「……春乃」
ぽつりと呟いた声が、何とも弱々しく掠れていることに、わたし自身が一番驚いた。
元より身体が強い方ではなくて、季節の変わり目には必ずと言っていいほど布団と友達になっていたのは、物心つくよりも前からのことらしい。
両親は細心の注意を払い、すぐにでも死神に拐われそうな病弱なわたしを育ててくれた。
たっぷり愛情を受けた分、外で満足に遊べない退屈さや、幼心に感じたあらゆる不自由さには、ずっと目を瞑ってきた。
その結果、近所からもわたしは深窓の令嬢だのと噂され、まともに学校に行ける日にさえも、交友関係を広げることはままならなかった。
寂しくなかったと言えば嘘になる。
けれど優しい両親と、毎年春に目を楽しませてくれる庭の桜、そしてずっと傍で面倒を見てくれた『春乃』が居れば、わたしの世界は満たされていた。
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彼岸と此岸を行き来するような日々を経て、やがて成長し、背も伸びなくなった頃。身体が少しは丈夫になったのか、床に臥す機会も幾分減った。
体調の良さから出来ることも増えたわたしは、密かに家を出て都会で暮らす算段をしていた。
ここまで育ててくれた両親は二年前に事故で他界し、今やこの古びた屋敷に居るのは、わたしと住み込みのお手伝いさんである春乃だけだった。
彼女は、昔からこの家で家族同然に暮らしてきた。お手伝いさんとは名ばかりの、わたしの姉のような存在だ。
熱の引かない夜には付きっきりとも言えるくらいに熱心に看病してくれたし、濡れタオルを絞る白い指先のひやりとした感触が額に触れると、大層心地好かった。
彼女の作るお菓子はハイカラで、女学校で流行りだった喫茶店の品にも決して負けない。いつもわたしの自慢だった。
学校に行けない日には彼女が勉学を教えてくれて、よくわたしの知らない国の話をしてくれた。
普通お手伝いさんというのは、学のない貧しい家の子が奉公に出されたものと思っていたのに、春乃はわたしよりもうんと賢くて、広い世界を知っていたのだ。
彼女は、本が好きなのだと言う。本を読めば、行ったことのない世界のことも、見たことのない未来のこともわかるのだと、好奇心旺盛な子供のように笑った。
そんな春乃は、わたしに唯一残された家族で、自慢の友達で、誰よりも大切な人。
だからこそ、そんな彼女の一生を、こんな病弱な娘の傍で縛り続けるなんて、出来なかった。
ただでさえ、両親を亡くした今、彼女には満足な給金すら支払えていないのだ。
「桜子お嬢様のお側に居られるだけで、私は十分幸せですよ」
いつもそんな健気なことを言う春乃だったが、今のわたしに価値などない。
この花宮家は、駆け落ち同然で家を出てわたしを授かった両親が、流行りの事業に手を出し一から財を成した、いわば砂上の楼閣なのだ。
流行りは長くは続かないし、従業員も最低限の小さな会社だった。今まで、よくもった方だ。
両親が亡くなった後、わたしは当時未成年で、身体も働けるほど丈夫でもなかったし、事業なんて引き継げなかった。
代わりにと名乗り出てくれた春乃は、所詮家事手伝いの若い女だからと、能力も見ずに不向きとされた。
そして元より経営状況も芳しくなかったらしい会社は他に引き継ぐ者も居らず、そのまま倒産した。
幸いにして借金はなかったものの、頼れる縁もなく、僅かな貯蓄を切り崩して暮らす日々。
深窓の令嬢は、ただの病弱な没落貴族と成り果てたのだ。
こんなわたしが家を出れば、否、二人には広すぎる家や財産全て売り払って旅立ってしまえば、春乃はそのお金を持って何処へなりと好きな場所に行けるだろう。
春乃はわたしより少し年上ではあるもののまだ若く、庭に咲き誇る桜のように美しい。そして聡明な彼女ならば、お手伝いさんでなくとも職など幾らでもあるだろう。
病弱で、ろくに社会のことも知らないわたしの将来なんて、たかが知れている。
けれど春乃には、こんな黴臭い家さえ出てしまえば、輝かしい未来があるはずなのだ。
そんな未来への希望からか、暖かくなり始めた気候故か、わたしの体調も幾分ましになった気がした。
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