龍神様とあの日の約束。【完】



「やだあ! おとうさんとおかあさんのところへいくの!!」

泣きわめいて叫ぶ幼子を抱いた、着物に肩から落とした羽織の青年は、無理に泣き止ませようとはせず、ただ幼子の背中を優しく撫でていた。

「父母が恋しいか?」

幼い子供に話しかけるにしては古風というか難解な言い回しだが、沸点を超えている幼い女の子は、いやいやと首を横に振る。

「いらないって! みや、いらないっていわれた! いっしょにしんじゃえばよかったのにっていった! だからそのとおりにするの! おとうさんとおかあさんのとこにいくの!」

泣きながら、子供は懸命に訴える。

命を否定する言葉を言われたこと。

厄介者扱いをするくせに、家を出れば可哀そうな姪っ子を自分の子供と一緒に育ててあげている、良いおじさんとおばさんを演じていることを。

従姉も、家の中と外ではみやへの顔が全然違うこと。

拙い言葉ながら、みやはなんとかわかってほしくて喋った。

わかって。苦しい、だからもう、終わりにしたいの。

おとうさんとおかあさんは、きっとみやを待っている。

みやがそこへ言ったら、会いたかったよって抱きしめてくれる。

きっと、――きっとそうだ。だから、

「じゃましないで! かおだけいいおとこはおんなをだますってテレビがいってた!」

大きな川へ向かう途中、岸辺で青年につかまってしまったのだ。

一心に進むみやを抱き上げ、何があったと訊いてきた。

そしてみやは泣きながら訴えたのだ。

ここまで話したんだ。この人も、みやの願いを邪魔する権利などないはず。

「……死を願えば――自分から死んでしまったら、逢いたい人には逢えないのだぞ?」

「ふえっ? え……みや、そのかわにはいれば、おとうさんたちのところにいけるんじゃないの?」

「残念ながら、この川はお父さんやお母さんのいるところには通じていない」

「ええっ? そうなの? じゃあみや、どうすればいいのっ? もうさみしいの、やだ……」

「寂しい?」

「……さみしい……みや、ひとりなんだもん……」

「そうか……じゃあ今日から俺がお前の家族だ。みやが苦しくなったり辛くなったりしたら、俺とたくさん話そう。こうやって抱きしめに行ってやることも出来る」

「みやの……かぞく……?」

「そう。そうやって、寿命……って、わかるか? 神様が決めた時間を生き抜いたら、きっとお父さんとお母さんに逢えるよ」

「ほんとっ? なる! みや、かおだけいいおにいさんのかぞくになる!」

「その言い方はやめろ。俺にも名前くらいある」

「かおだけいいおにいさんはいや?」

「いやだな。俺の名は――」


「あいつら今日も腹立つことしかしなかった。ほんと害悪」

『こら美也。いくら気が立っても言葉遣いを荒くしては駄目だ。人間性が出る』

「だって―――! 今日も朝から晩まで用事ばっか言いつけられて勉強する時間もなかったんですよ~。ほんと榊さんが話聞いてくれてなかったらコーヒーと称して醤油出してた」

