朝7時。
今日は、悪夢は見なかった。幸いというか、なんというか。
何故か、あまり言葉に出せなかった。
途中まで騒がしかったけど、またいつも通り静寂が訪れる。
実際何をしようにも何かがまとわりついた感覚になって、行動する気が起きない。いつもなら偶然襲われかけていた茉姫奈を助けずに、『偶然にも君が選ばれただけ』とだけ感じて、逃げるように立ち去るだけのはずだった。
あの時の自分が不思議でたまらなかった。
ただ、あの時なんで『自分勝手』でも茉姫奈を助けようとしたのかが、分からなかった。
やっぱり、茉姫奈の言葉が効いてるのか、とも思ってしまう。
今まで抱えていた大き過ぎるくらいの負の感情が、少し霞んでいた気がした。昨日からそのような事をあまり考えなくなっていた。
「ん····? 置き手紙?」
茉姫奈からだった。
綺麗な字で僕宛てに書かれていた。
『玲依へ
昨日はありがと!玲依がいなかったらほんとに大変な事になってたね。本当にありがとう。早く家に戻って、学校の準備とバイト先の店長にボロボロの制服の事とか謝りに行かなきゃ行けないから早めに帰らせてもらうね、Tシャツもほんとにありがとう。私の身に有り余るったらないけど、使わせてもらうね。じゃあまた、学校でね!』
改めて、やっぱり律儀な人だなと思った。
ちゃんと駄目なものは駄目だと否定できたり、自分が悪いと思えば謝れる素直さ、文面から滲み出る感謝の言葉が、僕の心に優しく解けていく。
茉姫奈の手紙をまじまじ読み直している途中で、ハッとして時計を見る、もう5分程経過していて急いで朝食を作る。別にお腹に入ればいいので、パンとインスタントのコーンスープを食べて、部屋に戻って制服に腕を通した。
ふと、僕は姉さんの部屋を見上げる。
姉さんはまだ寝ていて、ドアから出てくる気配はない。今はもう大学の単位もほとんどとっているから大学もあんまり行く必要もないと言っていた。
就活とか、大学を卒業したあとはどうするのかとかは、聞けてない。なんか聞いてはいけない気がした。
自分の性格でわかる。ただ怖いだけなんだ。
いつも通りの時間に家を出て、同じ音楽を聴いて、学校に行き、普遍的ないつも通りの生活を送る····と思っていたけれど、茉姫奈に気に入られてしまった? からそう簡単にはいかないとは思っていたが、想像以上だった。
僕が席に座ろうとした時に彼女は突然僕の前に躍り出た。
「おはよう! 玲依が私の前の席ってやっぱり運命だよね!」
僕が移動教室の準備をしていると。
「玲依! 移動教室一緒に行こうよ!」
僕が昼ご飯を買いに購買に行こうとしたら。
「玲依!一緒にご飯食べよ!」
極めつけには、帰りのホームルームで背中をさすられた。何か文字を書かれたような気もしたが、そちらの方を向くと、耳元まで彼女は顔を持ってきて悪戯に。
「玲依、一緒に帰らない?」
と、静かで、綺麗な声で僕に提案してきたのだ。
学校で一番可愛いと噂の(ほんとにされているらしい)茉姫奈に、根暗でなんの魅力も感じないであろう僕に急に距離を詰めてきたのだ。
もはやクラスの男子のみんなは問い詰めることも無く、1周回って口を半開きにしていた。
でも、1人からは、かなりきつく睨まれた、名前は分からない。でも学校ではかなり名の通った不良だということはわかっている。
それ以外は逆に奇怪がられて男子の人から問い詰められることもなかった。
だけど僕を問い詰めて来たのは、茉姫奈と仲のいいクラスメイトの人だった。昨日、僕に茉姫奈に着いていきたいと提案した人だ。
帰る前、茉姫奈は先生に呼び出されていたから、その間に口頭で呼び出された。
あまり人が通らない廊下の隅に呼び出されて、今に至る。
「ねぇ、レイ君? なんでいきなりマッキーと仲良くなってるの?」
茉姫奈と仲のいい人は、私すらマッキーの家行ったことないだけど、と少しドスが効いた声で言われて、背筋が凍る。
ぞわ、迫るものを感じた。彼女の他の人とは違うオーラが徐々に僕の首を縊るように締め付ける。刹那的な出来事だけれど、思わず頬から冷や汗が伝うほど内心焦っていた。
「あ、あの近い」
「だから何」
人気のない廊下に呼び出された僕は、ずいっと詰め寄られ、反射的に身を引きながら僕は言う。ここは嘘を言ってはぐらかすよりも本当のことを言って信じて貰えなくても言うべきだと感じた。
「いや、実は夜散歩してたら····」
「してたら、なに?」
茉姫奈と仲の良い人が毒気が多めな声音で言った。女性不信なんだからそんなに刺すような感じで言わないで欲しい。
「茉姫奈がバイト中に路地裏みたいなところで不良に無理やり連れ込まれてて、助けてって叫んでるの聞いたから、たまたま助けちゃったって感じなんだけど····」
「····ほんとに?」
「はい、ほんとです。なのであんまり詰め寄らないで欲しいんだけど」
すると茉姫奈と仲のいい人が一歩下がり、
「ほんとのほんとに?」
「はい、ほんとのほんと」
「ほんとに? 信じてもいいの?」
「····信じて欲しいんだけど」
少しイラッとしてしまった。
すこし僕が強めに言ったら、彼女はすぐ言った。
「わかった。そこまで真剣な瞳で言うなら信じるよ」
認めた様に言われると、僕の中にあった微量の怒りは自然と静まり、すぐに何故こんなことで強く言ったのだろうと反省する。
「あっさり、だね」
「別に」
確かに、僕が茉姫奈と仲のいい人だったら、なにも音沙汰がなかった人と急に仲良くなってしまったのを見たりしてしまったら、今みたいに問い詰めると思う。
それは普通の事で、逆にその普通に焦燥を覚えた僕が変な人間だ。
茉姫奈と仲のいい人がちょっとやりすぎたと思ったのか、僕の眼前から一歩下がり、おもむろにボケットからあるものを取り出し、僕に押し付けた。
それは、連絡先──というか、連絡先が綴られた紙だった。それを渡された瞬間に彼女の魂胆が少し分かった気がした。
「君は疑り深いね」
「私は君じゃない」
「名前?」
「もしや知らないの?」
「····すみません」
茉姫奈と仲のいい人は、少し口調を強めて言った。
「那由····宮腰那由」
「じゃあ、みや──」
瞬間に、茉姫奈が名前を呼ぶことを強要してきた情景が目に浮かんだ。
良くも悪くも、何気ない会話の瞬間に走馬灯のように流れてきた茉姫奈とのやり取りは──何個もあるはずの選択をひとつに絞らせた。
僕は、訂正するように、彼女の名前を呼ぶ。
「····那由さん」
「······ふふっ、那由さんって」
那由さんは、口の端から少し笑みを零す。
多分、僕が苗字じゃなくて下の名前の方で呼んだから意外で思わず笑ってしまったのはすぐに分かった。
何故か、那由さんが笑ったら「こうやって笑うんだ」とか、この人はこういう笑い方をするんだ、とか思ってしまって、少し新鮮な気持ちになる。
普段は思わない事も思えるようになってきているのは、やっと心が現実に追いついたからなのか、新しいことの連続で思わず視野が広まってきているのか。
生き急ぐ事に必死で、自分の足元しか見えなかったのに、昨日をきっかけに彩りを見事に添えられた。だからこうやって恐る恐るでも、那由さんとも関われる機会がやってきたのだろうか。
那由さんは、あまり怒ってはいないようだった。少し僕を疑っている色と、信じている色で二分割になっていて、でも信じてくれているなら、それだけで僕は少しほっとする。
「マッキーとはさ、中学からの仲でさ」
那由さんは少し、僕に語りかけるように話し始めた。
「中学の頃に、色々あってここに引越してきちゃって、新しい環境だからさ、友達いないわけじゃん。実際、私ね、地方から来てどんな話していいかわからなかったし、前の学校でも色々あったから学校楽しくないなぁとか思ってたわけ。その時にマッキー真っ先に話しかけてくれて、ねぇどこから来たの? 話そうよって。嬉しかった。あー私って1人じゃないんだって、救われたなぁって、ちょっと思っちゃった」
やっぱり。
茉姫奈は無自覚だけど、何気ない行動で、何気ない一言で、人を救っているんだと思ってしまった。
それに茉姫奈は気付けていない。
仏陀やキリストみたいに大勢の人を救ったわけじゃない、たった1人····それだけの心を救っただけでも、救える力を持っていると言うだけでも、偉大な事だ。
茉姫奈の話をする那由さんの目は少し輝いていて、絆と絆で蝶蝶結び──いや、解けないように何重にも玉結びにされた様な、固いものを感じた。
「仲、いいんですねやっぱり」
「“玲依君”もマッキーにそう思われてるから、マッキーはもう仲良いって思ってるから」
「そう、ですよね」
「良かったじゃん、マッキーこうやって男子と親しい感じで仲良く喋ってる所見たの、中学からの付き合いで今日が初めてだよ」
双眸と、那由さんから流れている色を見る限り、嘘をついている感じではなかった。
茉姫奈が言ったことが嘘を感じられなかったように、那由さんの言葉で裏付けが付く。本当を言っている色を淡く那由さんの周りをすこしなぞっていた。
当人に救われた人はその人を想い、重いくらいに茉姫奈を思い、この様な思い切った行動もできるし、茉姫奈を信じているが故の行動ともとれる。
友情が深いとか、そういう言葉が、今まで不快にしか聞こえなかった。だけど今は、少し意味がわかる気がした。
「な、那由さん」
救われたもの同士、少し話をしたら何か分かり合えると思った。
ただの直感でしかないけど。
「実は、僕も少し救われたんだ」
気がつけば那由さんを呼び止めて僕からも話しかけていた。
茉姫奈に話したような内容を那由さんにも話して、彼女の顔を伺った。茉姫奈に話した内容の一言一句なんて覚えてないから、手探りな言葉で、彼女の心に少しでも染み渡るように話した。
「多分、君とはかけ離れた境遇かもしれないけど、茉姫奈と1番の友達って言うなら、関わることも多くなるかもしれないから話しておきたかったんだ」
「······」
那由さんは、眇めた目で少し僕を見つめていて、何も言わなかった。
「どうか理解してください、なんて言わない····から」
ふと那由さんを見る。那由さんの周りからはふつふつと怒りの色が見えた。
それを見た時、やってしまったな、と思った。
「そんな話、聞きたくなかった」
確かに。
那由さんが話したのは、茉姫奈と仲良くなった経緯であり、僕が話したのは過去と今であって、その過去に受けた痛みを人にさらけ出して、お涙頂戴をしているだけだった。
ただの自分のエゴを振り撒いてみんなから共感をもらおうとする悲劇のヒロインと一緒。きっと感じる人からしたら、「いきなり何この人」状態だ。
そんな話聞きたくなかった。
僕の正鵠を的確に射った言葉に、ハッと我に返る。
自分の過去をネタにして同情をかっているだけに過ぎない僕は、那由さんの一言で悟って、相当気持ち悪い人間だと自覚した。
「····ごめん」
「玲依! 那由と一緒にいたの?」
「あっ」
「じゃあね、マッキー!」
那由さんは茉姫奈の方を向かずに逆の廊下に走って行ってしまった。そのまま階段を降りていって、最初は単調に響いてた足音が静かにフェードアウトしていった。
廊下にいる人は那由さんから茉姫奈に変わり、僕はまた女性と対峙した。
少し力が抜けて、後ろの壁に寄りかかる。
そして、今1番会いたいとは思えなかった人と相対してしまった。
酷く気まずい。
自分から話しかけられないくらい、口が重い。
「····那由って」
「······?」
「那由ってね? 人一倍私を大切にして、気遣ってくれるから、逆に私、こんなに大切にして貰っていいのかなぁって思う時あるんだ」
茉姫奈から少し漏れた気持ちは、那由さんを大切に思っているからこその言葉。
「うん」
「だから多分、玲依になんで急に仲良くなったのーって言われたんでしょ? 那由って私の事になると先走っちゃうからさ」
「うん」
「ちょっと強めに言っちゃったんでしょ? ごめんね、那由もいい子だから」
「····うん」
突然茉姫奈が壁に両手を勢いよく付けて、壁に寄りかかっている僕に迫った。
刹那的な事だったから少し驚いて、目の前に躍り出た胸にも驚いて、反射的に顔を横に逸らす。
「さっきからうんうんばっかり! どうしたのさ急に!」
「····うん、こめん」
「だから、なんで──」
「学校では····あんまり目立ちたくないんだ」
変な知識だけが身について、目の前の今日や明日を考えて生きていく頭だけはまるで発達していなかった。
いや、馬鹿なのは僕の方か。
そんなことを考えている矢先に、茉姫奈は大きな声で、僕を諭すように言った。
「そんなの玲依の勝手じゃん、私は私の『自分勝手』を貫くから! だから毎日玲依に話しかけるもん」
『自分勝手』──最初に茉姫奈が言って、そして昨日茉姫奈を倣って僕も言ったことが、今日になってそのまま返されるとは思わなかった。
自分勝手の押し付け合い、最初は億劫なもので、鬱陶しいと感じていた茉姫奈の自分勝手も、すこしキラキラして見えた。
生産性もクソもない自分の人生と比べたら惨めになって来るような、光り輝いている彼女自身に胸焼けがしてくる。
子供の頃の僕のように繊細で、感受性が豊かな人間で、人の仕草、声、喋り方、目の色、感情全てに憧れている時。だけど、今の僕は変えられない現実と理想の間で今も溺れ続けていた。
公園に1人佇んで、無言で座りながらその公園で遊んでいる年齢が変わらないだろう子供達が無邪気に遊んでいる姿を目に焼き付けて離さなかったあの頃。
全てがキラキラと輝いていた。汚い世界を知る前の美しい自分。
何もかもが満たされていて、世界の汚さと、人の冷たさを知らなかった自分が、今じゃ何ににも期待をできない、温もりを忘れてしまった人間だ。
世界を綺麗に生きている茉姫奈は。
これからもずっと、死にたいだなんて、思うことなんてないのだろう。
「······きっとさ、玲依は自分を信じてないんだよ」
「それは、ずっとそうだよ」
「自分を信じれないなら、無理にでも自分を信じないと、ずっと同じ世界だよ」
何回も言われてきたであろうその言葉。
自分を信じろ。
1番簡単そうに見えて、1番難しい行動だ。
ずっと生きる事に息苦しさを感じていた僕が、少し息がしやすくなったとはいえ、その言葉を飲み込む事はまだ出来なかった。
言葉が大きすぎて、飲み込もうとしても本能が拒絶する。
壁から手を離し、茉姫奈はおもむろに僕の手を握って、再び静寂が訪れた廊下を切り裂くように口をまた開いた。
「でもさ····偉いよ、玲依は」
「いきなりどうして」
「玲依の事だもん、私との誤解を解くために玲依が今までされてきた事言ったんでしょ?」
「····うん」
「それってさ、すごい悩んだ末に言った結果だよね。同情して欲しいとかじゃなくて、自分の本心から出たんだよね」
「····そうだと思う」
「そうだと思うじゃなくて、そうなんだよ。君は優しい人だって知ってるから」
「······」
違うよ。
優しいのは僕じゃなくて君の方だ。
「私は、悩みとかあっても、多分人には言えないで自分で塞ぎ込んじゃうからさ、玲依は言える勇気があるっていうだけで、自分を信じる事が出来る材料になるんじゃない?」
そういう所が、優しすぎて僕は押し潰されそうになる。
茉姫奈に握られた手は温かくて、冷たくなくて、ちゃんと生きていて──ただ人生のレールに任せて息を吸っている僕とは違って、言霊に乗せて僕の心を軽くする意志を持っていた。
皆はそれを知らなくて、そんな事なんて僕からは言えなくて、茉姫奈と同じで今まで言えなかったから。
変わったのは僕じゃない。
「僕は──」
僕の言葉を制止するように茉姫奈は笑みを零しながら言った。
「もうさ、下校時間過ぎちゃってるから一緒に帰ろ? 那由には私から言っておくからさ」
茉姫奈は那由さんが通った道をゆっくり歩き出しす。
人と一緒に学校から帰るのは初めてで、どんな対応をしたらいいのか分からないけど、僕は茉姫奈の言われるがままにバッグを持ってその後ろに付いて行った。
「一緒に帰ろう」
薄暮の夕陽に照らされて恥ずかしそうに言った茉姫奈の笑顔は、何故か遠くを見つめているような気がした。
そのまま何事もなく茉姫奈と一緒に下校して、家に着く。女性と話す環境が出来てしまった以外は普通で、昨日とも形容できる今日にまたドアを閉めて、そして戸締りをした。
家はやけに静寂に満ちていて、夕焼けが所々影を作っていて薄暗い場所が出来ていた。
昨日、母さんが僕がいない間に施設に送られたって言っていた、僕はその時援交をしていたのかと勘違いしていたが、母さんを施設の人に送り届ける手続きをしていたのだろうか。
多分、今姉さんは寝ている。
僕が学校に行った後に課題や、自分のすべきこと(援交も然り)をやった後は、夜になるまで部屋から出てこないのだ。
姉さんも色々ストレスが溜まって疲れていたのだろう、だからうつ病の施設に母さんを移したのだと思うし、父さんとも決めたんだろうか。
『仁美は、もう駄目だな』
という言葉が憎たらしく頭の中に反響して目を眇めた。
黒い感情を押し殺しながら靴を揃えて、リビングを通り、階段を上がって真っ先に自分の部屋に向かう。
自室の時計を見たら5時前で、それまで寝ようと思い、制服をハンガーに掛けて、普通の部屋着に着替える。
そのままベッドに潜り込んで目を閉じようとした時に、突然ラインがなった。
茉姫奈からなにか来たのかなと思って携帯の電源を入れたら、通知の上には「那由」と書いてあった。
「····?」
ラインを開いて、文面を確認する。
『今日のことで、電話したい』
僕は那由さんの連絡先を入力してなかったのに、僕のラインを知っていた。
『分かった』
とだけ入れて、那由さんの返信を待った。
脳裏には少し前のいざこざが浮かんで、緊張で心臓が早鐘を打っていた。
すると、そのまま電話が掛かってきて、着信主は『那由』と書かれている。震えそうな指で受話器のボタンを押して、恐る恐る口を開いた。
「もしもし」
『玲依君? 聞こえる?』
「うん、大丈夫」
予想していた事ではあるのだが、全く話す内容が見つからなくて、内心は酷く焦っていた。
だけど、さっきの事は謝らなければ、先に進めない気がした。
「あの、さっきの事は──」
『ごめんね』
一瞬、頭が混乱した。
あの時、怒りの色が見せていた那由さんがいきなり謝罪をした。那由さんが謝る理由も、要素も無いはずなのに。
なぜ謝ったのか分からなかった。
その状況は実に奇妙に感じてしまった。
「なんで、那由さんが謝るの」
『あの時、怒っちゃったから』
「それは、知ってるけど、」
『私、あの時玲依君の話に同情出来なかった』
当たり前だ。
常軌を逸脱しすぎている話だ。
作り話とも揶揄出来るような、普通では考えられないような境遇。
脳裏にまた浮かんだのは、僕が小学生の頃に髪を掴まれながら父に言われた言葉。
──玲依····お前には、一体何が。
何が、からは言われなかった。
知るはずもない理由を並べようとしても、分からない。
『あの時ね、真っ先に許せないと思ったの、家族はきっと子供を愛して、愛される為にあるもののはずなのに、それを蔑ろにして手を上げるなんてさ、許されないことじゃん』
息を少し吸ってそのまま那由さんは続けて言う。
『なのにさ、そうやって玲依君のお父さんもお母さんも、手を上げて傷付けたっていうのを想像しただけで、なんかさ、怒りで泣きそうになっちゃって、そんな悲しくて、酷い話、聞きたくなかったから、誤解させる様なこと言っちゃってごめんね』
僕が思ってる以上に那由さんは、人の事を考えていて、その上に僕を気遣ってくれていたのだと気づいた。
あの時の冷たい言葉も、物事を俯瞰し過ぎた故の発言だった。
直感的で、でも誰よりも言葉を考えていた。
那由さんから謝られた理由も分からないくらいまで俯瞰が出来ずに、独り善がりな考えた方をしてしまう僕は、馬鹿だ。
「いや、いいんだよ。僕も本能的に話しちゃったから申し訳ないと思ってる····そもそも、那由さんが謝ってきた意図が汲み取れなかった僕が悪いわけだし」
『──そうやって話したくない自分の過去を話しちゃうのって、多分ね、誰かに愛されたいと思ってるからなんだと思うよ』
「····」
『だから、玲依君はマッキーに話したんだと思う、自分は愛されない、だけど、それでも愛されたいって思ってるから、マッキーの温かさを知っちゃったから、玲依君が抱えてた自分の心の冷たさが負けちゃったんだよ。マッキーの温かさが勝っちゃったの、私もそうだったからさ』
「それは、どういう」
『前にも言った通りで、少し付け加えるけど、前の中学校で虐められてて、それで親も仕事変えてまでここまで引っ越してきてんだよね』
思いがけない過去に、少し息を呑んだ。
『親達の仕事の事でも色々あってさ、だから人と話せなくて、話す内容にも悩んじゃってさ、それであぁ楽しくないなあってなっちゃってた』
あぁ、と納得してしまった僕がいた。
物事を俯瞰して判断出来るのは、以前にクラスという学校のコミュニティの世界から隔絶されてしまって、それ以上に虐げられていたから。
いじめがあって人のことを考えすぎてしまうこの人格が無理やり形成され、今に至っているのだろう。
薄暗い部屋に、ぽつりと僕という存在がベッドに座っていて、携帯電話という、電波を流したら文字通りなんでも出来る奇怪な機械を耳元において、コミュニケーションを取っている。
その携帯には、電波越しに那由さんの声が反響しながら、部屋にも解けていく。
その過去を乗り越えて、ちゃんと考えを言えるのは素晴らしい事だし、僕に出来ないことを持っている。自分から本能的じゃなくて、自発的に発言したりなど今まで出来なかったことだ。
『だけど、私の所にマッキーが真っ先に来てくれてさ、屈託のない笑顔で私と友達になろうって····そこから私は、あぁ独りじゃないんだって、私も一緒に居ていいんだなって思って、マッキーに負けちゃった』
那由さんに向けたであろうその笑顔が容易に想像できたのは、茉姫奈がそれ程までに素晴らしい人間だからだろうか。
ただ、僕が想像しやすいだけなのか。
漠然と頭に浮かんで、ただそれを深く考えもせずにただ消去して、視界が薄暗い部屋に急速に戻される。
1度想像すると何も会話とかが入らなくなってしまう、僕だけかもしれないけど、1つに気を取られたらそれしか考えられなくなってしまう。
多分、茉姫奈が向けた笑顔は、那由さんにも向けた笑顔と同じ。
その人を救いあげる大きな手は、茉姫奈にしかない特別なもの。
そのような事を考えていると、那由さんの声が僕の耳に届く。
『だから私もごめんね。自分を棚に上げたようなこと言っちゃったから、あの後マッキーにも玲依君誤解してると思うから、ちゃんと謝ってあげてって言われてさ』
「····分かった。僕も、至らない点があったからごめん」
『ふふっ、お互い謝ってばっかりだ』
「まあ····うん。確かに」
『真面目だね、マッキーみたい』
「何に?」
『生きる事に真面目だなって思って』
何故急に茉姫奈の名前を出したのか、と思った。
茉姫奈は、真面目に生きていると思う。
前を向いて生きてると確実に言える。
僕は、いつも矛盾している考えを持っている汚らしい人間だ。
「多分、それは····那由さんだよ」
些細な嫌がらせが大きく拡がってしまった虐めは、少なからずとも、当事者──虐められた側には大きな傷痕を残す。
それは僕は少なからず理解しているつもりだ。
電話越しに、那由さんの呼吸が聞こえる。一定のビートを刻んで、生命が脈打っている音がする。
他人の心音とか、仕草とか、呼吸とかは良く聞こえたり、見えたりするのに、自分の仕草や、癖は分からない。
呼吸をして生きているのだろうけど、たまに自分が息をしているのかがわからなくなる時がある。
茉姫奈との出会いが、僕に深呼吸をさせるきっかけをくれたけど、まだ何か満たれている感じはしなかった。
その満たされない気持ちの名前も、分からなかった。
「ねぇ──」
『玲依君』
名前を呼ばれる。
「──何?」
『絶対に死のうとしたらダメだよ』
「────死なないよ」
その後は自然の流れでお互い電話を切り、僕もベッドにそのまま倒れ込む。
携帯を持った腕で両目をそのまま塞いで、シャットダウンした視界を開けることも無くそのままの沈む意識に委ねた。
何を考えるにしても、何も思い浮かぶはずもなく、そのまま眠りに落ちた。
死なないよ。
果たして本当にそうなのだろうか?
