雪の降る夢を見る。



「天使?」
聞こえてきたクラスメイトの話し声に、晴野(はるの)ハルは解いていた数学のプリントから顔を上げた。
「うん、3組の秋田くんが見たんだって」
「えー、秋田くんが?寝ぼけてたんじゃなくて?」  
「あははは、ありえるー」
声の主は3人の女子だ。
彼女達は教室の隅に集まり、きゃらきゃらと笑い合っている。
「なんかぁ、泣きながら空飛んでたって」
「誰が?秋田くんが?」
「違うよ、天使だってー」
そこで、一際大きな笑い声が上がった。
彼女達が笑うたびに、きちんと手入れのされた黒髪がさらさらと揺れる。まるで上質の簾のようだ、とハルは思った。寝癖がうまく直せず、いつもお団子にして誤魔化しているハルとは全然違う。
制服の下から伸びる彼女達の手も、日焼けなんてしたことがないほど白い。その先にある爪も、きちんと手入れがしてあるのか、つるりとして傷ひとつない。
昨日服に引っ掛けてしまい、醜くひび割れてしまった己の爪を、ハルはそっと指で隠した。
「しかも、その天使、高橋先生に似てたんだって!」
「高橋先生って司書の?」
「そうそう」
「えー、秋田くん、高橋先生のこと好きなのかなぁ」
はたと気付いて、ハルは真っ白なプリントに視線を戻す。
彼女達の話を盗み聞きしている暇はない。次の授業が始まる前に、ハルはこの数学のプリントを仕上げなくてはいけないのだ。
高校2年にもなって、宿題を忘れるとか恥ずかしすぎる。だから休み時間を返上して必死に解いているのだが、問題が難しく、なかなか思うように進まない。
その上、よく通る彼女達の声に思考がどんどん引っ張られていってしまう。
彼女達が噂する秋田アキヒコのことを思い出す。
ハルと彼は去年、同じクラスだった。
いつも明るく、話も上手な彼は、クラスの人気者だった。そのくせ誰とでも分け隔てなく接してくれる気安さもあり、教室の端っこにいたハルにも、よく声をかけてくれた。
そんな彼が、天使を見たという。
「ねぇ、ハルちゃんは知ってる?」
突然名前を呼ばれ、ハルは驚いて顔を上げる。
教室の隅で話してたはずのクラスメイトのひとりが、机のすぐそばまで来ていた。
驚きでうまく言葉を発せずにいると、彼女はハルの机の上に置かれているプリントに気付き、あれ、と声を上げた。
「ハルちゃん、珍しいね。宿題忘れたの?」
「あ、うん、昨日、学校に置いていっちゃって……」
「そうなんだ。私の写す?あ、でも、ちょっと今日のは自信ないなぁ……。ねぇ、誰か、次の数学のプリント見せてー」
彼女の澄んだ声に、教室で各々自由に過ごしていたクラスメイト達の視線が一斉にハルに集まった。無意識に、ハルの体に力が入る。
「ハルちゃん、プリント忘れたみたい。誰か見せてあげてー」
「あ、じゃあ、あたしの見る?」
教卓のそばでおしゃべりしていた一人が、一番前の机の中からプリントを取り出し、ハルの前に持ってきた。
善意しかない視線が、容赦なくハルに突き刺さる。
ハルは、ありがとう、と下手くそな笑顔を浮かべ、おずおずとそれを受け取った。
邪魔しないようにという気遣いからか、彼女達は頑張ってね、と言い残し、またそれぞれのおしゃべりに戻っていった。
そして再び、ハルの周りから人がいなくなる。
ハルは昔からクラス運が良かった。
小学校の時も、中学校の時も、そして高校2年になった今も、一度もハズレだと思うクラスになったことはない。
クラス内に、暴言を吐くような子や乱暴な子は一人もいない。多少グループで別れることはあったとしても、基本みんな穏やかで、誰かひとりを爪弾きになどしない。むしろ悩んでいる子がいれば、どうしたのと気にかけ、その子のために何かできないかと真面目に考える。
テレビやネットの向こうではイジメや自殺、体罰などのニュースが流れてくるが、ハルのいるクラスにおいて、そんなものは存在しない。少なくとも、ハルのいる学校でそんな話は聞いたことはなかった。
穏やかな子が集まっている学校だと入学式で言われた記憶はあるが、それでも思春期というこの時期に、こんなにもみんな穏やかでいられるものなのだろうか。
この学校の生徒達こそ、天使のようだ。
さっきの噂が、ふと頭を過ぎる。
もし、本当に天使がいるとしたら。
自分のそばにいてほしくない、とハルは思う。
だって、絶対に比べられる。そんな綺麗なものと比較されたら、ハルに勝ち目などない。
整った字で書かれた数式と割れた爪を見下ろし、ハルは誰にも聞こえないように、小さく息を吐いた。



ハルがその手紙を見たのは、2学期の期末試験の最終日だった。
全てのテストが終わり、帰る準備を終えたクラスメイト達が続々と教室を出て行く。
ハルも、さっさと帰ろうと荷物をまとめていた時、不意に担任の冬岡に声をかけられた。
どうやら数日前になくしたと思っていたハルのボールペンが、図書室で見つかったらしい。
そのペンは、高校の入学祝いに父親からもらった特別なものだった。光沢のある紺色のボディに金色のラインが入っている、ハルのお気に入り。
なくなってから必死に探したが見つからず、半ば諦めながら、冬岡に、もし学校のどこかで見つかったら教えてほしいとお願いしていたのだ。
まさか本当に見つかるなんて。ハルは嬉しさで飛び上がりそうになった。
ボールペンは今、図書室で保管されているらしい。
ハルは冬岡に礼を言い、急いでリュックに荷物を詰め込み、教室を飛び出した。

試験が終わったばかりの校内は、がらんとして人気がなかった。
冬の冷たい空気が廊下に充満し、その中でハルの足音だけが不思議なほど静かな廊下に響いていた。
その静けさが嫌で、ハルはわざとリュックを背負い直す。リュックの中で荷物がぶつかり、がさりと大きな音を立てた。
窓の外には裸で寒そうに凍えている木々がいる。まだ雪はないが、年が明けたらきっとこの景色は真っ白になるだろう。
そんなことを考えているうちに、1階の端にある図書室に着いた。
スライド式の扉をがらりと開ける。
図書室は、少し前まで自習する生徒で溢れていたことが嘘のように、ひっそりと静まりかえっていた。
入ってすぐ左手にある貸し出しカウンターにも、人はいない。
どうしよう。勝手にボールペンを探して持っていってもいいのだろうか。
ハルは誰かいないかと、ぐるりと図書室を見回す。等間隔に置かれた本棚。手前には自習用の大きな机がある。
その時、ハルはそこに、1人の男子生徒がぽつんと座っていることに気付いた。
佐藤チトセ。去年の、ハルのクラスメイトだ。
その姿を視界に捉えた瞬間、不思議な感覚がハルを襲った。
懐かしいような、悲しいような。それは子どもの頃お気に入りだったぬいぐるみを、大きくなってから、押入れの隅で見つけた時のような気持ちに似ていた。
扉を開けた音で気付いたのか、彼はまっすぐにハルを見ていた。
あどけない子どものような、つるりとした瞳。彼は、ハルと同い年でありながら、まるで小学生のような見た目をしていた。身長も155センチのハルよりも小さく、顔立ちも幼い。その為、去年のクラスで、彼はマスコットのように可愛がられていた。
何か言わなくては。
ハルが咄嗟に口を開いた瞬間、彼はがたりと立ち上がった。
机の上に広げていたノートや筆記用具を慌ただしくかき集め、隠すように腕に抱える。そして体を丸め、まるで逃げるような勢いでハルの方に向かってきた。
彼はひどく焦っているようだった。その勢いに気圧され、扉の前に立っていたハルは、道を開けようと横にずれる。
だが、向こうもハルを避けようと同じ方向にずれた為、不幸にもハルと彼の肩がぶつかってしまった。その拍子で、彼が抱えていたものが腕から溢れ、バサバサとその場に散らばる。
「ごっ、ごめん」
それは久しぶりに聞いた彼の声だった。
こっちこそごめん、とハルは小さく返す。そう言うのが精一杯だった。
彼が落ちてしまったノートを拾う為に屈んだのを見て、少し遅れてから、ハルも慌てて床に膝をつく。
近くにあったボールペンとシャープペンシルを拾い、そして床にに放り出された1枚の紙に手を伸ばす。
だが、そこに書かれている文字を見て、ハルの体は石のように固まってしまった。
『好きです。付き合ってください。佐藤チトセ』
整った綺麗な文字だった。
その言葉が何を意味しているか考える前に、彼の手がその紙を奪うようにして拾い、そのまま走るように図書室から出ていった。
慌ただしい足音が遠ざかるのを聞きながら、ハルは呆然する。
今見たものは何だったのか。いや、わかる。多分、あれはラブレターだ。
彼が書いていたのか。そうか、だからハルが来て、慌てて片付けたのだ。
そう納得しつつも、ハルはこの事態にひどく動揺していた。
彼はクラスメイト皆から可愛がられてはいたが、本人は控えめな性格で、積極的に誰かと話したりするようなタイプではなかった。色恋の噂も聞いたことはないし、彼にそんな下世話な話をしてはいけないような雰囲気もあった。
彼が17歳の男の子にしては幼い見た目をしていたから、余計に皆そう思ったのかもしれない。
だけど、そうか。彼にも思う人がいたのか。
誰かが誰かを好きになることは当たり前のはずなのに、彼がそんな生々しい感情を誰かに抱いていることに、ハルはひどく戸惑ってしまった。
「あれ、どうしたの?」
鈴の音のような声が聞こえ、ハルは慌てて立ち上がる。
見れば、貸し出しカウンターの向こうに、グレイのパンツスーツ姿の大人びた女性が立っていた。
司書の高橋トオコだ。
「いえ、あの、前にボールペンをここに落としてしまって……」
ハルがそこまで言うと、彼女は何か思い出したらしく、カウンターの下からハルのボールペンを出してくれた。
「これのことかな?見つかってよかったね」
「あ、ありがとうございます」
お礼を言いながら、差し出されたボールペンを受け取ろうと手を出した時、ハルは自分が手に何かを握っていることに気付いた。
シンプルな黒のボールペンとシャープペンシル。
自分のものではない。これはさっき図書室を出て行った彼が落としていったものだ。
「そんなに手で持って。ちゃんとしまっておかないと、また落とすよ」
くすくすと笑う柔らかな声に、ハルは慌ててリュックを下ろし、お気に入りのボーダー柄の筆箱を取り出す。
返してもらったボールペンを入れ、ほんの少し迷った後、握っていたペンも一緒に仕舞い、全てまとめてリュックに押し込んだ。

図書室から出て、ハルは大きく息を吐いた。
探していたボールペンが見つかったのは嬉しい。だけど、新たな悩み事がハルの胸を重たくさせた。
いやでも、見てしまったものは仕方がない。こっちだって見たくて見たわけじゃない。
ハルは心の中で、必死に言い訳をする。
例えばこれが、彼が書いているのをこっそり覗き込んだとか、彼が見せたくないのを無理矢理見たとかならこっちが悪いのだが、実際は違う。本当に偶然だった。
だけれども、人のラブレターを見てしまったという妙な罪悪感がハルの上にのしかかる。しかも、相手はよりにもよってあの佐藤チトセだ。あどけなくて、人の悪いところを知らない子どもみたいな。それだけでさらに罪悪感が増す。
廊下をとぼとぼと歩きながら、ハルは自分の筆箱にしまった彼のペンのことを考える。
とにかく、これを彼に返さなくては。それで、その時に彼に弁明をしなければいけない。
でも何と言えばいい。何も見てないと言ってもそれは嘘だし、また、見たけど誰にも言わないと言ったところで、向こうが信じてくれるかはわからない。
悶々と悩みながら歩いているうちに、気付けば昇降口にたどり着いていた。
もういいや。とにかく今日は帰ろう。
そう思って靴箱に手を伸ばした時、ハルは後ろから声をかけられた。
「晴野さん」
聞こえてきた声に、弾かれるように振り向く。
そこにいたのは、今まさにハルが頭を悩ませている原因の人物だった。
突然のことに、ハルの頭の中が真っ白になる。
何も言えずにいるハルに、彼は気まずそうに視線を下げた。
少し沈黙の後、彼は意を決したように口を開いた。
「……見た?」
彼の聞きたい事はわかる。
見た。確かに見た。だが、見た、と言っていいものか。
胃が浮くような気持ち悪い緊張感の中、無言のハルの表情から、彼は何かを察したようだった。
「ごめん、言いにくいよね。えぇと、別に怒って無いよ。晴野さんが見たことを気にしてたら申し訳ないなと思って聞いただけで……」
「いや、その、……こっちこそ、ごめん」
「ということは、やっぱり見たんだよね?」
こくりと頷けば、彼はそっか、と困ったように笑った。
「あ、あの、誰にも言わないから。信用出来ないかもしれないけど。本当にごめん。見るつもりはなくて」
「わかってる。僕もあんなところで書いててごめんね」
確かに、どうして彼はあんなところで書いていたのだろう。いくら期末試験後で生徒はいないとはいえ、人の目はある。現に、あそこには司書である高橋もいた。
互いに謝りながら、ハルはそんなことを思った。
「あの、晴野さん。それで客観的な意見を聞きたいんだけど」
「なに?」
「……見て、どう思った?」
まさかの質問にハルは目を瞬かせる。
どう。どうって。
何と答えたらいいのかわからず、固まってしまったハルに、彼が慌てて言葉を付け足す。
「へ、変なこと聞いてごめん。ああいうの書くの初めてで、変じゃないかちょっと誰かに見てほしかったから……」
つまりハルに、あのラブレターの印象を聞いているらしい。
とはいえハル自身もラブレターなんて見るのは初めてだ。だから、特に言えることはない。
だけど、無理にでも何か言わなければ終わらない雰囲気に、ハルは必死に言葉を捻り出した。
「えぇと、ちょっと短か過ぎるんじゃないかな」
「つまり、もっと長くしたほうがいいってこと?」
彼の言葉にハルが頷く。
すると彼は、そっか、と呟いた。
「わかった。もう少し考えてみる。晴野さん、ありがとう」
「あ、いや、そんな……。その、頑張ってね。それじゃあ」
そう言って、ハルは急いで靴を履き替え、逃げるように外に飛び出した。
校門まで一気に駆け、そこで足を止める。
ゆっくりと振り向く。
あるのは、白い校舎だけだ。彼の姿はない。
頑張って、なんて白々しい。
脳内でハルを嘲る声がする。
ハルは、ぎゅ、と手を握り、校舎に背を向け、わざとゆっくり足を踏み出した。



