真上家の広い庭の片隅には、古びた祠がある。
大きな池のほとりに四季折々の花が咲く美しい庭に比べると、その祠はずいぶん汚れて、今にも崩れ落ちそうだ。お参りする人がいなくなって、もう長いこと経つからだ。
(ひとりぼっちじゃ、犬神様は寂しいわ……)
祠をほったらかしにする父や母にぷりぷりしながら、宵子は鮮やかな紅い振袖を翻して庭を走る。傍からは、裾や袂に描かれた鞠が転がるようにも見えるだろう。
走るにつれて、宵子の艶やかな黒髪が乱れて、背中に踊る。小さな手に握りしめるのは、お手玉を解いて取り出した小豆がひと握り。神様にはお赤飯をお供えするものだとばあやに聞いたから、その代わりのつもりだった。
祠は、真上家が代々仕えた犬神様を祀るためのものだ。一年の天候を聞いて雨や日照りに備えたり、人に仇なす怪異が出たら退治してもらったり。犬神様のお力のお陰で、真上家は朝廷で地位を得て、富を築いてきた。
でも、それももう昔のこと。徳川の御代が終わって、文明開化の時代になってもう何年も経っている。西洋から進んだ技術が入って来て、古臭い迷信を信じる人はいなくなった。
宵子のおじい様は、犬神様には頼らずに維新の動乱で手柄を立てた。お父様は、そもそも犬神様なんていなかったんだ、なんて言う。
『いないものにお供えをするなんて、無駄なことだ』
宵子が違うわ、と頬を膨らませたり唇を尖らせたりするのを面白がって、お父様はそんな意地悪をする。
(そんなことないわ。犬神様は、いらっしゃるのよ)
お父様もお母様も、双子の妹の暁子も、あり得ないと笑うけれど。宵子にはちゃんと分かっている。見えている。
「犬神様、宵子が参りました!」
息を弾ませた宵子の、高い声が木々の間に響く。驚いた鳥が飛び立って、揺れる枝からはらはらと葉が落ちる。舞い降りるその葉を、尖った耳をぴくぴくさせて振り払う──ほら、犬神様は今日も祠の前で大きな身体を丸めていらっしゃる。
「ご機嫌はいかがですか? 今日はお天気が良いですね! これはお供えです。あの、触っても良いですか?」
祠と同じくらいに古びたお皿に小豆を載せて、宵子は犬神様に差し上げた。ふさふさした尻尾を軽く振ってくださったのはお許しが出たということだから、うきうきとした気分で犬神様の傍に腰を下ろす。生い繁った草は座布団の代わりになって、着物を汚す心配もなさそうだ。
暖かな陽射しに、草の香り。犬神様の毛並みは少し硬いけれど、気持ちよさそうに目を細めて、宵子の膝に頭をあずけてくれるのは嬉しかった。
「暁子にも声を掛けたんですけど、来てくれなくて。祠は汚くて不気味だって──失礼ですよねえ」
犬神様は、その名の通りに子牛くらいに大きい犬、というか狼のような姿をしている。
降ったばかりのまっさらな雪を思わせる白い毛並みは、陽の光にあたると輝いてとても綺麗。宵子が訪ねると目を閉じていることが多いけれど、開けると月のような金色の眼差しが鋭くて、それも綺麗。こんなに綺麗な存在を、みんながいないように扱っているのが、宵子には信じられない。
「宵子がもっと大きくなれば、みんな分かってくれるのかしら。犬神様は真上家をずっと助けてくださったのに、時代が変わったらほったらかしだなんて、ひどいですよねえ」
まだ七歳なのに、宵子はとてもよく口が回る、と言われる。お母様には、時々はしたない、と叱られるくらい。子供だから、夢やお伽話と本当のことの区別がついていないと思われているのだとしたら、とても悔しい。
「暁子もひどいわ。ここが汚いなんて。宵子がお掃除できたら良いんですけど、真上家の娘が箒なんか持つものじゃないって、ばあやが取り上げてしまうんです」
宵子が止まることなく語り掛けても、犬神様は答えてくれない。でも、たぶんうるさいと思っている訳ではないはずだ。尻尾はゆっくりと左右に触れているし、毛が短くてすべすべした額のあたりを撫でてあげると、気持ち良さそうに目を細めているから。
「そうだわ、犬神様! お庭に出て、みんなにお姿を見せてくださったら良いわ!」
犬神様の牙は長くて鋭くて、おじい様の収集している刀のよう。でも、犬神様が宵子に牙を剥いたことはない。お庭で摘んだ花やおやつのお菓子をお供えすると尻尾を振ってくれるし、とても優しい方なのだろうと、宵子は信じていた。──今、この時までは。
「みんな、きっとびっくりするわ。ねえ、その時は宵子を乗せて──」
突然、宵子の視界が暗くかげった。不思議に思って目を上げると、犬神様の巨大な影が太陽を遮っている。
(……え?)
犬神様のお口の中は、真っ赤だった。刀のような牙がずらりと並んでいる。
ウオーーーーァオン
耳に刺さる恐ろしい音は、犬神様の吼える声だった。今まで一度も聞いたことがない、雷が落ちるようにお腹の底まで震えて痺れるような大きな声。
犬神様の前足に突かれて、宵子はあっけなく地面に転がった。そこに、白い巨体がのし掛かる。真っ赤な口が、鋭い牙が、目の前に迫る。
「ひ──」
喉を噛み切られる、と思った瞬間、宵子は小さく喘いで気を失った。
(犬神様。どうして……?)
意識が闇に呑まれるまでの一瞬に感じたのは、恐怖よりも疑問だった。いつも撫でさせてくれていた犬神様がどうして、という。
それに──もしかしたら嫌われていたのかもしれない、と思うと、とても悲しかった。
* * *
宵子は、気が付くと布団に寝かされていた。天井の木目の模様や、視界の端に映る欄間の細やかな細工から、自分の部屋だということが分かる。
(何が、あったの?)
起き上がろうとしても、手足に力が入らなかった。身体が、風邪を引いた時よりももっと熱くて、辛い。燃える炭を押し付けられたように熱い額を拭ってくれるのは、ばあやだろうか。あまりの熱に、目も霞んでよく見えなかった。
(犬神様、は……?)
何があったのかを聞きたいけれど、舌も動かない。ただ、襖越しに、よく知っている人たちの声が聞こえてくる。
(おじい様と、お父様……お母様も?)
