真上邸の書斎にて。屋敷の主である真上子爵が、娘の婚約者の新城春彦と密談していた。
幾つか壁を隔てたほうからは、暁子の喚き声が聞こえてきている。何かが割れる高い音は、花瓶を床に叩きつけでもしたのだろうか。
シャッテンヴァルト伯爵クラウス──屋敷に招いた異国の貴公子に、ぞんざいに扱われたこと。暁子の前を素通りして、呪いを負った姉の宵子に手を差し伸べたこと。ろくな挨拶をせずに屋敷を去ったこと。
それらのいずれに対しても自尊心をひどく傷つけられて、暁子は癇癪を起こしているのだ。嵐のような荒れようを宥める子爵夫人や女中たちも難儀なことではある。だが、書斎で顔を合わせる子爵と春彦にとっては、そんなことはどうでも良いことだった。
切子硝子の杯で蒸留酒を呷った真上子爵が、春彦に食ってかかる。
「──これは、誘拐ではないか!? ドイツ大使館に抗議すべきではないのか」
「宵子は、世間では療養中ということになっています。どうして本邸にいるのか──まして、どうして地下室に閉じ込められていたのかと追及されれば、醜聞になるでしょう」
対する春彦はいつもの爽やかな笑みで冷静に応じる。
子爵が、檻に入れられた熊のように落ち着きなくうろうろとしているのに対して、春彦は来客用のソファにゆったりと腰を下ろしていた。
「真上家の名誉のためにも、ことを荒立てる訳にはいかないかと存じます」
「それは、そうかもしれないが!」
子爵は屋敷の主で、春彦は婿候補。しかも、真上家は新城家の主筋だった歴史がある。
年齢の差も立場の上下もあるにもかかわらず、子爵にはどこか春彦の顔色を窺う気配があった。子爵のほうこそ春彦に頼り、彼の指示を待っているかのような。
「宵子は……計画のためには必要なのだろう? あれに巣食った犬神の力が肝要なのだと──連れ去られてしまって、良かったのか!?」
「誘拐犯がほかならぬシャッテンヴァルト伯爵でしたからね。計画に支障はないでしょう」
言いながら、春彦は脇机から新聞を手に取った。
紙面には、例の「人喰い犬」の事件が大きく報じられている。警察や、軍までもが出動して行方を追っているにもかかわらず、昨日も若い娘がひとり食い殺された、と。
若い娘がいる家はもちろんのこと、そうでなくても帝都の民は誰しも怯え、夜間の外出を避けるようになっている。
華族の家も状況は同様だし、事実、子爵も春彦も緊張を帯びた眼差しで新聞の題字を見つめている。
だが──ふたりの表情には、猟奇的な事件に対する好奇心だけでは説明できない、奇妙な熱も浮かんでいた。
「……順調に育っているのか」
「はい。もう十人以上食らいましたからね。真上家の、本来の犬神──平安の御代から崇められ養われた存在には及ばずとも、十分に使えるでしょう」
「そうか」
春彦が力強く頷くと、子爵の頬の赤みが増した。酒精だけではなく、明るい未来を思い描いた高揚が、彼を酔わせているようだった。
真上家の先代の当主は、優れた人物だった。徳川家の統治下で武家の世が繁栄するいっぽうで、辛うじて細々と続いてきた公家の家を建て直し、新政府で栄達した。
だが、その息子である現在の当主、真上子爵にはそれほどの才覚はない。
受け継いだ資産や事業の運営もはかばかしい成果を挙げていないし、政府で高い役職を得ている訳でもない。いっぽうで、屋敷の改築、夫人や令嬢の暁子の衣装を調えるための散財で家計は火の車、というのが実情だった。
「犬神を処分した父の判断は間違っていた……! 暗殺でも警護でも、まだまだいくらでも使いようがあったのに。犬神がいれば、私だって……!」
科学が発展した明治の御代では犬神の力など不要、というのが先代当主の考えだった。
海外の先進国とも渡り合わなければならないのに、怪しげな迷信に頼る姿は見せてはならない、と。だからこそ供物を減らして、年老いた犬神が衰弱していくように仕向けていたのだ。
先代が存命のころは、子爵も父に逆らうことなどできなかった。だが、彼自身が当主になり、しかも家が傾きつつある今なら、話は別だ。
怪しげな力で良いから、縋りたい。犬神さえいれば。ほかの者が知らない力を操ることができたなら。そうすれば、何もかも上手くいくはずなのに。
「宵子が、最後の仕上げになるでしょう。真上家の血を引き、古き犬神の力を宿した彼女の血肉によって、新しい犬神は完成する……!」
燻っていた子爵の不満に火を点けたのが、春彦だった。真上家よりも、分家の新城家のほうが古い言い伝えを正確に残していたのだ。
飢えさせた犬を殺し、その怨霊を操る術。
