世界が白んでいた。
だからなのだろうか。
一瞬で夢だと分かった。
自分1人だけの世界、僕1人だけの····僕が中心の世界。白黒の風景に、1人佇んだ誰か。その『誰か』も、しばらく見ることは無かった僕を殺していた張本人だとすぐに分かった。
影ではなかった。もう形がはっきりしていて、あとは顔だけだった。
突拍子もないタイミングで出てくるから、少し驚いて夢の中でも調子が狂いそうになる。
『誰か』は、真っ白な銀色を片手に持って、僕を真っ直ぐ見つめている。
この銀色は夢の中でだけれど、よく切れる。
一瞬で僕の心臓を貫いて、貫いても尚身体をぐちゃぐちゃに切り裂いていく、僕からしたらトラウマでしかない鋭利だ。
『誰か』は、じっと僕を見つめている。
でも、顔も分からない。
夢で腐るほどあってきた影であり、『誰か』だけど、僕にとっては胡乱な者には変わりなかった。
実際、白黒の風景に夢の中でも放り込まれているからか、感覚が麻痺しそうだった。目覚めた後に見える色付いた世界は、きっと美しくて、そしてきっと見るに堪えないくらい汚い。
声も、身体も動く感覚がある。
明晰夢だ。なら身動きが取れなかったあの時とは違う。
「ねぇ、君は?」
『······』
『誰か』は、素顔も見せずに僕の方を向いたまま動かない。
銀色を持っている手も力が入る素振りもないし、今の所、殺意の様なものは感じない。
「君は····一体誰なんだ?」
『ねぇ』
声を発した。
空気が変わったみたいに、僕の心臓が跳ねて、少し身体に力が入る。
少し声は高くて、声変わり途中のようなどこか懐かしい声だった。
『僕の事──』
「····?」
『誰か』は、走って僕の肩を掴みにかかった。
僕も驚いて、身動きが取れなかった。そのまま肩を掴まれる。
変にリアルで、力を入れて掴まれる肩は、鈍い痛みが体に拡がった。
すごい痛いわけじゃない、夢でたまに感じるリアルな痛みのような何かが僕の肩から伝播していった。
「君は、なんなんだ?」
『──』
僕の問いに、『誰か』は何も答えない。
でも、少し顔が見えた気がした。
見た事のある口元、不思議と懐かしい匂いがした。
『──僕は』
そしてそのまま、景色が真っ暗になって意識が浮上した。
目が覚めても、見える世界はそのままで、なにか部屋が変わっているかと言われても変わっていない。強いて言うなら本が増えた事だ。
それも自分の境遇や、共感を自分で求めて、自己満足する様な、自殺願望を求めた小説や漫画ではなくて、自分の未来や、他人に勇気を与えることが出来るような、前向きな本。
小説でもエッセイでも漫画でも、なんでも、自分が理想とする人生、人間が理想とするような人生が綴られた作品を読むことが増えた。
1年近く、状況が変わり続けて、その中で自分の気持ちにも変化があって。
もう、死にたいなんて思わなくなっていた自分に気がついた時には、少し驚いた。
前までは、何かあったら死に繋がるような考え方をしてたけれど、今はその自分の失敗も反省して、次に進もうとするマインドに変わっていた。
そのままベッドの毛布から起き上がって、カーテンがしまっていない窓を見つめて、そこから見える自分の部屋より低いビルや道路を、ただ漠然と見つめていた。
まだ朝なのに車通りが多くて、ビルの電気が薄らと中を灯している、人影は見えないけれど、ただ無機質に灯りが所々灯っている──そんな日常的な風景。そんな都会のビルやネオン····そこを客観的に見た時に見える夜景も、きっと残業で出来ているだけ。
そして街を少し離れた先には孤独なホームレスが暮らしている地域や、刑務所、この街のどこかにも、人倫を全て否定された様な人間もいる。
太陽も出ていない朝の空を見上げて、溜息を吐き捨てる。おもむろに携帯の時計を見てみると、6時を回ったくらいだった。
それでも外は薄暗い。
今日は、12月24日。
そして、あの日からもずっと父は家に帰ってくる事はなかった。
「····クリスマスって感じ」
今日はクリスマスイヴだ。
真冬だけど、まだ雪が頻繁に降るわけじゃない。
冬は僕にとっては嫌いな季節で、特にクリスマスイヴやクリスマスは今でも思い出してしまう。
他人は嬉しそうにしていて、僕は疲弊しきった心と身体を引きずって家に帰っていく光景。あの時、世界中の人間が憎たらしくてたまらなかった。
「······」
寒さを感じれば感じる程、あの時の感情を思い出しそうになる。
「──寝よう」
でも、もう違う。
沢山の出会いがあって、沢山の“知らない”に触れて、沢山の感情に気が付けた。
その事実があるだけで、僕はもう前の自分戻ることは無い。
再び布団に潜って、温かさから来る微睡みの中で、そんなことを考えていた。
タワーマンションの前で待ち合わせはこの季節になっても変わっていなくて、すっかり僕もこの環境に慣れてしまった。
考えることも無かったような環境に身を置くことになって、色んな人の交流も増えて、心も、巡っていく血液も暖かいものに変わっていった気がする。
クラスの人達も僕のことを受け入れてくれたのか、度々話しかけてくれるようになった。
それもこれも、全部──。
「メリクリ、玲依君」
茉姫奈と那由さんのお陰だ。
今日は茉姫奈がいなくて、那由さんだけだった。
「おはよう那由さん。クリスマスは明日だけどね」
「明日から冬休みじゃん。その前に言っときたくて、私は私で家族達と大勢でパーティするから」
「····いいね、僕は1人だよ。姉さんにも気を使われて今日と明日はお見舞いしに来なくていいって言われてるし」
「うーわ、自虐」
「ホントの事だからだよ」
那由さんと会う度、あの時にいわれた言葉が思考の片隅にずっとチラついていた。
真に受けるでは無いけれど、適当に言った言葉だと思えないからこそ、ずっと残っている。
それが原因で気まづくなったりしてないし、交友関係も良好だ。
「マッキー、今日遅刻してくるって」
「あ····そうなんだね。じゃあこのまま行こう」
「ん、行こ」
歩き出した那由さんに遅れないように僕も早歩きで歩いて、那由さんの歩幅に合わせる。
少し雪で覆われた歩道を歩いて、白い息が雪に混ざる様にそのまま消えていった。
不意に、那由さんの方を見た。
那由さんは紺色のレザー調のアウターと、青くてなにか筆記体のような模様で描かれたパーカーも重ね着していて、同じような模様のマフラーを首に巻いていた。
もし僕が身にまとったとしても、少し派手な感じがして、でも那由さんに似合っている格好だった。
僕も別に変な格好はしていなく、普通のコートに中に制服をそのまま来ているくらい。
茉姫奈も那由さんと余り変わらない格好で毎日登下校を共にしている。春から始まった縁は、今でも続いていて、限りなく細かった糸は日々を紡ぐにつれて太くなって、固いものになっていく感覚だった。
産まれて始めて、友達と言える存在が出来たのは、僕の人生の中でかなり大きいものになっていっていると思う。
だからこそなんだろう。
本当に大切に思っている茉姫奈の事が、暗雲が渦巻いたみたいにモヤモヤして仕方がなかった。
零れ落ちた不安が、いつの間にか掌から零れ落ちそうな予感が片隅に、ずっとあった。
いつもは隣に茉姫奈がいたけれど、今日は居ない。
だから、僕はチャンスだと思った。
自分の中で、独特の緊張感を感じながら口を開いた。
「ねえ、那由さん──」
「マッキーの事?」
「······超能力者かな?」
「今までずっとソワソワしてたもんね、マッキー居たからかな」
「ま、まあそうだけど」
「言ってみな」
聞きたい事はそれだけだった。
「何で、君は僕にそんな事を言ったの?」
同じような時間の流れで、人通りで何も気にせずに僕らも歩いている。
後ろに延びる軌跡は、往来の人間によって上書きされてかき消されていく中、世界はいま僕と那由さんの2人きりしかいない気がした。
他の足音も、何も聞こえない、彼女の所作や感情を見ることで精一杯だった。
少し黙り込んだ後、那由さんは口を開いた。
「まっ、マッキーのお母さんに聞いてみればいいんじゃない?」
少し陽気な感じで僕にそう言った。
白んだ息が、宙に舞ってそのまま消えていく。
「····茉姫奈のお母さんなら、答えてくれるってこと?」
「····多分ね。今日マッキー学校終わってすぐバイトだって言ってたし、行ってみてもいいんじゃない?」
「····うん、わかった」
歩みを止めない那由さんに必死について行くように僕も歩を進める。
那由さんは早歩きだ。僕も歩くのが早いと思っていたけれど、那由さんは僕が着いていくのにいっぱいいっぱいになるくらいには早い。
