8月13日。
あれから、季節が1回巡って、1年半が経った。
夏の照りつける日差しに僕は少しうんざりしながら、茉姫奈と一緒に立っていた。
いつ見ても茉姫奈は綺麗で、今日は白いワンピースを身にまとっていた。
茉姫奈の姿を見ると、Tシャツに長ズボンの僕が恥ずかしくなってくる。
容姿も、少し変わった。
茉姫奈は長い髪を切ってセミロングになった。
僕は伊達メガネを外して裸眼で生活している。
「久しぶり、元気? ····なんて、言ってみたかっただけなんだ。ごめんね、姉さん」
声をかけた先には、墓石があった。
綺麗に掃除された真新しい墓石には、桜山命依という文字が彫られていた。
大きな霊園のほんの一部に、姉さんは刻まれている。
姉さんは、4月までの余命が延びて、8月まで生きた。
命日は、姉さんの誕生日の日だった。
8月13日、今日は姉さんの2周忌の日。僕と茉姫奈は1つずつ大きな花を買って、墓の両端に置いてある、水の入った花瓶に置いて、そのまま線香をあげた。
そのまま、両手を合わせて祈りを姉さんに向けて捧げた。
涼しいのか生温いのか分からない風と、線香の独特な匂いが、お盆の季節がやってきたと身体で感じた。
「僕は、ちゃんと生きてるよ。茉姫奈と一緒に生きてる」
去年の葬式の日、姉さんの要望で直葬だけになった。
その現場には、親戚でもないけれどわざわざ茉姫奈や那由さんも来てくれて嬉しかった。
父は居たけれど、母は来なかった。
その日は雨とか、曇りとかじゃなくて、痛いくらいの快晴で、姉さんの本来芽生えていた綺麗な心のような天気だった。
その時も、まともに父と話なんてしていない。
「あの時、自慢されるような姉になるって言ってたけど、その前から、ずっと僕の自慢の姉さんだったよ。僕の背中を押してくれて、本当にありがとう」
あの後、茉姫奈と抱きしめあっていた時に、屋上に救急隊員が担架をもって数人押しかけてきた。
救急隊員を見たら何故か身体中が痛くなって、担架に乗せられてそのまま救急車で病院に搬送された。
精密検査の結果、全身打撲と頭の怪我だけだった。後々逆にそれだけで済んだのが奇跡だと医師から言われた。
あの後僕を轢いた男の人が病室に現れて、謝罪とともに賠償金と言って大金を封筒に入れて僕に渡してきた。流石に受け取れないし、実際言えば僕の不注意で起こした事故であったから、受け取れない旨を説明して、封筒を無理矢理押し返した。
男の人は悲しい顔で少し納得していない様子だったが、あちらの用語で僕なりの義理を呑んでくれたようで、恩は必ず返す事を伝えてくれた。
僕は、その言葉だけで嬉しかった。
何気ない言葉や、何気ない仕草に今は全てに温かさを感じていて、他人の感謝や、自分に対して向けてくる感情は全て僕の生きる原動力となっている。
そして、あの日を境に、色が見える事はもう無かった。
そんなものに頼らなくても、人をもう信じる事が出来るし、何が正しくて何が間違いかもちゃんと理解できる。
だから、もう今の僕には必要のない事だった。
「勉強もちゃんと頑張ってるよ、姉さんよりは良い大学じゃないけど。····今は僕より茉姫奈の方がすごい頑張ってるかな」
僕は進学して、東京で一人暮らしを始めた。
大学は姉さんが通っていた地元の国立大学····では無いけれど、東京のそこそこいい私立の大学に進学する事が出来た。
本当は高校から少し遠い場所にある大学に行こうとしていたけど、早くあの家から出たかったという理由で、東京に引っ越した。
茉姫奈は、東京の国立女子大に進学した。
当時の希死念慮を忘れずに、カウンセラーとして苦しんでいる人の助けになりたいという夢を抱いて大学で心理学を学んでいる。
そして、僕は····。
「玲依、小説家になったんですよ」
「たまたまだけど、出版出来ることになったんだ。人生どうなるか分からないよね」
何気なく今までの経験を小説に書き起こして賞に応募したら、新人賞を受賞してしまった。
今まで感じてきた自殺願望や、感じてきた惨めな思い、それでもその思いを必死に抱えて、死にたくても生きてさえいればそれでいいという僕なりのメッセージをネガティブになり過ぎないように綴った。
それが賞の人の目に留まり、新人賞という形で出版される事になってしまった。
当然、他の人と比べても文章力なんてある訳ないし、ただの自己満足のような小説だと思う。それを出版させてもらえる機会を貰ったことが今でも信じられない。
「完成した本、最初に姉さんに読んでもらおうと思って持ってきたんだ」
バッグから製本された小説を取りだして、姉さんの墓に立てる形にして置いた。
「シンプルな感じだけど、そこは許してよ」
シンプルで、2人の少年少女が描かれたイラストとタイトルが刻まれた本は、日差しに照らされて反射して、タイトルが見えなかった。
「玲依、そろそろ行こっか」
「そうだね」
茉姫奈の凜冽とした声に導かれて、バッグを肩にかけて横に顔を向けた時、見覚えのある顔が見えた。
こんな暑いのにスーツを着た父が、車椅子に乗せられた母を押しながらこちらに歩いてきていた。
母の痩せこけていた顔は、前よりかは膨らんでいて、虚ろだった目もすこし輝きを取り戻していた気がした。
思わず身体も親のいる方向に向けて、茉姫奈も察したのか僕の後ろでそちらを向く。僕が歩き出した時、茉姫奈も歩き出した。
思う事は、もはや何も無かった。
この前まで親に憎しみを抱いていたのに、今は何も感じなかった。人生を全部人のせいにして自分で変えようとしなかったからそう思っていただけで、今はやりたい事も見つかって、向かうべき未来も見つかった。
今思えば夢みたいな話で、あんなに心が荒んでいた僕が前向きに歩ける人間になって。