いや、死ぬのは怖い。
怖くて怖くて、たまらない。
でも、ふとした時に、何かが壊れた時に、とても簡単な理由で死んでしまいそうで。
そんな自分が。
どうしようもなく怖い。
自分は正常な人間かどうかすらも猜疑する。
今も、こうやって言われなければ気づかなかったことだ。
死にたくないのに、それでも自分を殺したいと思っている自分が。
死ぬこと以上に、とてつもなく怖かった。
少し眠ろうとした時に、携帯の通知音がなり、携帯がそれに随伴し電源が付く。
薄暗い部屋に携帯の灯りが入ると、ついつい見たくなってしまう。僕はその通知を見るために携帯を見た。
『茉姫奈:明日から、3人で一緒に登下校しない? どうかな?』
もう1人は、茉姫奈の文脈から察するに那由さんだろうなとすぐにわかった。
ただの携帯で打たれた文字で、無機質な文字列なのに、これ程までに効力を持っている文字はなかった。
分かった。と茉姫奈に秒読みで返信してしまって、僕はまた溜息を吐く。
これからどんな生活が始まるのかとか、不安だとかはもう考えなくなっていた。
他のクラスメイトにはもう既に不審に思われているだろうし、去年はほとんどの人とコミュニケーションを取らずに過ごしてきた人間だ。1周回ってどんな反応をするのか見たいくらいだった。
だけど、何故茉姫奈が僕にこんなに執着するのが、今はどれだけ考えても分からなかった。
2
新学期が始まってから、2ヶ月半が経った。
今でも那由さんと茉姫奈と3人で登下校を一緒にしていて、僕の家が丁度那由さんと茉姫奈がばったり会う所だったからか、毎日同じ時間に僕の家の前で待ち合わせして、学校にそのまま行っていた。
一緒に学校に行くようになったその日に、ラインで3人のグループも作られてしまい、とうとう誤魔化しが効かなくなったと感じたのを覚えている。
そして、例にも漏れず今日も、2人をマンションの前で待っていた。
「玲依、おはよう!」
よく通る声が耳に入り、声の方向を向いた。
少し着崩した制服を着て、変わらずの髪色、メイクはしないと言っていたが、メイクをした様な顔立ち。
変わったはずなのに変わらない日常が流れていて。それこそ夢みたいな話だ。
ずっと描いてきたのは、この様な普通の生活だった。描いても妄想で終わる事ばっかりな人生に、少し色がつき始めた。
僕は、その世界に順応するかのように、彼女の挨拶に応えた。
「おはよう」
茉姫奈がすぐそばまで来て、僕の肩を叩いた。
「待った?」
「待ってた、かな」
「もう少し早く行けたら、驚かせたかな」
「そんなことで驚いたりはしないよ」
「でもいつも私、那由より遅いからさ、成長したと思わない?」
「まあ、そうだね」
「そうだねって、もうちょっと褒めてくれてもいいのに」
そう苦笑しながら言う茉姫奈。そこに介入する形で那由さんが待ち合わせ場所に到着した。
茉姫奈の後ろから来ているはずなのに、茉姫奈は足音か気配か何かでいち早く気付いて、那由さんの方向に向かっていく。
ブレザーの制服を揺らして話す2人は、僕には少し眩しすぎた。
「玲依、行こっ」
「うん」
見慣れている光景なのに、まだ自分自身で幻を見ているのでは無いのかと錯覚してしまう。
僕が女性と一緒に時間を過ごしている。
でも他の人に話し掛けられたら気持ち悪い感覚になるのはまだ変わらず、やはり僕の中でこの2人には心を少しばかり許しているのかな、と思った。
「玲依君、すこし変わったよね」
と、那由さんに唐突に言われた。
「え? ······そうかな」
「うん、すこし柔らかくなったって言うか、何か遠くを見るような事が無くなった」
「確かに!」
「そんな過剰に反応することかな」
「そんな小さな事だからこそだよ!」
「····なるほど?」
「あと、ずっと考え事してる様な表情も少なくなったよね」
「マッキーそれ私も言おうとしてた」
「だよね! 那由はよく人の事見てるねぇ」
後、僕自身の中ですこし変化があった。
毎日の様に見ていた殺される夢を2人と一緒に行動を共にした次の日から見なくなった。
悪夢ではなく、普通の夢を見るようになって、感覚的に苦しい思いをせずに寝れるようになった。
だけど、たまに僕を殺していた影が、夢に出ることがある。
目の前に僕の前に現れて、何か言っている所で毎回終わるのだ。
その場面が一気に切り替わって現実へと覚めていく。
「まぁ、僕は元々こういうコミュニケーションを取るような人間でもないから」
「これから取っていけばいいんだよ」
「そうそう、玲依君も、やっと前みたいな危なっかしさが薄れてきたからさ」
危なっかしさと言われて、そうだなと思ってしまった。
過去を思い出しても何もならないけれど、ずっと死にたいと思っていた僕でも、ここまで今日を変えられた。
今でも信じられなくて、自分は夢を見ているのではないかと何度も思ってしまう。
今見えてる視界も夢であって欲しいと何度思ったことか。
それは何故か。
それは、人の感情が色として見える事が、死ぬほど嫌なのに、それがなくなっても怖い。
見える色が、僕を依存させていることだ。
そのきっかけの場面は──今でも鮮明に思い出せる
それが見えるようになったのは小学生低学年の時、授業中にふと空を見てみると、真っ黒な空だった。“黒い蒼穹”がずっと続いていて、何故だか分からないけれど、空が死にそうで、泣いているような感じがした。
でも日差しはあって、窓からは煌々とした光が僕に刺すように照らしていて。
その時の僕は活発で、今のように自分を閉ざしてはいなかった。興奮と不安でいてもたってもいられなくなった僕は自由帳で真っ黒な空を書いて隣の人に見せた。
今思えば、本当は嫌な顔をされながら「何を言っているんだ」と言われるようなシチュエーションだ。
その人はすこし凝視したまま、「私は青く見えるけど、レイには、その空は黒く見えるんだね」と微笑みながら言われた。
本当に黒いのに、と僕は思いもう一度空を見た。
黒かった。本当に黒かったんだ。
でも、知っていた。あの空は本当は青いんだって。
天変地異でもないし、空は泣いているはずなんて無かった。
黒い空は僕が瞬きを暫くすると徐々に青色に戻って、何事も無かったかのように動き出して、青を紡いだ。
目を擦っても、空は黒くなんかない。
隣の子は、それでも「レイがそう見えてるのなら、きっと本当はそうなのかもね」と何故か何度も肯定してくれた。
その子と一瞬目が合って、その子ははにかんで、明るい色を淡く放った。
それが──初めてだった。
その時、見える色はその人が感情を持っているかとかだと分かった。僕は耐えられずにその子に『空は真っ黒だったけど、君の色はとても綺麗だ』なんて言ってしまって、少し面食らった後に彼女は恥ずかしそうに笑った。
その子とは1年でクラス替えで離れ離れになってしまったし、昔の事だからか、名前すら、顔すらも忘れてしまっている。
ただそのきっかけの記憶が断片的に残っているだけだった。
その子が出した色の後は、色を意味を知れば知る程、知りたくない事ばかりが降り掛かったが。
2人をよく見ると、出会った時からずっと変わらない色をしている。普遍的で、ずっと変わらなくなった光景が、何故か眩しく見えた。
何より、そこにこんな僕がいてもいいのか、とまで思ってしまう。
学校でも、彼女達に比べたら僕は空気に等しく、学校内で誰とも話すこともなければ、茉姫奈と那由さんは色んな人と会話をしていて、時には男子とも会話をしている。
僕は2人に話しかけられてやっと話せるくらいだ。
3人で通学路を歩いている時も、この様にずっと同じことを考えている。
「茉姫奈達はさ、僕みたいな考えになったことは無いのかなって唐突に思っちゃったんだけど、どうなの?」
僕みたいな考え、と言っても抽象的すぎて言った僕自身もあまり的を得てない発言だなと思い申し訳なく思った。
僕みたいな考え、といっても女性不信や、死にたいと思ってしまう感情、言い出したらキリがないなと思った。
「んー······玲依が言ってるのは境遇とか、過去が重なって死にたいと思ってても死ねないっていう考え方かなって思っちゃったんだけど」
「あ、それ私も思った」
「やっぱり私たち以心伝心だね」
「····そのやり取り、ほとんど毎日見てる気がするんだけど、流石に飽きてくるよ」
「不満?」
「そういう訳じゃないけど、そのやり取りを毎回されると見飽きるというか」
「まあ····私たち可愛いし玲依としても眼福じゃない?」
自信たっぷりの顔でそう言う茉姫奈だが、確かにそう自信を持って言われてもあまり反論出来ないくらいの顔立ちはしていた。
どれだけ僕が悪い所を見つけようとしても見つけられないくらいだ。
「んー、玲依のその心情は分からなくもない!」
一瞬、茉姫奈の周りにモヤのような、透明な陽炎のようなものが見えた。
僕は初めて見たそれに対して、特に意味は無いだろうと思い、茉姫奈の言葉に返答をする。
「····相当ふわっとしてるね」
「んーじゃあ、生きる事ってどういう事だと思う?」
急に僕の質問と同等の難しさの質問を返されて、返事に困って少し狼狽してしまった。
少し黙り込んだまま、僕は思った事を口に出した。
「その言葉の通りに、人生を送ること。僕の場合は、意味のない人生だろうと思ってたけど、最近は違うように感じてる」
哲学的な問題だ。
人それぞれその生きる事について考え方は違うと思うし、多種多様な考え方が存在していると思う。
だが、僕の言った生きる事と、茉姫奈が思っている生きる事は必ず違う。それが同じ人という人は居ないだろう。大枠は合っているかもしれないけれど、細かい所を見ていくと違っていたり、全てがあっていることなんて天文学的な確率だ。
僕のようにずっと死にたい、消えたい、でも死にたくないという矛盾した感情が、その生きる上でずっと付き纏っていたり、あの2人のように過去や現状、境遇と向き合って、それを乗り越えて今を生きている人もいる。
那由さんや茉姫奈が僕の世界を少しでも変えるきっかけになったのは、その2人が生きる事について僕以上に考えていたからだ。
「じゃあ、質問を変えるかな。なんで人は死にたいって思って、結局死を選んじゃうんだと思う?」
それは、恐らく単純かつ簡単な答えだ。
「····死にたいから、なんじゃないかな」
「まあそれはそうなんだけど、それをもっと敷衍して言って欲しいな」
その理由を敷衍した所で、その死んだ人の理由は死んだ人にしか分からないし、筆者の考えを予想する事が出来ないようにに、死を選んでしまう人の気持ちがあまり分からなかった。
あの頃の僕は、多分何かと死にたいという感情に理由をつけたがっていたのだろう。
前までは毎日死について考えたり、生きる事とか、それこそ那由さんに死んではいけないと忠告をされたし。
その時自分は····生きる術を考えた所で、僕には道標にすらならない事だ、と蓋をして、灰被りのシンデレラの様に塞ぎ込んだ。
勇気もなくて、死ねるはずなんて無いのに。
「····ごめん、分からない」
僕は、チラッと茉姫奈の方を見て謝る。
茉姫奈は、心で訴えかけるような目をしていた。
「いいよ。気にしないでね····多分ね、本気で死にたいとか、本気で追い込まれてる人って、簡単な事で死にたくなると思うの、少し躓いたりしたら死にたくなるし、ごめんねって言ったら死にたくなるし、ただ自分の物が落ちたり、他にも色々あると思うけど、でも多分、そういう理由で死んだ人も沢山いると思う」
かなりリリシズムに偏った回答だと感じた。
まあそれもそうかと、僕はすぐ納得する。
僕達の通っている高校では死について深く考える講演会や授業なども実施されていたり、授業の一環で倫理のコマも組み込まれていた。
付近の高校と比べると偏差値はかなり高い方であり、それに随伴して茉姫奈もギャルの格好こそしているが、茉姫奈自身もかなり頭がいい。
遊んでそうな格好をしているが普段は真面目に勉強していて、それ故にこのような、適当ではない、真面目な答えを導き出せる人間だと僕は思った。
「やっぱり、頭いいね」
「授業はちゃんと受けてるからねぇ、こんな格好だけど」
突然、誰かの携帯が鳴って、音の方向的に僕の携帯ではないのはわかった。
茉姫奈が目配せして、那由さんが携帯を見て確認をする。
すると、突然那由さんは「あー!」と大きな声を上げて、急いだ様に僕と茉姫奈に言う。
「ごめん! 今日日直なの忘れてた、私もう走っていくから後でね!」
そう言いながら、那由さんは僕たちのあとを去っていった。漸次遠くなるその背中を見て、茉姫奈に少し、頬を膨らませながら僕の制服の裾を引っ張ってきて、僕も歩き出す。
意識していなかった事が情報として僕のもとに入ってくる──やけに、日差しが強くて、あまり暑くは無いのに初夏のような日差しにジリジリ照らされている。もう散っている桜の木を見て、もう季節は移ろっていくと改めて実感した。
「····話の、続きしてもいい?」
「うん、全然いいよ」
ずっと茉姫奈達といるからか、最初の方に見えていた色がたまに見えなくなったりする。常時見える訳じゃないけれど、眼鏡越しでも目を凝らすと浮かび上がってくるものが、見えたり見えなかったりする。
それも、自分の生活の変化に繋がるのか、とも感じたが、そんな難しい事は考えたくなかったからか、僕はすぐに忘れることにした。
「それで、良くなんか色んな人が、自殺するのは人生から逃げたんだー、とか言ってるけど、多分そうじゃないんだと私は思う」
刹那、茉姫奈は僕の手を両手で握った。
それで僕も突飛な出来事で一瞬立ち止まって、時間が止まった感覚がした。
さざ波のように風が揺れる。
強くなる日差しが、茉姫奈の影を長くした。
対照的に、僕の影は短くなって、茉姫奈の影が伸びて僕の影と重なる。
一瞬、影と重なって茉姫奈の顔が見えなかった。
目が影に適応して、両目のファインダーでしっかり映し出しているのは、真剣な目で語りかけるあの時の目。
僕の持っていた価値観を全て壊した、あの茉姫奈の目。
僕は茉姫奈の表情や、仕草や、揺れる金髪に夢中で、差し込む光なんて気にならなかった。
喧騒も、流れていく人々もかき消すほどの力を持つ彼女の言葉と表情は、僕に感情の色を見せる事すらも忘れさせた。
「自分で死を選んじゃった人って、言う人に言わせたら『逃げた』って言われるじゃん。だけどさ、そうじゃないと思うんだ。『逃げた』んじゃなくて、逃げようとしても結局『逃げられなかった』人だって····必死に逃げようとしたって結局逃げる場所なんてなかった人達なんだって····そう私は感じてるんだ」
茉姫奈が、代弁者のようにも感じた。
「····うん、僕もその通りだと思う」
納得する事しか出来なかった。
まるで彼女がいつもそのような事を考えているかのような、完璧な答えだ。
逃げ道なんてないから、自分で死に場所を選んでしまう。
僕も、多分それに似たような感覚を持っていた。
死にたくなんてないのに、なぜかベランダに居たり、包丁を持ってたり、マンションの屋上に上がって景色をずっと見下ろしていたりもしたし、酷い時は家族をどうやって手にかけてしまおうか考えていたりもしたこともあった。
今はこの空間という逃げ場所があるけれど、姉さんが守ってくれた場所も、息が苦しくて仕方なかった。
だけど、違う。
それでも、生きてる。
だから自分で死のうと飛び降りたり、人を巻き込んで死ぬ人は──僕以上に重いものを背負った人間なのだ。
僕が、偽善者みたいだった。
死にたいと思いながら生きて、結局1歩下がる。
「まあ、私の考えだから、気にしなくていいと思うし、頭の片隅くらいに入れといてよ」
そう言うと、また茉姫奈は歩き出した。
それに追いつくように僕も早足で歩き出して、学校に向かった。
学校について、クラスに指定された席に座っていつも通りの授業を受けたとしても、何かが変わっていくという訳では無い、授業を受けていつも通りに知識を蓄えて、受験に準備する。
学校というものは、その繰り返しで出来ていると思っている。
世界に“色”がつき始めて、全てが変わってしまったようにも思える。
歳をとるにつれて、本来見えていたものが見えなくなったり、視力は良いのに大切なものは年々ぼやけて見えるのは、自分の心が汚れているからだろうか。
それに目を塞いで、今は言われた事しかやらなくなった気がする。
歩かされたレールすらも言われた通りに歩いてきて、なぜか僕をそのレールから吹き飛ばす列車すら通ってくれない。
でも、列車は通ってくれなくとも、線路は変わったとは思えるようにはなってきた。だから、最終的な自分の将来の目標は叶えなくちゃな、なんて最近は思えてきている。
それと、茉姫奈と那由さんと一緒にいるようになってから、色んな人から見られる事が増えた。
気がするでは無く、本当に増えた。
断言出来るくらいに。
今まで空気同然だった僕が、学校でトップレベルの2人と一緒に登下校したり、昼ご飯を食べたりしている。
高校の最後のクラス替えでグループが既に完成していて、元々高一の頃からのグループや、新しいクラスになったと同時に仲良くなったグループ、様々だった。
その元々あったグループの2人の中に僕が混じっているのが、奇怪で仕方がないのだろう。たまに自分でもそう感じる時はあったりする。
嫌でも様々な人達から、疑念の目を向けられることが多くなった。
特に、クラスで目立つ不良の男子には特に。
最初は初めのうちかと思われていたのだろう、ずっと居るうちにそのような事を威圧的に聞く事が増えてきた。
「なぁ、なんでお前みたいなやつがマッキーと那由といつもつるんでんの?」
昼休み、委員会の仕事で2人がいない時、僕はここ最近はいつも男子に絡まれていた。
ポケットに手を突っ込んで僕を見下すように言う彼は僕より背が高くて、図体も大きい。
髪は短髪で、髪の色はベースは黒だけど、毛先などは金髪。
名前は──元々覚える気もなかったから、分からない。
僕に絡む人達から渦巻く色は、単なる好奇心の色や、何故なのか、という疑問の色が大半だが、クラスで就中目立つ男子から見える色は──嫉妬だった。
「何故かと言われても、僕にもわからない」
かなり本心を口にしたつもりだった。
だが、それが彼には良く響かなかったようで、僕の机を両手で叩いて詰め寄る。
乾いた大きな音が響いて、一瞬クラスを凍てつかせた。音が反響して、クラス中の人間が静かに僕の方を見た。
大きく響いて零れ落ちた音が向かう先は、虚無だった。
どこに向かうでもなく、乾いた響きはただ彷徨って、聞こえなくなった。何かの後遺症みたいな耳鳴りが片耳だけしばらく聞こえていて、数秒後にはそれもついに聞こえなくなった。
ハッと意識が浮上した、その瞬間に制服の襟を掴まれていた。
これは、まずったなと思った。
「だからさ、なんでお前みたいなやつがつるんでんのって聞いてんの、わかる?」
「だから僕は──」
「わかんねぇってのか」
「······分からない」
分からないものは分からないし、そこは正直に言うしか無かった。
「なんなんだよお前、鬱陶しいな。俺の事バカにしてんのか?」
「別に、バカにしているつもりもないし、分からないものは分からないって言っただけだよ」
彼は舌打ちをして、僕の裾から手を離す。
「その言葉1つ1つが腹立つんだよ。見下してんのか」
「見下してもいないよ」
「じゃあなんでお前みたいな目立たない根暗が、こんなに仲良くなれてるんですか?」
彼にに眼前まで詰め寄られて、恐怖感を覚える。何か彼が積極的に茉姫奈に話しかけているところは僕も見ていた。
彼からはかなり濃い嫉妬の色が現れていて、眼鏡越しからでも見えるほど濃いものだった。
「聞いた事あるわ、お前の家金持ちなんだっけな。お前ただカモられてるだけだぞ? お前、あいつらに遊ばれてるだけ、それしか有り得ないんだわ」
低い嘲笑が、何故か僕の頭の中に断末魔みたいに甲高く響いて、形の無い心が酷く殴られたような感覚になる。
最近、感情の色がわからなくなることがある。自分の見ている色は本当は思っていなくて、ただ僕自身の被害妄想だったら、僕はどれほどまでに気色の悪い人間なんだろうと、たまに思うことがあった。
様々な変化があり、環境が変わって、僕も少しづつ歩けるようになって来て、深く関われば関わるほど、見える色が疑心暗鬼になってしまうのではないかと。
結局は人の目が怖くて、女性には全然関われない。だからこそ執着にも近い感覚を持っている茉姫奈と那由さんの本心が分からなくなってしまっていた。
でも、それは無いと信じている自分もいた。
食べ物も奢らされたこともないし、茉姫奈にあげたプレゼントと言ったら、あのTシャツだけだ。
「それは····」
ない、と言い切りたかったけど、断言が出来なかった。
言葉が喉からつっかえて、黙り込んでしまった。
「まあいいわ、やっぱりお前みたいな会話も成立しないような根暗に聞いたのが間違いだったわ」
そう言いながら廊下に出ていって、気まずい雰囲気が流れる中、僕はまた1人になった。
「······」
これが最近続いていて、正直迷惑している。
日陰で腐るほど陰口を言われたり、蛞蝓のような扱いをされる事には慣れているけれど、直接分かりもしないことについて力を振るって言及されることは、少し僕の精神をすり減らすものだった。
なら、2人との関係を断てばいい、という人もいるのだろうけど、自然と消滅するだろうと思っていた関係が2ヶ月近くずっと続いているという事は、もうずっと続くのかもしれないと思っている。
もはや生活の1つとして染み付いているのもあるし、僕はもうその中で、彼女たちを信頼してしまっている。
僕はもう戻れない。
彼女たちの優しさに触れてしまったから。
もう、僕は1人でいる事が出来なくなってしまった。
一時的な孤独は大丈夫なはずなのに、永遠に孤独を感じる瞬間は、なぜか茉姫奈に助けを求めてしまう。
彼女は、嫌な顔1つしないで応えてくれる。
最近この時間になったら考える事だ。
彼女たちも僕に対する変な噂を流されているのを聞いた事もあるし、僕が裕福だからって僕を脅してパシリにしているなんて言う噂も聞いた。
勿論その中には卑猥なものもあった。
まったく根も葉もない噂すら言われて、正直僕もうんざりしていた。
茉姫奈たちは全く気にしている様子はなくて、「そんなくだらないのは無視した方がいいよ」と言っていたが、このような経験がない僕にとっては、そう言われても気になってしまうものだった。
この2ヶ月、楽しいと思っている感情の裏に、気が滅入りそうな位の周りからの尋問と陰口。
その様な事を思っている内に、僕は色んな有名人が誹謗中傷をきっかけに、自ら死を選ぶというものが、人間らしくなってきたが故に少しづつわかる気がしてきた。
逃げたんじゃない、逃げられなかったんだよ。
ありもしない茉姫奈の声が頭の中に響いて、曖昧になる。
やはり、1番の暴力は、1番の大量破壊兵器は、拳でも、爆弾でも、銃でもない。ただひとつの····暴力性に満ちた言葉なのかもしれないと。
今更ながらに、薄っぺらい人生を送ってきたからか、その様な結論が頭の中で纏まるまでに18年もかかった。
情けないけれど、それが僕の現状でもあった。
少し疲れがどっと来て、嘆息を零した。
「レイ君?」
すると声を掛けられて、横を向いたら、スズさんがいた。
教科書とノートを抱えたまま、怪訝そうな顔で僕を見つめていた。
今まで悪いイメージがつかない程度に最低限の会話をしていたが、ここまで見つめられたことは無かった。
僕は本能的に目を逸らしてしまい、ゆっくり眼鏡の両縁を両手で直して、彼女の眉間に視線を向けて、また目を逸らして机に視線を向けた。
「····悔しくないの?」
悔しいさ。
言いたくても言えないんだ。
蜃気楼みたいに霞んだ感情が、喉からつっかえてギリギリで出ない。
僕が言っても、何も変わらない。
今までがそうだったからか、変わる気がしないんだ。
ただ平等に意見を聞いてもらったこともないし、その機会すらも自分から目を閉ざした、しょうもなくて、弱虫な人間だ。
今更、変わったものがあったとしても、どう頑張っても変えられないこともあるのは、僕でも分かっていた。
僕の軽い言霊では、人の心など動かす事は出来ないことに。
「······別に、悔しくなんかないよ」
嘘。
僕は、また目を逸らしてしまった。
僕の周りに、嘘をついた色が見えた。
1人で生きてきた癖に、今は茉姫奈達に依存して、縋ることしか出来ない灰被り。
机の上の、孤独な神話体系に横たわる、僕の形の無い意思は灰に埋もれて見えなくなった。
「マッキー達が、あんなに悪く言われてるのに? レイ君も、那由ちゃんも、何も悪くないのに?」
「僕が言われるのは、全然いいんだ」
「やっぱり、マッキー達のことをどうこう言われるのが悔しいんでしょ」
「でも、僕は非力で、無力なんだ。悔しくても抵抗できる術が分からないんだ」
「そんなのは····これからすぐ分かるはずだよ。だって、レイ君にはその術(すべ)を教えてくれる先生がいるはずだから」
「····何を言ってるの」
「言葉の通りかな?」
「だから──」
顔を上げた瞬間に、スズさんが僕にメモ帳の紙切れを渡してきた。
それはまっさらな新品で、何も書いていないもので、ますます意味がわからなくなった。
「····意味が、分からないよ」
そう言うと、スズさんは片手で教科書を持ちながら、僕の頬を触りながら言った。
「放課後さ──待ち合わせしようよ。レイ君」
急に言われて、僕は咄嗟に目を合わせてしまった。
「····君は、何を?」
「すぐに分かると思うよ。体育館裏に集合ね」
そう言いながら踵を返して立ち去っていくスズさんを見て、疑念の声すらも上げることが出来なかった。
何故か、とか、それに対する理由を聞こうとしても誰の耳にも届かないことは知っていた。
何故か、不意に教室という世界に隔絶されている気がした。
皆は話していて、僕に気すら留めないで世界は進んでいく。
彼女達がいなかったら、僕は居ないようなものだよな。
その世界に適合できなかった僕が悪いのはわかっていた。
クラスの皆が紡ぐリズムは、ピアノが奏でる様な旋律とは違う、僕はそのリズムから逸脱した不協和音だった。
急転直下の出来事がいくつも重なって、僕は諦めるように机に伏せた。
──なぁ、なんでお前みたいなやつがマッキーと那由といつもつるんでんの?