那由さんの後ろ姿を何も考えずに見たり、足元に無造作に付けられていく雪の足跡を見たりしていたら、もう学校の前に着いていた。
校門では沢山の生徒が学校に吸い込まれていて、学生の僕でもこの様に客観的に見てみると、何故か学生という称号を持った人間に狂気的で、機械的なものを感じてしまった。
ただ勉強をして、コミニュケーションを行い、そして帰ってまた学校に行く。
色々な人間が制服を身にまとい、それぞれ違った価値観、思想を持ち、閉鎖された空間で1日の半分近くを浪費する。
僕もその中に混じっている学生という限定された肩書きに過ぎない。
僕の前に立っていた那由さんが校門の前で止まって、横目で本質を見定めるような目で僕を覗き込んで言った。
「──玲依君に見せてるのは、“マッキー”なのか、“茉姫奈”なのかどっちなんだろうね?」
それは、薄々僕も勘づいていた事だった。
那由さんに言われた日からずっと考えていた。
彼女の感情も、笑顔も、含羞も、全ては僕にとってはもうなくてはならないモノの筈なのに。
校門の前で──白い息が上に上がる代わりに、言葉が僕の身体の奥に落ちていく。
冬独特な雪の匂いに嗅覚が刺激され、コンクリートの匂いも雪の水分で溶け出して、少し鼻につくような感覚がした。
冬風に晒されて、自分の耳が冷たくて少し痛みを感じた。寒さが身体を刺し続けて、今転んだら大惨事になってしまうだろうなと思った。
少し強めに触ってもかなりの痛みを伴う冬の寒さは、いつまで経っても慣れる気がしなかった。
結局、昼くらいに来た茉姫奈の感情の色に変化はなく、呆気なく放課後を迎えてしまった。
僕に挨拶をして、前の席にいるクラスメイト達と普通に話をして、午後の授業も何事もなく真面目に受けた。
僕も、普通に学校生活を送れてはいる。
あれから金城くんに絡まれる事は無くなったし、露骨に僕の事を避けるようになった。別にああいう事があったから僕自身も気まずいし、当人も関わりたくないのなら自然の結果だ。
放課後の喧騒にざわめいている廊下で、金城くん達のグループと鉢合わせたが、金城くん当人は苦虫を噛み潰したような顔をして僕を無視して通り過ぎて、仲間も何かを察したのか僕の前から通り過ぎた。
毎回····彼と通りすがる度に僕の鼻をつくキツい香水の香りは、少し──頭を痛くさせる。
外はもう少しだけ薄暗くなっていて、冬は夏に比べて日が落ちる時間がとても早く、すぐ暗くなって街灯が雪に反射して美しい夜の街が出来上がる。
今も例外ではなく、街中の街灯は全部点灯していて、人々の往来が目紛しい。
茉姫奈はこれからバイトだって言っていたし、茉姫奈には内緒で彼女の家に向かおうとしている途中で、那由さんからメッセージが来た。
『那由:結局マッキーの家ってどんな家なの?』
僕は少し考えた後に、僕は「普通の家だよ」と返信をした。
すぐ既読がついて『普通って、つまんない』と返信が来たが、自分の言葉でどうやって表現したらいいのか分からないと、嘆息を零した。
そのまま未読して、氷で固まった歩道を音楽を聴きながら歩いていく。冬靴を履いていても気を抜いたらすぐに転んでしまいそうで、制服とコートで厚着していても手や顔には容赦なく冷たい風が襲ってくる。
流れてくる音楽で気を紛らわせてはいたけど、雪が降っていなくてもこの寒さだ。吹雪や豪雪の時などは、とても歩けたものじゃない。
寒さに耐えるように足元ばっかり見ていたら、茉姫奈の家の前まで着いた。
いつも通りの平屋の家で、木造でとても古い。何度見てもここに茉姫奈と茉莉花さんが住んでいるのが不思議なくらいだ。
表札も何も書いていない木造平屋のインターホンを押して、数秒待つ。すぐに茉莉花さんの声が聞こえて、自分の名前を名乗った。
ドアが横に開いて、茉莉花さんが出てくる。少し驚いたような顔をしていて、無理もないなと思った。
何度か遊びに行かせてもらった時は茉姫奈と一緒だったし、僕1人だけで茉姫奈の家に行く事が初めてだったから。
「玲依君、珍しい。どうしたの?」
急に自分の中で緊張感が張りつめて、言葉ひとつひとつが詰まりそうで怖かった。
「少し、聞きたいことがあるので、お邪魔させてもらっても良いですか?」
「勿論よ。あがって」
家の中はあまり変わっていなかった。リビングには灯油のストーブが置かれていて、季節が変わった事を改めて認識させられた。
茉莉花さんは手際よく暖かいお茶を出してくれた。コップから湯気が上がるお茶は、僕の身体を酷く温めていく。
そのままテーブルを隔てた椅子に座らせられて、正面には茉莉花さんが僕の顔を覗き込むように見つめている。
「聞きたいことって、何かしら?」
少し怪訝な顔で聞いた茉莉花さんの感情は、すこし白くモヤがかかっていて、僕に向けてる感情通りの色が出ていた。
少し疑っているような、「何を聞くのだろう」という猜疑にも近い感情。
「あの····」
「······?」
「なんて言うか····」
“そっちの意味”じゃなくて、多分、自分の中で人生でトップレベルで緊張していて、気を抜いたらお茶を持っている手が震えそうだった。
ただ聞くだけなのに、こんなに緊張するのは何故なのか。
こんなに自分の喉が詰まるだろうか。
こんなに言葉が出なかった事があったろうか。
「聞きたいことがあるなら、ハッキリ言ってごらん?」
コップから手を離して、膝に手を置いた。
寒い訳では無い、だけど身体が震えるのを膝に手を置くことで必死に我慢していた。
このまま言わないではぐらかして乗り切れば、何か変わるのだろうか。
でも、それなら本当の茉姫奈を見つけられない。
僕は、茉姫奈を知りたい。
本当の茉姫奈を知りたい。
そんな感情初めてだった。
言わないと、ずっと後悔したままだ。
言うのは一瞬だ。言わないで茉姫奈が遠くに行ってしまったら、一生惨めのまま業を背負って歩いていくしかなくなる。
僕は、意を決して口を開いた。
「茉姫奈の事を知りたくて」
すこし驚いたような顔をした後、茉莉花さんは目に少し涙を溜めて笑顔になった。
何故か、僕の質問を望んでいたかのような。
「やっぱり、玲依君には茉姫奈の事は筒抜けなのかな? ····それとも、那由ちゃんに言われた?」
「····両方です。言われたのは那由さんですけど、改めて気が付いたのはある程度自分で」
「やっぱり、分かっちゃうものなのかな?」
「····いや、僕は」
「玲依君、着いてきて」
茉莉花さんは立ち上がって、茉姫奈の部屋に向かっていった。僕も流れるままに茉莉花さんについて行った。
いや、着いていくしかなかった。
静かな空間で刻まれる足音のビートは、僕の鼓膜を突き破るくらい、頭の中で反響を繰り返していた。
リビングの隣にある茉姫奈の部屋に移動して、茉莉花さんは本棚の白いカーテンに手を伸ばした。
1番下の段にあった、白いカーテンで仕切られた場所、僕もあまり気に止めていなかったけれど、今思えば不自然だったような気もした。
カーテンをゆっくり開けていく度に心臓が大きく跳ねていく。
全部開けた時に、僕は思い知った。
なぜ彼女が僕の気持ちを全て理解してくれていたのか、僕の穢れた感情を、大きすぎた負を全部受け入れる程の器があったのか。
隠された本棚にあったのは、完全自殺マニュアルや、僕が持っていた死に関する本よりもっと上の希死念慮に対しての本、死についての哲学──全てが死に直結するものばかりだった。
「····あぁ、」
姉さんも、随分前に同じような事を言っていたことを思い出した。
一歩間違えたら壊れる。
姉さんの何気ない憶測が、間違っていなかった事を、僕は証拠と共に目の当たりにしてしまった。
やっぱりそうなんだと、不思議と納得してしまった。
茉姫奈は本棚の本を読んだりしていたけれど、下の段には全く目を合わせようともしなかった。まるで無理しても見ないようにしているような。
実際僕からしたらどうでもよかったものが、茉莉花さんや茉姫奈には、どうでもよくなくて。
やはり、僕の心を受け入れる事が出来たのには、理由があった。
彼女も、死について考えていたから。
私と一緒と言ったのは、そういうことか、と鳥肌が立つ。
「玲依君には初めて言うんだけど、茉姫奈、中3の時に自殺未遂した事あるのよ」
一瞬だけ、耳を疑った。
「····は?」
聞き間違いかと思ったが、茉莉花さんはハッキリ言っていた。
茉姫奈が、1度自殺をしようとしたことがあると。
「ちょうどこれくらいの時期だったわ······練炭自殺だったの。私が帰って来た時には車の中で気を失ってて、すぐ病院に運ばれたわ」
「いや、いやいや····」
何度聞いても理解が出来なかった。
急展開過ぎて自分の状況を疑い続けている。それ程までに衝撃的で、信じ難い事だった。
茉姫奈が、自殺未遂?
