せるわけない」
ナツキだってあの日、きちんとチョコレートを用意していたのだ。委員会が一緒だったし、おせになったお礼だという建前もあったから、渡せるかと思った。でも、あまりに多くもらっている彼を見て、ナツキは怯んでしまった。
「……じゃあ、今年はちょうだい。ちゃんと一人で受け取るから」
「2月とか受験で一番忙しい時だよ」
「じゃあ今度、俺の誕生日あるから、その時に」
「バレンタインにしては随分と早くない?」
「じゃあ誕生日プレゼントでもいい。なんでもいい。だって、ずっと好きだった。委員会で仕事引き受けて、頼りになるって思われたかった。奈津川さんと話したくて、わざとゴロウに教科書借りにいったりもした。少しでも奈津川さんの視界に入りたかった。奈津川さんの特別になりたかった。特別にしてほしかった。だから、いつのまにか奈津川さんの特別になってたあの子が、ひどく羨ましかった。事情も知らずに、一方的に妬んでた」
ぽろりと彼が言葉をこぼした。
「ずっと好きだった。奈津川さんに俺のことを好きになってもらいたかった。奈津川さんの特別に、なりたかった」
そう言って泣きそうに顔を歪める彼を、ナツキは呆然と眺めるしかできなかった。
ナツキの頭は盛大に混乱していた。
まさか突然告白されるだなんて誰が予想しただろう。
いや、彼に告白される妄想をしたことがないと言ったら嘘になる。好きになった日から、ちょっとくらいは考えた。でも、それはこんなんじゃなかった。もっと自分には余裕があって、彼もいつも通りにこにこしていて。
顔が熱い。おそらくナツキの顔は真っ赤になっているだろう。
夜でよかった。こんな顔、彼に見られたくない。
でも、どうしたらいい。これからナツキは何を言ったらいい。
頭の中がぐるぐるしている。何も言葉が浮かばない。でも、何か言わなくてはいけない。でも何を。何を言えばいい。一体何を。
「奈津川さん」
彼がナツキの名前を呼ぶ。
その声の奥に込められた熱が、ナツキにはわかってしまった。
彼が答えを待っている。ならばナツキは応えなくてはいけない。
大丈夫。
頭の中で、あの子が優しく笑った。
「私も」
気付いたら、言葉がぽろりと口から飛び出していた。
「明るいからとかじゃなくて、困ってた私を助けてくれた、優しい秋田くんが好き」
ずっと好きだった。
そう言うと、彼が大きく目を見開いた後、泣きそうな顔で笑った。



「こんな時間に学校に行っていいの?」
不安そうな声を出すチトセに、ナツキは大丈夫、と声をかける。

ナツキが告白したあの夜から、あっという間に1週間が経った。
あの後すぐ、チトセに好きだった相手と付き合うことになったと伝えれば、彼女はこぼれ落ちそうなほど目を大きく開いて驚き、そして泣きそうな顔で喜んでくれた。
正直、こういうことを彼女に伝えていいのかはすごく悩んだ。だけど、彼女の家に押しかけて気を失うという迷惑までかけてしまったのだから、最低限の報告はしておいた方がいいだろうと思ったのだ。
それからナツキはなんだかんだ慌ただしく、そのせいか、今日までチトセに会えていなかった。
だから、彼女と話すのは随分と久しぶりだった。
「本当に勝手に学校に入っていいの?もう最終下校時刻を過ぎちゃったんじゃ……」
いつもよりも早く学校を出て、ようやく会えたチトセに今から学校に行こうと声をかけたのはナツキだった。彼女はついて来てくれるものの、その目はずっと不安そうに揺れていた。
「大丈夫。高橋先生が鍵開けて待っててくれるって」
「高橋先生が?」
ナツキがこれを思いついた時、駄目もとで高橋に話を持っていったら、大丈夫、と快く許可をくれた。あの噂から一方的に高橋に対して敵意を持っていたナツキだったが、その寛大な対応に少しだけ見る目を変えたのは秘密だ。
「というか、チトセって鈴木と知り合いだったんだね」
そう言うと、チトセは気まずそうな顔をして黙り込んだ。
ナツキの告白が終わった後、帰るタイミングを失い、離れたところで話が終わるのを待っていた鈴木に、どうしてチトセのことを探ろうとしていたのか聞いたのだ。すると鈴木はこう言った。
『実は、あいつのことは前から知ってたからな。急に塞ぎ込んで学校に来なくなったから気になって。でも、あいつ、俺が話を聞こうとすると、ごめんなさいしか言わなくなるんだよ。だから、俺じゃない奴から聞き出した方がいいなって』
だから、仲良くしていたナツキから情報を得ようとした。でも、直接ナツキに聞くと、何故仲がいいことを知っているのかと警戒されそうだから、ナツキが好意を持っている相手に頼んだ、ということらしい。
つまり。ナツキの恋心は鈴木にはお見通しだったようだ。
「ごめんなさい……、鈴木くんのこと、言ってなくて」
「いや、チトセが謝ることじゃないよ。というか、同じ学年だし。どっかで繋がってはいるでしょ」
言いながら、ナツキはチトセを先導するように前を歩く。
いつもは隣に並んでいるのだが、今はなんとなく、自分の顔を見せたくなかった。
それは、これから彼女が言う話を知っているから。
「あの、じゃあ、鈴木くんから聞いてるかもしれないけど、僕」
2学期から、別のところの行くことになって。
きらめく街灯の下、彼女の言葉が浮かんで消えた。
「知ってる」
振り返らずにナツキは答える。
ナツキがそれを聞いたのは、告白した日の夜。鈴木が言っていたのだ。
本人はまだ知らないから、という前置きで、ナツキにそのことが伝えられた。
何故チトセ本人が知らないことを鈴木が知っているのか、という疑問もあったが、顔の広い鈴木のことだ、きっとどこかから聞いたのだろう。
チトセの引越しについては、ナツキもどこかでそうした方がいいんじゃないかと思っていた。ここにいたら、彼女はずっと恋人の影に囚われることになる。だから、心機一転、新しい場所に行くのはいいだろう。
だけど。
学校の明かりが見えてきた。教室は全て真っ暗なだが、玄関だけはナツキ達を待っているかのように煌々と明かりが灯っていた。
「こっち」
それだけ声をかけて、ナツキは玄関に入る。
高橋の姿はない。もしかしたら気を利かせて、どこかに隠れているのかもしれない。
夜の学校は静かだった。最終下校時刻もとっくに過ぎているため、人の気配はない。
ただ、ナツキのために付けられているであろう廊下の明かりが、2人の到着を待っていてくれていた。
ナツキは靴を脱いで、上履きに履き替える。チトセには用意してあった来客用のスリッパを出した。
申し訳なさそうにそれに足を入れるチトセを確認して、ナツキは歩き出す。
目的地は、美術室だ。
「あんたが引っ越すって聞いてから、ちょっと色々考えちゃって」
ぱたぱた。パタンパタン。
誰もいない廊下に2人の足音が響く。
「正直なところ、私、自分の恋が叶うなんて思ってなかった。相手が相手だったし、ずっと諦めながら恋してた。恋バナするような相手もいなかったし、ずっと心の中で気持ちをぐるぐるこねくり回しているだけだった。……だから、チトセがいて、話を聞いてもらえたの、すごく嬉しかった。話を聞いてくれるって言ってくれたのも。あんたがいなかったら、私は今もずっと彼に何も言えずにいたかもしれない。だから、そんなあんたに、私も何か返したいって思った」
本当は彼女がいなくなることが寂しい。でも、もう子どもじゃないのだから、わがままなんか言えない。ここから離れるのは、彼女のためなのだ。
だからこそ。だからこそ、彼女に何かをしたいと思った。
遠くにいっても、絶対にナツキを忘れない何かを、彼女に渡したかった。
そんなこと、と小さな声が後ろから返ってくる。
「話を聞いてもらってたのは僕の方だよ。僕はずっと泣いてただけで……。奈津川さんにお礼を言われるようなこと、何もしてない」
「してたんだよ。あの日だって、パニック起こして突然押しかけた私を、あんたは受け入れてくれたじゃん」
「あれは……」
チトセはそう言ったっきり、再び黙ってしまった。
ナツキは足を止めずに振り返る。
困ったような顔でチトセがこちらを見ていた。
「なんでもいいよ。私があんたのおかげで助かったって思ってるんだから、それでいいの。それで、私が勝手に何かをあんたに返したいと思っただけ。……ほら、ここ。入って」
見せたいものがあるの。
そう言って、ナツキは美術室の扉を開ける。
中はまだ明かりが灯っていた。
綺麗に片づけられた机の中、いつもナツキが座っていた机に、ひとつの粘土彫刻が置かれていた。
この1週間、ナツキがいつものバレリーナの彫刻を放り出してまで、ずっと作り続けていたもの。
それに気付いたチトセがふらりと机に一歩近づく。
「たいしたものじゃないの。私が作りたくて作っただけ。本当は家に持ってこうかと思ったけど、こんなの突然持ってこられたら嫌かと思って」
黒い台座の上に立っていたのは、白い粘土で作られたお団子頭の少女だ。デフォルメされた制服を着て、隣に立つ人物と手を繋いでいる。ただもう1人の人物は少女に比べて作り込まれておらず、同い年くらいの人物、としかわからない。だけど、2人とも楽しそうに笑っている。
「あんたと晴野さんを作ろうと思ったの」
チトセは、『晴野さん』がみんなから忘れられていく、と嘆いていた。それを聞き続けていたナツキは、だったら忘れても思い出せるように何か物があればいいと思った。と言っても、ナツキはその晴野という人物の顔を知らない。だからきちんと表現できたのはチトセだけだった。想像で勝手に作ってもよかったのだが、それだとチトセにこんなの晴野さんじゃない、と言われるかもしれなかったから、あえて作り込まなかった。
いつもナツキは自分のために彫刻を作っていた。
だから、こうして誰かのために作ったのは初めてのことだった。
「晴野さん……」
チトセはぽつりと呟いて、その彫刻に近寄った。
「やっぱり、晴野さんの顔もちゃんと作った方がいい?でも、想像で作っても変になりそうで……」
「ううん。これがいい。これが……」
どこかぼんやりとした口調。その目はナツキが作った粘土の少女に釘付けになっている。
不意に、その目の淵から、ぽろりと涙が溢れた。
「嬉しい。すごく嬉しい。晴野さん、晴野さん」
そう言って、彼女はぽろぽろと涙をこぼした。
「晴野さんのこと、みんな忘れちゃって、写真も、物も何もかもがなくなって、晴野さんの存在自体がこの世界消えてしまって、すごく悲しかった。だから、この世界に晴野さんを残すには、自分が晴野さんになるしかないって思ってた。でも晴野さんがいる。ここに、晴野さんが……」
彼女の目から次から次に涙が溢れていく。
だけど今までの彼女の泣き顔とは違い、その表情はどこか晴れやかだった。
濡れた目が、ナツキを見て、柔らかな弧を描いた。
「ありがとう、奈津川さん。晴野さんなんて知らないって、否定しないでくれて。ありがとう、僕の言葉を信じてくれて。晴野さんがいたって、認めてくれてありがとう。たくさん、僕の話を聞いてくれてありがとう。笑わずにいてくれて、ありがとう」
ぐす、と彼女が鼻をすすった。
ナツキの鼻の奥も、つられてツンとした気がした。
「僕、頑張る。泣いてばかりで何もできなかったけど、この小さな晴野さんの前でかっこ悪いこと出来ないから。頑張る。頑張るよ。晴野さんとの約束を果たせるように」
幸せそうな笑みを浮かべながら、彼女は涙を流す。
その顔が一瞬、見知らぬ男の子のものに見えたような気がした。
高橋トオコが、傷付いた魂達の世話をするために作られてから、もうすぐ2年になる。
同じ時期に作られた同僚達は、あっという間にこの世界に溶け込み、友人として、あるいは恋人として、この世界で人として生きる魂達に寄り添っている。中には、魂の傷を癒し、天に還したものもいると言う。
だが、トオコは未だに魂の傷を癒すどころか、親しい人間ひとり作ることができずにいた。
『見た目は悪くないのに、なんでだろうなぁ』
同じ学校にいる上司は、トオコの相談に首を傾げた。
『まぁ、そんな焦ることはねぇよ。まだ2年だろ?そのうちできる』
上司はそう慰めてくれたが、トオコはなにも成せない自分が情けなくて仕方がなかった。
そのうちっていつだろう。
そのうちじゃなくても、他のみんなはできているのに、どうして自分だけできないのだろう。
トオコはそっと唇噛み締める。
一応、自分なりに頑張ってはいるのだ。
司書教諭として生徒に積極的に関わり、図書室に来る生徒には、何か悩みがあるなら聞くと言った。
でも、うまくいかなかった。みんな、わざわざ先生に言うようなことじゃないから、と遠慮して去っていく。
そんなことない。先生はみんなの役に立ちたいの。
トオコはそう言ったが、言えば言うほど生徒達は遠慮し、トオコから距離を取る。
自分はどうしてこんなにもうまくできないのだろう。どうしてこんなにも頭が悪いのだろう。
他の同僚達と性能は同じはずなのに、どうして同じことができないのだろう。
トオコは悩んだ。
なんとかしなければ。じゃないと、魂の傷を癒すという役目を果たせない。それができない自分は、いずれ上司に処分されてしまうだろう。
何もできないまま、消えるのは嫌だ。でも、具体的な解決策がわからない。
そう焦っていた時だった。
同じ学校で教師をしていた冬岡フユトに、トオコが告白されたのは。