ハルは、自分は恵まれていると思っている。
育ててくれた両親は優しい。厳しいこともあるが、理不尽にハルを怒ったりはしない。何かあっても、まずはハルの考えをきちんと聞いてくれる。2つ下の弟も、素直ではないところはあるものの、それでも姉であるハルを無下にしない。時折ハルのことを気遣って、不器用ながら話しかけてきてくれる。
生活にも困った事もない。毎日食べるものはあるし、毎月もらえるお小遣いを貯めて、自分で好きなものを買うこともできる。
学校生活もそうだ。クラスメイト達は皆優しく、うまくクラスに馴染めないハルを無視したりせず、話しかけてくれる。もちろん、いじめられたこともない。
ハルの生活は、平和そのものだった。
だが時折、いないはずの誰かがハルに囁く。
何もしていないお前が、こんなに優しくされていいと思っているのか。
その声にハルは同意する。
確かにそうだ。自分は、優しくしてくれた彼らに何もしていない。心を砕いてもらっておいて、彼らに何も返していない。
優しくしてもらったからには、何かそれに見合ったものを返すべきだ。
ハルはそう思う。だが、その返すべきものがわからない。
わからないから、優しくしてもらうたびにハルは戸惑ってしまう。
そんなにされても、何も返せない。何もあげられない。ハルには何もない。
せいぜいハルにできるのは、彼らを困らせないよう笑って静かにしていることだけ。
現状に不満などない。天使のように優しい人たちに囲まれて、不満などあるはずがない。
ハルは恵まれている。幸せで幸せで、幸せでしかない。
そのはずなのに、ハルは時折、無性に悲しくなる。
理由はわからない。ただ悲しい。
胸の奥に真っ暗な空洞があって、そこが悲鳴を上げているみたいだ。
ハルが優しくされればされるほど、その穴から悲しさが溢れてくる。
そうして囁くのだ。そんなに優しくされる価値が、お前にはあるのかと。
こんなに恵まれているのに。こんなに幸せなのに。
どうしてこんなに悲しいのだろう。
自分はひどい贅沢者だ。
ハルはそう自分を罵った。

期末試験が終われば、終業式はすぐそこだ。
授業が終わり、ハルは筆箱にシャープペンシルをしまった。
ペンや色とりどりのマーカーが入っているその中に、自分のものではないものが2本ある。
それはあの日、彼に返しそびれたものだった。
あの後、何度か隣の隣のクラスの彼に返しに行こうとしたのだが、ハルが行った時に限って彼はおらず、また誰かに預けるのも気が引ける為、あの日からずっと返せずにいた。
もうすぐ冬休みに入ってしまう。こんな気まずいものを抱えたまま、年を越したくない。
そう思い、ハルは今日も放課後、彼のクラスに行った。
教室は全て同じレイアウトのはずなのに、自分のクラスじゃないというだけで、何故か妙に居心地が悪くなる。だから、正直あまり長居はしたくなかった。
扉からちらりと覗けば、人で溢れる教室の中に彼の姿があった。
彼は窓際の1番前の席に座り、机の中から教科書を取り出していた。
確か彼はハルと同じで、部活には入っていなかったはずだ。だから、多分このまま帰るのだろう。
誰かに用事?呼ぼうか?と聞いてくれる優しい人達を断りながら、ハルは扉の影で彼が出てくるのを待った。
しかし、彼はなかなか出てこない。
気付けば、教室内は静まりかえっていた。
もしかして、彼が出て行ったのに気付かなかったのだろうか。
ハルが慌てて教室を覗けば、彼はさっきと同じ席にぼんやりと座っていた。
机の上には彼のものと思われる鞄が置かれたままだ。
誰かを待っているのだろうか、とハルが思った時、正面を向いていた彼の顔がふとこちらを向いた。
彼の目がハルを見て、驚いたようにぱちりと瞬いた。
「晴野さん。どうしたの?」
彼の声に、不意に胸が跳ねる。
よく考えたら、彼とこうして2人で話すのは随分と久しぶりだ。クラスが離れてから、あまり会うこともなかった。
そのせいだろうか、何故か妙に緊張する。
それを誤魔化すように、ハルは下手くそな笑みを浮かべながら教室に入り、握っていたペンを彼に差し出した。
「あの、これ、先週、図書室で拾ったの。ごめん、返すのが遅くなって」
「ううん、大丈夫。ちょうどよかった。ちょっと晴野さんに見てほしいものがあって」
はい、と、彼はペンと交換するように、机の中から1枚の紙を取り出した。真白い、なんの変哲もないルーズリーフ。
そこには、『ずっと好きでした。付き合ってください。佐藤チトセ』と書いてある。
「晴野さんの言う通り、長くしようとしたんだけど、なかなかうまく出来なくて……。他にどういうこと書いたらいいと思う?」
まさかの質問に、ハルは言葉を失ってしまった。
「え、えっと……」
「このことを相談できるの、晴野さんしかいなくて。どんなことでもいいから言ってくれないかな」
縋るような視線を向けられ、ハルは困惑した。
ハルには人に話せるような恋愛経験はない。告白された経験もないし、ましてやラブレターをもらったこともない。
そんな自分に、一体何が言えるのか。
ハルは必死に考える。
そもそも、ハルならどうするだろう。自分は、好きな人にこんな手紙を書くだろうか。
いや、ハルにはできない。こんな自分の気持ちをさらけ出すようなことは無理だ。自分の気持ちが書かれているものを誰かに見られるというだけで、羞恥で発狂しそうになる。
そう考えれば、彼はハルに手紙を見られてもそこまで狼狽えているようには見えない。
彼は見られても平気なのだろうか。
ハルにはなんだか信じられなかった。
「晴野さんは、この手紙をもらったらどう思う?」
なにも言わないハルに助け船を出すかのように、彼が聞いてくる。
もしハルがこの手紙をもらったら。
そんなの、嬉しいに決まっている。
誰かが自分のことを好きでいてくれる。その事実だけで、ハルは蕩けてしまいそうなほど嬉しい。
こんな自分を愛してくれる人がいる。それだけで、許された気持ちになる。
「……これでいいと思うんだけど」
ハルの答えに、彼は不満そうに唇を突き出した。
その子どものような表情が、彼には妙に合っていた。
「……でも、僕にはやっぱり、晴野さんが言ったみたいに何か足りない気がするんだ」
「私の言ったことは気にしなくていいよ」
「ううん。僕も確かにそう思うんだ」
だから悩んじゃって、と彼はハルの手からそっと紙を受け取り、そこに目を落とした。
「もっと書きたいけど、なにを足していいのかわからなくて」
「何を書きたいの?」
「……わからない」
彼は落ち込んだように呟いた。
これだけだと自分の気持ちが伝わる気がしなくて不安、ということだろうか。
でも、手紙にあまりに書きすぎてしまうと、それはそれで重いと思われてしまう可能性もある。
「やっぱり、これでいいんじゃないかな。長すぎても、読むのは大変だし」
「そう?」
「その代わり、渡す時に一言添えるとか、綺麗な便箋にするとか、そういうのどうかな?」
ハルの言葉に、彼は確かに、と頷いた。
「そうだね。この紙のままじゃない方がいいよね。今度、文房具屋にでも行ってみるよ」
「うん、頑張ってね」
それじゃあ、とハルは彼に背を向け、教室を出た。
扉から出た後、なんとなく振り向けば、彼は座ったまま、手の中にある紙を見つめていた。
嬉しそうに口の端を上げて、とても愛おしそうに。
まるで、その手紙の先に大事なものがあるみたいだ。
そんな風に想われるなんて、羨ましい。
湧き上がってきた感情を飲み込み、ハルはわざと足音を立てて廊下を駆けていった。



ハルには苦手なものがたくさんある。
酸っぱいトマトや、熟れて柔らかくなったバナナ。強い香水の香り。髪を洗っている時にふと見える鏡。身長の大きな人。大きな音。静かすぎる場所。毎年冬に必ず降る雪。
どれもこれも、致命的に駄目というわけではない。それなりに我慢できる。だから、ハルがこれだけ苦手なものを抱えていることを、多分家族ですら知らないだろう。
苦手なもののことをハルが他人に話したのは、たった一度だけ。

ハルはバスから降り、顔を上げた。
そこは駅前のロータリーで、多くの人が寒そうに背中を丸めて歩いている。
年明けから雪が徐々に降りはじめ、あっという間に街は真白に染まってしまった。
雪のせいで、いつもよりも静かに感じる街の中を通り抜け、ハルは駅前にある大きなビルに入った。
今は冬休み。暇を持て余したハルは、何か面白い本でもないかと、このビルにある書店に来たのだ。
エスカレーターで、書店のある6階に向かう。
ハルはエレベーターが苦手だった。
エレベーターで行った方が早いとわかっている。だが、ハルはどうしても、あの狭い空間が好きにはなれなかった。扉が開かなかったらどうしよう。もし閉じ込められたら、水などをどうやって確保したらいいのか。乗る前にコンビニで飲み物でも買ってこればよかった。そんなことをいつも考えてしまう。
その点エスカレーターは安心だ。出ようと思えば、いつでもコンベアベルトの外に飛び降りることもできる。囲われていないから、外の様子もよくわかる。だからハルは、いつもエスカレーターを使うようにしていた。
エスカレーターを降りれば、そこはもう書店の中。
冬休み中ということもあり、学生の姿も多くあった。
室内は暖房が効いていて暖かい。口元まで覆っていたマフラーを外し、腕にかける。
そして顔を上げた時に、ハルの視界に思わぬ人物がうつった。
高校生には見えない小柄な体。佐藤チトセだ。
「あ、晴野さん」
ハルが物陰に隠れるよりも先に、こちらに気付いた彼が笑顔で声をかけてきた。
明けましておめでとう、とにこにこと言ってくる彼に、ハルもぎこちなく年始の挨拶を返す。
同級生と学外で会うと、どうしてこんなに気まずく感じるのだろう。
もう少しちゃんとした格好をしてくればよかった、と、ハルは意味もなく、手に持ったマフラーをたたみ直した。
「晴野さんは、何か買い物?」
「うん。佐藤くんは?」
「僕は便箋を見にきたんだ」
そこで、ああ、と思い出す。
彼はまだ、あの手紙の事で悩んでいるのか。
「休みの間、色々と探したんだけど、なかなか良い便箋が見つからなくて」
困ったように彼は笑った。
「僕、こういうの決めるの苦手で、なんとか考えて決めても、それが的外れなことが多くて、いつも怒られちゃうんだ」
ぽつりと彼がこぼした言葉に、ハルは少し驚いた。
こんな優しい世界でも、彼にそんなことを言う人がいるのか。
ハルも優柔不断な方だが、少なくとも家族やクラスメイトから不満を言われた事はない。彼と同じクラスだった去年もそれは同じで、決断が遅い彼のことをクラスメイトは誰一人責めたりはしていなかった。
それとも、ハルの知らないところで、彼は何か言われていたのだろうか。
「あ、クラスの皆じゃないよ。クラスの人達は皆すごく優しい」
ハルの視線に気付いたのか、彼は慌ててそう言った。
「そうなんだ。そっちのクラスの人達は優しい?」
「うん、優しいよ。みんな優しくて、賢くて、なんだか自分が情けなくなってくる」
彼はそう、目線を下げて笑った。
その気持ちは、ハルにも痛いくらいにわかった。
ハルの周りのクラスメイト達は、とにかく人間ができている。理不尽なことで怒らないし、相手の話をきちんと聞こうとしてくれる。引っ込み思案なハルにも折々できちんと意見を聞いてくれるし、大したことが言えなくても責めたりしない。大丈夫だよ、と笑って受け入れてくれる。
その優しさに、ハルはたまに押し潰されそうになる。
「……わかる。私もたまに、あの人達の駄目なところを見てみたいって思う」
見て、安心したい。
あの人達も、ハルと何も変わらないのだと思いたい。
「……変なこと言ってごめん」
「ううん、僕の方こそ」
ハルが謝ると、彼は申し訳なさそうに眉を下げた。
正直ハルは、彼もクラスメイトと同じ、優しくて完璧な人間側だと思っていた。
だけど、そうか。彼もハルと同じようの悩んでいたのか。ハルだけでは、なかったのか。
その安堵が、ハルの心をほんの少し軽くしてくれた。
「便箋、良いの見つかるといいね」
「うん」
彼がいつものような笑顔を見せてくれる。
それだけで、ハルの胸が暖かくなった。
もし、と、ハルの口からするりと言葉が出てくる。
「また何か悩んだら、私でよかったら、また相談にのるよ。私もあんまりセンスないけど」
ハルの言葉に、彼は一瞬驚いたような顔をした。
その表情に俄に恥ずかしくなり、ハルは、それじゃあ、と少し大きめの声を出して、足早にその場から去った。
お気に入りの出版社の棚に向かい、彼の姿が見えなくなったところで、はぁ、っと息を吐く。
最後の言わない方が良かっただろうか。余計なお世話だろうか。
ハルが言わなくても、多分彼が悩んでいることを知れば、優しい誰かがきっと同じようなことを言うだろう。
だけど、ハルが言いたかったのだ。他の誰ではない、ハルが彼を励ましたいと、そう思ったのだ。
どくり、どくりと心臓がやけにうるさく鳴っている。
そのことに、ハルは必死に気付かないふりをした。