彼女がこれまで見せていた姿は仮初で、本当の姿は希死念慮に溺れて自殺しようとした、僕でも見ることが出来ない大きな負を抱えた少女だったというのか。
なら····僕なんて、とても可愛いものだ。
彼女は本気で死ななければいけないという僕より上の感情で死を捉えていた。
漠然と死にたいなんて考えていた自分と次元が違かった。
「何回聞いても、理由を教えてくれなくて。入院してる時に、茉姫奈の部屋の本棚を見てたら、これがあって」
ずっと隠れて持っていたのだろう。
僕の中で受けた衝撃は一瞬で過ぎ去って、どうして自殺しようとしたのか、この本が示す彼女の本懐は何なのか、その思考を巡らすのに精一杯だった。
自分の思考を身勝手に張り巡らせても、結局は茉姫奈の感情だ。どんな推論を立てても、茉姫奈にしか分からない感情の名前。
どんなに彼女の感情を考察したとしても、無意味なことはわかっていた。でも、今は彼女の本心を問いたくて仕方がなかった。
「なんで、捨てなかったんですか?」
「捨てたら多分、またあの子自殺しようとすると思ったから」
「····確かに、そうかもしれないですね」
これが、あの時の茉姫奈を繋ぎ止める唯一の生命線だとしたら、また自分で破滅の道に走る。
多分僕だってそうしたはずだ。自殺を何度も試みようとしても1歩手前で身を引いた意気地無しが、そう心の中で思っても、結局僕が茉姫奈にならないと、茉姫奈の感情に触れてみないと分からないことだ。
結局、全部が中途半端にしか知ろうとしなかった僕は、茉姫奈の心に踏み込む事が出来なかった。
でも何故か、茉姫奈はあの時の言葉でさえ、何かを隠しているような気がするような。
「ここまで死のうとしなかったのが不思議なくらい」
「····高校の時は、1度も無かったんですよね」
「無かったわ、ずっと“会いたかった人”にやっと会えてその子の話しかしなかったから」
「会いたかった人?」
そんな話もしてくれなかった。
つくづく、僕は茉姫奈の事を何も知らなかったんだなと痛切に思った。
「小学校の時に、凄い目をキラキラさせて話しかけてきた子が居たらしいの」
何も穢れを知らない頃、僕も目をキラキラさせていて、丁度感情が見えるようになってきた頃、何もかもが綺麗に見えて、見える色が感情だと知らないで毎日が希望で膨らみすぎていた。
希望が絶望で引き剥がされて、人間の本質を知った時にはもう本当の目を開けることはやめたのかもしれない。
中学校のときに指される後指や、薄ら笑い──身体もボロボロに痛々しく傷ついて、心もバラバラに切り裂かれていた。
まだ僕が綺麗な人間だった時。丁度茉姫奈も何かしらのきっかけがあったのかもしれない。
「その子は、“空は真っ黒だったけど、君の色は綺麗だね”って」
その言葉な、引っ掛かりしか無かった。
「····え? いや、それって──」
「その子と同じ高校に入って、やっと今年同じクラスになれて····きっとそれが今の茉姫奈の生きる意味」
「······」
息を呑んだ。
そして、自覚する。
茉姫奈の首の皮一枚を繋げていたのは──。
「だからびっくりしたの。ずっと茉姫奈が話してた子が家に居るんだもの」
紛れもない、あの頃の僕だったのだろう。
あれから、とてつもなく思想もねじ曲がって、利口な人間では無くなったのに。
「····あの子が、茉姫奈だった?」
綺麗な子だったけれど、あまり人と話すような人間ではなかったし、僕の方が目立っていた方だと思う。
もう10年前近くの記憶だ。名前すら曖昧だ。
でも、あの子の事は鮮明に覚えてる。
僕は、何もかもに憧れて、不正解すら正解に肯定してしまう程の純粋で、綺麗な心を持った人間だった。色眼鏡で人を見ても何でもなく人に沢山話しかけていたし、人と接するのが好きだった。
彼女も、話したらよく話す子だった。全部話も聞いてくれて、飽きもせずにずっと笑顔で聞いてくれていた気がする。
気がするのは、自分の記憶に自信がない。自分の記憶では笑っていたと肯定しきってしまえばそうなる。だけど茉姫奈があの時笑っていなかったらその記憶の齟齬から僕の記憶が正しいと言えなくなるからだ。
「だから、那由ちゃんは知ってたけど、これは私の口から玲依君に話したかったの。今でも茉姫奈が生きてるのは玲依君のお陰」
いや、違うよ。
「逆に、僕こそ茉姫奈のお陰で、夢にも思わなかった生活が出来てます。あの時プリントを届けなかったら、一生変わらないままだった。だから、お礼を言うのは僕の方なんです」
茉姫奈が居ないからこそ、口に出せる言葉がある。
「だから、その話を聞いて、僕も茉姫奈を救いたいって思いました。救われた分、茉姫奈が抱えてるものを背負いたいって····こんな感情生まれて初めてで、よく分からないですけど」
まとまらない言葉を絞り出して弾き出した言葉は、茉莉花さんに柔和な笑みを零させた。その時僕は、建前で言った綺麗な言葉よりも、感情を込めて、本心で言った今の様なぐちゃぐちゃの言葉の方が何倍も人の心に響くものだと改めて感じた。
瞑目しながら、茉莉花さんは口を開く。茉莉花さんの相好は、どこか遠くを見る茉姫奈にとても似ていた気がした。
「····玲依君も、綺麗すぎるわね。すごい純粋で、感受性も豊かで、きっと生きる事っていう事に真面目過ぎる。きっと茉姫奈もそうなのよ。生きる事に必死になって、真剣に生きてく度に傷ついて、些細な事で死にたくなる····それは、多分玲依君が1番わかってる筈」
生きる。
1番生きることを見失って、そして見えた答え。
多分1番間違っているのは、その生きる事について考えることだ。
生きていれば、生きてさえいればそれでいいのに、その本質を無理矢理考えようとして、その度に傷ついていって、自分の世界に閉じこもってそのまま身を投げる。
「僕も····そう思います」
僕は踏み込むことが出来なかったけど、茉姫奈は踏み込みかけた──実際、どれだけ覚悟があったか、僕の想像からも計り知れない程の衝動があったのだろう。
大多数の人間はその衝動に駆られた少数の人間を『臆病者』や『なんで生きようとしなかったんだ』なんて言うけど、そんな上辺でしか正義を振るえない、気づかない悪意に嫌気が差して死を選んだんだといつも感じている。
その大多数の中でも少数の力を持っている正義が、その少数を逃げられなくさせてるんだと、何度も何度も思った。
死にたい人に生きろと言っても、俄然死にたくなるだけ。
茉姫奈も、それを感じて生きてきたのかもしれない、でも分からない。なんの感情に、何が引き金で、茉姫奈の心は黒く蝕まれていったのか。
確実に那由さんや、茉莉花さんが元凶とは考えられないし、僕は、今の茉姫奈しか分からない。
だから、僕に出来ることは、多分。
「だから、もしその時が来たら····茉姫奈を抱きしめてあげて。壊れるくらいの力で思いっきり」
「····はい」
2
本心で話した後の帰路は、少しだけ綺麗な息を吸えている気がしていた。なぜか清々しくて、自分の中で何かが固まった証拠でもあるのだろう。
本当の茉姫奈を見つける。そして、僕の力で茉姫奈を救い出す。単純だけど、これが僕に与えられた使命のようなものだと感じていた。
夜風が吹く街の景色は、僕からはとても退廃的に見えた。
どんなに同じ景色を見上げて見て見ても、どこか寂しそうで、街の喧騒はどこか偽物の感じがする。マフラーをずらして口を出して大きく息を吸っても、街独特の息苦しさにすぐ咳が出た。
携帯を見ると、もう七時前だった。
那由さんのラインも未読にしたままだったし、那由さんの返信をしようと思った刹那に、携帯が鳴り出した。
宛先は姉さんだった。
僕は姉さんに何かあったのかと思って、急いで電話に出る。
「もしもし····姉さん、どうしたの?」
『玲依!』
姉さんは心なしか、少し焦っているような声色だった。少し圧のある焦燥が電波越しからも伝わるような声、一体何があったのだと手から冷や汗が漏れた。
