龍神の100番目の後宮妃

 中庭はものものしい空気に満ちていた。
 皇帝の宮へ続く赤い扉を背に、厳しい表情の劉弦が椅子に座り、彼と少し距離を空けて、すべての妃が対峙する形で座っている。皆一様に不安そうだ。
 翠鈴は蘭蘭に支えられて、劉弦と妃たちのちょうど間の位置から中庭へ歩み寄った。まだ誰にも気づかれていないという状況の中、劉弦が詮議するのを伺う。
 劉弦が皆に向かって口を開いた。

「昨夜の夜半過ぎ、翠鈴妃の寝所へ毒蜘蛛が放たれるという出来事があった。翠鈴妃は刺され療養中である。今から蜘蛛を放った者を探し出す」

 妃たちがなぜ集められたのかを知り、その場がざわざわとなった。
 華夢が手を上げる。劉弦が彼女を見て首を傾けると、立ち上がり口を開いた。

「翠鈴妃さまにお見舞い申し上げます。なれど陛下、蜘蛛はこの辺りにはたくさんおりますわ。部屋へ入り込み刺すこともございましょう。何者かが放った決めつけるのは早計では? 翠鈴妃さまはご懐妊中で、少し気が立っていらっしゃるのではないでしょうか」

 ただの事故を翠鈴が大げさに騒いでいるのだと主張する。それを劉弦が一蹴した。

「翠鈴妃が刺された場に私もいた」

 劉弦が答えると、その場がまたざわざわとなった。
 皇帝が夜に後宮の妃のもとに来ることがあり得ることとは知っていても、はじめてのことだったからだ。

「蜘蛛は即座に始末したが、あの場には、少なくない数がいた。どう考えも不自然だ」

「……仮にそうだとしましても、後宮内で起こったことは、後宮内で収めるのが慣例にございます。陛下自ら詮議など大げさな……」

「あの場に私もいたと申しただろう。寵姫の寝所に皇帝がいるかもしれぬといいくらい、後宮の者ならば予測できたはず。翠鈴妃の寝所に毒蜘蛛を放つのは、私に対する反逆だ」

 劉弦が言い切ると、その場が張り詰めた空気になる。翠鈴の部屋への嫌がらせは日常茶飯事だ。それが反逆だと言われて身に覚えのある者たちは、真っ青になっている。

「後宮の秩序に誰よりも心を砕くそなたも、黙ってはいられぬはずだ」

 そう言って、劉弦が華夢を睨むと彼女は眉を寄せて口を閉じた。
 劉弦が皆に視線を戻した。

「昨夜から今までの間に、秘密裏に後宮の人の出入りを確認した。そなたたちも知っているように後宮の警備は厳重だ。昨夜、日が暮れてからこの建物に出入りした者はいない。すなわち、蜘蛛を放った者はこの中にいるということだ」

 劉弦の言葉に、一同息を呑む。それを一暼してから劉弦が合図をすると控えていた従者がひとりの女官を連れて現れた。女官は顔面蒼白で歩くのもままならないほどおぼつかない足取りだ。劉弦と妃の間にまできて、玉座に向かって平伏した。遠目にもわかるほど、肩が震えている。
 劉弦が、やや声を和らげた。

「そなたは、ここでは妃たちに従ねばならぬ立場にいる。正直に申せば、罪には問わない。あったことを申せ」

 女官が蒼白の顔を上げて、恐る恐る口を開いた。

「昨日の夕暮れ、原っぱへ行き蜘蛛を二十ほど用意いたしました」

「それは、この種の蜘蛛か?」

 劉弦が合図をすると、従者が彼女の前に蜘蛛の死骸を指し示す。女官が頷いた。

「……はい」

「なるほど。そしてそなたはその蜘蛛をどうした?」

「や、夜半過ぎ、す、翠鈴妃さまの寝所の扉の下から放ちました……!」

 気の毒なほど、震える声で女官が答える。
 劉弦が頷き、間髪入れずに問いかけた。

「それはそなたの独断か?」

「い、いえ……! ち、違います……。わ、私はそのようなこと、自らは……」

 彼女はわなわなと首を振った。

「ではそなたにそうするよう指示した者がいるのだな?」

「は、はい……私は指示されて……」

「では、その者の名を申せ」

 劉弦が命令すると、女官は沈黙した。女官の息づかいが聞こえてきそうなほど、その場が静まりかえる。
 女官が意を決したように口を開いた。

「わ、私が、指示を受けたのは……。芸汎妃さまにございます……!」

 その場が、騒然となった。
 もっとも翠鈴への嫌がらせについて、彼女が先頭に立ってしていたことは皆知っている。だから驚いたというよりは、女官が妃を裏切ったことに対して動揺しているのだろう。

