真上家からの招待は、クラウスにとっては願ってもないものであると同時に、たいへん疑わしいものでもあった。
(夜の貴婦人──あの少女のことを探るには、確かに好機だが。俺にいったい何の用だ……?)
外交官として日本に滞在している各国の貴族は、この国の皇族や華族と華やかに交流しているらしい。
だが、彼の立場は一介の旅行者に過ぎない。友人であるヘルベルトに、日本が過ごしやすい場所だと聞いて、試しに訪れただけで。政治的な人脈がある訳でも、提携をもちかけるような事業を手がけている訳でもない。
(令嬢にも、婚約者がいるということだし……)
真上家に向かう馬車に揺られながら、クラウスは軽く顔を顰めた。彼の「貴婦人」にそっくりな、けれど中身はまったく違う娘を思い出したのだ。
国を越えた結婚は──まあ、ない訳ではないが。彼の容姿は、どうやら日本の令嬢にも好ましく見えるようだが。
それでも、すでにいる婚約者を取り換えることはないだろう。何より、真上暁子嬢は異国の言葉にも文化にもまったく興味がないようだった。
(まあ、良い。行けば分かるさ)
クラウスが溜息を吐いた時──馬車は、ちょうど真上家の門を潜るところだった。
* * *
真上邸は、東京の街並みとは打って変わった完全な西洋風の建物だった。広い庭があるため、外の木造の家々は視界に入って来ない。だから、馬車から降りた瞬間、クラウスは祖国ドイツの田舎に戻ったような錯覚に陥った。
「ようこそお出でくださいました、シャッテンヴァルト伯爵閣下」
なのに、彼を出迎えるのは黒髪黒目の日本人の使用人で、口にするドイツ語もぎこちないから不思議な感覚になる。
「招待いただき、感謝している。──日本語は勉強しているので、無理をなさらなくても結構」
「それは、恐れ入ります」
クラウスの日本語も、きっと当地の者には違和感のある発音なのだろうが。それでも意味は通じたらしく、使用人は明らかに安堵の表情を見せた。
(これも、あの令嬢のお陰だな)
次こそは彼の夜の貴婦人とまともに意思疎通したい、という一念で、クラウスは日本語の勉強に力を入れることにしたのだ。ヘルベルトの協力もあって、ひと月もしない間になかなか上達したのではないかと思う。
前提として、そもそも人の姿で会えないと、声を出したり筆談を試みたりもできないのだが──今日は、せめてあの令嬢の匂いだけでも捉えることができるだろうか。
大理石造りの暖炉が据えられた応接間に入ると、甲高い少女の声がクラウスの耳に刺さった。
「お久しゅうございますわね、伯爵様! お会いできるのを楽しみにしておりましたわ……!」
「……こちらこそ、暁子様」
貴婦人の手を取って口づけるのは、紳士の作法というものだ。クラウスも当然弁えている。
だが、当然のような顔で手を突き出されるのは良い気分ではなかった。
暁子の手は白く滑らかで、あの令嬢の荒れたそれとはまるで違うからなおのこと。美しく整っているからこそ、彼が想う女性ではないと突き付けられるようだった。
「当家に外国の客人をお招きするのは、実は初めてのことでしてな。粗相がないと良いのですが」
「……美しいお屋敷に、美しい令嬢です。最初の客になれたのは光栄なことです」
真上子爵本人に、その隣には鹿鳴館でも言葉を交わした新城春彦という青年もいる。
クラウスのほかに招待客はいないらしい。まるで、身内の席に彼だけが紛れ込んだようだ。
(外国人をもてなす練習台に、さほどの地位も立場もない若造が選ばれた、とかいうことか……?)
緊張した面持ちで茶菓子を供する女性の使用人を横目に、クラウスは考える。日本は、まだ異国との付き合いに慣れていない。多少失敗をしても問題がなさそうな彼を相手に予行演習しておきたい、ということもあり得るだろうか。
(それならそれで、構わないが……)
茶器は、欧州から取り寄せたらしい繊細な磁器。菓子は、屋敷の中で焼いたらしく、まだ温もりを残している。
不慣れな様子はありつつも、基本的には和やかで心地良い茶会になりそうではあったのだが──
「伯爵様──クラウス様とお呼びしてよろしくて? 日本でどこかお出かけになりたいところはありますの? 鎌倉とか日光とか、近場にも名所がありますのよ。ご案内して差し上げたいですわ!」
許可を得るのを待たずに彼の名を勝手に呼び、一方的にまくし立てる暁子は押しつけがましく鬱陶しかった。クラウスが日本語を聞き取れているか否かも気にしていないように見える。
「そうですね。あちこち足を延ばしたいとは思っていますが」
仮面のような笑みを顔に貼り付けて、菓子を味わう──クラウスの胸の中で、狼が唸る。
(うるさいな……食い殺してやろうか)
彼の牙なら、こんな細い首などひと噛みだ、と──残酷な想像に、一瞬とはいえ酔ったことに、自分自身で驚いてしまう。口の中に湧いた、幻の血を洗い流すべく、クラウスは慌てて茶を飲み干した。
(これでは、迫害されるのも当然の獣じゃないか……!)
人間として節度ある振る舞いをしなければ、と自分に言い聞かせて、クラウスは春彦に話しかけることにした。この青年が、この中では一番ドイツ語に堪能なようだから。
「──婚約者のいるお方とふたりきり、という訳にはいかないでしょう。どうせなら誰か一緒に──真上家には、同年代の方はほかにはいらっしゃらないのですか……?」
それに、春彦は彼の夜の貴婦人と一緒にいたことがある。
あれだけ似ているのだから、あの女性は、暁子の姉妹か従姉妹か、とにかく近しい親族ではないのだろうか。春彦の反応が、何かの手掛かりにならないだろうか。
「あいにく、真上家には暁子以外の御子はおりません。もうひとり娘でもいたら、貴国との──貴家とのご縁もより深まったかもしれませんが」
「……そうですか。残念です」
春彦のにこやかな笑顔に綻びは見えなかった。いっぽうで、そのもの言いは、あの夜の女性の存在をクラウスの目の前にちらつかせているようでもあった。
(食えない男だ)
ほんの少し──気付かれないていどに、クラウスは眼差しを鋭くして春彦を睨む。獲物を狙う、狼の目つきになっていることだろう。
強く賢い獣の血を昂ぶらせて、五感を研ぎ澄ませて相手の隙を窺うのが、彼の家の流儀だった。目に見える兆候だけではない、嘘や偽りといった悪巧み、それにともなう緊張や興奮が、匂いとして感じられることもある。
「まあ、ひとり娘だからこそ、私は婿に迎えていただけるのですが」
「春彦兄様は、私の言うことは何でも聞いてくれますのよ。だって、私のお陰で真上子爵を継げるのですもの!」
高慢に胸を張る婚約者に苦笑を向ける春彦は、爽やかな好青年そのものだった。だが──クラウスの鼻に届く匂いは、違う。
(なんだ、この──腐ったような悪臭は!?)
まるで、何かの死体が部屋の中に投げ込まれたようだった。
鋭敏になった嗅覚が感知した耐え難い臭いは、春彦が秘めた感情なのか、悪意ある計画なのか。
(冷静に。顔には出してはならない……)
素知らぬ顔で嗅ぎ分けなければ、とは思うのだが。悪臭への嫌悪が先に立って、クラウスは思わず顔を背け、腰を浮かしてしまう。
「どうかなさいましたか?」
突然立ち上がった客人に、真上子爵は怪訝そうな表情をした。惚けているのだろうか、それとも、何も気付いていないのか。
「いえ……何も……」
いずれにしても、クラウスの鼻について悟られてはならないし、真上家の内情を探るには怪しまれてならない。
だが──余所を向いたことで、彼の五感はまた別の音と匂いを捉えていた。どちらも、彼にとっては放っておけないものだった。
「──失礼」
短く言い捨てるなり、クラウスは真上子爵たちの答えを待たずに応接間から大股に退出した。
「伯爵閣下、あの──」
「どこへいらっしゃるの!?」
子爵の狼狽える声に、暁子の耳障りな声がうるさい。だが、一度耳が拾った音がする方向を、クラウスはもはや聞き逃しはしない。
微かな鈴の音は、彼の夜の貴婦人がなぜか足首につけていたもの。それに、同族の狼を思わせる、どこか懐かしい匂いもした。
間違いなく、あの少女はこの屋敷のどこかにいるのだ。
地下室への入り口は、屋敷の中でも主に使用人が出入りする区域に設けられていた。扉と言わないのは、床を四角く切り取った穴と呼んだほうが正確だからだ。
外というか上から見れば、綺麗に床材を貼って取っ手も備え付けて、まだしも屋敷の一部に相応しく整えられている。でも、中に入って、しかも入り口を塞がれてしまうと、そこはひたすらの闇だった。
自分の手指さえ見えない真っ暗闇の中で、宵子は膝を抱えて身体を丸めていた。そうしていないと、四方から圧し掛かる闇に押しつぶされてしまいそうだった。
(怖い……それに、寒い……)
ひんやりとした空気は、倉庫として酒や食材を補完するのには良いのかもしれない。人が長時間過ごすことを想定していないから、床や壁の一部は土を固めたままになっているのも、合理的なのだろう。
でも、閉じ込められた宵子にしてみれば、冷たい床や壁から忍び寄る湿気が気持ち悪くて恐ろしい。あまりに暗いのか、手足に触れるのが自分が纏った着物の裾や袂なのか、それとも虫や鼠が這ったのかも分からない。
地下室の入り口は、今の宵子にしてみれば頭上を塞いだ天井だった。
奥深くへと降りる階段の半ばに這うようにして、懸命に厚く堅い木材を拳で叩いたのも、最初だけのこと。腕に伝わる感触は鈍く、地上では入り口の上に何か重いものを載せたのだろうと気付いてしまったからだ。
声が出せない宵子が暴れても、その音は重石となった米櫃か何かが吸収して誰も気づかない──あるいは、無視できるていどのものになってしまうのだろう。
疲れ果てて膝を抱えた宵子がここにいるのを、どれだけの人間が知っているのだろう。
みんな、忙しく立ち働いているから、いつもと違うものの配置を怪しく思う暇さえないかもしれない。
(このまま忘れられてしまったら、どうしよう……!)