姉さんは今、病状があまり良くなく、1日1日定期的に医者が見に来るほど衰弱している日とそうでない日が顕著に分かれているほど、姉さんの体調バランスが悪い。だから、電話をしてきた用件より先に、そんな声を出した姉さんの心配の方が勝ってしまった。
「姉さん、そんな大きな声出して大丈夫なの」
『そんな問題じゃないの! 茉姫奈ちゃんが····』
茉姫奈の名前を出されて、心臓が跳ねた。
「茉姫奈が? どうかしたの?」
『茉姫奈ちゃん──これから自殺しに行くって』
言霊は確実に存在する。
何気ない言葉が、とある人にとってはとてつもない絶望に押し潰される言葉になったり、心臓が破裂するくらい鼓動を早くさせるようなナイフに変えていく。
簡単な電波越しから流れた言葉も、言霊となり、理解し難い現実へと誘っていく····姉さんの言葉を聞いた数秒間は時が止まった感覚があった。
だが、実際には時は止まっていないし、僕が放心状態で頭の理解が追いついていないだけなのだ。本当に人間は焦ると、鼓動が早くなるのと同時に指先までが心臓になったみたいに痛いくらい震えて動かなくなるし、全身から鳥肌が立って頭の中が失望感で埋め尽くされて何も考えられなくなってしまう。
まさに今、僕はその状態に陥っていた。
寒さも感じないし、息をしているのも分からなくなった。
劈くような衝撃が、身体を貫いて、重すぎる言葉に言い表せることの出来ない何かが身体にのしかかっている感覚がした。もはやその数秒間のうちに、自分が上手く話せる人間なのかすら猜疑するくらいに。
「····なんで、姉さんに?」
震える声で、姉さんに問い質した。
『理由は分からない。でも、最後の挨拶に来たって言ってそのまま····』
「どこに行くとも?」
『うん····教えてくれなかった』
「····なんで、今日なの?」
『······クリスマスイブ······なにか、茉姫奈ちゃんに意味がある日なのかも』
ああ確かに、見たことがある。
クリスマスイブは、世界で1番セックス多く、愛情、他人が愛情を確かめ合う日であると。
クリスマスイブからの午後9時から実際のクリスマスの6時間にかけて性の6時間というものが存在し、その時間帯が世界で1番セックスが行われている時間であると。
僕も嫌で仕方がなかったクリスマスの時期も、これも少し関係あるのかなと思った。
そしてそれに比例して、世界で1番では無いけれど、自殺者が多くなる傾向もクリスマスイブにはあるそうだ。
考えれば、単純な答えだった。
その日に自殺する人の感情なんて、かなり絞られる。
茉姫奈は、きっともう、僕らが知らないところで壊れていたんだ。
「僕、行くよ」
『えっ?』
「茉姫奈を見つける」
『····もう、手遅れかもしれないよ?』
「それでも、一縷の可能性に縋れるなら」
“かもしれない”は、手遅れだと決まった訳じゃない。
まだ、間に合うなら。
心にずっと溜まっていた燃料が少しずつ燃え上がっていく感覚がする。
今なら、なんでも出来る気がした。
「茉姫奈を救えるのは、僕だけなんだ」
『····うん、ねぇ玲依』
「····何?」
『後悔ないようにね』
「うん、わかってる」
『私の事は心配しないで』
「········わかった」
姉さんなりの1番の優しさだったんだろう。
気がついた時には、自分から電話を切って、リュック道端に捨てて走り出していた。
結露した息がマフラーを濡らして、気持ち悪くなってマフラーも投げ捨てる、重いはずの制服も、今はその重さも感じなかった。
闇雲に走っているわけではなかった。茉姫奈を探しながら走っている訳じゃなかった。
茉姫奈が向かっている場所は、多分分かった。
この寒さで走るのは、運動なんてしてこなかった僕には、かなり堪えるものがあった。肩と鎖骨の間の中途半端な場所が傷んで、拍車をかけるように冬風を肺が取り込んで喉を凍らせていく。
だけど、負けたくなかった。
変な表現かもしれないけど、この程度の痛みで自分に屈したくなかった。1歩1歩踏み出す度に、死に向かって行く感覚が体を蝕んでいく。
心臓の鼓動が身体全体に響いて、生命を少しずつ削っている音が煩いくらいに耳に入った。
世界は、きっと何の為に僕がこんなに走っているかなんて気にしない、僕を覗く満月が嘲笑っているかのように明るく世界を照らして、少しずつだけど雪も降り出した。
大粒の雪が、行き先を邪魔をするように僕を周りを覆う、コンクリートに横たわっている水分を含んだ雪が靴にこびり付いてすこし滑りかけた。
だけど、すぐ体勢を立て直して走り出す。
夢中で走っていたら、茉姫奈と帰った河川敷に居た。歩く事はしないでずっと走り続けて、河川敷で歩いて帰った茉姫奈との思い出を少しだけ思い出していた。
綺麗なコンクリートの道も、辺りに生えていた綺麗な草原は、雪で白く染まっていた。
息が詰まりそうで、1度大きく息を吐き出した。
今思えば、茉姫奈や茉莉花さんの発言は変なものが多かったような気もする。
『君の名前って可愛いよね。やっぱりレイレイより玲依の方がしっくりくるや』
『改めてこんにちは玲依君』
茉姫奈は、僕の事を知っていながら、隠し続けていた。無論茉莉花さんも。
気を使ってくれていたんだ。
僕以上に死にたい気持ちを押さえ込んで僕に言葉を投げかけてくれて、その気持ちに気づくのも今になって遅すぎたのに、ずっと彼女は笑顔で居てくれた。
傷ついているのは僕じゃなくて茉姫奈だったんだ。
──なんて、惨めなんだ。
気を抜けば息が切れて、胃の中の物も、内蔵全部を吐き出してしまいそうなくらい苦しい。
でも、それでも。
茉姫奈を失いたくなかった。
今ここで世界が終わるより、僕がもたついている内に茉姫奈が居なくなる方が僕にとっては、耐えられないことだった。
こんな自分でも大切な存在と言ってくれた。体裁も、過去も、境遇も、全部とっぱらって本当の僕を見てくれた人は、姉さんを除いたら──彼女が初めてだった。
だから、今は死んでも止まれない。
いや、死んでたまるか。
冬なのに汗が溢れ出て、血反吐を吐き出しそうなくらい口の中が血の味がする。
ふと、雪が降り頻る河川敷の細い川に目線を変えた。
河川敷の川も、結局は海に拡がっていく。人間も同じように、死という概念が海だったとしたら、ゆくゆくは人間も海に流れて、死で溢れかえる。
結局そう決まってるけど、今は····今だけは。
茉姫奈だけは、死から引きずり出したかった。
必死に走り続けて、河川敷の突き当たりの道路を左に曲がって、細い道路に入る。
入った瞬間に、自分に迫る光が見えた気がした。
いや、確実に見えた。
「───────あ······」
それが車だと認識した瞬間に、疲労で動けなかったのか、避けようともせずに、見つめるだけだった。
刹那、鈍くて大きい音が響いて、僕の意識は真っ暗になった。
生命は永遠に続く訳では無いし、死ぬのが何十年後とも決まっている訳でもない、だから僕の不注意だ。焦った末のミスであって、これが結局僕の運命なんだろうと確信した。
──ぇ。
きっと、こうなったら僕も助からない。
呑気に、天国なんてあるのかななんて考え始めていた。天国には茉姫奈が待っていたりするのかななんて思い始めていて、受け入れる準備は出来ていた。
──ねぇ。
僕のためにボロボロになってでも一緒に居てくれた茉姫奈に合わす顔なんてないだろうな、なんて思った。
これからどうしようか、なんて事も頭によぎる。
『──ねぇ、起きて!』
突然耳元で叫ばれたような気がして、目が覚めた。
目が覚めた先は、真っ白な空間で、夢でよく見る光景によく似ていた。
死ぬ直前に巡る走馬灯····とも言い難いもの、こんな経験はない。
目が覚めていたら、既に僕は立ったままの状態ですこし怪訝に思った。しっかり四肢が動くし、明晰夢と言われてもリアルすぎる。
これは、臨死体験なのか?