そんなの、そんなのさ。
「──僕が、一番わからないよ」
いつも通り残りの授業を終えて、帰る準備をしていた僕は、不意にスズさんが僕に対して言っていたことを思い出した。
体育館裏に集合と言われた後に何も音沙汰もなかったからすっかり忘れていて、今思い出さなければ足を運ぼうとも思わなかったかもしれない。
別に、何かを期待しているわけじゃない。
どちらかと言うと僕はスズさんのことが苦手で、かなり壁のある接し方をしていると思う。多分彼女にもそれは伝わっていて、今までずっと今日みたいに長く話してこなかった。
不意に後ろの茉姫奈の席を見ると、茉姫奈はバッグもない状態で席も綺麗に片付けられていた。
つまり僕が帰る準備をしていた時から帰っている事になる。
何もすることがない僕は帰るスピードはお世辞ではないがかなり自信があった。
自虐になってしまえばそれまでだけど、茉姫奈と那由さんも僕のペースに合わせてくれていたから、かなり不審に思ってしまった。
那由さんも席を立っていてもうどこかに行ってしまっているのを見て、僕もリュックに急いで教科書を詰め込んだ。
何故か虫の知らせの様に、僕は焦った感情が先走っていて、急いだ手つきが教科書を何冊かリュックから落としたりして、逆にペースを遅くさせた。
すぐ無造作に教科書を詰め込んで詰まる息を飲み込んで走り出した。辺りを見渡しても那由さんの姿はなく、完全に見失ってしまった。
僕は1つ息を吐いて、諦めて体育館裏に向かう事にした。
気分は中々に落ち込んではいたけれど、様々な作品はその心情的に雨や曇りの情景を映すのが鉄板となっているのだろうけど、今日は腹立つくらいに綺麗な夕焼けが廊下の窓に差し込んでいた。
僕の落ち込んだ気持ちは、ことごとく夕日に焼き尽くされて焦げて見えなくなる。
俯瞰的に見ると、美しい情景が拡がっているのだろう。
紅蓮に染まった綺麗な廊下、様々な感情の色が行き来する空間に1人隔絶され、取り残されている1人の人間。
それを絵画かイラストにしたら、大層綺麗な描写の作品が出来上がるだろう。
「レイくん」
声の先には、スズさんが立っていた。
「····スズさん」
「遅いから迎えに来ちゃった。どうしたの、外見てたそがれちゃってさ」
「いや、考え事してただけだよ」
「ちょうどいい所だから、来なよ。着いてきて」
「だから、なんの用が──」
「すぐ分かるって」
曖昧な答えに、僕はさらに困惑する。
だけど、踏み込んで聞けなかった。
僕はただスズさんの後ろを着いていって、体育館裏に目指すだけだった。
すると不思議なことに、スズさんが提示した場所には那由さんも居て、僕たちはそこに鉢合わせる形になった。
「えっ」
那由さんがいた事には少し驚いたが、早く教室から出た理由の辻褄も合ったからか、すこし安心していた。
「玲依くんもスズに呼ばれたの?」
「あ、うん。何故か僕も呼ばれたんだ」
那由さんは、僅かに緊張感を漂わせていた。
色的にも緊張の色が見える。
心なしかすこし腕が震えていた気がした。
「まだ少し待ってね」
とスズさんに言われると、少し時間が経つと奥の角の方で砂利を踏む足音がした。
そこに恐る恐る顔を出すと、バッグを壁にかけていて、携帯をいじっている茉姫奈がいた。
僕の横で見ていた那由さんは、何かを察したように茉姫奈を見守るような目で見つめていた。
状況に混乱した僕は後ずさりしながら声を出しそうになってスズさんに口を塞がれた。
一瞬頭が混乱してスズさんの方を殺気立った目で睥睨した気がする。警戒している僕を宥めるように少し緊張気味な笑みで僕に「しーっ」の合図を無音で送った。
状況を少しづつ呑み込め始めた僕は頷き、やっと口を解放してもらった。
鼻で呼吸はできていたからあまり息苦しくなはいけど、突然後ろから口を塞がれたからか、心臓が早鐘をうっている。
僕も謎に思い緊張感に押し潰されそうになり、今からでもここから立ち去りたいと思ってしまう。
もう一度スズさんを見た。
スズさんは僕に少し固い笑顔を零しながら、小さい声音で。
「多分、もうすぐだから、目を逸らさないでね」
と言って、那由さんの所に歩き出した。
一体何が始まるのだろうか、僕の中に渦巻く不安は、夕暮れの太陽に焦がされて消えていく。
焦燥と、不安が錯綜して心臓の鼓動を落ち着かせてくれない。
別に何かを勘繰っている訳でもない、ただ茉姫奈や那由さんから少し感じる緊張と不安の色が、僕の焦燥感を煽らせていた。
もし、スズさんが僕達を裏切って茉姫奈や那由さんに酷いことをするのなら、何を信じて生きたらいいか分からなくなる。
でも、まあまず、彼女の言葉におめおめと着いて行った僕も悪いのだろうけれど。
「おい、マッキー!」
数時間前に、聞いたことのある声だった。
嫌な予感的中した気がした。
那由さんの元に行って角の先を見た。そこには僕に詰め寄って、胸ぐらを掴んできたクラスメイトが、威圧感のある雰囲気で茉姫奈の前に立っていた。
僕達は2人の横姿を見るようにして様子を伺っていて、威圧する様なクラスメイトの顔に萎縮し、茉姫奈の顔はすこし強ばっているようにも見えた。
茉姫奈も女性にしては背は相当高い方だが、対峙しているクラスメイトはそれをゆうに超える身長差と体格差であり、改めて見るとこんな人が僕に詰めてきたと思うと正直ゾッとした。
「あれって」
すると那由さんが答えた。
「金城っていうクラスメイト、ずっとマッキーを狙ってたらしくて、マッキーはずっと彼の誘いを断ってたらしんだけど····」
「那由ちゃんとマッキー居なかった昼休みにレイ君、金城くんに詰められてたもんね」
「それは····」
「え、アイツにそんなことされてたの? 尚更許せないんだけど」
でも、今この状況で衝動的に身を乗り出してしまったらいけないということを那由さんは分かっていた。
那由さんは、金城くんの事をあまり良く思っていないのは雰囲気と言動からして読み取れる。
那由さんは金城くんを茉姫奈から離れさせるきっかけを待っているのだろう。
だからこそ、今姿を現したとしても、何にもならない事は那由さん自身が1番分かっているはずだ。
那由さんは金城くんを激しく睥睨したまま、そのままその状況を見続けていた。
僕も、那由さんと同じで、見続けることしか出来なくて。
打開策を考え続けて、ついに思考がほとんど止まっている状態の時に、スズさんが追い打ちをかけるように僕と那由さんに言った。
「偶然聞いちゃったんだよね、朝の時間に」
「何を?」
僕は焦りと張り詰めた空気から出る緊張感で心臓の鼓動を速めながら、スズさんの言葉を問い返した。
「レイ君が腹立つから体育館裏に呼び出して、マッキーに告白するって、それで断られたら襲って無理やり動画とか撮って断れなくするって、周りの人達に言ってた」
考えただけでもゾッとした。
もし、スズさんがその話に聞き耳を立てていなかったら、茉姫奈の全てが壊されていた可能性があったと思うと、鳥肌が立って今以上に足が震えそうで怖かった。
「それでもマッキーが抵抗するなら、電話してみんな呼ぶって言ってて」
「····それは、本当に言ってたの?」
信じがたくて、聞き返してしまった。
「言ってた。今ここに2人がいることが1番の証明になると思う」
「──那由さん····」
「分かってる。玲依····分かってるから」
彼女の感情は、憎悪に燃えていて、濃く見えるくらいに赤黒いドスの効いた色が那由さんの周りを取り巻いていた。
いつもは玲依君と君をつけるのに、本能的に呼び捨てにしてしまう程、那由さんも頭に血が上っている。
僕も、那由さんのこんな姿を見るのは初めて見た。あの時僕にみせた怒りの色は、哀しみや、僕の惨めな人生に対する寂寞も混ざっていたと、那由さんと関わる日々の中で気づいてはいた。
時には冷静に的確な意見をくれる理性的な彼女が、今は怒りで感情を塗りつぶしていた。
「なぁ、頼むよ。ずっと言ってるだろ」
金城くんの声が、やけに僕の耳に通った気がした。
「去年からずっと言ってるじゃねえか」
「私は興味ないってずっと言ってる」
「そんなこと言わずによぉー、付き合ってくれよ」
「嫌だ」
静謐な空間に茉姫奈と金城くんの声が反響しては消える。それの繰り返しだった。
「なんで、この状況なのにお前はそんな強情でいれるんだよ」
「ずっと前から嫌だって言ってる! アンタだって、那由にも言われてたんじゃないの?」
「俺も今日は引かねえからな。那由もいねえし」
「勝手にしたら?」
茉姫奈は強気な相手には強気に出る人なんだと思った。ずっと優しい彼女しか見ていなかっただろうか、芯の強さというか、ちゃんと信念は持っているのが感じ取れた。
「おい」
「····何」
「なんで俺にしねえの?」
「わ····私はアンタのことが好きじゃない、それだけ。何回も言ってる」
よく見てみると、茉姫奈の足は震えている。
何かされるかもしれない。
乱暴されるかもしれない。
もしかしたら、それ以上。
その恐怖と戦いながら、今すぐ逃げ出したい気持ちを抑えながら、茉姫奈は真っ直ぐにぶつかっている。
何度も考えてしまう。
その考えが脳を焦がすくらい巡っては消える。
スズさんがあの時偶然居なかったら。
多分茉姫奈は。
心臓の音がうるさくて、彼らの会話があまり聞こえない。
「マッキー····いや、マキナ。なんでお前はよ」
そのまま正鵠を射るような、恍惚に満ちた顔で金城くんは茉姫奈に言い放った。
「桜山みたいなクソだせぇ陰キャと一緒に居るんだよ」
彼は、そこからタガが外れたように僕の悪口を吐いていく。
いっそここまで来たら清々しいくらいだった。
彼からは、噎せるくらいの嫉妬と、焦りと、嫌らしさと、茉姫奈に対する欲に満ちた色をしていたから。
「くだらねぇ人間、くだらねぇ人生、きっとあいつの為にそんな言葉はあるようなもんだろ」
言葉に、嘘は無い。
「だせぇ以外の言葉しか言う事ねぇだろ、それよりイケててあいつより断然かっけえ俺と付き合えよ。俺はあんなだせぇ人間じゃねえし、あんな人間になるくらいなら死んだ方がマシだ」
茉姫奈の顔は、身体は、震えていた。
「だって知ってるだろ? あいつの家死ぬ程金持ちらしいんだよ。絶対お前もそれ目当てだろ? アイツをカモれるだけカモってさ、最後は捨ててやろうぜ。そうだろ? 結局はお前も俺に惚れんだからよ、だから俺と付き合えよマキナ!」
吐けるだけ吐き出して、静寂が辺りを包む。
僕も、金城くんの毒を飲み込んで、その通りだなと感じてしまう部分もあったのが、嫌だった。
確かに、僕は彼よりもかっこいい人間ではない。彼が動いている感情が僕や那由さんに対する嫉妬とはいえ、それは切に感じる事だ。──人を選んでいる訳では無い、でも図星で、今この場に僕が居ても、言い返せる勇気がなかった。
彼女と彼を第三者として俯瞰してみても、彼らには華があって、茉姫奈の意思はともかく、付き合ったら目立つだろう。
だけど、茉姫奈は完全に拒絶していて、でもその拒絶と随伴するように彼女の身体は酷く震えている。
「おい、なんでお前震えてんだよ」
茉姫奈の震えた手首を金城くんが掴んだ。
茉姫奈は反射的に手を振り払って、距離をとる。
「やめて、触らないで」
睥睨する瞳と、取り巻く感情はやけに恐怖と何かを悟っている色で。
恐怖の中にも、何か肝が座っていた。
「怖いなら、さっさと受け入れろよ、マキナ」
「······」
近づいてくる嫉妬。
「あんなだせぇ奴に執着すんなって。お前は俺と──」
刹那、茉姫奈は金城くんの体を両手で力強く押して、金城くんは少し体制を崩して声を荒らげた。
「てめぇ····!」
しかし。
「──アンタに何がわかるの!? 玲依の心も、那由の本心も、私の気持ちも!」
彼女も声を荒らげて、金城くんを心で圧倒する。
「自己中心的な言葉と貶めで、私がアンタと付き合おうって思うと思った?」
金城くんは面食らった様な顔で茉姫奈を見ていた。
僕も角の所で見ていたけれど、彼女がこんなにも大きい声を出して怒りを顕にしていたのは初めて見た気がした。
いつの間にか茉姫奈からは恐怖を塗り潰すくらいの怒りの色が浮き出ていた。
このタイミングで、那由さんは携帯を取り出して握りしめた。スズさんはもう奥の2人にバレないように携帯のカメラを回していたみたいで、僕と目が合って軽めのアイコンタクトを取ってきた。
「そうやって、自分の価値観で人を測るな!」
「おい、マキナ──」
「どんな気持ちで玲依もお金持ちの家で生まれたか分からないじゃん、表面的な言葉と偏見で決めつけて、自分が上に立ったとでも思ったつもり?」
慟哭にも近い何か。
「ずっと人見下してさ、私と付き合いたいのだって結局は見栄えでしょ? 本気で私の事が好きなら、他人を引き合いに出してダサいなんて言わないでしょ! 価値だけに囚われてブランド物に群がる中身がない奴らと一緒!」
自分を守る為に声を出しているのもあるだろうし、怒りに任せているのもあるだろう。
「言ってる内容も全部玲依の嫉妬してばっかでさ! あることない事流してたのもアンタでしょ! ······だから、女々しいアンタに教えてあげる」
でも、彼女の周りからは、嘘の色が見えなかった。
全部が本当の、純粋な言霊。
それが。
それがなぜだか。
「誰かがカッコイイとか、誰かがダサいっていう薄っぺらいその言葉で人の価値を勝手に決めるアンタがいっちばんダサい!」
とてつもなく、嬉しかった。
込み上げる何かが、溢れそうで怖かった。
嘘偽りのない、正真正銘の言葉が、僕の身体に伝播する。
それが熱になって込み上げて、今すぐ彼女の所に駆け寄りたかった。
こんな感情初めてて、こんなにも嬉しいっていう感情が溢れるなんて。
嬉しい事、というのは何回かはあったけれど、なんだろう──言葉で自分を肯定してくれるっていうのが、1番僕にとって救いのような物に近かったのかもしれなかった。
「アンタがそうやって、玲依に嫉妬してあることないこと陰口を言ってんのは、それはあんたが玲依よりよっぽど日陰にいて、玲依よりよっぽど後ろに立っているからでしょ!」
「──てめぇ、黙って聞いてれば好き勝手言いやがって····!」
「ほら、そうやって都合の悪いことは手出して解決しようとするじゃん!」
「んだと」
「図星じゃないなら、言い返してみなよ! 一番弱虫で、相手を認めれないダサい人間はアンタ!」
そこから、しんとして少し静寂が流れる。
その静寂を切り裂くように、金城くんは茉姫奈に言った。
「お前、桜山のことどう思ってんだ?」
「······えっ?」
瞬間、金城くんが茉姫奈との距離を詰めて、片方の手首を手で抑えた。
茉姫奈もそれに動揺したのか、一瞬で頭が冷えて恐怖の色で支配される。強く掴まれた手首は、茉姫奈が抵抗しても全く解けず、そのまま彼は茉姫奈の制服の襟を掴んだ。
後ろの壁に勢いよく茉姫奈はぶつかって、鈍痛に堪えるように喘ぎを漏らした。
「あんなに啖呵切っといて、お前もそれ相応のことされる覚悟あんだろな?」
がっちり掴まれて、茉姫奈は苦しそうに抵抗しているが、金城くんも離れる気配がしなかった。
なぜか、金城くんの方が息が荒くて。
獣のように感じてしまったのは、僕だけだろうか。
「やめてっ····離して!」
脳裏に浮かんで、思い出した出会いの日。
悲鳴に近いその声が聞こえて、僕が彼女を助けた時、ほとんど同じ言葉を発していた。
自分勝手──緊迫した今の状況でも、彼女が教えてくれた意思が僕の原動力になった。
別に、今に至るまで自分勝手で何かをしたことは無いし、あの時だけだと思っていた。
自分勝手と言って、お互いがお互いの事を助け合って、出来た友情に近い何か。
何故か、二度とこの声は聞きたくなかった。
傷つくような姿も想像したくなかった。
自分勝手な考えだけど。
──ほら、また出た。自分勝手。
自分勝手に何かをしたら、圧力で全部抑圧されて、虐げられて、無意味だ無意味だと声を揃えて歌いたがる人間とは違って、彼女は彼女の、そして僕の自分勝手を赦してくれた。
だからこそ、僕はわかる。
自分が変わるきっかけは──確かに茉姫奈だと。
ただの偶然だったのかもしれない。
僕が彼女がいる日に休んで、彼女が僕のいる日にたまたま休んでいただけなのかもしれないけど。
でも彼女は、今僕の事を守る為に抵抗している。
彼女は、自分はどうなってもいいと思っている佇まいをしていた。
なぜなら、後悔の色は見えなかった。
何かあっても大丈夫な覚悟がある気がした。
何故か、いつでも死ねるような覚悟があるような。
何故か僕の考えている負の感情を全て理解してくれて、その死に対する考えを僕以上に持っていたりしたのは····それ程彼女は後悔しないように生きているからだろうか。
「今! ····お前をこの場でレイプして、俺の連れに桜山を呼び出させて、お前がレイプされている所を見せながらボコボコにしてやってもいいんだぜ!? ここなんて誰も来ねえからよ!」
言ってしまった、最悪の言葉。
もはや脅迫だった。
彼の欲の色が一層濃くなった気がした。
やはり、それが彼の本当の目的だった。
分かっていたけど、口に出されて、言葉にされたらその重みと絶望感が、圧倒的に違かった。
一気に血の気が引いて、冷や汗が頬を冷たく伝う。
「嫌だろ? でもどうせこんな格好してるからビッチには変わりねえだろうけど、アイツがボコボコにされる所を想像したくねえだろ?」
「······」
「なんでお前みたいなギャルが、陰キャのアイツと仲良くしてんだよ」
「····全部、私の勝手でしょ」
違う。
違うよ。
ねえ、金城くん。
全部間違ってるよ。
茉姫奈は、そんな軽薄な人間じゃない、見た目だけで中身を判断できるような軽い物差しで測り切れる人じゃない。
僕の姉さんの事で顔を真っ赤に出来る程純粋で、真っ直ぐな感受性を持っている人間。
心がとてつもなく綺麗で、そよ風のような、暖かい優しさを持っていて、それ故に言いたいことをハッキリ言える強さを持っている彼女。
金城くんは襟から茉姫奈の胸ぐらを掴んで、太ももに手を回し始めた。
「····っ」
茉姫奈は顔を青くしながら、力ない睥睨を金城くんに向けた。
それを見て、吐き気がした。
やめろ。
茉姫奈に触れるな、って。
そう、思った。
「そうだ、那由も呼んでやろうか? 2人して俺らにレイプされてる所を桜山に見せてやってもいいんだぜ?」
「····」
「ほら、なんか言えよ! ····そうだ。今ここでアイツの事嫌いって言えよ。そんで俺と付き合うって言ったら今の事全部にチャラにしてやるからさ」
彼も、相当焦っているんだろう。
早く茉姫奈を自分のものにしたくて、その為には手段すら厭わないような、そんな人間。
「······」
「言えよ! めちゃめちゃにされたくないなら! ほらっ!」
凄い剣幕だ。
こちらから見ても痺れる様な雰囲気だった。
彼の圧力と、与える恐怖で形成が逆転された茉姫奈は、震えながら口をパクパクしていた。
声も上手く出せないくらいに彼に支配されているのを見て、もう耐えられなかった。
立ち上がろうとした時に那由さんに止められて、首を横に振られた。
「どうして」
「多分まだ。我慢して──私が押したらそっち行ってあげて」
「でも──」
「信じて」
唇を噛み締める。
今は、那由さんを信じるしか無かった。
ここには金城くんと茉姫奈と、部外者であるけど、僕と那由さんとスズさんしか居ない。
5人だけの殺伐とした世界で、茉姫奈は戦っている。
そこで信用できるのは、後者の3人だけ。
スズさんは動画を回して、携帯の画面の先を永遠に見つめている。
美化されているレンズの奥に見えるものは良く写りが汚く見えたり、偽りに見えたりするけど、確実に今携帯のレンズが映しているのは、人間の汚い本性、嫉妬、本能、強欲。
獣のような眼光で、茉姫奈を睨む欲の塊。
美化しなくても、否応なしに汚く見えるものばかりが映っていた。
「ほら、 さあ言えよ! ほんとに襲っちまうぞ!?」
怒号に近い金城くんの声が耳を劈く。
耳鳴りがしそうなくらい大きな声で叫んだせいか、それを目の前で聞かされた茉姫奈の身体は少し震えながら跳ねた。
そして、茉姫奈はゆっくり口を開いた。
「·········嫌い」
すると、茉姫奈の目からは涙が溢れて、頬を伝って落ちていく。
人間が作り出せる唯一の海、それが溢れて、洪水となり止まらなくなっていた。
夕日に照らされて輝いた透明の雫は、止まることは無かった。
茉姫奈が少しずつ声を上げて嗚咽を始めて、金城くんも行き場の無い感情に顔を歪め始めた。
「····大嫌い」
その言葉を聞いて、すこし心臓が跳ねた。
何故か、愕然とした気分にさせられる。
言わされているのはわかっている。
だけど──。
それでも、胸が痛い。
何故だろう。
なぜ、胸が痛い?