告白されるまで、トオコは冬岡フユトに対して、特段何の感情も抱いていなかった。
職場の同僚で、25歳の男。髪は癖毛で、身長はトオコよりも頭ひとつ分くらい大きい。担当教科は地理で、2年前に新卒でこの学校に採用された。文芸部の顧問もしている。
知っていることはそれくらいで、それ以上の情報は働く上で必要ではなかった。
恋人としてのフユトの振る舞いは、完璧だった。
デートで誘われるお店はどこも有名なところで、運ばれてくる食事はどれもこれも美味しい。休みの日は、彼の運転する車で、流行りのフォトスポットや、できたばかりのショッピングセンターに連れていってくれた。あまり話すのが得意ではないトオコの代わりに、面白い話をたくさん聞かせてくれた。仕事終わりに、トオコが好きだと言っていたお菓子を、お疲れ様、とこっそり渡してくれたこともある。
彼は優しかった。いつもトオコを大事にしてくれた。
そんな扱いを受けて、嬉しくなかったと言えば嘘になる。
正直、トオコは浮かれていた。
彼が差し出してくれるものを無邪気に喜び、彼が選んでくれた店で目を輝かせて買い物をし、彼の話に笑顔で頷く。
そんな日々が続いていたある日、トオコはふと、彼が時折、何か考え込んでいることに気付いた。
彼は、トオコの前ではいつも穏やかに笑っている。それは今でもそうなのだが、たとえばレストランで、トオコが席を立って彼がひとりになった時など、ふとした瞬間に、その表情が陰るのだ。
仕事で何かあったという話は聞いていない。学校という同じ職場で働いていることもあり、何かあればトオコの耳にも情報は入ってくる。念のため同僚にも確認してみたが、特にそういう話は聞いていないと言われた。
ならば原因はなんだろう、とトオコは首を捻る。
仕事で原因でないとなると、思いつくのは私生活。となると、最近新しくできた恋人、つまりトオコが原因の可能性が高い。
最近の自分の姿を振り返る。初めてできた恋人という存在に浮かれ、トオコは彼がしてくれることに全力で甘えていた。デートの誘いもその内容も全て彼任せ。してもらうばかりで、トオコから何もしたことはない。
そこまで考えて、トオコは真っ青になった。
しまった、彼の優しさに甘え過ぎてしまっていた。
こんな態度では、彼が疲れてしまうのは当たり前だ。トオコは恋人として彼を癒すどころか、ただの負担になっている。
なんとかしなければ、とトオコは焦った。
せっかく好きと言ってもらえたのに。やっと人の役に立てると思ったのに。
このままだとトオコは役立たずのままだ。
だが、まだ2年ほどしかこの世界で生きていないトオコにとって、こういう時に何をしたら正解なのかがわからない。でも、せっかく自分を好きになってくれた人が苦しんでいるのに何もしないでいられるわけがない。
なんでもいいからできることをしようと、トオコはとりあえず、今まで彼がやってくれたことをそのまま返そうとした。
まずは彼をデートに誘おうと思った。いつも彼が決めてくれたように、行き先も内容も全部トオコが考えて、彼を楽しませるのだ。
どうせなら、彼が好きそうなところに出かけたい。
そう考えたところで、トオコははたと気付いた。
そもそも彼が何が好きなのか、トオコは知らない。
だからトオコは聞いた。
「フユトさんは何が好きなの?」
「なんでも好きだよ。ただ、泳ぐのはちょっと苦手かな」
トオコの突然問いに、彼は少し驚きながらも、いつものように優しく答えてくれた。
だが、それだけでは行き先を絞れない。もっと情報が欲しい。
トオコは、何かやりたいことはないか、と食い下がった。
すると彼はしばらく考えた後、家で2人でご飯が食べたいと言った。
たしかに、2人で食事をするときはいつも外食で、どちらかの家で何かを食べたことはなかった。
それがやりたいのなら、と、トオコは彼の家で食事を作ることに決めた。
彼は子どものようの喜んでくれた。トオコも嬉しかった。
だが、実はトオコは今まで料理をしたことがなかった。
知識として調理方法は知っているが、実際に作ったことはない。そもそもトオコ達は食べなくても生きていけるのだ。だったら、食べない方が手間は減る。
万が一、失敗したらどうしよう。
食材を買い、彼の家に向かう途中で、そんな不安がトオコの胸をよぎる。
だが、これは彼が望んだことだ。今更やめるなど、トオコ達の立場から許されるはずもなく、失敗など言語道断。初めてだろうがなんだろうが、トオコ達はできて当たり前なのだ。
それができないとなると、トオコは本当に出来損ないになるだろう。
もし、もし料理がうまく作れなかったら、さすがの彼も呆れるだろうか。料理すらできないのかと、トオコに失望するだろうか。
冷たい彼の視線を想像し、トオコの背筋が寒くなる。
そして彼の部屋の小さなキッチンで包丁を手に持った瞬間、トオコの緊張が頂点に達した。
大丈夫、大丈夫、とトオコは小刻みに震える手を見下ろしながら、自分に言い聞かせる。
野菜の洗い方も、味付けも、火加減も、全てトオコは知っている。この体だって、機能的にはなんの問題もない。普通なら、失敗などしないはずだ。
なのに、どうしても不安が拭えない。やっぱり、一度練習してくるべきだった。もっと事前に準備できることがあった。なのに、どうして自分は、今にならないとそれがわからなかったのだろう。
今更後悔してももう遅い。
こみあげてきた不安を振り払う為、ぎゅっと包丁を握る手に力を込める。
大丈夫。やれる。できるはず。いや、やるのだ。きちんとやらなくては。
性能に問題はない。だから、本来は練習も必要ないのだ。何もしなくとも、彼を喜ばせる料理を作ることができる。
だってトオコ達は、傷付いた魂達を癒すために存在している。
もしそれができないのなら、トオコがここにいる意味など。
「あ」
野菜に振り下ろしたはずの鈍色の刃が、トオコの指に食い込む。
トオコが声を上げると、隣にいた彼が包丁を素早く取り上げて、シンクに投げ入れた。
そして、じわりと血が滲んできたトオコの指を、ぎゅっと親指で圧迫した。
「大丈夫?」
焦ったような彼の声を聞きながら、トオコは呆然と傷付いた自分の指を見下ろした。
嘘。嘘だ。野菜と一緒に自分の指を切るなんて。本当に、失敗するなんて。
もし他の同僚だったら、こんな失敗は絶対にしなかった。むしろ彼を感嘆させるくらいの料理を手際良く振る舞って、彼を喜ばせていただろう。
でも、トオコはできなかった。料理ひとつ彼に作ることもできず、彼に余計な面倒をかけている。
「ごめんなさい」
震える声で、トオコは言った。
そう言うことしかできなかった。
「大丈夫。絆創膏とってくるから、自分で押さえられる?」
優しいその声に、トオコはこくりと頷いた。
彼がキッチンから出て行ったのを確認して、トオコは指の怪我を少しだけ治す。
せめてこれくらいしておかなくては。彼は優しいから、あのままだと傷が深いからと病院に連れていこうとするかもしれない。そんな手間をかけさせるわけにはいかない。見えるところの傷だけ残して、それ以外を完全に修復する。
トオコ達の体も人間のようにできているが、それは模しているだけで、中身は全くの別物だ。
皮膚を切られて血が噴き出ても、心臓の部分を抉られようとも、トオコ達は死なない。痛覚も自分で操ることもできるから、痛みで苦しむこともない。
トオコ達が死ぬのは寿命か、要らないと上司に判断され、処分される時だ。
「待たせてごめん。今貼るから」
彼が慌てた様子でキッチンに戻ってきた。トオコの前に膝をつき、絆創膏の包装紙を剥がそうとする。
だが、彼も焦っているのか、その手元がおぼつかない。粘着面を覆っていた紙を剥がすが、トオコの指に貼る前に絆創膏同士がくっついてしまった。
彼は慌てながらそれを外そうとするがうまくいかず、ごめん、と言い残し、再び絆創膏を取りにキッチンから出て行ってしまった。
「だ、大丈夫。血も止まったみたいだし、傷もそんな深く無さそうだから」
トオコはそう伝えるが、彼は再び絆創膏を手にトオコの前に戻ってきた。
彼の指は、よく見ると震えていた。もしかしてトオコの怪我で、無駄に動揺させてしまったのかもしれない。
彼は慎重に粘着面にある紙を剥がし、トオコの指に絆創膏を貼ってくれた。
少し斜めに貼られたそれをみて、トオコはもう一度、ごめんなさい、と呟いた。
すると、彼は申し訳なさそうに眉を下げた。
「いや、全然大丈夫。こっちこそ、もたついちゃってごめん」
「私の方こそ、変な怪我しちゃってごめんなさい……。本当はちゃんとできるんだけど……、ちょっと緊張しちゃって……」
トオコはもごもごと言い訳をする。
情けない。本当に情けない。料理ひとつ満足に作れないなんて。
自分達は完璧に作られているはず。能力もみんな一緒なはずなのに、どうして自分だけ上手くできないのだろう。何が間違っているのだろう。何が足りないのだろう。
呆れる上司や同僚の顔が頭をよぎる。
せっかく、せっかく役に立てると思ったのに。自分を好きだと言ってくれる人に出会えたのに。どうして自分は彼のために何もできないのだろう。
「緊張……?」
すると、彼はぽかんとしたまま、その言葉を繰り返した。
「緊張、してたの?」
どこか信じられないと言いたげな言葉だった。
それはそうだ。緊張なんて、彼に悟らせるわけにはいかない。同僚達はいつも落ち着いており、料理くらいで慌てふためいたりなんてしない。
トオコもそうなりたかった。穏やかな笑みを浮かべたまま、すごい料理を作って彼を驚かせたかなった。トオコにはそれができるはずだった。だって、トオコは同僚達と一緒なのだから。同僚ができることはトオコもできるはず。そのはずなのに。緊張など、しないはずなのに。
「緊張するよ。すごくしたよ。だって」
だって。
「だって、初めて好きって言ってもらえたの」
トオコはいつも役立たずだった。誰のためにもなれなかった。こんな自分の価値なんてあるのかを思っていた。
だけど、彼が好きと言ってくれた。彼だけがトオコを認めてくれたのだ。
だから、その人のために精一杯やりたいと思った。失敗なんてしたら嫌われてしまうかもしれない。そう思うと怖くて怖くて、心臓は大きな音を立てるし、手は勝手に震えた。
「その人のために、初めてご飯を作るの。……緊張するよ」
同僚達はきっと緊張なんかしない。そんなことでいちいち動揺したりしない。
でも、トオコは駄目だった。失敗したらと思うと落ち込んでしまうし、自分が作ったものを彼が褒めてくれるかもしれないと想像するだけで、顔は熱くなった。
つまり、浮ついていて料理自体に集中できていなかったのだろう。だから、変な緊張をして指を切ったのだ。
情けない。こんな姿、上司や同僚が見たら、呆れて言葉も出ないだろう。
やはり自分は、出来損ないなのかもしれない。
「……ずっと高橋先生は、僕が告白したから付き合ってくれてるのだと思ってた」
唐突に彼がぼそりと呟いた。
トオコは意味がわからず、え、と聞き返す。
「その、つまり、先生は僕のことは好きなんじゃなくて、僕が告白したから付き合ってくれてるとばかり……。えぇと、その」
よく見ると、彼の顔は真っ赤になっていた。気まずそうに視線をトオコから外し、さっきトオコに優しく絆創膏を貼ってくれた手は、彼の膝の上で、所在無げに握ったり開いたりを繰り返している。
彼がなぜ突然照れ出したのか、トオコにはよくわからなかった。
トオコが彼と付き合ったのは、彼から告白されたからだ。それは間違っていない。なぜなら、それが彼の望みならば、トオコは叶えなくてはいけない。
人間からの告白をトオコ達は断ってはいけない。この世界にはそんな決まりがある。
もちろん、すでに特定の相手がいる場合はその限りではないが、恋人がいないのであれば、その告白は必ず受けなくてはいけない。傷付いている魂に、さらに失恋という傷を付けないためだ。
だからこそ、トオコは彼の告白を受け入れた。
「でも、そうじゃないって思っていいのかな。高橋先生も、僕のことを好きだって思っても」
いいのかな、と、期待と不安に混ざった声が出て彼の口からこぼれ落ちる。
いいも何も、彼がそうあることを望むのなら、トオコはそうあらねばならない。それがトオコ達の役目だ。
だからここでトオコは、そうだと彼の意見を肯定しなくてはいけない。彼を喜ばせるために。
そうだよ、私もあなたが大好きなのだと、目を潤ませて答えるのが正解だ。
でも。
「わかんない」
トオコの口から出たのは、この場にあるまじき言葉だった。
「わかんない。わかんないの。あなたに好きって言ってもらえて、すごく嬉しかった。だからあなたに応えたいと思った。でも、思えば思うほど色々うまくいかなくて、今日だって料理ひとつできなかったし、あなたをお腹空かせたままで、こんなよくわからない問答に付き合わせてる」
ひくり、とトオコの喉が鳴った。
「いつもあなたにやってもらってばっかりで、私何もしてなくて、何もできなくて、こんなんだったら、あなたが私と付き合っている意味なんてあるのかなって。もっと気の利いた人が恋人の方がいいのかなって。こんな私が」
あなたを好きだなんて、そんな図々しいこと言っていいのかな。
ぽろりと、言葉と一緒に涙がこぼれ落ちた。
透明な雫がフローリングの床に落ちた一瞬の後、彼の手がトオコに伸び、その体を包み込む。
彼の胸の温度がトオコの頬に触れる。
彼と触れ合うのは、これが初めてだった。2人で出かけても、彼はトオコに指ひとつ触れることはなかった。呼び方だってずっと『高橋先生』だった。彼がそう呼びたいのなら、とトオコは訂正しなかった。
名目上は恋人ではあったけれど、2人で一緒に出かけて食事をしているだけで、それ以上恋人らしいことは、何もしていなかった。
でも、彼はトオコのことを初めて好きだと言ってくれた人だ。だからトオコは彼のためならなんでもしようと思った。だけど、何もできないまま、日に日に彼が疲れていく。
なんでもいい。彼に元気になって欲しかった。自分を好きだと言ってくれた優しいこの人を、なんとか救いたいと思った。自分が駄目だったら、他の誰でもいい。元気でいてほしい。笑っていてほしい。
だって、彼はトオコにとって特別な人だから。
彼の腕の中で鼻を啜りながら、トオコは言う。
「好きとかよくわからない。でも、あなたには傷つかないでほしい。私のことで余計な面倒をかけたくない。辛い目に遭わないでほしい。悲しい気持ちにならないで。苦しまないで。いつも笑っていて」
トオコを置いて、天に還るその時まで。
それがトオコの正直な気持ちだった。
何にもできない自分だからこそ、トオコは彼に嘘だけは吐きたくなかった。
自分が人ではないことは告げられないから、せめて、それ以外は正直でいたかった。
彼はしばらく何も言わずにトオコを抱きしめ続けた。
きつくきつく、トオコの腕に跡が残るほどの力を込め、やがてトオコの涙が落ち着いた頃、「高橋先生って、意外と子どもなんだね」と、彼は赤くなった目を細めて、ふにゃりと笑った。