おじい様は厳しいお方だけれど、今は特に怒っているようだ。熱でぼうっとする宵子の頭が、険しい大きな声で揺さぶられる。
「宵子を祠に近づけただと!? 弱っているとはいえ犬神がいるところだぞ!?」
「祠が腐って危ないとは、いつも言い聞かせていました! でも、犬神なんて迷信でしょう……!?」
「迷信ではない。今の時代にさほど役に立つものではないが、確かにいるのだ。不可思議な力を持った存在は!」
おじい様は、犬神様がいると知っていたらしい。でも、どうしてこんなに怖いお声なんだろう。何か、とても苦いものを吐き出すような言い方をするのだろう。
「宵子に、何があったのですか? お医者様は、薬も効かない、こんな症状は見たことがないと──」
おろおろとした声で尋ねたのは、お母様だ。
「犬神の呪いだろう。死にかけの獣め、宵子を呪って真上家に復讐したのだ! 長年、祀ってやったのに恩知らずな──供物が絶えれば、遠からず死ぬだろうと思っていたのに。だから祠は朽ちるに任せろと言ったのだ!」
「そんな──」
「お義父様、それでは宵子は助からないのですか!?」
お父様が絶句して、お母様が泣き崩れる。そしておじい様は、相変わらずの厳しいお声で重々しく答えた。
「分からん。だが、幸いにまだ暁子がいる。暁子に婿を取らせれば家が絶えることはなかろう」
布団の中で聞いていた宵子の目を、ひと筋の涙が伝った。熱が辛かったからでもあるし、おじい様のお言葉に胸を刺されたからでも、ある。おじい様は、宵子は死んでも仕方ないと言ったも同然だった。それに、何より──
(犬神様、可哀想。ごめんなさい、真上家が──)
おじい様は、わざと祠を放っておいたのだ。犬神様が、弱って死ねば良いと思っていたのだ。
ずっと大切に祀っておいて、そんな仕打ちを受けるなんて。犬神様が真上家を怨むのも当然だ。だから宵子が呪われても──死んでしまっても。報いを受けるだけだろう。
(でも、犬神様は死んでしまったのかしら)
最後の力を振り絞って、宵子を呪ったのだとしたら。あの真っ白な毛皮に触れることは、もうできないのだろうか。
(ごめんなさい、ごめんなさい)
知っていたら、ちゃんと謝れたのに。熱に苦しみながら、宵子は胸の中で何度も繰り返した。
犬神様の呪いを受けてから、九年が経った。
十六歳になった宵子は、野の花のささやかな花束を抱えて祠の跡に佇んでいる。
(こんなものしかお供えできなくて、申し訳ありません)
心の中で念じながら、いつも犬神様が身体を丸めていたあたりに花束を置く。
「あの日」から、犬神様の姿は見えない。やっぱり、宵子を呪って力尽きてしまったのだろう。
(私があの日、会いにいかなければ……?)
呪われなかったかもしれない、とは思ってはいけない。でも、宵子のせいで犬神様の最期の瞬間が怒りや恨みに満ちたものになってしまったなら、とても悲しくて申し訳ないことだ。
(お墓も作らないなんて。真上家をひどいと思っていらっしゃるでしょうね……)
子供のころに座ったのと同じ場所に、宵子はそっと腰を下ろした。犬神様が本当にいたと知ったお父様たちは、怯えて祠に近寄らなくなった。ただでさえ古びていた祠は風雨にさらされて、いつしか屋根が落ち壁が崩れ、わずかに柱が残るだけになってしまった。
(私は、大きくなったのに。何もできないままだわ)
白くて温かい毛並みの感触を思い出して、宵子はそっと溜息を零した。
今の宵子なら、箒の扱いも雑巾がけもお手のものだ。一日あれば、祠の跡に積もった落ち葉を綺麗に除けて、残った柱を磨くこともできるだろう。そして、水もお花も絶やさないように毎日お参りできたら良い。
でも、それは許されないことだ。宵子は、真上家のお屋敷にはいないことになっているのだから。
真上家の双子の片割れ、「宵子お嬢様」は、身体が弱くて遠方で療養していることになっている。愛らしく朗らかで社交界を賑わせるのは、妹の暁子だけ。世間の多くの人にとっては──ううん、お父様やお母様、お屋敷の使用人にとっても、真上家の娘はひとりしかいないのだ。
(だって、私は呪われた子だから)
忌まわしく恐ろしい存在を、表に出す訳にはいかない。今の宵子は家の恥で、息を潜めて過ごさなければならない。
追い出されないだけ感謝しなければならないし、養ってもらっている恩を返すために、使用人に混ざって働かなければならない。
だから、宵子の纏う着物は着古した質素なものだし、手は水仕事で荒れているのだ。毎日毎日、言われたことをこなすのに忙しくて、祠の掃除をする時間なんて取れそうにない。
(お供えも、もっと良いものを差し上げたいんですけど……)
色とりどりの金平糖。優しい甘さが口の中で解ける落雁。卵の香りとふんわりした食感が美味しいカステラ。
かつて犬神様に差し上げたおやつは、今ではめったに口にできなくなってしまった。言いつけられた仕事が終わらなくて、食事を抜かれることもしばしばだ。くう、とお腹が鳴ったのが恥ずかしくて、帯の上から押さえた時──
「宵子様! いったいどこに隠れていらっしゃるんですか!」
母屋のほうから苛立った声が聞こえて、宵子は慌てて立ち上がった。足首に結ばれた鈴が、りん、と涼やかな音を立てる。
(ごめんなさい、犬神様。もう行かなくては)
名残惜しい思いで祠の跡を眺めてから、宵子は呼ばれたほうへ走り出した。りんりんという鈴の音が、彼女を急かして追い立てるようだった。
祠のほうから現れた宵子を見て、その女中は顔を顰めた。犬神様にお参りしていたのだと、分かってしまったのだろう。
「宵子様はもう呪われているから良いのかもしれませんが! 私どもは恐ろしいんです。怠けるためにあんなところに逃げ込むのは止めていただけますか」
頭ごなしに叱られて、宵子は黙って頭を下げた。
(怠けるつもりも、逃げるつもりもなかったわ)
思ったことは、心の中にしまっておく。ほんの少しの間だけ、犬神様にお参りしたかっただけ、だなんて、誰も分かってくれないだろう。
それに、今の宵子には言いたいことを言う、ということができない。それこそが、犬神様が彼女にかけた呪いだから。
九年前のあの日以来、宵子はひと言も言葉を発していない。口や舌を動かしても、どうしても声が出てくれないのだ。犬神様が喉に噛みついたのは、彼女の声を噛み殺したということなのかもしれない。