本当に人生は自分の選択でどっちに転ぶか分からない。
今は、殺したいくらい憎たらしかった親を、少しだけ許せるくらいには人間的には成長した。
親とすれ違う直前で、父は止まる。
「玲依」
僕も父の声に合わせて動きを止めた。
「命依に、挨拶は終えたのか」
「うん」
「そうか」
そのまま少しだけ時間が過ぎて、思いがけない人が口を開いた。
「玲依····あんた、今幸せ?」
声の主は、車椅子に座った母だった。
ずっとうつ病で隔離施設で生活してて、久しぶりに話した言葉が今の言葉で、僕は少し驚いた。
勿論、母にも叩かれた記憶はあるし、無視をされ続けて、愛を貰った覚えはない、だけど。
「幸せだよ」
それでも、僕を産んでくれた親という事には変わりなかった。
虐待を繰り返して、知らないフリをして僕に幸せかどうかを問うてくる····ここまで虫がいい親は居ないけれど、僕の人生は僕のものだ。親でも奪う事ができない強固なものだ。
だからもう、どうでもよかった。
「父さん、もうお金は送ってこなくてもいいから」
「そうか」
「僕は、幸せになるよ。姉さんの分までね」
「····なら、幸せになりなさい」
なんでもない顔をして返事をした父を見て、僕と茉姫奈は歩き出した。
その場で立ち止まったままの親を背に、僕らは歩き出して霊園の出口へ向かっていく。
それが何を意味するか、僕は言わなくても分かっていた。
横にいる茉姫奈を覗き込んだら、鮮やかな笑顔で僕の方を見た。
「玲依、メンタル強いよね」
「そういう問題かな」
「うん、そういう問題。今じゃ世界で1番頼りがいのある恋人だよ」
「昔は頼りなかったみたいなのやめて欲しいな、思い返すとそうだけど」
「あんな思い出すだけで顔が赤くなりそうな告白出来るんだもん、玲依って凄いよ」
「····君の事が本当に大切だから、あんな事言えたんだよ」
「うわ、こっちも顔赤くなるからやめてよほんとに!」
顔を両手で仰いで顔を赤らめている茉姫奈を見て、僕も自然と笑顔になった。
煩い蝉の音も、奥に見える陽炎も、夏の暑さに浸りながら、今は心地いいものだなと感じていた。
霊園を出て駐車場に出ると、タイミングを見計らったかのように黒塗りの外車が僕達の前に停車した。
緊張感が走って少し後ろに下がったが、咄嗟に記憶を辿ると見覚えのある車である事に気がついた。
重厚感のあるドアを勢いよく開けて車から出てきたのは、あの時僕を轢いた男だった。
あの時と同じくずっとサングラスと黒いスーツを着ていて、本当に表の社会の人間では無いなという確信を毎回させられる。
「よう兄ちゃん! 久しぶりやのぉ!」
「あぁ、お久しぶりです」
「玲依、知り合い?」
「クリスマスイブの日に、僕を轢いた人だよ」
「えっ」
一瞬、すこし怪訝な顔で茉姫奈は男を見ると、男は焦ったような面持ちですぐ茉姫奈の方に駆け寄って頭を下げた。
「あの時はすまん! 姉ちゃん、兄ちゃんの恋人やろ? ホンマに申し訳ないことしたわ、本当にすまん!」
そんなに謝るかと言うくらい頭を下げて謝ってきたので、茉姫奈も混乱していた。
「いや、もう過ぎたことですので」
僕が間に入って言うと、男は顔を上げて僕に抱きついてきた。
「兄ちゃんホンマにいい男やな!」
「いや、いきなり抱きつかれるのはちょっと」
そのまま腕が解けて、思い出した様に男は僕達に向かって言った。
「そうや、今日は“お嬢”と“付き人”もお参りしに来てるんや」
急ぐように車に駆け寄って後部座席のドアを開けると、思いがけない人物が2人、車から出てきた。
「茉姫奈! 久しぶり」
車から出てきたのは、なんと金城くんと、那由さんだった。
那由さんは胸に逆三角のロゴがついたデニムジャケットとジーンズを着ていて、へそが出ている形の艶かしいファッションだった。
「那由!」
茉姫奈が那由さんの方に駆け寄って抱きしめた。
当たり前だろう、1年間近く会ってなかった親友で、思いがけない再会だったはずだ。
那由さんは、あの後からずっと茉姫奈の事をちゃんと茉姫奈と呼んでいる。
「会いたかった、茉姫奈」
「わたしも」
その光景を後ろから金城くんは何も言わずに見ていた。
金城くんは男の人と変わらずスーツだったが、紺色に太めのストライプが入った艶のあるスーツを着ていた。見るからに高級感があって、雰囲気といい威圧感といい、少し怖い。
男の人の髪型や風貌も相まって、もはや裏社会の人間だと錯覚してしまう。
「那由さん、那由さんってもしや──」
まずい、と思った。
思わず口にしてしまった言葉で、那由さんは少し不機嫌な顔で僕を見た。
「ウチは“今はもう”普通の会社だから、勘違いしないで」
茉姫奈に抱きつきながら、まるで茉姫奈を守る猫のように僕に向かって眼孔を鋭くする。
「う····うん、分かった」
「そんな心配すんな兄ちゃん! 血腥い事なんて過去も今も何にもあらへん!」
あぁ、と少し分かってしまった気がした。
客観的に見たら威圧感しか感じない僕を轢いた男は、指こそ全部残っているが手の甲からはびっしり入った刺青が見えた。
あの時見えたものと同じだが、明るい時間帯で見てみると逆にそっちにしか目がいかなくなってしまう。
急に引っ越した理由や、少し最初孤立気味だった理由、それを考えるのは、今更だし、野暮な気がしたからこれ以上考えるのはやめた。
「桜····いや、玲依」
けど、何よりここに何故金城くんがいるのかが1番分からなかった。
身長が高いのはそのままで、それ以上に前より逞しくなった金城くんが僕の前に立つ。
前までは僕を苗字で呼んでたのに、名前で呼んでくれたことに少し驚いて身体が少し跳ねた。
「うん」
あの時から話していないし、何より気まずい。