『お前は随分たくましく育ったなあ……』

――清水美也は、自分に与えられた小さな部屋で机に向かい喋っていた。

その前に誰かがいるわけではない。

美也が向かっているのは机に置かれた手のひらサイズの鏡。

その鏡に映るのは美也ではなく、かつて美也が『かおだけいいおにいさん』と呼んだ青年だ。

――名を榊(さかき)、と美也に教えた。

「ねえ、榊さんって全然変わらないですよね」

『そうか? 小さな子供はすぐに成長するが、ある程度年を取ると目に見えて変わらないだけだよ』

「そうなのかな? それにこの、手品もすごいですよね。私携帯電話持つこと許されてないから、これがないと榊さんに逢えなかった」

手品、と美也が言ったのは、榊の姿を映す鏡のことだった。

『美也のために作ったものだ。俺も美也に逢いたかったからな』

「……っ、か、軽いこという男は女を騙すってテレビが言ってた」

『お前まだそんなこと言うのか。一体俺は何年越しの詐欺をするつもりなんだ』

榊が、呆れたとため息をつく。

「だって榊さん、顔だけはいいし」

『性格は悪いって?』

榊がからかうように返せば、美也はうっと言葉に詰まった。

榊は謎の多い人物だが、優しい人だとわかっている。

「そ、そんなことはないけど……」

『まあ、警戒していてくれた方がいい。俺も女性をたぶらかす奴だなんて噂が立つのは嫌だ』

特に悪く思っていないようで、榊はそんなことを言った。

「榊さん、ご近所で変な噂でもあるの?」

『いや? ないが……』

「そう、なら――」

美也が言いかけたとき、階段をあがってくる音がした。

二階に部屋を持つのは美也と従姉の奏(かなで)のみなので、奏が自分の部屋に来たのだろう。

おじやおばなら階下から大声で呼びつける。

そして、

「美也、コーヒー。カフェインないやつ」


「は、はい」

美也の部屋をノックもなく開けて用事を言いつけることも当たり前のようにやってくれる。

きっと勝手に入ってくるだろうな、とわかっていた美也は、さっと鏡をティッシュ箱の影に隠していた。

榊に挨拶もせずにしたことだが、いつものことなのでわかってくれているだろう。

最初、咄嗟に隠したときは申し訳なさが募ったし、何があったと心配もされたが、次に鏡で話したときに事情を説明したら、俺の事は気に病むなと励まされた。

奏は自分の部屋に入っていくので、部屋まで持って来いということだ。

本気で醤油をドバドバ注いだカップを持って行ってやろうと思ったが、醤油がなくなったら買い出しに行くのは美也なので、それはやめておいた。

本当に、榊という謎のある人だけど、こうやって愚痴をこぼせる相手がいるから、同じことを何度言っても鬱陶しがらずに励ましてくれるから、こうやってこの家でやってこられるのだと思う。

――かといって、いや、話を聞いて励ましてくれる人がいるからこそ、美也は弱気だけになることもなく、強気な気持ちを捨てることもなかったのかもしれない。

お湯を沸かしながらも、目の前にドリップバッグのコーヒーと醤油を並べるくらいには。

「半分くらい醤油でもいいんじゃ……」

暗い眼差しでぶつぶつ呟けるくらいには。

(ま。冗談ですが)

と心の中で言って、醤油をしまう。

(コーヒーくらい自分で淹れればいいのにって思うけど、裏を返せば私に押し付けてばかりだから自分では淹れ方も知らない人ってことなんだよね。むしろおかげ様で私は友達にも振る舞えるくらいコーヒー淹れが上達しましたよ)

朝、愛村家の三人が飲むように入れるコーヒーは豆からひいている。

以前友達の家にお邪魔したとき、お茶類が豆のコーヒーしかなく、友人が何か買ってくると出かけかかったところを、友人の了解をもらってコーヒーを淹れたら、こんなに美味しいのかと驚かれた。

それから、友人の家でもたまに淹れることがある。

同じコーヒーを淹れるという行為なのに、愛村の家でやるのはただ面倒で苦痛なのに対し、友人の家でコーヒーを淹れることは楽しい。

友人が、いつか自分も淹れられるようになりたい、と美也のやり方を凝視してくるのも面白いし、そのあと二人で飲むコーヒーも美味しいからだ。

愛村の家では、美也は勝手に飲食することは出来ない。

高校生になったらバイトが出来るところ、お金を貯めてこの家を出られるようにしたいと思っている中学三年生の、夏休みを目前に控えた七月だが、愛村の三人はことごとく美也を使用人扱いで勉強する時間が削られている。


三年生になってから一度行われた三者面談にはおばが来たが、「美也に無理はさせたくないから、レベルの合ったところを」と、優しいような、裏を返せば頑張る必要もないと言われたようなことを言った。