足首の鈴は、居場所を伝えるためのもの。呼ばれても返事ができないから、鈴の音が近づいてくれば、宵子がぐずぐずしないで駆けつけていると分かる、という仕掛けだった。
「暁子様がお呼びですよ。癇癪を起こしてしまわれる前に、早く行ってください。今夜は、鹿鳴館の夜会に招かれているんですから。支度をしないと……!」
「呪われた子」を気味悪そうに見下ろしてまくし立てる女中に、宵子は分かりました、の意味を込めて頷いた。
かつての宵子は、とてもおしゃべりだったのに。今では、言われたことに、ただ頷いたり首を振ったりするしかできなくなってしまったのはひどいこと、なのだろうか。
(でも、慣れてしまったわ)
宵子が笑いかけたりしたら、女中は嫌な気分になるだろう。だから宵子は目を伏せたまま、早足で女中の横をすり抜けた。
呪われた存在と関わり合いになりたくないのは、当然のこと。犬神様が真上家を恨んで呪うのも当然のこと。そして、呪われた身を養ってもらう以上、宵子が家のために働くのも当然のことだ。
何もかもが当たり前のことだから、辛いとか嫌だとか思うのは間違っているのではないかしら、と宵子は思う。誰も宵子と話したくないのだから、声が出たって意味はない。
ずっと黙って、俯いているしかない──宵子はそう思っていた。
おじい様が亡くなった後、真上家のお屋敷は今どき流行りの洋館に建て直していた。これからの時代は、外国からのお客様を招くこともあるだろうから、と。昨年、お父様は子爵の爵位をいただいたから、体裁を整えて良かったのかもしれない。
(でも、お父様もお母様も、普段は着物でお過ごしなのに)
宵子にとっても、もの心ついたころから暮らした昔ながらの日本家屋のほうが馴染みがある。
草履を履いたままで家にあがるのにはいつまで経っても抵抗があるし、二階にある暁子の部屋まで階段を上る時に着物が乱れないようにするのにも、いまだ少し注意が必要だった。
それでもできるだけ急いで、ちりんちりんと鈴の音を鳴らしながら暁子の部屋の扉を開けた瞬間──甲高い怒鳴り声が浴びせられた。
「遅いわ、宵子! 夜会に遅れたらどうするの!?」
碧い生地に蝶が舞う、華やかな振袖を纏った少女こそ、宵子の双子の妹の暁子だった。ぱっちりとした目に、ふっくらとした唇が勝気な笑みを浮かべている。明るくてはきはきとして、もの怖じしない──宵子が呪いを受けなかったら、この暁子と同じように成長していたのかもしれない。
(ごめんなさい。でも、まだ明るいでしょう?)
妹に頭を下げてから、宵子は少し首を傾げた。双子の絆があるからか、暁子はそれだけで言いたいことを分かってくれた。
「あのね、誰も宵子に触りたくなんかないの。どうしようもないところは手伝ってあげるけど、できるだけひとりで着替えてもらわないと。──だから、さっさとして」
暁子が言い終わると同時に、布の塊がばさりと宵子に投げつけられた。
深い紺色の絹に、銀色のレースや刺繍をあしらった西洋風のドレスだ。滑らかな生地の艶も、細い銀糸が描く繊細な模様も、うっとりするほど綺麗。でも、広げれば胸もとが大胆に開いた意匠になているのが分かってしまう。
(これを、私が着るのね。本当に……?)
欧州では、貴婦人はこういうドレスを着るのが当たり前なのだとか。でも、頭では分かっていても、襟から足元までを着物で覆う格好に慣れた宵子には、どうしても恥ずかしいと思ってしまう。
ドレスを広げたまま、宵子が立ち尽くしていると──暁子が苛立ったように唇を尖らせた。
「何よ。宵子だって良いって言ってたじゃない。──ああ、あんたは言えないんだけど。とにかく、頷いてくれたでしょう?」
暁子の機嫌が悪くなり始めているのを感じて、宵子は慌ててこくこくと頷いた。
今の日本は、鎖国時代に遅れた技術や文化を取り戻して西洋諸国に追いつくために国を挙げて努力している。鹿鳴館での夜会も、そんな努力の一環だ。
日本の女性だって、欧州の貴婦人のようにドレスを着こなして円舞曲を踊ることができるのだと、外国からのお客様に見せなければならない。
(でも、言われてもすぐにできる訳ではないから……)
夜会に出るのは良くても、せめて着物で出席したい、と言う令嬢や奥方は多くて、お父様や旦那様を困らせているのだとか。それは真上家でも同じで、こんなはしたない格好は嫌! と言って聞かない暁子に、お父様は新しい着物を仕立ててあげるから、となだめすかして説得しようとしていた。
新しい着物に、簪もつけてもらった暁子は、さらに条件をつけてから頷いた。
『そんなに言うなら、ドレスを着るだけなら良いわ。でも、踊るのは絶対に嫌! お父様も、私が知らない男にべたべた触られるのはお嫌でしょう!?』
西洋の踊りは、男女が手を取り合って身体を近づけるものなのだ。それも、身体の線を露にしたドレスを纏って! 確かに、嫁入り前の娘がすることではない。
良家の女性が嫌がって夜会に出ようとしないものだから、数合わせに偉い方々の妾や芸者まで動員されることもあるのだとか。それでますます、ドレスも踊りもいかがわしいものだと思われる悪循環になっているらしい。
『それは、そうだが。だが、真上家の娘がドレスを着て踊れば、ほかの家の手本にもなるだろう。私も偉い方々からの覚えが良くなるというもので──』
お父様と暁子がその話をしていた時、なぜか宵子も呼ばれていた。足首に結ばれた鈴が音を立てないように息を殺してじっとしながら、どうしてだろうと不思議に思ったものだった。いつもなら、休まず働くように言われているのに、と。
その理由が分かったのは、暁子が得意げに言った時だった。
『舞踏の時間だけ、宵子に代わってもらえば良いのよ。同じドレスと髪型で、口を利かなければバレやしないわ。役に立たない呪いの子なんですもの、それくらいやってもらわないと……!』
暁子が女中たちの給仕でお菓子をつまむ間に、宵子は襦袢を床に脱ぎ落した。足袋も脱ぐと、素足の裏に感じる絨毯の長い毛足がくすぐったい。真上家のお屋敷の何もかもが洋風になったけれど、宵子の心は犬神様がいたころの庭や日本家屋を恋しがっている。
肌をさらした心細さと恥ずかしさに震える宵子に、女中たちがにじり寄る。まずは、西洋の下着、コルセットを身に着けなければいけない。
「さ、宵子様。コルセットを締めますよ」
「息を吸って、止めてください」