あれはまだハルが高校1年生だった頃。
あの日は図書室で図書委員会の集まりがあった。
委員会が終わり、多くの生徒が図書室を出て行く中、ハルはひとりそこに残り、借りたばかりの本を読んでいた。
窓の外は雪が降っていた。ハルの苦手な雪が。だから、なんとなく帰る気になれなかった。
静かな図書室で時間だけが過ぎていく。
そのうちに陽が陰ってきて、辺りは徐々に暗くなっていった。
雪が降っている上に、暗い道を歩くのはさすがに嫌だ。
ハルは読んでいた本を閉じ、諦めて立ち上がった。
そうして図書室を出てたどり着いた昇降口で、ハルは思わぬ人物から声をかけられた。
その人物とハルは同じクラスだが、特別仲が良いというわけではない。ハルは自分から男子と話す方ではないし、彼も積極的に誰かと話す方ではない。彼はどちらかというと受け身で、誰かに話しかけられても、申し訳なさそうに答えている印象がある。
そんな彼が突然、一緒に帰ろう、と言ってきたのだ。
突然の彼の誘いに、ハルはひどく驚いた。
断ろうかとも思ったが、断ったところで校門まではどうせ一緒になる。それも逆に気まずく、また辺りはだいぶ暗くなってきているし、苦手な雪も降っている。こんな時はひとりではなく、誰かと一緒にいたい気持ちもあった。
だから、ハルは彼の誘いにこくりと頷いた。

静かな薄暗い道を、ハルは佐藤チトセと並んで歩く。
ハルの手には使い慣れた薄紫色の傘。彼の手には、透明なビニール傘。
その上から、白く重たい雪がはらはらと降り注いだ。
2人の間に特に会話はない。そもそも共通の話題も浮かばない。
校門の前にあるコンビニの辺りまでは、雪がすごいね、くらいの会話はしていたが、その話もすぐに終わってしまった。
ざく、ざく、と雪を踏みしめる音だけが、誰もいない道に響く。
無言の時間が苦痛になり、ハルが一緒に帰ることを後悔し始めた時、思い出したように彼が口を開いた。
「そう言えば昨日、家で卵を割ったら黄身が2つあって」
突然何の話かと思ったが、やっと生まれた会話に、ハルは飛びついた。
「そうなんだ。珍しいね」
ハルの答えに満足したのか、彼は安堵したように話を続ける。
「うっかり混ぜちゃってから、写真撮っておけばよかったって後悔して」
「わかる。そういうのって、後で気付くよね」
「もう1回卵割っても普通ので」
「まぁ、そうだろうね」
「写真撮りたくて、家にある卵全部割っちゃったから、昨日の夕食はすごく大きな卵焼きだった」
「そうなんだ。たくさん割って怒られなかった?」
「誰に?」
「え?」
誰って。
ハルは一瞬絶句してしまった。
もしかしたら、これは聞いてはいけないことだったのだろうか。
それとも彼は一人暮らしだったのだろうか。確かに高校から寮や親元から離れて一人暮らししている人がいるということは知っているけど、ハルの高校では珍しい。
いや、彼が一人暮らしだったのなら、一人暮らしだから、と言ってくれたらいい話だ。
それなのに彼が驚いたように固まってこっちを見ているから、ハルは余計に焦ってしまった。
「ご、ごめん。変なこと聞いちゃった。それで?続きは?」
「あ、いや、僕の方こそ、ごめん……」
そこから、彼は電源の切れた機械のように何も言わなくなってしまった。
やってしまった、とハルは頭を抱えたい気分になった。
どうしてそこであんなことを聞いてしまったんだろう。家族のことなんてデリケートな話題に決まっている。聞かれたくないこともあるだろうし、本人だって言いたくないはずだ。
聞くにしてももっと別のことを尋ねればよかった。
こういう配慮ができない自分が、ハルは本当に情けなくなる。
何か言わなければ。
だけどハルが焦れば焦るほど、話すべき言葉は浮かんできてくれない。
気まずい空気が2人の間に流れ始めた時、彼がようやく口を開いた。
「……ごめんね、急に一緒に帰ろうなんて言って」
驚いたよね、と気落ちしたような声が雪の中に静かに浮かぶ。
ちらりと彼の顔を見れば、彼はハルを見ておらず、そっと目を伏せていた。
彼のまつ毛が、薄茶色の瞳に影を落としている。
なんとなく、子供の時に見たフランス人形のことを、ハルは思い出していた。
「その、晴野さんが一人で帰ろうとしているのが見えて、もう暗くなるし、一人で帰るのは危ないから一緒に帰ろうと思ったんだけど……。よく考えたら、急に誘われたらびっくりするよね。気まずい思いをさせちゃってごめん。せめて僕が、もっと話し上手だったらよかったんだけど……」
「そんなことないよ」
ハルは慌てて彼の言葉を否定した。
「そんなことないよ。私だって、それは同じだよ」
ハル自身が話し上手だったら、もっと2人の会話を盛り上げていたら、きっと彼だってこんな風に落ち込んだりはしなかっただろう。
そう言うが、彼の眉は下がったままだ。
どうしよう。ハルは困ってしまった。
彼は悪くない。クラスの他のみんなと同じ、ただ優しい人だ。
一人で帰るハルを気遣ってくれただけ。何も悪いことをしていない。それなのに、こんなにも申し訳なさそうにしている。
ハルに優しくしたせいで、彼は落ち込んでしまったのだ。
ハルが、ハルのせいで。
腹の奥で、何かが締め付けられるような気がした。
「違う、佐藤くんのせいじゃない」
ハルには、もうそれしか言えなかった。
優しい人が自分のせいで落ち込んでいるのは嫌だった。
優しい人に何も問題はない。優しいことは悪くない。悪いとしたら、その優しさをきちんと受け止められないハルの方だ。
せっかく優しくしてもらったのに、ハルは何も返せない。優しい人を傷付けることしかできない。
この優しい世界に、自分は必要なのか。
何も言えなくなったハルに、彼が困ったような笑顔で、もう一度、ごめん、と言った。
その言葉が、静かにハルを責め立てる。
どうしよう。どうしよう。
悩んでいる間にも、ハルの家が見えてくる。
ハルの家は高校から歩いて15分くらいのところにある。
そこで彼との帰り道は終わる。でも、こんな気まずいままで終わりたくない。
ぐるぐる考えている間にも足は動き続け、とうとう家の前に辿り着く。
それじゃあ、と言う彼の口が「そ」の形になった時、ハルは頭が真っ白になり、そして気付けば、彼に明日も一緒に帰ってもいいかを聞いていた。


どうしてあんなことを言ってしまったんだろう。
次の日の放課後、ハルは昨日勢いで言ったことを後悔し始めた。
でも、嫌だったのだ。ハルに優しくしてくれた彼を落ち込ませたままでいるのが。
言うなれば、ただの自己満足だ。
だが、今更悔やもうと、約束をしたのだから、ハルはこの後、彼と2人で帰らなくてはいけない。
一応いくつか話題になりそうなものは考えてきたのだが、その話に彼が興味を持ってくれるかはわからない。
でも、やるしかない。だってハルから言い出したことだ。
約束したのだ。約束は守らなくてはいけない。
よし、と心を奮い立たせて、ハルは彼のいる教室を覗いた。
まばらに残っている生徒の中に彼の姿はない。
あれ、と思って玄関に向かう。そこにも彼はいない。
もしかして急用ができて、先に帰ってしまったのだろうか。
彼に連絡を取ろうにも、連絡先もわからない。
さて、どうしようかと悩んでいると、後ろからバタバタと慌ただしい足音が聞こえた。
振り向くと、廊下の向こうから彼が走ってくるところだった。
「ごめん!うっかり高橋先生と話し込んじゃって……!」
彼の話によると、図書室の前でばったり会い、立ち話をしているうちに時間が経ってしまったらしい。
他の人とは普通に話が盛り上がったりするんだ。
ハルは無意識に、ぎゅ、と自分の手を握る。
「大丈夫だよ。私も今来たところだから。高橋先生と何の話していたの?」
「あ、いや、大した話じゃないよ」
彼は誤魔化すような笑みを浮かべ、ハルの前を通り過ぎていった。
その態度に、ほんの少し胸が騒ついた。

彼と並んで歩きながら、ハルはたくさん彼に話しかけた。
昨日見たテレビのこと。教室で聞いた面白い話。可愛かった犬の話。
だけどどれもこれも上滑りをしているような気がして、それが不安でハルはさらに多くのことを話し続けた。
こんな話、面白くもなんともないだろう。
ハルは思う。
でも、彼はどんなつまらない話でも、うん、うん、と頷きながら聞いてくれた。
彼は優しかった。こんなハルの話もにこにこと聞いてくれる、優しい人だった。
そんな人を昨日は悲しませてしまったのかと思うと、情けなくて自分をぐちゃぐちゃに千切ってやりたい気分になる。
ごめんなさい、と心の中で詫びながら、ハルは話し続けた。
話して、話して、話して。ふと気付けば、目の前にハルの家があった。
そこで、ようやくハルのおしゃべりが止まる。
話しながら歩いてきたせいか、はぁ、はぁ、とハルの息が上がっている。
いつのまにか、空から大嫌いな雪が降っていた。だけど、話すことに夢中で、今の今まで気付かなかった。
こんなこともあるのか、とハルがぼんやり思った時、彼がゆっくりと口を開いた。
「今日は、たくさん晴野さんの話を聞かせてくれてありがとう。すごく楽しい帰り道だった」
ふわりと笑って言われた言葉に、カッと体の中が熱くなった気がした。
今思えば、あれはただの社交辞令かもしれない。だけど、あの時はまさかそんなことを言ってくれるなど思っても見なかったから、ただただ驚いた。そして、嬉しかった。ハルの無駄かもしれない頑張りを、彼はちゃんとわかってくれたような気がしたのだ。
「私の方こそ」
気付けばハルの口から言葉が飛び出していた。
「私の方こそ、ありがとう。昨日、本当は一人で帰るのが嫌だったの。私、正直、雪があまり好きじゃなくて、一人で帰るのは心細かったから。だから、佐藤くんが一緒に帰ろうと言ってくれて嬉しかった」
彼の目が驚いたように、きゅうと開かれた。
その反応に、途端にハルは恥ずかしくなる。
「とにかく、ありがとうね。それじゃあ!」
そう言って、逃げるように家の中に駆け込む。
バタンと扉を閉め、その扉に寄りかかり、両手で口を押さえる。
変なことを言ってしまっただろうか。
いや、あれはただのお礼だ。おかしいところは何もなかったはず。
ハルの予想では、彼がそんなことないよ、と笑って、それで、また明日、と普通に別れるはずだったのに。
あんな驚いた顔をしなくても。ハルがお礼を言うことがそんなに驚くようなことだったのか。そんな礼すら言わないような人間だと思われていたのだろうか。それはそれで悲しい。
落ち着かせるように息を吐き、ハルはゆっくりと扉についている覗き穴を覗く。
そこにはもう誰もいなくて、白い雪だけが音もなく降っていた。