金城くんの方を見ようと思っても、僕は目を合わせる事が出来なかった。
「すまなかった」
気まずかったのは、僕だけではなかったと思うと、少し嬉しくなった。
「もう気にしないで、金城くん」
「許して、くれるのか?」
「勿論だよ」
「良かったやんか! 垓!」
男は金城くんの肩を強く叩いて大きな声で笑った。
ていうか、金城くんの名前って垓っていうのか。
皆から名字でしか呼ばれてなかったから、彼の名前が知れたことに新鮮な気持ちになった。
「テツさん、暑苦しいっすよ」
「いいやないか、俺とお前さんの仲ってことで!」
「力強いんすよテツさん」
「兄ちゃん、過去は過去、今は今や。これからは垓と仲良くしてやってくれや」
色が見えなくてもわかる。
金城くんにはもう前のような狂気的な感情はなかった。不器用ながらにも優しさがあって、この人と出会って、那由さんと出会って更生したのだなと心から感じた。
「玲依君と茉姫奈の邪魔しちゃ悪いから、そろそろお参り行くよ、テツ、垓」
那由さんがそう言うと、さっきまでの雰囲気が嘘のように無くなって、2人は那由さんの後をつけるように向かっていった。
「今行きまっせお嬢! 俺が1番前や!」
「はいはい、垓、ほら早く!」
「那由、急ぎすぎだ」
那由さんも金城くんの事を名前で呼んでいて、違和感しか無かった。
「那由っていつ金城と付き合ったのかな」
「あのテツさんって人が金城くんを付き人って言ってたから、それが理由じゃないのかな」
「いや、ほら見て」
すこし遠くを見るような目で茉姫奈が2人の方を指を指すと、那由さんが金城くんの腕を手の甲で小突いて、金城くんは小指を差し出して、那由さんの小指だけを絡めた。
2人はそのまま小指だけ繋いで、隣り合って歩いていた。
僕から見たら、那由さんが右で、金城くんが左にいる。
「これは····愛だね!」
茉姫奈が照れながら僕を見る。
恥ずかしそうにしている茉姫奈を一瞥して、テツさんが先導してそのまま奥に歩いていく3人を見て、就中、那由さんと金城くんに少し違和感を感じた。
それも小指を繋ぐところも1番根元まで小指を絡めて繋いでいて、よく見たら2人とも爪があるような長さをしていない。
普通の人より、短い感じがしたのだ。
真意を聞こうとするのも違うし、僕が一瞬頭に過った事は茉姫奈に言わずに、自分の心の中に閉まっておこうと決めた。
「ねぇ玲依、色々ひと段落着いたし、いきなりだけど、これからどうしよっか」
茉姫奈の言葉で我に返った。
ここから、どうしようかと考えて、ふと行きたいと思ったところを思いついた。
「茉姫奈、ちょっと海に行かない?」
霊園を出て、レンタカーを走らせて霊園から1番近い海に着いた。
茉姫奈は海に着くや否や、サンダルのまま走り出して、勢いよく海の中に入り「玲依見て! めっちゃ冷たい!」と笑って、楽しそうにはしゃいでいる。
僕は、その微笑ましい光景を笑顔で見ながら、コンクリートの段差の上に座って、色々考えていた。
2年以上も前に出会う事が出来た縁····そもそもを思い出すと、10年以上も前から繋がっていたと考えると、今まで信じてこなかった運命という言葉や、赤い糸なんていうモノも信じるようにもなってしまう。
おもむろに、ワンピースをたくしあげて楽しそうにしている茉姫奈を見る。
やっぱり、茉姫奈からは何も見えなかった。
茉姫奈だけじゃない、あの日を境に人間が放つ、僕だけが見える色が消えていた。
色が見えなくなってから、世界は一層綺麗に見える所もあるし、美化されて、汚く見えるところもある。
今の世界はそのギャップが激しいから、いつの間にか人は傷ついて、死に溢れてしまうのかもしれない。
だから、僕は言えることがある。
死に1番近づいて、そして遠ざかった僕らだからこそ分かったことがある。
苦しくなるまで頑張らなくていい、死にたくなるまで背負おうとしなくていい。
本当に追い込まれた人間は、人が普通何も感じないような些細なことでも死にたくなってしまうし、そうなると自分自身も歯止めが効かなくなってしまうから。
自分に1番優しく出来るのは、紛れもない自分自身だ。
生きてればいい事がある、だからまだ生きてみなさい、なんてどんな聖人が言っても綺麗事で、無責任な言葉だ。
けど、絶対にいつか人は死ぬ。これは絶対に決まっていること。
けど、死ぬのはきっと今ではない。仮に過去に戻れることが出来て、過去の僕が自殺をしようしてるのを見たら、絶対に同じ事を言う。
幸せを知らなかった頃の僕に、幸せというものを教えてあげたい。
あの時、車に轢かれて、死にそうになるくらいまで走って、死が隣で僕の首を締め付けたから身をもって学んだことだ。
「玲依!」
茉姫奈が、僕のことを呼んだ。
はしゃいでいた茉姫奈は、砂浜でサンダルを脱ぎ捨てながら僕の方に向かってくる。
「一緒に歩こうよ」
髪をかきあげながら、僕に手を差し出した。
「いいね」
茉姫奈の提案に二つ返事で了承して、僕も立ち上がって差し出してきた茉姫奈の手を握った。
含羞の顔を見せながら口角を上げて、茉姫奈から絡めてくる手は、細くて、付き合ってから2年近く経っても慣れる気がしなかった。
夏の太陽も、少し傾き始めていて、紅い空が茉姫奈を美しく反射させて、影が出来る。
彼女の綺麗な金髪に反射した紅い煌めきは、どんな言葉にも変換しがたい玲瓏たるものだった。
一瞬見蕩れてしまって、手を繋いで歩きながら茉姫奈の髪を惚けた顔で見ているという恥ずかしい状況になってしまった。
まるで、世界がスローモーションになったみたいな。
「見すぎ」
恥ずかしそうに言う茉姫奈を見て、僕も恥ずかしくなって目を逸らしてしまう。
「····ごめん」
「まあでも、見られるの嫌いじゃないからいいよ」