コルセットは、西洋の貴婦人は必ず身につけるものだという。鯨の鬚を仕込んだ硬くて薄い鎧のようなそれを、紐で思い切り締め上げて、ひょうたんのようにくびれた細い腰の線を作るのだとか。
(これが、コルセット。痛くて、苦しい……)
呪いの子に触れたくない女中たちは、早く終わらせてしまおうとぎゅうぎゅうときつく紐を引っ張っている。肋骨がきしむ音が聞こえた気がするけれど、宵子は痛いと訴えることもできない。帯をきつく締めるよりもずっと辛い苦しさに、目に涙を浮かべて耐えるだけだ。
「双子ってとても便利ね。顔も背丈も身体つきもみんな一緒なんだから。宵子がいてくれて良かったわ……!」
「本当に。あの、でも、同じドレスを二着も作るのはもったいなかったのでは……?」
恐る恐る、という風に口を挟んだ女中に、暁子は苛立ったように声を荒げた。
「だって、宵子が着たドレスに触ったら、私まで呪われるかもしれないじゃない! ふたりとも呪われてしまったら、真上家はどうなるの!?」
「は、はい。ごもっともです」
そんなやり取りを聞きながら、宵子はドレスを纏っていった。
(犬神様は、もういないのに。暁子が呪われる心配なんてないのよ)
双子の妹に、汚らわしいもののように言われるのは悲しかった。でも──それでも、暁子は宵子の妹で、真上家が表に出せる、たったひとりのちゃんとした娘だった。
(真上家を繋いでいくのは暁子なんだから。助けられることがあるなら──良いことよ)
しゃべることができない宵子は、社交の役には立たない。舞踏が終わった後の、会食や歓談の時間は暁子が担当することになっているのだ。それはそれで大変なことには違いないから、宵子にも──呪われた子にもできることがあるのを光栄に思わなければ。
そうこうする間に、宵子のドレスの着付けは終わっていた。
「暁子様、髪型はこれでよろしいでしょうか。後ろは、このように」
「まあ、良いわ。……宵子は練習台としてもちょうど良いわね」
宵子は、暁子として夜会に出る。暁子もこの後は同じ装いをするのだから、女中が尋ねるのは暁子に対してだけだった。
宵子は黙ったまま、横目で鏡に映った自分の姿をのぞき見る。暁子が、背中からの見え方を確かめるために差し出された鏡だから、正面から見ることはできないのだ。
(……見る分には、とても素敵よ。これで人前に出たり……殿方の手を握るのは、恥ずかしいけど)
居場所を教えるための足首の鈴は、さすがに外してもらえた。荒れた手は、レースをあしらった絹の手袋で隠して。
髪を結い上げたことでさらされた首筋は、真珠の首飾りが彩る。胸もとや腰の線が露になるのは、やっぱり抵抗があるけれど、それでも、たっぷりとした生地が襞となって流れるスカートは素敵だと思う。
(まるで、お人形みたい)
お父様が暁子にあげた欧州産の人形は、見たことがある。白い肌に紅い頬と唇、本物みたいに凝った意匠のドレスを着せられた、可愛らしいお人形。
何もしゃべらないというところも、今の宵子はお人形にそっくりだった。
宵子は、鹿鳴館に向かう馬車に揺られていた。
今夜はお父様はお仕事ということで、暁子の婚約者の新城春彦が付き添ってくれることになっている。欧州では、こういうのをエスコート、と言うそうだ。
新城家は、古くから真上家に仕えてくれた一族だという。だから、春彦も何もかもを承知している。
犬神様の呪いのことも、宵子の扱いのことも。妹の暁子の代役で、舞踏をこなさなければならないということも。
宵子の装いに合わせて、西洋風の燕尾服を纏った春彦が、気遣うような微笑を向けてくれる。
「宵子も大変だね。暁子の我が儘に付き合わされて」
「真上家のご令嬢」がふたりいるところを人に見られる訳にはいかないから、暁子は使用人に混ざって別の馬車に乗っている。
『どうして宵子が春彦兄様と一緒なの!?』
馬車に乗り込むにあたって、機嫌を損ねた暁子を春彦が宥める一幕もあったのだけれど。これは何も「浮気」だなんてことではなくて、今夜の宵子はあくまでも「暁子の影」なのだ、ということで納得してもらった。
(我が儘だなんて。暁子も、ドレスや夜会が不安なんでしょうから)
口に出して伝えることができない代わり、宵子はふるふると首を振る。軽く目を伏せて、口元はほんの少しだけ微笑んで。暁子の婚約者として、もう何年も真上家に親しく出入りしている春彦なら、これで分かってくれるだろう。
「犬神の呪いのせいで、可哀想に。……父上も母上も暁子も、君につらく当たり過ぎている。僕が真上子爵になったら、助けてあげるからね、宵子」
春彦の声は優しいけれど、いったい何をどうしてくれるつもりなのか分からなくて、宵子は首を傾げた。
(春彦兄様はお婿に入るのに。暁子を宥められるかしら……?)
春彦の実家の新城家は、長年真上家に仕えてきた家。その経緯もあって、暁子は春彦にも高圧的に接しているのに。でも、そう言ってくれる気持ちだけでも、嬉しい。
(ありがとう、ございます)
感謝の想いを込めて、宵子が微笑んだ時──眩しい光が車内に差し込んだ。
目を細めて窓の外を見ると、無数にも思える提灯が連なって、夜を昼のように明るく照らしている。馬車が今まさに通り過ぎようとしている門には、国旗が誇らしくたなびいている。
馬車は、宵子たちが乗る一台だけではなく、何台もが連なって貴人を降ろす順番待ちをしている。華やかな気配が馬たちにも伝わっているのか、蹄を踏み鳴らす音や高いいななきの声も賑やかだ。それに──
(ここが、あの──)
真昼の明るさに、その建物の白い壁がいっそう輝かしく見えた。イギリスの建築家を招いて設計したという、煉瓦造りの壮麗な西洋建築。優美なアーチが連なる窓からは、もう音楽の調べが夜風に乗って聞こえてくる。
宵子は、鹿鳴館に到着したのだ。
* * *
鹿鳴館の管内に入ると、宵子はシャンデリアが見下ろす玄関ホールを抜けて大階段を上った。
国が威信をかけて造った建物だから当たり前だけど、絨毯の柔らかさ、階段の手すりの細工の見事さ、壁を飾る絵画の鮮やかさ、どれをとっても真上家のお屋敷とは比べ物にならない豪華さで眩しかった。
ドレスに踵の高い靴を履いて階段を上るのは、着物の時以上に不安定で怖かった。でも、春彦が宵子の手を取って支えてくれる。
そして二階に辿り着いた宵子の目の前には、色彩と音楽が激しく華やかに渦巻いていた。
(まあ……!)