それから、ハルはなぜか彼の顔を見るのが恥ずかしくなり、彼と一緒に帰ったのは、結局この日が最後だった。



「あ、ハルちゃん。奈津川(なつかわ)さん、知らない?」
3学期が始まったある朝。
教室に着き、鞄から教科書を出していると、不意に名前を呼ばれた。
ハルの席は廊下側の一番後ろだ。
教室の後ろの扉に近いせいか、こうして他クラスの生徒から声をかけられることが増えた。
またか、と思って振り向くと、そこには去年同じクラスだった秋田アキヒコが入り口から顔を覗かせていた。
ハルよりも頭ふたつ大きな身長。ハルの苦手な大きな人なのに、不思議と怖くない。それは多分、彼がゴールデンレトリバーを思わせるような愛らしいふわふわとした茶色い髪と、人懐っこい笑顔をしているからだろう。
彼には、人の警戒心を解いてしまう不思議な魅力があった。
「えっと、奈津川さん?」
「うん、奈津川さん。もう来てる?」
彼の言う奈津川さんとは、ハルと同じクラスの奈津川ナツキのことだろう。美術部で、確かいつだったか何かの賞をとったと全校集会で表彰されていた。
ハルが来た時、彼女はすでに教室にいて、荷物を片付けていた。だが、今教室にその姿はない。トイレにでも行っているのかもしれない。
「奈津川さんは、さっきまでいたはずなんだけど……」
「そっか、先生から渡してほしいものがあるって頼まれたんだけど……。なら、ちょっと待とうかな。ハルちゃん、最近どう?」
「ふ、普通かな」
ハルは答えながら、ぎこちない笑みを返す。
秋田アキヒコという人は、誰が相手でも、こうして気安く話しかけてくれる。その分け隔てない態度が、多くの人に好かれる要因でもあるのだろう。
現に、ハルのなんの面白みのない答えにも、普通が1番だよ、とにこにこと相槌を打ってくれている。
「あ、そういえばハルちゃんも聞いてる?俺が天使見たって話」
「う、うん。高橋先生似の天使を見たって……」
「そう、その噂!マジで迷惑なんだけど!」
突然大きくなった声に、ハルは目を見開く。
大きい声は苦手だった。勝手に体がすくむ。自分が怒られていなくても、自分が怒られている気分になる。
固まってしまったハルに、彼は慌てて謝ってきた。
「あ、大きな声出してごめんね。でも、その噂、違うんだよ」
「違う?嘘ってこと?」
「うん。俺、天使なんか見てないし」
その言葉に、ハルは目を瞬かせる。
「気付いたら、あんな噂が広がっててさ。しかも、俺が高橋先生に惚れてんじゃないかって噂まで流れてるし。これはさすがにヤバイと思って、今、少しずつその噂を訂正してるところ。ハルちゃんも誰かに聞かれたら、違うって言っておいてくれない?」
わかった、とハルは頷いた。なんてことだ。あれが完全なデマだったとは。
誰かに言わなくてよかった、とハルはこっそり胸を撫で下ろした。
その時だ。ふと廊下に視線を向けた彼が何かに気付き、声を上げた。
「あれ、チトセ、久しぶりー。誰かに用事?」
チトセ、という名前に、ハルの心臓が大きく鳴った。
佐藤チトセは去年、ハルと同じクラスだった。つまり当然、秋田アキヒコとも顔見知りだ。
いや、だが、まだ本人と決まったわけではない。チトセという名前も、そこまで珍しいものではない。
だが、ハルの願いも虚しく、教室の入り口から申し訳なさそうに顔を出したのは佐藤チトセ本人だった。
「あの、晴野さん、図書室で高橋先生が呼んでて……」
「え?」
一体何の用だろう。考えてみるが、特に思い当たる節はない。前は図書委員会だったが、今はもう違う。
教室の壁にかけられている時計をちらりと見る。朝のホームルームが始まるまで、あと15分。
だが、呼ばれているなら行かなくては。早くしないと間に合わなくなってしまうだろう。
とりあえずハルは2人に、じゃあ、と小さく頭を下げ、図書室に向かうことにした。

図書室を生徒が自由に使っていいのは、昼休みと放課後だ。
だから今のような朝の時間、図書室に向かう廊下に人気はない。
そこに、ぱた、ぱた、とハルの足音が響く。そしてその後ろから、足音がもう一つ追ってくることに気付いた。
ハルは足を止め、振り向く。
「どうしたの?佐藤くん」
気まずそうにこちらを見る彼に、ハルは尋ねた。
何か伝え忘れたことでもあったのだろうか。
彼はハルの問いに、あ、う、と言葉を漏らした後、ごめん、と言った。
ハルは首を傾げる。
「どうしたの?」
「その、ごめん。本当にごめん」
「私は大丈夫だよ。どうしたの?」
ひどく戸惑っている彼を焦らせないよう、なるべくゆっくり尋ねる。
すると彼はぼそぼそと話し出した。
「本当は、高橋先生は晴野さんのこと呼んでなくて……」
「あ、そうなの?」
「うん。あの、晴野さんにこっそり話したいことがあって……。でも秋田くんと話してたから、後にしようとしたら秋田くんに見つかっちゃって……」
そこで正直に言うわけにもいかず、咄嗟に嘘を言ってしまった、ということらしい。
もう一度、頭を下げて、ごめん、と謝る彼に、ハルは、いいよ、と返す。
確かに、2人で話したいことがあるから、と呼び出すのは、いささかハードルが高い。
ハルも同じ立場だったら、彼のように嘘をついていただろう。
「それで、私に話したいことって?」
「あ、うん、その」
そう言って彼はブレザーの内ポケットから、白いシンプルな封筒を出してきた。よく見ると、真っ白ではなく、うっすら黄色い花の模様が描かれていた。
彼が宛名面を胸に当てるように持っているせいで、宛名は見えない。
不意に彼が書いていたあの文章を思い出し、ハルの心臓がどくりと大きく鳴る。
「手紙、ちゃんと自分で便箋選んで、書くことができたんだ」
「うん」
ハルの喉がごくりと鳴る。
どうしてこんなに緊張してくるのか、ハルにはわからない。だけど、心臓の音がうるさいくらいに鳴っていることだけはわかる。体が熱い。顔が熱い。
これはまさか。もしかして。
「それで」
彼の目がハルを見る。
何も知らない子どものような、薄茶色の瞳。
それが、真っ直ぐにハルを見つめている。
「こういうのって、いつ渡したらいいと思う?」
その質問の意味が、ハルには一瞬わからなかった。
目を瞬かせ、たっぷり数秒置いて、ハルは尋ねた。
「……いつ、って?」
「あ、その、僕、こういう手紙を書くのも初めてだけど、渡すのも初めてで、ふさわしい時期ってあるのかなと思って。もうすぐバレンタインだし、それと一緒の方がいいかな、とか。だから、晴野さんの意見も参考に聞いてみたくて……」
恥ずかしがるように言う彼に、さっきまで上がっていたハルの体温がさっと冷めていく。
一体何を考えていたのだろう。一体、自分は何を期待していたのだろう。
彼に告白されるとでも思っていたのか。あの手紙が実は自分宛だったとでも。
馬鹿馬鹿しい。調子に乗るのも大概にした方がいい。頭に虫でも湧いているのではないか。
そうだ、いつでも相談してと言ったのは自分だ。それなのに、どうしてそんな考えに至ってしまったのか。
ハルの頭の中で、様々な罵り言葉がぶつけられていく。それをハルはただ呆然と受け入れる。
そうだ、本当に、自分は何を思っていたのか。
言いようもない羞恥がハルを襲う。
恥ずかしい。恥ずかしい。恥ずかしい。
彼から思われているなんて、思い上がるにも程がある。
それとも、彼だったら自分のことを好きになってくれる。そうとでも思っていたのか。
だったら、その感情は彼に対しても失礼だ。全く、本当にどうしようもない。
嵐のような感情がハルの中を暴れ回る。
何も答えないハルに、彼が不安そうに眉を下げる。
早く何か答えなくては。質問は何だっけ。たしか、いつ手紙を渡したらいいか、だ。
もうすぐバレンタインだからそれに合わせた方がいいのか。それとも、気にしなくてもいいのか。
そんなのどっちでもいい。知らないよ、そんなこと。好きにしたらいい。
ハルの中の誰かが叫ぶ。
そんなことを言ってはいけない。言ったら、自分がとんでもなく醜いものになってしまう気がする。
だから背中の後ろで手をぎゅっと握りしめ、ハルは無理やり笑顔を作る。
さっきの秋田アキヒコみたいに笑えていたらいい。あんな風に誰からも愛される人気者のように。むしろハルが秋田アキヒコだったら、最初からもっと上手くやっていたはずだ。
でも最初って、いったいいつだろう。
それは多分、あの雪の日。初めて一緒に帰った日からだ。
あの日、彼を悲しませることなく、楽しく帰ることができていたら。ハルが彼にこんな感情を抱くことはなかった。
どうしていいかわからない恋心など、持つことなどなかったのに。
「そうだなぁ。バレンタインに告白されるのもロマンティックだよね」
口が意思から乖離したように、パクパクと勝手に動く。
言った言葉はどこかの雑誌で見た文言だ。ハルが心の底から思っていることではない。
彼の告白は成功するだろうか。彼の想いびとは、彼の気持ちに応えてくれるだろうか。
彼は不器用ながら一生懸命悩み、あの手紙を書いていた。恋愛のことなど何も知らないハルに、藁にもすがる思いで相談してくるほどに。
だから、叶ってほしいと思う。彼の想いが届いたらいいと。
でも、そうなったら、校内や帰り道で彼とその人が歩く姿を見ることになるかもしれない。
それは、今のハルにはまだ辛かった。
だから言った。
「でも、暖かくなってからの方がいいんじゃないかな。冬よりも気分が開放的になるし。桜の時期とか、素敵だと思う」
笑って答えながら、ハルは心の中で謝った。
ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。心の狭い人間で、ごめんなさい。
だが、何度謝っても、胸の痛みがとれることはなかった。