地下室の入口は、毎日開けられるものではないのを宵子は知ってしまっている。飢え死にするまで放っておかれるなんてことはないだろうけど、たとえひと晩だけでも、ひとりきりで耐えるにはこの闇も寒さも恐ろし過ぎる。
それに、暁子の部屋から引きずられてここに閉じ込められた時のことを思い出すと、心臓が氷の手で掴まれるような心地がする。
(春彦兄様。お父様や暁子に逆らえないから、よね……?)
春彦は、いつもの穏やかでにこやかな笑顔のままで、宵子を地下室に突き飛ばしたのだ。来客を迎えるために纏っていた洋装が汚れるのを避けたのか、彼自身は階段を降りることさえしないまま。
その時に床についた手が、ひりひりと痛む。すりむいたのかどうかも分からない掌をさすりながら、宵子は唇を噛んで涙を堪えた。身を守るように膝を抱えると、足首の鈴が小さくりん、と鳴る。
春彦のことを恨んではいけない、と思う。でも、春彦でさえあの調子なら、この屋敷に宵子を気にかけてくれる人はいない。誰も彼女を探さないし、まして助けようとはしてくれないだろう。
(誰か……どうか……!)
心からの叫びは、誰の耳にも届かない。声に出せないのだから当たり前だけど。銀の髪と宝石の青の目が脳裏に煌めくけれど──星よりも遠い、幻の輝きだ。あの方は、クラウスは、彼女の存在さえまだちゃんと知らないのに。
目を閉じても、宵子を取り巻く闇の濃さはまったく変わらなかった。その事実に絶望して俯くと、頬を涙が伝う。暗いだけでなく静寂が支配する地下室では、涙が滴る音さえ聞こえそうだ──そう、思ったのだけれど。
(──え……?)
頭上から聞こえる物音に、宵子は顔を上げた。もちろん、目に映るのは相変わらずの一面の闇。でも──音が、聞こえる。
複数の人間が言い争う、荒々しい声。男の人の──父や、春彦のそれも混ざっているような。でも、彼らが使用人が働く区域に足を踏み入れることは滅多にないはず。しかも、今は来客に対応している最中のはずなのに。
不安も恐れも忘れて、宵子は上の気配に耳を澄ませた。
やがて、聞こえるのは人の声だけではなくなった。慌ただしい足音と振動も、間近に伝わってくる。さらには、重いものを動かす物音も響いてきて、宵子は思わず後ずさった。
(何? 何なの?)
暗闇の中にいると、どんな音もより大きく恐ろしく聞こえてしまうものだ。何か争う気配を感じるからなおのこと。
だから、宵子は凍り付いたように地下室の入り口が開くのを見上げた。痛いほど首をもたげて。祈るように縋るように、胸もとに隠したクラウスへの手紙を押さえて。
細く空いた隙間から入る光は、最初は矢のように鋭く宵子の目を射った。眩しさに目を細めても、視界は白い。彼女のほうへ、人影が降りてこようとしているのだけが辛うじて見える。
(誰。兄様でもお父様でもない……?)
すらりとした長身の男の人。その人は、いったい誰だろう。突然差し込んだ光に、目が痛むのを感じながら宵子は不思議に思った。こんな人が、屋敷にいただろうか。
着物ではなく、洋装を纏っている。父や、夜会で見た紳士たちのように着られる感じではなく、見事に着こなして。階段を駆け下りる足取りも軽やかで若々しい。
何より──その人が冠のように戴く髪の色は、輝く銀。闇に慣れた目には、以前見た時よりもいっそう眩しく見える。青い目の美しさも、宵子はよく知っている。何度も夢に見たから。
「ああ──そこにいた」
その人の声も、そうだ。ドイツ語の辞書をめくっては、あの声が紡いだらどう聞こえるのだろうと想像を膨らませていた。
(嘘。まさか。どうして……!)
夢に見た眼差しが、声が。今、宵子の目の前にいる。目が覚めては、勝手な妄想だと顔を赤らめていたのに──闇を掃うような綺麗で眩しい笑顔のクラウスが、宵子に手を差し伸べてくれている。
「シャッテンヴァルト伯爵! 突然、このようなところまで立ち入られるとは、無礼な……!」
父の怒声が聞こえた時には、宵子はクラウスの腕の中に収まっていた。
父の──男の人の低い声に険しさが宿ると恐ろしいものだ。普段なら竦んでしまっていただろう。でも、今はクラウスの逞しい胸が頼もしい。
(温かくて、どきどきする……)
宵子自身の胸がうるさいほど高鳴っているのはもちろんのこと、クラウスの胸に押し当てられた頬から、彼の鼓動が伝わってくる。宵子のそれよりもゆっくりとして力強い、どくん、どくんという音が、彼女を落ち着かせてくれる
父は、春彦と同じく地下室の階段を降りようとはしないようだった。宵子を抱えたクラウスからは見上げる位置になるのに、彼は屋敷に主人に対しても怯まず、堂々と言い返した。
「私が無礼なら、貴方がたは非道なのでは? この方は、暁子嬢にそっくりだ。なのに、着ているものも手の荒れようもまるで違う。……この方はどなたです。どうして、このような扱いを?」
クラウスの身体の動きで、宵子の顔を覗き込んだのが分かった。
(私のことを、そんなに見てくださって……!?)
荒れた手にまで気付かれていたなんて。喜べば良いのか恥じらえば良いのか分からなくて、宵子はクラウスの腕にしがみついた。
真っ赤になった顔を見せたくなかったからだけど──そのほうが、彼に密着することになってしまうことに気付いて、頬がますます赤くなる。
「それは……その娘は、確かに当家の娘ですが」
宵子の反応はともかく──クラウスの詰問に、父は言い淀んだ。代わって進み出るのは、春彦だ。
「その御方は、ご病気なのです。病弱で──とても社交ができるお身体ではありませんので、ご紹介しておりませんでした」
相変わらずのにこやかさと爽やかさに、宵子は思わず目を見開く。彼女を地下室に閉じ込めたのはほかならぬ春彦なのに。もちろん、クラウスはそんなことは知らないだろうけれど──疑わしいとは、思ったようだった。
宵子を抱くクラウスの腕に力がこもり、身体に伝わる動きで、地下室を見渡したのが分かる。あの宝石のような青い目に、薄暗く湿った空間はどのように映ったのだろう。
「病気を治す気があるとは思えないが」
ぼそりとこぼれたクラウスの呟きは鋭く険しく、父も春彦も咄嗟に返す言葉がないようだった。ふたりが息を呑んだ隙に、クラウスは宵子を抱え上げた。
(え!?)
外国の殿方すれば、宵子は子供のように小柄なのかもしれない。でも、人ひとりを抱えたままで階段を上るクラウスの足取りはまったく乱れがない。まるで、宵子なんて羽根ていどの重さでしかないかのように。
気付けば、目と口をぽかんと開けた父の顔が間近にあった。宵子のように呪いを受けた訳でもないのに、父の口からはああ、とかうう、とかうめき声が漏れるだけで、意味のある言葉は出てこない。
「伯爵閣下。何をなさいますか。その方を降ろしてください」
それでも春彦は、クラウスの前に立ちはだかろうとしたけれど。宵子を抱きかかえる腕が緩むことはなかった。
「失礼ながら、我が国は日本よりも医学が進んでいる。私の友人にも医者がいるし──この御方の治療は、私に任せていただきたい」
それだけ言うと、クラウスは靴音を高く響かせて玄関ホールへと足を進めた。もちろん、宵子の爪先は床につくことなく、彼に抱えられたままだ。
(あの。これは、いったい……?)
上着の襟をそっと握る、宵子の指先に気付いたのだろうか。青い目が彼女を見下ろし──そして、ふわりと笑んだ。
「心配いらない。どうか信じて欲しい」
こんな優しい笑顔と言葉を向けられて、どうして首を振ることができるだろう。小さく、けれどはっきりと。宵子が頷くと、クラウスは笑みを深めた。
そのころには、もう真上家の屋敷の外に出ていた。馬車回しには、クラウスが乗ってきたらしい馬車が待っている。
「私の家に連れて行く。貴女には休息と栄養が必要そうだ」
そして、土を一歩も踏むこともないまま、宵子はその馬車にそっと詰め込まれたのだった。
クラウスが馬車の御者に何と告げたのか、宵子には聞き取れなかった。本を読んで少し勉強したといっても、言葉は使って見なければ分からないものなのだろう。
ドイツ語のアルファベットの綴りが実際にはどう聞こえるのか、宵子はほとんど聞いたことがない。まして、外国人同士の早口のやり取りは不思議な呪文のようにしか聞こえない。
宵子が落ち着かない思いで瞬きするうちに、馬車はゆっくりと動き出した。
見慣れた街並みは溶けるように後ろへと流れ去り、代わって、知らない風景が現れる。
「一時間もかからない。楽にしていてくれ」
不安な表情の宵子に気付いたのだろうか、クラウスの青い目が彼女のほうを向いてくれた。
「帰れば、女性の使用人もいる。ちゃんと……ええと、礼儀正しく? 世話をする──させる、か? その──そう、だから安心してくれ」
整った眉が微かに寄っているけれど、日本語の表現を思い出そうとして頭を悩ませてくれているのが分かる。だから、宵子が不安に思うことなんてない。それどころか、彼の気遣いが嬉しくてならなかった。
(日本語に慣れていらっしゃらないのでしょうに……!)