燕尾服や礼装の軍服を纏った紳士たちと、色とりどりのドレスで着飾った貴婦人たちが手を取り合って踊っている。欧州の宮廷さながらの光景が広がる大舞踏室を前にすると、日本にいるとは思えない
殿方の胸を飾る勲章の煌めき。花びらが散るようにひるがえるドレスの裾。シャンデリアの灯りを受けて、いっそう輝くティアラや首飾り。
優雅な円舞曲の調べに合わせて盛装した人たちがくるくると回るたび、目が眩むような美しい色と光がはじける。まるで、万華鏡の中に迷いこんだよう。
(わ、私もあの中に入るの……?)
目がちかちかするのを宥めようと、宵子は壁のほうに目を向けた。そこでは、和装の女性が舞踏には加わらずに歓談している。暁子のように、知らない殿方と手を触れ合うのがどうしても嫌な人も多いのだろう。
よく見れば、踊る相手がいなくてきょろきょろしている殿方も目についた。──そんな方々にとっては、新しく到着した宵子は格好の標的のようだった。
「おや、可愛らしいご令嬢だ」
「若いのに洋装とは感心ですな」
お父様と同じくらいの年の方たちに馴れ馴れしく話しかけられて、宵子は固まってしまう。
(……どなた? お父様のお知り合い? 春彦兄様は──)
春彦は、知り合いらしい紳士に挨拶をしていて宵子のほうを見ていない。手を振って注意を引くのもはしたない気がして縮こまっていると、殿方たちはぐっと間近に宵子を取り囲んでしまう。
「慣れていないのかな、そこもまた愛らしいが」
「さあさあ、こっちへ来なさい」
殿方のひとりが、宵子の手をぐいと引っ張った。
(きゃ!?)
ダンスの誘いがこんなに強引で不躾だなんて聞いていない。場を華やがせるために呼ばれた芸者だとでも思われてしまった気がする。
(私、そんなんじゃ──)
腰にまで手を伸ばされて、宵子の肌が粟立った。声が出せないから、悲鳴を上げることもできない彼女を助けてくれたのは、春彦だった。
「真上子爵令嬢の暁子様です。今宵が初めての夜会なので、緊張していらっしゃるようですね。どうぞお手柔らかに」
宵子を背中に庇った春彦の言葉で、殿方たちはようやく彼女がれっきとした華族の令嬢だと分かってくれたようだった。宵子を狙って伸ばされた手が引っ込んで、ようやくひと息つくことができる。
「おお、真上子爵にこんな愛らしい令嬢がいらっしゃったとは」
「それならそうと、言ってくだされば良かったのに」
子爵令嬢でなければべたべた身体を触っても良い、と言いたげなのはどうかと思う。でも、立派な身なりからして高い身分なのであろう殿方たちに対して、春彦はにこやかで丁寧な態度で答えた。
「内気でいらっしゃるのですよ。家族以外の殿方と話すことは滅多にないので」
「大和撫子は奥ゆかしいのが美徳ですからな」
「ですが、今宵を楽しみにして舞踏の特訓をしていたそうで。──暁子、披露して差し上げなさい」
暁子の代わりに、舞踏の先生に教わったのは本当だ。夜会の場での礼儀作法も、しっかり叩き込まれている。
(殿方と踊るのは、初めてだけど……)
舞踏の先生は女性だったし、こんなにねばりつくような目で見られるなんて考えてもいなかった。でも──これが宵子の役目なのだ。真上家の娘のひとりとして、妹の負担を減らしてあげないと。
小さく頷いて、教わった通りにドレスのをつまんで膝を折るお辞儀をすると、殿方たちはほう、と感嘆の息を漏らした。
「で、では、まずは私と──」
宵子の手を取った紳士の、手のひらの変な熱さと汗のべとつく感じは、手袋ごしにも伝わってきた。嫌で、怖いけれど逃げることはできない。
強張った表情で、ぎくしゃくとした動きで、宵子は大舞踏室の真ん中に進み出た。
* * *
楽団が奏でる音楽に合わせて、宵子は何人もの殿方と踊った。軽快な調べに早い拍子のポルカ。男女の列が入り交ざって舞踏室全体に波や花のような模様を描くマズルカ。
外から眺めるだけならきっと美しい夜なのだろう。でも、渦中の宵子にとっては、知らない殿方に次から次へと身体を触れられるのは苦痛だった。
(まだ、終わらないのかしら……)
くるくると回るうちに、春彦がどこにいるのか分からなくなってしまった。ひとりでは何も言えない宵子は、好んで舞踏に繰り出す大胆な娘にでも見えているのだろう、相手の殿方によっては、下心を丸出しにした表情や手つきで迫ってくる人もいる。
やけに強く手を握られたり、腰や背中を撫でられたり。香水を頭からかぶったような強い匂いの人に当たると、舞踏室の熱気もあいまって頭がくらくらとしてしまう。
(真上家の評判を落としてはいけないわ。笑顔で踊らないと……!)
今夜、ここに集っているのは名誉も身分もある方たちばかり。嫌な顔は見せてはいけないし、無様に転ぶなんてもってのほかだ。
でも──慣れない靴で踊る疲れが出たのだろう。曲の合間に、相手の殿方から逃れてひとりになった瞬間、宵子はドレスの裾に足をもつれさせて、よろけてしまった。
(いけない──)
絨毯を敷いてあるとはいえ、床はきっと硬いだろう。宵子はぎゅっと目をつむった。
けれど、いつまで経っても痛みも衝撃も感じなかった。それどころか、温かい何かにふわりと支えられた。恐る恐る目蓋を開けると──宝石のような蒼が、宵子を見下ろしている。
「気を付けて──大丈夫か」
耳に飛び込むのは、異国の言葉。すこし考えるような間を置いてから掛けられた日本語も、その人は言い辛そうに発音した。真昼のように明るい照明に、銀色の髪が輝いて星が降ってくるよう、だなんて思う。
(外国の方──そうよね、来ていてもおかしくないわ……)
鹿鳴館の華やかな夜会は、外国の貴賓に見せるためのものなのだから。
その人が纏っているのは、どの国の礼服なのだろう。ドイツか、フランスか、イギリスか──どの国であっても、胸に輝く数々の勲章からして、高い身分の方に違いない。
(人形……いえ、彫刻のように綺麗な方)
銀髪の貴公子の腕に収まったまま、宵子はその人の端整な顔に見蕩れていた。白粉なんて塗っていないだろうに、頬は白くて滑らかで。高い鼻筋も整った頬や顎の線も、芸術家が心を込めて削り出したかのよう。
日本人の宵子の目には見慣れない髪や目の色も、怖いだなんて思わない。こんなに綺麗で神秘的な色は、いつまでだって見ていたい。
(──嫌だわ、私、失礼な……!)