「茉姫奈と丁度太陽が重なってたから」
「確かにそれは、わたしが玲依でも見ちゃうかも、なんかエモいよね」
「エモいって····」
「頭堅いなぁ」
「なんか、辛辣だね」
「このくらいがちょうど良くない?」
確かに、と思ってしまい笑みを零した。
「そうだね」
僕が笑ったら、茉姫奈も頬を少し赤くして、口元が緩んだような笑顔をした。
「····やっぱり、玲依の笑った顔、綺麗だよ」
「うん、ありがとう」
この一瞬を感じるだけで、生きてて良かった、と何度も思ってしまう。
人生を打ち切らずに、自然に死を待つ方が気持ちがいいものだと、感じれるようになった。
僕は茉姫奈と一緒に居る事が生きる意味になった。
でも、僕は大切な人を見つけたけれど、まだ見つける事が出来ない人や、孤独感に苛まれている人がきっと沢山いる。
だからこそ、いつか僕の言葉が産声をあげて、その綺麗事がきっと人に届いて、人を救う愛になると僕は信じてる。
あの時、日差しで見えなかった小説のタイトルは、ずっと思っていたことをタイトルとして認めた。
茉姫奈と出会う前まで、ずっと渦巻いていた感情。
“僕がずっと死にたかったのは”。
それが、僕が書いた小説のタイトルだ。
「茉姫奈」
僕は茉姫奈の名前を呼んで立ち止まり、茉姫奈も立ち止まる。
「僕と生きる選択を選んで、生きてて良かったって、思う?」
出てきた言葉は、自分でも言うのはおかしいけれど気持ち悪かった。
変な事を言った気がして、茉姫奈の顔が見れなかった。
言葉も重いし、人生の本質を突くような発言をしてしまってすぐに撤回したくなった。
僕自身、言っていることも病んでいるような言い方だし、何より茉姫奈に答えを強要している感じになってしまう。
「わたしね、あの時皆勤賞だった学校も休んで、死のうとしたこと、後悔してるんだ」
僕と出会う前に死のうとしていたあの日のこと。
あの日から、僕の止まっていた時間は動きだしたのかもしれない。
「人生は····きっと自分で死なない限り皆勤賞だと思う。だから、わたしは学校で取れなかった分、今度は玲依と皆勤賞取りたいな」
笑顔でそう言ってくれて、涙が出そうになる。
温かくて、とてつもなく大きい歓喜が僕の胸を満たして、息を苦しくさせる。
僕が息苦しいのは、生きづらいんじゃなくて、とてつもなく幸せだから。
茉姫奈が笑うのは、僕と生きるのが幸せだと感じてくれているから。
茉姫奈と恋人なれて思った事は、茉姫奈がマッキーだった頃、彼女の笑顔は何処か空っぽだったなと、すぐ感じた。
今は心から笑ってくれている事が分かる。
君を満たすのではなく、幸せで殺せるくらいの愛を。
今まで生きてきて、本当に良かったと思う。
そしてこれからも、生きてきて良かったなと思う瞬間は数え切れないくらいある。
「そうだね。ありがとう」
だから。
これからも。
「茉姫奈」
僕は、茉姫奈の手をもう一度握り直して言った。
「素敵に生きよう」
ここからは、“僕達”の物語だ。
生きて、生きて。
生き抜いて。
惨めに生きて。
素敵に生きて。
そして死ぬべき時に死ねばいい。
それが、僕が導き出した生きる意味。
どうか、生きる価値がないなんて思わないで。
どうか、自分はどうせ、なんて思わないで。
僕からしたら、生きてるってだけで頑張ってるから。
だから、僕からしたら生きているだけで偉いんだよ。
きっと、頑張ってるのに報われない人も、苦しんでいる人も、死にたいって思っている人も沢山いる。
その気持ちと戦いながら、今でも頑張って生きている。
そうやって死にたい気持ちと戦って、辛い思いを背負っているのは、逃げずに戦っているから。
普通、そんなことは出来ない。
すごい勇気のある人だ。
とても強い人だ。
そして、底がないほど優しい人だ。
そんなことが出来る強い人を、僕は絶対に笑わないし見捨てない。
だからその頑張りすぎて黒くなった心を、僕に預けて、綺麗にして返して、また歩き出せる勇気を与えることが出来るような人間になりたい。
言葉で、生命は救えない。
けど、心を救う事は出来るから。
憎んだっていい、怒ったっていい、時には辛くて逃げたっていいんだ。
だけど、人を愛することは、絶対に忘れてはいけない。
言葉は願いではなく、祈りなんだ。
僕が死んでも、その祈りは死ぬ事は決してないから。
だから、生きていく。
姉さんの分まで、繋がった生命を、紡いでいく。
祈りを届けるために、これからも2人で生きていく。
どこまでも続いていく水平線、夕焼けが水平線の曲線に反射して玲瓏たる煌めきを灯し続けている。
その美しい世界には、僕と茉姫奈の2人。
波の音しか聞こえない美しい世界。
茉姫奈が笑った。
あまりにも綺麗に笑うから、僕も自然と笑顔になってしまう。
「行こっ」
「うん」
砂浜を歩いていく。
どこまでも続いている砂浜を、最愛の君と、どこまでも歩いていく。
僕は、君が好きだ。
理由なんていらないのだ。
好きな人を好きでいるのに、理由なんていらない。
ただ、愛してる。それだけで全てを陳腐に出来る。
その気持ちがあれば、あとは全部いらない。
だから、これからは。
正解のない旅をしよう。
人生に正解なんてないから、僕らなりの正解を見つけ出す旅をしよう。
どんな事があっても、僕らなら大丈夫。
もう幸せになることを、怖がる必要なんてないんだ。
この世界を、この日常をこれから少しでも愛せるように。
僕の選択は、絶対に間違ってないと確信できる。
幸せになろう。
張り裂けそうな心が、そう叫んでるんだ。
僕は、君と一緒ならどこまでも行ける。
ずっと、一緒に旅をし続けよう。
永遠に手を繋いで生きていこう。
幸せを抱きしめながら、これからも歩き続けよう。
どこまでも、