『──ねぇ、僕の事、解るでしょ?』
声の主の方に目を向けると、『誰か』が居た。
でも、顔が見えない訳じゃない、ちゃんと顔も、髪も、モヤがかかっていないし全部見える。
「──君は····」
理解が追いつかなかった。
その姿は。その声は。
「──────僕?」
中学生の僕の姿そのものだった。
『死ねよ』
死ねよ、と言った瞬間に“ナイフ”を構えて僕に突進してくる、僕は驚いて『僕』を避けて、そのまま距離を取った。
だけどそのまま体を捻ってナイフを振り上げて僕の制服を切り裂いた。妙にリアルな感覚に焦って足が躓いて後ろに尻もちをついてしまった。
そのまま『僕』は僕の腹の上に乗ってナイフを振り上げて突き立てた。
でも、突き立てた先は、僕の心臓や身体じゃなくて、僕の顔の真横の白い世界だった。
なぜ僕を刺さなかったのかと、その光景に面食らっていたら、『僕』は僕の胸ぐらを掴んで、涙を流しながら叫び始めた。
『なんで、なんで····向き合おうとしないんだ!』
言われた意味が不透明で、何を返事していいか分からずにそのまま黙り込んでいたら、『僕』が絞り出す様な叫び声で僕に叫んだ。
『君が、1番現実を見ようとしてないじゃないか! 彼女の気持ちも気付かないふりをして、人生を諦めて、何もかも決めつけてて! ──そんな僕は、そんな弱虫な君を1番······』
そのまま『僕』は、僕の胸にしがみついて嘔吐きながら泣きじゃくった。
あぁ、そうか。
ずっと分からなかった理由が今になってわかった。
いや、分かりたくなくて、分からないふりをしていた僕が、1番『僕』のいう現実というものを見ようとしていなかったのかもしれない。
死んでからやっと分からない感情に名前が付いてしまって、なんて僕は愚かなんだと、何度も思った。
僕が、そして『僕』も本当に殺したかったのは。
そして、『僕』が僕を何度も何度も殺していた理由は、きっと。
「1番殺したかったのは、ずっと逃げてないようで逃げてばっかの僕だったんだね」
『····わかったなら、素直に認めてよ』
「認めても、無理なんだ。もう僕は死んだんだし」
すると、『僕』は首を横に振った。
『いや、君は生きてる。君が生きたいと望めば、目は絶対に覚める』
「でも、茉姫奈はきっと····」
『──そうやってひねくれるなよ。僕の言葉を信じてよ』
そう言われると、思わず口を噤んでしまった。
ひねくれる。
素直で誰にでも優しかった僕の性格は、今ではねじ曲がってぐちゃぐちゃなものになってしまった。
自分でもひねくれていると感じている。でも、もう自分の中で素直になるとは、相手からしたら“都合のいい人間”だと思うようになってしまったからだ。
きっと本当は違う時があるのは分かってる。でも過去の暴力に嫉妬、反抗期すらも許されずに『お前の為』だなんて言われても、蓋を開ければ本当の意味なんて『自分の為』で、自分の面子を汚さない為に僕をずっと虐げてきた。
『人生は、誰かに敷かれて歩いていくものじゃない。自分で切り開いて歩いていくものなんだよ』
侮蔑を1番受けていた中学生の頃の『僕』がそう言っているからか、説得力が違った。
『素直になったら、人生も上手くいく。全部が全部捨て駒みたいにに従えって言ってるわけじゃない、時には自分で違うなと思ったら理不尽に異を唱えたらいいんだよ。僕も君も、多分に世界で1番ひねくれた。だから、それを自分で認めて、今度は自分が持ってたもの、持ってなかったもの、失くしたもの、欲しかったものを与えれるような人間になろうよ』
言葉が心臓に刺さる。
言ってるのが紛れもない『僕』だから。
『いつか絶対に人は死ぬ。僕も死ぬし、君も死ぬ。そして彼女も。けど今じゃないでしょ、今は生きてる。生きてるんだよ』
──お前みたいな、アンタみたいな子なんて、産まなければよかった。
何度、その台詞を言われただろう。
その言葉を漠然と受け止めて、絶望していた。
ずっと、死にたいと思って生きていた。
その理由も分からないまま。
いや、本気で分かろうとしてなかっただけ。
『どんなに惨めでも、どんなに苦しくても、どんなにみっともなくても、生きてさえいれば、それでいいんだよ。きっと今死んでしまったら、君の全部が無駄になってしまう』
胸が熱くなった。
茉姫奈から感じた熱さとはまた違う、心が熱くなって、気を抜けば涙が出てしまいそうな熱さ。
この熱さがまだのこっているのなら、自分はまだ生きる資格があるのかもしれないと思った。
死んだように生きるのが正解の今の世界で、人々が現在進行形で病んでいく今の世界で、何が出来るのか──今はまだ手探りだけど、きっと見つかるはずだ。
そして、生命を絶とうとしている大切な人をどうやって救えるのか。
そうだね。
『僕』の言う通りだ。
言葉に出さないだけで答えは、もうほぼ決まっていた。
『失いたくないでしょ? 今ここで死んだら、彼女の声も、記憶も全部消えるし、君の“目標”も達成出来ないまま終わっちゃうよ?』
ふと、思い出した張り紙。
机の壁に書いてあった、目標の張り紙。
中学生の頃に書いたものだから、憎しみで精神がおかしくなっていて、とてつもなく字は殴り書きで、世間から見たらお世辞にも綺麗とは言えない。
でも、僕から見たら、1番生命を感じている字だった。心の奥底から出た言葉だから、ずっと飾ってあった。
いまは見てもすぐ忘れてしまう程に、気にしなくなっていた。
こうやって『僕』が思い出させてくれて良かったと思う。
ようやく分かったと思う。
ずっと僕が死にたかった理由は、きっと。
『····やっと分かった?』
「──うん、分かった」
『口に出してみて?』
「それは、茉姫奈の前で言いたいから」
『まだ、生きたいでしょ?』
「······まだ生きたい。言ってない事が山ほどある」
『····それでいい。それでいいんだよ』
そう言うと、『僕』は僕の方を遠くを見るような目で見て、笑った。
自分で自分を見ることは出来ない、だから中学生の頃の『僕』の笑顔は、酷く眩しく見えた。
『玲依』
『僕』が僕の名前を呼んだ。
少し驚いて、返事を出来なかった。
そして、『僕』はゆっくりと口を開いて言った。
『素敵に生きろ』
そう言うと、世界は徐々に暗くなって、真っ暗な静寂が訪れた。
「······う、」
夢から醒めるように意識を取り戻して、ゆっくりと目を開いた。
気がつくと、僕はうつ伏せになって倒れていた。
気がつけば身体は擦り傷だらけになっていて、肘や頭からは出血があった。
氷に赤黒い自分の血液が染みていて、鉄臭い匂いが氷からも香って気持ち悪かった。
全身が車に轢かれた衝撃でとても痛くて、軋む身体を伸ばしてコンクリートに転がっていた携帯に手を伸ばして、時刻を確認する。
時刻は7時を過ぎたくらいで、気を失っていたのは1分程度だった。
あんなに長く感じた夢も、現実では1分くらいなのに、少し驚いた。
「兄ちゃん! 大丈夫か!」
その言葉につられて、ゆっくりと身体を起こした。声の主は黒い背広に、サングラスをかけた角刈りの男で、ランプが着いている車を見ると、黒塗りの外車のセダンだった。
轢かれてはいけない人間に轢かれてしまったようだ。そう自覚すると、全身の痛みがスーッと消えていった気がした。
「本当にすまん! 前方不注意で、今救急車よんだから無理せんで待っててくれんか?」
僕も焦りと痛みと興奮で感情がぐちゃぐちゃだった。
「いや、大丈夫です······すぐ行かなければならない所があるので」
「いやいや、そう言われても無理や····酷い怪我してるで兄ちゃん」
抜け切れてない関西弁で、そう言われた。
片手には携帯を握りしめていて、手の甲までびっしり入った刺青が見えて鳥肌が立つ。
関西弁でそう言われるともっとそちら側の人間だと思ってしまって、怖くなって、思わず合わそうとしてなかった目を合わせてしまった。
強面で、でも目は底がないくらい優しそうで、それが逆に恐怖に感じた。
僕を見た男は、怪訝な顔をしながら僕に訊いた。
「兄ちゃん、アンタまさか──」
なにかされるのでは無いかと思ってしまい、男の問いを遮って立ち上がった。
立ち上がったのを見た男はぎょっとした顔で僕をずっと見ているだけだった。
「すみません、厚意は嬉しいですけど、急いでるので」
大丈夫、まだ大丈夫だ。
走れる、身体は死んでない。
アドレナリンが身体中で分泌されているのか、さっきまで感じていた全身の激痛は走れるくらいには引いていた。