支えてもらった御礼も言わずに、相手の顔をじろじろ見つめていたことに気付いて、宵子の頬が熱くなった。欧州ではこんな時にどうするんだっけ、なんて考えている余裕はない。慌てて日本風にお辞儀をすると、くすりと微笑む吐息が下げた頭に降ってきた。
「ワルツは踊れるか?」
また、宵子の知らない国の言葉だった。でも、不思議と意味が分かる。
ちょうど流れ始めた、ゆったりした三拍子の曲。銀髪の貴公子が、宵子に差し出した手。彼女の表情を窺うように、軽く傾げた首と、少し悪戯っぽく微笑む口元。それらのすべてが教えてくれる。
──舞踏の誘いを、受けたのだ。
円舞曲がこんなに楽しいものだというのを、宵子は初めて知った。
(飛んでいるみたい。それか、波の上を滑るような……!)
銀髪の貴公子のリードは巧みで、考えなくても足をどこに出せば良いか分かる。
ほかの組にぶつかったりすることもなく、魚が水中を泳ぐように、鳥が風に乗るように、どこまでもふたりで回りながら踊りながら進めそう。
宵子の掲げた右手は、彼の左手と軽く握り合って。左手は、彼の右の腕に沿えて。その手は宵子の背を支えて、さりげない動きで進むべき方向を教えてくれたり、ほかの踊り手との衝突からそっと庇ってくれたりする。
さっきまでは恥ずかしくて苦痛だった触れ合いも、この人となら導いてくれるという安心感になった。
(ずっとこの方と踊れたら──)
曲が終わるころには、相手を変えたくないとさえ思い始めていた。でも、そんなことはできない。とても寂しく思いながら、銀髪の貴公子の手を放そうとしたのだけれど──
「こちらへ──疲れているようだ」
訳の分からない音の繋がりと共に、宵子は露台へと導かれていた。厚い生地のカーテンを締めれば、夜会の喧騒はどこか別の世界のことのように遠い。
(涼しい……)
火照った頬を夜風が撫でるのが心地よかった。さらに手であおごうとして──円舞曲を踊った時のまま、緩く握り合っているのに気付く。
(……え?)
貴公子のほうでも、意識していなかったのかもしれない。白皙の頬にさっと赤みが差して、振り払うように手をほどかれた。
「失礼──ええと、すまない」
早口に言ってから、貴公子は何かを思い出すようにぎゅっと眉をしかめた。外国の方は、眉毛も髪と同じ淡い色なのだと、宵子は初めて知った。
「……貴女は、疲れていると、見えたから。休息が、必要だと思った」
彼は、日本語の表現を思い出そうとしていたらしい。一節ずつ区切るように発音した後で首を傾げたのは、宵子に伝わるか心配だったのだろうか。
(踊っている間に、そこまで見てくださったの……?)
言葉だけでなく、彼の気遣いまで伝わってきて、宵子の頬がいっそう熱くなった。コルセットを弾けさせそうなほどに胸が高鳴っているのも、舞踏の高揚のせいだけではない。
(お礼……お礼を、しないと)
今度こそ、欧州風の作法を思い出して宵子はドレスの裾をつまみ、膝を折った。すると、銀髪の貴公子はほっとしたように微笑んだ。そして、ゆっくりしていなさい、とでも言うかのように、バルコニーに設えられた長椅子に宵子を座らせる。
「──では」
短く呟くと、彼は宵子に背を向けた。舞踏室の喧騒に戻ろうというのだろう。異国の、名前も分からない方だ。ここで別れては、きっともう二度と会えないだろう。
(待って。もう少し──)
考えるより先に、手が勝手に動いていた。宵子の指先は、異国の青年の上着の裾をつまんでいた。よく滑る絹の手袋に包まれた、細い指だ。振り払うのに大した力はいらないだろう。
でも、その人は困ったように眉を顰めながらも、立ち去ろうとはしなかった。
「……私は日本語が堪能ではない。貴女は、ドイツ語を話せるか?」
それでは、彼はドイツの人なのだ。ひとつ、知ることはできたけれど、宵子はドイツ語の単語はひとつも知らない。
(せめて、お名前を……)
声が出せないことを、こんなにもどかしく思ったことはない。
真上家では、宵子の意見や望みを問われることもなかったから。ただ、頷くだけでほとんどの用事が済んでいた。怠けているんだろうとか言われた時は、首を振ることもあるけれど。
とにかく、真上家の人々は宵子のことを知っているし、何より同じ日本人だ。
「……話せないのか。通訳もいないしな……」
突然に引き留められて、しかもその相手が何も言わない状況に首を傾げるこの人は、宵子の言いたいことをどれだけ汲み取ってくれるだろう。
(宵子、と──まずは、私の名前から……?)
訳が分からないから立ち去ろう、と思われる前に、何かしなければ、と。必死の思いで、宵子は暗い空に手をかざした。宵──夜そのものを示してから、手を返して自分自身の胸にあてる。
「貴女の、名前? ……星? 空?」
銀髪の貴公子は、言いたいことを察してくれた。でも、その内容はまだ少しずれている。
(そうではなく──もっと、大きな意味の)
宵子の意図を探ろうというのだろう、綺麗な青年が、長身を軽く屈めてじっと見つめてくる。その眼差しに炙られるような気分になりながら、宵子はもう一度、今度はもっと大きく手を広げた。鹿鳴館の輝きを見下ろして、いっそう闇が深く見える夜の空を。
「──夜」
宵子の顔に広がった笑みを見て、「正解」だと分かったのだろう。銀髪の貴公子も嬉しそうに微笑むと、しっかりと頷いた。
「夜の貴婦人。綺麗だ。似合う」
宵子の今日のドレスは、銀糸のレースや刺繍が映える紺色だ。確かに、星が煌めく夜空にも見えるかもしれない。
(この方が言うことこそ綺麗だわ……)
呪われた子だと、蔑まれたり罵られたりしない。役立たずだと嗤われたり嘲られたりすることも。
異国の方だから、当たり前のことかもしれないけれど──ドレス姿を好奇の目で見ることもなく、純粋に褒めてくれるなんて。
宵子が感動に震えていることを、彼はきっと知らないだろう。月の光が人の形に凝ったようなその人は、滑らかにその場に跪き、腰掛けた宵子を見上げる体勢になった。
「私は、シャッテンヴァルト伯爵クラウス。この国に来て、貴女に会えて光栄だ」
胸に手を当てながら、彼が紡いだ言葉は滑らかだった。きっと、たくさんの人に同じことを言ってきたのだろう。でも──宵子にとっては初めてで、そして、特別なことだった。
(クラウス様……)
もう長いこと声を出していない宵子だから、舌はすっかり固まってしまっているだろう。もしも犬神様の呪いが解けたとしても、異国の名前を発音するなんてできそうにない。
それでも、せめて教えてもらった名前の響きは忘れまいと、宵子は銀髪の貴公子──クラウスの名前を心に刻んだ。
一応は名前を教え合ったことになるのだろうか。一連のやり取りが終わると、また何を言えば良いのか分からなくなる。
(この方とならまた踊りたい、けど──女から誘うなんて……)
立ち上がって手を差し出せば、分かってくれるだろうか。ドイツの礼儀作法では、失礼にならないだろうか。日本人の小娘なら、常識を知らなくても許してもらえるだろうか。
さんざん悩んで躊躇った末に──宵子が行動に移すことは、できなかった。彼女が立ち上がる前に、舞踏室とバルコニーの間のカーテンが開いたのだ。
「暁子? ここにいるのか……?」
宵子の妹の名を呼びながらバルコニーに現れたのは、暁子の婚約者の新城春彦だった。
(春彦兄様……!)