それから彼は少し肩の力が抜けたようで、トオコへの接し方もだいぶ砕けたものに変わった。
呼び方も『トオコさん』に変わり、トオコも彼のことを『フユトさん』と名前で呼ぶようになった。
トオコの方は、相変わらず緊張して空回ったりすることもあった。だが、その度に彼が大丈夫と笑ってくれ、そんなことを重ねていくうちに、トオコも徐々に必要以上に緊張することが減っていった。
2人で出かける場所も変化した。
前は彼が選んでくれた場所に行ってばかりだったが、最近は2人で話し合い、2人の行きたいところに行けるようになった。
最近のお気に入りは動物園だ。トオコが行ったことないと言ったのがきっかけで、彼がよく行く動物園を紹介してくれた。
初めて見る自分よりも大きな動物に、トオコはあっという間に釘付けになった。
もちろんそれらは本物ではない。トオコ達と同じく、それらしく見せている作り物だ。
それでも情報ではない生身の迫力に、トオコはあっという間に夢中になった。
そんなトオコに、彼は動物のことをたくさん教えてくれた。
もちろん、そのほとんどのことをトオコは知っていたけど、彼が楽しそうな顔で教えてくれるので、嬉しくなって、いろんな話をせがんだ。
こんな時間がずっと続いてくれたらいいと思った。
「どうして私を好きになったの?」
ある時、大きな目でこちらを見下ろすキリンの前で、トオコは尋ねた。
彼は驚いたように目を開いた後、視線をキリンに戻し、照れ臭そうに笑った。
「トオコさんさ、去年の学校の忘年会のこと覚えてる?僕がテーブルの端に座ってて、トオコさんがその隣に座ってたの」
言われて、トオコは記憶を引っ張り出す。
今年の締めに美味しいものをみんなで食べようと校長が学校中の職員を集め、広めのお座敷で、みんなで食事を食べたのだ。長いテーブルが部屋の真ん中にどんと置かれ、その上に食べきれないほどのたくさんの料理が並べられていた。そういえばその時、隣の席は彼だったような気がする。
「あの時、すごい豪華なご飯がたくさん並んでたでしょ?その中に舟盛りがあって、すごい立派な魚の頭がのせられてた。その真っ暗な大きな目が僕のこと見てて」
駄目だった、と彼は言った。
「僕、昔から魚が怖いんだ。あの目に見られると背筋がどんどん寒くなって、いくら息を吸っても吸えなくなる。ししゃもくらいのサイズの目だったらまだ大丈夫なんだけど、鯛の大きさくらいになると体が震える。あの時の魚はそれよりももっともっと大きかったから、目があった瞬間に冷や汗がどばっとでて、体が石みたいに固まった。息も出来なくて、正直そのまま倒れてしまいそうだった」
言われてみれば、トオコは彼と動物園や植物園、展覧会に美術館にプラネタリウムと色々なところに出かけたが、水族館だけは行ったことがなかった。
でも、テレビでクラゲが大量発生したニュースやクリオネの特集などは普通に見ていてはずだ。
そう尋ねれば、あれには目がないから、と彼は気まずそうに笑った。
「覚えてる?その時、トオコさんが持ってたおしぼりをバサッと魚の頭にかぶせて、見えなくしてくれたんだよ」
思い出した。
横に座っている人間が、まるで何かに怯えるように小さく震え出したから、なんとかしなくては、トオコは慌てた。でも、その怯える視線の先には魚の頭しかなく、もしかして魚を見たくないほど嫌いなのかと思って、とりあえず手に持っていたおしぼりを魚の顔にかけて隠したのだ。
ただ、魚の頭にかけたおしぼりの一部が、下に並べてあった刺身に触れてしまい、そのことで同僚達からは何を考えているのだと怒られた。その場にいた優しい人間達が、魚の頭ってちょっと怖いから隠したくなるのわかるよ、とトオコを庇ってくれたことで、その場はおさまったが、後でこの料理を作った同僚から激怒された。自分が人間を喜ばせるために用意したものになんてことをしてくれたのだと怒る同僚に、人間が怖がっていたから、と言えばよかったのだろうが、同僚の怒りが凄まじく、トオコは何も言えずにずっと俯いていた。
そんなこともあったせいで、トオコはこの記憶を嫌なものとして、あまり思い出さないようにしていた。
「魚が怖いって変でしょ?だから親以外には隠してた。だけど、怖がってる僕に気付いて、あんな行動をとってくれる人がいるなんて思ってなくて。だから」
「だから?」
「……すごく痺れた」
しびれる?とトオコは聞き返す。
「そう、かっこいいなって。誰かのために、さらっとあんな行動を取れるなんてすごいと思った。それから僕はずっとトオコさんみたいに、優しい人になりたいと思っていた」
キリンはこちらを見るのに飽きたのか、踵を返して檻の奥に戻っていく。その後ろで長い尻尾が揺れる。
それを目で追った後、彼はゆっくりとこちらを見た。
「次は象を見ようか」
その言葉にトオコは頷き、そっと彼の手に指を絡めた。




「トオコさんはどうして僕の告白を受け入れてくれたの?」
ある日、2人で映画を観た後に入ったカフェで、彼が唐突にそんなことを聞いてきた。
さっき観た映画はミステリーもので、最後に犯人が恋人の制止も聞かず、高層ビルの屋上から飛び降りて粉々になって終わった。それを見て、何か思うことでもあったのだろうか。
「だって告白されるまで、トオコさん、僕のことなんてなんとも思ってなかったでしょ?僕は正直、目を引くほどかっこいいわけでもないし。だから、どうしてかなって」
そこまで見抜かれているとなると、トオコは下手なことは言えない。
気まずさを誤魔化すように、前に置かれたアイスティをストローでぐるりとかき混ぜる。
「……一生懸命だったから」
トオコはぼそりと呟いた。
「あんなふうに真っ直ぐに好きって言ってもらえたの、初めてだったから」
嬉しかったの、とトオコは言った。
「……じゃあ、もし。もし僕の前にトオコさんに真っ直ぐ告白した人がいたら、トオコさんはそっちと付き合ってた?」
彼の目が、責めるようにこちらを見ているような気がする。
トオコは膝の上でぎゅうと手を握った。
それは、トオコにとって意地悪な質問だった。
トオコ達は人間からの告白を断ってはいけない。すでに恋人や配偶者がいる場合を除き、全て受け入れなくてはいけない。だから、彼の質問に対する答えはイエスになる。
でも、それを言ったら彼が悲しむこともトオコにはわかる。
トオコは迷った後、わからない、と答えた。
「だって、そんな人いなかった。いないと思ってた。だからこそ、初めてあなたに好きって言われて嬉しかった」
「じゃあ、もし、トオコさんがいろんな人から好きってたくさん言われてたら、僕とは付き合わなかった?」
「わかんないよ。そんなことになったことないし」
「なら」
彼の視線がトオコから離れ、テーブルの上に落とされる。そこにあるのは、彼が注文した温かなコーヒーだ。
「もし今、僕以外の誰かから告白されたら、その人が僕よりもかっこよくて僕よりも賢くて、僕よりも一生懸命トオコさんに告白したら、トオコさんはそっちと付き合う?」
そう聞かれた瞬間、トオコの頭が真っ白になった。
「そんなことしない!」
気付けばトオコは椅子を倒して立ち上がり、彼の向かって叫んでいた。
「相手がいくらかっこよくていくら一生懸命でも嫌だ!あなた以外、絶対嫌だ!」
そう叫ぶと同時に、彼が一番聞きたかったのはこの問いだったのだろうなと思った。
彼はきっと、不安になったのだ。いつかトオコが彼を捨てて、別の人間のところに行くと。
トオコ達の立場として、それは絶対にあり得ないし、トオコとしてもそんなことをするつもりは毛頭ない。たとえ上司から、彼と別れて別の人間と付き合えと言われても、トオコは絶対に断るだろう。
だけど、そのことを彼は知らない。不安に思うのも無理はないだろう。
そうわかっていても、自分の気持ちを疑われるのは辛く、悲しかった。
今現在、トオコには彼以上に大事なものなどいない。全てを捧げるなら彼だとトオコは思っている。その為なら、怖い上司にだって歯向かえるというのに。
突然立ち上がったトオコに、彼は呆気に取られたように目を丸くしていた。
そこでトオコははたと気付く。ここはカフェ。公共の場だ。周りには他の人間達もいたはず。
トオコは慌てて周りに頭を下げ、倒した椅子を戻して、ストンと座った。
座る直前、カフェの店員にギロリと睨まれた。あれは人間ではなくトオコの同僚だ。もしかしたら後で、トオコがカフェで騒いでいたと上司に報告されるかもしれない。
また怒られる。
落ち込みそうになる気持ちをぐっと堪え、彼に向き直る。
とりあえず今は彼のことだ。
トオコは場を仕切り直すように、こほんと小さく咳払いをした。
「その、不安にさせてごめんなさい。とにかく」
そういうわけだから、と、もごもごと言い訳をした時だった。
「……ははっ」
不意に、彼が笑った。
どうしたのだろう。
突然笑い出した彼に、トオコは目を瞬かせた。
彼は苦しそうに体を折り曲げ、両手で顔を覆った。
「はははっ、まさかトオコさんが怒鳴るなんて。全然予想してなかった。ははっ、ははは」
彼の指の隙間からは、ぽろぽろと涙がこぼれ落ちていた。
手で押さえきれなかった涙が、次から次に溢れ、彼の服を濡らしていく。
トオコは思わず言葉を失った。
大人の人間がこんなに泣くのを、トオコは初めて見た。
「……泣いてごめん。でも、っ、ははっ、そっか、そんな声を荒げるくらい怒ってくれるなんて思ってなくて。どうしよう」
すごく嬉しい。
彼はそう呟き、顔を覆っていた手を下ろした。
涙に濡れた頬。真っ赤に腫れた目元。
だけどその顔は、今まで見た中で一番、晴れやかだった。