「あい、わかった」

 劉弦が頷いて、そばに控えている梓萌に視線を送る。

「この女官は保護するため、後宮の役目から解く。別の働き先を世話するよう」

 女官が涙を流しながら下がっていった。
「芸汎妃をこれへ」

 劉弦が指示すると、妃の席に座っていた芸汎を従者が取り囲む。両脇を抱えられるようにして立たせた。

「華夢妃さま……」

 彼女は、か細い声で華夢に向かって助けを求めるが、華夢は彼女を見なかった。
 劉弦の前に引き摺り出された芸汎はもはや口もきけないほど顔色を失っている。翠鈴の胸が締め付けられた。
 劉弦が問いただす。

「芸汎妃、翠鈴妃の寝所に蜘蛛を放つよう女官に指示したのはそなたか?」

「わ、私は……」

 芸汎が翠鈴への嫌がらせを繰り返していたのは後宮内の誰もが知るところ。女官の証言もある以上言い逃れはできない。

「私は……」

 芸汎が振り返り、華夢を見た。芸汎が華夢の腰巾着で常に華夢の意思によって行動している、それもまた皆、知っていることだった。
 劉弦が彼女の視線を追って、問いかけた。

「そなたもまた、誰かに指示されたのではないか? 正直に申してみよ」

「私は……」

 芸汎は口を開こうとするが、怯えすぎて上手く言葉が出てこないようだ。

「わ、私は……」

「残念だわ、芸汎」

 華夢が立ち上がった。

「あなたが、ご実家から陛下の寵愛を受けられないことを責められているのは知っておりました。それについて胸を痛めておりましたが、だからといって、こんな卑怯な真似をするなんて。許されることではありません」

 そう言って汚らわしいというように芸汎を見た。
 芸汎が目を見開いた。

「華夢妃さま……」

 唇が震えている。その目が絶望の色に染まるのを見て、翠鈴は胸が締め付けられた。今この瞬間に彼女は信じていた相手から切り捨てられたのだ。

「私は、華夢妃さまがお、おっしゃった通りに……」

 完全に裏切られたことを悟った芸汎の口からようやく言葉が出はじめる。それを華夢は遮った。

「私が? 私が指示したというの? 蜘蛛を翠鈴妃さまの寝所へ放つようにと、私が言ったっていうの?」

 芸汎が言葉に詰まった。そうだとは言えないのだ。それは昨日華夢の部屋での会話を聞いていた翠鈴にはわかった。華夢はただ彼女に、生ぬるいことをするなと言っただけだ。

「そ、それは……」

「言いがかりはやめてちょうだい。往生際が悪くてよ。自分でやったことの罪は自分で償いなさい」

「そんな、華夢妃さま……!」

 耳を塞ぎたくなるようなふたりのやり取りに、翠鈴は腹の底から怒りの感情が湧き起こるのを感じていた。あんなに頼りにされていた相手をこんなに簡単に切り捨てるなんて、これが教養のある者することだろうか。
 なにが一の妃だ、なにが皇后候補だと思う。