舞踏の間に宵子の姿を見失って、探していたのだろう。心配をかけていたこと、舞踏の時間の終わりが近いことを思い出して、宵子は慌てて立ち上がった。
「暁子──と、貴方は?」
宵子が異国の貴公子と一緒にいるところを見て、春彦は軽く目を見開いていた。
(……そうだわ、私、なんてことを……)
宵子は、暁子として夜会に出ていたのだ。婚約者がいる身で、ほかの殿方とふたりきりでいるところを当の婚約者に見られたのだ。子爵令嬢にあるまじき、はしたない振る舞いだったのだ。
「彼女は、疲れているようだったので。休息していた。私のせいだ」
クラウスも、事情をあるていど察してくれたのだろうか。ややぎこちない日本語で、それでもはっきりと述べると、春彦は納得したように頷いた。
「ああ、それは──誠にありがとうございます」
お父様の跡を継ぐのに必要なのだろうか、春彦はドイツ語を操るようだった。宵子が目を丸くする間に、ふたりは彼女の知らない言葉でやり取りをする。たぶん、自己紹介とか、真上家のこと、宵子──暁子との関係について話しているのだろう。
と、春彦の口からアキコ、と漏れるのを聞いて、宵子の心臓は跳ねた。
(あ、そうだ──)
クラウスに、彼女自身の名前を教えてしまったことを思い出したのだ。夜の宵子と、夜明けの暁子。名前の意味は、まるで真逆になってしまう。
(で、でも。音だけなら分からないはずよね……?)
ドイツ語には、漢字はないのだろうから。
嘘を吐いたと思われるだなんて、心配する必要はない。宵子が、実は暁子ではないだなんて、露見するはずはない。
(クラウス様は、私のことを暁子だと思ったままなのね……)
だから、安心すべきだと思うのに。宵子の胸は、何かの棘が刺さったような痛みで疼いた。
クラウスとしばらく話した後、宵子は春彦に手を引かれて舞踏室に戻った。異国の美しい青年は、もうしばらくバルコニーに留まるようだ。
(私とふたりきりだったなんて、噂にならないため、よね……? 気を遣わせてしまったのね)
暑さや寒さが耐え難い季節ではないとはいえ、夜空の下にひとり佇むクラウスを思うと宵子の胸は痛んだ。──それとも、ときめいた、だろうか。星の光に彩られて、あの方の銀色の髪はとても神秘的に煌めいていたから。
と、勝手な妄想に浸りかけた宵子の耳元に、春彦が口を寄せて囁いた。
「君が、あの伯爵閣下に食べられてしまわなくて良かったよ」
悪戯っぽい口調と裏腹に、その内容は謎めいていて恐ろしくて。宵子は思わず足を止めて、春彦の顔をまじまじと見つめた。
(え……?)
宵子がバルコニーに出ている間に、舞踏の時間は終わっていた。着飾った人々は、階下の大食堂に向かいながら談笑しているところだ。
「シャッテンヴァルト伯爵家には、怪しげな噂がまとわりついている。真上家も、長らく犬神なんてものを崇めていただろう? 似たようなことが、ドイツでもあるらしい」
人の流れの邪魔にならないよう、宵子の腕を引いて歩くことを思い出させながら、春彦は軽い口調で続ける。
鹿鳴館のまばゆいシャンデリアの下で、犬神様のことを聞くのは不思議な気分だった。
(春彦兄様も、犬神様のことを信じていないのね……)
春彦の実家の新城家は、真上家に長く仕えていたのに。当然、犬神様を祀ったりお力を借りたりする諸々の儀式にも、携わってきたのに。
宵子の寂しい思いには気付いていないのだろう、春彦は怪談話をする時のように、わざとらしく低い声で、抑揚をつけてしゃべった。
「あの伯爵家は、代々狼に化けるんだそうだ。月を見ては狼に姿を変えて、若い娘を襲うんだとか。夜会の貴賓の間でも噂になっていたよ。姿が見えないから、どこかで遠吠えでもしてるんじゃないか、とかね。君と一緒にいるのがその狼伯爵だと知った時は、驚いたよ……!」
春彦の軽やかな笑い声が、夜会の喧騒に紛れて弾けた。彼が機嫌良く笑っういっぽうで、宵子の顔は強張ってしまう。春彦の腕に縋ったまま、また、足を止めてしまう。
腕が引っ張られる感覚で、宵子が重石のように動こうとしていないのに気付いたのだろう。春彦は振り向くと、ちらりと苦笑した。
「なんだ、怯えさせてしまったかな? いや、すまないね……君がそんなに信じやすいとは」
困ったような声も表情も、表面だけなのだろう。春彦は、宵子を怖がらせたと思って喜んでいるようだった。闇に紛れて若い娘に忍び寄る化物の狼──確かに、恐ろしい話かもしれないけれど。
「明治の御代に、犬神も狼男もないだろう。みんな、ただの噂、怪談話みたいなものさ」
軽く肩を竦めると、春彦は宵子の腰を抱くようにして再び歩き始めた。目指すのは、ほかの人々と同じ大食堂ではなく、暁子が退屈しながら待っているであろう控室だ。そこで、宵子は双子の妹と入れ替わるのだ。
待ちくたびれた暁子は、機嫌を損ねているかもしれない。宥める手間を考えてか、春彦は少し早足になっていて、これ以上宵子の顔色を窺うつもりはないようだった。
だから、宵子がひっそりと唇を噛み締めたのは、誰も知らない。
(違うの、兄様。そんなことは思ってないの……)
宵子は、怯えてなんかいない。
それよりも、春彦が犬神様を馬鹿にするようなことを言ったのが悲しくて寂しかった。宵子は何年もひと言も言葉をしゃべれないのに。それは犬神様の呪いで、だから犬神様はちゃんと実在するということのはずなのに。
それに──嫌だった。
あの綺麗で優しいクラウスのことを、恐ろしい怪物のように噂したことが。宵子を揶揄う怪談話の種にしたことが──許せないとさえ、感じたかもしれない。
(今日の私は……何だか、おかしいかもしれないわね……)
俯いて何も言えないことに、慣れ切っていたと思ったのに。今夜に限って、クラウスに対しても春彦に対しても、もっとこう言えたら、ともどかしさを感じてしまっている。