どこまでも。
あれから、季節が1回巡って、1年半が経った。
夏の照りつける日差しに僕は少しうんざりしながら、茉姫奈と一緒に立っていた。
いつ見ても茉姫奈は綺麗で、今日は白いワンピースを身にまとっていた。
茉姫奈の姿を見ると、Tシャツに長ズボンの僕が恥ずかしくなってくる。
容姿も、少し変わった。
茉姫奈は長い髪を切ってセミロングになった。
僕は伊達メガネを外して裸眼で生活している。
「久しぶり、元気? ····なんて、言ってみたかっただけなんだ。ごめんね、姉さん」
声をかけた先には、墓石があった。
綺麗に掃除された真新しい墓石には、桜山命依という文字が彫られていた。
大きな霊園のほんの一部に、姉さんは刻まれている。
姉さんは、4月までの余命が延びて、8月まで生きた。
命日は、姉さんの誕生日の日だった。
8月13日、今日は姉さんの2周忌の日。僕と茉姫奈は1つずつ大きな花を買って、墓の両端に置いてある、水の入った花瓶に置いて、そのまま線香をあげた。
そのまま、両手を合わせて祈りを姉さんに向けて捧げた。
涼しいのか生温いのか分からない風と、線香の独特な匂いが、お盆の季節がやってきたと身体で感じた。
「僕は、ちゃんと生きてるよ。茉姫奈と一緒に生きてる」
去年の葬式の日、姉さんの要望で直葬だけになった。
その現場には、親戚でもないけれどわざわざ茉姫奈や那由さんも来てくれて嬉しかった。
父は居たけれど、母は来なかった。
その日は雨とか、曇りとかじゃなくて、痛いくらいの快晴で、姉さんの本来芽生えていた綺麗な心のような天気だった。
その時も、まともに父と話なんてしていない。
「あの時、自慢されるような姉になるって言ってたけど、その前から、ずっと僕の自慢の姉さんだったよ。僕の背中を押してくれて、本当にありがとう」
あの後、茉姫奈と抱きしめあっていた時に、屋上に救急隊員が担架をもって数人押しかけてきた。
救急隊員を見たら何故か身体中が痛くなって、担架に乗せられてそのまま救急車で病院に搬送された。
精密検査の結果、全身打撲と頭の怪我だけだった。後々逆にそれだけで済んだのが奇跡だと医師から言われた。
あの後僕を轢いた男の人が病室に現れて、謝罪とともに賠償金と言って大金を封筒に入れて僕に渡してきた。流石に受け取れないし、実際言えば僕の不注意で起こした事故であったから、受け取れない旨を説明して、封筒を無理矢理押し返した。
男の人は悲しい顔で少し納得していない様子だったが、あちらの用語で僕なりの義理を呑んでくれたようで、恩は必ず返す事を伝えてくれた。
僕は、その言葉だけで嬉しかった。
何気ない言葉や、何気ない仕草に今は全てに温かさを感じていて、他人の感謝や、自分に対して向けてくる感情は全て僕の生きる原動力となっている。
そして、あの日を境に、色が見える事はもう無かった。
そんなものに頼らなくても、人をもう信じる事が出来るし、何が正しくて何が間違いかもちゃんと理解できる。
だから、もう今の僕には必要のない事だった。
「勉強もちゃんと頑張ってるよ、姉さんよりは良い大学じゃないけど。····今は僕より茉姫奈の方がすごい頑張ってるかな」
僕は進学して、東京で一人暮らしを始めた。
大学は姉さんが通っていた地元の国立大学····では無いけれど、東京のそこそこいい私立の大学に進学する事が出来た。
本当は高校から少し遠い場所にある大学に行こうとしていたけど、早くあの家から出たかったという理由で、東京に引っ越した。
茉姫奈は、東京の国立女子大に進学した。
当時の希死念慮を忘れずに、カウンセラーとして苦しんでいる人の助けになりたいという夢を抱いて大学で心理学を学んでいる。
そして、僕は····。
「玲依、小説家になったんですよ」
「たまたまだけど、出版出来ることになったんだ。人生どうなるか分からないよね」
何気なく今までの経験を小説に書き起こして賞に応募したら、新人賞を受賞してしまった。
今まで感じてきた自殺願望や、感じてきた惨めな思い、それでもその思いを必死に抱えて、死にたくても生きてさえいればそれでいいという僕なりのメッセージをネガティブになり過ぎないように綴った。
それが賞の人の目に留まり、新人賞という形で出版される事になってしまった。
当然、他の人と比べても文章力なんてある訳ないし、ただの自己満足のような小説だと思う。それを出版させてもらえる機会を貰ったことが今でも信じられない。
「完成した本、最初に姉さんに読んでもらおうと思って持ってきたんだ」
バッグから製本された小説を取りだして、姉さんの墓に立てる形にして置いた。
「シンプルな感じだけど、そこは許してよ」
シンプルで、2人の少年少女が描かれたイラストとタイトルが刻まれた本は、日差しに照らされて反射して、タイトルが見えなかった。
「玲依、そろそろ行こっか」
「そうだね」
茉姫奈の凜冽とした声に導かれて、バッグを肩にかけて横に顔を向けた時、見覚えのある顔が見えた。
こんな暑いのにスーツを着た父が、車椅子に乗せられた母を押しながらこちらに歩いてきていた。
母の痩せこけていた顔は、前よりかは膨らんでいて、虚ろだった目もすこし輝きを取り戻していた気がした。
思わず身体も親のいる方向に向けて、茉姫奈も察したのか僕の後ろでそちらを向く。僕が歩き出した時、茉姫奈も歩き出した。
思う事は、もはや何も無かった。
この前まで親に憎しみを抱いていたのに、今は何も感じなかった。人生を全部人のせいにして自分で変えようとしなかったからそう思っていただけで、今はやりたい事も見つかって、向かうべき未来も見つかった。
今思えば夢みたいな話で、あんなに心が荒んでいた僕が前向きに歩ける人間になって。