「あ、兄ちゃん! 自分の話少し聞いてくれたっていいやないか!」
男の話も聞かずに、覚束無い足で走り出す。
男の図太い関西弁は1歩踏みしめていく度に遠くなっていった。こんなに身体は冷えているのに、頭は、心はこんなに熱いままで、必死に息を切らしながら足を回していく。
人間、限界なんて簡単に超えることが出来るのだな、と走り続ける思考の片隅で思う。なにもかも中途半端な事しかやって来なかった自分が、こうやって誰かの為に全力で走って、会いたい人の為に生命すら削れるような人間だった事に、まだ僕は人間だと実感する。
いつの間にか感じていた痛み、苦しみ、憎しみ、全てが僕が生きている実感全てに変わっていた。
痛いのは、生きているから。
息が苦しいのは、生きているから。
人が当たり前に感じている感情を今やっと実感した気がした。
限界に近い身体が、僕に圧倒的な生を訴えかける。
生きている。
心も、身体も死んでるわけじゃない。
動いてる。息をしてる。
ねぇ、茉姫奈。
これが君が言った“生きてる”って事なんだね。
やっぱり、君が言った言葉は気がついてから納得するものばかりだ。
だからこそ、君に会って伝えたい。
僕のぐちゃぐちゃの言葉で君を救ってみたい。
血を握りしめて、破裂寸前の心臓で必死に走り続けて、辿り着いた先は少し前まで居た学校だった。
校門は空いていて、そのまま校庭に入った。勿論人の気配などないし、冬休み前の学校は早く電気が消えて、警備員の人も居ない。
真っ暗で、明かりがつく気配もない学校の裏口まで回って、横開きのドアを開けた。
「開いた····」
この学校は、生徒が忘れ物をした時や、職員が自由に出入りできるように裏口だけはいつも鍵を開けているのだ。無論、それは僕も知っていた。
学校の中に入って、集中力が切れ始めたのか、車に撥ねられた負荷と、走り続けた負荷が今来たのか足が震え始めて、頭の中が殴られた様な頭痛が漸次広がり始める。汗では無い液体が頬を伝う感触も確かに存在していた。
汗で制服は湿っていて、本当に今は冬なのかと錯覚する程だった。
真っ暗な学校の中は、目を凝らすと暗順応で数秒後には周りの輪郭が見える程度になった。
人体の仕組みは不思議で、暗闇も眩しい所も数秒要したら見事に順応してみせる。僕も例外ではなく、すぐに暗い場所が不明瞭だけれど大体は見えるようにはなった。
その瞬間も····生きてると、自分は人間として適応してると感じた。
僕も、人間も含め、地球に生息する生物全員が環境に適応しようと進化し、生命を咲かせている。なにか困難があれば手を取り合って助け合って進化の過程を踏んでいく、その根底にはきっと僕が計り知れない程の『愛』に基づいている。
生命は儚いものだ。
常に生物は死と隣り合わせで生きていて、明日も、この一瞬もどうなるか分からない。
そう思うと、尚更茉姫奈を失いたくなかった。
「急がなきゃ」
走り出す。
階段を上がって、躓きそうになってもすぐに体制を立て直す。
身体はボロボロで軋んでいて、痛くて、苦しい。
だが茉姫奈のいる所まで走り続けた。
でも茉姫奈のことを思えば、その痛みは、苦しさは次第に忘れていった。
今なら、茉姫奈の為に生命すらも賭けれる自信があった。
どんなに死にたくても、どんなに惨めな人生だと思っても、生きてさえいればきっと報われる。茉姫奈から教わって、救われた。
春から冬まで季節が巡って、沢山間違って、沢山の感情を知れて、僕の心にそよ風のような温かさをくれた彼女の屈託のない笑顔は、きっと偽物の感情なんかじゃない。
彼女が変わったのは僕のお陰でもあるし、僕のせいでもある。だから、僕は。
感情が溢れだしそうで、息が詰まる。
ずっと喉から出てこなかった言葉も、今ならきっと全部吐き出せる。
最上階の階段まで勢いよく駆け上がって、屋上に続くドアに手をかける。
ドアノブを捻ると簡単にドアが開いて、重みもなんも感じないドアだった。
勢いのままにドアを開いて、急激な冬風が僕を襲う、雪と一緒に吹く風は、喉から身体全部が凍り付きそうなくらい冷たかった。
「茉姫奈!」
風に目をやられて目が開けないまま、絞り出すような声で彼女の名前を呼んだ。
呻吟のような呼吸を繰り返しながら目を擦り、冷たい目をゆっくり開くと、人のシルエットが見えた。
ぼやけていた視界が、次第にピントが合って鮮明になる。
屋上の柵を飛び越える直前に、満月に照らされたセミロングの金髪が見えた。
茉姫奈は、清々しくも、顔に大きな穴が空いているような残酷な笑顔で、僕の方を振り向いた。
とてつもなく凄絶で、とてつもなく尊いとまで錯覚する。
「茉姫奈····?」
頭に雪が微量ながら積もっている。白、と言うよりは灰色に近い夜の雪──その瞬間、僕は気づいてしまった。
本当の灰被りは、僕じゃなくて茉姫奈だったんだと。
「ねぇ、玲依」
自分で自分をシンデレラだなんて何度も形容して自己陶酔に浸っていようと、目の前の茉姫奈を眼前にしてしまったら、灰被りなんて自称していたのが、酷く恥ずかしいと思った。
目の前に佇んでいるのは本物の灰被りなのだから。
色も何も見えない、ただ辺りを漂うのは、色とも言えない透明なモヤだけ、そのモヤが茉姫奈の心の中に渦巻いている“死にたい、死ななければ”という希死念慮の虚無感そのものだということは、理解に時間がかからなかった。
ドラッグに走った人間の無とも、生まれつき感情がない無とも違う、生きる事に対しての合理性、年を重ねる毎に生に対しての意味を失っている無。
彼女の抱える闇は、底がしれなくてとてつもなく怖くて、そして美しかった。
「私、何色に見える?」
全てが抜け落ちたような顔でそう言った。
やはり、彼女は僕の見える色の事を知っていた。
あの時の少女が、紛れもなく茉姫奈という裏付けにもなった。
そして、違和感。
茉姫奈からは、たまに感情が見えない時があった。そしていつも渦巻いている陽炎の様なモヤ····元々ずっと根付いていた感情がそれで、それを上書きする様に僕に対して色をつけていったのだろう。
「····色は、何も見えないよ。見えるのは、透明な君の虚無感しか見えない」
そう言った直後、茉姫奈は笑った。
怖いくらい空っぽな笑顔で。
「······そっか、良かった。これが私の本当の感情なんだ。あの時の感情も、言葉も、私の希死念慮に基づいてそれっぽく演出しただけ、嘘つきだよね。ずっと死にたくて死にたくてたまらないの、結局──あの時言った言葉と同じで、私も逃げられないんだ」
死んだ人は、逃げられなかった人だと、茉姫奈はあの時言っていた。
その言葉こそが、僕に対する彼女なりのSOSだったのかもしれないのに。
「私は、満たされるのが怖かった。他人の優しさとか、そういうので満たされる度に死にたくなった。それで中3の時に1回死に損ねて、その後に自分っていうのが分からなくなって、私の希死念慮を必死で隠す為にこんな格好にしたの。あの時言った経緯とはかなり違ってるでしょ? これが私の本当の姿なんだよ」
本当だ。
茉姫奈の言っている事に、全く嘘はなかった。
「那由にも、お母さんにも····本当の私の気持ちを吐き出せなかった。希死念慮を打ち明けられない私は、すごく臆病なの」
ずっと笑顔で、眩しかった茉姫奈のイメージが1秒ごと──いや、コンマ1秒事に塗り替えられて、頭の中が氾濫したみたいに明るい“マッキー”と本来の“茉姫奈”のビジョンが見え隠れして冬なのに僕の頬から冷や汗が伝う。
人のイメージはやはり第一印象や、外面で見られ、評価されることが殆どだ。茉姫奈もその明るいマッキーという姿を強いられ、ずっとタブーな感情を表に出す事を憚られていたのかと思うと、茉姫奈はとてつもない大きな感情と戦っていたのだろうと感じた。
きっと、那由さんも彼女の感情に気づいていた。
あの時、自殺未遂をした時から。
だから、僕にバトンを渡したんだと思う。
彼女は、僕が茉姫奈を救うべきだと感じたんだ。
那由さんでは、茉姫奈を救いきれなかったから。
彼女の死にたいという気持ちは本物だ。
漏れ出す感情がそれに拍車をかけている。
生きる意味も、価値もないと、そう濁った瞳が訴えかけているような気がした。
でも、一つだけ腑に落ちない事がある。
「茉姫奈は、なんで姉さんに死ぬ事を言ったの?」
「····玲依に、私が死ぬ所を見て欲しかったから」
「······それは、本当?」
「本当だよ。私は玲依を救う為にここまで生きてきた。だからもういいの。私は私で全部終わらせるから、この場所に来てくれたのが、私はもうそれだけで死ねる」