微笑んで──宵子が頷くと、クラウスもほっとしたように頬を緩めた。
「眠ると良い。もう怖くないから」
クラウスの手がおずおずと伸びて、宵子の髪をそっと梳く。開かない地下室の入り口を叩いたり、闇の中であちこちぶつかったりしているうちに、すっかり乱れて汚れてしまっているだろう。
(そうだわ。私……怖かったの)
そう認めると、心のどこかがぴしりとひび割れる音が聞こえた気がした。それはきっと、仕方がないと諦めて押し込めていた、彼女の本音が零れ落ちる音。
声の出せない宵子には、泣き叫んで訴えることはできない。不安も恐怖も、だから誰にも伝わらない、分かってもらえないのだと思っていた。
でも、クラウスはほかの人たちと違う。聞こえないはずの宵子の悲鳴に、耳を傾けてくれたのだ。
「ど、どうしたんだ? ──泣かないで……」
ぽろぽろと涙をこぼす宵子を見下ろして、クラウスが狼狽える。彼の言葉は、やはりすべて聞き取ることはできないけれど──慰めようとしてくれていることは、伝わってくる。
(大丈夫。何でもないんです)
たとえ声が出せたとしても、この喜びを、この安堵を表現することはできないだろう。──でも、言葉に拠らないやり方なら? 溢れる思いの欠片くらいは、伝えられるかもしれない。
ちょうど、曲がり角に差し掛かって馬車が揺れた。よろめいた振りで、宵子はクラウスの胸に飛び込む。はしたない振る舞いに頬が熱くなるけれど、震える手を伸ばして、彼の上着をぎゅっと掴む。
「──っ」
歯を食いしばる気配。そして、熱いものに触れたかのように、クラウスの手が跳ねる。宵子を、もといた位置に戻そうとしてくれたようだけれど──離れようとしないのを察してか、彼の身体から力が抜ける。
「落ち着いて──」
クラウスの声は穏やかで、宵子の背を軽く撫でる腕は優しかった。彼の温もりと、規則正しい鼓動。それに馬車の振動が心地良くて、張り詰めて疲れ切った心を溶かしてくれる。
クラウスに抱き留められたまま、宵子はいつしか眠りに落ちていた。
* * *
気が付くと、宵子の身体はふわふわとして温かいものに包まれていた。
視界は、いまだ闇の中。温もりに溶けるような心地良さは、少し早く起きた朝、もう少しだけ横になっていられる時のものだ。
そう、確かに。宵子は寝転がって目を閉じている。
(お布団……? 寝かせてもらったの?)
暁子の癇癪。春彦の、優しいけれど冷ややかな眼差し。地下室の闇と恐ろしさ──そこから救い出してくれた、銀の髪と宝石の青の目の煌めき。
(そうだ、私──)
意識を手放す直前のこと。クラウスの胸に縋って涙をこぼした記憶が一気に押し寄せて、宵子は慌てて起き上がった。
いくら気が動転していたと言っても、とても恥ずかしいことをしてしまったような。まともに話したこともない──そもそも話せないのだけど──娘にいきなり抱きつかれて、あの方はさぞ困惑しただろう。
改めて周囲を見渡すと、宵子は寝台に寝かされていた。
真上家では、主人一家こそ洋風の様式で生活していたけれど、使用人は昔ながらの布団で寝起きしていた。宵子も、屋根裏部屋の天井の低さもあって、寝台で休んだことはなかった。
(私が使わせてもらって良いの……?)
自分のことを華族令嬢だなんて思っていない宵子だから、真っ白で清潔な寝具の滑らかさも、雲に沈み込むような敷布団の柔らかさも畏れ多いと思ってしまう。
早く起き上がってご挨拶を、と思うのだけれど──ふと見下ろせば、地下室の埃で汚れたであろう着物は脱がされて、欧州の令嬢が着るような、ふんだんにレエスを施した服が着せられている。
薄く軽い生地は、寝間着ということだろうか。それなら、この格好でうろうろするのは無作法なのかもしれない。
寝台が置かれているのは、西洋風の設えの一室だった。
枕元の花瓶には百合の花が飾られて清らかな香りを漂わせ、すでに暗くなった窓辺には重たげな緞子のカーテンが揺れている。
美しい調度の部屋に相応しく、扉の取っ手も磨かれて鈍い金色の光を放っている。たとえちゃんとした格好をしていたとしても、触れるのが躊躇われるほどの眩しさだった。
(ど、どうしよう)
と、寝具に包まって途方に暮れている宵子の耳に、人の声が届いた。扉の外で、誰かが話しているらしい。
男の人と、女の人。漏れ聞こえる言葉は、宵子には意味の取れない異国の言葉。でも、少なくとも片方の声は、聞き覚えがある。だって、夢にまで見た恋しい御方の声だから。
(クラウス様……!)
扉越しに声を聞いただけで、痛いほどのときめきが、宵子の胸を刺した。思わず胸を押さえたのとほぼ同時、扉が開いて──
「良かった。起きたのか」
クラウスが、眩しい笑顔で室内を照らしていた。すらりと長い足で寝台に近づいて来るのを見て、宵子の胸はますます苦しくなってしまう。嬉しいのに、あまりに心臓がどきどきするから痛みさえ感じてしまうのだ。
「貴女が寝ている間に、言うべき言葉を日本語に訳して覚えておいたんだ。……分かる、か?」
頬を染めて俯く宵子を、クラウスは心配そうにのぞき込んだ。寝台の脇に置かれた椅子に、腰を下ろしながら。そんなことをされると、綺麗な顔がますます近づいて、恥ずかしいのに。
(分かります。とてもよく)
みっともないくらいに赤くなっているであろう頬を押さえて、俯きながら。宵子はどうにか頷いた。
本当は、顔を上げてお礼をしなければならないところなのに。声は出せないにしても、せめて相手の目を見て、綺麗にお辞儀をしなければいけないのに。
でも、あの青い目に間近に見つめられていると思うと、ひたすら寝具を握りしめた自分の手を見下ろすことしかできなかった。
きっと、無礼な娘だと思われているだろうと思ったのだけれど──クラウスは優しく、そしてどこか悪戯っぽく微笑んで、囁いた。
「──貴方様とお会いできたことは私の人生でもっとも嬉しく楽しい、そして幸せなことでした」
低く、そしてどこか甘い声が紡いだのは、嫌というほど覚えのある文章だった。
(私の、手紙……!)
蝋燭と星の灯りの下で、何夜もかけて綴った手紙の一節だ。いつかクラウスに読んで欲しいと願ってはいたけれど、まさか、読み上げられるのを聞くことになるなんて。
もう、恥ずかしいなんて言ってられなかった。目を見開いた宵子が顔を上げると、クラウスはなぜか嬉しそうに笑顔を浮かべていた。宵子の顔なんて、見て楽しいものでもないだろうに。
「着物の懐から手紙が出て来たから──っと、あ、貴女を着替えさせたのは、メイドだから安心して欲しい!」
宵子の赤面の理由を、クラウスは何か勘違いしたようだった。慌てたように、早口で弁解してから──彼は、そっと宵子の手を握る。
「宵子。貴女は宵子という名前なんだな。俺も、ずっと知りたいと思っていた」
触れられたところが、燃え上がるようだった。
宵子の体温が上がっているからだけではない。クラウスの手も熱を帯びている。もう目を離すことなんてできなくて、睫毛が数えられる距離に近づいた彼の顔も、赤く染まっている。
(……照れていらっしゃる? どうして?)