いったい自分は何をしているのか。
きらびやかなデパートの催事場を歩きながら、ハルは小さく息を吐く。
悩んでいる時、一人でいるのは心細い。だけど、誰かにうまく相談することもできない。誰にどこまで相談したらいいのか、ハルにはよくわからなかった。
多分優しいクラスメイト達なら、快くハルの悩みを聞き、それは辛いね、と共感してくれるだろう。絶対に、ハルの悩みを笑ったりはしない。
だけど、わかっていても、どうしてもその一歩が踏み出せなかった。
ハルはぼんやりと、クラスメイト達に相談した時のことを想像する。
彼女達なら、なんと言うだろう。
『佐藤くんに好きな人がいるの?ええ、そうなんだー、びっくりー』
彼女達が大袈裟に驚く姿が目に浮かぶ。
『そうなの、驚いたの』
ハルは頭の中で想像のクラスメイトに答える。
『本当に驚いたの。佐藤くんが誰かを好きになるなんて。ラブレターを出したいと思うくらい、恋愛経験もろくにない私にアドバイスを求めてくるくらい、好きになった人がいただなんて』
『いたらいけないの?』
ハルの言葉に、彼女達は不思議そうに首を傾げるだろう。
『いけなくない。いけなくないけど、ひどく裏切られた気分になったの』
『どうして?』
『だって』
だって。
ハルは答えられない。答えたら、自分がとんでもなく醜い生き物になる。こんな優しい世界にふさわしくない程、醜悪なものに。
だけど、頭の中の彼女達は容赦無い。隠していたハルの心を引き摺り出していく。
『もしかして、優しい佐藤くんなら、こんな自分でも好きになってくれるかもしれないって思ってたの?』
彼女達の顔が、馬鹿にするように醜く歪む。
ハルは何も言えずに俯いた。
『それってひどい思い上がりだよね。たかだか1回一緒に帰っただけでしょ?その後、まともに会話しないままクラスも変わって会わなくなった。ハルちゃんは何もしていない。それで好きになってほしいだなんて、冗談でしょ?それに、佐藤くんなら、ってどういう意味?佐藤くん程度のレベルの男の子だったら、ハルちゃんなんかでも好きになってくれるって思っていたの?佐藤くんを、ハルちゃんは見下していたの?』
『違う、違う。見下してなんかない』
『だって、そういうことじゃない?秋田くんとは釣り合わないけど、佐藤くんだったら、って言っているのと同じでしょ』
『違う。同じじゃない。そういうことじゃない。ただ』
『ただ?』
ハルは思い出す。彼と初めて一緒に帰った日のことを。不器用な彼の姿を。
この世界には優しい人が多い。優しくて、何でもできてしまう人が多すぎる。
それが、ハルには息苦しかった。
誰もうまくできないハルを責めない。うまく返せないハルを罵らない。だけど、ハルだけはいつもハルを責めた。
みんな優しい。頭もいい。こんなたいして賢くもない自分にも優しくしてくれる。
何かを返さなくては。優しくしてくれる彼らに何かを。だけど、返すものがわからない。
でも、きちんと返していかなければ、もらったものを返さなくては、いつかハルは捨てられる。
彼はみんなと違って器用ではなかった。だけど、精一杯ハルに優しくしようとしてくれた。
その姿を、ハルは愛おしいと思ったのだ。完璧で優しいどの生徒よりも、不器用な彼が。
『佐藤くんに好かれたら、嬉しいなぁって思ったの。ただ、それだけだったの』
彼とだったら、器用じゃないもの同士、ゆっくりゆっくり2人で並んで進んでいけると思った。彼は、ハルがうまくできなくても笑ったり馬鹿にしたりしない。ハルがなんとか挽回しようとするのを優しく待っていてくれる。多分、デートとかの段取りも2人ともうまくできなくて、ごめんね、ごめんねって互いに謝りあって、でもそれでも2人でいられるだけで嬉しくて、話せるだけでも胸がきゅうっとしまって。手を繋ぐだけでもかなりの時間がかかりそう。でも、それでいい。それがいい。そんな時間を、彼と過ごしていきたいとハルは思ってしまったのだ。
クラスが変わって、ハルと彼は会う機会は減った。
それでも、ハルの中で彼は特別だった。特別のままだった。
好きだった。だけど、どうしていいかわからない。
彼から好かれたいと思っているくせに、うまく好きになってもらう方法がわからない。
わざと彼のいるクラスの友達に教科書を借りに行ったり、彼がよく図書室のいるから、今年も図書委員に立候補したりもした。ほんの少し会えるだけでいいと思っていた。でも、それらはうまくいかなくて、彼とは全然会えなかった。
だから、あの2学期の期末テストの最終日。図書室で会えたのは本当に奇跡だと思った。
だけど、彼はあの時からもうハルの知っている彼ではなくなっていた。
だって彼は、ハル以外の誰かを好きになったから。
ハルを置いて、彼は新しい世界に歩み出そうとしていた。
頭の中で会話を続けるハルの周りを、多くの人々が追い越していく。
今日のデパートの催事場は、バレンタインが近いこともあって、チョコレートの匂いが立ち込めていた。
女性達が真剣な目で、綺麗に包装されたチョコレートがあるガラスケースをのぞいている。
ハルはその人混みを遠巻きに見ながら、デパート内を周遊する。止まったら死んでしまう魚のように。
『嫌だ。佐藤くんに、私以外を好きにならないで欲しかった。私だって好きだったのに。佐藤くんと一緒に帰ったのは私だったのに。どうしてその人は佐藤くんに好きになってもらえたの?どうしたらよかったの?』
『だって何もしてないじゃん』
想像の中のクラスメイトがハルを嘲笑う。
『何もしていないからだよ。何もしないハルちゃんを、彼が好きになるわけない。このままだと、本当に佐藤くんはハルを置いていくよ。それでいいの?』
『よくない。絶対嫌だ』
ハルは胸の中で叫ぶ。
いやだ、いやだ、いやだ、と繰り返すたび、ハルの目が潤み、鼻水が出そうになる。
泣きそうなのを誤魔化すために、ハルは俯き、コートの袖で目を擦った。
『好きなの。本当に好きなの。でも一体今更、何ができるの』
『何がしたいの?どうなりたいの?』
『わからない』
『このまま黙って見ているだけなの?それとも、戦うの?』
『あはは、戦うって。喧嘩じゃないんだし』
いつかのように、想像の彼女達もきゃらきゃらと笑い合う。
『喧嘩じゃないけど、でもここで頑張らないと、ハルちゃんが欲しいものは手に入らないよ。このままだと、佐藤くんはハルちゃんがこんなに悩んでいることを知らないまま誰かと付き合うんだよ?そんなのずるいと思わない?ひどいと思わない?』
彼女達の言葉に、ハルは苦笑いしそうになる。
こんなこと、本物の優しい彼女達は絶対に言わない。
やはり、ハルの本性は醜い。こんなところに、自分の性根の悪さが出てしまう。
多分、そもそもハルは優しい人間ではないのだろう。
自分は優しくない。彼女達のように優しくできた人間ではない。
だから、彼の恋を大人しく応援してあげることができないのは当たり前なのだ。
ハルは思う。
ハルが彼女達のように優しい人間だったら、この恋は無かったことにするだろう。
だって、彼は優しい。ハルの恋心を知ったら、彼は傷付くだろう。だから大好きな彼の為にも、自分の恋を黙って捨てるはずだ。
だけど、ハルは優しくない。優しくなれない。
彼が誰を好きでもいい。誰と付き合ってもいい。
だけど、ハルが恋していたことは知っていてほしい。
あなたの恋の下には、ハルの恋という犠牲があったことをわかってほしいと、ハルを置いていく彼にも、ハルと同じように傷付くことを願っている。
醜すぎる感情に、ハルはこっそり唇を歪める。
でも、これがハルの本性だ。
優しくもない、賢くもない、自分のことしか考えられない人間らしい人間。それがハルだ。
絶対、黙って祝福なんかしてやるものか。
ハルは俯いていた顔をあげる。
目の前には、多くの人々で賑わうチョコレート売り場が広がっていた。



雪の降る夢を見る。
子供の頃からよく見る、いつもの夢だ。
ハルは、すらりと伸びた街灯の下で座っている。
辺りは真っ暗。だけど、頭上にある明かりのおかげで、ハルのいる周りだけスポットライトのように明るく照らされている。
自分の周りには雪。空からも、ぼたぼたと容赦なく雪が降り注いでいる。
今日は朝から寒かった。耳の先や鼻の頭がきん、と冷えていた。
こんな日は家にいた方がいい。
それなのに、ハルはここにいる。
家に帰らなくては。
だけど、ハルの体が動かない。
時折灰色の空を見上げ、寒そうに息を吐くだけ。
ハルの4つの足は完全に雪に埋れてしまっている。
それでも、夢の中のハルは全く慌てていない。
寒さを感じてないはずはない。
現にハルの体は小さく震え、まつ毛は凍っている。足の爪先も痛い。
口から出る息はもはや白くない。体の芯から冷え切っているのだろう。
それでも夢の中のハルは、そこから動こうとはしなかった。
どうして。
夢の中でハルは自分に問いかける。だけど、答えはない。
ハルの小さな体に、どんどん雪が降り積もる。
頭を振って体についた雪を払うけれど、それも一瞬のこと。
すぐに新しい雪が体につき、冷たい風が体温を奪っていく。
がちがち、と牙がぶつかって醜い音を立てて鳴る。
寒い。寒い。寒い。
だけど、ここで待たなければ。
何を。誰を。ハルにはわからない。
だけど、ここでハルは何かを待っているのだ。
待たなければ。だって、ここで待つように言われたから。
ハルはここで待っていなければいけない。
気付くと、真っ白い雪が体の半分を埋めていた。
いくら振り払っても、顔に雪がつく。
がちゃり、と首の後ろで固い音が鳴った。
冷たい。寒い。痛い。耳が痛い。脚が。鼻が。頭が。
痛い。痛い。痛いのは嫌だ。
いやだ、いやだ、いやだ、助けて。助けて。助けて。
静かにしている。大きな声で吠えない。わがままも言わない。何も欲しがらない。何も言わない。
言うことを聞くから。きちんとここで待っているから。
だからどうか許して。
目を開けているのに、何も見えない。見えるのは白色だけ。
足が動かない。声も出ない。体が勝手に地面に伏せていく。
だけど、ここで待つように言われたのだ。
待たなければ。ハルにはそれしかできない。
優しくしてもらえる術が、もうそれしかわからない。
雪が降る。どんどんどんどん、ハルの体を埋めていく。ハルの体が白くなっていく。
気付けば、ハルの肌は全て雪に埋れ、覆い尽くされていた。
息が苦しい。体が重い。眠たい。
まぶたが閉じるほんの一瞬前、ハルは温もりを感じたような気がした。
ああ、あったかい。
ハルは安堵に包まれ、かすかに笑う。

そこでいつも夢は終わる。
だからハルは、雪が苦手だ。



やってしまった。

バレンタイン当日。
ハルは教室で頭を抱えていた。
あの後、勢いでチョコレートの材料を買い込み、彼に渡す用に小さなトリュフを作ったのまでは良かった。不器用なハルにしてはラッピングにも気を遣って、綺麗にできたと思う。出来は満足している。
だけど、今日。
そのチョコレートを鞄に入れ、意気揚々のと登校したのだが、意外といつも通りの雰囲気の教室に、ハルは怖気付いてしまった。
確かに冷静に考えれば、バレンタインだからといって、学校全体が告白モードになるわけではない。
学校は基本は勉強をするところだ。チョコレートを持ってきている子はいても、それは主に友人と交換する為のもの。
本気のチョコレートを持ってくるような浮かれた奴は、もしかしたらハルしかいないのかもしれない。
問題は他にもある。そもそも、いつどうやって彼にチョコレートを渡すのか、ということだ。
彼とはクラスが違う。前みたいに放課後、彼がたまたま1人で残っていてくれたら渡しやすいが、今日も彼がいてくれるとは限らない。そもそも彼はハルと同じ帰宅部だ。前のように残っている方が珍しい。
そして、あの日は何もない普通の日だったからまだよかったものの、バレンタインデーに特定の男子を待っているとか、それはもうその人が好きだと公言しているようなものではないのか。
百歩譲って、彼にハルの気持ちが知られるのは仕方がないとしても、彼以外の人にハルの気持ちは知られるのは嫌だ。
悶々とした気持ちが、ハルに重くのしかかる。
いっそ渡すのをやめてしまおうか。でも、せっかく作ったし。だけど、他の人に自分の恋がバレるリスクをおかしてまで、今日チョコレートを渡す必要はあるのか。もっと機会を見た方がいいのではないのか。
ハルは悩んだ。おかげでその日の授業の内容なんて、全く頭に入ってこない。昼食のパンもどこか上の空で食べ、クラスメイトからもらったチョコも、なんだか味がしなかった。
いっそ、ただの義理チョコということで渡してしまおうか。告白は後日にして。何もこんなわかりやすい日にしなくても。
時間が経つにつれ、あれだけ勇んでいたハルの気持ちもだんだんと萎んでいく。
昼休みになっても、ハルは学校内を歩き回りながらずっとそのことを考え続けていた。
もう、一体どうしたらいいのか。
「あ、晴野さん」
そしてどうしてこんな日に限って、彼とばったり会ってしまうのか。
多くの生徒が行き交う廊下で、ハルは偶然彼と会った。
突然、心臓が大音量で騒ぎ出す。
体が熱くなる。うまく頭が回らない。
今チョコレートを渡すべきか。いや、こんな人が多いところでそれは無理だ。そもそも、チョコレートは教室のリュックの中に置いてきたから持っていない。
どうしよう。何か言わなければ。
ハルはからからになった喉から、必死に声を絞り出す。
「ど、どうも」
ぎこちない笑みを浮かべて、ハルは足を一歩後ろに引く。
「あれ、晴野さん、どこか行くところ?」
「あ、うん。ちょっと……」
「ちょっと?」
「ええと、と、図書室に行くところ」
必死に浮かんだ嘘を並べ立てる。
挙動不審なハルに、彼がわずかに眉をひそめた。
彼が何かを聞く前に、ハルは慌てて口を開く。
「さ、佐藤くんは?」
「僕も図書室に行くところ。よかったら、一緒に行かない?」
「あ、うん、じゃあ……」
今から行くところ、と言ってしまった手前、断ることもできず、ハルは彼と図書室に行くことになってしまった。
賑やかな声が溢れる廊下を歩きながら、ハルはチラリと彼を見る。
まつ毛が長い。肌が白く、透き通るようにきれい。
前を見ていた彼目がこっちに向きそうになり、ハルは慌てて目をそらした。
彼と2人で並んで歩くのは初めてではないのに、どうしてこんなにも落ち着かないのだろう。
今日がバレンタインだからだろうか。
そこで、ふと思う。
彼も、バレンタインにチョコレートを贈ったりするのだろうか。
最近は男の子がチョコレートを贈るのも珍しいことではなくなった。
あんなラブレターを書くくらいなのだから、彼も何かしらのことはするだろう。それとも、ハルのアドバイスに従って、暖かくなるまでは何のアプローチもしないのだろうか。
いや、そもそも、彼の好きな相手が彼にチョコレートを贈る可能性もある。もちろん、その好きな相手が、彼じゃない相手にチョコレートを贈る可能性も。
「晴野さん」
突然呼びかけられ、ハルの体がびくりと跳ねる。
慌てて彼の方を向くと、彼は困ったように眉を下げてこちらを見ていた。
「あ、ご、ごめん。ぼうっとしてた」
「大丈夫だけど……。何かあったの?」
心配そうな彼の声に、ハルは戸惑った。
何か言わなければ。でも、何をどう言っていいのか。
「いや、あ、あのね」
驚くほど上擦った声が、口から飛び出す
「お、同じクラスの子の話なんだけど。その子から、バレンタインに告白したいんだけど、どうすればいいって相談されちゃって」
佐藤くんといい、どうしてみんな私に聞いてくるんだろうね、とハルは笑って気まずさを誤魔化す。
「チョコレートも手作りで用意したんだけど、どうしようって悩んでるみたいで。私、うまく答えられなくて。佐藤くんは」
ハルの喉が、緊張でゴクリと鳴る。
「佐藤くんは、バレンタインに手作りチョコレートを渡されて告白されるのって、どう思う?」
あくまでただの世間話のように。笑顔を崩さずに彼に問いかける。
えぇ、とハルの質問に彼は照れたように笑った。
「困ったな。僕、あまり参考になることは言えないんだけど」
「なんでもいいよ。私も全然浮かばなかったし」
「うーん、そうだなぁ」
彼は困ったように眉を下げながら、指で頬を掻いた。
「バレンタインに告白するのはいいんじゃないかな」
「本当?」
「うん。誰でも、好きって言ってもらえるのは嬉しいと思う」
その言葉に、ハルの胸がぶわりと熱くなる。
本当に。ハルの気持ちを彼に言っても、彼は嫌がらないだろうか。聞いてくれるだろうか。
「ああ、でも、手作りのチョコレートはどうなんだろう」
「……え?」
彼は眉をひそめた。
「ほら、手作りってなに入ってるかわからないって嫌がる人、多いでしょ?だから、無理に作らなくても、売ってるものでいいんじゃないかな?」
「……佐藤くんも、そう思う?」
「僕?うーん、そうだね。僕も売ってるもののほうが安心かな」
好きな人からもらえるのなら、なんでもいいんだけどね。
恥ずかしそうにそう付け足す彼に、そうだよね、とハルは空っぽの言葉を返す。
「ありがとう、その子にも伝えておくね」
ハルの顔は笑った形のまま、凍りついたようにしばらく動かなかった。