本当に人生は自分の選択でどっちに転ぶか分からない。
今は、殺したいくらい憎たらしかった親を、少しだけ許せるくらいには人間的には成長した。
親とすれ違う直前で、父は止まる。
「玲依」
僕も父の声に合わせて動きを止めた。
「命依に、挨拶は終えたのか」
「うん」
「そうか」
そのまま少しだけ時間が過ぎて、思いがけない人が口を開いた。
「玲依····あんた、今幸せ?」
声の主は、車椅子に座った母だった。
ずっとうつ病で隔離施設で生活してて、久しぶりに話した言葉が今の言葉で、僕は少し驚いた。
勿論、母にも叩かれた記憶はあるし、無視をされ続けて、愛を貰った覚えはない、だけど。
「幸せだよ」
それでも、僕を産んでくれた親という事には変わりなかった。
虐待を繰り返して、知らないフリをして僕に幸せかどうかを問うてくる····ここまで虫がいい親は居ないけれど、僕の人生は僕のものだ。親でも奪う事ができない強固なものだ。
だからもう、どうでもよかった。
「父さん、もうお金は送ってこなくてもいいから」
「そうか」
「僕は、幸せになるよ。姉さんの分までね」
「····なら、幸せになりなさい」
なんでもない顔をして返事をした父を見て、僕と茉姫奈は歩き出した。
その場で立ち止まったままの親を背に、僕らは歩き出して霊園の出口へ向かっていく。
それが何を意味するか、僕は言わなくても分かっていた。
横にいる茉姫奈を覗き込んだら、鮮やかな笑顔で僕の方を見た。
「玲依、メンタル強いよね」
「そういう問題かな」
「うん、そういう問題。今じゃ世界で1番頼りがいのある恋人だよ」
「昔は頼りなかったみたいなのやめて欲しいな、思い返すとそうだけど」
「あんな思い出すだけで顔が赤くなりそうな告白出来るんだもん、玲依って凄いよ」
「····君の事が本当に大切だから、あんな事言えたんだよ」
「うわ、こっちも顔赤くなるからやめてよほんとに!」
顔を両手で仰いで顔を赤らめている茉姫奈を見て、僕も自然と笑顔になった。
煩い蝉の音も、奥に見える陽炎も、夏の暑さに浸りながら、今は心地いいものだなと感じていた。
霊園を出て駐車場に出ると、タイミングを見計らったかのように黒塗りの外車が僕達の前に停車した。
緊張感が走って少し後ろに下がったが、咄嗟に記憶を辿ると見覚えのある車である事に気がついた。
重厚感のあるドアを勢いよく開けて車から出てきたのは、あの時僕を轢いた男だった。
あの時と同じくずっとサングラスと黒いスーツを着ていて、本当に表の社会の人間では無いなという確信を毎回させられる。
「よう兄ちゃん! 久しぶりやのぉ!」
「あぁ、お久しぶりです」
「玲依、知り合い?」
「クリスマスイブの日に、僕を轢いた人だよ」
「えっ」
一瞬、すこし怪訝な顔で茉姫奈は男を見ると、男は焦ったような面持ちですぐ茉姫奈の方に駆け寄って頭を下げた。
「あの時はすまん! 姉ちゃん、兄ちゃんの恋人やろ? ホンマに申し訳ないことしたわ、本当にすまん!」
そんなに謝るかと言うくらい頭を下げて謝ってきたので、茉姫奈も混乱していた。
「いや、もう過ぎたことですので」
僕が間に入って言うと、男は顔を上げて僕に抱きついてきた。
「兄ちゃんホンマにいい男やな!」
「いや、いきなり抱きつかれるのはちょっと」
そのまま腕が解けて、思い出した様に男は僕達に向かって言った。
「そうや、今日は“お嬢”と“付き人”もお参りしに来てるんや」
急ぐように車に駆け寄って後部座席のドアを開けると、思いがけない人物が2人、車から出てきた。
「茉姫奈! 久しぶり」
車から出てきたのは、なんと金城くんと、那由さんだった。
那由さんは胸に逆三角のロゴがついたデニムジャケットとジーンズを着ていて、へそが出ている形の艶かしいファッションだった。
「那由!」
茉姫奈が那由さんの方に駆け寄って抱きしめた。
当たり前だろう、1年間近く会ってなかった親友で、思いがけない再会だったはずだ。
那由さんは、あの後からずっと茉姫奈の事をちゃんと茉姫奈と呼んでいる。
「会いたかった、茉姫奈」
「わたしも」
その光景を後ろから金城くんは何も言わずに見ていた。
金城くんは男の人と変わらずスーツだったが、紺色に太めのストライプが入った艶のあるスーツを着ていた。見るからに高級感があって、雰囲気といい威圧感といい、少し怖い。
男の人の髪型や風貌も相まって、もはや裏社会の人間だと錯覚してしまう。
「那由さん、那由さんってもしや──」
まずい、と思った。
思わず口にしてしまった言葉で、那由さんは少し不機嫌な顔で僕を見た。
「ウチは“今はもう”普通の会社だから、勘違いしないで」
茉姫奈に抱きつきながら、まるで茉姫奈を守る猫のように僕に向かって眼孔を鋭くする。
「う····うん、分かった」
「そんな心配すんな兄ちゃん! 血腥い事なんて過去も今も何にもあらへん!」
あぁ、と少し分かってしまった気がした。
客観的に見たら威圧感しか感じない僕を轢いた男は、指こそ全部残っているが手の甲からはびっしり入った刺青が見えた。
あの時見えたものと同じだが、明るい時間帯で見てみると逆にそっちにしか目がいかなくなってしまう。
急に引っ越した理由や、少し最初孤立気味だった理由、それを考えるのは、今更だし、野暮な気がしたからこれ以上考えるのはやめた。
「桜····いや、玲依」
けど、何よりここに何故金城くんがいるのかが1番分からなかった。
身長が高いのはそのままで、それ以上に前より逞しくなった金城くんが僕の前に立つ。
前までは僕を苗字で呼んでたのに、名前で呼んでくれたことに少し驚いて身体が少し跳ねた。
「うん」
あの時から話していないし、何より気まずい。