すると、か細い声で泣きじゃくる茉姫奈は、絞り出す様な声で、告げるように言った。
「······うそ、」
どくん、と。
「············ぜんぶ、うそ」
あぁ。
まずいな、と思ってしまった。
時間が、止まった気がした。
聞こえていた木々が揺れる音も、心臓の音も、2人の呼吸も、茉姫奈の声も、金城くんの息の荒さも、全てが聞こえなくなった。
微かに聞こえる放課後の喧騒も、全てが掻き消されて、僕も身体を動かすのも、息すらも一瞬忘れていた気がする。
彼女の瞳と、涙だけが僕の目に映っていて、優しい赤い光に差し込まれた茶色い瞳と、その涙は。
「──だいすき」
今までの人生で見たモノの中で、1番綺麗だった。
3
茉姫奈の涙は、もはや僕が女性不信である事すらも忘れさせた。
自分の目で見た彼女の頬から零れる雫は、異常に遅く地面に落ちて、雫が音を立てて落ちるような、そんな音が聞こえた気がした。
「嘘、つけないよ」
横顔しか見えない茉姫奈の顔は、涙を浮かべたままの笑顔でそう言った。
「それは、1番····つけないよ」
手が震えていた。
どっちに対しての震えかどうか分からないけれど、暫くは手に力が入らない感覚があった。
するっと抜け落ちた様な、急に手に力が入らなくなる感覚。
淡白な表現かもしれない。
でも、そういう有り触れた言葉でしか今の僕を表現する事が出来なかった。
すると、那由さんに強く背中を叩かれる。
行くしかない。
そう決意する。
僕の自分勝手。
茉姫奈を助けたい。
その気持ちがピークに達した時、自然と足と手の震えは止まっていた。
僕は那由さんに言われるまま、全力でそこまで駆けて行く。
途中で金城くんは僕に気づいて、とてつもなく焦った顔をしていた。それに気を取られて茉姫奈を掴んでいた片方の手を外して僕のことを掴みにかかろうとした。
僕はその手を掴んで、手首を少し回して強めに握り締める。
金城くんはかなり悶絶していて、苦悶の声を上げて片膝をついた。
その時にはもう茉姫奈から完全に離れていて、茉姫奈も後退りながら「えっ? えっ?」って涙を流しながら困惑していた。
「彼女に謝って」
そう僕は言うと、彼は思いもしなかったことを言い始めた。
「なんの事だ! 俺はマキナと──」
「そう白を切ると思って、動画撮ってましたー」
スズさんが僕の後ろからすっと出てくる。
そしてスズさんは携帯の音量を最大に引き上げて、目の前で膝立ちになって僕に抑えられている金城くんに動画を大音量にして目の前で見せ始めた。
かなり酷い事をするなと思った。
普通映像や、音声だけでいいと思うのに、両方を見せるなんて──しかも、音量も金城くんの少し後ろにいるのにうるさいと感じるくらい大きく。
無理やり茉姫奈や那由さんとセックスをして、僕に対する暴行すると言った宣言や、無理やり付き合わせようとさせた脅迫の内容、全てを飛ばし飛ばしだが会話の内容を見せていく。
最初から最後まで見られていたことを悟ったのか、僕の太ももを後ろ蹴りした。
太ももにかなり強く当たって、痛かった。
反応出来ずにすこし後ろに後ずさってそちらを見ると、彼の手がもう伸びていた。
青ざめた面持ちで、僕の手を自由だったもう片方の手で掴んで彼は、僕を激しく睥睨する。
「おい····お前、殺されたいのか?」
もはや逆上だった。
「彼女から、もう身を引くんだ。金城くん」
そう言うと、彼はもう片方の手を振り上げようとしていた。
一瞬でその腕に僕は手を伸ばして、振りあげようとした彼の手首を握り返す。
もう1回強く握ると、金城くんは、痛いのか顔を少し歪めた。
「駄目だよ。全部力で解決しようとしたら」
「うるせぇよ。お前が全部──」
「──これで分かったでしょ、金城」
那由さんが、毒のある感情で金城くんを呼んだ。
僕は手を離す。
その瞬間に、金城くんも僕を掴んでいた手を離して、那由さんの方を見る。
「な····何がだよ」
「アンタがずっとストーカーみたいに粘着してたマッキーはアンタに微塵も興味がないの! だからもう二度とマッキーに近づかないで!」
彼女の叫びは、辺りの世界をしんとさせた。
金城くんは、顔中から冷や汗を垂らしながら口をパクパク動かして、愕然とした面持ちだった。
「元々失望してたけど、もっと失望した」
彼の色は、ぐちゃぐちゃだった。
「ま、待ってくれ····」
「女の子を犯すとか言って、腹いせにレイ君も報復するって言うのは、言い逃れは出来ないよね?」
スズさんも追い打ちをかけるようにそう言った。
僕にヘイトは向いていないにしても、何故か僕にも言われているようにしか聞こえてたまらなかった。
「ちがう、違うんだ」
茉姫奈が金城くんの眼前に出る。
その瞬間に、茉姫奈の答えはもう決まっていた。
「私、アンタの事──大っ嫌い」
そこから先の事は、あんまり覚えていない。
愕然として崩れ落ちていた金城くんを放置して、今は茉姫奈と僕で一緒に帰っている。
自業自得だとは思った。
自業自得な人生を送ってきた僕を棚に上げて言うのもお門違いだとは思うけれど、今までやってきたこと、周りからの評価、茉姫奈にしつこく付き纏ってきた結果、全てが裏目に出た感じだった。
これで茉姫奈の安全を確保することが出来たと僕も内心ほっとしているし、スズさんと那由さんも「お膳立ては出来たかな?」なんて変な事を言っていた。
僕はただ金城くんから去っていく皆の後を付いて行っただけだったし、安心感からか上の空になっていて、そこからの記憶が断片的になっていた。
気がついたら、茉姫奈と2人で夕陽に照らされた道を歩いている。
高校に近い河川敷を僕らは歩いていた。
住宅街からすぐそこにある、どこにでもある様な河川敷。何故いつもここを通っていないのに。
なぜ、今日は本来の通学路の街を通らないで人通りが少ない外れに来たのだろう。
「今日は、気分転換にこっちから遠回りしたかったんだ」
「····急に心を読まないで欲しいのだけど」
「ほんとに? 同じ事考えてた?」
「生憎とね」
「うわ、また出たよツンデレイ」
「····初めて聞いたよ」
「ネーミングセンスあると思わない?」
「インスピレーションは、いいとは思う」
「うわ、またツンデレイじゃん」
いつも通りの茉姫奈だ。
屈託のない笑顔を浮かべて、僕の顔をのぞき込む。
日常と変わらないやりとりをしている内に、僕も少しづつだが、安心感が増していく。
あの時の言葉すらも、すっかり穴が空いたみたいに忘れていた。
「普通だよ」
「····うん、確かに」
急に流れが変わった気がした。
「何もかも変わらなくて、いつも通りの日常····玲依といれば、生きてるって事が実感出来るなぁ」
「何の話を──」
「なんてね」
その場で流されて、僕は目を眇めてしまう。
「ごめん、僕は」
「分からないんだよね」
「····うん」
何を聞かなくてもわかるのは、多分。
でも、そういう話にいきなり誘導したのは茉姫奈だし、そう思うのは当たり前なのか、とも思った。
薄暮が空に指して、携帯を見たら6時を指している。
「知ってると思うけどさ」
「うん」
「私、実は玲依のこと好きなんだ」
知ってる。
それほど心臓は跳ねなかった。
言われる覚悟は出来ていたから。
「でも、玲依は多分、好きって言う気持ちとかが分からないんでしょ?」
「····ごめん」
「謝らないで」
「····ありがとう?」
「あははっ! なにそれ!」
茉姫奈は吹き出してお腹を抱えながら笑った。
一つ一つ歩みを進めながらこのような話をするのは、恐らくほかの人には変な感覚で見られるだろうけど、今この時間が違和感なく流れるように、僕と茉姫奈が歩きながらこのような話をしているのは、あまり違和感に感じなかった。
「やっぱり、玲依って面白い」
「その話に誘導したのは、話の脈絡的に茉姫奈だけどね」
「やだなー、確認しただけじゃん」
「僕はさっき初めて知ったけど」
「嘘ついてるように見える?」
少し、茉姫奈を覗く。
嘘は言っていなかった。
そんな色は全く見えない。
いつも目を凝らせば見える陽炎みたいなモヤはいつも見えているし、それを上書きするように僕を想う恋慕の色が見える。
だからこそ、怖い。
なぜ、僕なのか。
揺れる。
心が、揺れる。
僕は、茉姫奈のことをどう思っているのか。
分からない自分が、いちばん分からなかった。
「私だけ、怖い思いと恥ずかしい思いをするなんて割に合わなくない?」
金城くんに胸ぐらを捕まれ、身体を触られ、レイプするぞと脅されて。
他の人なら学校すら行くことすら危ういトラウマものだ。
「もう、怖くないの?」
茉姫奈は一呼吸置いて答えた。
「怖くないよ。だって、絶対玲依が助けてくれるもん」
風と共にぎこちない笑顔が、揺れる。
薄暮に照らされた笑顔が、僕の心を激しく揺さぶった。
「それは、たまたまスズさんが居たからで」
「いや、違うよ。私にとっては、助けてくれたのは玲依だから」
頑固で曲げないのも、それも茉姫奈らしい。
「これが····生きてるっていう事なのかな」
「····うん、きっとそうだよ。その問いになんて正解とか、間違いとかなんてないよ。だから茉姫奈が思ったことが、全部正解なんだと思うよ。それも全部、玲依のおかげ」
「僕も感謝してるよ」
「私のお陰で那由ともスズとも仲良くなれたもんね?」
「····そういう問題じゃない」
「良かったね、かわいい女の子と仲良くなれて」
「だから、そういう──」
言いかけた時、茉姫奈は人差し指で僕の口に静止をかけた。
僕も素直にそれに応じて、口を噤む。
「もう1回言うけど私ばっかり、恥ずかしいからさ····分かるでしょ?」
少し腰をかがめて下から覗き込む茉姫奈の顔は微かに紅潮していて、含羞の色を放っていた。
彼女が言いたいことは、多分····分かった。
やっぱり、茉姫奈は不思議な人だなと思った。
人に嘘をつかないで、他人の汚れた感情で揺さぶられない芯の強さを持っていて、人の汚い部分が一切ない。
色が見える僕が分かるなら、絶対そうだと断言出来る。
茉姫奈に関わる人達みんながそうだ。
汚いと決め付けてろくに見てこなかったスズさんですら、汚い感情は見えなかった。
だからこそ、思う。
色眼鏡で見ていたのは僕の方だったのではないかと。
見ている色なんて、感情の色とかいう現象は全部偽物で、僕の勘違いなのではないかと。
暴力を振るわれた日々も、後ろ指を刺された日々も、瘡蓋になっていずれは消えていく。
いつかを境に、急に見えていた景色が消えると思うと、何故か怖かった。
忌まわしい、自分をこんなにも不幸せにしてきたものなのに。
「分かったよ」
「私、待ってるから。ずっと待ってるから」
「──やめてよ、その言い方」
彼女の言葉が、いきなり怖く感じてしまった。
何故か、消えてしまいそうな気がしたから。
こんなにも、太陽の様な存在の彼女が、待ってるという言葉を使ったら、皆の前からいつの間にか居なくなってしまいそうな、そんな気がした。
「····確かに。ごめんね」
「謝るのも、なんか変」
「なんて言えばいいんだろうね」
僕は少し沈黙して、答えた。
「····少し、難しいかもね」
「だよね〜、玲依が分からないなら私も分からないや!」
「····多分、ありがとうとか、そういう有り触れた感謝で良かったんじゃない?」
ふと、ありがとうという言葉が浮かんだのは、茉姫奈のその言葉に嫌なものが渦巻いたのは。
「待ってるって言ったら、茉姫奈が死んじゃいそうな気がした」
「あーほんとに? そんな風に受け取っちゃった?」
「なんかね。僕がネガティブ思考だからだけど」
「確かに、今思うと死亡フラグかもね」
茉姫奈は無邪気に、笑いながらそう言うと、彼女は僕を追い越して走って僕の前に止まる。
すると、茉姫奈が僕の前に手を差し出して、言う。
「じゃあ、今だけ離れないように手繋いでよ! これで安心でしょ?」
目の前に差し出された細くて長い手、血色も良くて白い。
肌の繊維が夕陽で煌めいていて、生命力を感じられずにはいられなかった。
「····今日だけだよ」
むず痒い気持ちを抑えながら、僕は茉姫奈の手を繋ぐ。とても柔らかくて、でもしなかやかな繊維の様な手は、自然と僕に歩みを進めさせた。
茉姫奈の意図は、頭の足りない僕でも分かった。
心配になって彼女を家まで送り届けて、2人で手を振ってそのまま帰った。
優越感に浸っているわけじゃないけれど、今日のこの日が何故か今までで1番満たされていて、自然と温かいものが胸に流れ込む。
考えれば考えるほどほわほわして、机の壁に貼ってあった目標のことを思い出す。
これは、それに近づいているのでは無いのかな、と思ってしまうくらいに、茉姫奈の一つ一つの言葉、仕草を思い出して、満たされすぎて胸が苦しくなる。
でも。
なぜか。
家にたどり着こうとすればするほど。
重くなる足取り。
なにか後ろめたいことなんてあったか?