自身には逆らわぬよう、飼い慣らす術。
親から子へ、犬神を受け継ぐにはどう祀るべきか。
より力をつけさせるために、何を与えれば良いか。
最初は、子爵も信じてはいなかった。だが、春彦が実際に犬の怨霊を操って見せると、目の色を変えた。より強い犬神を作るために、罪のない少女や──娘の宵子の命が必要だと言われた時も、子爵はほとんど躊躇わなかった。
貧乏人が何人か死んでも、どうでも良い。
口の利けない気味の悪い娘が片付いてくれるなら、せいせいする。
それどころか、帝都を覆う恐怖が膨れ上がったところで真上子爵が事件を解決したとなれば、名誉も褒美も思うままだろう。
何しろ人々を恐れさせる人喰い犬は、真上家の手のうちだ。事件をいつ、どのように終わらせるかは子爵が決めることができるのだ。
「伯爵は蟲毒を呑んでくれました。今日の目的は十分に果たせているのです」
春彦の笑みは、蒸留酒よりも強く芳しく子爵を酔わせるようだった。
「私は、娘の仇を討ったことになる──そのように、してくれるんだろう!? 春彦!」
「ええ。シャッテンヴァルト伯爵は、ちょうど良い時に来日してくれました」
乱暴に肩を揺さぶられて、それでも春彦は穏やかな微笑を絶やさない。
狼の血を引くと噂される伯爵が、人喰い犬と時を同じくして帝都にいるのはたいへん都合が良い。
噂によると、かの家の者は夜な夜な狼に姿を変えては森や荒野を彷徨い、時に人を襲うこともあったのだとか。
現代の人間が聞けばお伽話だと笑うだろうが──真上子爵や春彦にとっては、そうではない。
犬神がいるなら、狼男もいるだろう。仮に、シャッテンヴァルト伯爵がただの人間でも関係ない。無残に引き裂かれた宵子の死体の傍に、あの銀髪の貴公子がいたなら。一族にまつわる噂と合わせれば、誰もが彼が犯人だったのだと信じるだろう。
「私の犬神は、宵子の匂いをちゃんと覚えています。伯爵が彼女を連れ帰ったなら、かえって話は早いかもしれない」
「うむ、うむ。巣穴でゆっくり食おうとしたと、そう思われるだろうからな……!」
だから、何も心配はいらない。すべては計画通りに進んでいる。──やっと、そう安心することができたのだろうか。
真上子爵は表情を緩めると、今度は蒸留酒の香りを楽しみながら、ゆっくりと杯を傾けた。
幾つか壁を隔てたほうからは、暁子の喚き声が聞こえてきている。何かが割れる高い音は、花瓶を床に叩きつけでもしたのだろうか。
シャッテンヴァルト伯爵クラウス──屋敷に招いた異国の貴公子に、ぞんざいに扱われたこと。暁子の前を素通りして、呪いを負った姉の宵子に手を差し伸べたこと。ろくな挨拶をせずに屋敷を去ったこと。
それらのいずれに対しても自尊心をひどく傷つけられて、暁子は癇癪を起こしているのだ。嵐のような荒れようを宥める子爵夫人や女中たちも難儀なことではある。だが、書斎で顔を合わせる子爵と春彦にとっては、そんなことはどうでも良いことだった。
切子硝子の杯で蒸留酒を呷った真上子爵が、春彦に食ってかかる。
「──これは、誘拐ではないか!? ドイツ大使館に抗議すべきではないのか」
「宵子は、世間では療養中ということになっています。どうして本邸にいるのか──まして、どうして地下室に閉じ込められていたのかと追及されれば、醜聞になるでしょう」
対する春彦はいつもの爽やかな笑みで冷静に応じる。
子爵が、檻に入れられた熊のように落ち着きなくうろうろとしているのに対して、春彦は来客用のソファにゆったりと腰を下ろしていた。
「真上家の名誉のためにも、ことを荒立てる訳にはいかないかと存じます」
「それは、そうかもしれないが!」
子爵は屋敷の主で、春彦は婿候補。しかも、真上家は新城家の主筋だった歴史がある。
年齢の差も立場の上下もあるにもかかわらず、子爵にはどこか春彦の顔色を窺う気配があった。子爵のほうこそ春彦に頼り、彼の指示を待っているかのような。
「宵子は……計画のためには必要なのだろう? あれに巣食った犬神の力が肝要なのだと──連れ去られてしまって、良かったのか!?」
「誘拐犯がほかならぬシャッテンヴァルト伯爵でしたからね。計画に支障はないでしょう」
言いながら、春彦は脇机から新聞を手に取った。
紙面には、例の「人喰い犬」の事件が大きく報じられている。警察や、軍までもが出動して行方を追っているにもかかわらず、昨日も若い娘がひとり食い殺された、と。
若い娘がいる家はもちろんのこと、そうでなくても帝都の民は誰しも怯え、夜間の外出を避けるようになっている。