金城くんの方を見ようと思っても、僕は目を合わせる事が出来なかった。
「すまなかった」
気まずかったのは、僕だけではなかったと思うと、少し嬉しくなった。
「もう気にしないで、金城くん」
「許して、くれるのか?」
「勿論だよ」
「良かったやんか! 垓!」
男は金城くんの肩を強く叩いて大きな声で笑った。
ていうか、金城くんの名前って垓っていうのか。
皆から名字でしか呼ばれてなかったから、彼の名前が知れたことに新鮮な気持ちになった。
「テツさん、暑苦しいっすよ」
「いいやないか、俺とお前さんの仲ってことで!」
「力強いんすよテツさん」
「兄ちゃん、過去は過去、今は今や。これからは垓と仲良くしてやってくれや」
色が見えなくてもわかる。
金城くんにはもう前のような狂気的な感情はなかった。不器用ながらにも優しさがあって、この人と出会って、那由さんと出会って更生したのだなと心から感じた。
「玲依君と茉姫奈の邪魔しちゃ悪いから、そろそろお参り行くよ、テツ、垓」
那由さんがそう言うと、さっきまでの雰囲気が嘘のように無くなって、2人は那由さんの後をつけるように向かっていった。
「今行きまっせお嬢! 俺が1番前や!」
「はいはい、垓、ほら早く!」
「那由、急ぎすぎだ」
那由さんも金城くんの事を名前で呼んでいて、違和感しか無かった。
「那由っていつ金城と付き合ったのかな」
「あのテツさんって人が金城くんを付き人って言ってたから、それが理由じゃないのかな」
「いや、ほら見て」
すこし遠くを見るような目で茉姫奈が2人の方を指を指すと、那由さんが金城くんの腕を手の甲で小突いて、金城くんは小指を差し出して、那由さんの小指だけを絡めた。
2人はそのまま小指だけ繋いで、隣り合って歩いていた。
僕から見たら、那由さんが右で、金城くんが左にいる。
「これは····愛だね!」
茉姫奈が照れながら僕を見る。
恥ずかしそうにしている茉姫奈を一瞥して、テツさんが先導してそのまま奥に歩いていく3人を見て、就中、那由さんと金城くんに少し違和感を感じた。
それも小指を繋ぐところも1番根元まで小指を絡めて繋いでいて、よく見たら2人とも爪があるような長さをしていない。
普通の人より、短い感じがしたのだ。
真意を聞こうとするのも違うし、僕が一瞬頭に過った事は茉姫奈に言わずに、自分の心の中に閉まっておこうと決めた。
「ねぇ玲依、色々ひと段落着いたし、いきなりだけど、これからどうしよっか」
茉姫奈の言葉で我に返った。
ここから、どうしようかと考えて、ふと行きたいと思ったところを思いついた。
「茉姫奈、ちょっと海に行かない?」
霊園を出て、レンタカーを走らせて霊園から1番近い海に着いた。
茉姫奈は海に着くや否や、サンダルのまま走り出して、勢いよく海の中に入り「玲依見て! めっちゃ冷たい!」と笑って、楽しそうにはしゃいでいる。
僕は、その微笑ましい光景を笑顔で見ながら、コンクリートの段差の上に座って、色々考えていた。
2年以上も前に出会う事が出来た縁····そもそもを思い出すと、10年以上も前から繋がっていたと考えると、今まで信じてこなかった運命という言葉や、赤い糸なんていうモノも信じるようにもなってしまう。
おもむろに、ワンピースをたくしあげて楽しそうにしている茉姫奈を見る。
やっぱり、茉姫奈からは何も見えなかった。
茉姫奈だけじゃない、あの日を境に人間が放つ、僕だけが見える色が消えていた。
色が見えなくなってから、世界は一層綺麗に見える所もあるし、美化されて、汚く見えるところもある。
今の世界はそのギャップが激しいから、いつの間にか人は傷ついて、死に溢れてしまうのかもしれない。
だから、僕は言えることがある。
死に1番近づいて、そして遠ざかった僕らだからこそ分かったことがある。
苦しくなるまで頑張らなくていい、死にたくなるまで背負おうとしなくていい。
本当に追い込まれた人間は、人が普通何も感じないような些細なことでも死にたくなってしまうし、そうなると自分自身も歯止めが効かなくなってしまうから。
自分に1番優しく出来るのは、紛れもない自分自身だ。
生きてればいい事がある、だからまだ生きてみなさい、なんてどんな聖人が言っても綺麗事で、無責任な言葉だ。
けど、絶対にいつか人は死ぬ。これは絶対に決まっていること。
けど、死ぬのはきっと今ではない。仮に過去に戻れることが出来て、過去の僕が自殺をしようしてるのを見たら、絶対に同じ事を言う。
幸せを知らなかった頃の僕に、幸せというものを教えてあげたい。
あの時、車に轢かれて、死にそうになるくらいまで走って、死が隣で僕の首を締め付けたから身をもって学んだことだ。
「玲依!」
茉姫奈が、僕のことを呼んだ。
はしゃいでいた茉姫奈は、砂浜でサンダルを脱ぎ捨てながら僕の方に向かってくる。
「一緒に歩こうよ」
髪をかきあげながら、僕に手を差し出した。
「いいね」
茉姫奈の提案に二つ返事で了承して、僕も立ち上がって差し出してきた茉姫奈の手を握った。
含羞の顔を見せながら口角を上げて、茉姫奈から絡めてくる手は、細くて、付き合ってから2年近く経っても慣れる気がしなかった。
夏の太陽も、少し傾き始めていて、紅い空が茉姫奈を美しく反射させて、影が出来る。
彼女の綺麗な金髪に反射した紅い煌めきは、どんな言葉にも変換しがたい玲瓏たるものだった。
一瞬見蕩れてしまって、手を繋いで歩きながら茉姫奈の髪を惚けた顔で見ているという恥ずかしい状況になってしまった。
まるで、世界がスローモーションになったみたいな。
「見すぎ」
恥ずかしそうに言う茉姫奈を見て、僕も恥ずかしくなって目を逸らしてしまう。
「····ごめん」
「まあでも、見られるの嫌いじゃないからいいよ」