「これ、あなたたち、早く芸汎妃を連れて行きなさい。しかるべき罰を受けさせるように」

 勝手に事態の幕引きをはかろうと、従者に指示をする華夢を、劉弦が止める。

「待て。まだ結論は出ておらん」

 その言葉を聞いたと同時に翠鈴は床を蹴る。従者に脇を抱えられている芸汎と劉弦の間に駆け出した。

「お待ちください!」

 芸汎を背にして、劉弦に向かって腕を広げた。

「芸汎妃さまに、蜘蛛を部屋へ持ってくるようにお願いしたのは私です!」

 熱がある状態で、勢いよく駆け出したことに身体が耐えられず、ぐらりと体勢を崩してしまう。

「翠鈴‼︎」

 劉弦が立ち上がり翠鈴を抱き止めた。

「寝ているように言っただろう!」

 珍しく声を荒げる劉弦に、翠鈴は訴えた。
「芸汎妃さまが罪に問われるのをそのままにしておくわけにはいきません!」

 劉弦の服を握り翠鈴はかぶりを振った。

「昨夜は叱られるのを恐れて本当のことをお伝えできなかったこと、お許しください。芸汎妃さまに蜘蛛を部屋へ持って来るようお願いしたのは私です」

 駆け出しながら頭に浮かんだことを一生懸命口にした。
 芸汎に行動するのを命じたのは間違いなく華夢だが、それを訴えたところで彼女は絶対に認めないだろう。実際、具体的なやり方を口にしていなかったのも事実だ。このままでは芸汎が断罪されてしまう。
 皇帝への反逆罪は、流刑あるいは死罪だ。

「あの種の蜘蛛は干して飲めば、身体の浮腫を取る良薬になります。毎日散歩をする貴人の方々の中には足が疲れる方もいるようですから、差し上げようと思ったのです。瓶に入れて蓋をしたつもりでしたが、重石を置くのを忘れていました。それが逃げ出してしまったのです! 陛下、芸汎妃さまに罪はありません。どうか、どうか……!」

 そもそもが作り話なのだ。熱のある頭では順序立ててうまく説明できなかった。嘘をつくのはよくないとわかっている。それでもこうせずにいられなかった。
 できそうにないことを期待されて、押しつぶされそうになり、もがいていた彼女の気持ちは痛いほどよくわかる。どうすればいいかわからないままに、間違った道に足を踏み入れてしまったとして、それを責める気にはなれなかった。
 崩れ落ちそうになる翠鈴を危なげなく支えて、劉弦は逡巡している。翠鈴の言うことが本当でないとわかっているのだろう。翠鈴は、思いを込めて、漆黒の瞳を見つめた。

「劉弦さま」

 劉弦が息を吐いて目を閉じた。そして、腰が抜けたように床にへたり込み、啞然としている芸汎に向かって問いかけた。

「芸汎妃、今の話は真実(まこと)か?」

 芸汎が翠鈴を見る。なにかの罠かと疑ってもいるのかもしれない。安心させるように頷きかけると、その目に涙が浮かぶ。そしてその場に平伏し頭を床に擦りつけた。

「す、翠鈴妃さまのおっしゃる通りにございます……!」

 翠鈴が劉弦を見上げると、劉弦が仕方がないというように息を吐いた。

「……ならば、誰も罪に問うことはできぬな」

 その言葉に、その場の空気が緩んだ。
 劉弦が一同を見回し、最後に華夢に視線を送り口を開いた。

「だが、翠鈴妃の身体には私の子がいることを忘れぬよう。彼女への無体な振る舞いは私への反逆とみなす」

 華夢はその劉弦から目を逸らすことなく見ていた。
 貴妃たちが顔を見合わせている。今回の件をどう捉えるべきかはかりかねているようだ。
 なにはともあれ、悲しい結末にならずに済んだと安堵して、翠鈴の身体から力が抜ける。あまりの出来事に少し熱が上がってしまったようだ。熱い息を吐く翠鈴を劉弦が抱きあげた。

「今回のことは私の思い違いにより騒ぎを大きくしてすまなかった。皆、解散するように」

 そう言い残して、中庭を横切り翠鈴の部屋へ行く。妃たちが心配そうに見ていた。
「あれで、よかったのか?」

 窓の外はとっぷりと日が落ちて夜空に月が輝いている。寝台に寝ている翠鈴の頭を、劉弦が撫でて問いかけた。
 詮議のあと、劉弦に抱かれて部屋へ戻った翠鈴はまた眠りに落ちた。どうやら劉弦も一度は執務に戻ったようだが、日が落ちてから翠鈴が再び目覚めた時はそばにいた。

「蜘蛛に刺されたのは翠鈴だ。翠鈴の思う通りにしてやりたいと思ったのだが」

 やはり彼は翠鈴が芸汎を庇ったことを見抜いていたのだ。それでも翠鈴の気持ちを思い、今回の件は不問に伏した。
 また熱がぶり返している熱い頭で、少しぼんやりとしながら翠鈴は口を開いた。

「ここのお妃さま方は、皆悲しい存在のように思います。働かずとも食べるにことかくことはないけれど、劉弦さまの寵愛を受けることのみを目的として生きる定めなのですから。互いに嫉妬して、足を引っ張り合うのも無理はありません」