地位のある殿方が、宵子のような何でもない小娘に対して。何を恥じらうことがあるのだろう。
不思議には思っても、宵子には問いかける言葉を紡ぐことはできなくて。ただ、クラウスの声に聞き入る。
「ダーメ・デア・ナハト──夜の貴婦人。神秘的で美しく、けれど控えめで。そして謎めいていて。暁子という娘とは違う。貴女だけの名前を、知りたかった」
暁子ではなく、宵子自身を。それもまた、手紙に綴った想いだった。双子の妹とは違う存在なのだと──伝えるだけでも、途方もない夢のようなことだと思ったのに。今、彼は何と言ってくれたのだろう。
「貴女の手紙は、とても嬉しかった。想いを伝えるために、俺の国の言葉を知ろうとしてくれていたことが。俺と同じ想いでいてくれたことが」
信じられないと、思ったけれど。でも、少しぎこちない発音で、クラウスは確かに言った。同じ想いだと。彼も、宵子と同じように、一度踊っただけの相手のことを想い続け、探し出してくれたのだ。
(クラウス、様)
しっかりと握られていた手を、できるだけそっと振りほどく。クラウスとの接触が嫌なのでは、もちろんない。それどころか、もっとしっかりと彼を感じたかった。とてもはしたない望みだから、宵子の手は宙に浮いたまま、躊躇いに震えてしまうけれど──
「貴女のことをもっと知りたい。俺のことも、もっと知って欲しい。時間をかけて──少しずつで良いから」
クラウスは、その震えごと宵子を抱き締めてくれた。彼の腕にしっかりと抱かれ、守られて。宵子は何度も何度も、大きく首をうなずかせた。
真上邸の書斎にて。屋敷の主である真上子爵が、娘の婚約者の新城春彦と密談していた。
幾つか壁を隔てたほうからは、暁子の喚き声が聞こえてきている。何かが割れる高い音は、花瓶を床に叩きつけでもしたのだろうか。
シャッテンヴァルト伯爵クラウス──屋敷に招いた異国の貴公子に、ぞんざいに扱われたこと。暁子の前を素通りして、呪いを負った姉の宵子に手を差し伸べたこと。ろくな挨拶をせずに屋敷を去ったこと。
それらのいずれに対しても自尊心をひどく傷つけられて、暁子は癇癪を起こしているのだ。嵐のような荒れようを宥める子爵夫人や女中たちも難儀なことではある。だが、書斎で顔を合わせる子爵と春彦にとっては、そんなことはどうでも良いことだった。
切子硝子の杯で蒸留酒を呷った真上子爵が、春彦に食ってかかる。
「──これは、誘拐ではないか!? ドイツ大使館に抗議すべきではないのか」
「宵子は、世間では療養中ということになっています。どうして本邸にいるのか──まして、どうして地下室に閉じ込められていたのかと追及されれば、醜聞になるでしょう」
対する春彦はいつもの爽やかな笑みで冷静に応じる。
子爵が、檻に入れられた熊のように落ち着きなくうろうろとしているのに対して、春彦は来客用のソファにゆったりと腰を下ろしていた。
「真上家の名誉のためにも、ことを荒立てる訳にはいかないかと存じます」
「それは、そうかもしれないが!」
子爵は屋敷の主で、春彦は婿候補。しかも、真上家は新城家の主筋だった歴史がある。
年齢の差も立場の上下もあるにもかかわらず、子爵にはどこか春彦の顔色を窺う気配があった。子爵のほうこそ春彦に頼り、彼の指示を待っているかのような。
「宵子は……計画のためには必要なのだろう? あれに巣食った犬神の力が肝要なのだと──連れ去られてしまって、良かったのか!?」
「誘拐犯がほかならぬシャッテンヴァルト伯爵でしたからね。計画に支障はないでしょう」
言いながら、春彦は脇机から新聞を手に取った。
紙面には、例の「人喰い犬」の事件が大きく報じられている。警察や、軍までもが出動して行方を追っているにもかかわらず、昨日も若い娘がひとり食い殺された、と。
若い娘がいる家はもちろんのこと、そうでなくても帝都の民は誰しも怯え、夜間の外出を避けるようになっている。
華族の家も状況は同様だし、事実、子爵も春彦も緊張を帯びた眼差しで新聞の題字を見つめている。
だが──ふたりの表情には、猟奇的な事件に対する好奇心だけでは説明できない、奇妙な熱も浮かんでいた。
「……順調に育っているのか」
「はい。もう十人以上食らいましたからね。真上家の、本来の犬神──平安の御代から崇められ養われた存在には及ばずとも、十分に使えるでしょう」
「そうか」
春彦が力強く頷くと、子爵の頬の赤みが増した。酒精だけではなく、明るい未来を思い描いた高揚が、彼を酔わせているようだった。
真上家の先代の当主は、優れた人物だった。徳川家の統治下で武家の世が繁栄するいっぽうで、辛うじて細々と続いてきた公家の家を建て直し、新政府で栄達した。
だが、その息子である現在の当主、真上子爵にはそれほどの才覚はない。
受け継いだ資産や事業の運営もはかばかしい成果を挙げていないし、政府で高い役職を得ている訳でもない。いっぽうで、屋敷の改築、夫人や令嬢の暁子の衣装を調えるための散財で家計は火の車、というのが実情だった。
「犬神を処分した父の判断は間違っていた……! 暗殺でも警護でも、まだまだいくらでも使いようがあったのに。犬神がいれば、私だって……!」
科学が発展した明治の御代では犬神の力など不要、というのが先代当主の考えだった。
海外の先進国とも渡り合わなければならないのに、怪しげな迷信に頼る姿は見せてはならない、と。だからこそ供物を減らして、年老いた犬神が衰弱していくように仕向けていたのだ。
先代が存命のころは、子爵も父に逆らうことなどできなかった。だが、彼自身が当主になり、しかも家が傾きつつある今なら、話は別だ。
怪しげな力で良いから、縋りたい。犬神さえいれば。ほかの者が知らない力を操ることができたなら。そうすれば、何もかも上手くいくはずなのに。
「宵子が、最後の仕上げになるでしょう。真上家の血を引き、古き犬神の力を宿した彼女の血肉によって、新しい犬神は完成する……!」
燻っていた子爵の不満に火を点けたのが、春彦だった。真上家よりも、分家の新城家のほうが古い言い伝えを正確に残していたのだ。
飢えさせた犬を殺し、その怨霊を操る術。
自身には逆らわぬよう、飼い慣らす術。
親から子へ、犬神を受け継ぐにはどう祀るべきか。
より力をつけさせるために、何を与えれば良いか。
最初は、子爵も信じてはいなかった。だが、春彦が実際に犬の怨霊を操って見せると、目の色を変えた。より強い犬神を作るために、罪のない少女や──娘の宵子の命が必要だと言われた時も、子爵はほとんど躊躇わなかった。
貧乏人が何人か死んでも、どうでも良い。
口の利けない気味の悪い娘が片付いてくれるなら、せいせいする。
それどころか、帝都を覆う恐怖が膨れ上がったところで真上子爵が事件を解決したとなれば、名誉も褒美も思うままだろう。
何しろ人々を恐れさせる人喰い犬は、真上家の手のうちだ。事件をいつ、どのように終わらせるかは子爵が決めることができるのだ。
「伯爵は蟲毒を呑んでくれました。今日の目的は十分に果たせているのです」
春彦の笑みは、蒸留酒よりも強く芳しく子爵を酔わせるようだった。
「私は、娘の仇を討ったことになる──そのように、してくれるんだろう!? 春彦!」
「ええ。シャッテンヴァルト伯爵は、ちょうど良い時に来日してくれました」
乱暴に肩を揺さぶられて、それでも春彦は穏やかな微笑を絶やさない。
狼の血を引くと噂される伯爵が、人喰い犬と時を同じくして帝都にいるのはたいへん都合が良い。
噂によると、かの家の者は夜な夜な狼に姿を変えては森や荒野を彷徨い、時に人を襲うこともあったのだとか。
現代の人間が聞けばお伽話だと笑うだろうが──真上子爵や春彦にとっては、そうではない。
犬神がいるなら、狼男もいるだろう。仮に、シャッテンヴァルト伯爵がただの人間でも関係ない。無残に引き裂かれた宵子の死体の傍に、あの銀髪の貴公子がいたなら。一族にまつわる噂と合わせれば、誰もが彼が犯人だったのだと信じるだろう。
「私の犬神は、宵子の匂いをちゃんと覚えています。伯爵が彼女を連れ帰ったなら、かえって話は早いかもしれない」
「うむ、うむ。巣穴でゆっくり食おうとしたと、そう思われるだろうからな……!」
だから、何も心配はいらない。すべては計画通りに進んでいる。──やっと、そう安心することができたのだろうか。
真上子爵は表情を緩めると、今度は蒸留酒の香りを楽しみながら、ゆっくりと杯を傾けた。
クラウスは、日本で滞在するにあたって洋風の館を借りているということだった。
使用人には、ドイツから連れてきた人たちもいれば、日本で雇い入れた人たちもいる。ドイツ人からは、宵子は年齢よりも小さな子供に見えるそうで、とても優しくしてもらえる。日本人も、主人が突然連れ帰った質素な着物の娘が、実は華族令嬢だったというのは驚きだったようで、お気の毒な境遇だと思ってくれているようだった。
だから、実家である真上家から連れ去られたといっても、宵子が寂しいとか悲しいとか思うことはなかった。それどころか、これほどに安らかで和やかな日々を送るのは、生まれて初めてのことかもしれない。
毎朝、目が覚めるたびに宵子は寝具の柔らかさに驚き、視界に映る天井の、白い漆喰の眩さに目を見張る。そして、ほのかに漂う花の香りの芳しさにうっとりとして、与えられた部屋の心地良さを噛み締めて。常に足首に結ばれていた鈴の音が、もう追いかけてこないのを確かめて──しみじみと、思う。
(まるで、子供のころのよう。……いいえ、今のほうがもっとずっと幸せだわ……!)
暁子とも分け隔てなく、父母に可愛がってもらえたあのころも、確かに何不自由ない幸せな日々だった。
でも、あのころの世界にはクラウスがいない。
レエスやフリルやリボンをふんだんに使った洋装を宵子に贈っては、似合っていると目を細めてくれる、彼。
本を広げては、遥かなドイツの風物──昼なお暗い深い森や、緑滴る渓谷、人魚の伝説がある河を望む美しいお城──のことを語ってくれる、彼。
宵子にペンの持ち方を教えてくれて、漢字やひらがなとはまた違う、アルファベットの綺麗な綴り方を教えてくれる、彼。そんな折々に触れる指先の温もり。銀の髪に煌めく光の美しさ。考え込んでいる時には、青い目の色が深みを増して、まるで吸い込まれるよう。
より長く共に過ごすほどに、より多くのクラウスを知っていく。一秒ごとに、愛しさが募る。
想いを寄せる人の間近にいられることの喜び、同じ時間を分かち合うことの幸せは、宵子が知る何もかもを合わせても敵いそうにない。
でも──いっぽうで不安も募っていくのだ。この幸せがいつまでも続くのだろうか、と。
* * *
その日、クラウスは宵子のために医者を呼ぶのだと言った。
父や春彦に対して、ドイツのほうが医療は進んでいる、彼女の治療は任せて欲しいと言ったのを、実現してくれたのだ。
(お気持ちは、とても嬉しいけれど……)
落ち着かない思いで、ドイツ人の女中が結ってくれた髪にそっと触れながら。宵子は客間で医者の来訪を待っていた。
診察に備えて、今日は胸の前を釦で留める意匠の洋装にしてもらっている。着付けも髪を整えるのも着物とはやり方が違うから、まだ宵子には手が余る。メイドたちは、人形の着せ替えのように宵子を飾るのを楽しんでくれているようだから申し訳なさはあまり感じずに済んでいるけれど。
例えば、宵子の真っ直ぐで真っ黒な髪を、メイドは黒炭のようだと褒めてくれた。ドイツの昔話に、黒炭のような漆黒の髪に、雪のような白い肌の姫君の話があるのだとか。宵子の容姿はまるでその姫君そのものだと言ってくれたのだ。
ドイツ語と日本語、言葉と紙に書いた文字をごちゃ混ぜに使えば、宵子にもそれくらいの雑談をこなせるようになっていた。でも──
(犬神様の呪いなんて、どう説明したら良いか分からないわ……)
日本人の父たちでさえ、犬神様が本当にいることを信じていなかった。クラウスだけでなく、訪ねてくる医者もドイツ人だというし、日本の古い信仰なんて理解できないのではないだろうか。
(ううん、分かってもらえたところで──)
犬神様や呪いの存在を認めたら、クラウスも宵子を気味が悪いと思うのではないだろうか。父たちと同じように、彼女を遠ざけようとするのではないだろうか。
そうなれば、今の幸せは淡雪のように儚く消えてしまうのだ。
(そんなことは、嫌……!)