本日最後の授業が終わり、多くの生徒が帰るための支度を始める。
ハルも机の横にかけてあるリュックを取り、教科書をしまうために蓋を開ける。
その中にあるのは、ラッピングされたチョコレート。
昨日の夜、彼の為にハルが一生懸命作ったものだ。
でも、これは彼には渡せない。だって彼は、手作りのものは嫌だと言った。
本当に馬鹿だ。贈るのなら、そういうところもきちんと調べてからやればよかった。そうすれば、材料もお金も無駄にならなかったし、ハルも余計に傷付くこともなかった。
ぎゅ、と唇を噛みしめ、空いているスペースに教科書や筆箱を詰めていく。
何をやっているんだろう、本当に。もっと考えて動けばよかった。
でも、今更後悔しても遅い。
彼は告白するのは別に構わないと言っていた。それだけがハルの救いだった。
告白するのは許された。でも、できればハルは彼にチョコレートを渡したかった。
だって、せっかくのバレンタインなのだ。好きな人にチョコレートを贈りたい。
どうせハルの想いは届かない。だからせめて、初めての本命チョコレートくらいは彼に受け取ってほしかった。
それできっと諦められる。いや、諦めなくてはいけないのだ。
だから、ハルの恋を終わらせるためにも、どうか許してほしい。
ハルは立ち上がる。
校門の前には、多くの生徒が利用するコンビニがある。
そこになら、まだチョコレートは売っているかもしれない。
ハルは財布を持ち、コートを着てマフラーを巻いた。
「ハルちゃん、もう帰るの?」
前の席のクラスメイトが、振り向いて問いかける。
「ううん。ちょっとコンビニまで買い物」
「そっか、わかった。また明日ね」
ばいばい、と優しく手を振る彼女を置いて、ハルは教室を飛び出した。

廊下を走り、階段を駆け下り、昇降口でばたばたと靴を履き替える。
外に飛び出した瞬間、はあ、と白い息が出た。
広がるのは真っ白な雪だ。
こみあげる恐怖を振り切るように、ハルは雪の中、傘もささずに駆け出す。
転ばないように気をつけながら校門を抜け、その前にあるコンビニに飛び込んだ。
あたたかで明るい店内は、バレンタインの装飾でいつも以上に賑やかな雰囲気だった。
だが、チョコレートの棚は無残のほどに空で。
ハルはその前で茫然と立ち尽くした。
まさか、ここまでなにもなくなっているなんて。
目を皿のようにして探せば、子どもの頃に食べた小さなマーブルチョコレートが下の棚で転がっているのが見えた。
これだけしかないのか。でも無いよりはマシか。
それを掴み、すがる思いでレジ横の棚をみれば、きれいにラッピングされたチョコレートがいくつも置かれていることに気付いた。
あった。
赤い包装紙に金色のリボンがかかっている、小さな正方形のそれを手に取り、マーブルチョコレートと一緒にハルはレジに出した。
興奮と緊張で震える手でお金を払い、ナイロン袋に入れられたそれを受け取り、ハルは猛然と来た道を引き返した。
帰る生徒たちの波を逆流するかのように校門を抜け、昇降口に飛び込む。
急いで靴を履き替え、教室に戻ろうと顔を上げた時。
「晴野さん」
鞄を持った彼がそこにいた。
ちょうど今から帰るところらしい。
危なかった。ぎりぎりだった。
偶然にも今、ここにはハルと彼しかいない。
もたもたしていたら他の生徒が来るかもしれない。
だから、渡すなら今だ。今しか、彼には渡せない。
「さ、佐藤くん」
心臓が大きく鳴り出す。
周りの音が聞こえない。
うまく話せない。
だけど、言わなくては。
これ、よかったら食べて、と。
もうそれだけでいい。それだけで十分だ。それ以上は望まない。
告白しても叶わない。彼には好きな人がいる。ハルの気持ちは受け取られない。
だから、彼がチョコレートを受け取ってくれたら、もうそれでいい。それでおしまいでいい。
「あの」
「コンビニに買い物?」
か細いハルの声が、彼の声でかき消される。
ハルは慌てて頷いた。
「あ、うん、ちょっとチョコレートを」
緊張で、頭がうまく回らない。
言わなくていいことまで言ってしまったような気もするが、もう止められない。
「いや、その、バレンタインだし?せっかくだからチョコレート贈ろうかなって。私も、好きな人にチョコレートくらい贈っても、今日ならバチは当たらないかなって思って」
好きな人に。
彼の唇が、ハルの言葉をなぞって繰り返した。
「晴野さん、好きな人がいたんだ」
「いや、そんな、その付き合いたいとか、付き合えるわけはないんだけど。その人、好きな人いるし。だから諦めるつもりでいたんだけど、だけど、チョコレートくらい贈ってもいいかなって。今日はバレンタインだし、そんなことも許されるかなって」
ほら、佐藤くんも昼休みに好きって言ってもらえるのは嬉しいって言っていたし。
言い訳のように彼の名前を出す。
「あの、だから、それで」
「……それで、その人に贈る為のチョコレートを今買ってきたの?」
静かな彼の声に、ハルは頷いた。
「だったら、コンビニのはやめた方がいいんじゃないかな」
彼はきっぱりと言った。まるでハルを諭すように。
「それ、前のコンビニにあったやつだよね?学校の生徒だったら皆見たらわかるよ。なんだ、コンビニのかよって思われちゃうから、それなら、やめた方がいいんじゃないかな」
静かな彼の声を聞きながら、ハルの目線はどんどん下がっていく。
あれ、どうしてだろう。どうして彼に怒られているような気分になるのだろう。
実際に彼は怒っているわけではない。怒鳴っていない。声も静かなままだ。
だけど、ハルは初めて彼が怖いと思った。
無意識に、持っていた袋をぎゅう、と握りしめる。
どうしよう。何か言わなければ。何か言わないと、彼がハルの知っている彼じゃなくなってしまいそうだ。
「だ、だって」
「だって?」
まるで詰問される子どものように、ハルは必死に言葉を探す。
顔を見られない。怖い。今この瞬間、彼がどんな顔をしているのか知るのが恐ろしい。
「……手作りは嫌だって言われたから……」
そうだ、そもそも彼が手作りは嫌だって言うから、ハルはわざわざコンビニにまで買いに行ったのだ。彼がそんなことを言わなければ、ハルだってコンビニでチョコレートを買わずに済んだのに。
昨日一生懸命作ったチョコレートを、そのまま渡せたのに。
「私だって、ちゃんとチョコを作ったよ。用意したよ。作ったチョコを、渡したかったよ」
レシピを探して、板チョコを何枚も買って、砕いて溶かして、綺麗に固まらなくてまたやり直して。ラッピング用にかった箱も好きな色とか全く知らないから、どんな色だったら似合うかな、とか、この色は嫌いじゃないかな、とか考えながら悩みに悩んで。リボンの形がうまく決まらなくて何度もやり直しているうちにくしゃくしゃになって、新しいリボンに変えたり、学校に着くまでに鞄の中で潰れないよう、すごく気を遣って持っていったのに。
それなのに、渡すこともできないなんて。
渡すことすら、できないなんて。
悔しくて情けなくて、涙が出そうになる。
俯いたまま、ハルは唇を噛みしめた。
「……好きな人に、手作りは嫌だって言われたの?」
「……うん。ちゃんと、前もって調べておかなきゃいけなかったんだけどね」
ハルは乾いた笑いを溢す。
その声は、静かな廊下に虚しく響いた。
ふと、袋の中にあるマーブルチョコレートが目に入る。
もう、これでもいいんじゃないだろうか。市販のものだし、チョコレートだし。
そう思いついたハルは顔を上げ、袋の中に手を突っ込み、マーブルチョコレートを取り出した。
「食べる?」
「いらない」
彼はふるふると首を横に振った。
そっか、と呟き、ハルは袋にマーブルチョコレートを戻した。
本当に何も受け取ってもらえないのか。
何も。チョコレートも。この気持ちも。
「晴野さん」
「なに?」
「晴野さんは、そんなにその人が好きなの?手作りのチョコレートを断られても、新しいのを買ってくるくらい」
恐る恐る彼を見る。
さっきまでの怖い雰囲気が嘘のように、彼はなんだか泣きそうに見えた。
「……そうだね。そうだったみたい」
それくらい、ハルは彼のことが好きだったようだ。
ハルの答えに、彼は戸惑ったように目をさ迷わせた後、きゅ、と唇を噛みしめた。
「晴野さんは、どんなチョコレートを作ったの?」
「……普通のトリュフだよ。溶かして丸めて、ココアの粉を周りに塗したもの」
「それ、今どこにあるの?」
「教室だけど……」
見たいの?と冗談めかして尋ねれば、彼は真面目な顔でこくりと頷いた。