なにもない。
だけど、なぜか家に着くまでの足がとてつもなく重くなった気がした。
重いけど、気がついたら走っていた。
マンションが見えて、自動ドアに入り急いでエレベーターに乗る。
何十階も上がるのに1分近くかかるから、焦燥感がすごかった。
エレベーターに乗っている時に、走った時に汗が溢れるように出てきた。
制服だから暑い。
夏服に着替えていなかったから、ブレザーも酷く重く感じた。
顔から吹き出る汗を無造作に腕の部分でふき取って、エレベーターから出て部屋の鍵を開ける。
部屋は、重く開いた鍵とドアの音が響くだけで、酷く静かだった。
「ただいま」
絞り出すような声で、家にいるであろう姉さんに向けて言った。
言ったけど、返ってくることは無かった。
いつもは返ってくるのに。
「姉さん?」
足が重い。
そのまま恐る恐るリビングのドアを開けた。
何となく分かっていた。
これが虫の知らせなんだなって言うことを。
姉さんは──横になって倒れていた。
「········え?」
ちゃんと息はしているし、肌も冷たくなっていない、だけど顔が真っ青で意識を失っていた。
ラフに黒のスウェットと黒のタンクトップを着ていた姉は、いつもは届く僕の呼びかけすらも届かなかった。
意識が混濁していて、身体も時々痙攣している。
昏睡状態、というのか。
まって。
待てよ。
何があったんだよ。
昨日までそんな素振り見せなかったじゃん。
僕も何が何だがわからなくて、息と体が震えた。
状況を理解した数秒後に、携帯を取りだした。
携帯を取り出して、叫んだ様に救急車を呼んだ後は、記憶が曖昧で、覚えていない。
ただハッキリと覚えているのは、無力感と空虚。
なぜ気づけなかったのだろう。
ただ救急隊に担架で運ばれていく姉さんを見る事しか出来なかった。
心に蝕んだ幾つもの負が飽和して、裂けそうだった。
思い当たる節はいくつかはあった。
逐一咳をしていた。
それも乾いた咳だ。
最初は風邪なのかなと思っていたけれど、今思えば違った。
そして、母を精神病患者の施設に入れたタイミングも不可解だった。
あのタイミングで入れるのは、僕も少し不審に感じていた。入れるとしたら僕が高校を卒業して進学するタイミングで、わざわざ高校生の時に施設に入れるのはおかしいと思っていた。
あの時言っていた「邪魔されたくない」という言葉は、多分──姉さんは何かを悟っていた。
今まで通りだと思っていた生活は壊れるのは一瞬で、多分姉さんの身体は元には戻らない。
そう考えれば考えるほど。
押し潰されそうになるくらい多くの感情が錯綜して、吐きそうになる。
数日後、僕は姉さんが運ばれた国立病院に呼ばれた。
僕一人だけだった。
姉さんも、父も母も誰もいなかった。
茉姫奈も、那由さんも誰もいなかった。
そして、僕は茉姫奈にも姉さんが倒れた事は言えなかった。
彼女の境遇を誰にも話せないように、今ある状況も話す事が出来なかった。
1人で抱え込もうとしているわけじゃない。
茉姫奈を絶望させたくなかった。
何かの使命感にも近かったのかもしれない。
白い、殺風景の清潔な建物に看護師に案内されて医者のところに赴く。
言われることは多分、わかっていた。
医者から言われることは、一語一句違わなかった。
だけど、覚悟していた言葉が重くて。
とても重くて。
しばらく身体に力が入らなかった。
病院の中みたいに、頭の中が真っ白になって、目の焦点が合わなかった。
張り裂けそうになる様なとてつもない後悔と、自責の念に襲われて、涙が出そうになった。
初めて時間が戻って欲しいと思う。
壊れるまで守ってくれたのに。
こんなにも僕を大切にしてくれたのに。
それに気付けないで、のうのうと人生を浪費した。
それこそが罪なのではないか。
だから、夢で何回も殺されるんだよ。
殺されなくなった夢も、誰かが僕に語り掛けるようになにか訴えかけている。
今となっては、後悔しか残らない。
でも、もう無理だ。
医者から下された診断は。
姉さんは、
末期の急性エイズだった
今日は、悪夢は見なかった。幸いというか、なんというか。
何故か、あまり言葉に出せなかった。
途中まで騒がしかったけど、またいつも通り静寂が訪れる。
実際何をしようにも何かがまとわりついた感覚になって、行動する気が起きない。いつもなら偶然襲われかけていた茉姫奈を助けずに、『偶然にも君が選ばれただけ』とだけ感じて、逃げるように立ち去るだけのはずだった。
あの時の自分が不思議でたまらなかった。
ただ、あの時なんで『自分勝手』でも茉姫奈を助けようとしたのかが、分からなかった。
やっぱり、茉姫奈の言葉が効いてるのか、とも思ってしまう。
今まで抱えていた大き過ぎるくらいの負の感情が、少し霞んでいた気がした。昨日からそのような事をあまり考えなくなっていた。
「ん····? 置き手紙?」
茉姫奈からだった。
綺麗な字で僕宛てに書かれていた。
『玲依へ
昨日はありがと!玲依がいなかったらほんとに大変な事になってたね。本当にありがとう。早く家に戻って、学校の準備とバイト先の店長にボロボロの制服の事とか謝りに行かなきゃ行けないから早めに帰らせてもらうね、Tシャツもほんとにありがとう。私の身に有り余るったらないけど、使わせてもらうね。じゃあまた、学校でね!』
改めて、やっぱり律儀な人だなと思った。
ちゃんと駄目なものは駄目だと否定できたり、自分が悪いと思えば謝れる素直さ、文面から滲み出る感謝の言葉が、僕の心に優しく解けていく。
茉姫奈の手紙をまじまじ読み直している途中で、ハッとして時計を見る、もう5分程経過していて急いで朝食を作る。別にお腹に入ればいいので、パンとインスタントのコーンスープを食べて、部屋に戻って制服に腕を通した。
ふと、僕は姉さんの部屋を見上げる。
姉さんはまだ寝ていて、ドアから出てくる気配はない。今はもう大学の単位もほとんどとっているから大学もあんまり行く必要もないと言っていた。
就活とか、大学を卒業したあとはどうするのかとかは、聞けてない。なんか聞いてはいけない気がした。
自分の性格でわかる。ただ怖いだけなんだ。
いつも通りの時間に家を出て、同じ音楽を聴いて、学校に行き、普遍的ないつも通りの生活を送る····と思っていたけれど、茉姫奈に気に入られてしまった? からそう簡単にはいかないとは思っていたが、想像以上だった。
僕が席に座ろうとした時に彼女は突然僕の前に躍り出た。
「おはよう! 玲依が私の前の席ってやっぱり運命だよね!」
僕が移動教室の準備をしていると。
「玲依! 移動教室一緒に行こうよ!」
僕が昼ご飯を買いに購買に行こうとしたら。
「玲依!一緒にご飯食べよ!」
極めつけには、帰りのホームルームで背中をさすられた。何か文字を書かれたような気もしたが、そちらの方を向くと、耳元まで彼女は顔を持ってきて悪戯に。
「玲依、一緒に帰らない?」
と、静かで、綺麗な声で僕に提案してきたのだ。
学校で一番可愛いと噂の(ほんとにされているらしい)茉姫奈に、根暗でなんの魅力も感じないであろう僕に急に距離を詰めてきたのだ。
もはやクラスの男子のみんなは問い詰めることも無く、1周回って口を半開きにしていた。
でも、1人からは、かなりきつく睨まれた、名前は分からない。でも学校ではかなり名の通った不良だということはわかっている。
それ以外は逆に奇怪がられて男子の人から問い詰められることもなかった。
だけど僕を問い詰めて来たのは、茉姫奈と仲のいいクラスメイトの人だった。昨日、僕に茉姫奈に着いていきたいと提案した人だ。
帰る前、茉姫奈は先生に呼び出されていたから、その間に口頭で呼び出された。
あまり人が通らない廊下の隅に呼び出されて、今に至る。
「ねぇ、レイ君? なんでいきなりマッキーと仲良くなってるの?」
茉姫奈と仲のいい人は、私すらマッキーの家行ったことないだけど、と少しドスが効いた声で言われて、背筋が凍る。
ぞわ、迫るものを感じた。彼女の他の人とは違うオーラが徐々に僕の首を縊るように締め付ける。刹那的な出来事だけれど、思わず頬から冷や汗が伝うほど内心焦っていた。
「あ、あの近い」
「だから何」
人気のない廊下に呼び出された僕は、ずいっと詰め寄られ、反射的に身を引きながら僕は言う。ここは嘘を言ってはぐらかすよりも本当のことを言って信じて貰えなくても言うべきだと感じた。
「いや、実は夜散歩してたら····」
「してたら、なに?」
茉姫奈と仲の良い人が毒気が多めな声音で言った。女性不信なんだからそんなに刺すような感じで言わないで欲しい。
「茉姫奈がバイト中に路地裏みたいなところで不良に無理やり連れ込まれてて、助けてって叫んでるの聞いたから、たまたま助けちゃったって感じなんだけど····」
「····ほんとに?」
「はい、ほんとです。なのであんまり詰め寄らないで欲しいんだけど」
すると茉姫奈と仲のいい人が一歩下がり、
「ほんとのほんとに?」
「はい、ほんとのほんと」
「ほんとに? 信じてもいいの?」
「····信じて欲しいんだけど」
少しイラッとしてしまった。
すこし僕が強めに言ったら、彼女はすぐ言った。
「わかった。そこまで真剣な瞳で言うなら信じるよ」
認めた様に言われると、僕の中にあった微量の怒りは自然と静まり、すぐに何故こんなことで強く言ったのだろうと反省する。
「あっさり、だね」
「別に」
確かに、僕が茉姫奈と仲のいい人だったら、なにも音沙汰がなかった人と急に仲良くなってしまったのを見たりしてしまったら、今みたいに問い詰めると思う。
それは普通の事で、逆にその普通に焦燥を覚えた僕が変な人間だ。
茉姫奈と仲のいい人がちょっとやりすぎたと思ったのか、僕の眼前から一歩下がり、おもむろにボケットからあるものを取り出し、僕に押し付けた。
それは、連絡先──というか、連絡先が綴られた紙だった。それを渡された瞬間に彼女の魂胆が少し分かった気がした。
「君は疑り深いね」
「私は君じゃない」
「名前?」
「もしや知らないの?」
「····すみません」
茉姫奈と仲のいい人は、少し口調を強めて言った。
「那由····宮腰那由」
「じゃあ、みや──」
瞬間に、茉姫奈が名前を呼ぶことを強要してきた情景が目に浮かんだ。
良くも悪くも、何気ない会話の瞬間に走馬灯のように流れてきた茉姫奈とのやり取りは──何個もあるはずの選択をひとつに絞らせた。
僕は、訂正するように、彼女の名前を呼ぶ。
「····那由さん」
「······ふふっ、那由さんって」
那由さんは、口の端から少し笑みを零す。
多分、僕が苗字じゃなくて下の名前の方で呼んだから意外で思わず笑ってしまったのはすぐに分かった。
何故か、那由さんが笑ったら「こうやって笑うんだ」とか、この人はこういう笑い方をするんだ、とか思ってしまって、少し新鮮な気持ちになる。
普段は思わない事も思えるようになってきているのは、やっと心が現実に追いついたからなのか、新しいことの連続で思わず視野が広まってきているのか。
生き急ぐ事に必死で、自分の足元しか見えなかったのに、昨日をきっかけに彩りを見事に添えられた。だからこうやって恐る恐るでも、那由さんとも関われる機会がやってきたのだろうか。
那由さんは、あまり怒ってはいないようだった。少し僕を疑っている色と、信じている色で二分割になっていて、でも信じてくれているなら、それだけで僕は少しほっとする。
「マッキーとはさ、中学からの仲でさ」
那由さんは少し、僕に語りかけるように話し始めた。
「中学の頃に、色々あってここに引越してきちゃって、新しい環境だからさ、友達いないわけじゃん。実際、私ね、地方から来てどんな話していいかわからなかったし、前の学校でも色々あったから学校楽しくないなぁとか思ってたわけ。その時にマッキー真っ先に話しかけてくれて、ねぇどこから来たの? 話そうよって。嬉しかった。あー私って1人じゃないんだって、救われたなぁって、ちょっと思っちゃった」
やっぱり。
茉姫奈は無自覚だけど、何気ない行動で、何気ない一言で、人を救っているんだと思ってしまった。
それに茉姫奈は気付けていない。
仏陀やキリストみたいに大勢の人を救ったわけじゃない、たった1人····それだけの心を救っただけでも、救える力を持っていると言うだけでも、偉大な事だ。
茉姫奈の話をする那由さんの目は少し輝いていて、絆と絆で蝶蝶結び──いや、解けないように何重にも玉結びにされた様な、固いものを感じた。
「仲、いいんですねやっぱり」
「“玲依君”もマッキーにそう思われてるから、マッキーはもう仲良いって思ってるから」
「そう、ですよね」
「良かったじゃん、マッキーこうやって男子と親しい感じで仲良く喋ってる所見たの、中学からの付き合いで今日が初めてだよ」
双眸と、那由さんから流れている色を見る限り、嘘をついている感じではなかった。
茉姫奈が言ったことが嘘を感じられなかったように、那由さんの言葉で裏付けが付く。本当を言っている色を淡く那由さんの周りをすこしなぞっていた。
当人に救われた人はその人を想い、重いくらいに茉姫奈を思い、この様な思い切った行動もできるし、茉姫奈を信じているが故の行動ともとれる。
友情が深いとか、そういう言葉が、今まで不快にしか聞こえなかった。だけど今は、少し意味がわかる気がした。
「な、那由さん」
救われたもの同士、少し話をしたら何か分かり合えると思った。
ただの直感でしかないけど。
「実は、僕も少し救われたんだ」
気がつけば那由さんを呼び止めて僕からも話しかけていた。
茉姫奈に話したような内容を那由さんにも話して、彼女の顔を伺った。茉姫奈に話した内容の一言一句なんて覚えてないから、手探りな言葉で、彼女の心に少しでも染み渡るように話した。
「多分、君とはかけ離れた境遇かもしれないけど、茉姫奈と1番の友達って言うなら、関わることも多くなるかもしれないから話しておきたかったんだ」
「······」
那由さんは、眇めた目で少し僕を見つめていて、何も言わなかった。
「どうか理解してください、なんて言わない····から」
ふと那由さんを見る。那由さんの周りからはふつふつと怒りの色が見えた。
それを見た時、やってしまったな、と思った。
「そんな話、聞きたくなかった」
確かに。
那由さんが話したのは、茉姫奈と仲良くなった経緯であり、僕が話したのは過去と今であって、その過去に受けた痛みを人にさらけ出して、お涙頂戴をしているだけだった。
ただの自分のエゴを振り撒いてみんなから共感をもらおうとする悲劇のヒロインと一緒。きっと感じる人からしたら、「いきなり何この人」状態だ。
そんな話聞きたくなかった。
僕の正鵠を的確に射った言葉に、ハッと我に返る。
自分の過去をネタにして同情をかっているだけに過ぎない僕は、那由さんの一言で悟って、相当気持ち悪い人間だと自覚した。
「····ごめん」
「玲依! 那由と一緒にいたの?」
「あっ」
「じゃあね、マッキー!」
那由さんは茉姫奈の方を向かずに逆の廊下に走って行ってしまった。そのまま階段を降りていって、最初は単調に響いてた足音が静かにフェードアウトしていった。
廊下にいる人は那由さんから茉姫奈に変わり、僕はまた女性と対峙した。
少し力が抜けて、後ろの壁に寄りかかる。
そして、今1番会いたいとは思えなかった人と相対してしまった。
酷く気まずい。
自分から話しかけられないくらい、口が重い。
「····那由って」
「······?」
「那由ってね? 人一倍私を大切にして、気遣ってくれるから、逆に私、こんなに大切にして貰っていいのかなぁって思う時あるんだ」
茉姫奈から少し漏れた気持ちは、那由さんを大切に思っているからこその言葉。
「うん」
「だから多分、玲依になんで急に仲良くなったのーって言われたんでしょ? 那由って私の事になると先走っちゃうからさ」
「うん」
「ちょっと強めに言っちゃったんでしょ? ごめんね、那由もいい子だから」
「····うん」
突然茉姫奈が壁に両手を勢いよく付けて、壁に寄りかかっている僕に迫った。
刹那的な事だったから少し驚いて、目の前に躍り出た胸にも驚いて、反射的に顔を横に逸らす。
「さっきからうんうんばっかり! どうしたのさ急に!」
「····うん、こめん」
「だから、なんで──」
「学校では····あんまり目立ちたくないんだ」
変な知識だけが身について、目の前の今日や明日を考えて生きていく頭だけはまるで発達していなかった。
いや、馬鹿なのは僕の方か。
そんなことを考えている矢先に、茉姫奈は大きな声で、僕を諭すように言った。
「そんなの玲依の勝手じゃん、私は私の『自分勝手』を貫くから! だから毎日玲依に話しかけるもん」
『自分勝手』──最初に茉姫奈が言って、そして昨日茉姫奈を倣って僕も言ったことが、今日になってそのまま返されるとは思わなかった。
自分勝手の押し付け合い、最初は億劫なもので、鬱陶しいと感じていた茉姫奈の自分勝手も、すこしキラキラして見えた。
生産性もクソもない自分の人生と比べたら惨めになって来るような、光り輝いている彼女自身に胸焼けがしてくる。
子供の頃の僕のように繊細で、感受性が豊かな人間で、人の仕草、声、喋り方、目の色、感情全てに憧れている時。だけど、今の僕は変えられない現実と理想の間で今も溺れ続けていた。
公園に1人佇んで、無言で座りながらその公園で遊んでいる年齢が変わらないだろう子供達が無邪気に遊んでいる姿を目に焼き付けて離さなかったあの頃。
全てがキラキラと輝いていた。汚い世界を知る前の美しい自分。
何もかもが満たされていて、世界の汚さと、人の冷たさを知らなかった自分が、今じゃ何ににも期待をできない、温もりを忘れてしまった人間だ。
世界を綺麗に生きている茉姫奈は。
これからもずっと、死にたいだなんて、思うことなんてないのだろう。
「······きっとさ、玲依は自分を信じてないんだよ」
「それは、ずっとそうだよ」
「自分を信じれないなら、無理にでも自分を信じないと、ずっと同じ世界だよ」
何回も言われてきたであろうその言葉。
自分を信じろ。
1番簡単そうに見えて、1番難しい行動だ。
ずっと生きる事に息苦しさを感じていた僕が、少し息がしやすくなったとはいえ、その言葉を飲み込む事はまだ出来なかった。
言葉が大きすぎて、飲み込もうとしても本能が拒絶する。
壁から手を離し、茉姫奈はおもむろに僕の手を握って、再び静寂が訪れた廊下を切り裂くように口をまた開いた。
「でもさ····偉いよ、玲依は」
「いきなりどうして」
「玲依の事だもん、私との誤解を解くために玲依が今までされてきた事言ったんでしょ?」
「····うん」
「それってさ、すごい悩んだ末に言った結果だよね。同情して欲しいとかじゃなくて、自分の本心から出たんだよね」
「····そうだと思う」
「そうだと思うじゃなくて、そうなんだよ。君は優しい人だって知ってるから」
「······」
違うよ。
優しいのは僕じゃなくて君の方だ。
「私は、悩みとかあっても、多分人には言えないで自分で塞ぎ込んじゃうからさ、玲依は言える勇気があるっていうだけで、自分を信じる事が出来る材料になるんじゃない?」
そういう所が、優しすぎて僕は押し潰されそうになる。
茉姫奈に握られた手は温かくて、冷たくなくて、ちゃんと生きていて──ただ人生のレールに任せて息を吸っている僕とは違って、言霊に乗せて僕の心を軽くする意志を持っていた。
皆はそれを知らなくて、そんな事なんて僕からは言えなくて、茉姫奈と同じで今まで言えなかったから。
変わったのは僕じゃない。
「僕は──」
僕の言葉を制止するように茉姫奈は笑みを零しながら言った。
「もうさ、下校時間過ぎちゃってるから一緒に帰ろ? 那由には私から言っておくからさ」
茉姫奈は那由さんが通った道をゆっくり歩き出しす。
人と一緒に学校から帰るのは初めてで、どんな対応をしたらいいのか分からないけど、僕は茉姫奈の言われるがままにバッグを持ってその後ろに付いて行った。
「一緒に帰ろう」
薄暮の夕陽に照らされて恥ずかしそうに言った茉姫奈の笑顔は、何故か遠くを見つめているような気がした。
そのまま何事もなく茉姫奈と一緒に下校して、家に着く。女性と話す環境が出来てしまった以外は普通で、昨日とも形容できる今日にまたドアを閉めて、そして戸締りをした。
家はやけに静寂に満ちていて、夕焼けが所々影を作っていて薄暗い場所が出来ていた。
昨日、母さんが僕がいない間に施設に送られたって言っていた、僕はその時援交をしていたのかと勘違いしていたが、母さんを施設の人に送り届ける手続きをしていたのだろうか。
多分、今姉さんは寝ている。
僕が学校に行った後に課題や、自分のすべきこと(援交も然り)をやった後は、夜になるまで部屋から出てこないのだ。
姉さんも色々ストレスが溜まって疲れていたのだろう、だからうつ病の施設に母さんを移したのだと思うし、父さんとも決めたんだろうか。
『仁美は、もう駄目だな』
という言葉が憎たらしく頭の中に反響して目を眇めた。
黒い感情を押し殺しながら靴を揃えて、リビングを通り、階段を上がって真っ先に自分の部屋に向かう。
自室の時計を見たら5時前で、それまで寝ようと思い、制服をハンガーに掛けて、普通の部屋着に着替える。
そのままベッドに潜り込んで目を閉じようとした時に、突然ラインがなった。
茉姫奈からなにか来たのかなと思って携帯の電源を入れたら、通知の上には「那由」と書いてあった。
「····?」
ラインを開いて、文面を確認する。
『今日のことで、電話したい』
僕は那由さんの連絡先を入力してなかったのに、僕のラインを知っていた。
『分かった』
とだけ入れて、那由さんの返信を待った。
脳裏には少し前のいざこざが浮かんで、緊張で心臓が早鐘を打っていた。
すると、そのまま電話が掛かってきて、着信主は『那由』と書かれている。震えそうな指で受話器のボタンを押して、恐る恐る口を開いた。
「もしもし」
『玲依君? 聞こえる?』
「うん、大丈夫」
予想していた事ではあるのだが、全く話す内容が見つからなくて、内心は酷く焦っていた。
だけど、さっきの事は謝らなければ、先に進めない気がした。
「あの、さっきの事は──」
『ごめんね』
一瞬、頭が混乱した。
あの時、怒りの色が見せていた那由さんがいきなり謝罪をした。那由さんが謝る理由も、要素も無いはずなのに。
なぜ謝ったのか分からなかった。
その状況は実に奇妙に感じてしまった。
「なんで、那由さんが謝るの」
『あの時、怒っちゃったから』
「それは、知ってるけど、」
『私、あの時玲依君の話に同情出来なかった』
当たり前だ。
常軌を逸脱しすぎている話だ。
作り話とも揶揄出来るような、普通では考えられないような境遇。
脳裏にまた浮かんだのは、僕が小学生の頃に髪を掴まれながら父に言われた言葉。
──玲依····お前には、一体何が。
何が、からは言われなかった。
知るはずもない理由を並べようとしても、分からない。
『あの時ね、真っ先に許せないと思ったの、家族はきっと子供を愛して、愛される為にあるもののはずなのに、それを蔑ろにして手を上げるなんてさ、許されないことじゃん』
息を少し吸ってそのまま那由さんは続けて言う。
『なのにさ、そうやって玲依君のお父さんもお母さんも、手を上げて傷付けたっていうのを想像しただけで、なんかさ、怒りで泣きそうになっちゃって、そんな悲しくて、酷い話、聞きたくなかったから、誤解させる様なこと言っちゃってごめんね』
僕が思ってる以上に那由さんは、人の事を考えていて、その上に僕を気遣ってくれていたのだと気づいた。
あの時の冷たい言葉も、物事を俯瞰し過ぎた故の発言だった。
直感的で、でも誰よりも言葉を考えていた。
那由さんから謝られた理由も分からないくらいまで俯瞰が出来ずに、独り善がりな考えた方をしてしまう僕は、馬鹿だ。
「いや、いいんだよ。僕も本能的に話しちゃったから申し訳ないと思ってる····そもそも、那由さんが謝ってきた意図が汲み取れなかった僕が悪いわけだし」
『──そうやって話したくない自分の過去を話しちゃうのって、多分ね、誰かに愛されたいと思ってるからなんだと思うよ』
「····」
『だから、玲依君はマッキーに話したんだと思う、自分は愛されない、だけど、それでも愛されたいって思ってるから、マッキーの温かさを知っちゃったから、玲依君が抱えてた自分の心の冷たさが負けちゃったんだよ。マッキーの温かさが勝っちゃったの、私もそうだったからさ』
「それは、どういう」
『前にも言った通りで、少し付け加えるけど、前の中学校で虐められてて、それで親も仕事変えてまでここまで引っ越してきてんだよね』
思いがけない過去に、少し息を呑んだ。
『親達の仕事の事でも色々あってさ、だから人と話せなくて、話す内容にも悩んじゃってさ、それであぁ楽しくないなあってなっちゃってた』
あぁ、と納得してしまった僕がいた。
物事を俯瞰して判断出来るのは、以前にクラスという学校のコミュニティの世界から隔絶されてしまって、それ以上に虐げられていたから。
いじめがあって人のことを考えすぎてしまうこの人格が無理やり形成され、今に至っているのだろう。
薄暗い部屋に、ぽつりと僕という存在がベッドに座っていて、携帯電話という、電波を流したら文字通りなんでも出来る奇怪な機械を耳元において、コミュニケーションを取っている。
その携帯には、電波越しに那由さんの声が反響しながら、部屋にも解けていく。
その過去を乗り越えて、ちゃんと考えを言えるのは素晴らしい事だし、僕に出来ないことを持っている。自分から本能的じゃなくて、自発的に発言したりなど今まで出来なかったことだ。
『だけど、私の所にマッキーが真っ先に来てくれてさ、屈託のない笑顔で私と友達になろうって····そこから私は、あぁ独りじゃないんだって、私も一緒に居ていいんだなって思って、マッキーに負けちゃった』
那由さんに向けたであろうその笑顔が容易に想像できたのは、茉姫奈がそれ程までに素晴らしい人間だからだろうか。
ただ、僕が想像しやすいだけなのか。
漠然と頭に浮かんで、ただそれを深く考えもせずにただ消去して、視界が薄暗い部屋に急速に戻される。
1度想像すると何も会話とかが入らなくなってしまう、僕だけかもしれないけど、1つに気を取られたらそれしか考えられなくなってしまう。
多分、茉姫奈が向けた笑顔は、那由さんにも向けた笑顔と同じ。
その人を救いあげる大きな手は、茉姫奈にしかない特別なもの。
そのような事を考えていると、那由さんの声が僕の耳に届く。
『だから私もごめんね。自分を棚に上げたようなこと言っちゃったから、あの後マッキーにも玲依君誤解してると思うから、ちゃんと謝ってあげてって言われてさ』
「····分かった。僕も、至らない点があったからごめん」
『ふふっ、お互い謝ってばっかりだ』
「まあ····うん。確かに」
『真面目だね、マッキーみたい』
「何に?」
『生きる事に真面目だなって思って』
何故急に茉姫奈の名前を出したのか、と思った。
茉姫奈は、真面目に生きていると思う。
前を向いて生きてると確実に言える。
僕は、いつも矛盾している考えを持っている汚らしい人間だ。
「多分、それは····那由さんだよ」
些細な嫌がらせが大きく拡がってしまった虐めは、少なからずとも、当事者──虐められた側には大きな傷痕を残す。
それは僕は少なからず理解しているつもりだ。
電話越しに、那由さんの呼吸が聞こえる。一定のビートを刻んで、生命が脈打っている音がする。
他人の心音とか、仕草とか、呼吸とかは良く聞こえたり、見えたりするのに、自分の仕草や、癖は分からない。
呼吸をして生きているのだろうけど、たまに自分が息をしているのかがわからなくなる時がある。
茉姫奈との出会いが、僕に深呼吸をさせるきっかけをくれたけど、まだ何か満たれている感じはしなかった。
その満たされない気持ちの名前も、分からなかった。
「ねぇ──」
『玲依君』
名前を呼ばれる。
「──何?」
『絶対に死のうとしたらダメだよ』
「────死なないよ」
その後は自然の流れでお互い電話を切り、僕もベッドにそのまま倒れ込む。
携帯を持った腕で両目をそのまま塞いで、シャットダウンした視界を開けることも無くそのままの沈む意識に委ねた。
何を考えるにしても、何も思い浮かぶはずもなく、そのまま眠りに落ちた。
死なないよ。
果たして本当にそうなのだろうか?