「……っ!」
彼が飛び起きた瞬間、ベッドが波のように揺れる。
トオコがそっと目を開ければ、隣の彼は上体を起こしたまま、何度も肩で息をしていた。
「……フユトさん、大丈夫?」
トオコはそっと彼に手を伸ばす。
恐怖でこわばった体が少しでも和らぐように、ゆっくりとその背中を撫でた。
「……ごめん。ちょっと怖い夢を見てさ」
彼は誤魔化すように笑う。その笑顔は、いつもと違って、とてもぎこちない。
同じベッドで眠る関係になってから、彼がこうして夜中に何度も飛び起きることを知った。
いつもの彼だったら、起こしてごめん、と謝って、またすぐにベッドに体を横たわらせるのだが、今日の彼は黙ったまま、しばらくぼうっと真っ暗な部屋の壁を見つめていた。
トオコは思わず声をかける。
「……今日の夢は、そんなに怖かったの?」
「……そうだね、すごく怖かった」
ぽつぽつと、彼は今見た夢のことを語り出した。
「気づいたら、海の中に沈んでたんだ。慌ててもがこうとしても体が全然動いてくれなくて。その間にも体がどんどん沈んでいく。息もできなくて苦しくて、どうしようと思った時、目の前に大きな魚がいるんだ。自分の体よりもずっとずっと大きくて、目が真っ黒で。口が半開きで」
思い出したのか、夜の闇に浮かぶ彼の声がわずかに震えた。
「魚の口なんかずっと小さいはずなのに、自分の顔くらい大きく見えて。何も見ていないような真っ黒な目がすぐ前に迫ってきてて」
怖かった、と彼はぽつりと呟いた。
「……ごめんね、変なことで起こして。明日も仕事なのに」
「大丈夫。起きてもすぐに寝られるから」
冗談めかして言うと、彼はぎこちなく笑ってくれた。
こういう時でも、彼はトオコを気遣ってくれる。彼はとても優しい人だった。
だからトオコは、少しでもその苦しみを軽くしてあげたかった。
「次に、夢に魚が出てきたら教えて」
「どうして?」
「私が焼き魚にして食べてあげるよ。夜ってお腹が空くし」
わざと明るい声色で言う。
「そうしたら、フユトさんはぐっすり眠れるし、私はお腹がいっぱいになって嬉しい」
どうかな、と聞くと、彼は少し黙った後、起こしていた体を再びベッドに沈めた。
そしてトオコの体にぎゅう、と抱きついてくる。
彼の柔らかい髪が、トオコの鼻に当たって、少しくすぐったかった。
「あの夢の中に、君は来てほしくないなぁ」
「……駄目?」
「駄目とかじゃなくて、本当にひどい夢なんだ。冷たくて薄暗くて寒くて。あんなところに君を連れて行きたくない」
トオコを抱きしめる力が、さらに強くなる。
「なんであんな夢ばかり見るんだろう。なんで、あんなにも魚が怖いんだろう」
それは。
トオコは言いかけて、そしてそっと口を閉じる。
あなたは前にひどく怖い思いをして死んで、その傷が魂に刻み込まれているからよ。
声には出せないから、トオコは胸の内で答える。
その傷は癒えていないから、たまに傷口が開いて、夢という形であなたに痛みを与えてくる。あなただけじゃない。この世界にいる人間は、みんなこの悪夢に苦しんでいる。
トオコ達は皆それを知っている。だけど、それを人間に伝えることは許されていない。
教えられない代わりに、トオコは彼の背中に手を回す。
そして彼に負けないくらいの力を込めて抱き返した。少しでも、彼が安心できるように。
「……私、司書だから図書委員の子と関わることが多いんだけど、その中にね、雪が嫌いって子がいたの」
「……そうなんだ」
「先週、図書委員の仕事をしている時に雪が降ってきて、他の子がみんな雪だってはしゃいでる中、その子だけが憂鬱そうな顔をしてたの。どこか雪を怖がっているようにも見えた。だから、もしかしたらその子も、あなたと同じように怖い雪の夢を見ているのかもしれない」
いや、きっと見ているのだろう。雪の日に、自分が死ぬ夢を。
ここにいる人間達が前の生でどのように死んだのか、トオコ達に知る術はない。できるのは、本人から夢の話を聞いて推測することだけ。
本当のことは、魂を連れてきた御使いしか知らない。
「その子も優しい子なの。優しい人だから、そんな夢を見てしまうのかもしれない」
この世界は、魂が傷ついた生き物を無作為に収容しているわけではない。この世界に来られるのは、御使いに選ばれた魂だけ。この街には、御使いが自ら選んだ清らかな魂の持ち主だけが集められている。
雪が嫌いなあの子も、魚に怯える彼も、御使いに選ばれ、その手で掬われてここにいる。
トオコの体に巻きつく彼の腕から、まだ力は抜けない。
抱きしめることで彼の気が済むのなら、好きにすればいい。トオコはそのためにいる。それで少しでも気がまぎれるのなら本望だ。
ふと、雪が嫌いと言ったあの子のことを思い出す。
次に雪が降った日、生徒をしている同僚の誰かに、あの子と一緒に帰るように頼もう。
もしかしたら、誰かと一緒にいる方が、嫌いな雪のことを考えずに済むかもしれない。
そんなことを考えながら、トオコは彼の髪に顔を寄せ、そっと目を閉じた。



「正直に言うと、告白した時、自分が本当の意味でトオコさんが好きだったのかわからなかったんだ」
今日のデート先は、駅前にできた新しい商業施設だ。屋上がテラスになっていて、そこにはさまざまな植物が植えられている。
その隅のベンチに座り、夜景を眺めながら、そんなことを彼は言い出した。
「あの忘年会の日から、ずっとトオコさんのことかっこいいって思ってた。トオコさんみたいになれたらって。少しでもトオコさんに近付きたかった。呆れられるかと思ったけど、友達もみんな、すごく応援してくれた。だから告白した。かっこいいトオコさんと付き合えたら、無条件で僕もかっこいい何かになれると思ってた」
そんなわけなにのにね、と彼が眉を下げて笑う。
その顔は、過去の自分に呆れているようにも見えた。。
「案の定、付き合ってからすぐに、どうしたらいいのかわからなくなった。なんとかトオコさんにふさわしい人にならなきゃと思って、色々情報集めたり、友達に聞いたりしながら頑張ったけど、頑張れば頑張るほど空回っているような気がした。でも頑張らなきゃ、頑張ってトオコさんにふさわしいかっこいい男でいなきゃ、きっとすぐに振られてしまうと思った。だから、なんとかしなきゃとずっと焦ってた。その時に、トオコさんと家で初めてご飯食べることになって」
トオコが包丁で指を切る大失態を演じたあの時のことだ。
恥ずかしかった出来事を掘り起こされ、トオコはたまらず俯いた。でも、彼は気にせずに話を続ける。
「トオコさんが緊張してたなんて全然知らなかったし、気付けなかった。そこで初めて、僕はトオコさんのこと何も見てなかったんだなって思った。僕は、僕が考える素晴らしいデートをトオコさんに披露することばかり考えていて、トオコさんが何を思ってるかなんて考える余裕はなかった。トオコさんはかっこいいけど、トオコさんも僕と同じ人間なんだって、あの時初めて思った」
トオコは俯いたまま、そうだね、と小さく返す。
彼に嘘をつく苦しさを、トオコは必死に飲み込んだ。
「あの時トオコさんが正直に僕にぶつかってくれなかったら、僕はきっと勝手に落ち込んで、勝手に傷ついて、もしかしたら別れていたかもしれない。でもあの時、こんなまっすぐなトオコさんにふさわしくなりたいと思った。こんなトオコさんを大事にしたいと思った。ねぇ、トオコさん。僕のことをどう思ってるか、あの時から変わってない?」
あの時、トオコはわからないと答えた。好きかどうかわからない。ただ、彼が大事で辛い思いはしてほしくないと。
そうだね、とトオコは小さく返す。
「……正直、わからないままかもしれない。でも、あなたといるのは楽しい。話を聞くのも楽しい。ずっと一緒にいたいし、あなたの隣にいるのは私だけがいい。あなたには私をずっと好きでいてほしいし、私以外の人のことを好きにならないでほしい。だけど、それと同じくらい幸せになってほしい。私も頑張るけど、もし私の頑張りがあなたを不幸にするのなら、私を捨ててでも幸せになってほしい」
「そこは一緒に不幸になってほしい、じゃないんだ?」
意地悪そうに口の端を上げる彼に、絶対嫌、とトオコは首を横に振る。
「それだけは駄目。あなたには幸せになってほしい。幸せでいてほしいの。あなたの幸せに私がいらないと言うのなら、私は頑張って我慢する。頑張る。頑張るから」
膝の上で、ぎゅうと痛いくらい手を握りしめて答えると、彼は困ったように眉を下げた。
そしてキツく握っていたトオコの手を、そっと両手で包んでくれた。
「ずっと悩んでることがあって」
彼がぼそりと呟いた。
「だけど、それを言うと、一生トオコさんを縛ってしまう気がする。トオコさんがちゃんと僕のこと好きだって胸を張って言えるようになるまで待とうと思ってた。だって、このままだとまるで、僕がトオコさんを騙してる気分になる」
トオコは首を傾げる。自分は彼に騙されているのだろうか。わからない。でも、彼に騙されるのならトオコは構わない。彼が騙したいのなら騙せばいい。この体も心も全て彼の為のものだ。好きに使えばいいと思う。
「僕は、トオコさんにちゃんと考えてほしい。僕のことをどう思っているか。それで、トオコさんがちゃんと胸を張って僕のこと好きって言えるようになったら」
「なったら?」
結婚してほしい、と彼は言った。



「ねえ、ご両親ってどんな人?」
トオコの何度目かの質問に、彼は呆れるように笑った。
「大丈夫、2人とも普通の人だよ。緊張なんてしなくていいよ」
「無理だって。急に一緒に食事とか緊張するよ」
「急じゃないよ。半月前から行ってたじゃない」
彼の言う通り、彼の両親との食事会は随分前から決まっていた。
結婚前の挨拶、というわけではないが、彼が両親に恋人がいると言うことを言ってしまったらしく、なら一度会いたいと彼の両親の方からお誘いがあったのだ。
「ねえ、どんな人?優しい?」
「父さんは静かな人だよ。母さんは元気でよく喋るよ。2人とも優しいと思うよ」
「本当?私にも優しくしてくれるかなぁ」
「食事の席でよっぽど変なことしない限り大丈夫だと思うよ」
「よっぽど?例えば?何したらいけないと思う?」
泣きそうな顔でトオコが尋ねているのに、彼はくすくすと笑うばかりだ。
「大丈夫だって。多分、トオコさんと同じくらい向こうも緊張してるよ。母さんも、何着ていったらいいかしらって、昨日電話で聞かれたよ」
「そうだ、私も服考えないと!とりあえず学校で着ているスーツでいいかな。可愛げがないって言われないかな」
「大丈夫、大丈夫。向こうは写真でトオコさんの顔知ってるし」
「えっ、なんで知ってるの?」
「僕が見せたから」
「ちょっと待って、どの写真見せたの?なんの写真見せたの?」
彼が差し出してきたスマホの画面には、遊園地に行ってジェットコースターに乗り、頭から爪先まで水で濡れてぐちゃぐちゃになって笑ってる写真だった。
「なんで、よりにもよってこれを見せたの!これ、化粧も髪もぐちゃぐちゃだし!」
「だってこのトオコさん、子供みたいに笑ってて可愛かったから」
たしかに初めて乗ったジェットコースターが予想外に楽しくて、トオコは彼以上にはしゃいでしまった。画面で笑っている自分は、自分とは思えないほど幼い笑顔を浮かべている。
「僕もさ、小さい頃に家族で遊園地によく行ったんだ。母さんが張り切ってチケット取って、着いたらまずこれに乗るんだって父さんに嬉しそうに言っていて。父さんもいつもは落ち着いていて、遊園地なんか興味ありませんって顔してるのに、中入ったら誰よりもソワソワして。歩いてる着ぐるみを見つけては僕に、一緒に写真撮ってやろうかって言うんだ。母さんも、いつもは自販機の飲み物買うのもちょっと渋るのに、遊園地で売られている飲み物や食べ物は、しょうがないなぁって笑いながら買ってくれた。帰り道は僕が疲れ果てて、車の後ろの席でたいてい寝ちゃうんだけど、その時、助手席と運転席で話す2人の声が子守唄みたいで気持ちよかった。大きくなったら、僕もこんなふうに家族で遊園地に来たいなって思ったんだ」
そう言う彼の目には愛おしさは溢れていて。
それは、きっと彼の大切な思い出なんだろうとトオコは思った。
「……食事会よりも、みんなで遊園地行った方がいいんじゃない?」
「ははっ、それもいいね。トオコさんがうちの両親に緊張しなくなったら、久しぶりにみんなで遊園地行くのも楽しいかもね」
その光景を想像したのか、彼の声は弾んでいた。
トオコも想像する。彼とまだ見ぬ彼の両親と遊園地に行くところを。
トオコはジェットコースターが好きだった。彼の両親はジェットコースターは好きだろうか。ジェットコースターに乗っている間は化粧が、とか髪型が、とか気にしなくていい。常に激しく動いているから会話する暇もなくて、何か話さなきゃ、と焦る暇もない。ただ、声を上げてみんなで笑っていられる。
そして帰りはどうなるのだろう。彼が運転して、トオコが助手席で。後ろの席で疲れ果てた両親が眠っていたら。それを見て、子どもの頃の自分みたいだと彼が笑うのだ。
そんな光景を想像して、トオコも笑った。