だから、本当のことをすべて打ち明けることはできない。でも、それはクラウスに隠し事をするということ。彼の好意を踏みにじるということ。
(いつまでも隠せるものではないわ。分かっているけど……)
医者でも直せない病気、ということになれば、クラウスはやっぱり宵子の世話をするのを面倒だと思うかもしれない。ただでさえ、彼がいつまで日本にいるのか、どういうつもりで宵子を引き取ってくれたのかも聞けていないというのに。
クラウスは、宵子のことを大切にしてくれているけれど──でも、この先ずっと一緒にいられるとはとても思えないのだ。
(私は、どうすれば──どうなるの……?)
不安と罪悪感に胸を締め付けられて、宵子がスカートの生地を握りしめた時──玄関のほうから、扉が開く音と人の声が聞こえてきた。使用人たちの声に、クラウスのそれも混ざっている。件の医者がやってきたのだ。
私的な席で客を迎える時の作法も、一応教えられている。
宵子は立ち上がり、スカートの皺を指で整えた。窓を鏡の代わりにして髪の乱れがないかを確かめて、客間の扉が開くのを待つ。
(礼儀正しく、にこやかに……!)
クラウスに恥をかかせない振る舞いをしなければ、と思っていたのに。入室してきた医者を見たとたん、宵子は目と口を大きく開けた間の抜けた顔を晒してしまった。
「ごきげんよう、お嬢さん。また会えて嬉しいよ」
黄金のような金色の髪に、蠱惑的な翡翠色の目。纏っているのは、紬の着物ではなく黒い外套だったけれど、異国の耳慣れない抑揚がある言葉も、悪戯っぽい微笑みも、忘れたりしない。
クラウスが招いたという医者は、あの銀の犬を連れていたヘルベルトだったのだ。
(確かに、お医者様だとは言っていたけど……!)
宵子の喉を診たい、と言ってくれたのは、もちろん忘れている。でも、叶うはずがないと思っていた。もらった名刺も、真上家から持ち出すことはできなかったし。
まさか、こんなところで再会することになるなんて。
挨拶することも忘れて目を丸くする宵子に、クラウスが軽く咳払いした。
「……ドイツにいたころからの俺の友人なんだ。その……言葉の不自由な令嬢に出会って名刺を渡した、とは聞いていたんだが。まさか……宵子だったとは」
では、クラウスから話を聞いた時点で、ヘルベルトは宵子だと予感していたのだろうか。
そして、宵子の反応を見て、クラウスは不意打ちで驚かせてしまった、と思ったようだった。どうも気まずそうな、照れくさそうな表情をしている。
(そうだったんですね)
とはいえ、実際に会わせるまでは宵子には言い出しづらかった、というのはよく分かる。
気にしないでください、の意味を込めて、宵子は小さく首を振った。それからヘルベルトを見上げて微笑んで、今度こそ優雅にスカートの裾を摘まむ。異国のお医者様は少し不安だったけれど、すでに見知った人なら緊張を緩めることができそうだった。
改めてお互いを紹介し合い、軽い雑談を躱した後、クラウスは客間から出て行った。
人に見られないようにしっかりとカーテンを閉ざした部屋が、仮の診察室になる。宵子のために、筆記用具も用意してもらったから、意思疎通も問題ない。
宵子の喉や首筋に触れながら、ヘルベルトはにこやかに語る。
「私のほうでも、夜の貴婦人のお噂はかねがね聞いていた。先日会った時は、ずいぶん質素な格好だったが──今日は、お姫様のようだ。クラウスが夢中になるのも、分かるな」
ヘルベルトは、どうも口が達者なようだ。滑らかな日本語で、恥ずかしくなるようなことを言ってくれる。きっと、クラウスが同席していないのを良いことに大げさに言っているのだろう。
(だから、舞い上がってはいけないわ)
熱くなる頬と早まる鼓動をなだめて、宵子は曖昧に微笑むだけにした。クラウスが彼女に夢中だなんて──そんなことは、あり得ないのに。
──今日は、あの綺麗な犬はいないんですか?
照れ隠しのように、宵子は違う話題を紙に綴った。この屋敷に来てどんどん上達した、ドイツ語で。輸入ものの鉛筆は、いちいち墨を磨る必要がないからとても便利だ。
「診療に犬を連れてくるものではないだろう。いずれ、また会えると思うけどね」
──とても楽しみです。可愛かったから。
「伝えておくよ。あいつもきっと喜ぶだろう。また撫でてやってくれ」
──はい。是非。
あの銀色の柔らかな毛並みを思い出して。宵子が弾んだ筆跡で応えると、ヘルベルトは嬉しそうに微笑んだ。彼にとっても自慢の犬なのかもしれない。
でも──すぐに彼は首を傾げた。
「どうも、異常はないんだよな。痩せているのは気懸かりだが、今後の食事でどうにでもなる。そこは、良いんだが」
翡翠色の目が細められて、宵子の喉のあたりを注視する。犬神様の呪いは、彼女自身にも見えないのだけれど──何となく怖くて、宵子はそっと喉元を掌で隠した。
「舌も声帯も、問題はない──だから、どうして君の声が出せないのか、分からない。申し訳ないことだが」
薄々予感していたことで、隠しごとをしている宵子のほうこそ申し訳なかった。だから宵子は無言で首を振る。鉛筆を持った手は、動かさないままで。
「心因性──気持ちの問題、か? そうなると私の専門じゃないな……」
ぶつぶつと呟きながら、ヘルベルトは手元の書類に何か書きつけていた。草書体のような、文字の切れ目が分からない筆跡は、宵子の力ではまったく読み取れそうにない。
(どうしよう。ほかのお医者様まで呼んでいただくことになったら大変。……打ち明けたほうが、良いのでしょうけど……)
鉛筆を握ろうとしては、何をどう書けば良いか分からなくて手を緩めて。宵子が何も答えないでいると、ヘルベルトは諦めたように溜息を吐いた。
「まあ、結果はクラウスにも伝えよう。悪いところがないと分かっただけでも収穫だ」
ややぎこちなく宵子に微笑んでから、ヘルベルトは控えていたメイドにドイツ語で声をかけた。
「──あいつを呼んできてくれ。そろそろ薬を出すころだろう」
かしこまりました、と答えるメイドの声を聴きながら、宵子は身体を強張らせた。彼女に聞かせるつもりではないからドイツ語でいったのだろうけれど、耳が拾ってしまったのだ。
薬という、不吉な単語を。
ヘルベルトの診察結果を聞いたクラウスは、ひとまずは安心したようだった。医学の用語を交えたドイツ語のやり取りは、宵子がついて行けるものではなかったけれど。それでも、彼らの表情から察することはできる。
事実、話を聞き終えたクラウスは、晴れやかな笑みと共に日本語で伝えてくれた。
「異常がないのは何よりだ。心身の負担がなくなれば、変化があるかもしれないし。……貴女の声を早く聞きたいとは、思うが」
最後に囁かれた言葉が嬉しくて恥ずかしくて──そして、きっと彼女自身の声を聞いてもらうことはできないだろうと思うと申し訳なくて。俯きながら、宵子は小さな文字で綴った。
──きっと、暁子と同じような声だと思います。双子ですから。
クラウスは日本語が、宵子はドイツ語が。短い間でずいぶん上手くなったと思う。
せめて想いを伝えられたら、と思っていたころに比べれば、すぐそばに鉛筆を用意してもらえて、いくらでも紙を使わせてもらえる今の状況の、なんと恵まれていることだろう。
(だから、これ以上の望みなんてない……その、はずなのに)
なのに、クラウスはまだ満足しないのだという。もっと、を願ってくれている。青い目がしっかりと宵子を捉えて、涼やかな声に熱意がこもる。
「あの娘と貴女が同じ声のはずがない。語る内容や声の調子が違えば、きっとまったく別の響きがするだろう」
彼は、心から宵子の声が聞きたいと願っているのだ。彼女自身も忘れてしまった声、クラウスが聞いたこともない声を、伝説に語られる人魚の歌のように称えてくれる。
──分かりません。もう何年も、声を出していませんから。
先ほどの文章の隣に綴った文字の線は、少し震えて歪んでいた。
クラウスから寄せられる想いは嬉しいけれど、隠しごとがある身では素直に受け取ってはいけないのではないか、と思ってしまう。
声を聞きたいという願いに答えてあげられたら、とも思うけれど、犬神様の呪いなんてどうやって説けば良いのか分からない。
何もかもが不確かで、どうすれば良いのか分からなくて。それが、申し訳なくて。
複雑な想いに手を縛られたような思いだった。
「それでは、私はそろそろ失礼する。宵子嬢の容態で何かあったらいつでも呼んでくれ」
「ああ、ありがたい」
だから──ヘルベルトが去るのを見送るために玄関広間に向かいながら、宵子は微笑むことしかできなかった。
尋ねることなんてできはしない。ヘルベルトが漏らしていたのはいったい何の薬なのか。クラウスに何か悪いところがあるのではないか、と。
* * *
その夜、宵子は眠れないまま寝台に腰掛けていた。
クラウスは、日本語でもドイツ語でも、好きな本を図書室から持ち出して良いとは言ってくれている。でも、居候の身で、遠慮なく灯りを使って夜更かしする気にはなれない。
何より、美しい絵や楽しい物語を楽しめるような気分では、なかった。
(クラウス様の具合がお悪いなら……本当のことをお伝えするのは、ご迷惑かしら)
呪いの話なんかを持ち出して、混乱させるのは良くないだろうか。……そう思うのは、事実を伝えたくない、気味が悪いと思われたくない宵子の、勝手な考えだとは気付いている。
本当にクラウスのことを気遣うなら、宵子はこの屋敷から出ていくべきだ。
彼女のために時間を割くことこそ、彼の負担になっているのだろうから。真上家から助け出してもらったことに感謝して、ひとり立ちするのが良いのだろう。
(そうよ。たとえ難しくても……寂しくても。そうしなければいけないのに)
口の利けない身で働き口があるのか、なんてことはどうでも良かった。自分のことなのだから、どうにかしなければいけない、それだけだ。
それなのに、言い出すことができないのは──
(だって、私は、クラウス様のことが──)
心の中であっても、その先を続けるのは許されない、と思った。だから一緒にいたい、だなんて。そう願うのは、とても図々しいことだ。
だから、宵子は詰めていた息をそっと吐き出す。
彼女に声が出せないのは、こうなると良かったかもしれない。文字で綴らなければ、秘めた想いが漏れ出ることは絶対にないのだから。
(クラウス様も、そんなつもりではないはずよ。……だから、折りを見て出ていくとお伝えしなければ)
密かに悲壮な決意を固めた時──宵子の耳は廊下の床が微かにきしむ音を拾った。もう夜も遅いのに、誰かが歩いているらしい。
(どうしたの……?)