 こんなこと、彼に言うべきではないという考えが頭の片隅に浮かぶ。でも熱を持った思考で、口が止まらなかった。

「私も劉弦さまの子を身籠らなければ、どのような心持ちになっていたかわかりません」

 彼女たちと自分は背中合わせだと翠鈴は思う。この美しくて頑丈な鳥籠に閉じ込められて、寵愛を受けない鳥は意味のない存在だと言われ続けたら、芸汎のように道を踏み外してもおかしくはない。
 自分がそうならないという自信はなかった。

「翠鈴は、彼女たちをどうするべきだと考える?」

 劉弦からの問いかけに、翠鈴はしばらく考える。頭に浮かんだ考えは少し罰当たりなことだった。彼に向かって口にするべきではない。
 でも今日のようなことを繰り返さないために、悲劇を生まないように思い切って口を開いた。

「彼女たちが望むなら、故郷へ帰らせてほしいと思います。自由に生きるのが、人の幸せだと思います」

 劉弦は、静かな眼差しで翠鈴を見ていた。

「寵を争うだけの一生は、幸せとは思えません。ましてやここでその望みが叶うのはほんのひと握りの者だけ。……芸汎妃さまは、ご実家から寵愛を受けられないことをひどく責められていたそうです。それで思い余ってあんなことを……。私も芸汎妃さまのお気持ちが、少しわかるような気がします」

「翠鈴が?」

 劉弦が撫でていた手を止めた。翠鈴は唇を噛み。声を絞りだした。

「私、皇后さまになる自信がありません」

 目を閉じて、翠鈴はここのところずっと考えていたことを口にした。

「劉弦さまだけでなく、貴人の皆さまも私に皇后さまになってほしいとおっしゃいます。私はお世継ぎを身籠りはしましたが、ただの村娘です。教養も後ろ盾もありません。恐れ多くて……。できそうにもないことを期待されて苦しまれた芸汎妃さまのお気持ちが……」

「翠鈴」

 名を呼ばれて目を開くと、劉弦が柔らかな笑みを浮かべていた。

「皇后に必要なのは、教養でも後ろ盾でもない」

「劉弦さま……?」

「少なくとも私は、私の皇后にそのようなものを求めない。皇后に必要なのは他者を思う温かい心。翠鈴、そなたそのものだ」

 劉弦の大きな手が、翠鈴の頬を優しく撫でた。

「皆がそなたを皇后にと願うのは、そなたにはその心があるためだ。世継ぎを宿したからではない。なにも気負わずそのままのそなたでいればいい」

「そのままの私で……?」

 そのままでいいという言葉に、翠鈴は目を見開いた。意外すぎる言葉だった。

「ああ、翠鈴には皆を思う心がある。だからこそ皆そなたを好きになるのだ」

 そう言って彼は部屋の隅に山積みになっている見舞いの品に視線を送った。すべて、熱を出した翠鈴を心配した妃たちからのものだ。貴人たちだけではなく貴妃たちからのものもある。しかも一番先に届けにきたのは、芸汎だという。

「夕刻、私がこの部屋へ来た時は、まだ部屋の前に列ができていた。皆翠鈴が心配で具合はどうだと女官に尋ねるから、女官が往生していた。私から大丈夫だ説明してようやく安堵して皆自分の部屋へ戻った」

 その時のことを思い出したのか、劉弦がくっくっと肩を揺らして笑った。

「あ、ありがたいです……」

 驚きつつ翠鈴は答えた。
 その頃、翠鈴は熱が上がっていて夢の中。よもや部屋の前でそのようなことが繰り広げられていたとは知らなかった。

「国を治めるには常に民を思うことが必要だ。私は翠鈴に出会い、その気持ちを取り戻した。私が末長くこの国を治めるために、翠鈴にそばにいてほしい。私の皇后は翠鈴しかいない」

 真っ直ぐな言葉に、翠鈴は、胸の中の重たいものが少し軽くなるのを感じていた。恐れ多いことであるのは変わらないけれど、彼とならばやれるかもしれないという思いが生まれる。

「皇后になることが、そなたに重荷だということはわかっている。その代わりにはならぬが、私は生涯そなたを唯一の妃とすることを約束する」

「私、ひとりを……?」

 これも意外すぎる言葉だった。
 彼が翠鈴を大切に思ってくれているとは知っていた。でもそれはたくさんいる妃の中のひとりとして。他の妃はいらないとまで彼が言うとは思わなかった。