「本心、なの?」
「········うん、本心」
そう言った瞬間。
一瞬、ほんの一瞬だ。
茉姫奈の虚無から灰色が見えた。
灰色は一瞬だけ顔を出して、そして虚無に吸い込まれて消えていく。
あぁ、やっぱりそうだと確信した。
涙が出そうになった。
それを見た時、僕は拳を握りながら口を開いた。
「嘘だよ。茉姫奈····君は、僕に来て欲しかったのは嘘じゃない。でも死ぬところを見てほしいって言うのは、嘘だよね」
「······ちがう、私は──」
「本当は····心の片隅では、僕に助けに来て欲しかったから、姉さんに言ったんじゃないの?」
核心を突くような言葉に、茉姫奈は顔を歪めた。
「······違う、」
「····違わないよ」
「違う····」
「違わないよ」
「違う」
「違わない──」
「違うっ!!」
聞いたことも無いような慟哭が、僕の耳を劈く。
世界中の人間が抱えている希死念慮を全て集めて解き放ったような血声は、屋上は愚か、後ろのドアを貫通して響き渡っていく。
「私は弱虫なの。逃げられないの、だからもう死ぬっていうのが怖くないの。その最期を、大好きな人に見届けて欲しいだけ」
頭の中は意外と冷静だった。
彼女の嘘を暴いても、きっと茉姫奈は嘘をつき続ける。
ここで引いたら、本当に死んでしまう事は分かっていたから。
「····どうしたら、自殺を止めてくれる?」
けれど、色んな言葉を思い浮かんでは消えて、結局口から出たのは、在り来りすぎる疑問に似た問いだった。
「····もう分からないの。自分が何なのか分からない。明るく振舞っても、他人に優しくされても、私の希死念慮が溢れて歯止めが効かないの、玲依が死のうと思わなくなったら死のうって決めてたのに途中で死のうとしてる····馬鹿だよね。結局私が1番中途半端な人間なんだ」
そのまま、茉姫奈は言葉を続けて僕に向かって言った。
「玲依がプリント届けに来てくれた日、私、首吊って自殺しようとしてたんだ。縄で首を括ったタイミングでインターホンが鳴ってね、誰かと思ったら玲依だった。正直····運命だと思ったの、玲依が昔のような明るい人じゃなくなってたって事はずっと前から知ってたし、死にたいっていう顔をずっとしてた。だからあの時、君を救ってから死のうと思った。私はずっと、君の事が好きだから、好きな人に笑顔になって欲しくてここまで生きてきたんだけど、満たされた感情と虚無感が同居して、それが首を絞め付けて····もう心に余裕が無いや」
ふと思い出す、あの時の蓋付きのバケツ。
あそこの中に、きっと縄が入っていた。
あの時、死のうとしていたと思うと、僕自身もゾッとした。
茉姫奈の言葉を否定する事なんてできなかった。
クリスマスイブに死のうとした理由は、世界が愛で溢れる日だからだ。
クリスマスイブの日に反抗して死に向かおうとする彼女は、英雄であり、死神のようだった。
きっと、彼女の散り様を目の当たりにしたり、電波で知った人間は眠っていた感情に目覚めて死に走る人が沢山出てくる。
英雄だと讃えられ、自殺志願者は軒並み自殺に向かう。小さい規模なのかもしれない、けれど茉姫奈が死ねば、クリスマスという幸せな日は死に染まる。
世界はシンプルだ。誰にだって正義がいて、悪がいて、それに沿って人間は日々を生きている。SNSが普及して、名前のない狂気で傷つけられていく事がもう日常茶飯事になった今の時代で、文字だけの言葉だけで致命傷を負って自分を見失い、傷の深さが悪ければ破滅に進んでいく。
今の世界で、人を殺すのも、人を生かすのもいちばん多い凶器にもなり、救いの手にもなるのは言葉だ。
そんな世界で、僕に人間らしさを取り戻してくれたのは、茉姫奈だった。
演じているだけだったかもしれない、期間限定の感情だったのかもしれない。
でも、時折見せる屈託のない笑顔や、僕に向ける言葉に、絶対と言い切れる程に嘘はなかった。
「··········分かった。茉姫奈の言ってる事は正しいし、僕なんかが否定する事なんて出来ない。だけど、僕にも言いたいことがあるから、少しだけ、僕の話を聞いて欲しい。話を聞き終わったら、死ぬかどうか決めていいから」
恐らく、これは僕にとって世界一重要な瞬間で、そして世界一恥ずかしく──寒い演説する瞬間だ。
きっと思い出すだけで別の意味で死にたくなるだろう。
けど、それがどうした。
それがなんだってんだ。
「茉姫奈」
寒さも、痛みも、時間も全て僕の世界では無になっていて、僕の世界に佇んでいるのは茉姫奈だけだ。
不思議と、自覚をしても何も感じなかった。
寒くないし、身体も痛くない。
僕は、ゆっくりと口を開いた。
「僕は、何も無かった。
自分の愛などなくて、僕は多分、壊れてた。
まるで、シンデレラのような人生だ。
灰被りのような、希望なんて持てない人生。
なんとも死のうとした。
僕を壊した親にさえ手をかけようとした。
でも出来なかった。
どんなに腐りきっても、どんなに汚れていようと、自分の親だから。
どんなに恨んでいても、自分の血が唯一流れている存在だったから。
僕は、多分生きる事が怖かったんだと思う、どんなに生きても報われるような事がなくて、解けた感情が結び直されるようなことなんて1度もなかった。
僕も、まともに生きたかった。
普通に息を吸いたかった。
でも、他の人たちから見たら僕は恵まれていて、その人達は知りもしないどこか遠い国の出来事を引き合いに出して比較して、かりそめの物差しで僕の全てを、薫陶、沽券を測りたがる。
そうやって身勝手な正義を振りかざして、それで人を救った気になっている人達が、死ぬほど嫌いだった。
死にたい。
生きるって何なのだろう。
漠然と、永遠にそれを考えていた。
だけど、
だけどね。
君と出会えて、生きたいって思える様になったんだ」
喋り出すと、伝えたい事が多過ぎて、止まらなかった。
茉姫奈の感傷を他所に、頭より先に言葉が出てしまう。
けして器用な人間じゃないし、変な言葉も口走っているかもしれない。
ただ分かることは1つ。
僕の人生は、もう君が居なきゃ輝かないという事だ。
君がいない人生なんて、もう僕にとっては生き地獄のようなものだ。
さよならをまだ知らない僕は、君を言葉でしか救えない。
だからこそ。
「分かったことがあるんだ。伝えたい事が、沢山あるんだ」
君のよく言う、自分勝手なんかじゃない。
死にたい君に、僕の本当の言葉で、死から救いたい。
「僕がずっと死にたかったのは──」
うん、そうだ。
そうだよ、絶対。
「僕がずっと死にたかったのは、きっと“幸せ”を感じた事がなかったからなんだ」
生命の価値は平等だ。
どんな王様も、どんな偉い人間でも平等に生命には終わりが来る。それを自己嫌悪と境遇で生命を軽く見てしまうだけ。
茉姫奈が教えてくれた。
皆平等に幸せになれる権利があって、皆幸せになるために産まれてきた。
茉姫奈が教えてくれた。
君がが僕の事を頑張ったねって認めてくれたから。
やっと分かったんだ。
きっと、茉姫奈も人生に幸せを感じていなかったのだろう、だから····僕も君も“幸せ”という言葉を使った記憶が無い。
『僕』の言葉と共に、思い出した。
ずっと部屋の壁に張っていた張り紙。
そこには、『幸せになる』とだけ書いてその言葉を呑み込まないまま生きてきた。
幸せという言葉を漠然に書いて、幸せになろうと努力もしてこなかった。
そりゃ、ずっと死にたいままだと思った。
茉姫奈や、那由さんや、『僕』との出会いで、やっとその言葉の本質を分かった。
「僕も君も、幸せになる為に産まれてきたんだ。
満たされるのと、幸せになるのは、きっと違う事だと僕は思うんだ。
満たされるのは、一時的なもので、幸せは、壊れるきっかけがない限りずっと続くものだ。
だから僕は、死にたかったんだ。
幸せなんて知らなかったから、幸せになった事がなかったから、ずっと死にたいままだったんだ」
茉姫奈は、かなり混乱している様子だった。
ハッとした様子で、屋上の柵に身体を預ける形で後ろに寄りかかった。
ガシャン、と無機質な音が響いて、茉姫奈は俯いたままだった。
「だけど、僕はもう死にたくないんだ。
死ぬのがもっと怖くなってしまったんだ。
なぜなら、あの時から幸せというものを知ってしまったから。
幸せになるってこういう事だったんだって感じてしまったから。
そして、君に出逢ってしまったから、尚更生きたいって思うようになってしまったんだ。
