卓己の腕が、私の体を抱きかかえる。
ドスンという衝撃と共に、私たちは下の階へ落ちていた。

「痛たたた」

 落ちた先には、わらが山のように積まれていた。
落とし穴だ。
三階の床がぱっくりと開くようになっている。

「ちょ、大丈夫!?」

 千鶴が不安そうにそこから覗きこむ。

「だ、大丈夫よ」

 私はわらくずの中で起き上がった。

「わぁ。びっくりしたね」

 私の下敷きになっていた卓己も、もそりと動き出した。

「卓己、大丈夫?」
「う、うん」

 彼は私の下から自分の腕を引き抜くと、右手首を気にしている。

「痛ってー」
「ほ、本当に大丈夫?」
「うん。紗和ちゃんは、怪我してない?」
「平気」

 私が答えると、卓己はにこっと微笑んだ。

「そっか。よかった」

 卓己が助けてくれたんだ。
小さいころは誰かにいじめられて、いつも泣いていたのに。
それを私が見つけては、いじめる奴らを追い払っていた。
彼を守るのは私の役目だったのに、もうそんな必要もなくなっていたんだ。

「ん? どうしたの?」

 卓己の手が私の頬に触れ、口元の髪を払う。
高校に入る頃には背だって追い越されていたし、胸の厚みだって腕の力だって、今じゃ到底敵うわけもない。
私はいつの間にか、守る側から守られる立場に変わっていたんだ。

「ううん。なんでもない」

 卓己は落ちたわらの上で、自分の右手をさすっている。
私たちはもうこんなにも、違ってしまっている。
卓己が初めて、見知らぬ人に思えた。

「卓己!」

 千鶴が三階から飛び降りた。
ドスンという振動が、わらの上にいても伝わってくる。

「卓己、怪我は? 怪我してない!?」

 彼女はわらくずの中をまっすぐに卓己に近寄ると、その手をとった。

「大事な利き腕なのに! もっと大切にしてよ!」

 千鶴は卓己の右手首を丹念に調べあげると、それを両手で包み込む。

「デジタル作画でも、モデリングでも、卓己が実際に絵を描くことには変わらないのよ。そのためには動かせる手が必要なの」

 千鶴は本気で腹を立てていた。

「卓己を何だと思ってるの? 紗和ちゃんもアーティストの孫なんだったら、それくらいのこと分からない?」
「だ、大丈夫だよ。千鶴」

 黒く波打つ千鶴の髪に、卓己はそっと指を絡ませる。

「千鶴は大げさだなぁ。そんなこと心配しなくても、僕はちゃんと自分で守ってるから」

 卓己はニッと微笑むと、千鶴の前で右手首をぶらぶら揺らしてみせる。

「ほら、ね。平気でしょ」

 今度はその手を、私に向かって差し出した。
千鶴の言葉に、深くえぐり取られている自分がる。

「た、卓己はいまやもう、自分の事務所を持った独立したアーティストなんだから。自己管理も仕事のうちでしょ?」
「うん。紗和ちゃんの言う通りだよ、千鶴」

 まだ怒っている彼女を横目に、卓己はごそりとわらの山から体を浮かせる。

「紗和ちゃんも俺につかまって。ここから出る方法を考えよう」

 私は差し出されている卓己の右手から、目を反らした。
千鶴にあんなこと言われて、このまま甘えることなんて出来ない。

「この木の壁の、どっかが開くと思うんだよね」

 彼はさりげなく出した右手を下ろす。
千鶴はイラっとしたまま、卓己の背に隠れるようにしがみついた。

「きっとこの沢山のドアの中から、本物を探せって趣向なのよ」

 私はそんあ2人を残し、わらの山をかきわけ、三階に登る時に裏側を見た、木製の壁に向かった。
卓己は私が触れるよりも先に、その壁に触れる。

「これも多分リンドグレーンの作品だよね。子供たちのために作った。だとしたら、真ん中の大きなドアは違うと思うんだ。どんな仕掛けがしてあるんだろう。日記には書いてなかった?」
「そこまで見てない」

 千鶴はまだ卓己の右手を気にしている。
それを知っている卓己は、きっと痛む手をワザと普通に動かしている。
こんなところに来なければよかった。
卓己は丹念に大小の窓や扉の並ぶ木製の壁を調べている。