教室に戻れば、そこにはもう誰もいなかった。
廊下側の一番後ろのハルの机の上には、ハルのリュックがポツンとハルの帰りを待っていた。
一緒に持っていけばよかったかな、とハルはどこかぼんやり考えながら、リュックを開ける。
教科書を退かし、中から、白い紙袋を取り出す。
さらにその中にある茶色い箱を出し、隣に立っている彼に見せる。
「……これなんだけど」
どうして彼はハルが作ったチョコレートを見たいだなんて言ったのだろう。
手作りは嫌だと言ったくせに。
内心ぶつぶつと文句を言いながら、昨日一生懸命結んだ白いリボンを外し、箱を開ける。
4つに区切られた空間。そのそれぞれに、不格好な丸いトリュフが入っている。
彼はそれを無言でじっと見つめている。
少しの間の後、食べてもいい?と彼が聞いてきた。
「え、なんで?」
「だって、美味しそうだし」
へへ、と眉を下げて笑う彼に、ハルは信じられないものを見るような目を向ける。
「いや、だって、これ手作りだよ?佐藤くん、手作りは嫌だって言ってたのに」
「……見てたら、お腹空いてきちゃって。駄目かな」
駄目、ではない。
だってこれはもともと彼あげる為に作ったものだ。彼に食べて欲しくて作ったもの。だから、彼に食べてもらえるのは嬉しい。どうせこのまま持ち帰っても、捨てるかハルが食べるだけだ。食べてもらった方がいい。
だけど。
なにも言えずにいるハルを置いて、彼はトリュフに手を伸ばした。
彼の白い指を、トリュフついたココアパウダーが汚す。
あ、とハルが言う間もなく、彼が口にトリュフを放り込んだ。
もぐもぐと口を動かす彼をハルは呆然と見る。
そして少しの後、彼はにっこりと笑った。
「すごく美味しい」
その一言で、ハル胸の奥がぎゅう、と締まった。
彼は言う。
「甘さもちょうどいいよ。舌触りもすごくよくて、僕、すごく好きだよ」
その優しい声に、ハルの視界がぐにゃりと歪む。
鼻がツンとする。
ひく、となりそうな喉を、ハルは必死に抑えようとした。
「おいしいよ、晴野さん。もっと食べていい?」
ハルはなにも答えられない。だって、口を開けたら、喉が震えてしまいそうだ。
こくりと頷いたハルを確認して、彼はパクパクとトリュフを食べていく。
「うん、すごくおいしいよ。今日、晴野さんのチョコレートを食べられてよかったな。ありがとう。晴野さん」
歪んだ視界が突然クリアになる。
ついに限界を超え、ぼたり、とハルの机の上に何かが落ちる。
一度溢れたそれは、止まることなく次々とハルに目から溢れていく。
はく、とハルは口を開ける。空気の漏れるような音しか出ない。
だけど、ハルは聞きたかった。
「ほんとうに?」
弱々しいハルの問いに、彼は目を見開いた後、泣きそうな笑顔で頷いた。
「うん。とってもおいしいよ」
「おいしい?」
「うん。すごくおいしいよ」
「本当に?」
「うん、本当だよ」
ハルの問いに、彼は優しく何度も答えてくれた。
ハルの涙は止まらない。喉の震えがさっきよりも激しい。
みっともない声で、ハルは言った。
「ありがとう」
私の気持ちを食べてくれて、本当にありがとう。
受け取ってくれなくても、拒否しないでくれてありがとう。手作りのものが嫌なのに、私のために食べてくれてありがとう。
その気持ちを、ありがとう、という短い言葉に詰め込む。
たとえそれが友情や憐れみからの行為であっても、ハルはとても嬉しかった。
彼が食べてくれたから、ハルは報われる。これで、ハルの恋は眠りにつける。
彼が、全部きちんと食べてくれたから。
「ありがとう、佐藤くん」
少しマシになった視界で、まっすぐに彼を見る。
そこにあった彼の表情に、ハルは思わず息を呑んだ。
彼の顔は、ハルに負けず劣らず、涙で濡れていた。
ただその表情だけは、優しい笑顔のままかろうじて保たれていた。
「違うよ、晴野さん」
彼の声は震えていた。
「お礼を言われるようなことは何もしてない。僕が勝手にやっただけだ。僕がどうしても晴野さんのチョコレートを食べたかったから」
彼の頬に、幾つもの涙の跡ができる。
「どうして。晴野さん。どうしてそんな人を好きになったの。こんな一生懸命作ったチョコレートを平気な顔でいらないって言える人を好きになったの?優しい人はいっぱいいるんだよ。なのに、よりにもよって、そんなひどい人を好きになるなんて」
ずるい、と彼は言った。
「僕は好きになってほしくて、いっぱい話しかけて、優しくしていたのに。ずるいよ。そんな僕より、平気でいらないって言える人のほうが好きになってもらえるなんて。どうして。どうしたらよかったの。僕はどうしたら」
晴野さんに好きになってもらえるの。
いつもにこにこと笑っている彼の顔が、ぐしゃりと歪んだ。
「ずっと好きだった。僕はいろんなことがあまり上手くできなくて、周りに迷惑かけてばかりで、毎日たくさん落ち込んでた。だけど、そんな時、晴野さんが『一緒に帰ってくれて嬉しかった』って言ってくれた。ただの社交辞令だったのかもしれないけど、それでも僕は嬉しかった。こんな僕でも役に立てることがあるんだって思った。晴野さんの言葉で、僕は救われた。それから、晴野さんは僕の特別だった」
誰もいない教室で、彼の湿った声が響く。
「でも、クラスが離れてしまって、全然会えなくなって。このままなのは嫌だったから、勇気を出して告白しようと思った。直接だと緊張するから、手紙を書いた。あの日、まさか晴野さんが図書室に来ると思わなくて。見られてしまって焦ったけど、どうせだったら晴野さんの好きなように書こうって色々聞いた。あの手紙のおかげで、晴野さんとまた話せるようになって嬉しかった。こうやって少しずつ近付いていけば、もしかしたら晴野さんともっと仲良くなれるかもしれない。そんなことまで夢を見た。だけど」
彼の目から、ぼろりと涙が落ちた。
「好きな人がいるって。その人が手作りが嫌だなんて言ったから、わざわざ走って買いに行って。もちろん今日、僕がチョコレートを貰えるだなんて、そんなおこがましいこと思っていなかった。だけど、晴野さんに好きな人がいて、その人に晴野さんがチョコレートをあげるなんてことも想像もしていなかった。見通しが甘いって、いつも僕は怒られる。僕も本当に思った。どうしてそこまで僕は頭が働かなかったんだろう。どうして、僕は簡単に期待してしまったんだろう」
彼は涙を拭うことなく話し続ける。
「相手がすごく優しい人だったら、僕だって諦められた。晴野さんのためにも諦めなきゃいけないって思った。だけど、ひどい。どうしてそんな相手なの。どうしてそんな相手を好きになったの。いらないんだったら、そのチョコくらい僕が食べてもいいじゃない。僕だって、晴野さんが好きなんだから」
涙に滲む彼の言葉をハルは呆然と聞いている。
彼の言っていることが少しずつ頭に染みていく。その度、乾きかけていたハルの涙が、再びぼろぼろと溢れてくる。
それを見て、彼ははらりと涙をこぼした。
男の子が泣くのを、ハルはこの日、生まれて初めて見た。
「ずるい。本当にずるい。どうせだったら、秋田くんにしてよ。秋田くんだったら、まだ諦められるのに」
人気者の秋田アキヒコは今日、紙袋5つ分のチョコレートをもらい、ハルのクラスまでわざわざ見せに来ていた。確かに彼なら、既製品でも手作りでもコンビニチョコでも喜んで受け取ってくれただろう。
「……私の好きな相手が秋田くんだったら、諦めてたの?」
「……諦めるしかないよ。優しくてかっこよくて気遣いもできる秋田くんに、僕がかなうはずないし」
「でも私は、秋田くんより、佐藤くんの方が好きだよ」
大好きだよ。
そう言うと、彼はその目をさらに大きく開いた。
「ひどい。どうして晴野さんはそんなにひどいことを言うの」
「ひどくないよ。それなら、手作りチョコは嫌だとか、コンビニのチョコは嫌だって言った佐藤くんもひどいよ」
「だってそれは、手作り苦手な人が増えてるのは本当だし、コンビニのチョコは、だって晴野さんが」
「私が?」
「晴野さんが、好きな人がいるって言うから」
ずるいって気持ちで頭がいっぱいになった、と彼は言った。
「それに、一般的にコンビニのチョコは本命には向いていないって聞いたことあるし、でも、これでコンビニのチョコを何も知らないその相手がもらうって思うとすごく嫌な気分になって、どうしてもそのチョコを渡したくなくて」
「そうだったんだ」
「うん、そうだった」
「でも、私はちゃんと手作りのチョコレートをちゃんと好きな人に食べてもらえたよ。嬉しかったよ」
目を見てそう告げれば、彼は少し考えたあと、首を傾げた。
多分全くわかっていない。そのきょとんとした顔に、ハルは思わずふきだしてしまった。
「どうして笑うの。晴野さんはひどい。本当にひどい」
「ごめん。本当にごめん」
「嘘つき。だって、顔がまだ笑ってる」
「ごめんって」
こみ上げる笑いを必死に抑えながら、ハルは思う。
あと何回彼に好きだと言えば、彼はハルの気持ちを信じてくれるだろう。
わからない。だけど、何回でも言える。今のハルは不思議な力に満ちていた。
嬉しそうに笑うハルを、彼が不思議そうに見る。
その顔に、もう一度ハルはふきだした。
こんな気持ちになったのは、生まれて初めてだった。



「えー、天使の噂って嘘だったの?」
クラスメイトの話し声が聞こえてきて、ハルは顔を上げた。
今は放課後。授業も終わり、生徒達は帰り支度や部活に向かう準備をしている。
帰宅部のハルも、ちょうど荷物を詰め終わったリュックを背負ったところだった。
「うん、そうみたい。他のクラスの子が言ってた」
「じゃあ、秋田くんは天使を見てなかったってこと?」
「そもそも天使って何?って話だったじゃん。本当のわけがないって」
教室の隅に集まって、今日も彼女達は楽しそうに話している。
「秋田くんもかわいそうだねー。変な噂に巻き込まれて」
「私に教えてくれた子、あんまり嘘つくような子じゃないんだけどなぁ。秋田くんから聞いたって言ってたし。なんか勘違いしちゃったのかな」
「やばー。私も人にその話ちゃったから、訂正しとこ」
どうやら本人の努力の甲斐もあり、秋田アキヒコが天使を見た、という噂は無事に沈静化しそうだった。
よかった、よかった、と思いながら、ハルは教室の扉を開ける。
「あ、ハルちゃん、バイバーイ」
出て行くハルに、お喋りをしていたクラスメイトが笑顔で手を振ってくる。
ハルはおずおずと手を振り返し、教室を後にした。

バレンタインから数日が経った。
あの日から、ハルとチトセは恋人になった。
とはいえ、お互いに初めての異性との付き合いなので具体的にどうしたらいいか分からず、特に何も変わっていない。
むしろ、廊下で出会うだけで、妙にギクシャクするようになってしまった。
このままではいけないと思ったのか、彼の方から今日は一緒に帰ろうと声をかけられた。
もちろん、ハルは即座に頷いた。
彼と一緒に帰るのはいつ以来だろう。1年の時のあれが最後だろうか。
走り出しそうな気分を押さえながら、待ち合わせ場所である昇降口にたどり着く。
だが、そこにはまだ誰の姿もない。
少し早かっただろうか。
腕時計を確認すると、約束の時間の5分前だった。
中で待つか外で待つか少し考えた後、ハルは靴を履き替え、雪が積もる真っ白な外に出た。
冷たい風が顔に当たり、ハルは巻いていた紺のマフラーに顔を埋める。
ハルの吐く白い息が、ふわりと天にのぼっていく。
それとすれ違うように空から降ってくる雪を、ハルはぼんやりと眺めた。
だが、約束の時間を過ぎても、彼はなかなか現れなかった。
遅いな、と思った時、不意に夢の光景が頭を過った。
あれとは違う。
浮かんだ景色を振り払うように、ハルは首を振る。
あれほど雪は強くないし、ハルの足は雪に埋れていない。
体にぶつかってくる風もなく、ハルはいつでも暖かい建物の中に戻ることができる。
それなのに、妙に心臓が騒つく。
どくり、どくりと、早る脈動がハルの心を焦らせる。