愛村の家から通える公立でバイトが許されているのは、美也がもっと頑張らないと入れないレベルのところしかない。

美也は頑張りたいのに、環境が許してくれない。

今年二十歳になる従姉の奏は私立の大学に通っているが、大して勉強もせずに遊びまわっているように見える。

そんな学生にはなりたくない美也だ。

そもそも、大学には行かずに働きに出る方が、美也にとっては現実的でもある。

淹れたコーヒーを持って、奏の部屋のドアをノックする。

「奏さん、コーヒー持ってきました」

そう声をかけると、

「うん」

という返事が。

「入っていいよ」くらいないのかと、このままドアにコーヒーぶっかけてやろうかと本気思いながら、どっちに転んでも大丈夫なように覚悟決めてドアを開けた。

奏から部屋に入るよう促しの言葉があってもなくても、その時の気分で怒られる結果はある。

選択肢は、部屋に入る、または、ドアの前に置いておく。

彼氏や友達とオンライン通信中だったら、勝手に入ったら怒られる。

スマホをいじっているだけだったら、ドアの前に置いたら怒られる。

察しろ、ということらしい。いや無理難題ふざけんな。

「失礼します」

まるで職員室にでも入るときのように言った。

中にいた奏は、テーブルとセットのデザインの椅子に膝を抱えるように座って、スマホをいじっていた。

悟られないようにほっと息をつく美也。

「どうぞ」

その言葉は奏に無視される。

そのまま音を立てないように、美也は奏の部屋を出た。

これで今日の雑用扱いは終わりだろう。

ちょっとだけ榊に連絡して、さっきのことを謝って、あとは勉強にあてよう。

おばがいくら美也の進路を決めようとしてきても、美也には美也の考えがある。

そして、それを曲げたくないという意思もある。

この気持ちの強さは、榊がずっとそばにいてくれたおかげだと思っている。

部屋に戻って、榊に連絡しようと鏡を取り出したところで、またいきなりドアが開いた。

てっきりもう呼ばれないと思っていたから、足音にも気を配っていなかった。

「ちょっと、ミルク入ってないじゃない。誰がブラック持って来いって言った」

「え……と……」


ミルク入れてこいとこそ言われていない、と反論したかったが、そんなことに意味はない。

それより今は――

「うん? 何持ってるのよ」

「!」

やばい、見つかった!

ちょうど榊にもらった鏡を手にしたところだったので、すぐに手放して落とすわけにもいかず、後ろ手に隠してしまった。

それを見られてしまった。

奏はずかずか部屋に入ってくる。

美也は一歩一歩後ずさり、ついには壁にぶつかってしまった。

「見せなさいよ」

「いや、これは……」

「いいから!」

普段美也は心の中で反発的なことを考えても、態度や口に出したことはなかった。

そんな美也が渋った様子に、奏は腹を立てたようだ。

無理やり美也の腕を掴んで、大事にかばっていた鏡を取り上げてしまった。

「綺麗な鏡じゃない。どうしたのよ、これ」

「その……友達からもらって……あの、大事なものなんです、だから――」

「それは大変ね。じゃああたしがもらってあげる」

「―――」

(は? 今、なんて言った、こいつ……)

奏は、美也から取り上げた綺麗な意匠の鏡の自分を映して上機嫌そうにしている。

「だってこんないいものあんたが持ってても宝の持ち腐れでしょ? あたしが使ってあげるから感謝しなさい」

感謝しなさい、とはどういう意味か。

愛村の家の自分勝手にはずいぶん付き合ってきたが、ここまで怒りを抱いたのは初めてだ。

「か――」

返してください。そう言わなくちゃ。

だが、怒りで震えているからか、のどがひくついて言葉がでてこない。

美也が固まっている間に、奏は出て行ってしまった。

閉まったドアを見て、美也の足から力が抜けでへたりこむ。

力ずくで取り返すどころか、「返して」の一言も言えなかった。

普段頭の中ではたくさん言い返してやり返す方法を思い浮かべていたのに、現実になれば自分はこんなにも無力で愚かしいのか。

「うそ……っ」


名前を呼びたかった。美也の、一番の味方。勇気の源みたいな人。

「ごめ……」

ごめんなさい。榊さんがくれた、私の宝物……あんな人に盗られてしまった。追いかけすら出来なかった。今も、涙で視界がにじんで、勇気が奮い立たない。返して、それは私のもの。私が元気になる、約束のあかし。