犬神様に呪われた身で、そんなことを考えてはいけないはずなのに。
* * *
「遅いじゃない! 晩餐にまで出ようとしていたんじゃないでしょうね? 何も言えない癖に。それでどうやって社交する気よ!?」
分不相応なことを考えてしまっていたから、暁子に怒鳴られて、宵子はいっそほっとした。
鹿鳴館の控室は、本来は崩れた衣装や化粧を直したり、ちょっとした休憩をするための小さな部屋だ。夜会が始まってから舞踏の時間が終わるまで、目立たないように閉じこもっているというのは、暁子にとっては監禁されたような気分だったのだろう。
「宵子の癖に。私に嫌がらせしようとしたんでしょう!」
妹に罵倒されて、八つ当たりでクッションを投げられるのもいつものことだ。
先ほどまでの華やかな夜会はただの幻だったかのように、宵子の視界はどこかくすんで、色褪せていく。でも、この灰色の世界こそが宵子が慣れ親しんだ世界だった。
(ごめんなさい。そんなつもりじゃなかったの)
確かに、舞踏室を退出したのは予定よりも遅れた時間になってしまった。宵子が勝手にバルコニーに出たから、春彦が探すのに手間取ってしまったのだ。
見知らぬ異国の貴公子とふたりきりだった、なんて言えば暁子の苛立ちに油を注ぐだけだから、春彦は伏せてくれていた。それでも暁子は収まらなくて、可愛らしい頬を膨らませて春彦にも当たり散らしている。
「春彦兄様、どうしてもっとちゃんと宵子を見張っていなかったの? 私の居場所を乗っ取ろうとしていたのよ。これも犬神の呪いじゃないかしら? お父様に言って、閉じ込めてもらったほうが良いかしら!?」
暁子も、春彦と同じだ。犬神様を信じていないのに、都合の良い──それとも悪い? ──時だけ、大げさに呪いを怖がる。
(だって。そもそもは暁子が言い出したのに)
俯くことしかできない宵子の代わりに、春彦が暁子を宥めてくれた。
「人が多くて見失ってしまってね。舞踏の間は、相手が次々変わるものだし。暁子だって、考えられないと言ってただろう? 熱気もひどかったよ。ここで待っていて正解だった」
宵子が夜会に出たのは、そもそもは暁子が知らない殿方との舞踏を嫌がったからだ。何も、彼女が妹の立場を奪おうとした訳ではない。暁子も、一応はその経緯を思い出してくれたようだった。
「そうね。見ず知らずの方と手を繋ぐなんてぞっとするわ。宵子はよく平気だったわね。私はそれほど図太くも恥知らずにもなれないわ……!」
宵子とまったく同じドレスを纏って、剥き出しになった肩を震わせながら。暁子が双子の姉に向けた眼差しは嫌悪と蔑みに満ちていた。
冷たい視線に貫かれた思いで目を伏せる宵子には構わず、春彦はあやすような微笑みで暁子に語り掛けている。
「落ち着いて、暁子。晩餐に遅れてはいけない。──フランス風の豪華な料理だそうだよ。食後にはシャーベットも出るとか。楽しみだろう?」
「そのご馳走を、宵子に取られるかと思い始めていたのよ。本当、のろまな子なんだから」
ナイフやフォークやスプーンを使った欧州式の食卓は、実のところ暁子の好むものではない。でも、珍しい甘味にはさすがに心が動いたのだろう。暁子は、ずっと尖らせていた唇をほんの少しだけ微笑ませて、春彦にしなだれかかった。
「行きましょう、春彦兄様。コルセットが苦しくてあまり食べられそうにないけど!」
「ご機嫌を直してくれて良かった、お姫様。靴が辛かったら僕を頼って良いからね」
仲睦まじく笑い合いながら、暁子と春彦は控室を出て行った。
宵子を、ちらりとでも見ることがなかったのは、当たり前のことだ。苛立ちをぶつけ切ってしまえば、暁子は宵子を気にかけたりしない。春彦も、彼女を気遣う素振りを見せて、また暁子を怒らせてしまうのを恐れたのだろう。
(予定通りのことよ。私も、やっとゆっくりできるんじゃない……)
そう自分に言い聞かせてみても、取り残された、という気分が拭えなかった。コルセットが急にきつくなった気がして息が苦しいし、髪を結った頭も、硬い靴に押し込めた爪先も痛いことに気付いてしまう。
何曲も踊った疲れも、手足の端から忍び寄ってきた。音楽に乗ってさざ波のように翻っていたドレスが、今は泥に変じて彼女を引きずり込もうとしているかのような。
優雅な円舞曲と華やかな舞踏の魔法は、解けてしまった。
それに──クラウスの銀の髪も青い宝石の眼差しも、もう遠い。
(私は……今日は、暁子として夜会に出ていたのだもの)
晩餐では、あの方は暁子とも語らうのだろうか。言葉は通じなくても、春彦が通訳してくれるだろう。朗らかな暁子のほうが、あの方も会話を楽しめるのかもしれない。
宵子が切ない溜息をこぼした時──
「宵子様。何をぼんやりなさっているのですか」
控えていた女中の冷ややかな声とともに、布の塊がばさりとかけられて、宵子の視界を翳らせた。
慌ててその塊を広げると、着慣れた、そして古びた絣模様の着物だった。宵子が、真上家の屋敷で下働きをする時にいつも着ているものだった。
女中が、乱暴な手つきで宵子の背中の留め具を外し、コルセットの紐を緩めた。汗で湿った肌に涼気が触れて、宵子はふるりと震える。
「夜会が終わるまでにお着替えを。おひとりで、できますね?」
そう言い捨てて、女中も控室から出て行った。
(そうだわ、『暁子』がふたりいてはいけないから……)
鹿鳴館を辞する時には、宵子は盛装した令嬢の姿をしていてはいけないのだ。地味で目立たない、女中に紛れなければならないから。
そそくさと着物に着替えた後は、宵子は晩餐会が終わるまで息を潜めて過ごした。
貴賓には豪華な料理が出されるし、使用人にも何かしらの賄いは用意されているのだろう。でも、宵子はそのどちらでもないからか、誰も食べるものを持ってきてはくれなかった。
情けなく鳴るお腹を抱えて、身体を縮めていると、ひどくみじめな思いがした。