「え、どういうことですか」
「カップは、あの時一緒に来てた女の子にプレゼントしたんだ」
「はぁ」

 それは見た。
この人の隣には、ちゃんとした清楚なお嬢さまが座っていた。

「で、なくしちゃったんだって」

 佐山CMOの整い過ぎた顔が、無邪気に微笑む。
私はガタリと立ち上がった。

「ちょ、それって! あ……。くっ……」

 言いたいことは山ほどあるが、無理矢理飲み込んで座り直す。
持ち主は私じゃない。
持ち主は私じゃないんだから、何も文句は言えない。

「酷い話だと思わないか。安くはないプレゼントなのにさ。買ってすぐに失くすなんて、彼女として失格だよね」

 彼はにっこり微笑んで、肘をつき組んだ手の上に顎を乗せる。

「あ……。そ……、くっ」

 私は怒りに震える手を、テーブルクロスの下で握りしめた。
怒っちゃダメ怒っちゃダメ怒っちゃダ……。

「だからさ、もう彼女とは別れようと思ってるんだ」

 彼はアンティパストのサーモンを、器用にフォークで畳むとパクリと口に放り込んだ。

「で、もし別れるのに協力してくれたら、あのカップを君にあげようかと思って」
「は!?」

 ガタリと立ち上がる。
驚いた顔で見上げる彼に気づいて、すぐにストンと腰を落とした。

「もう飽きちゃってるんだよねー、あの子のこと。だから別れたくてさ。だって実際酷くない? マジであげて速攻失くすとか。だけどこれは、逆にいい口実が出来たと思って」

 彼は何一つ曇りのない透き通ったグラスを手に取ると、そこに注がれたワインを口に含んだ。
ゴクリと飲み込んでから、爽やかな笑顔を浮かべる。

「どうする? 君が俺の新しい彼女のフリしてくれたら、すぐに話がつくと思うんだけど。成功報酬は、君が泣くほど欲しがっていた、あのおじいちゃんのカップってことで。どう?」
「そ……そんなんで、簡単に別れてもらえるんですか? 相手が本当にあなたのことが好きだったら、浮気の一つや二つ、目をつぶるくらいはするんじゃないですか?」

 佐山CMOは筋金入りのお坊ちゃまだ。
お金持ちで将来性も確実だし。
そもそもそういうこと以前に、人の物に手を出すとか、いくらなんでも頼まれたって嫌だ。
彼は眉間にしわを寄せ、沈痛な面持ちで大きく息を吐き出す。

「はぁ……。俺って、常に自由でいたいタイプなんだよね。縛られたくないってゆうか……。特定の何かに囚われると、自由な発想まで奪われてしまう気がしない? それにさ、俺自身がまだ、真実の愛を交わす運命の女性と、出会えていない気がしてるんだ。心を激しく揺り動かすような何かが、彼女には足りなくて……」

 彼は本当にうんざりとした表情でまたため息をつき、手にしたフォークをぶらぶらと揺らしている。
クズだ。
正真正銘のクズだ。
こんなセリフ、本気で言っている人、生まれて初めて見た。

「で、どうするの? 君が断るなら、他の人に頼むけど」
「あ、えっと……」

 お、落ち着け私! 
これはチャンスだ。考えろ! 
ぐるぐるぐるぐる混乱する頭を抱えたまま、一生懸命言葉を探す。

「だ、だけど、失くしちゃったものを報酬にするって、おかしくないですか? 無いものなんですよね。無いものをあげるって言われても……」
「そこなんだよ」

 彼はキラリと目を輝かた。

「おかしな話だと思わないか? 失くしたのは、彼女の自宅だって言うんだ。だから俺に家まで探しに来いと」
「それは……」

 それは暗に、佐山CMOに自分の家に来てほしいってことなんじゃ……。

「なんで俺が彼女の家に? そちゃ一人暮らしの彼女の家ならすぐにでも飛んで行くけど、あの子、実家暮らしなんだよねー。そんなとこ、行きたくなくない?」
「くっ……」

 さらに強く拳を握りしめる。
落ち着け、落ち着け私。
人様の恋愛観とか、私には関係ないし!

「だからさ、俺と一緒に彼女の実家に行って、俺の代わりにカップを探してほしいんだ」
「ご、ご自分では探されないのですか?」
「は? ヤだよ。そんなの面倒くさい。やる気ないし」

 スープカップに入ったミネストローネが運ばれてきた。
まだ一切手をつけていない、私の分のアンティパストの皿の横に置かれる。

「紗和子さんは、食べないの?」
「食べます! 食べますとも!」

 俄然食欲が湧いてきた。
もうこんなもの、遠慮もクソも必要ない。
丁寧に並べられたフォークとナイフをわしづかみにすると、大きな皿にちょこまかと飾られた食材を5秒で平らげる。

「わーお。こんな豪快に食べる女の子初めて」

 紅茶のティーカップに毛が生えた程度のスープを一気に飲み干し、ガチャンと皿に戻した。