「ああ、私の妃は翠鈴ひとりとし、他の妃は故郷へ帰そう」

「故郷へ……? いいのですか?」

 彼の口から出た驚くべき言葉に翠鈴は目を見開いた。さっき自分で口にしたことだがまさか実現するとは思わなかった。

「もちろん今すぐというわけにはいかない。私に皇后がおらず世継ぎもいない状況では民が不安になるだろう。翠鈴が世継ぎを生み立后したその後に」

「私が皇后さまになれば……」

 翠鈴は呟いた。まだ自信はない。けれどそうすれば、この悲しい争いに終止符を打つことができるのだ。
 目の前が明るくなるような心地がした。
 水凱国すべての民を思う。そこまでの気持ちが自分にあるかはわからないが、少なくとも目の前の彼女たちのことは大切だ。

「劉弦さまは、私にできるとおっしゃるのですね」

 信じてみようかと翠鈴は思う。愛おしいこの人の言うことを。
 劉弦が、身を眺めて翠鈴の熱い額に、自らの額をくっつけた。

「この国を末長く平穏に治めるのが私の定め。もはやそれに迷いはないが、それには翠鈴が必要だ。私の皇后になってくれ」

 至近距離で自分を見つめる漆黒の瞳に、翠鈴の胸は熱くなる。彼とならば、その道を歩んでいけると確信する。
 まだ少し怖いけれど。

「はい、劉弦さま。私を劉弦さまの皇后にしてください。生涯をともにいたします」

 言葉に力を込めて翠鈴は言う。
 もう、迷わない。

「ありがとう」

 そして熱い口づけを交わす。
 心地いい幸せな想いで、翠鈴は目を閉じた。
 唇を離して髪を撫で、劉弦が囁いた。

「私は翠鈴にそばにいてほしいと願う。そなたに出会ってから、私はこの想いの正体を探していた。神である私と人であるそなたを繋ぐ想いは、一筋縄ではいかないはず……。だがそうではなく単純なものだった。私はそなたが愛おしい。愛おしく思う唯一の存在なのだ」

 神である劉弦が紡ぐ、人と同じ愛の言葉。

 ——だがそれは、すでに眠りに落ちていた、翠鈴の耳には届かなかった……。
 布を敷いた寝台の長椅子に横たわる妃身体に転々と光る赤い光、そこ中心に翠鈴は揉みほぐしていく。

「胃の腑が疲れているようです。食事には気をつけてください。青菜を中心に食べると調子がよくなります」

 最後にそう助言をして翠鈴は施術を終える。隣で蘭蘭が茶を差し出した。

「薬湯です。お飲みください」

「ありがとうございます。食べすぎなのは自分でもわかるんですけど。後宮(ここ)はご飯が美味しいからついつい食べ過ぎてしまいます。調理場に言って減らしてもらおうかしら?」

「食べる量を制限するのはあまりよくありません。どちらかというと身体を動かすことを意識してくださいませ。ぜひ朝夕の散歩に参加を」

 翠鈴が言うと薬湯を飲み終えた妃は、素直に頷いた。彼女は貴妃で今までは散歩に参加していない。

「わかりました。ふふふ、でも散歩じゃなくて、本当は私走る方が好きなんですよ。はしたないと言われてここへ来てからはしてませんが、実家では弟よりも早くて、父からは男だったらよかったのにって言われていたくらいなんです」

「あら、意外です」

 翠鈴が言うと、妃はにっこりと笑った。

「ふふふ、誰にでも特技はあるものですわ。翠鈴妃さまこそ、このような得意なことがおありになるなんて思ってもみませんでした」

「私のは、生きるための術です」

 話しながらふたりは、部屋の外へ出る。

「それにしても翠鈴妃さまに施術をしていただくとそれまでの不調が嘘みたいに身体が軽くなるんですね。本当は、翠鈴妃さまこそが、翡翠の手の使い手なんじゃないかって他の皆さまとお話ししていたくらいなんですよ」