いや、死ぬのは怖い。
怖くて怖くて、たまらない。
でも、ふとした時に、何かが壊れた時に、とても簡単な理由で死んでしまいそうで。
そんな自分が。
どうしようもなく怖い。
自分は正常な人間かどうかすらも猜疑する。
今も、こうやって言われなければ気づかなかったことだ。
死にたくないのに、それでも自分を殺したいと思っている自分が。
死ぬこと以上に、とてつもなく怖かった。
少し眠ろうとした時に、携帯の通知音がなり、携帯がそれに随伴し電源が付く。
薄暗い部屋に携帯の灯りが入ると、ついつい見たくなってしまう。僕はその通知を見るために携帯を見た。
『茉姫奈:明日から、3人で一緒に登下校しない? どうかな?』
もう1人は、茉姫奈の文脈から察するに那由さんだろうなとすぐにわかった。
ただの携帯で打たれた文字で、無機質な文字列なのに、これ程までに効力を持っている文字はなかった。
分かった。と茉姫奈に秒読みで返信してしまって、僕はまた溜息を吐く。
これからどんな生活が始まるのかとか、不安だとかはもう考えなくなっていた。
他のクラスメイトにはもう既に不審に思われているだろうし、去年はほとんどの人とコミュニケーションを取らずに過ごしてきた人間だ。1周回ってどんな反応をするのか見たいくらいだった。
だけど、何故茉姫奈が僕にこんなに執着するのが、今はどれだけ考えても分からなかった。
2
新学期が始まってから、2ヶ月半が経った。
今でも那由さんと茉姫奈と3人で登下校を一緒にしていて、僕の家が丁度那由さんと茉姫奈がばったり会う所だったからか、毎日同じ時間に僕の家の前で待ち合わせして、学校にそのまま行っていた。
一緒に学校に行くようになったその日に、ラインで3人のグループも作られてしまい、とうとう誤魔化しが効かなくなったと感じたのを覚えている。
そして、例にも漏れず今日も、2人をマンションの前で待っていた。
「玲依、おはよう!」
よく通る声が耳に入り、声の方向を向いた。
少し着崩した制服を着て、変わらずの髪色、メイクはしないと言っていたが、メイクをした様な顔立ち。
変わったはずなのに変わらない日常が流れていて。それこそ夢みたいな話だ。
ずっと描いてきたのは、この様な普通の生活だった。描いても妄想で終わる事ばっかりな人生に、少し色がつき始めた。
僕は、その世界に順応するかのように、彼女の挨拶に応えた。
「おはよう」
茉姫奈がすぐそばまで来て、僕の肩を叩いた。
「待った?」
「待ってた、かな」
「もう少し早く行けたら、驚かせたかな」
「そんなことで驚いたりはしないよ」
「でもいつも私、那由より遅いからさ、成長したと思わない?」
「まあ、そうだね」
「そうだねって、もうちょっと褒めてくれてもいいのに」
そう苦笑しながら言う茉姫奈。そこに介入する形で那由さんが待ち合わせ場所に到着した。
茉姫奈の後ろから来ているはずなのに、茉姫奈は足音か気配か何かでいち早く気付いて、那由さんの方向に向かっていく。
ブレザーの制服を揺らして話す2人は、僕には少し眩しすぎた。
「玲依、行こっ」
「うん」
見慣れている光景なのに、まだ自分自身で幻を見ているのでは無いのかと錯覚してしまう。
僕が女性と一緒に時間を過ごしている。
でも他の人に話し掛けられたら気持ち悪い感覚になるのはまだ変わらず、やはり僕の中でこの2人には心を少しばかり許しているのかな、と思った。
「玲依君、すこし変わったよね」
と、那由さんに唐突に言われた。
「え? ······そうかな」
「うん、すこし柔らかくなったって言うか、何か遠くを見るような事が無くなった」
「確かに!」
「そんな過剰に反応することかな」
「そんな小さな事だからこそだよ!」
「····なるほど?」
「あと、ずっと考え事してる様な表情も少なくなったよね」
「マッキーそれ私も言おうとしてた」
「だよね! 那由はよく人の事見てるねぇ」
後、僕自身の中ですこし変化があった。
毎日の様に見ていた殺される夢を2人と一緒に行動を共にした次の日から見なくなった。
悪夢ではなく、普通の夢を見るようになって、感覚的に苦しい思いをせずに寝れるようになった。
だけど、たまに僕を殺していた影が、夢に出ることがある。
目の前に僕の前に現れて、何か言っている所で毎回終わるのだ。
その場面が一気に切り替わって現実へと覚めていく。
「まぁ、僕は元々こういうコミュニケーションを取るような人間でもないから」
「これから取っていけばいいんだよ」
「そうそう、玲依君も、やっと前みたいな危なっかしさが薄れてきたからさ」
危なっかしさと言われて、そうだなと思ってしまった。
過去を思い出しても何もならないけれど、ずっと死にたいと思っていた僕でも、ここまで今日を変えられた。
今でも信じられなくて、自分は夢を見ているのではないかと何度も思ってしまう。
今見えてる視界も夢であって欲しいと何度思ったことか。
それは何故か。
それは、人の感情が色として見える事が、死ぬほど嫌なのに、それがなくなっても怖い。
見える色が、僕を依存させていることだ。
そのきっかけの場面は──今でも鮮明に思い出せる
それが見えるようになったのは小学生低学年の時、授業中にふと空を見てみると、真っ黒な空だった。“黒い蒼穹”がずっと続いていて、何故だか分からないけれど、空が死にそうで、泣いているような感じがした。
でも日差しはあって、窓からは煌々とした光が僕に刺すように照らしていて。
その時の僕は活発で、今のように自分を閉ざしてはいなかった。興奮と不安でいてもたってもいられなくなった僕は自由帳で真っ黒な空を書いて隣の人に見せた。
今思えば、本当は嫌な顔をされながら「何を言っているんだ」と言われるようなシチュエーションだ。
その人はすこし凝視したまま、「私は青く見えるけど、レイには、その空は黒く見えるんだね」と微笑みながら言われた。
本当に黒いのに、と僕は思いもう一度空を見た。
黒かった。本当に黒かったんだ。
でも、知っていた。あの空は本当は青いんだって。
天変地異でもないし、空は泣いているはずなんて無かった。
黒い空は僕が瞬きを暫くすると徐々に青色に戻って、何事も無かったかのように動き出して、青を紡いだ。
目を擦っても、空は黒くなんかない。
隣の子は、それでも「レイがそう見えてるのなら、きっと本当はそうなのかもね」と何故か何度も肯定してくれた。
その子と一瞬目が合って、その子ははにかんで、明るい色を淡く放った。
それが──初めてだった。
その時、見える色はその人が感情を持っているかとかだと分かった。僕は耐えられずにその子に『空は真っ黒だったけど、君の色はとても綺麗だ』なんて言ってしまって、少し面食らった後に彼女は恥ずかしそうに笑った。
その子とは1年でクラス替えで離れ離れになってしまったし、昔の事だからか、名前すら、顔すらも忘れてしまっている。
ただそのきっかけの記憶が断片的に残っているだけだった。
その子が出した色の後は、色を意味を知れば知る程、知りたくない事ばかりが降り掛かったが。
2人をよく見ると、出会った時からずっと変わらない色をしている。普遍的で、ずっと変わらなくなった光景が、何故か眩しく見えた。
何より、そこにこんな僕がいてもいいのか、とまで思ってしまう。
学校でも、彼女達に比べたら僕は空気に等しく、学校内で誰とも話すこともなければ、茉姫奈と那由さんは色んな人と会話をしていて、時には男子とも会話をしている。
僕は2人に話しかけられてやっと話せるくらいだ。
3人で通学路を歩いている時も、この様にずっと同じことを考えている。
「茉姫奈達はさ、僕みたいな考えになったことは無いのかなって唐突に思っちゃったんだけど、どうなの?」
僕みたいな考え、と言っても抽象的すぎて言った僕自身もあまり的を得てない発言だなと思い申し訳なく思った。
僕みたいな考え、といっても女性不信や、死にたいと思ってしまう感情、言い出したらキリがないなと思った。
「んー······玲依が言ってるのは境遇とか、過去が重なって死にたいと思ってても死ねないっていう考え方かなって思っちゃったんだけど」
「あ、それ私も思った」
「やっぱり私たち以心伝心だね」
「····そのやり取り、ほとんど毎日見てる気がするんだけど、流石に飽きてくるよ」
「不満?」
「そういう訳じゃないけど、そのやり取りを毎回されると見飽きるというか」
「まあ····私たち可愛いし玲依としても眼福じゃない?」
自信たっぷりの顔でそう言う茉姫奈だが、確かにそう自信を持って言われてもあまり反論出来ないくらいの顔立ちはしていた。
どれだけ僕が悪い所を見つけようとしても見つけられないくらいだ。
「んー、玲依のその心情は分からなくもない!」
一瞬、茉姫奈の周りにモヤのような、透明な陽炎のようなものが見えた。
僕は初めて見たそれに対して、特に意味は無いだろうと思い、茉姫奈の言葉に返答をする。
「····相当ふわっとしてるね」
「んーじゃあ、生きる事ってどういう事だと思う?」
急に僕の質問と同等の難しさの質問を返されて、返事に困って少し狼狽してしまった。
少し黙り込んだまま、僕は思った事を口に出した。
「その言葉の通りに、人生を送ること。僕の場合は、意味のない人生だろうと思ってたけど、最近は違うように感じてる」
哲学的な問題だ。
人それぞれその生きる事について考え方は違うと思うし、多種多様な考え方が存在していると思う。
だが、僕の言った生きる事と、茉姫奈が思っている生きる事は必ず違う。それが同じ人という人は居ないだろう。大枠は合っているかもしれないけれど、細かい所を見ていくと違っていたり、全てがあっていることなんて天文学的な確率だ。
僕のようにずっと死にたい、消えたい、でも死にたくないという矛盾した感情が、その生きる上でずっと付き纏っていたり、あの2人のように過去や現状、境遇と向き合って、それを乗り越えて今を生きている人もいる。
那由さんや茉姫奈が僕の世界を少しでも変えるきっかけになったのは、その2人が生きる事について僕以上に考えていたからだ。
「じゃあ、質問を変えるかな。なんで人は死にたいって思って、結局死を選んじゃうんだと思う?」
それは、恐らく単純かつ簡単な答えだ。
「····死にたいから、なんじゃないかな」
「まあそれはそうなんだけど、それをもっと敷衍して言って欲しいな」
その理由を敷衍した所で、その死んだ人の理由は死んだ人にしか分からないし、筆者の考えを予想する事が出来ないようにに、死を選んでしまう人の気持ちがあまり分からなかった。
あの頃の僕は、多分何かと死にたいという感情に理由をつけたがっていたのだろう。
前までは毎日死について考えたり、生きる事とか、それこそ那由さんに死んではいけないと忠告をされたし。
その時自分は····生きる術を考えた所で、僕には道標にすらならない事だ、と蓋をして、灰被りのシンデレラの様に塞ぎ込んだ。
勇気もなくて、死ねるはずなんて無いのに。
「····ごめん、分からない」
僕は、チラッと茉姫奈の方を見て謝る。
茉姫奈は、心で訴えかけるような目をしていた。
「いいよ。気にしないでね····多分ね、本気で死にたいとか、本気で追い込まれてる人って、簡単な事で死にたくなると思うの、少し躓いたりしたら死にたくなるし、ごめんねって言ったら死にたくなるし、ただ自分の物が落ちたり、他にも色々あると思うけど、でも多分、そういう理由で死んだ人も沢山いると思う」
かなりリリシズムに偏った回答だと感じた。
まあそれもそうかと、僕はすぐ納得する。
僕達の通っている高校では死について深く考える講演会や授業なども実施されていたり、授業の一環で倫理のコマも組み込まれていた。
付近の高校と比べると偏差値はかなり高い方であり、それに随伴して茉姫奈もギャルの格好こそしているが、茉姫奈自身もかなり頭がいい。
遊んでそうな格好をしているが普段は真面目に勉強していて、それ故にこのような、適当ではない、真面目な答えを導き出せる人間だと僕は思った。
「やっぱり、頭いいね」
「授業はちゃんと受けてるからねぇ、こんな格好だけど」
突然、誰かの携帯が鳴って、音の方向的に僕の携帯ではないのはわかった。
茉姫奈が目配せして、那由さんが携帯を見て確認をする。
すると、突然那由さんは「あー!」と大きな声を上げて、急いだ様に僕と茉姫奈に言う。
「ごめん! 今日日直なの忘れてた、私もう走っていくから後でね!」
そう言いながら、那由さんは僕たちのあとを去っていった。漸次遠くなるその背中を見て、茉姫奈に少し、頬を膨らませながら僕の制服の裾を引っ張ってきて、僕も歩き出す。
意識していなかった事が情報として僕のもとに入ってくる──やけに、日差しが強くて、あまり暑くは無いのに初夏のような日差しにジリジリ照らされている。もう散っている桜の木を見て、もう季節は移ろっていくと改めて実感した。
「····話の、続きしてもいい?」
「うん、全然いいよ」
ずっと茉姫奈達といるからか、最初の方に見えていた色がたまに見えなくなったりする。常時見える訳じゃないけれど、眼鏡越しでも目を凝らすと浮かび上がってくるものが、見えたり見えなかったりする。
それも、自分の生活の変化に繋がるのか、とも感じたが、そんな難しい事は考えたくなかったからか、僕はすぐに忘れることにした。
「それで、良くなんか色んな人が、自殺するのは人生から逃げたんだー、とか言ってるけど、多分そうじゃないんだと私は思う」
刹那、茉姫奈は僕の手を両手で握った。
それで僕も突飛な出来事で一瞬立ち止まって、時間が止まった感覚がした。
さざ波のように風が揺れる。
強くなる日差しが、茉姫奈の影を長くした。
対照的に、僕の影は短くなって、茉姫奈の影が伸びて僕の影と重なる。
一瞬、影と重なって茉姫奈の顔が見えなかった。
目が影に適応して、両目のファインダーでしっかり映し出しているのは、真剣な目で語りかけるあの時の目。
僕の持っていた価値観を全て壊した、あの茉姫奈の目。
僕は茉姫奈の表情や、仕草や、揺れる金髪に夢中で、差し込む光なんて気にならなかった。
喧騒も、流れていく人々もかき消すほどの力を持つ彼女の言葉と表情は、僕に感情の色を見せる事すらも忘れさせた。
「自分で死を選んじゃった人って、言う人に言わせたら『逃げた』って言われるじゃん。だけどさ、そうじゃないと思うんだ。『逃げた』んじゃなくて、逃げようとしても結局『逃げられなかった』人だって····必死に逃げようとしたって結局逃げる場所なんてなかった人達なんだって····そう私は感じてるんだ」
茉姫奈が、代弁者のようにも感じた。
「····うん、僕もその通りだと思う」
納得する事しか出来なかった。
まるで彼女がいつもそのような事を考えているかのような、完璧な答えだ。
逃げ道なんてないから、自分で死に場所を選んでしまう。
僕も、多分それに似たような感覚を持っていた。
死にたくなんてないのに、なぜかベランダに居たり、包丁を持ってたり、マンションの屋上に上がって景色をずっと見下ろしていたりもしたし、酷い時は家族をどうやって手にかけてしまおうか考えていたりもしたこともあった。
今はこの空間という逃げ場所があるけれど、姉さんが守ってくれた場所も、息が苦しくて仕方なかった。
だけど、違う。
それでも、生きてる。
だから自分で死のうと飛び降りたり、人を巻き込んで死ぬ人は──僕以上に重いものを背負った人間なのだ。
僕が、偽善者みたいだった。
死にたいと思いながら生きて、結局1歩下がる。
「まあ、私の考えだから、気にしなくていいと思うし、頭の片隅くらいに入れといてよ」
そう言うと、また茉姫奈は歩き出した。
それに追いつくように僕も早足で歩き出して、学校に向かった。
学校について、クラスに指定された席に座っていつも通りの授業を受けたとしても、何かが変わっていくという訳では無い、授業を受けていつも通りに知識を蓄えて、受験に準備する。
学校というものは、その繰り返しで出来ていると思っている。
世界に“色”がつき始めて、全てが変わってしまったようにも思える。
歳をとるにつれて、本来見えていたものが見えなくなったり、視力は良いのに大切なものは年々ぼやけて見えるのは、自分の心が汚れているからだろうか。
それに目を塞いで、今は言われた事しかやらなくなった気がする。
歩かされたレールすらも言われた通りに歩いてきて、なぜか僕をそのレールから吹き飛ばす列車すら通ってくれない。
でも、列車は通ってくれなくとも、線路は変わったとは思えるようにはなってきた。だから、最終的な自分の将来の目標は叶えなくちゃな、なんて最近は思えてきている。
それと、茉姫奈と那由さんと一緒にいるようになってから、色んな人から見られる事が増えた。
気がするでは無く、本当に増えた。
断言出来るくらいに。
今まで空気同然だった僕が、学校でトップレベルの2人と一緒に登下校したり、昼ご飯を食べたりしている。
高校の最後のクラス替えでグループが既に完成していて、元々高一の頃からのグループや、新しいクラスになったと同時に仲良くなったグループ、様々だった。
その元々あったグループの2人の中に僕が混じっているのが、奇怪で仕方がないのだろう。たまに自分でもそう感じる時はあったりする。
嫌でも様々な人達から、疑念の目を向けられることが多くなった。
特に、クラスで目立つ不良の男子には特に。
最初は初めのうちかと思われていたのだろう、ずっと居るうちにそのような事を威圧的に聞く事が増えてきた。
「なぁ、なんでお前みたいなやつがマッキーと那由といつもつるんでんの?」
昼休み、委員会の仕事で2人がいない時、僕はここ最近はいつも男子に絡まれていた。
ポケットに手を突っ込んで僕を見下すように言う彼は僕より背が高くて、図体も大きい。
髪は短髪で、髪の色はベースは黒だけど、毛先などは金髪。
名前は──元々覚える気もなかったから、分からない。
僕に絡む人達から渦巻く色は、単なる好奇心の色や、何故なのか、という疑問の色が大半だが、クラスで就中目立つ男子から見える色は──嫉妬だった。
「何故かと言われても、僕にもわからない」
かなり本心を口にしたつもりだった。
だが、それが彼には良く響かなかったようで、僕の机を両手で叩いて詰め寄る。
乾いた大きな音が響いて、一瞬クラスを凍てつかせた。音が反響して、クラス中の人間が静かに僕の方を見た。
大きく響いて零れ落ちた音が向かう先は、虚無だった。
どこに向かうでもなく、乾いた響きはただ彷徨って、聞こえなくなった。何かの後遺症みたいな耳鳴りが片耳だけしばらく聞こえていて、数秒後にはそれもついに聞こえなくなった。
ハッと意識が浮上した、その瞬間に制服の襟を掴まれていた。
これは、まずったなと思った。
「だからさ、なんでお前みたいなやつがつるんでんのって聞いてんの、わかる?」
「だから僕は──」
「わかんねぇってのか」
「······分からない」
分からないものは分からないし、そこは正直に言うしか無かった。
「なんなんだよお前、鬱陶しいな。俺の事バカにしてんのか?」
「別に、バカにしているつもりもないし、分からないものは分からないって言っただけだよ」
彼は舌打ちをして、僕の裾から手を離す。
「その言葉1つ1つが腹立つんだよ。見下してんのか」
「見下してもいないよ」
「じゃあなんでお前みたいな目立たない根暗が、こんなに仲良くなれてるんですか?」
彼にに眼前まで詰め寄られて、恐怖感を覚える。何か彼が積極的に茉姫奈に話しかけているところは僕も見ていた。
彼からはかなり濃い嫉妬の色が現れていて、眼鏡越しからでも見えるほど濃いものだった。
「聞いた事あるわ、お前の家金持ちなんだっけな。お前ただカモられてるだけだぞ? お前、あいつらに遊ばれてるだけ、それしか有り得ないんだわ」
低い嘲笑が、何故か僕の頭の中に断末魔みたいに甲高く響いて、形の無い心が酷く殴られたような感覚になる。
最近、感情の色がわからなくなることがある。自分の見ている色は本当は思っていなくて、ただ僕自身の被害妄想だったら、僕はどれほどまでに気色の悪い人間なんだろうと、たまに思うことがあった。
様々な変化があり、環境が変わって、僕も少しづつ歩けるようになって来て、深く関われば関わるほど、見える色が疑心暗鬼になってしまうのではないかと。
結局は人の目が怖くて、女性には全然関われない。だからこそ執着にも近い感覚を持っている茉姫奈と那由さんの本心が分からなくなってしまっていた。
でも、それは無いと信じている自分もいた。
食べ物も奢らされたこともないし、茉姫奈にあげたプレゼントと言ったら、あのTシャツだけだ。
「それは····」
ない、と言い切りたかったけど、断言が出来なかった。
言葉が喉からつっかえて、黙り込んでしまった。
「まあいいわ、やっぱりお前みたいな会話も成立しないような根暗に聞いたのが間違いだったわ」
そう言いながら廊下に出ていって、気まずい雰囲気が流れる中、僕はまた1人になった。
「······」
これが最近続いていて、正直迷惑している。
日陰で腐るほど陰口を言われたり、蛞蝓のような扱いをされる事には慣れているけれど、直接分かりもしないことについて力を振るって言及されることは、少し僕の精神をすり減らすものだった。
なら、2人との関係を断てばいい、という人もいるのだろうけど、自然と消滅するだろうと思っていた関係が2ヶ月近くずっと続いているという事は、もうずっと続くのかもしれないと思っている。
もはや生活の1つとして染み付いているのもあるし、僕はもうその中で、彼女たちを信頼してしまっている。
僕はもう戻れない。
彼女たちの優しさに触れてしまったから。
もう、僕は1人でいる事が出来なくなってしまった。
一時的な孤独は大丈夫なはずなのに、永遠に孤独を感じる瞬間は、なぜか茉姫奈に助けを求めてしまう。
彼女は、嫌な顔1つしないで応えてくれる。
最近この時間になったら考える事だ。
彼女たちも僕に対する変な噂を流されているのを聞いた事もあるし、僕が裕福だからって僕を脅してパシリにしているなんて言う噂も聞いた。
勿論その中には卑猥なものもあった。
まったく根も葉もない噂すら言われて、正直僕もうんざりしていた。
茉姫奈たちは全く気にしている様子はなくて、「そんなくだらないのは無視した方がいいよ」と言っていたが、このような経験がない僕にとっては、そう言われても気になってしまうものだった。
この2ヶ月、楽しいと思っている感情の裏に、気が滅入りそうな位の周りからの尋問と陰口。
その様な事を思っている内に、僕は色んな有名人が誹謗中傷をきっかけに、自ら死を選ぶというものが、人間らしくなってきたが故に少しづつわかる気がしてきた。
逃げたんじゃない、逃げられなかったんだよ。
ありもしない茉姫奈の声が頭の中に響いて、曖昧になる。
やはり、1番の暴力は、1番の大量破壊兵器は、拳でも、爆弾でも、銃でもない。ただひとつの····暴力性に満ちた言葉なのかもしれないと。
今更ながらに、薄っぺらい人生を送ってきたからか、その様な結論が頭の中で纏まるまでに18年もかかった。
情けないけれど、それが僕の現状でもあった。
少し疲れがどっと来て、嘆息を零した。
「レイ君?」
すると声を掛けられて、横を向いたら、スズさんがいた。
教科書とノートを抱えたまま、怪訝そうな顔で僕を見つめていた。
今まで悪いイメージがつかない程度に最低限の会話をしていたが、ここまで見つめられたことは無かった。
僕は本能的に目を逸らしてしまい、ゆっくり眼鏡の両縁を両手で直して、彼女の眉間に視線を向けて、また目を逸らして机に視線を向けた。
「····悔しくないの?」
悔しいさ。
言いたくても言えないんだ。
蜃気楼みたいに霞んだ感情が、喉からつっかえてギリギリで出ない。
僕が言っても、何も変わらない。
今までがそうだったからか、変わる気がしないんだ。
ただ平等に意見を聞いてもらったこともないし、その機会すらも自分から目を閉ざした、しょうもなくて、弱虫な人間だ。
今更、変わったものがあったとしても、どう頑張っても変えられないこともあるのは、僕でも分かっていた。
僕の軽い言霊では、人の心など動かす事は出来ないことに。
「······別に、悔しくなんかないよ」
嘘。
僕は、また目を逸らしてしまった。
僕の周りに、嘘をついた色が見えた。
1人で生きてきた癖に、今は茉姫奈達に依存して、縋ることしか出来ない灰被り。
机の上の、孤独な神話体系に横たわる、僕の形の無い意思は灰に埋もれて見えなくなった。
「マッキー達が、あんなに悪く言われてるのに? レイ君も、那由ちゃんも、何も悪くないのに?」
「僕が言われるのは、全然いいんだ」
「やっぱり、マッキー達のことをどうこう言われるのが悔しいんでしょ」
「でも、僕は非力で、無力なんだ。悔しくても抵抗できる術が分からないんだ」
「そんなのは····これからすぐ分かるはずだよ。だって、レイ君にはその術(すべ)を教えてくれる先生がいるはずだから」
「····何を言ってるの」
「言葉の通りかな?」
「だから──」
顔を上げた瞬間に、スズさんが僕にメモ帳の紙切れを渡してきた。
それはまっさらな新品で、何も書いていないもので、ますます意味がわからなくなった。
「····意味が、分からないよ」
そう言うと、スズさんは片手で教科書を持ちながら、僕の頬を触りながら言った。
「放課後さ──待ち合わせしようよ。レイ君」
急に言われて、僕は咄嗟に目を合わせてしまった。
「····君は、何を?」
「すぐに分かると思うよ。体育館裏に集合ね」
そう言いながら踵を返して立ち去っていくスズさんを見て、疑念の声すらも上げることが出来なかった。
何故か、とか、それに対する理由を聞こうとしても誰の耳にも届かないことは知っていた。
何故か、不意に教室という世界に隔絶されている気がした。
皆は話していて、僕に気すら留めないで世界は進んでいく。
彼女達がいなかったら、僕は居ないようなものだよな。
その世界に適合できなかった僕が悪いのはわかっていた。
クラスの皆が紡ぐリズムは、ピアノが奏でる様な旋律とは違う、僕はそのリズムから逸脱した不協和音だった。
急転直下の出来事がいくつも重なって、僕は諦めるように机に伏せた。
──なぁ、なんでお前みたいなやつがマッキーと那由といつもつるんでんの?