華族の家も状況は同様だし、事実、子爵も春彦も緊張を帯びた眼差しで新聞の題字を見つめている。
だが──ふたりの表情には、猟奇的な事件に対する好奇心だけでは説明できない、奇妙な熱も浮かんでいた。
「……順調に育っているのか」
「はい。もう十人以上食らいましたからね。真上家の、本来の犬神──平安の御代から崇められ養われた存在には及ばずとも、十分に使えるでしょう」
「そうか」
春彦が力強く頷くと、子爵の頬の赤みが増した。酒精だけではなく、明るい未来を思い描いた高揚が、彼を酔わせているようだった。
真上家の先代の当主は、優れた人物だった。徳川家の統治下で武家の世が繁栄するいっぽうで、辛うじて細々と続いてきた公家の家を建て直し、新政府で栄達した。
だが、その息子である現在の当主、真上子爵にはそれほどの才覚はない。
受け継いだ資産や事業の運営もはかばかしい成果を挙げていないし、政府で高い役職を得ている訳でもない。いっぽうで、屋敷の改築、夫人や令嬢の暁子の衣装を調えるための散財で家計は火の車、というのが実情だった。
「犬神を処分した父の判断は間違っていた……! 暗殺でも警護でも、まだまだいくらでも使いようがあったのに。犬神がいれば、私だって……!」
科学が発展した明治の御代では犬神の力など不要、というのが先代当主の考えだった。
海外の先進国とも渡り合わなければならないのに、怪しげな迷信に頼る姿は見せてはならない、と。だからこそ供物を減らして、年老いた犬神が衰弱していくように仕向けていたのだ。
先代が存命のころは、子爵も父に逆らうことなどできなかった。だが、彼自身が当主になり、しかも家が傾きつつある今なら、話は別だ。
怪しげな力で良いから、縋りたい。犬神さえいれば。ほかの者が知らない力を操ることができたなら。そうすれば、何もかも上手くいくはずなのに。
「宵子が、最後の仕上げになるでしょう。真上家の血を引き、古き犬神の力を宿した彼女の血肉によって、新しい犬神は完成する……!」
燻っていた子爵の不満に火を点けたのが、春彦だった。真上家よりも、分家の新城家のほうが古い言い伝えを正確に残していたのだ。
飢えさせた犬を殺し、その怨霊を操る術。
自身には逆らわぬよう、飼い慣らす術。
親から子へ、犬神を受け継ぐにはどう祀るべきか。
より力をつけさせるために、何を与えれば良いか。
最初は、子爵も信じてはいなかった。だが、春彦が実際に犬の怨霊を操って見せると、目の色を変えた。より強い犬神を作るために、罪のない少女や──娘の宵子の命が必要だと言われた時も、子爵はほとんど躊躇わなかった。
貧乏人が何人か死んでも、どうでも良い。
口の利けない気味の悪い娘が片付いてくれるなら、せいせいする。
それどころか、帝都を覆う恐怖が膨れ上がったところで真上子爵が事件を解決したとなれば、名誉も褒美も思うままだろう。
何しろ人々を恐れさせる人喰い犬は、真上家の手のうちだ。事件をいつ、どのように終わらせるかは子爵が決めることができるのだ。
「伯爵は蟲毒を呑んでくれました。今日の目的は十分に果たせているのです」
春彦の笑みは、蒸留酒よりも強く芳しく子爵を酔わせるようだった。
「私は、娘の仇を討ったことになる──そのように、してくれるんだろう!? 春彦!」
「ええ。シャッテンヴァルト伯爵は、ちょうど良い時に来日してくれました」
乱暴に肩を揺さぶられて、それでも春彦は穏やかな微笑を絶やさない。
狼の血を引くと噂される伯爵が、人喰い犬と時を同じくして帝都にいるのはたいへん都合が良い。
噂によると、かの家の者は夜な夜な狼に姿を変えては森や荒野を彷徨い、時に人を襲うこともあったのだとか。
現代の人間が聞けばお伽話だと笑うだろうが──真上子爵や春彦にとっては、そうではない。
犬神がいるなら、狼男もいるだろう。仮に、シャッテンヴァルト伯爵がただの人間でも関係ない。無残に引き裂かれた宵子の死体の傍に、あの銀髪の貴公子がいたなら。一族にまつわる噂と合わせれば、誰もが彼が犯人だったのだと信じるだろう。
「私の犬神は、宵子の匂いをちゃんと覚えています。伯爵が彼女を連れ帰ったなら、かえって話は早いかもしれない」
「うむ、うむ。巣穴でゆっくり食おうとしたと、そう思われるだろうからな……!」
だから、何も心配はいらない。すべては計画通りに進んでいる。──やっと、そう安心することができたのだろうか。
真上子爵は表情を緩めると、今度は蒸留酒の香りを楽しみながら、ゆっくりと杯を傾けた。