足音は、どうやらクラウスの寝室のほうに向かっているようだった。もしや彼の身に何か、と。頭に浮かんだ不安に耐えきれず、宵子は寝台の傍に置いてあった室内履きに足を突っ込んだ。
寝間着の上に、毛織の肩掛けを巻きつけて、宵子は部屋の扉を細く開けた。見渡すと、すでに親しくなったドイツ人のメイドが、盆を捧げ持って通り過ぎるところだった。
盆の上に載っているのは──水差しと杯、それに、色のついた液体を入れた小瓶。
(まさか)
ヘルベルトが言っていた薬とは、この小瓶のことではないだろうか。クラウスは、やはり何かの薬が必要な状態なのかもしれない。
そう思うと、宵子は居ても立っても居られなかった。
──クラウス様に、何かあったのですか? お医者様が、薬と仰っていました。
掌くらいの大きさに切った紙を束ねた帳面は、もはや手放せないものになっている。
素早く書き込んだ文章を見せると、そのメイドは宵子を安心させるように微笑んだ。外国人らしく、高い背を少し屈めてくれるのは、まるで子供相手にするような仕草だった。
「いつものことよ、心配いらないわ。眠れない時に飲む薬のことだから」
メイドの淡い目にも、緊張や不安の色は見て取れなかった。本当に、クラウスは病気ではないのだろうか。……相手を疑う訳ではないのだけれど。
──お声を聞きたいです。顔は見せません。ついて行っても良いですか?
若い娘が、夜中に殿方の部屋を訪れるなんてありえない。きっと、ドイツでも同じだろう。
それでも、廊下の離れたところで待っているだけでも良い。クラウスの声を聞くことができれば、宵子も少しは安心できるかもしれない。
──どうか──
短く懇願する鉛筆の線は濃く、太いものになった。宵子の表情と筆跡から必死さを感じてくれたのか、メイドは大きく頷いた。
「ええ。宵子も心配しているとお伝えしましょう」
メイドが持っていた灯りを頼りに、宵子はしばらく暗い廊下を進んだ。書斎や図書室、使われていない客間──閉ざされた扉を幾つか通り過ぎて、クラウスの寝室の前に辿り着くと、メイドが呼び掛けた。
「旦那様。お水をお持ちしました」
宵子は、扉が開いてもクラウスの視界に入らない距離を保って佇んでいる。きっと、彼は無造作に水を受け取って、メイドにひと言ふた言の労いの言葉をかけて、眠りに就くのだろう。
その声の調子がいつも通りだと確かめることさえできたら、宵子も大人しく寝室に戻って横になろう。そう、思っていたのだけれど。
「宵子──そこにいるのか」
扉越しに、ややくぐもった声が聞こえた。メイドではなく、確かに宵子に向けられて。
(私がいることを、分かってくださったの? 姿が見えないのに、どうして……)
驚くよりも、喜びが勝った。いったいどうやって、クラウスが彼女の存在に気付いたのかは分からないのだけれど。
思えば真上家でもそうだった。地下室に閉じ込められた宵子の、声にならない悲鳴を、助ける求める声を、クラウスだけは聞き取ってくれたのだ。
(貴方に会えたのは、まるで運命のようだと思っていました)
そしてそれは、宵子だけの勝手な幻想なのだと。でも──これではまるで、不思議な力で結ばれているようだ。そんな勘違いを、してしまいそうになる。
込み上げるクラウスへの想いが、宵子の足を動かす。
彼女は、気付くと閉ざされた扉の真ん前へと進み出ていた。
宵子の香りが近づくのを感じて、クラウスは部屋の中で頭を抱えた。
彼は今、床の上で身体を丸めるようにして蹲っている。髪に埋まった指の間からは、ぴんと立った狼の耳が現れている。手足や首筋も、銀の毛皮に覆われ初めているはずだ。
(駄目だ……来てはいけない……!)
声を出せば、唸り声が混ざってしまいそうだった。宵子の香りは、彼の嗅覚にはあまりに甘くて美味しそうで、うっかりすると牙を剥き出してしまいそうになる。だから、歯を食いしばることしかできないのだ。
それでも、メイドのゼルマは、主人であるクラウスの意を汲んで宵子を宥めてくれている。
「宵子、落ち着いて。その格好ではいけません」
ゼルマも、シャッテンヴァルト伯爵家の血をわずかながら引いている。だから、クラウスの状況を分かってくれているのだ。
窓の外に見える月は、欠けるところのない真円だった。満月から降り注ぐ光は白く眩しく、クラウスに流れる狼の血を騒がせる。
先祖たちは、こんな月の夜に狼に姿を変えては森や草原を駆けたのだという。
かつての領民たちは、猛々しい狼の遠吠えを心強く聞いてくれたのかもしれないが──今の時代、街中をうろつく巨大な獣など恐れられて駆除されるだけだ。
同じく「人ではないもの」の末裔であるヘルベルトは、彼のために睡眠薬を処方してくれる。月の光に酔って暴走するくらいなら、深い眠りに落ちて朝までやり過ごしたほうが良い。ゼルマは、その薬を持ってきてくれるはずだったのだが。
(いつもより衝動が強い。宵子が近くにいるからか……!?)
身体の内側で何かが暴れるような感覚が、クラウスを苦しめていた。血が燃えるように熱く、何もかもを食い殺したいと彼を焚きつける。
まるで、飢えた獣に落ちたような無様な姿だ。彼は、理性も節度もある人間のはずなのに。
扉の外では、ゼルマが宵子を宥めるのに苦労しているようだった。
宵子の愛らしい唇が紡ぐ声を、クラウスはまだ知らない。だが、半ば狼となった彼の感覚は研ぎ澄まされて、彼女の匂いに混ざった不安や恐怖が嗅ぎ取れる。──それがまた、魅力的だと感じてしまうのだが。
(宵子は、俺とは違う。この姿を、見られる訳には──)
最初に彼女に注意を惹かれたのは、同族の、狼に似た匂いを感じたからだった。もしや日本にも、彼の家のように狼の血を引く一族がいるのではないか、と。
だが、宵子と接するうちにどうやら違うようだ、と分かった。彼女が月に反応する気配はなく、五感も通常の人間と変わらないようだったから。クラウスやヘルベルトが纏う人外の香りに、彼女はおそらく気付いていない。
身体の機能は健全なのに、封じられたように声が出せないことからしても、何か「人ではないもの」と関りがあるのは間違いないだろうが──少なくとも、それは彼女の血に流れるものではない。
(同族かどうかなんて関係ない。俺は、彼女が──だが、だからこそ……!)
敷物の上でのたうち回りながら、クラウスは呻き声を噛み殺した。宵子が聞いたら、心配のあまりに扉を開けて入ってきてしまうかもしれない。そして、彼が化物だと知ってしまうかも。
あの、夜のように黒く美しい目に恐怖と嫌悪が浮かぶのを見てしまったら、耐えられそうにない。
異国で同族が生き延びていたかもしれない、という喜びは、すぐに運命の相手に出会えたのかもしれない、というより大きな歓喜に変わっていた。
控えめな優しさ、意外なほどの芯の強さ、虐げられた日々の中で異国の言葉を学ぼうとした忍耐強さ。──その強く純粋な想いを、クラウスに寄せてくれたこと。
彼女のすべてを愛しいと思えば思うほど、正体を知られるのが怖くなった。
共に過ごす時間が幸せであればあるほど、後ろめたさに苛まれた。いつまで一緒にいられるのかと、不安になった。
真実を伏せたまま、ぬるま湯のように心地良い日々に浸ろうだなんて、きっとクラウスの我が儘でしかないのだ。そのせいで、扉の向こうでは宵子があんなに心を痛めている。
(朝になれば、話す……話さなければ。だが、今は去ってくれ……!)
狼の血のこと、満月の光で騒ぐ獣の本能のこと。……時として、彼自身が驚く残酷な衝動のこと。
すべて打ち明けなければ。その上で、それでも一緒にいてくれるように乞うのだ。跪いて、心から──そして、拒まれたとしても、宵子が幸せになれるように取り計らわなくては。
でもそれは、朝になってからのこと。クラウスがまともな人間らしい顔が取り繕えるようになってからのこと。
今はどうか、彼を放って安らかな夢を見て欲しい。
荒い息を堪えて、クラウスは扉の外の気配に耳を澄ませた。
メイドのゼルマのお陰で、宵子は納得しつつあるようだった。そうだ、彼女はもう寝間着に着替えているはず。こんな時間に男の前に姿を見せるものではないと、礼儀正しい彼女は分かってくれるはずだ。
「では、宵子。あとは私に任せてお休みなさい」
ゼルマの声と、そして宵子が小さく頷く気配を感じ取って、クラウスはようやく安堵の息を吐いた。
ヘルベルトの薬を呑めば、悪夢を見る余地すらなくぐっすりと寝ることができる。不安も恐れも、ひと晩だけは忘れられる。
(味は、ひどいんだが)
救済となる薬が早く届くと良い、と。ゼルマを迎えるべく、クラウスはよろよろと立ち上がった。
その時──ガラスが砕ける鋭い音が、彼の、今は三角に尖った耳に突き刺さった。次いで、ゼルマの高い悲鳴が。
「──宵子!?」
同時に、クラウスの嗅覚をすさまじい悪臭が襲う。血と肉が腐ったようなその臭いには、覚えがある。真上子爵邸で、春彦とかいう胡散臭い男が漂わせていたものだ。
(宵子に、何が!?)