「こ、こんにちは」
目の前に座った2人の人間に、トオコは体を縮こまらせて挨拶をした。
いつか彼と一緒に来た駅前の商業施設。その10階にあるレストランで、トオコはついに彼の両親と対面を果たした。
品の良さそうなご両親だ。歳は50過ぎくらいだろう。父親の方は白いシャツに手触りの良さそうなカーディガンを羽織っており、母親の方は淡いベージュのジャケットにマーメイドラインのロングスカートをあわせている。
トオコがぎこちなく挨拶すると、母親はあらあらと明るい声を上げた。
「そんな緊張しなくても大丈夫よぉ!フユトにすごい可愛い彼女ができたって言うから一目見てみたいって私がわがまま言っちゃったの。本当に綺麗ね、お人形さんみたい!」
「ちょっと母さん!声が大きい!」
彼が慌てて母親を嗜める。ここは高級レストランというわけではいけれども、それなりにしっとりとした雰囲気のお店だった。そこに彼の母親の声は想像以上によく通ってしまった。
そのおかげで周囲の客が、もしかして顔合わせかしら、とひそひそと話している。
「ご、ごめんなさい、私、結構声が大きくて……」
彼の母親が落ち込んだように、しゅんと肩を落とす。
その様はまるで幼い子どものようで、トオコの緊張がほんの少し和らいだ。
「母さんは興奮するとどんどん声が大きくなっちゃうから。家ならいいけど、外では気をつけてよ。トオコさんもごめんね」
彼に言われて、トオコは慌てて首を横に振る。
むしろ明るく話しかけてもらえて嬉しかったとはにかみながら伝えれば、母親の目が感心するようにトオコを見た。
「フユトから聞いてた通り、本当に良い子だねぇ。ねぇ、本当にうちの息子みたいなのでいいの?」
「ちょっと、母さん!何言ってるの!」
「たしかに、母さん、写真見た後、『あんな綺麗な彼女がフユトにできるわけない』って言ってたからなぁ」
父親が朗らかに笑いながらそう言えば、彼は、そんなこと言ってたの、と母親に詰め寄った。
「言うわよ。だって初めて写真見た時、モデルさんかと思ったわよ。でも同じ学校の先生なんでしょう?モデルやろうとか思わなかったの?」
「いえ、私は」
トオコはもごもごと口籠る。
トオコは学校の司書をやりたくて司書をやっているわけではない。トオコが目覚めて、お前は学校で司書をやるようにと上司から指示されたからやっているだけだ。それ以外のものをやりたいなどと考えたことは一度もない。
「……ずっと司書になりたいと思ってたので」
なんとか笑顔で返せば、そうなの、と母親は不思議そうに呟いた。
そもそもトオコは、トオコの前に学校で司書をやっていた人間が突然傷が癒えたことで天に還り、消えてしまったから、その穴埋めとして用意されたのだ。
本来ならトオコ達は、人間と同じようにはじめは幼い子どもの姿をしており、人間と関わりながら人間と同じスピードで自らの体を変化させ、共に成長していく。だが、トオコのように突然消えた人間の穴埋めが必要になり、大人の姿から始めなくてはいけない場合もある。
だからトオコは、同僚達に比べて実地での経験が圧倒的に少ない。だけど、同じように動かねば怒られる。それでうまくやっているものもたくさんいるが、トオコは駄目だった。
どうせなら始めからやりたかった、と何度も落ち込んだこともある。子供のころから始められたら、きっと自分だって。
「トオコさんは何が好き?」
母親の声に、沈んでいたトオコの意識が現実に戻ってくる。
トオコは慌てて笑顔を作る。
「す、好きなものですか?」
「そう、何かある?」
母親がきらきらした目で尋ねてくる。
その隣では父親が、聞く範囲が広すぎる、と呆れたように笑っている。
「……そうですね、ジェットコースターとか、好きです。あと、動物とか」
「動物?」
「動物園とか、見てるの楽しいです」
彼とよく行った動物園。彼の解説を聞きながら、見て回るのが楽しかった。
思い出すだけで口角が上がっていく。
なるほどねー、と母親が言った。
「たしかに動物園は楽しいわよね。私も若い頃お父さんとよく行ったわよ」
「そうなの?」
彼が素早く反応すると、父親は誤魔化すように小さく咳払いをした。
「……今と違って、昔はあまり恋人同士で出かける場所がなかったんだ。だけど、毎回公園に行くのも芸がないし」
「あら、私は公園でも全然楽しかったんだけど」
「公園だと、母さんが遊具に夢中になってしまうからゆっくり話せないんだ。ブランコなんか乗ったらすごい高さまで漕いでしまうから、見ててハラハラするし」
「待って、それって子供の時の話?父さんと母さんって幼馴染だっけ?」
「違うわよ。これは20歳くらいの話よ」
懐かしいわぁ、という母親に、彼は呆気に取られているようだった。
どうやら彼の母親は、想像以上に無邪気な方らしい。
「それに遊具って年々進化しているから、私の頃よりもどんどん楽しいものになっていくの。滑り台なんかも滑り降りるところが3つに増えていたり!だから公園でも十分って言っているのに、父さんが意地張っちゃって、もっと楽しいところはたくさんあるんだって動物園とか遊園地に連れ出してくれて」
そうなんですか、とトオコは相槌を打つ。
「私も父さんも偶然、魚とか泳ぐのが苦手だったから、水族館やプールにはいけなかったけど、それでも全然楽しかったわ。やっぱり価値観が合うって大事よね」
そこで、そういえば、と母親がトオコを見た。
「この子も私達に似て、そういう魚とか水辺が苦手なんだけど、トオコさん大丈夫?プールに行きたい、とかない?」
「あ、いえ、私も泳げないので……」
知識として泳ぎ方は体にインプットされているはずだから、水の中に入ればおそらく自動的に泳げるだろう。だが、実際トオコは泳いだことはないし、泳げないことにしておいた方がいいような気がした。
「あ、でも、お刺身は好きです。だから水族館じゃなくて、お寿司屋さんに行けたらそれで満足です」
そう言うと、彼の母親は目をパチパチと瞬かせた後、私もよ、と、くすりと笑ってくれた。