 ズバリのことを指摘されて、どきりとしながら翠鈴は答えた。もちろん彼女は冗談として言っているのだが。

「ま、まさか……。あり得ないことです。恐れ多いですわ」

 ごまかすためにそう言うと、妃は少しムキになった。

「でも、翡翠の手の使い手は陛下の宿命の妃と言うじゃありませんか。実際、陛下のご寵愛を受けられているのは翠鈴妃さまですし……」

 とそこで、なにかに気がついたようで気まずそうに口を噤む。翠鈴の部屋の向かい側、一の妃の部屋から華夢が出てきたからだ。一番聞かれてはならない相手だ。
 以前ならこんなことあったら華夢は黙っていなかったはずだ。でも今はこちらを軽く睨んだだけで、女官を連れてどこかへ去っていった。

「ではまた……」

 妃がホッと息を吐いて、自分の部屋へ戻っていった。
 翠鈴はそのまま、遠ざかる華夢の背中を見つめた。

 芸汎の一件からひと月が経った。
 あの夜は熱を出した翠鈴だが、その後は問題なく回復し、体調も万全になった。食欲も戻りここのところなにを食べても美味しく感じる。どうやら赤子もすくすく成長しているようで、お腹も少し膨らみ出した。
 身体を動かすことは、懐妊中もよいことという蘭蘭と宮廷付き医師の助言を受けて、散歩も再開して他の妃たちとの交流を楽しんでいる。
 散歩には、貴人たちだけでなく貴妃たちも参加するようになった。翠鈴が芸汎を庇った一件がきっかけになったのは間違いない。
 芸汎が翠鈴にしていた嫌がらせは華夢の意思だというのは、後宮中の者が知っていた。それまで散々彼女を思うままに操っていたというのに、簡単に切り捨てたところを皆見ていたのだ。あの日から貴妃たちは、華夢を立てるのをやめて、翠鈴と貴人たちと交流するようになったのだ。
 そしてある日の散歩終わり、腰の辺りが赤く光っているひとりの妃に気がついて翠鈴は施術をした。それをきっかけに、毎日時間のある時に、身体に不調を抱える後宮内の妃たちを部屋で診るようになったのである。
 これは翠鈴としてもありがたいことだった。指圧の腕が鈍らぬよう蘭蘭や芽衣の身体を借りて施術は続けてはいたものの、若くて健康なふたりは、あまり練習台にはならなかったからだ。
 翠鈴の診療所は、今や妃たちに大人気である。毎日行列を作るので、蘭蘭が張り切って一日に五人までと決めて表を作って管理している。予約はひと月先までいっぱいだ。
 部屋へ戻ると、蘭蘭が施術する時に使っている敷布を畳んでいた。

「本日のお方は、先程のお妃さまでお終いにございます」

「あら? まだあと三人診るんじゃなかった?」

 翠鈴が言うと、蘭蘭は首を横に振った。

「本日はこれから、翠鈴妃さまが宮廷医師の診察を受けることになっております」

 そういえばそうだったと思い出して、翠鈴は自分の寝台に座る。そしてさきほどの華夢を思い出した。

「蘭蘭、華夢妃は毎日どこへ行かれているのかしら?」

 ここのところ彼女は毎日どこかへ出かけている。それが翠鈴は気になった。
 蘭蘭が手を止めた。

「女官長さまの話ではご実家に行かれているそうですよ」

「ご実家に? そうなの……」

 後宮の妃たちはそう頻繁に実家に帰ることは許されない。そもそも実家が遠い場所にある妃がほとんどだ。
 でも宰相の娘である彼女の実家は宮廷のすぐそばにある。また、翡翠の手の持ち主としてある程度の自由が許されているようだ。

「ご実家にあんなに頻繁に戻られるということは、やっぱり後宮(ここ)に居場所がないのかしら?」

「そうですね……。でも仕方がないですよ。あんなことがあった以上、皆さまお近づきになりにくいですから」

 中庭での出来事を見ていた蘭蘭が言う。翠鈴としてもそれはまったく同意見だった。芸汎に対して彼女がしたことは、簡単に許されることではない。一時期は、後宮の中心にいた彼女が、今は完全に孤立している。なにか嫌なことが起こりそうな予感がして、それが翠鈴は心配だった。
「お腹の子は順調にございます。たくさん食べて、適度に身体を動かしてください」

 お腹の子の診察は、翠鈴の部屋へ医師が訪問する形で行われる。翠鈴の身体をひと通り確認した女性宮廷医師の言葉に、翠鈴はホッと息を吐いた。

「よかった……」

「もうすぐしたら、お腹の中で子が動くのがわかるようになりますよ」

「え? もうですか?」

 医師の言葉に、腹部を出していた衣服を整えていた翠鈴は、驚いて手を止める。村でも赤子が生まれることはよくあった。お腹が大きくなった後は、外からでも赤子が動くのがわかったけれど、こんなに早くわかるとは思わなかったからだ。
 医師がにっこりと微笑んだ。