半ば獣と化した姿を見られることを恐れている場合では、なかった。
クラウスが寝室から飛び出すと、そこには砕け散ったガラスが一面に散らばり、月の光を反射していた。ゼルマが投げ出したらしい盆と水差しも転がっている。
ゼルマは、腰を抜かしてへたり込んでいたが──廊下を見渡しても宵子の姿は、ない。
「何があった」
ゼルマを助け起こしながら短く問うと、メイドはがくがくと震えながら、破れた窓を指さした。
「……狼です。悪魔のように真っ黒で大きな狼……! 宵子を咥えて、攫っていきました……!」
例の悪臭は、確かに窓の外に続いていた。腐汁を滴らせるような痕跡は、クラウスの鼻なら容易く辿ることができるだろう。
(黒い狼……例の、人喰い犬か!)
いつか、街中で宵子を追い回していたおぞましい存在を思い出して、クラウスの全身の毛は怒りに逆立った。
「許さん……!」
低く、唸ると同時に彼の手足は狼の四肢へと変じていく。牙を剥く尖った口から漏れるのは、宣戦布告の遠吠えだ。銀の毛皮の狼になった彼が床を蹴れば、その身体は流星の軌跡を描いて窓から躍り出す。
そして、着地すると同時に全身の筋肉をばねにして、駆ける。不吉なほど明るい月の光は、彼を宵子のところまで導いてくれるだろう。
宵子の寝間着の後襟が引っ張られて、彼女の首を絞めた。クラウスの屋敷の窓を破って現れた黒い大きな犬が、寝間着の生地を咥えて駆けているのだ。地に足をつけて走るのではなく、家々の屋根を跳んで伝って、ほとんど空を飛ぶように高く、速く。
(嫌──怖い……!)
いっそ意識を失ってしまいたいのに、手足や身体が絶え間なくどこかしらにぶつかる痛みに気絶することさえ許されない。
恐怖に見開いた目に、円い月と満天の星空が映る。かと思うと、人形のように振り回されて、地上の灯りが蛍のように光の残像を視界に残す。
人が寝静まる真夜中は、空のほうが明るいのだと宵子は初めて知った。風情の違う光の散らばり方を、美しいと思うことができれば良かったのに。もちろん、そんな余裕は宵子にはなかった。
痛みを恐れてできるだけ身体を縮こめて。耳にかかる犬の息の生臭さに息を詰まらせて。激しい上下の動きに頭を揺さぶられて。
そうして、どれだけの間引きずられていたのだろうか。永遠にも思える恐怖と苦痛の後──黒い犬はようやく宵子の首元を捕えていた牙を緩めた。
(きゃ──)
突然投げ出された宵子は、立つこともできずに地面に転がった。彼女の身体を受け止めるのは、湿った草と土の匂い。
人喰い犬の住処に攫われてしまったのだろうか。犬は──ちょこんと地面に座って、燃えるような赤い目で宵子を見張っている。
(ここは、どこ……?)
月と星の冴え冴えとした光に浮かび上がるのは、木々の黒い影だった。森というよりは林、くらいの木の密度だろうか。周囲に人家の灯りは見えないけれど、郊外にまで連れてこられてしまったのか、それとも広い庭園や公演の片隅のだろうか。
犬の視線に怯えながらきょろきょろと辺りを見渡して──宵子は、朽ちた柱が何本か佇んでいることに気付いた。
使われなくなった納屋とか倉とか、どこにでもあるものだろう。でも、その柱の形や太さ、並び方にはどうにも見覚えがあるように思えてならなかった。
幼いころから何度となく通った、犬神様の祠に、そっくりなような。
(……まさか)
ここは、真上家の庭ではないだろうか。そう思って改めて見ると、木々の並びも、草の生え方もそうだとしか思えなかった。でも、なぜ人喰い犬がこの庭に?
嫌な予感に襲われて、宵子は自分の体を抱き締めた。震える足でどうにか立ち上がろうとすると、足の裏に湿った土の感触がする。室内履きは、とうに脱げてしまっていた。肩掛けが辛うじて引っかかっていたのが、奇跡のようだ。
ぐるるるるる──
と、勝手な動きを咎めるように、黒い犬が唸りながらのっそりと立ち上がった。黄色く汚れた牙が剥き出しになるのを見て、宵子は尻もちをついてしまう。
じわり、と。夜露が寝間着に染み込む感覚が冷たくて気持ち悪くて、宵子が顔を顰めた時──突然、真昼のような明るさがその場に現れて、彼女の目を眩ませた。
「久しぶりね、宵子!」
そして、軽やかな笑い声が響く。
(暁子……!)
聞き間違えようのない双子の妹の声に、宵子は目を見開いた。顔を上げると、洋燈の強い光に、暁子の楽しそうな笑顔が浮かび上がっている。
「私、あんたに謝らなければいけないことがあるの」
動きやすい袴姿で、軽やかな──踊るような足取りで、暁子は進み出た。そして、宵子を見下ろして、首を傾げる。
「犬神なんていないって、ずっと馬鹿にしていたでしょう? でも、本当にいるのね、そういうの! この子、真上家の新しい犬神よ。私の言うことを聞くんですって!」
暁子の言う通りだった。
黒い犬は、ゆっくりと尻尾を振ると、暁子に擦り寄り、頭を撫でられている。
(そんな。危ないわ……!)
暁子だって、人喰い犬の噂は知っていたはずだ。何人もの少女が犠牲になっているのに──その犯人がこの黒い犬だと気付いていないのだろうか。
ううん、それどころではない。
(どうして暁子が、この犬と……!?)
宵子が真上家にいた間、こんな大きな犬なんて見たことがなかった。それに今、暁子は何と言っただろう。
(犬神──)
でも、これは違う。宵子は直感的にそう思った。
彼女が知っている犬神様は、もっと穏やかで優しくて、知性ある眼差しをしていた。夜に溶け込むような漆黒の毛並みのこの犬は、今は大人しく暁子に撫でられているけれど、残忍に少女たちを食い殺したのだ。
真上家が祀ってきた犬神が、こんなものであるはずがない。
(駄目よ、暁子。早く逃げないと)
クラウスの屋敷にいる間に、宵子は紙と鉛筆が手元にあることにすっかり慣れてしまっていた。声を出せないもどかしさをこんなに切実に感じるのは久しぶりだった。
懸命に首や手を振って、危険を伝えようとするけれど──暁子はもう、宵子を見ていなかった。洋燈の光源がもうひとつ現れて、新たな人影をふたつ、浮かび上がらせたのだ。
人影の片方は、暁子の傍らにそっと寄り添った。黒い犬の反対側に、犬と合わせて暁子の護衛のような位置に落ち着いたのは、洋装を纏った春彦だった。
いつもと変わらない穏やかな声と微笑みで、春彦は暁子に話しかける。
「楽しそうだね、暁子」
「だって、この子、本当にすごいんですもの! 宵子を見つけて連れてきてくれるなんて、賢いのね。さすが春彦兄様だわ!」
くすくすと声を立てて笑うと、暁子は洋燈を地面に置いて、甘えるように春彦に腕を絡ませた。
「お褒めにあずかり恐縮だ」
婚約者の髪をそっと撫でてから、春彦は宵子に対しても笑みを向ける。まるで真上家の居間にいるかのような何気ない笑顔だった。
真夜中の庭で、人喰い犬がすぐ傍にいるとは信じられないくらいに、いつも通りの、優しい微笑。
「新城家には、真上家では失伝した技が伝えられていてね。真上家の危機に役立てていただいたという訳だ。君は知らなかったかもしれないが、近ごろ、真上家の家計はだいぶ厳しい状況でね」
呆然として目を見開きながら、宵子は春彦の言葉を聞き、そして理解した。屋敷を偉い方」が訪れた時に漏れ聞いたことの、本当の意味を。
(真上家の犬神の力が頼られるような事件を起こして──それを、自らの手で解決してみせる……? それによって、ご褒美をいただく……?)
「偉い方」には、犬神様の力がまだあるかのようなもの言いをして。いかにも自信たっぷりに振る舞って。殺された少女は、あんなにも無残な姿になってしまったのに。街の人々は、あんなに怯えていたのに。
(ひどいわ……!)