そんなの、そんなのさ。
「──僕が、一番わからないよ」
いつも通り残りの授業を終えて、帰る準備をしていた僕は、不意にスズさんが僕に対して言っていたことを思い出した。
体育館裏に集合と言われた後に何も音沙汰もなかったからすっかり忘れていて、今思い出さなければ足を運ぼうとも思わなかったかもしれない。
別に、何かを期待しているわけじゃない。
どちらかと言うと僕はスズさんのことが苦手で、かなり壁のある接し方をしていると思う。多分彼女にもそれは伝わっていて、今までずっと今日みたいに長く話してこなかった。
不意に後ろの茉姫奈の席を見ると、茉姫奈はバッグもない状態で席も綺麗に片付けられていた。
つまり僕が帰る準備をしていた時から帰っている事になる。
何もすることがない僕は帰るスピードはお世辞ではないがかなり自信があった。
自虐になってしまえばそれまでだけど、茉姫奈と那由さんも僕のペースに合わせてくれていたから、かなり不審に思ってしまった。
那由さんも席を立っていてもうどこかに行ってしまっているのを見て、僕もリュックに急いで教科書を詰め込んだ。
何故か虫の知らせの様に、僕は焦った感情が先走っていて、急いだ手つきが教科書を何冊かリュックから落としたりして、逆にペースを遅くさせた。
すぐ無造作に教科書を詰め込んで詰まる息を飲み込んで走り出した。辺りを見渡しても那由さんの姿はなく、完全に見失ってしまった。
僕は1つ息を吐いて、諦めて体育館裏に向かう事にした。
気分は中々に落ち込んではいたけれど、様々な作品はその心情的に雨や曇りの情景を映すのが鉄板となっているのだろうけど、今日は腹立つくらいに綺麗な夕焼けが廊下の窓に差し込んでいた。
僕の落ち込んだ気持ちは、ことごとく夕日に焼き尽くされて焦げて見えなくなる。
俯瞰的に見ると、美しい情景が拡がっているのだろう。
紅蓮に染まった綺麗な廊下、様々な感情の色が行き来する空間に1人隔絶され、取り残されている1人の人間。
それを絵画かイラストにしたら、大層綺麗な描写の作品が出来上がるだろう。
「レイくん」
声の先には、スズさんが立っていた。
「····スズさん」
「遅いから迎えに来ちゃった。どうしたの、外見てたそがれちゃってさ」
「いや、考え事してただけだよ」
「ちょうどいい所だから、来なよ。着いてきて」
「だから、なんの用が──」
「すぐ分かるって」
曖昧な答えに、僕はさらに困惑する。
だけど、踏み込んで聞けなかった。
僕はただスズさんの後ろを着いていって、体育館裏に目指すだけだった。
すると不思議なことに、スズさんが提示した場所には那由さんも居て、僕たちはそこに鉢合わせる形になった。
「えっ」
那由さんがいた事には少し驚いたが、早く教室から出た理由の辻褄も合ったからか、すこし安心していた。
「玲依くんもスズに呼ばれたの?」
「あ、うん。何故か僕も呼ばれたんだ」
那由さんは、僅かに緊張感を漂わせていた。
色的にも緊張の色が見える。
心なしかすこし腕が震えていた気がした。
「まだ少し待ってね」
とスズさんに言われると、少し時間が経つと奥の角の方で砂利を踏む足音がした。
そこに恐る恐る顔を出すと、バッグを壁にかけていて、携帯をいじっている茉姫奈がいた。
僕の横で見ていた那由さんは、何かを察したように茉姫奈を見守るような目で見つめていた。
状況に混乱した僕は後ずさりしながら声を出しそうになってスズさんに口を塞がれた。
一瞬頭が混乱してスズさんの方を殺気立った目で睥睨した気がする。警戒している僕を宥めるように少し緊張気味な笑みで僕に「しーっ」の合図を無音で送った。
状況を少しづつ呑み込め始めた僕は頷き、やっと口を解放してもらった。
鼻で呼吸はできていたからあまり息苦しくなはいけど、突然後ろから口を塞がれたからか、心臓が早鐘をうっている。
僕も謎に思い緊張感に押し潰されそうになり、今からでもここから立ち去りたいと思ってしまう。
もう一度スズさんを見た。
スズさんは僕に少し固い笑顔を零しながら、小さい声音で。
「多分、もうすぐだから、目を逸らさないでね」
と言って、那由さんの所に歩き出した。
一体何が始まるのだろうか、僕の中に渦巻く不安は、夕暮れの太陽に焦がされて消えていく。
焦燥と、不安が錯綜して心臓の鼓動を落ち着かせてくれない。
別に何かを勘繰っている訳でもない、ただ茉姫奈や那由さんから少し感じる緊張と不安の色が、僕の焦燥感を煽らせていた。
もし、スズさんが僕達を裏切って茉姫奈や那由さんに酷いことをするのなら、何を信じて生きたらいいか分からなくなる。
でも、まあまず、彼女の言葉におめおめと着いて行った僕も悪いのだろうけれど。
「おい、マッキー!」
数時間前に、聞いたことのある声だった。
嫌な予感的中した気がした。
那由さんの元に行って角の先を見た。そこには僕に詰め寄って、胸ぐらを掴んできたクラスメイトが、威圧感のある雰囲気で茉姫奈の前に立っていた。
僕達は2人の横姿を見るようにして様子を伺っていて、威圧する様なクラスメイトの顔に萎縮し、茉姫奈の顔はすこし強ばっているようにも見えた。
茉姫奈も女性にしては背は相当高い方だが、対峙しているクラスメイトはそれをゆうに超える身長差と体格差であり、改めて見るとこんな人が僕に詰めてきたと思うと正直ゾッとした。
「あれって」
すると那由さんが答えた。
「金城っていうクラスメイト、ずっとマッキーを狙ってたらしくて、マッキーはずっと彼の誘いを断ってたらしんだけど····」
「那由ちゃんとマッキー居なかった昼休みにレイ君、金城くんに詰められてたもんね」
「それは····」
「え、アイツにそんなことされてたの? 尚更許せないんだけど」
でも、今この状況で衝動的に身を乗り出してしまったらいけないということを那由さんは分かっていた。
那由さんは、金城くんの事をあまり良く思っていないのは雰囲気と言動からして読み取れる。
那由さんは金城くんを茉姫奈から離れさせるきっかけを待っているのだろう。
だからこそ、今姿を現したとしても、何にもならない事は那由さん自身が1番分かっているはずだ。
那由さんは金城くんを激しく睥睨したまま、そのままその状況を見続けていた。
僕も、那由さんと同じで、見続けることしか出来なくて。
打開策を考え続けて、ついに思考がほとんど止まっている状態の時に、スズさんが追い打ちをかけるように僕と那由さんに言った。
「偶然聞いちゃったんだよね、朝の時間に」
「何を?」
僕は焦りと張り詰めた空気から出る緊張感で心臓の鼓動を速めながら、スズさんの言葉を問い返した。
「レイ君が腹立つから体育館裏に呼び出して、マッキーに告白するって、それで断られたら襲って無理やり動画とか撮って断れなくするって、周りの人達に言ってた」
考えただけでもゾッとした。
もし、スズさんがその話に聞き耳を立てていなかったら、茉姫奈の全てが壊されていた可能性があったと思うと、鳥肌が立って今以上に足が震えそうで怖かった。
「それでもマッキーが抵抗するなら、電話してみんな呼ぶって言ってて」
「····それは、本当に言ってたの?」
信じがたくて、聞き返してしまった。
「言ってた。今ここに2人がいることが1番の証明になると思う」
「──那由さん····」
「分かってる。玲依····分かってるから」
彼女の感情は、憎悪に燃えていて、濃く見えるくらいに赤黒いドスの効いた色が那由さんの周りを取り巻いていた。
いつもは玲依君と君をつけるのに、本能的に呼び捨てにしてしまう程、那由さんも頭に血が上っている。
僕も、那由さんのこんな姿を見るのは初めて見た。あの時僕にみせた怒りの色は、哀しみや、僕の惨めな人生に対する寂寞も混ざっていたと、那由さんと関わる日々の中で気づいてはいた。
時には冷静に的確な意見をくれる理性的な彼女が、今は怒りで感情を塗りつぶしていた。
「なぁ、頼むよ。ずっと言ってるだろ」
金城くんの声が、やけに僕の耳に通った気がした。
「去年からずっと言ってるじゃねえか」
「私は興味ないってずっと言ってる」
「そんなこと言わずによぉー、付き合ってくれよ」
「嫌だ」
静謐な空間に茉姫奈と金城くんの声が反響しては消える。それの繰り返しだった。
「なんで、この状況なのにお前はそんな強情でいれるんだよ」
「ずっと前から嫌だって言ってる! アンタだって、那由にも言われてたんじゃないの?」
「俺も今日は引かねえからな。那由もいねえし」
「勝手にしたら?」
茉姫奈は強気な相手には強気に出る人なんだと思った。ずっと優しい彼女しか見ていなかっただろうか、芯の強さというか、ちゃんと信念は持っているのが感じ取れた。
「おい」
「····何」
「なんで俺にしねえの?」
「わ····私はアンタのことが好きじゃない、それだけ。何回も言ってる」
よく見てみると、茉姫奈の足は震えている。
何かされるかもしれない。
乱暴されるかもしれない。
もしかしたら、それ以上。
その恐怖と戦いながら、今すぐ逃げ出したい気持ちを抑えながら、茉姫奈は真っ直ぐにぶつかっている。
何度も考えてしまう。
その考えが脳を焦がすくらい巡っては消える。
スズさんがあの時偶然居なかったら。
多分茉姫奈は。
心臓の音がうるさくて、彼らの会話があまり聞こえない。
「マッキー····いや、マキナ。なんでお前はよ」
そのまま正鵠を射るような、恍惚に満ちた顔で金城くんは茉姫奈に言い放った。
「桜山みたいなクソだせぇ陰キャと一緒に居るんだよ」
彼は、そこからタガが外れたように僕の悪口を吐いていく。
いっそここまで来たら清々しいくらいだった。
彼からは、噎せるくらいの嫉妬と、焦りと、嫌らしさと、茉姫奈に対する欲に満ちた色をしていたから。
「くだらねぇ人間、くだらねぇ人生、きっとあいつの為にそんな言葉はあるようなもんだろ」
言葉に、嘘は無い。
「だせぇ以外の言葉しか言う事ねぇだろ、それよりイケててあいつより断然かっけえ俺と付き合えよ。俺はあんなだせぇ人間じゃねえし、あんな人間になるくらいなら死んだ方がマシだ」
茉姫奈の顔は、身体は、震えていた。
「だって知ってるだろ? あいつの家死ぬ程金持ちらしいんだよ。絶対お前もそれ目当てだろ? アイツをカモれるだけカモってさ、最後は捨ててやろうぜ。そうだろ? 結局はお前も俺に惚れんだからよ、だから俺と付き合えよマキナ!」
吐けるだけ吐き出して、静寂が辺りを包む。
僕も、金城くんの毒を飲み込んで、その通りだなと感じてしまう部分もあったのが、嫌だった。
確かに、僕は彼よりもかっこいい人間ではない。彼が動いている感情が僕や那由さんに対する嫉妬とはいえ、それは切に感じる事だ。──人を選んでいる訳では無い、でも図星で、今この場に僕が居ても、言い返せる勇気がなかった。
彼女と彼を第三者として俯瞰してみても、彼らには華があって、茉姫奈の意思はともかく、付き合ったら目立つだろう。
だけど、茉姫奈は完全に拒絶していて、でもその拒絶と随伴するように彼女の身体は酷く震えている。
「おい、なんでお前震えてんだよ」
茉姫奈の震えた手首を金城くんが掴んだ。
茉姫奈は反射的に手を振り払って、距離をとる。
「やめて、触らないで」
睥睨する瞳と、取り巻く感情はやけに恐怖と何かを悟っている色で。
恐怖の中にも、何か肝が座っていた。
「怖いなら、さっさと受け入れろよ、マキナ」
「······」
近づいてくる嫉妬。
「あんなだせぇ奴に執着すんなって。お前は俺と──」
刹那、茉姫奈は金城くんの体を両手で力強く押して、金城くんは少し体制を崩して声を荒らげた。
「てめぇ····!」
しかし。
「──アンタに何がわかるの!? 玲依の心も、那由の本心も、私の気持ちも!」
彼女も声を荒らげて、金城くんを心で圧倒する。
「自己中心的な言葉と貶めで、私がアンタと付き合おうって思うと思った?」
金城くんは面食らった様な顔で茉姫奈を見ていた。
僕も角の所で見ていたけれど、彼女がこんなにも大きい声を出して怒りを顕にしていたのは初めて見た気がした。
いつの間にか茉姫奈からは恐怖を塗り潰すくらいの怒りの色が浮き出ていた。
このタイミングで、那由さんは携帯を取り出して握りしめた。スズさんはもう奥の2人にバレないように携帯のカメラを回していたみたいで、僕と目が合って軽めのアイコンタクトを取ってきた。
「そうやって、自分の価値観で人を測るな!」
「おい、マキナ──」
「どんな気持ちで玲依もお金持ちの家で生まれたか分からないじゃん、表面的な言葉と偏見で決めつけて、自分が上に立ったとでも思ったつもり?」
慟哭にも近い何か。
「ずっと人見下してさ、私と付き合いたいのだって結局は見栄えでしょ? 本気で私の事が好きなら、他人を引き合いに出してダサいなんて言わないでしょ! 価値だけに囚われてブランド物に群がる中身がない奴らと一緒!」
自分を守る為に声を出しているのもあるだろうし、怒りに任せているのもあるだろう。
「言ってる内容も全部玲依の嫉妬してばっかでさ! あることない事流してたのもアンタでしょ! ······だから、女々しいアンタに教えてあげる」
でも、彼女の周りからは、嘘の色が見えなかった。
全部が本当の、純粋な言霊。
それが。
それがなぜだか。
「誰かがカッコイイとか、誰かがダサいっていう薄っぺらいその言葉で人の価値を勝手に決めるアンタがいっちばんダサい!」
とてつもなく、嬉しかった。
込み上げる何かが、溢れそうで怖かった。
嘘偽りのない、正真正銘の言葉が、僕の身体に伝播する。
それが熱になって込み上げて、今すぐ彼女の所に駆け寄りたかった。
こんな感情初めてて、こんなにも嬉しいっていう感情が溢れるなんて。
嬉しい事、というのは何回かはあったけれど、なんだろう──言葉で自分を肯定してくれるっていうのが、1番僕にとって救いのような物に近かったのかもしれなかった。
「アンタがそうやって、玲依に嫉妬してあることないこと陰口を言ってんのは、それはあんたが玲依よりよっぽど日陰にいて、玲依よりよっぽど後ろに立っているからでしょ!」
「──てめぇ、黙って聞いてれば好き勝手言いやがって····!」
「ほら、そうやって都合の悪いことは手出して解決しようとするじゃん!」
「んだと」
「図星じゃないなら、言い返してみなよ! 一番弱虫で、相手を認めれないダサい人間はアンタ!」
そこから、しんとして少し静寂が流れる。
その静寂を切り裂くように、金城くんは茉姫奈に言った。
「お前、桜山のことどう思ってんだ?」
「······えっ?」
瞬間、金城くんが茉姫奈との距離を詰めて、片方の手首を手で抑えた。
茉姫奈もそれに動揺したのか、一瞬で頭が冷えて恐怖の色で支配される。強く掴まれた手首は、茉姫奈が抵抗しても全く解けず、そのまま彼は茉姫奈の制服の襟を掴んだ。
後ろの壁に勢いよく茉姫奈はぶつかって、鈍痛に堪えるように喘ぎを漏らした。
「あんなに啖呵切っといて、お前もそれ相応のことされる覚悟あんだろな?」
がっちり掴まれて、茉姫奈は苦しそうに抵抗しているが、金城くんも離れる気配がしなかった。
なぜか、金城くんの方が息が荒くて。
獣のように感じてしまったのは、僕だけだろうか。
「やめてっ····離して!」
脳裏に浮かんで、思い出した出会いの日。
悲鳴に近いその声が聞こえて、僕が彼女を助けた時、ほとんど同じ言葉を発していた。
自分勝手──緊迫した今の状況でも、彼女が教えてくれた意思が僕の原動力になった。
別に、今に至るまで自分勝手で何かをしたことは無いし、あの時だけだと思っていた。
自分勝手と言って、お互いがお互いの事を助け合って、出来た友情に近い何か。
何故か、二度とこの声は聞きたくなかった。
傷つくような姿も想像したくなかった。
自分勝手な考えだけど。
──ほら、また出た。自分勝手。
自分勝手に何かをしたら、圧力で全部抑圧されて、虐げられて、無意味だ無意味だと声を揃えて歌いたがる人間とは違って、彼女は彼女の、そして僕の自分勝手を赦してくれた。
だからこそ、僕はわかる。
自分が変わるきっかけは──確かに茉姫奈だと。
ただの偶然だったのかもしれない。
僕が彼女がいる日に休んで、彼女が僕のいる日にたまたま休んでいただけなのかもしれないけど。
でも彼女は、今僕の事を守る為に抵抗している。
彼女は、自分はどうなってもいいと思っている佇まいをしていた。
なぜなら、後悔の色は見えなかった。
何かあっても大丈夫な覚悟がある気がした。
何故か、いつでも死ねるような覚悟があるような。
何故か僕の考えている負の感情を全て理解してくれて、その死に対する考えを僕以上に持っていたりしたのは····それ程彼女は後悔しないように生きているからだろうか。
「今! ····お前をこの場でレイプして、俺の連れに桜山を呼び出させて、お前がレイプされている所を見せながらボコボコにしてやってもいいんだぜ!? ここなんて誰も来ねえからよ!」
言ってしまった、最悪の言葉。
もはや脅迫だった。
彼の欲の色が一層濃くなった気がした。
やはり、それが彼の本当の目的だった。
分かっていたけど、口に出されて、言葉にされたらその重みと絶望感が、圧倒的に違かった。
一気に血の気が引いて、冷や汗が頬を冷たく伝う。
「嫌だろ? でもどうせこんな格好してるからビッチには変わりねえだろうけど、アイツがボコボコにされる所を想像したくねえだろ?」
「······」
「なんでお前みたいなギャルが、陰キャのアイツと仲良くしてんだよ」
「····全部、私の勝手でしょ」
違う。
違うよ。
ねえ、金城くん。
全部間違ってるよ。
茉姫奈は、そんな軽薄な人間じゃない、見た目だけで中身を判断できるような軽い物差しで測り切れる人じゃない。
僕の姉さんの事で顔を真っ赤に出来る程純粋で、真っ直ぐな感受性を持っている人間。
心がとてつもなく綺麗で、そよ風のような、暖かい優しさを持っていて、それ故に言いたいことをハッキリ言える強さを持っている彼女。
金城くんは襟から茉姫奈の胸ぐらを掴んで、太ももに手を回し始めた。
「····っ」
茉姫奈は顔を青くしながら、力ない睥睨を金城くんに向けた。
それを見て、吐き気がした。
やめろ。
茉姫奈に触れるな、って。
そう、思った。
「そうだ、那由も呼んでやろうか? 2人して俺らにレイプされてる所を桜山に見せてやってもいいんだぜ?」
「····」
「ほら、なんか言えよ! ····そうだ。今ここでアイツの事嫌いって言えよ。そんで俺と付き合うって言ったら今の事全部にチャラにしてやるからさ」
彼も、相当焦っているんだろう。
早く茉姫奈を自分のものにしたくて、その為には手段すら厭わないような、そんな人間。
「······」
「言えよ! めちゃめちゃにされたくないなら! ほらっ!」
凄い剣幕だ。
こちらから見ても痺れる様な雰囲気だった。
彼の圧力と、与える恐怖で形成が逆転された茉姫奈は、震えながら口をパクパクしていた。
声も上手く出せないくらいに彼に支配されているのを見て、もう耐えられなかった。
立ち上がろうとした時に那由さんに止められて、首を横に振られた。
「どうして」
「多分まだ。我慢して──私が押したらそっち行ってあげて」
「でも──」
「信じて」
唇を噛み締める。
今は、那由さんを信じるしか無かった。
ここには金城くんと茉姫奈と、部外者であるけど、僕と那由さんとスズさんしか居ない。
5人だけの殺伐とした世界で、茉姫奈は戦っている。
そこで信用できるのは、後者の3人だけ。
スズさんは動画を回して、携帯の画面の先を永遠に見つめている。
美化されているレンズの奥に見えるものは良く写りが汚く見えたり、偽りに見えたりするけど、確実に今携帯のレンズが映しているのは、人間の汚い本性、嫉妬、本能、強欲。
獣のような眼光で、茉姫奈を睨む欲の塊。
美化しなくても、否応なしに汚く見えるものばかりが映っていた。
「ほら、 さあ言えよ! ほんとに襲っちまうぞ!?」
怒号に近い金城くんの声が耳を劈く。
耳鳴りがしそうなくらい大きな声で叫んだせいか、それを目の前で聞かされた茉姫奈の身体は少し震えながら跳ねた。
そして、茉姫奈はゆっくり口を開いた。
「·········嫌い」
すると、茉姫奈の目からは涙が溢れて、頬を伝って落ちていく。
人間が作り出せる唯一の海、それが溢れて、洪水となり止まらなくなっていた。
夕日に照らされて輝いた透明の雫は、止まることは無かった。
茉姫奈が少しずつ声を上げて嗚咽を始めて、金城くんも行き場の無い感情に顔を歪め始めた。
「····大嫌い」
その言葉を聞いて、すこし心臓が跳ねた。
何故か、愕然とした気分にさせられる。
言わされているのはわかっている。
だけど──。
それでも、胸が痛い。
何故だろう。
なぜ、胸が痛い?