君がいない世界なんて、僕はきっと耐えられない。
いつか人は死ぬよ。
けど、絶対に今じゃないと僕は思うんだ。
あの世とか、死にたいとか関係ない。
僕達はまた出逢えた、たったそれだけで僕は過去を全部帳消しに出来るんだ。
そして君は、あの時ずっと待ってるって言った事があったよね。
だけど気づいたんだ。待ってるだけじゃダメなんだって、自分から迎えに行かなきゃ、全部無駄になっちゃうって。
だから言うよ、僕は──」
感情が抑えられない。
言葉が溢れて止まらない。
僕は、本能のままに、茉姫奈へありのままの気持ちを叫んだ。
「僕は、君が好きだ!」
言い切った時、僕は清々しかった。緊張なんて微塵も感じなかった。
何か覚悟を決めた人間は、どんな状況でも自分の気持ちを貫き通せるんだと思った。
「大好きだ。
愛してるって叫べるくらい好きだ。
こんな感情初めてだったんだ。
なんで、今更気づいちゃったんだって後悔してる。
でも、僕が弱虫だからなんだ。
気づかないフリをしてたんだ。
分からないフリをしててごめん、分かろうとしてなくてごめん、君の大切な気持ちを踏みにじって、ずっと逃げてしまってごめん。
だから、これからは君と一緒に手を繋ぎたい。
どんな過去も、境遇も、引っ括めて一緒に愛し合っていきたいんだ。
過去の僕は、幸せな人間が憎くてたまらなかった。
でも、僕が虐げられているおかげで誰かが幸せなら、それでいいと思ってた。
けど、違うんだ。
僕は、幸せになりたい。
その気持ちが溢れて止まらない。
茉姫奈の様な、人の心に敏感で優しい人には、とてつもなく生きづらい世界かもしれない。
だから、これからは僕が茉姫奈を守るから。
もう、独りじゃないから。
世界がどうとかなんて、もうどうでもいい。
今は、今だけは、那由さんとか、茉莉花さんとか、他の人は関係ない。
今は僕たちの、僕たちだけの時間だから。
僕は、君と一緒に生きたい。
生きろって言っても、きっと死にたくなるだけだから。
だからどうか、僕と一緒に生きて欲しい。
その気持ちを、僕に預けて欲しい。
幸せになる事をどうか怖がらないで欲しい。
どれだけ惨めでも、生きてさえいれば、きっと最後は幸せになれるはずだから。
僕が君に救われたように、君の苦しみは僕が救いたい。
だから気づいたんだ。
やっと気づけたんだ。
僕は、僕はきっと──!」
茉姫奈は俯いたままだった。
雪と夜の暗さで茉姫奈がどんな顔をしているか見えない、僕の言葉が茉姫奈の心に浸透しているのか、それとも弾き返されているのかどうかも分からなかった。
今を抱きしめるように、ただ僕は言葉を紡ぐ。
「僕は、きっと····君と一緒にいることさえ出来たら、君と世界を生きれたら、それだけできっと笑顔で死ねる!」
言い終えたところで、涙が出た。
「だから····茉姫奈······っ!」
感情が止まらなくて、そのまま泣いてしまって、言葉が喉をつっかえて出なかった。
絞り出そうとしても、声にならない声が屋上に響き渡って、そのまま消えていった。
「私はね、自分の人生なんて····どうでも良かったの」
茉姫奈がやっと口を開いて、そのまま僕に向かって1歩だけ踏み出した。そのまま僕は、すこしぎょっとしてしまって、動くことが出来なかった。
「私は、ずっと死にたかった。
どんなに生きても、満たされたら、希死念慮が大きくなってくばっかり。
幸せが、とてつもなく怖かった。
でも、その気持ちを忘れさせてくれる存在が玲依だった。
もちろん、那由だって、お母さんだってそう。
2人は、とても大切な人。
何にも変えれない、かけがえのない2人。
でも、私にとって、玲依の存在が私の1番の生きる意味だったの。
あの日、あの時····玲依が空は黒いって言ってくれて、なんか世界の本質に気づけた気がするんだ。
理不尽で、綺麗なものばっかりじゃないんだって。
けど、玲依の笑顔と言葉に、私はあの時からずっと玲依の事が好きなの。
喜んで。
怒って。
哀しんで。
楽しんで。
無理をして世界を生きてた筈なのに、玲依といる時が、1番人間だった。
那由も、お母さんも、今だけは関係ないって言ったよね?
なら、全部関係なく言うね。
さっきは、嘘ついた····ごめんね。
玲依と居る時の感情は、偽物なんかじゃない。
あの時の気持ちも、期間限定じゃない。
ずっと、子供の頃から抱いた君への気持ちは、想いは何も変わってない。
中学生の時、私が死のうとしたのは、ずっとあった虚無感もそうだけど、玲依が幸せになれない世界に、1番絶望しちゃってたから。
その気持ちが二度と起きないように、自殺未遂の後、玲依の進学先を調べて、そこに決めたの。
陰で君の姿を見るだけで、生きる活力になった。
それでも、同じ時間を過ごしてく上で、希死念慮が邪魔をした。
····けど、玲依の言葉で、少し気が変わっちゃった。
知りたくなっちゃった。
もっと惨めな思いをしてまで。
死にたくなる思いをこれからも抱え続けてまで。
玲依の隣にずっと居られたら、どれだけ幸せなんだろうって。
だから。
教えてよ、玲依」
僕もだよ。
君じゃないとダメなんだ。
君が教えてくれた幸せだから、君と分け合いたい。
君の存在が僕にとっての光になっていた。
君に教わった感情は、本物だ。
「玲依のそんな必死な顔みたら····わたしの希死念慮なんてどうでも良くなっちゃった」
1歩ずつ、茉姫奈は僕の方へと近づいていく。
彼女が佇んでいた柵から、僕の方に近づいた。
真っ暗な死が離れて、満月が少しだけ眩しい生に近づいていく。
それに随伴するように漂っていた虚無感の陽炎も、少しずつ茉姫奈の周りから剥がれていった。
「もし、わたしがまた死のうとしたら、玲依はどうする?」
茉姫奈は僕にそう言った。
僕は、即答で答えた。
「そうさせない為に、僕は君と結婚する」
我ながら、答えの意味が分からないと思った。
「····あははっ! やっぱり玲依は面白いなぁ」
笑いながらそう言う茉姫奈を見ていると、視界が変形した。走り過ぎたことの疲労、出血も増していて、雪に赤黒い雫が垂れ落ちて、侵食していく。僕の身体が少しふらついて後ろに倒れそうになった時、茉姫奈に身体を抱きしめられた。
僕もその勢いに任せて、茉姫奈の後ろに手を回す。
そのままへたり込む形で抱きしめあって、数秒間は動かなかった。
茉姫奈の身体は温かくて、安心した。
その瞬間に、茉姫奈の死の感情が、僕の愛に負けた事を証明したと実感して、涙が出てきた。
そして、茉姫奈の方に感覚を傾けると、茉姫奈も涙を流して嗚咽しているのに気がついた。
「わたし、まだ世界に期待してもいいのかなぁ? 生きててもいいのかなぁ? こんなに惨めで、狂ってるわたしなんかが、玲依と幸せになってもっ····いいのかなぁ····?」
そんな事か、と思った。
答えなんか、茉姫奈にその問いを言われる前から決まっていた。
「うん、一緒に幸せになろう。それに、君は狂ってなんかない、素敵な人だよ」
茉姫奈は涙で嗚咽しながら、僕の背中をギュッと握った。
「····そうやって、強引になんでもわたしを肯定する所、ほんっとに嫌い」
「嘘だよ、本当のこと言って欲しい」
茉姫奈は抱きしめあっていた顔を離して、涙でボロボロになった僕の顔を見て、恥ずかしそうにして笑った。
「うん、嘘。好き、全部好き····玲依の事、だいすき」
それに、僕も笑顔で応えた。
「僕も、茉姫奈の事····愛してる」
この気持ちは、永遠に変わらない。
変わってたまるものか。
「その言葉は、玲依の“自分勝手”?」
「いや、“本心”だよ」
そのまま茉姫奈とまた抱きしめ合った。
この痛みは、この温もりは、全部僕のものだ。
茉姫奈の心を触れる事が出来て、茉姫奈を救うことが出来て、自分は初めて報われたなと思う。
ちっぽけで何も無かったはずの人間。
そんな人間が、ここまでなれたんだ。
僕が生きたいと思うようになった理由は、君がいるからなんだ。
僕が生きようと思うようになった理由は、今····たった今見せたその心が、この世界の何よりも綺麗だったから。
ただそれだけで、僕は前に進める、生きていける。
この幸せを抱きしめて、僕は君とずっと生きていたい。
「好きだよ、茉姫奈」
「うん、わたしも······玲依」
感情の赴くままに、僕らはずっと愛を言葉にしていった。
遠くから聞こえて、徐々に近くなっていく救急車のサイレンを他所に、痛みも全部忘れて僕は、茉姫奈と永遠に抱きしめ合っていた。