「ええ、まだ外からはわかりませんが、母親は感じます。ポコポコと中から叩くような感じがしたらそれがそうです」

「ポコポコと……」

 お腹に手をあてて翠鈴は呟いた。想像するだけで胸が温かいもので満たされる。その時が楽しみでたまらなかった。
 懐妊が発覚してからの翠鈴は、お世辞にも安静していたとはいえない。そんな状況で元気に育っているか不安は尽きないけれど、少なくとも動いてくれれば安心できるだろう。
 こんな風に思えることが嬉しかった。
 子がお腹にいると知った時は、それによって変わってしまった自分自身の運命に悲観して、出産を怖いとすら思ったのに。今は健やかに生まれてくることを楽しみにしている。
 ほかでもない子の父親である劉弦と生涯を共にする覚悟ができたからだ。今は世継ぎを生むという重圧よりも、彼と自分の子が生まれるのだという喜びに満たされている。

「ではまた三日後の同じ時間に参りますので……」

 そう言って医師は、片付けを始める。が、部屋の外が騒がしいことに気がついて手を止めた。

「どうしたのでしょう?」

「なにかあったのかな?」

 翠鈴も首を傾げ、そう呟いた時。

「翠鈴!」

 少し息を切らして、劉弦が入ってきた。
 純金の糸で刺繍が施された黒い衣装の執務中の格好だった。

「りゅ……陛下⁉︎」

 翠鈴は、目を丸くして声をあげた。
 毒蜘蛛の一件以来、ふたりは夜を翠鈴の部屋で過ごしている。翠鈴が皇帝の寝所へ行くために肌寒い夜に長い廊下を歩くのを、彼が嫌がったからだ。夜、執務が終わったら、彼の方が翠鈴の寝所へやってくるのは、もはや誰もが知るところで後宮に彼の姿があることには皆慣れた。けれど、昼間にやってくるのは珍しい。
 先ぶれがなかったため、蘭蘭があたふたと玉座代わりの椅子を持ってくる。それを断り、彼は寝台に座る翠鈴の隣に腰を下ろした。

「陛下、執務中では……?」

 尋ねると、大きな手で翠鈴の髪を撫でた。

「午前中の分は急ぎ終わらせた。今日は翠鈴の診察の日だと聞いていたから。気になったのだ」

 診察に立ち会うために来たのだと言う劉弦に、翠鈴の頬が熱くなった。
 一方で女性医師は眉を寄せる。診察中に、先ぶれもなく部屋へ入ってきたことに苦言を呈する。

「陛下……。お産の診察中にございますよ。お産は女人の仕事と古来から決まっております。陛下といえども診察に立ち会うなど……」

 彼女は宮廷でも堅物として知られている。相手が皇帝とはいえ、お産のことに関しては黙っていられないのだろう。母親の体が第一ということだ。
 彼女の言う通り、水凱国の伝統ではお産に男性は手を出すべきではないとされている。出産には、本人の母親や産婆たちの領域で子の父親は蚊帳の外というのが当たり前だ。
 だが劉弦は意に介さない。