すると、か細い声で泣きじゃくる茉姫奈は、絞り出す様な声で、告げるように言った。
「······うそ、」
どくん、と。
「············ぜんぶ、うそ」
あぁ。
まずいな、と思ってしまった。
時間が、止まった気がした。
聞こえていた木々が揺れる音も、心臓の音も、2人の呼吸も、茉姫奈の声も、金城くんの息の荒さも、全てが聞こえなくなった。
微かに聞こえる放課後の喧騒も、全てが掻き消されて、僕も身体を動かすのも、息すらも一瞬忘れていた気がする。
彼女の瞳と、涙だけが僕の目に映っていて、優しい赤い光に差し込まれた茶色い瞳と、その涙は。
「──だいすき」
今までの人生で見たモノの中で、1番綺麗だった。
3
茉姫奈の涙は、もはや僕が女性不信である事すらも忘れさせた。
自分の目で見た彼女の頬から零れる雫は、異常に遅く地面に落ちて、雫が音を立てて落ちるような、そんな音が聞こえた気がした。
「嘘、つけないよ」
横顔しか見えない茉姫奈の顔は、涙を浮かべたままの笑顔でそう言った。
「それは、1番····つけないよ」
手が震えていた。
どっちに対しての震えかどうか分からないけれど、暫くは手に力が入らない感覚があった。
するっと抜け落ちた様な、急に手に力が入らなくなる感覚。
淡白な表現かもしれない。
でも、そういう有り触れた言葉でしか今の僕を表現する事が出来なかった。
すると、那由さんに強く背中を叩かれる。
行くしかない。
そう決意する。
僕の自分勝手。
茉姫奈を助けたい。
その気持ちがピークに達した時、自然と足と手の震えは止まっていた。
僕は那由さんに言われるまま、全力でそこまで駆けて行く。
途中で金城くんは僕に気づいて、とてつもなく焦った顔をしていた。それに気を取られて茉姫奈を掴んでいた片方の手を外して僕のことを掴みにかかろうとした。
僕はその手を掴んで、手首を少し回して強めに握り締める。
金城くんはかなり悶絶していて、苦悶の声を上げて片膝をついた。
その時にはもう茉姫奈から完全に離れていて、茉姫奈も後退りながら「えっ? えっ?」って涙を流しながら困惑していた。
「彼女に謝って」
そう僕は言うと、彼は思いもしなかったことを言い始めた。
「なんの事だ! 俺はマキナと──」
「そう白を切ると思って、動画撮ってましたー」
スズさんが僕の後ろからすっと出てくる。
そしてスズさんは携帯の音量を最大に引き上げて、目の前で膝立ちになって僕に抑えられている金城くんに動画を大音量にして目の前で見せ始めた。
かなり酷い事をするなと思った。
普通映像や、音声だけでいいと思うのに、両方を見せるなんて──しかも、音量も金城くんの少し後ろにいるのにうるさいと感じるくらい大きく。
無理やり茉姫奈や那由さんとセックスをして、僕に対する暴行すると言った宣言や、無理やり付き合わせようとさせた脅迫の内容、全てを飛ばし飛ばしだが会話の内容を見せていく。
最初から最後まで見られていたことを悟ったのか、僕の太ももを後ろ蹴りした。
太ももにかなり強く当たって、痛かった。
反応出来ずにすこし後ろに後ずさってそちらを見ると、彼の手がもう伸びていた。
青ざめた面持ちで、僕の手を自由だったもう片方の手で掴んで彼は、僕を激しく睥睨する。
「おい····お前、殺されたいのか?」
もはや逆上だった。
「彼女から、もう身を引くんだ。金城くん」
そう言うと、彼はもう片方の手を振り上げようとしていた。
一瞬でその腕に僕は手を伸ばして、振りあげようとした彼の手首を握り返す。
もう1回強く握ると、金城くんは、痛いのか顔を少し歪めた。
「駄目だよ。全部力で解決しようとしたら」
「うるせぇよ。お前が全部──」
「──これで分かったでしょ、金城」
那由さんが、毒のある感情で金城くんを呼んだ。
僕は手を離す。
その瞬間に、金城くんも僕を掴んでいた手を離して、那由さんの方を見る。
「な····何がだよ」
「アンタがずっとストーカーみたいに粘着してたマッキーはアンタに微塵も興味がないの! だからもう二度とマッキーに近づかないで!」
彼女の叫びは、辺りの世界をしんとさせた。
金城くんは、顔中から冷や汗を垂らしながら口をパクパク動かして、愕然とした面持ちだった。
「元々失望してたけど、もっと失望した」
彼の色は、ぐちゃぐちゃだった。
「ま、待ってくれ····」
「女の子を犯すとか言って、腹いせにレイ君も報復するって言うのは、言い逃れは出来ないよね?」
スズさんも追い打ちをかけるようにそう言った。
僕にヘイトは向いていないにしても、何故か僕にも言われているようにしか聞こえてたまらなかった。
「ちがう、違うんだ」
茉姫奈が金城くんの眼前に出る。
その瞬間に、茉姫奈の答えはもう決まっていた。
「私、アンタの事──大っ嫌い」
そこから先の事は、あんまり覚えていない。
愕然として崩れ落ちていた金城くんを放置して、今は茉姫奈と僕で一緒に帰っている。
自業自得だとは思った。
自業自得な人生を送ってきた僕を棚に上げて言うのもお門違いだとは思うけれど、今までやってきたこと、周りからの評価、茉姫奈にしつこく付き纏ってきた結果、全てが裏目に出た感じだった。
これで茉姫奈の安全を確保することが出来たと僕も内心ほっとしているし、スズさんと那由さんも「お膳立ては出来たかな?」なんて変な事を言っていた。
僕はただ金城くんから去っていく皆の後を付いて行っただけだったし、安心感からか上の空になっていて、そこからの記憶が断片的になっていた。
気がついたら、茉姫奈と2人で夕陽に照らされた道を歩いている。
高校に近い河川敷を僕らは歩いていた。
住宅街からすぐそこにある、どこにでもある様な河川敷。何故いつもここを通っていないのに。
なぜ、今日は本来の通学路の街を通らないで人通りが少ない外れに来たのだろう。
「今日は、気分転換にこっちから遠回りしたかったんだ」
「····急に心を読まないで欲しいのだけど」
「ほんとに? 同じ事考えてた?」
「生憎とね」
「うわ、また出たよツンデレイ」
「····初めて聞いたよ」
「ネーミングセンスあると思わない?」
「インスピレーションは、いいとは思う」
「うわ、またツンデレイじゃん」
いつも通りの茉姫奈だ。
屈託のない笑顔を浮かべて、僕の顔をのぞき込む。
日常と変わらないやりとりをしている内に、僕も少しづつだが、安心感が増していく。
あの時の言葉すらも、すっかり穴が空いたみたいに忘れていた。
「普通だよ」
「····うん、確かに」
急に流れが変わった気がした。
「何もかも変わらなくて、いつも通りの日常····玲依といれば、生きてるって事が実感出来るなぁ」
「何の話を──」
「なんてね」
その場で流されて、僕は目を眇めてしまう。
「ごめん、僕は」
「分からないんだよね」
「····うん」
何を聞かなくてもわかるのは、多分。
でも、そういう話にいきなり誘導したのは茉姫奈だし、そう思うのは当たり前なのか、とも思った。
薄暮が空に指して、携帯を見たら6時を指している。
「知ってると思うけどさ」
「うん」
「私、実は玲依のこと好きなんだ」
知ってる。
それほど心臓は跳ねなかった。
言われる覚悟は出来ていたから。
「でも、玲依は多分、好きって言う気持ちとかが分からないんでしょ?」
「····ごめん」
「謝らないで」
「····ありがとう?」
「あははっ! なにそれ!」
茉姫奈は吹き出してお腹を抱えながら笑った。
一つ一つ歩みを進めながらこのような話をするのは、恐らくほかの人には変な感覚で見られるだろうけど、今この時間が違和感なく流れるように、僕と茉姫奈が歩きながらこのような話をしているのは、あまり違和感に感じなかった。
「やっぱり、玲依って面白い」
「その話に誘導したのは、話の脈絡的に茉姫奈だけどね」
「やだなー、確認しただけじゃん」
「僕はさっき初めて知ったけど」
「嘘ついてるように見える?」
少し、茉姫奈を覗く。
嘘は言っていなかった。
そんな色は全く見えない。
いつも目を凝らせば見える陽炎みたいなモヤはいつも見えているし、それを上書きするように僕を想う恋慕の色が見える。
だからこそ、怖い。
なぜ、僕なのか。
揺れる。
心が、揺れる。
僕は、茉姫奈のことをどう思っているのか。
分からない自分が、いちばん分からなかった。
「私だけ、怖い思いと恥ずかしい思いをするなんて割に合わなくない?」
金城くんに胸ぐらを捕まれ、身体を触られ、レイプするぞと脅されて。
他の人なら学校すら行くことすら危ういトラウマものだ。
「もう、怖くないの?」
茉姫奈は一呼吸置いて答えた。
「怖くないよ。だって、絶対玲依が助けてくれるもん」
風と共にぎこちない笑顔が、揺れる。
薄暮に照らされた笑顔が、僕の心を激しく揺さぶった。
「それは、たまたまスズさんが居たからで」
「いや、違うよ。私にとっては、助けてくれたのは玲依だから」
頑固で曲げないのも、それも茉姫奈らしい。
「これが····生きてるっていう事なのかな」
「····うん、きっとそうだよ。その問いになんて正解とか、間違いとかなんてないよ。だから茉姫奈が思ったことが、全部正解なんだと思うよ。それも全部、玲依のおかげ」
「僕も感謝してるよ」
「私のお陰で那由ともスズとも仲良くなれたもんね?」
「····そういう問題じゃない」
「良かったね、かわいい女の子と仲良くなれて」
「だから、そういう──」
言いかけた時、茉姫奈は人差し指で僕の口に静止をかけた。
僕も素直にそれに応じて、口を噤む。
「もう1回言うけど私ばっかり、恥ずかしいからさ····分かるでしょ?」
少し腰をかがめて下から覗き込む茉姫奈の顔は微かに紅潮していて、含羞の色を放っていた。
彼女が言いたいことは、多分····分かった。
やっぱり、茉姫奈は不思議な人だなと思った。
人に嘘をつかないで、他人の汚れた感情で揺さぶられない芯の強さを持っていて、人の汚い部分が一切ない。
色が見える僕が分かるなら、絶対そうだと断言出来る。
茉姫奈に関わる人達みんながそうだ。
汚いと決め付けてろくに見てこなかったスズさんですら、汚い感情は見えなかった。
だからこそ、思う。
色眼鏡で見ていたのは僕の方だったのではないかと。
見ている色なんて、感情の色とかいう現象は全部偽物で、僕の勘違いなのではないかと。
暴力を振るわれた日々も、後ろ指を刺された日々も、瘡蓋になっていずれは消えていく。
いつかを境に、急に見えていた景色が消えると思うと、何故か怖かった。
忌まわしい、自分をこんなにも不幸せにしてきたものなのに。
「分かったよ」
「私、待ってるから。ずっと待ってるから」
「──やめてよ、その言い方」
彼女の言葉が、いきなり怖く感じてしまった。
何故か、消えてしまいそうな気がしたから。
こんなにも、太陽の様な存在の彼女が、待ってるという言葉を使ったら、皆の前からいつの間にか居なくなってしまいそうな、そんな気がした。
「····確かに。ごめんね」
「謝るのも、なんか変」
「なんて言えばいいんだろうね」
僕は少し沈黙して、答えた。
「····少し、難しいかもね」
「だよね〜、玲依が分からないなら私も分からないや!」
「····多分、ありがとうとか、そういう有り触れた感謝で良かったんじゃない?」
ふと、ありがとうという言葉が浮かんだのは、茉姫奈のその言葉に嫌なものが渦巻いたのは。
「待ってるって言ったら、茉姫奈が死んじゃいそうな気がした」
「あーほんとに? そんな風に受け取っちゃった?」
「なんかね。僕がネガティブ思考だからだけど」
「確かに、今思うと死亡フラグかもね」
茉姫奈は無邪気に、笑いながらそう言うと、彼女は僕を追い越して走って僕の前に止まる。
すると、茉姫奈が僕の前に手を差し出して、言う。
「じゃあ、今だけ離れないように手繋いでよ! これで安心でしょ?」
目の前に差し出された細くて長い手、血色も良くて白い。
肌の繊維が夕陽で煌めいていて、生命力を感じられずにはいられなかった。
「····今日だけだよ」
むず痒い気持ちを抑えながら、僕は茉姫奈の手を繋ぐ。とても柔らかくて、でもしなかやかな繊維の様な手は、自然と僕に歩みを進めさせた。
茉姫奈の意図は、頭の足りない僕でも分かった。
心配になって彼女を家まで送り届けて、2人で手を振ってそのまま帰った。
優越感に浸っているわけじゃないけれど、今日のこの日が何故か今までで1番満たされていて、自然と温かいものが胸に流れ込む。
考えれば考えるほどほわほわして、机の壁に貼ってあった目標のことを思い出す。
これは、それに近づいているのでは無いのかな、と思ってしまうくらいに、茉姫奈の一つ一つの言葉、仕草を思い出して、満たされすぎて胸が苦しくなる。
でも。
なぜか。
家にたどり着こうとすればするほど。
重くなる足取り。
なにか後ろめたいことなんてあったか?
なにもない。
だけど、なぜか家に着くまでの足がとてつもなく重くなった気がした。
重いけど、気がついたら走っていた。
マンションが見えて、自動ドアに入り急いでエレベーターに乗る。
何十階も上がるのに1分近くかかるから、焦燥感がすごかった。
エレベーターに乗っている時に、走った時に汗が溢れるように出てきた。
制服だから暑い。
夏服に着替えていなかったから、ブレザーも酷く重く感じた。
顔から吹き出る汗を無造作に腕の部分でふき取って、エレベーターから出て部屋の鍵を開ける。
部屋は、重く開いた鍵とドアの音が響くだけで、酷く静かだった。
「ただいま」
絞り出すような声で、家にいるであろう姉さんに向けて言った。
言ったけど、返ってくることは無かった。
いつもは返ってくるのに。
「姉さん?」
足が重い。
そのまま恐る恐るリビングのドアを開けた。
何となく分かっていた。
これが虫の知らせなんだなって言うことを。
姉さんは──横になって倒れていた。
「········え?」
ちゃんと息はしているし、肌も冷たくなっていない、だけど顔が真っ青で意識を失っていた。
ラフに黒のスウェットと黒のタンクトップを着ていた姉は、いつもは届く僕の呼びかけすらも届かなかった。
意識が混濁していて、身体も時々痙攣している。
昏睡状態、というのか。
まって。
待てよ。
何があったんだよ。
昨日までそんな素振り見せなかったじゃん。
僕も何が何だがわからなくて、息と体が震えた。
状況を理解した数秒後に、携帯を取りだした。
携帯を取り出して、叫んだ様に救急車を呼んだ後は、記憶が曖昧で、覚えていない。
ただハッキリと覚えているのは、無力感と空虚。
なぜ気づけなかったのだろう。
ただ救急隊に担架で運ばれていく姉さんを見る事しか出来なかった。
心に蝕んだ幾つもの負が飽和して、裂けそうだった。
思い当たる節はいくつかはあった。
逐一咳をしていた。
それも乾いた咳だ。
最初は風邪なのかなと思っていたけれど、今思えば違った。
そして、母を精神病患者の施設に入れたタイミングも不可解だった。
あのタイミングで入れるのは、僕も少し不審に感じていた。入れるとしたら僕が高校を卒業して進学するタイミングで、わざわざ高校生の時に施設に入れるのはおかしいと思っていた。
あの時言っていた「邪魔されたくない」という言葉は、多分──姉さんは何かを悟っていた。
今まで通りだと思っていた生活は壊れるのは一瞬で、多分姉さんの身体は元には戻らない。
そう考えれば考えるほど。
押し潰されそうになるくらい多くの感情が錯綜して、吐きそうになる。
数日後、僕は姉さんが運ばれた国立病院に呼ばれた。
僕一人だけだった。
姉さんも、父も母も誰もいなかった。
茉姫奈も、那由さんも誰もいなかった。
そして、僕は茉姫奈にも姉さんが倒れた事は言えなかった。
彼女の境遇を誰にも話せないように、今ある状況も話す事が出来なかった。
1人で抱え込もうとしているわけじゃない。
茉姫奈を絶望させたくなかった。
何かの使命感にも近かったのかもしれない。
白い、殺風景の清潔な建物に看護師に案内されて医者のところに赴く。
言われることは多分、わかっていた。
医者から言われることは、一語一句違わなかった。
だけど、覚悟していた言葉が重くて。
とても重くて。
しばらく身体に力が入らなかった。
病院の中みたいに、頭の中が真っ白になって、目の焦点が合わなかった。
張り裂けそうになる様なとてつもない後悔と、自責の念に襲われて、涙が出そうになった。
初めて時間が戻って欲しいと思う。
壊れるまで守ってくれたのに。
こんなにも僕を大切にしてくれたのに。
それに気付けないで、のうのうと人生を浪費した。
それこそが罪なのではないか。
だから、夢で何回も殺されるんだよ。
殺されなくなった夢も、誰かが僕に語り掛けるようになにか訴えかけている。
今となっては、後悔しか残らない。
でも、もう無理だ。
医者から下された診断は。
姉さんは、
末期の急性エイズだった