彼も、もう来ないのではないか。

そんな不安がハルの奥底からじわじわと這い上がってくる。
まさか、そんなはずはない。
だって、ハルは彼と約束した。ここで待ち合わせると。
彼は約束を破るような人ではない。そんなひどい人じゃない。
なのに、どうして彼は来ないのか。
ハルは腕時計を確認する。約束の時間はとうに過ぎている。
さらに5分過ぎ、10分経っても彼は現れない。
彼と連絡を取ろうと思うが、ハルの学校はスマホの持ち込みは禁止されている。そのせいか、スマホ自体を持っていない生徒も多い。彼もその一人だった。
時々生徒が現れては、軒下で立ち尽くすハルを横目に帰っていく。
みんなどんどん先に進んでいく。
ここで立ち尽くしているのは、ハルだけだ。
次第に、だんだん頭が重くなってきた。
まるであの時のよう。頭にたくさん雪がのしかかっているみたいだ。
そんなはずはない。
そのはずなのに、ハルの足元は気付けば雪に埋れていた。
ハルは恐怖で叫ぼうとした。
だが、喉が凍りついたように声が出ない。
歯がカタカタと鳴り出す。
恐る恐る顔をあげれば、あたりは真っ白で何もなくなっていた。
いつも見ている校門も、チョコレートを買いに行ったコンビニも、学校も何も見えない。
見えるのは白だけ。
ハルを包み込む、容赦のない色。
ハルは目を見開く。だけど見えるものは何も変わらない。
どこを見ても、振り向いても、世界は白しかない。
何も聞こえない。何の音もしない。体が動かない。
雪が、白が、ハルの腰まで来ていた。
ついにハルは叫んだ。だが、その音すらも雪が全て吸い込んでいく。
ああ、もう駄目だ。
やっぱりハルは捨てられたのだ。
誰もハルを迎えにこない。
約束を守っても、いい子にしていても、誰もハルを迎えに来てくれない。
わかっていても、ここで待っていろと言われたら、ハルはもうここで待つしかない。
何があっても、どんなに辛くても、寒くても、痛くても、寂しくても。
ハルは約束を守らなくてはいけない。約束を守らなければ、愛してもらえない。それしか愛される術がわからない。
本当は叫びたかった。誰か助けて、と。
待って、置いていかないで。誰でもいいから、私を助けて。ひとりにしないで。
優しくして、怒らないで、愛して。こんな私でも受け入れて。何もしなくても、何かを返さなくても、返せなくても、ただ愛して。
それだけで良かったのに。
あの時流れなかった涙が、はらりと落ちる。
はらはらと溢れた雫は雪の上に落ち、あっという間に飲み込まれる。
まるではじめからそこには何もなかったかのように。
ハルも同じだ。
このままハルはこの白に飲み込まれる。
そして何もなかったことになる。
ここにハルがいたことも、ハルという存在がいたことも。ひとりで必死に耐えていた命があったということさえも、誰にも知られずに消え去るのだ。
あの夢と同じように。
「晴野さん!」
まぶたが閉じかけたその時、ガシャン、バタッ、バサバサ、という凄まじい音と共に名を呼ばれた。
ハッとしてハルは振り向く。
そこにはいつも通りの校舎があり、見慣れた昇降口があった。
慌てて足元を見るが、雪はない。降っている雪も粉雪程度で、そんなに激しくない。
そもそもハルは屋根の下にいるのだ。雪に埋れてしまうはずがない。
おかしい。どうしたのだろう。目を開けたまま寝てしまったのだろうか。
首を傾げていると、いつかのように両手に筆箱やノートと抱えた彼が、玄関から飛び出して来た。
「遅くなって本当にごめん!」
彼はハルを見るなり、ガバリと頭を下げた。
「すぐに行こうとしたんだけど、こういう時に限って先生に捕まって。適当に話を切り上げようとしたんだけど、それも全然うまくできなくて、約束をしているからまた明日にしてくださいって言ったら、誰と何の約束か根掘り葉掘り聞かれちゃって。あ、でも、晴野さんってことは言ってないよ!晴野さんの許可を取らずに人に話すのってあんまり良くないしね。そのあと、秋田くん
が図書室に行きたいけど高橋先生に会うのは気まずいから一緒に来てくれって言われて、断ろうかとも思ったんだけど、本当に秋田くんが困ってたから、じゃあ図書室の前までだけだよって言ってついて行ったんだけど、秋田くん全然図書室の前から動こうとしなくて、もう僕いくよって言ったんだけど、もう少しもう少しって言われて付き合って気付いたらすごい時間すぎてて、慌てて昇降口に来たら転んで荷物ばらばらにしちゃって……」
どうやら、彼が転んだのが、さっきの音の正体だったらしい。
焦ったまま、ただひたすら早口で話す彼を、ハルは呆然と見た。
「とにかく、こんなに寒いところに待たせてごめん!やっぱり待ち合わせは教室とかの方が良かったよね?ごめん、気が回らなくて。待ち合わせも全然うまく出来なくて。本当にもっと考えればよかった。次は、ちゃんと時間通りにくるから」
泣きそうな彼の目が、まっすぐにハルを見る。
「待たせてごめんね。寒い中、待っててくれてありがとう。一緒に帰ろう」
その言葉は、ハルがずっと欲しかったものだった。
次の瞬間、ぶわりとハルの中から熱が溢れた。
そうだ、ハルはずっとそう言ってほしかった。
寒く寂しいあの場所でずっと待っていたハルの名を呼び、一緒に帰ろうと言ってほしかった。
ずっとずっと、その言葉をハルは望んでいた。
胸の中でずっと凍りついていた何かが、凄まじい熱で溶かされていく。
空っぽだったはずのところに、その灼熱が押し込められる。
声が出ない。うまく思考がまとまらない。
彼が驚いたように目を開いているのだけが見える。
「晴野さん!」
再び彼が叫ぶ。
だけど、さっきよりも切羽詰まっている声だった。
突然どうしたのだろう。そんな必死に、こちらに手を伸ばして。
不意に、ハルの体がふわりと後ろに引っぱられる。
ハルはぼんやりと後ろを見る。
そこには空があった。
気付けばハルの体は宙に浮いていた。
すごい、空を飛んでいる。
普段だったら、ハルは驚いて悲鳴を上げていただろう。
だが、なぜかハルの心はひどく穏やかだった。
全身を包む暖かさのせいだろうか。
体の中に生まれた熱が、ハルの体全体に広がっている。
そのうちハルの体がの輪郭が淡く光り、細い線になってほろほろと解けていく。
体から離れたそれは光になり、徐々に空に吸い込まれる。
「待って!晴野さん!」
彼の声で、ハルはもう一度下を見る。
彼は必死にハルを見上げ、手を伸ばしていた。
今ならまだ、手を伸ばせば彼に触れられそうだ。
ハルも光に包まれた手を、彼に向けた。
その時、大きな歓声が湧き上がった。
ハルが周りを見ると、学校の中の生徒や教師、校門の前を歩いていた人、コンビニの店員、学校の前の家の人がみんな、ハルを見ていた。
その顔は等しく笑顔で。ハルに向かって、本当に嬉しそうに手を振り、拍手をしている。
おめでとう。おめでとう。よかったね。おめでとう。おめでとう。おめでとう。生まれ変わったら、どうか次は、幸せに。
遠く離れているはずなのに、ハルには彼らの祝福の声がはっきりと聞こえた。
多くの人が、嬉しそうな顔でハルを見ている。
だから、ハルはこれがとでもめでたいことなのだと思った。
「晴野さん!」
泣いているのは彼だけだ。
好きだと言われた時のように、いや、あの時以上に彼は悲しそうな顔で、涙を流しながらハルの名を叫んでいた。
その涙は次々に溢れ、綺麗な頬の上に幾筋も跡をつけて流れていく。
彼はどうして泣いているのだろう。
ハルは不思議に思う。
他の皆は喜んでいるようだし、これはきっと悪いことではないのだ。
だから大丈夫だと安心させるように彼に笑いかけるが、彼はふるふると首を横に振った。
「嫌だ!待って、行かないで!」
晴野さん、と彼は叫んだ。
喉から血が出そうなほど、悲痛な声だった。
どうして彼が悲しそうなのか、ハルにはもうわからない。
だって、ハルは幸せだった。彼の言葉のおかげで、ハルは満たされた。
待っててくれてありがとう。一緒に帰ろう、と。
彼がそう言ってくれたから、ハルは今こんなにも幸せなのだ。
「待って!連れていかないで!お願いです!御使(みつか)いさま!」
彼の叫びが、周囲の歓声でかき消される。
彼の涙が、多くの笑顔に塗りつぶされていく。
そんなに泣かないで。
ハルは思った。
どうして彼は泣いているのだろう。
ぼんやりとした頭で考える。
ああ、そうか、一緒に帰れないからだ。
帰る約束をしたのに、ハルが先に行ってしまうからだ。
ハルが逆の立場だったら、確かにそれは寂しいだろう。
彼が泣いている。目の周りを真っ赤にして。
悲しそうな彼の顔は、見ているだけで辛くなる。
泣いている彼を一人にするのは嫌だった。
どうしよう。どうしたら、彼は泣きやんでくれるだろう。
ハルは考える。そして思いつく。
そうだ、ハルが彼を待っていればいい。
ハルは先に行くが、どこかで彼が来るのを待とう。
彼がいつ来るのかはわからない。
だけど、ハルは待つのは得意だ。どんなに寒くても、辛くても、ちゃんと一人で待つことができる。
彼が来るのは、たぶん遅くなるだろう。今日だって遅かった。
だけど、それでも彼はハルの元に来てくれる。ハルは心の底からそう信じることができる。
寒いかもしれないし、辛いかもしれないけれど、寂しくはない。
だって、彼はきちんと来てくれる。絶対にハルを置き去りしはしない。
また、遅くなってごめんと焦りながら、ハルのところに来てくれる筈だ。
ハルはにっこりと笑った。
彼が目を見開いてハルを見る。
「ちゃんと待ってるから。佐藤くんを」
そうしたら、一緒に帰ろう。
あの日よりももっとたくさん話をしよう。
また面白い話をたくさん覚えて来たし、彼に聞きたい話もたくさんある。
だから、また一緒に帰ってくれると嬉しい。
「約束だよ」
ハルはもう一度手を伸ばす。
彼も手を伸ばした。
その指が触れる前にハルの体は光に包まれ、ふっと空に消えた。





この街は、ひとりの子どもの死から始まった。

その子どもは貧しい家庭に生まれ、小さな体でいつも幼い弟と妹を両親の暴力から守っていた。満足に食事も与えられず、食べ物を求めて野山に入り、ようやく小さな木の実を見つけたところで野盗に出会し、嬲られ、野犬に食い殺された。
子どもの魂はその痛ましい経験から傷だらけになっており、今にも崩れてしまいそうだった。
その魂を見つけたのが、ひとりの御使いだった。

ひどい。ひどい。なんてかわいそうなの。

己の手の中にある、今にも消えてしまいそうな光を見下ろし、御使いは嘆いた。
魂から涙のように溢れ出る悲惨な記憶に触れ、慈悲深い御使いの心は張り裂けそうだった。

だって、まだ数年しか生きていない。せっかく生まれることができたのに、辛い目に遭って、このまま消えてしまうなんて。本当なら、もっともっと生きられたはずなのに。こんなにあっさり消えてしまうなんて。
せっかくあの御方が作られた命なのに、なんてもったいない。

なんとかできないだろうか、と御使いは思った。
御使いの主たるあの御方に頼めば、魂の修復など簡単だ。
だが、こんな境遇の魂など珍しいものではない。悲劇は世界中で起きている。だから、こんなことでいちいち主の手を煩わせるわけにはいかなかった。
かといって、この魂を放ってはおけない。
傷さえ治すことができれば、この魂はまた生まれ変わることができ、別の場所で新しい生を得ることができるのだ。
そうすれば、せっかくの命も無駄にせずに済む。
問題はそれをどうやるかだ。
御使いは考える。

ひどい扱いをうけて傷だらけになってしまったのなら、その逆をしたらどうだろう。

御使いは試しに、その魂に人の形を与えてみた。
壊れる寸前の魂が形を成せたのは、生まれたばかりの赤子だった。
御使いはその赤子の世話をするものを作り、優しく愛情を込めて育てるように指示をした。
赤子は暖かな寝床と十分な食事を与えられ、すくすくと成長した。言葉を話せるようになる頃には、魂の傷はまだ残っているものの、出会ったころのようなか弱さは消えていた。
御使いの考えは当たっていた。
つまり、その魂を他者が慈しむことで、魂の傷は癒せるのだ。
これを利用すれば、一度傷付いて壊れかけていた魂でも修復できる。そして、完全に回復したところで生まれ変わらせ、新たな生を歩ませるのだ。そうすれば、あの御方が作られた命を無駄にせずに済む。
その瞬間、御使いの頭に天啓が下りた。
もちろんこれは比喩で、本当に主たるあの御方からの言葉があったわけではない。だが、これこそが自分が為すべきことだと、御使いは思った。

そうだ、それがいい。そうしよう。
そうすれば、きっと慈悲深いあの御方もお喜びになるはずだ。

御使いは街を作ることにした。傷付いた魂達が、その傷を癒すための場所を。
そこは飢えも疫病も争いもない平和な世界。誰も他者を虐げることのない、優しい世界。突然何かが奪われることも、喪われることもない穏やかな世界。
そこで傷付いた魂達を癒してやればいい。そうすれば、魂は再び、生まれ変わることができるようになり、あの御方から頂いた尊い命を最後まで使いきることができるだろう。
浮かんだアイデアの素晴らしさに、御使いは眩暈がしそうだった。
御使いは決意した。
傷付いた魂をこの街にたくさん集めよう。愛されず、傷付けられ、生を全うできずに死んでしまった哀れな魂達を。
彼らを世話し、慈しむものも増やそう。家も必要だ。それらしい世界の仕組みも作らなければ。
魂達は過去の傷に敏感だ。森で死んだ者は森を恐れ、海に沈んだ者は水を嫌う。
それらに触れなくても貶したり貶めたりしない、優しい友人も用意しよう。親のない子には親を。子を望むものには子を。承認欲求を満たしてくれる才能を。才覚を発揮できる理想の場を。彼らの望むものを与え、その傷を癒そう。
そうして傷が癒えた時、彼らはまた新たな生を手に入れることができる。
そうすればきっと、あの御方は褒めてくださるに違いない。

希望に目を輝かせる御使いの隣で、人の形をもらった魂がきょとんと首を傾げる。
何も知らないその無垢な顔を見て、御使はにっこりと微笑んだ。

そうして、この街は生まれたのだ。



少女の体が空に消えた後、それまでのことが何もなかったかのように、そこにいた者達は日常に戻っていった。
教師は職員室に。生徒は部活動や勉強に。店員は店の中へ。歩いていた者も、再び散歩に戻る。
つい数秒前に起こったことを気にしている者など、もう1人もいない。
雪の中、学校の前で座り込む少年だけが、もう何もない空間を茫然と見つめ、はらはらと涙を流し続けていた。