驚きよりも先に、宵子の胸に込み上げたのは激しい怒りだった。声に出して非難することこそできなくても、拳を強く握り、唇を噛み締め、春彦をきっ、と睨め上げる。
「なんだその目は。娘が親に逆らうのか」
宵子を叱りつけたのは、ふたつ目の洋燈を携えていた人影──宵子の父の、真上子爵だった。娘の反抗的な態度が許し難い、というように宵子を睨みつつ、横目でちらちらと黒い犬の様子を窺っている。
春彦や暁子と距離を取った位置に陣取っていることといい、父も黒い犬を恐れているようだった。
(お父様。どうしてこんなことを。許されないことです)
父は、犯した罪を恐れているのだと思いたかった。手柄を捏造するために何人も人を殺すなんて、間違っている。それを、本当は分かっているのだと信じたかった。
宵子が視線に込めた非難の色を読み取ってくれたのだろう。父は、気まずそうにそっぽを向いた。
「真上家は、犬神によって栄えた家だ。老いたからといって死なせるのは惜しかった……父の判断は間違っていたのだ。古くから続く家が絶えてはならんのだ。そのためなら、貧乏人のひとりやふたり──」
父は、罪悪感ゆえの言い訳を垂れ流そうとしていたのだろう。でも、宵子がそれを最後まで聞くことはできなかった。
「役立たずのひとりやふたり、でもありますね」
春彦の穏やかな声が響いたのとほぼ同時、黒い犬が後ろ脚で跳び上がって、父の喉元に噛みついたのだ。
「お父、様……?」
暁子が不思議そうに呟く間に、父は声を立てることもなく崩れ落ちた。ほとんど食いちぎられた父の首から噴き出す血が、雨のように宵子に降り注ぐ。それに、春彦の高らかな笑い声も。
「暁子と結婚して真上家を継ぐ──良いお話ではありますが、それまで待つ必要はどこにもないですよね? 当代の子爵が亡くなれば、すぐにも僕が後を継げるのに」
最初は熱いと思った父の血は、すぐに冷めて宵子の髪や頬や手足をべっとりと濡らした。
(お父様。なぜ。どうして)
父の手から落ちた洋燈が、異様な光景を下から照らし出していた。
いつもと変わらない笑みを浮かべた春彦の隣に、控えるように座った黒い大きな犬。その毛並みがしっとりと濡れて見えるのは、宵子と同じく父の血を浴びたからだろう。
洋燈の灯りは、暁子の影をも映し出している。
動かなくなった父に取りすがる双子の妹の影は長く引き伸ばされて、宵子には大げさな芝居のよう似も見えた。目の前で繰り広げられたことが現実だなんて、自分でも信じたくないのだろう。
「お父様……お父様! ──兄様! なんで!? なんでその子、お父様を……っ」
宵子が口に出せない疑問を声高く喚いて、暁子は黒い犬を指さした。
先ほどまでは、子犬のように大人しく暁子に撫でられていたのに。何人もの命を屠った恐ろしい犬は、今は父の血で濡れた牙を暁子に対して剥き出しにしている。
夜の闇そのもののような黒い毛皮を撫でるのは、今は春彦の指だった。たった今、父を噛み殺したばかりの獰猛さを見せたばかりなのに、少しも恐れる気配はない。
「犬神は、造った者に従う。当たり前のことだろう? これまでは、父上や君に従うように僕が命じていたというだけだ」
ぐるるるるる──
春彦の言葉を裏付けるかのように、黒い犬は暁子に向けて低く唸った。暁子の喉からひっ、という悲鳴が漏れて、そこに春彦のくすくすと笑う声が重なる。
「さあ、暁子。どうして君がこの場に呼ばれたのか分かるかな?」
春彦の問いかけと同時に、犬の前脚が一歩進む。血濡れた牙がそれだけ迫り、暁子は地面を這って逃げる。色鮮やかな振袖が血と泥に塗れるのが無残だった。
「しょ、宵子を食わせれば、その子が完成するって──犬神の力を取り込むって。きっとすごいことが起きるからって、だから……」
震える声で答える暁子には、嘘を吐いたり取り繕ったりする余裕はないだろう。だから──たぶん本当なのだろう。
(暁子。私をそこまで……?)
嫌っていた、というのはまた違うのかもしれない。
暁子にとって、宵子は姉妹でもなんでもなかったのだ。犬に食い殺させても心が痛まない。むしろ面白い見せ物になる。そのていどの存在だったのだ。
気付いてしまうと、宵子にはもう立ち上がる気力は残っていなかった。
下半身を濡らす不快な感触は、もしかしたら夜露だけでなく、父の血が生み出したぬかるみなのかもしれないけれど。すぐ傍で、おぞましく恐ろしい黒犬が牙を剥きだしているけれど。
宵子は、ただ、人形のようにぽかんと春彦を見上げ、暁子とのやり取りに耳を傾けることしかできなかった。
「実の姉が食い殺されるところを見物しようなんて悪い子だ。知ってるかな? ドイツ辺りでの昔話では、悪い子は狼に食べられるそうだ。犬神の呪いを負ってなくても、真上家の娘なら贄としては十分じゃないかな」
「わ、私……良い子にしているわ! 今夜のことも誰にも言わない! 兄様の言うことを聞くから……!」
暁子は、必死に後ずさりながら懇願した。春彦に取り縋りたいけれど、犬が怖くて近づけないようだ。
夜の闇に加えて、恐怖で視界が塞がれているのだろう。宵子がへたり込むすぐ傍まで来ているのにも、暁子は気付いていない。
「駄目だよ」
でも、春彦は違う。彼は、この場のすべてを把握している。優しい笑顔を向けられたことで、宵子はそう気付いた。
(兄様……!?)
暁子の訴えに首を振りながら、宵子に微笑みかけるのは、おかしい。とても嫌な感じがする。
その予感は、すぐに的中した。
「だって君はうるさいじゃないか。耳障りな声──ずっと、舌を抜いてやりたいと思ってた……!」
初めて、春彦の声と表情に苛立ちが浮かんだ。彼が鋭く吐き捨てた言葉に応じて、黒い犬が跳ねる。大きく開いた口が狙うのは──暁子の、首だ。
(駄目!)
宵子の身体は、辛うじて思い通りに動いてくれた。
「な──」
どさ、べちゃ、という音がして、暁子の身体が地面に倒れる。彼女の上に覆いかぶさった宵子の髪を、風のように駆け抜けた犬が揺らす。
(ま、間に合った……)
一秒でも遅れていたら、暁子は父のように首を噛みちぎられていただろう。
安堵──している場合ではないのだろうけれど。それでも、全身を冷や汗と脂汗が濡らすのを感じながら、宵子は息を吐いた。そこへ、ぱちぱちと、手を叩く音が聞こえる。
「暁子を庇うなんて、やっぱり宵子は良い子だね。静かで大人しい──都合の、良い子」
暁子を庇ったまま、肩越しに春彦を振り向く。すると、彼はやはりいつもの微笑みを浮かべていた。
いつも通りに見えるのに──なぜか、月の光でも洋燈の灯りでも拭えないどす黒い影が、彼の顔を覆っている気がしてならなかった。朗らかな声も、毒々しい悪意とか嘲りが滲んでいるような。
「真上子爵は、人喰い犬を退治しようとして返り討ちに遭った。暁子嬢も同様に。だから、遠方で療養中だった宵子嬢を呼び寄せて、この僕と結婚させて家を繋ぐ。どこからも文句は出ないだろうね」
宵子と暁子が息を呑む微かな音が、重なった。双子でありながら、同時に何かをするということは十年以上なかったというのに。
「……嘘。兄様。なんで」
暁子のこんな震える声も、初めて聞くかもしれない。
無理もない。
今までずっと甘やかされて、苦労も我慢もしてこなかった娘なのに。突然目の前で惨劇が起きた上に、信頼していた春彦に裏切られたのだから。
宵子と暁子。よく似た顔、よく似た背格好のふたりに向き合いながら、けれど春彦は宵子だけを見つめていた。手を差し伸べるのも、宵子に対してだけ。
「どうせ同じ顔なんだ。口が利けないほうが何かと楽だろう? 君は、私の傍で笑っているだけで良い」
そして、春彦が告げた言葉は、なんて残酷なものだっただろう。暁子だけでなく、宵子の心をも踏み躙る、とてもとてもひどい言葉。
(私にも……言いたいことは、あるのよ!?)
口が利けなくても、心がない訳ではない。
春彦から見れば、扱いやすい従順な子供に見えていたのかもしれないけれど──それが間違っていたことには、もう気付いた。
想いを文字にして綴ることの楽しさ。そのために学ぶことの大切さを、今の宵子は知っている。クラウスが教えてくれた。
(人形みたいに扱われるなんて、絶対に嫌!)
怒りを、身体を支える盾にして。宵子は暁子を背にして、両腕を広げて春彦と黒犬の前に立ちはだかった。
思い通りにはさせない。暁子を食い殺そうというなら、先に自分を──無言の決意を感じたのだろう、春彦は溜息を吐きながら肩を竦めた。
「無駄なことを。怪我をしないように下がっていなさい」
ざりっ、と。暗闇のどこかで犬が跳躍した音がした。どこから襲い掛かってきても、暁子の盾になれるよう、宵子は辺りを見渡そうとした。
でも、できなかった。
「宵子。なんであんたが……!」
守っていたはずの暁子が、宵子の寝間着の背中を掴んで、強く引き寄せ、そして突き飛ばしたのだ。
(……え?)
目を見開いた宵子の視界に、鋭い牙がずらりとならんだ真っ赤な口が映った。宵子を呑み込んでしまいそうなくらいに大きな口。舌は長くだらりとして、涎をまとってぬめぬめと光って。
何がなんだか分からなくて。立ち竦む宵子の耳に、暁子の喚き声が刺さる。
「宵子の癖に! 私の、盾になりなさいよ……!」
牙が迫るのが、やけにゆっくりと見えた。暁子を狙って跳躍したであろう犬は、苦衷では体勢を変えることもできず、まっすぐに彼女に突っ込んでくる。
(……なんだ)
暁子は、宵子よりも犬の動きをよく見ていたらしい。
宵子が庇っても何とも思わず、手近なところに盾があるとしか思わなかったらしい。
土壇場だからか、力もずいぶん強くて、宵子を軽く振り回せるようだし。
では、宵子は無駄なことをしたようだ。
驚くよりも怯えるよりも、無性におかしくて。宵子が唇を引き攣らせた時──銀の光が、放たれた矢の速さで飛び込んできた。
ぎゃん!
今にも宵子の身体を押し潰しそうだった巨体が、銀の光に弾き飛ばされて悲鳴を上げる。
(貴方……!)
瞬くと、銀の毛並みが月の光に輝いていた。しなやかな四肢を、一点の染みもない美しい毛皮が覆っている。三角の耳は油断なくぴんと立ち、宝石のような青い目は鋭く、起き上がろうとする黒犬を睨みつけている。
流星と見紛う銀の疾風は、いつかも宵子を助けてくれた、銀色の大きな犬だった。