「茉姫奈と丁度太陽が重なってたから」
「確かにそれは、わたしが玲依でも見ちゃうかも、なんかエモいよね」
「エモいって····」
「頭堅いなぁ」
「なんか、辛辣だね」
「このくらいがちょうど良くない?」
確かに、と思ってしまい笑みを零した。
「そうだね」
僕が笑ったら、茉姫奈も頬を少し赤くして、口元が緩んだような笑顔をした。
「····やっぱり、玲依の笑った顔、綺麗だよ」
「うん、ありがとう」
この一瞬を感じるだけで、生きてて良かった、と何度も思ってしまう。
人生を打ち切らずに、自然に死を待つ方が気持ちがいいものだと、感じれるようになった。
僕は茉姫奈と一緒に居る事が生きる意味になった。
でも、僕は大切な人を見つけたけれど、まだ見つける事が出来ない人や、孤独感に苛まれている人がきっと沢山いる。
だからこそ、いつか僕の言葉が産声をあげて、その綺麗事がきっと人に届いて、人を救う愛になると僕は信じてる。
あの時、日差しで見えなかった小説のタイトルは、ずっと思っていたことをタイトルとして認めた。
茉姫奈と出会う前まで、ずっと渦巻いていた感情。
“僕がずっと死にたかったのは”。
それが、僕が書いた小説のタイトルだ。
「茉姫奈」
僕は茉姫奈の名前を呼んで立ち止まり、茉姫奈も立ち止まる。
「僕と生きる選択を選んで、生きてて良かったって、思う?」
出てきた言葉は、自分でも言うのはおかしいけれど気持ち悪かった。
変な事を言った気がして、茉姫奈の顔が見れなかった。
言葉も重いし、人生の本質を突くような発言をしてしまってすぐに撤回したくなった。
僕自身、言っていることも病んでいるような言い方だし、何より茉姫奈に答えを強要している感じになってしまう。
「わたしね、あの時皆勤賞だった学校も休んで、死のうとしたこと、後悔してるんだ」
僕と出会う前に死のうとしていたあの日のこと。
あの日から、僕の止まっていた時間は動きだしたのかもしれない。
「人生は····きっと自分で死なない限り皆勤賞だと思う。だから、わたしは学校で取れなかった分、今度は玲依と皆勤賞取りたいな」
笑顔でそう言ってくれて、涙が出そうになる。
温かくて、とてつもなく大きい歓喜が僕の胸を満たして、息を苦しくさせる。
僕が息苦しいのは、生きづらいんじゃなくて、とてつもなく幸せだから。
茉姫奈が笑うのは、僕と生きるのが幸せだと感じてくれているから。
茉姫奈と恋人なれて思った事は、茉姫奈がマッキーだった頃、彼女の笑顔は何処か空っぽだったなと、すぐ感じた。
今は心から笑ってくれている事が分かる。
君を満たすのではなく、幸せで殺せるくらいの愛を。
今まで生きてきて、本当に良かったと思う。
そしてこれからも、生きてきて良かったなと思う瞬間は数え切れないくらいある。
「そうだね。ありがとう」
だから。
これからも。
「茉姫奈」
僕は、茉姫奈の手をもう一度握り直して言った。
「素敵に生きよう」
ここからは、“僕達”の物語だ。
生きて、生きて。
生き抜いて。
惨めに生きて。
素敵に生きて。
そして死ぬべき時に死ねばいい。
それが、僕が導き出した生きる意味。
どうか、生きる価値がないなんて思わないで。
どうか、自分はどうせ、なんて思わないで。
僕からしたら、生きてるってだけで頑張ってるから。
だから、僕からしたら生きているだけで偉いんだよ。
きっと、頑張ってるのに報われない人も、苦しんでいる人も、死にたいって思っている人も沢山いる。
その気持ちと戦いながら、今でも頑張って生きている。
そうやって死にたい気持ちと戦って、辛い思いを背負っているのは、逃げずに戦っているから。
普通、そんなことは出来ない。
すごい勇気のある人だ。
とても強い人だ。
そして、底がないほど優しい人だ。
そんなことが出来る強い人を、僕は絶対に笑わないし見捨てない。
だからその頑張りすぎて黒くなった心を、僕に預けて、綺麗にして返して、また歩き出せる勇気を与えることが出来るような人間になりたい。
言葉で、生命は救えない。
けど、心を救う事は出来るから。
憎んだっていい、怒ったっていい、時には辛くて逃げたっていいんだ。
だけど、人を愛することは、絶対に忘れてはいけない。
言葉は願いではなく、祈りなんだ。
僕が死んでも、その祈りは死ぬ事は決してないから。
だから、生きていく。
姉さんの分まで、繋がった生命を、紡いでいく。
祈りを届けるために、これからも2人で生きていく。
どこまでも続いていく水平線、夕焼けが水平線の曲線に反射して玲瓏たる煌めきを灯し続けている。
その美しい世界には、僕と茉姫奈の2人。
波の音しか聞こえない美しい世界。
茉姫奈が笑った。
あまりにも綺麗に笑うから、僕も自然と笑顔になってしまう。
「行こっ」
「うん」
砂浜を歩いていく。
どこまでも続いている砂浜を、最愛の君と、どこまでも歩いていく。
僕は、君が好きだ。
理由なんていらないのだ。
好きな人を好きでいるのに、理由なんていらない。
ただ、愛してる。それだけで全てを陳腐に出来る。
その気持ちがあれば、あとは全部いらない。
だから、これからは。
正解のない旅をしよう。
人生に正解なんてないから、僕らなりの正解を見つけ出す旅をしよう。
どんな事があっても、僕らなら大丈夫。
もう幸せになることを、怖がる必要なんてないんだ。
この世界を、この日常をこれから少しでも愛せるように。
僕の選択は、絶対に間違ってないと確信できる。
幸せになろう。
張り裂けそうな心が、そう叫んでるんだ。
僕は、君と一緒ならどこまでも行ける。
ずっと、一緒に旅をし続けよう。
永遠に手を繋いで生きていこう。
幸せを抱きしめながら、これからも歩き続けよう。
どこまでも、
どこまでも。