彼の両親との食事会は想像以上に和やかに終わった。
そのことに安堵したものの、店から出た後、彼がトイレに行きたいと言ったので、トオコは彼の母親と父親とその場に取り残された。
自分もトイレに行ったらよかったのかもしれないが、彼の母親に行かなくて大丈夫かと聞かれた時に、反射的に大丈夫、と言ってしまったのだ。
そもそもトオコ達はトイレに行く必要などない。だけど、今は嘘でも行っておけばよかったと、トオコは心の中で密かに後悔をした。
何か話を振った方がいいのだろうか。料理美味しかったですね、とか。でも、もし彼の両親が、さっきのレストラン、たいしたことなかったと思っていたら。トオコとは食の趣味が合わないと思ってしまうかもしれない。
どうしようと必死に話しかける言葉を探していると、その前に彼の母親が口を開いた。
「今日は会ってくれてありがとう。お話しできて嬉しかったわ。緊張したでしょう?」
「……正直」
俯いてぽそりと答えると、母親はくすくすと笑った。
「私もすごく緊張したわ。だって息子の恋人と会うのなんて初めてなんだもの」
「そうなんですか?」
「そうよー。好きな子いる?って聞いても全然答えてくれなかったし。家を出て、学校で働くようになっても、浮いた話はひとつもなくて。だから、ちょっと心配だったの」
心配?と、トオコは問い返す。
「ほら、親はどうあがいても子どもより先に死ぬでしょ?私も70まで20年を切っちゃったし。そうなった時に、あの子をひとりで置いていくのが、少し不安だったの。あの子、ああ見えてすごく寂しがりだから、誰かあの子の隣にいてくれたらなって」
この世界の人間は、70歳で眠りにつくことになっている。
これはこの世界の創造主である御使いが作った決まりだ。傷を抱えた魂でも、だいたい70年の時を穏やかに過ごせば、次の世に送り出せるくらいには回復する。
だから、この世界の人間の寿命は70年と決められているし、人間達もそうだと教えられている。
逆に言えば、この世界の人間は70年間の生も保障されている。
突然の病気も不慮の事故も、この世界には存在しない。もちろん偶然の事故は存在するが、たとえ人間が怪我をしても、医者の役目を持った同僚が何もかもをあっという間に治してしまう。
だから彼の母親が言うように、子どもが親より先にいなくなることはない。ただ、例外はある。
ちなみに、彼らを世話する側のトオコ達の寿命は違う。だいたい500年ほどだ。
だけど、実際のところ、そこまで長生きする個体は極めて少ない。平均は人間と同じ70年くらいだろう。
人間を癒すために作られているトオコ達は、人間を深く愛する性質がある。そのため、愛する人間が寿命を迎えるなどして天に還った時、一緒に自分を処分してほしいと上司に訴えるものが多いのだ。
一応、500年生きられたら御使い様が何でも願いを叶えてくれる、という特典はあるらしいが、そこまでして生にしがみつく個体は少ない。トオコが知っている中でも、外見と名前を変えて500年以上生き続けているのは、トオコの上司くらいだ。
「だから、トオコさんを見て、今日はホッとしたの」
ありがとう、とふわりと笑う母親に、トオコは何と言っていいかわからなくなる。
だけど、その暖かな表情を見ているうちに、トオコの内から溢れてくるものがあった。
意を決して、トオコは口を開く。
「あの、私、こんな見た目ですけど、本当は全然何もできなくて」
自分は一体何を言おうとしているのだろう。きちんと彼の母親の質問に正しく答えられるだろうか。わからない。わからないけれども、どうしても今、伝えておきたいと思った。
「フユトさんは、すごく優しくて。要領を得ない私の話も優しく聞いてくれて。付き合いだした頃、私もっとポンコツで、彼のこと傷付けてしまったこともあったんですけど、そんな私のことも彼は見捨てないでいてくれて」
だから、とトオコは続ける。
「彼は、すごく優しくて、良い人で。私を大事にしてくれます。いろんなところに私を連れてってくれて、いろんなことを私に教えてくれました。彼はすごい人です。学校でも、生徒は彼のことをとても慕っています。冬岡先生の授業が楽しいとよく噂されてるのも聞いています。彼は、私以外にもたくさんたくさん愛されています。彼のことを嫌いという人を、私は聞いたことがありません」
彼の母親はきょとんとしたままトオコの話を聞いている。その後ろで、父親も突然語り出したトオコに呆気に取られているようだ。
だけど、ここまで吐き出したらもう止められない。
トオコは小さく息を吸った。
「私は彼と出会えて世界が変わりました。学校でも、そんな生徒はたくさんいると思います。彼はすごいです。すごく素敵な方です。ありがとうと言いたいのは私の方です。そんな彼を産み、育ててくださって、ありがとうございました。お2人がいなかったら、私は彼と会うことはできませんでした。だから」
本当にありがとうございます、とトオコは頭を下げる。
彼のそばにいられて、トオコはすごく幸せだった。その幸せのお礼を、どうしても伝えたかった。
トオコがありがとうと言われる立場ではない。トオコこそ、彼をこの世界で育てた2人にお礼を言いたかった。
ただの自己満足だ。だけど、どうしても伝えたかった。
向こうからの反応はない。
もしかして変なことを言ってしまったかと、トオコは焦って顔を上げた。
だけど、そこにいたのは。
「……本当?」
涙をぽろぽろとこぼしている母親の姿だった。
その体の輪郭は淡く光り、まるで糸が解けるように周りの空気に溶け出している。
ひゅ、とトオコの喉が鳴る。
この現象をトオコは知っている。嫌というほど。
これは魂の傷が急速に回復したことで起こる現象だ。
ここにいる魂は、傷付いているからこそこの世界に留めておくことができる。でも、傷が治ってしまえば、ここにきて留まらせておく理由はない。むしろ健全な魂を捕獲しているとみなされ、御使いは処罰の対象になるだろう。
だから傷が治った魂は速やかに天に還し、次の世に送らなくてはならない。いただいた命を無駄にしない為に。この街にはそのためのシステムが組まれている。
それが今、トオコの目の前で行われようとしているのだ。
彼の母親の傷が、トオコの言葉により、たった今、癒されてしまった。
トオコに、これを止める術はない。
「ま、まってくださ」
トオコは思わず一歩踏み出した。
だけどその体は、まるでトオコから逃げるようにふわりと浮き上がる。
「私、あの子を産んでよかったのね。あの子を産んだのは、間違いじゃなかったのね」
母親は呆然としたまま言葉を繰り返す。
その体のほとんどは溶け、みるみるうちに天に伸びる光の柱に飲み込まれていく。
「まって」
「よかった。私の子は愛されたの。いらない子じゃないの。愛されるべき子なの」
本当によかった、と涙がひと滴、母親の目から落とされる。
「トオコさん、ありがとう。私の子を愛してくれて。どうか、最後まで愛してあげて」
「私からもお願いする」
気付けば、光の柱は2つになっていた。
彼の父親の姿も、今は淡く光りきえかけている。
「な、なんで……」
「ずっと、ずっと後悔していた。何もできなかった。泣くあの子も、泣き叫ぶ母さんも、自分の親の愚行も、私は何もできなかった。私が知ったのは、全部終わった後だった」
だから、と消えかけの顔で父親が柔らかく笑う。
「やっと母さんが幸せになってくれた。それだけが心残りだった。君のおかげだ。本当にありがとう」
「トオコさん、ありがとう」
彼の両親が揃ってトオコに頭を下げる。
だけど、トオコは首をゆるゆると横に振ることしかできない。
違う、待って、だって、このままだと、彼らは消えてしまう。この世界から、彼の記憶からも。
そうしたら彼は。彼の大好きな両親は。
光は急速に膨れ上がり、そして火が消えるようにふっと消えた。
気付くとトオコの周りには他の客がいっぱい集まっていて、突然出てきた光の柱に皆拍手をしたり、すごかったね、口々に感想を言い合ったりしていた。
その向こうから、彼が小走りでやってきた。
「待たせてごめんね。トイレが混んでてさー」
「ねえ」
何事もなかったかのように戻ってきた彼に、トオコは恐る恐る声をかける。
「フユトさんのご両親って……」
「あれ、言ってなかったっけ?」
彼はきょとりと目を瞬かせた後、笑顔で答えてくれた。
「僕の両親、小さい頃に亡くなったみたいで、親戚の家で育ったんだ。あ、そうだ、今度その親
の墓参りに一緒に来てくれないかな。トオコさんのこと、紹介したいし」
照れたように言う彼に、トオコは愕然とする。
70年の寿命を終えて転生した人間とは違い、突然傷が癒えて転生した人間は、残された者にショックを与えないために、その存在に関する記憶はこの世界はから全て消去される。この世界に初めからそんな人間はいなかったことになるのだ。
だから彼の記憶から、彼の両親の存在は消え去ってしまった。
「……じゃあ、ご両親と遊園地行ったりとか」
「……そうだね、したことない。多分、行ったら楽しかったんだろうなぁ」
どんなことやっただろう。ジェットコースターとか乗ったかなぁ。
寂しそうな彼の言葉に、トオコの頭は真っ白になる。
あの楽しい思い出を、彼は覚えていない。
トオコは覚えている。ジェットコースターに乗ったこと。飲み物買ったりしたこと。帰り道の車で眠ってしまったこと。懐かしそうに話してくれた彼の言葉を、トオコはよく覚えている。
だけど、今の彼はあの記憶を知らない。彼の両親の温かさも優しさも知らない。
それは二人とも天に還っから。
トオコの言葉で、2人はこの世界から消えてしまった。
トオコが、彼から2人を、あの優しい思い出を奪ったのだ。
次の瞬間、トオコは叫んでいた。
言葉では無かった。ただ、どうしようもない衝動の塊が口から音となって飛び出した。
それが途切れた後、トオコは踵を返し、その場から逃げ出した。
驚いた彼が、後ろから追いかけてくる気配がする。
だけど、振り返り余裕はなかった。
トオコ達の身体能力は人間とは比べ物にならないほど高い。今のようにヒールのある靴を履いていようが、階段だろうが、息切れすることなくトップスピードで駆け上がることができる。そんなトオコに、彼が追いつけるはずがない。
別にトオコに目的地があったわけではない。
ただ、体の内に渦巻く衝動を発散するために、トオコは目についたエスカレーターを駆け登り、無心で足を動かし続けた。
後ろからの足音はとうに聞こえない。
やがてトオコは屋上に辿り着き、そのまま足を緩めることなくテラスに飛び出した。
外はうっすらと雨が降っていた。そのせいでせっかくの夜景を眺めている者は誰一人いない。
ここはいつか彼がトオコにプロポーズしてくれた場所だ。返事はまだだけど、いつか自信を持って彼を好きだと言えたら、トオコはやはりここで返事をしようと思っていた。
言わなくてよかった。
そう思いながら、トオコは地を蹴った。
今すぐ消えてなくなりたい。
その一心で彼にプロポーズされたベンチを通り過ぎ、軽々と手すりを乗り越え。
トオコはそのまま、テラスから身を投げた。
トオコは自身の終わらせ方など知らない。
だけどこうすれば、いつか映画で見た殺人犯のように粉々になれると思った。それで消えてなくなることができると思った。
猛烈な風が下から噴き上がる。雨に濡れた商業施設のガラスは、街の灯りでキラキラと光って、綺麗だった。
目から溢れた涙が上に上がっていく。地面がどんどん近付いてくる。
これで粉々になれる。全部終わらせることができる。
そう思った時だった。
背中で、バサリと音がした。
次の瞬間、目の前にあったはずの地面が遠くなった。
トオコは思わず手を伸ばす。
だが背中に生えた羽根がはばたくたび、無慈悲にも地面はどんどん遠のいていく。
「ああああああああ!ああああああああああああああああ!」
トオコの声が闇夜に響く。
おもちゃ屋で駄々をこねる子どものように、トオコは足をバタつかせ、地面に手を伸ばして泣き叫ぶ。
しかし、背中の羽根はトオコの叫びなど意にも返さず、トオコの体を上空へ連れて行った。
「やだ、やだああああああああああああああああああ!」
この羽根がなんなのか、トオコは知っている。
これはトオコ達に付けられた安全装置だ。トオコ達の身に危険が迫った時、勝手に作動し、その体を守るもの。
でも今回のこれはトオコ自身が望んだのだ。トオコが粉々になりたいと思ったから飛び降りた。だが、羽根はそれを許さない。勝手にトオコを終わらせることを許可しない。
トオコ達はあくまで御使いが作ったものだ。
トオコに、自分の終わりを自分で決める権利は存在しない。
いくら叫んでも羽根は止まらず、気付けばさっきまでいた商業施設がはるか足元だ。
このままどこに連れていかれるのだろう。
泣き疲れてぼんやりとした頭で、トオコは思う。
この空の先に何があるのか、トオコは知らない。それらしい宇宙は作られているらしいが、それをトオコが確かめたことがない。
もしかしたら、このまま空の果てに捨てられるのかもしれない。
そう思った瞬間、トオコの心は不思議な安堵感に包まれた。
終わらせてくれるのだったらなんでもいい。痛くても辛くても怖くてもいい。この世界から消えることができるのならそれで。
彼から大事なものを奪った罰だ。自分など、ここにいるべきではない。
そう思った時、羽根は徐々に羽ばたく力を弱め、トオコの体はとある建物の屋上に近付いていった。そこは、トオコが飛び降りた商業施設のそばにある、マンションの屋上だった。
冷たいコンクリートの地面にトオコの足が地にふれた時、役目を終えたとばかりに羽根はすぅっと消えた。
トオコはのろのろと辺りを見回す。
建物の中へと繋がる扉がひとつあり、その上に白い光が灯っている。
そしてその明かりの下に、誰かがいた。
それはトオコの上司だった。
見慣れた制服に身を包んでいる上司は、トオコを見て、呆れたように笑った。
「何やってんだよ、高橋先生」
トオコは慌てて上司に頭を下げた。
上司は鈴木ゴロウという名前で、トオコが勤める学校に通っている。その為、側から見たら教師が生徒に頭を下げているように見えるだろう。
「やっと仕事終わって遊びに行けるって思ったのに、呼び出しとか。本当にダルいんだけど」
「よ、呼び出しって……」
「羽根だよ、羽根」
上司がトオコを指差す。そこにはさっきまで、真っ白な羽根があった。
「そっちは知らないだろうけど、羽根が出ると、上司である俺に通知が来るんだよ。羽根が出るってことはその身に危険が迫ってるってことだから、上司は何があったか話を聞いて、御使い様にちゃんと報告しなきゃいけねぇの」
で、何があったんだ、と上司が興味なさげに聞いてくる。
緊張でカタカタと小さく震える手をぎゅっと握り、トオコは恐る恐る口を開いた。
「……彼から両親を奪ってしまったんです。彼はあんなに両親との思い出を大事にしていたのに、私はそれを根こそぎ奪ってしまった」
話し出すと止まらなかった。トオコの悲しみが次から次に口から溢れ出し、それと共に再び視界も歪んでくる。ぼたぼたと涙を流し、時折言葉につまりながら、トオコは何があったのかを事細かに上司に伝えた。
やがてトオコの言葉が止まり、辺りにしゃくり上げる音だけが響き出した時、黙って聞いていた上司が、ゆっくりと口を開いた。
「つまり、お前の都合で冬野先生を置き去りにしたのか」
淡々としたその言葉に、トオコの背がぞくりと粟立った。
「まず、2つの魂を癒した功績を罪だと考えてるのが間違っている。そこの認識の違いは致命的だから、さっさと直しておけ。あと、自分の近しい人間2人の記憶が消えて不安定になってる人間を、何の説明もなく、その場に置き去りにしたこともあり得ない。それは恋人である人間より、自分の感情を優先させたってことだろ?」
最低だな、と言う上司の声が、トオコの頭にぐらりと響く。
「で、何故飛び降りた?あんな人目のあるところでそんなことしたら、騒ぎになるのわかるだろ?何も知らない人間が見たら驚かせてしまうだろうし、記憶を消すのだって手間がかかる。それとも、そんなこともわからなかったのか?」
「ご、ごめんなさ……」
思わず、謝罪の言葉が口から飛び出す。
でも、辛かったのだ。もう彼に合わせる顔がないと思った。
確かに軽率な行動だった。だけどあの時は、そうするしかないと思ってしまった。
「それは、お前が楽な方に逃げただけだろ」
冷めた声が、トオコの言い訳を潰していく。
「何もかも放り出して消えたら、辛い気持ちも罪悪感も全部無くなるもんな。いいよな、楽で。今だって、こんな俺の説教なんかいいから、さっさと処分してくれって思ってるだろ」
違う、とは言えなかった。
だって辛かった。
自分が、彼から大好きな人達を奪ったことに耐えられなかった。
そんな自分が、彼の隣でのうのうと生きていくことなど、そんなこと許せるはずがない。
だからこれは罰だ。トオコが受けるべき、罰。
そんなトオコの心境を見透かすように、上司が口元を歪める。
「自分が辛いだけなのに、全部冬野先生のせいにして。冬野先生に責任を全部おっ被せて。高橋先生はひどいなぁ」
「ちがっ、違います!」
嘲るような言葉に、思わず反論する。
「彼のせいになど……!」
「してるだろ。冬野先生の気持ちも確認せずに、彼に悪いからと全部冬野先生を言い訳にしている。全部自分が辛くて、耐えられないだけなのにな」
それはまさしくその通りだった。
反論しようにも言葉が出ず、トオコは黙って唇を噛み締めた。
「……先生はさぁ、本当に冬野先生のことが好きなの?」
「……好きです」
そこだけははっきりと答えられた。だからこそ、彼に申し訳ないと思ったのだ。
「だったら、大好きな冬野先生のために頑張れねぇの?あんたがやったことを冬野先生は一切知らないし、知ることはできない。あんたの罪悪感なんか、人間は知ったことじゃないんだよ。冬野先生が好きなら、血反吐が出そうなくらいの辛い気持ちでも、全部飲み込んで、笑うくらいの根性を見せろよ」
忌々しそうに、上司が顔を歪めた。
「……お前が思うよりも、人間はあっさり俺らを置いていくぞ。落ち込んでる暇すら、俺らには惜しい」
その言葉で、ふとトオコは、今この瞬間にでも彼が天に還る可能性があることを思い出した。
「そこで後悔しても、もう遅いんだ」
そう言う上司は、どこか悔しげで。まるで、かつて同じ経験をしたような口ぶりだった。
そうだ、トオコが彼の両親を天に還したように、見知らぬ誰かの言葉によって、彼がこの世界から消えてしまうかもしれない。
そうなったら、トオコはもう二度と彼と会うことはできなくなる。
嫌だ、とトオコは思った。
それだけは嫌。絶対に嫌。最悪、自分のことを嫌いになってもいい。別れてもいい。それも辛いけど、この世界で彼が笑って過ごせているのなら我慢する。その顔を遠くから見られるだけで幸せだと思うことにする。
だけど、彼がいなくなるのは嫌。この世界から消えて、もう二度と会えなくなるのは嫌だった。
もちろん彼が人である限り、この関係はいつかは終わる。カウントダウンは出会った時から始まっている。
だからこそ、トオコはまだ彼と一緒にいたかった。もっともっと、そばにいたいと思った。
今、彼までいなくなるのは、耐えられない。
「わ、わたし……!」
一体何をやっていたのだろう。
言いようのない後悔が、トオコの中で暴れ回る。
優先すべきは自分の気持ちではない。
そんなもの、彼と過ごせる時間に比べたらどうでもいい。悲しむのも落ち込むのも、彼が天に還ってからいくらでもできる。
今大事なのは、少しでも長く彼のそばにいること。自分を愛してくれた彼を、精一杯愛すること。それがトオコのすべきことだ。それ以外、大事なことなどない。
どうして気付けなかったのだろう。
トオコは自分の弱さと脆さに嫌気がさした。
にわかに焦り出したトオコを見て、上司はめんどくそうに息を吐いた。
「どうしてもって言うなら、今、お前を処分してもいいけど」
「……いえ、彼の元に戻ります。お騒がせして、すみませんでした」
「いーよ、別に。行くならさっさと行けよ」
そう言って、上司は後ろにある扉を指差した。
トオコは勢いよく頭を下げた後、ぎゅっと拳を握り締め、地面を蹴った。重たい扉を開け、非常階段を駆け降りる。
トオコの体は特別製だが、身につけているものは市販品だ。
衝撃に耐えきれず、途中でヒールも折れてしまったが、トオコは構わず走り続けた。
一刻も早く、彼の元に行きたかった。
『トオコさん、ありがとう。私の子を愛してくれて』
不意に、彼の母親の最後の言葉が蘇る。
『どうか、最後まで愛してあげて』
わかりました。最後まで愛します。絶対に。
声に出さずに、トオコは答える。
彼の両親は消えてしまった。この世界に2人を知っているものはもういない。
だけど、トオコは知っている。トオコだけは覚えている。
ならば2人の願いを叶えられるのも、トオコだけだ。
彼らの分まで、トオコは彼を愛するのみ。
やめるときも健やかなるときも、どんなに辛くても、どんなに苦しくても、どれだけトオコが罪悪感に押し潰されようとも、トオコは笑って、彼を愛そうと思った。
それが、トオコを愛してくれた彼への愛になると信じて。
溢れる涙を、トオコは腕で拭う。
家を出る前に一生懸命に塗ったマスカラとアイシャドウが、服の袖を醜く汚した。
つらいなぁ。
そんな本音がぽんと浮かび上がる。
彼が突然いなくなる日を想像するのも辛いし、いつか必ず、彼がいなくなってしまうのも辛い。
辛いことだらけで、嫌になってしまう。
だけど、強くならなくてはいけない。
これからも彼のそばにい続ける為にも、上司が言うような、どんな気持ちも飲み込んで笑えるほどの強さがほしいと思った。
やがて1階に着き、外につながる扉を開ける。
ぐちゃぐちゃになった顔で、トオコは前を見る。
空は暗い。夜明けはまだ、遠かった。