なのに。

……こんなにも自分は、弱かったのか。


+++


翌日、美也は朝から何度も奏に声をかけようとした。

鏡を返してください。大切な人からもらったものなんです。そう、言おうとして。

だが、奏を前にすると、おじやおばがいると、足が震えてしまって言葉が出てこなかった。

……自分はもっと、強い人間だと思っていた。

沈鬱な表情のまま、美也は中学校へ行くことになってしまった。

その様子に友達からも心配されたが、榊のことは誰にも言っていないので、話す気持ちにもなれなかった。

榊のことは、誰にも言いたくなかった。

幼い美也を救ってくれた、神様みたいな人。

昼休み、美也は裏庭の影で、ひとり膝を抱えていた。

どうやって取り返そうという考えには未だなれず、ただ、榊に申し訳ない、どう謝ればいいだろう、どうして私はこんなの優柔不断で弱いのだろうと、ひたすら自分を責めていた。

「……こんな私、いる意味あるのかな……」

かつて、命を否定される言葉を投げ掛けられた。

あのとき救ってくれたのが榊ではなかったら、命があったとしてもずっと死んだように生きていただろう。

ぐすり、と涙が浮かんできた。

榊とは、あの鏡を介して会話する以外には、学校から家への道のりでたまに会うこともあった。

いつも着物姿で、年齢不詳で、何をしているのかも不詳な人だったけど、助けてもらったことがあるからか、安心という気持ちを教えてくれた人でもある。

そして、一番安心する人でもあった。

「美也、何をしている」

名前を呼ばれて、美也は不思議に思いつつ顔をあげた。

男の声だったからだ。

美也に、下の名前で呼ばれるほど親しい男友達はいない。

顔をあげた先にいたのは――

「え……」


「どうした? 呆けた顔をして。間抜けだぞ」

からかうように言ってきたその顔は。

「さかき、さん……?」

「ああ」

だが、その恰好は。

「な、なんで男子の制服着てるの……?」

「俺が女生徒の制服を着ていたら問題だろう」

そういう問題ではない。何故榊がここにいるのかが問題なのだ。

榊は、当然のように美也の隣に腰をおろした。

「さかきさん……」

「先に言っておく。謝るな。……昨日、変な女が鏡に映った。あれ、お前の従姉だろう」

びくっと、美也の肩が揺れた。

「それでお前に何かあったと思って潜入してきた」

真剣な眼差しで言われて、美也は唇を噛んだ。

「あ、怒ってないからな? ただ……美也が心配だっただけだ」

榊の声が揺れている。

心配だったと、美也を案じて、学校に乗り込むなんてことまでしてくれる人。

――一人じゃない。榊はいつだって、そう教えてくれる。

中学生の制服を着ている大人の容姿の榊なのに、美形すぎる点以外不思議なところはなかった。

だが、今の美也の精神状態ではそこまで気が回らない。

膝を抱える美也に、榊は気づかわし気に言う。

「鏡なら、別のものを美也に渡せる。準備に少し時間はかかるが……」

鏡。説明するまでもなく、榊は知っていた。

代替品を、そう言われて、美也は唇を噛んだ。

「あれじゃないといけないんです」

「……いけない、とは?」

榊が訊いてくる。美也は、少し膝から額を離した。

「あれは、私が榊さんからもらった宝物です。あの鏡がいつも、私を榊さんのところへ連れて行ってくれました。だから……代わりがほしいわけじゃないんです。あの鏡が、私に必要なんです」

何ものにも替えがたい、宝物だった。

だから返してと言えなかった、行動出来なかった自分が腹立たしいし、情けない。

情けなさで唇を噛み切ってしまいそうだ。

「……取り返す気か?」

榊は静かな声で尋ねる。