暗闇の中で、冬岡フユトはふと目を開ける。
どうやら、お風呂が沸くのを待っている間に眠ってしまっていたらしい。
体を起こし、ベッドのそばに落ちていたスマホで時間を確認する。
日付が変わって、少し経った頃だった。
お風呂のお湯は浴槽にいっぱいになったら自動で止まるものだったからよかったものの、旧式のものだったら今頃お湯が溢れて大変なことになっていたかもしれない。
ため息をひとつ落とし、フユトは浴室に向かう。
恋人のトオコのことが不意に頭を過ぎったが、それを振り払うかのように、フユトは上着を脱ぎ捨てた。

浴室の中は、温かな湯気に満たされていた。
フユトはプールや水族館など水が多いところは嫌いだったが、意外にも風呂は好きだった。
シャワーで体を流し、温かなお湯に体を沈める。
ふぅと息を吐き、首を浴槽の淵に置いて天井を見上げる。
湯気がふわふわとのぼっていく。
自分も湯気と一緒に、この温かな空気に溶けてしまいたかった。
今日の食事の終わり、トオコが突然大声を上げて駆け出した。もちろんフユトはすぐにその後を追った。だけど予想外にトオコの足が早く、あっという間にその姿を見失ってしまった。
周りにいた人間が何かあったのかと声をかけてくれたのだが、フユトは恋人が突然逃げ出してそれを探しているとは言えず、曖昧な笑みを浮かべて誤魔化すしかできなかった。
電話もかけたが留守番電話に繋がるだけ。メッセージも既読にはならない。
突然どうしたんだろう。何か怒らせることでも言ってしまったんだろうか。
フユトには全くわからなかった。
出会った時から、トオコは不思議な存在だった。
すごく綺麗でしっかりしてるのに、自分にあまり自信がない。見た目と中身がちぐはぐで、体だけ大きくなった臆病な子どものようだった。
それでもトオコは基本穏やかだ。大きな声を出したりしない。だから、彼女があんなに声を上げるのは珍しい。
きっと、自分が何かやってしまったんだろう。
フユトは両手で顔を覆う。
何故だろう。いつもだったら、彼女にもっと電話をかけたり、何かあったのかと彼女の家に行ったりしただろう。
だけど、今日はそんな気になれない。そうやって行動して、もしも何かが変わってしまったら。そう思うと怖くて動けない。このまま朝を迎えたら、何もなかったかのように、いつもの彼女と会えるのではないかと思ってしまう。
自分はこんなにも臆病だったのか、とフユトは落ち込んだ。
彼女が心の支えだったというものあるかもしれない。
今までだって落ち込んだことは何度もあった。そんな時、自分はどうやって立ち直ってきたのだろう。一応友人と呼べる人間は何人かいる。だけど彼らに相談した記憶はない。
だから、なんだかんだ自分は打たれ強い人間だと思っていた。
だけど、今日は駄目だ。些細なことで心が揺らぐ。不安で不安でたまらなくなる。
こんなことは今までなかった。一体何があったというのだろう。
今日はあの夢だって見ていないのに。
ざぁぁん。
耳元で、波の音がした。
フユトは慌てて顔を上げる。
見えるのは見慣れた浴室だ。空気も暖かい。決して海なんかではない。
わかっているのに、体の震えが止まらない。
「どうして女なんか産んだの!」
突如、ヒステリックな叫び声が浴室に響いた。
浴室にはフユト以外誰もいない。だけど、その声は壁に跳ね返り、ぐわん、とフユトの頭を揺らす。
この言葉をフユトは知っている。夢の中で何度も聞いた。
これは、フユトを生んだ母親を責める声。
「男を産めと言っただろうが!この役立たず!」
そして、夢の中で女として生まれたフユトを責める声だ。
無意識にフユトは逃げ出そうとした。だけど、体が動かない。咄嗟に声を上げようとした。いや、声は既に上げていた。泣き声を。フユトは泣き叫んでいた。それしかできなかった。
「ごめんなさいごめんなさい!お義母さま!許してください!次は男の子を産みますから……!」
自分を産んだ女が叫ぶ。その声は少し幼い。もしかしたら、まだ若い子なのかもしれない。
「あの子がどうしてもって言うから、あんたみたいな農民の子を家にいれてやったのに!この恩知らず!後継ぎひとり作れないなんて……」
年老いた女がガリガリと忌々しげに爪を噛む。
「しかも私に内緒で、そんな何の役にも立たない子を隠れて育てて…!悪いって思ってるなら、さっさと新しい子を作って!これは海にでも捨てておくから」
ざばり、という音とともにフユトを包んでいた温かな温度が消える。
実際、フユトの目には、湯気を上げるお湯がうつっているのに、体はみるみるうちに冷えていく。まるで外に裸で出されたように。
「やめてください、お義母さま!その子を返して!」
母親が必死に追い縋る音がする。
だけど、フユトの体の震えは止まらない。
寒い。寒い。怖い。怖い。怖い。この後どうなるか知っているからこそ、次に起こることが恐ろしい。
ざぁん、と波の音が近くなった。
「女なんか産んだあんたが悪いのよ」
そうして、フユトの体は宙に放り出された。
一瞬の浮遊感。その直後、フユトは水の中にいた。
苦しい。苦しい。体が動かない。水をかいて浮上することもできない。
遠くの方で、どぷん、と何かが飛び込んだ音がした。だけど、それが何か確認することもできない。
強い波に巻かれ、体はどんどん底のほうへ。
何かしなければ、とフユトは必死に体に力を入れる。
本当に赤子なら無理だが、今のフユトは大人で、これは夢だ。だって、そうじゃなければおかしい。
せめて体のどこかでも動かさなくては。
その瞬間、ぱちり、と視界が広がった。
目を開けることができたらしい。
喜ぶ間も無く、目の前にあったものに、フユトの体が固まる。
真っ黒い魚の目。
底に落ちていくフユトを狙っているかのように大きな目が、無感情にこちらを見ていた。
がぼり、と口から泡が溢れる。
その目達が、音もなく近づいて来る。
食べられてしまう。
いや、女のフユトはこうして死んでしまったのだ。
だから自分は男としてここにいる。
だって、フユトがはじめから男だったらこんな悲劇は起こらなかった。自分を産んだ若い女も義母に怒られなかったし、自分だってこんな苦しい思いをせずに済んだ。
全部全部、女である自分が悪いのだ。
ぐらりと思考が揺らぐ。息ができない。胃の底まで水が入り込む。苦しい。黒い目が見ている。
だから海は嫌い。水が嫌い。魚が嫌い。
ありのままの自分を認めてくれなかった、あの世界が。
「フユトさん!」
ざばり、という音ともに、視界が明るくなる。
見えたのは愛しい彼女の姿。綺麗な服が濡れるのも構わず、フユトの背に手を回し、抱き抱えているトオコの姿だ。
どうしてここに。そう問おうとするが、大量のお湯を飲んでしまったせいが、げほげほとむせてまともに話せない。
どうやらいつの間にか寝てしまい、本当に浴槽で溺れかけていたらしい。
湯船に浸かったまま、浴槽のヘリに寄りかかり、フユトは何度もお湯を吐き出す。
その背を、彼女はゆっくり撫でてくれた。
彼女の手は優しく、わずかに震えていた。
「ごめんなさい」
ようやく落ち着いてきた頃、彼女は泣きながらそう言った。
「不安にさせてごめんなさい。おかしなことをして、ごめんなさい」
くしゃりと顔を歪め、ぽろぽろと涙をこぼしながら謝る彼女を見て、フユトははたと気付く。
もしかして、自分は彼女に置いて行かれたことが原因で入水自殺をはかったと思われているのだろうか。だとしたら、彼女がこんなに思い詰めた顔をしているのにも合点がいく。
それは違う、と慌てて彼女に伝えようとした。
だが、なぜかその言葉が喉に突っかかって出てこない。
もし。
もし、そうだと言ったら、彼女は責任を感じて、ずっと自分のそばにいてくれるだろうか。
こんな悪夢を見ているおかしな自分を見捨てずに、ずっと愛してくれるだろうか。
ずっとずっと。たとえ自分が冷たい海に沈んでも、一緒に水の底まで落ちてくれるだろうか。
抱き合いながら深い海に沈んでいく自分達の姿を想像して、フユトは小さく首を横に振る。
そう誘えば、彼女は間違いなく一緒に行くと言うだろう。
彼女が自分に依存していることを、フユトはよくわかっていた。
ひとりで沈むのは怖い。だから、彼女にそばにいてほしい。それが本音だ。
だけど、自分のわがままで、彼女をあんな冷たいところに連れて行きたくはなかった。
彼女には、夢の外で待っていてほしい。
フユトが悪夢を見ても、目覚めた時に隣に彼女がいてくれるのであれば、何度沈んでも大丈夫。
そう思える気がした。
「ごめん。うっかり寝ちゃってたみたい。驚かせてごめん」
助かったよ、と彼女を安堵させるようにフユトは笑う。
だけど、彼女の涙は止まらない。
「ごめんなさい、ごめんなさい」
浴槽の床にぺたりと座り込み、泣きながら、ごめんなさい、と繰り返している。
このショックの受け様から、やはりフユトは自死を図ったと思われているのかもしれない。
とりあえず彼女を落ち着かせようと、フユトは湯船の中から手を伸ばした。
その柔らかな髪に、指を絡める。
黙ったまま優しく撫でていると、不意に彼女が顔を上げ、フユトを見た。
「私、もっと強くなる」
泣き腫らした真っ赤な目で、唐突に彼女は宣言した。
「今日みたいにあなたを置いて逃げることはもうしない。何があっても、あなたのことを一番に考える。あなたがどんなところに沈んでも、すぐに潜って迎えにいけるようになる。なるから、だから」
どうか私と結婚してください。
その言葉が、浴室にじわりと響く。
少し間の後、はたと気付いたフユトが慌てて弁解する。
「いや、さっきのは本当にうっかり寝てしまっただけで自殺しようとしたわけじゃなくて……。だから、その、そこまで責任を感じなくてもいいというか……」
まさか風呂で真っ裸の時にプロポーズの返事をもらうとは思わなかった。
狼狽えながらそう言うと、彼女は首を横に振った。
「違うの。私、あなたが好きなの。これからもずっと一緒にいたいし、少しでもあなたの力になりたいの。あなたが困った時に頼りなれるようになりたい。結婚したいっていうのは、この気持ちは今だけじゃなくて、これからもずっとだっていう宣言というか誓いというか……」
もごもごと付け加える彼女を、フユトは呆然と眺める。
その表情に何を思ったのか、彼女の顔が曇る。
「あ、あの、フユトさんの気持ちも確認せずに勝手に言ってごめんなさい。その、もう今日のことで嫌になったっていうなら、全然、その、すぐにここから出て行くし」
「嫌じゃない」
間違いなく嫌ではない。これで、フユトが望んでいた通り、彼女はずっと自分のそばにいてくれると誓ってくれたのだ。
「……本当にいいの?」
「うん。私、あなたの家族になりたいの」
そう言って優しく笑う彼女は、どこか泣き出しそうで。
本当は泣き叫びたいのを我慢して、震える手を誤魔化すためにきつく握りしめ、必死に顔を上げているように見えた。
「無理しなくていいよ」
「無理じゃないよ。無理なんかしてない。私、今は弱くて頼りないけど、あなたを助けられるくらい、強くなるから」
「強くならなくていいよ」
そう言うと、彼女がわかりやすく狼狽えた。
彼女の顔がみるみる青くなる。不安げに視線がさまよう。
きっとフユトが彼女を拒絶したと思ったのだろう。
彼女は昔からなんとかフユトの役に立とうとしている節があった。最近は落ち着いていたのに、フユトが溺れかけているのを見て、また変な癖が出てしまったのかもしれない。
「そんなに何もかもを背負わなくてていいよ。家族になるなら、なおさら。ちゃんと2人で考えよう」
フユトの言葉に、彼女の目が戸惑ったように揺れる。
「家族って1人が頑張るものじゃないでしょ。……僕に家族はいなかったけど、でも、そんな気がする。誰か1人が辛いのじゃなくて、みんなで笑い合える家族になりたい」
フユトは家族というものを想像する。父親は無口で、あまり話さないけど母親と子供のことが好きで。母親はよく喋って、いつも楽しそうに笑っていて。遊園地では父親はソワソワしながらも楽しそうで、母親もまるで子どものようにはしゃいでいて。そして、みんなで車で大好きな家に帰るのだ。
そんな家族を、フユトは夢見ていた。
「僕もトオコさんを守れるようになるよ。そりゃ、悪夢にうなされてばっかりで頼りないかもしれないけど、トオコさんがそういうなら僕だって頑張る。水は怖いけど、もし海のそばでトオコさんに何かあったら怖いし、その時に何もできないのは嫌だから。……水泳教室でも通おうかな。僕もトオコさん助けられるようになりたい」
そういう家族になりたいんだ。
彼女は何も言わず、その大きな目から、ぼろぼろと涙をこぼしていた。
フユトが安心させるように微笑んで濡れた手を伸ばすと、彼女はそろりと近づいて来た。
その細い肩を引き寄せ、濡れた胸の中にしまう。
できるかわからないけれども、彼女と一緒だったら頑張れる気がする。
まずは水着を買うところからだと思いながら、フユトは、ごめんなさい、と繰り返しながら泣きじゃくる彼女をそっと抱きしめる。

きっと素敵な家族になれるわ。
遠くで、懐かしい声が聞こえたような気がした。
「ハルノさん」
誰かに呼ばれた気がして、春は作っていた砂山から顔を上げた。
そこにいたのは自分よりも小さな子どもだった。名札の色から、2つ下の年少組の子だということがわかった。
「ハルノさん……!」
泣きそうな声で、その子が言った。
春は首を傾げる。春の名前は『はる』だ。はるの、という名前ではない。もちろん苗字も全然違う。
だから、きっと違う子に話しかけているのだろう。
そう結論付けて、春は砂山作りに戻る。
幼稚園の休み時間は貴重だ。
教室に戻ったら文字や数字の勉強をしなくてはいけないし、運動会が近いから、踊りの練習もしなくてはいけない。やらなきゃいけないことがいっぱいで、何も考えずに遊べるのは、この外遊びの時間くらいだった。
「ハルノさん……?」
不安そうな声が聞こえてくるが、気にしない。だってそれは春に言っていることじゃない。そんなことより、作った砂山の上に園庭の隅から拾ってきた枝と葉っぱをバランスよく置くことの方が大事だった。
この前は枝を探しているだけで外遊びの時間が終わってしまった。だから今日こそはきちんと完成させて、先生に見せてあげようと思った。
「……」
その子は変わらずに春の前に立っていた。小さな足が春の視界に入ってくる。そこにいられると、砂山が日陰になってしまって、葉っぱの色がくすんで見える。
これでは春の思うものが作れない。
「ねえ、そこ、どいて?」
春が声をかけると、その子は一瞬嬉しそうな顔をした後、可愛らしい顔を泣きそうに歪めた。
春としてはできる限り、優しく声をかけたつもりだった。同じ組の男の子みたいに、どけ!なんて言っていないし、強く押したわけでもない。
だから、そんなこの世の終わりだと思えるくらい、傷付いた顔をするなんて思ってもみなかった。
これは春のせいなのだろうか。謝った方がいいのだろうか。
春が言葉に詰まった時、園庭の真ん中にいた先生が、外遊びの時間の終わりを告げた。
周りの子達はみんな、走って園舎に向かっていく。
春も、急がなきゃ、とすぐに駆け出した。
次はなんの時間だっけ。ひらがなだったかな。でも、その前に砂を触ったから手を洗わなきゃ。
次にやることを一生懸命考えながら、園舎の入り口にたどり着いた時だった。
「何やっててるの!早く来なさい!」
入り口に立っていた先生が、春の後ろを見て、そう怒鳴った。
遊びの時間が終わりだと言っても遊び続ける子がいないわけではない。わざとボールを蹴りながら片付けたり、まっすぐ園舎に来たらいいのに、わざわざ鉄棒を経由して遠回りに帰ってきてみたり。そういう子に怒っているのだと思い、春はなんとなく振り返った。
園庭の真ん中に立っていたのは、さっき春の前に立っていた子だ。
その子は制服の裾を握りしめ、何かに耐えるように、苦しそうに涙を流していた。
その瞬間、春の胸の奥が騒ついた。
もしかして、春のさっきの言葉で泣いてしまったのだろうか。
妙な焦りが、春の心音を早くする。
立ち尽くしたまま動こうとしないその子に痺れをきらしたのか、さっき怒鳴った先生が、春を通り越してその子に近付いた。
「どうしたの?なんで泣いてるの?とにかく中に入るわよ」
先生は手を引いて園舎に連れて行こうとするが、その子はそこから動こうとしない。
先生が何を聞いても唸るような泣き声を漏らし、足を突っ張らせるだけ。
はじめは優しく聞いていた先生も苛ついてきたのか、次第に語尾が荒くなっていく。
「なんなの?ほら、外遊びだったら次もできるから、おいで!」
ぐい、と手を引くも、その子の足が石になったように動かない。
もういい、と先生は怒鳴り、その子を置いて春のそばに戻ってきた。
「もうそこで好きなだけ泣いてなさい!ほら、みんなも早く中に入って!」
先生の声に背中を打たれ、周りでなんとなくその様子を眺めていた子達が、ばらばらと中に入っていく。
春も慌てて靴を脱ぐ。だけどどうしても気になって、もう一度だけ、と園庭を振り向いた。
誰もいない園庭の真ん中で、あの子は1人で泣いていた。
この後に起こることは、春にはなんとなくわかる。あの子が自力でこっちに来ない限り、先生達は絶対にあの子を迎えにはいかない。
春も年中の頃、同じ目にあったことがある。
あれは運動の時間の前だったけど、春はどうしても絵本の続きが気になってしまい、読むのをやめられなかった。いつまで経っても準備をしない春に先生が怒り、無理矢理絵本を取り上げ、春の手の届かない高い棚の上に置いてしまった。それに春が怒り、泣いた。
先生は勝手に泣いていなさいと教室に春をひとり残し、他の子達みんなを連れて園庭に出て行った。
1人取り残された教室で、春は泣き続けた。正直、1人で教室に残されるのは心細かったけど、春にだって意地はある。ここでごめんなさいと謝って、みんなと合流したら、先生に負けたような気がした。だから、結局春は運動に参加せず、ずっと教室で泣き続けたのだ。
でも、と春は思う。
あの時、先生がもう一度戻ってきて、絵本を取り上げてごめんね、一緒に運動やろうと優しく言ってくれたら、春だって喉が枯れるまで泣き続けずに済んだ。次の日、声が出なくて、幼稚園を休むことになって、大好きな給食のカレーを食べ逃さずに済んだのだ。
今、園庭に立ち尽くしてるあの子だって、一緒なんじゃないか。
ふと、春はそんなことを思った。
泣き出してしまったけど、自分で止められなくなっているだけ。もう一度チャンスがあれば、もしかしたら自分から動けるかもしれない。
「春ちゃんも!何、ぼーっとしてるの?早く中に入りなさい!」
2年前に春を教室に置いていった先生が怒鳴る。
それを無視して、春は脱ぎかけた靴をもう一度履き、園庭に向かって駆け出した。
後ろで先生が怒っている声がする。だけど気にしない。
私から1回分のカレーをとった恨み、忘れてないから、と心の中で舌を出す。
そしてさっきまで春が作っていた砂山の前にいる、あの子の前にたどり着いた。
涙に濡れた目が、驚いたように春を見ている。
やっぱりこの子が泣いているのは、春のさっきの言葉のせいなのだろうか。
だったらまずは謝るべきかと春は口を開いた。
「さっき、どいてって言ってごめんね」
その子は何も言わない。ただ、ぱちりと瞬きをひとつしただけ。
まだ年少だし、もしかしたらよくわかっていないのかもしれない。
春は構わず、右手を前に差し出した。
「もう外遊びの時間、終わりなんだって。だから、一緒に帰ろう」
教室に、と言った時だった。
大きく見開いたその子の目から、ぼろぼろと大きな涙がこぼれ落ちた。
際限なく溢れてくるそれに、春はびっくりして、差し出した手を引っ込めそうになった。
その前に、小さな両手が春の右手を包む。
その子の顔がくしゃりと歪んだ。
「うん、うん……!いっしょに、かえりたい……!」
赤く紅潮した頬の上を、いくつもの涙が流れていく。
その軌跡をぼんやりと眺めながら、春は握られた手の温度を感じる。
なんとなく、この手をずっと待っていたような気がした。

おわり

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