「子と翠鈴が健やかであるかどうかは、今の私にとって最大の関心ごとだ。古来からの決まりごとなどどうでもいい」

 決まりごとなどどうでもいいと、言い切る劉弦に、医師が面食らったように瞬きをする。国の決まりごとを重んじて政を行う皇帝の姿とはやや外れる発言だ。

「な、なれど、翠鈴妃さまとお世継ぎに関するご報告は、毎回この後、玉座の間にてきちんと……」

「それよりも早く知る必要があったのだ」

 そう言って彼は、優雅に微笑んだ。その笑みに、もうなにを言っても無駄だと思ったのか、医師がため息をついて頭を下げる。

「翠鈴妃さまのお身体は健やかにございます。お世継ぎもまったく問題なく健やかにお育ちにございます」

 それに劉弦が安堵したように頷いた。
 翠鈴も追加で嬉しい報告をする。

「もうすぐしたら、お腹の中で赤子が動くのがわかるようになるそうです。そしたら、私にも子が元気だとわかるので嬉しいです」

「子が動くのがわかるのか?」

 劉弦がさっそく翠鈴を抱き寄せてお腹に手をあてて、首を傾げた。

「今は動いていないようだが」

「陛下、まだ外からはわかりませんよ。母親にだけわかるだけです。外からわかるようになるのはもう少し先です」

 医師が、また少し驚いたように言う。こんな風に早合点するのも、普段の劉弦の姿とはかけ離れている。

「そうか」

 少し残念そうにするその姿に、翠鈴はくすりと笑ってしまう。国を治める皇帝であり、龍神さまと崇められている彼のこのような姿を誰が想像できるだろう。

「動いた時は、一番に劉弦さまにお知らせします」

 劉弦を落胆させないようにそう言うと、彼はにっこりと微笑んで、翠鈴を見た。

「必ずだぞ」

「で、では、私はこれで」

 医師が、気まずそうに咳払いをして片付けをし、そそくさと帰っていく。
 蘭蘭もにんまりと笑って、後に続いた。
 ふたりきりになった部屋で、翠鈴は口を開いた。

「お世継ぎが健やかかどうかは、(まつりごと)にも影響しますからね」

 医師と蘭蘭は別の意味に捉えたようだが、世継ぎの誕生は民の最大の関心ごと。彼が執務を抜けてまで、確認しにきたとしても不思議でないと思う。
 だがそれに劉弦は、首を横に振った。
「政は関係ない。私と翠鈴の間にできる子だから心配なのだ。誕生を心待ちにしている」
 甘い声音と真っ直ぐな言葉に、翠鈴の胸は高鳴って、幸せな思いでいっぱいになる。たとえこれが愛情でなくても、彼が自分を大切にしてくれるだけでいいと思えるようになったからだ。
 でも翠鈴がこう思えるようになったのは、もうひとつ理由があって……。

 ——あの夢のおかげ。

 翠鈴は心の中で呟いた。毒蜘蛛に刺されて熱に浮かされていたあの夜に見た幸せな夢である。
 劉弦が頭を撫でて『私はそなたが愛おしい』と言ってくれたのだ。
 もちろんそれは夢の中の出来事で、(うつつ)で言われたわけではない。でもまるで本当に言われたかのように、甘く耳に残っていて、思い出すたびに幸せな気持ちになる。

「さて、報告を聞いたら安堵した。私はまた執務に戻る」

 そう言う劉弦を、名残惜しい思いで翠鈴は見つめた。

「あまり無理をなさりませんよう」

 そう言って、彼の耳のあたりの赤い光に手をかざす、光が消えると劉弦が心地良さそうに翠鈴の手に頬ずりをした。

「午後からは、皇后の選定の儀だ」

「皇后さまの?」

「ああ。本当は、子が生まれてから議題にあげるつもりであった。その方が家臣たちには受け入れられやすいからな。だがそれより早く、家臣たちより翠鈴を推挙するとの進言があったのだ」

 そう言って劉弦は、心あたりがあるだろう?というような目で翠鈴を見た。
 翠鈴は以前、貴人の妃たちが"皇后は翠鈴がいいと父親に言う"と言っていたことを思い出した。あの時は、ただ重たく感じた言葉だが、彼の皇后になる決意をした今は心強くて嬉しかった。

「でも、まだ世継ぎが生まれていないのにすんなりいくでしょうか」

「……まぁ、無理だろう。少なくとも黄福律は、反対する。宰相で力もある奴が反対している限り強行するわけにはいかないな。国が乱れ、ともすれば内戦になりかねない」

「内戦に……」

 恐ろしい言葉に、翠鈴はぶるりと震えた。

「劉弦さま、無理はなさらないでください。私は、早く皇后さまになりたいと思っているわけではありません」

 国の平穏と、故郷の村の人たちの幸せ、後宮の妃たちの明るい未来。
 望むものはたくさんある。でもそのために、なにかを犠牲にするのは嫌だった。
 劉弦が微笑んだ。

「私としては翠鈴を早く私の皇后にしたい気持ちはあるが、国が乱れぬように皆が納得する形を模索する。だが、黄福律に関しては……」

 そこで言葉を切って難しい表情になった。
 彼は最後まで言わなかったが、翠鈴にその続きはわかった。

 ——おそらく説得は難しいだろう。

 それは、彼の娘の華夢を見ていればわかることだった。皇后になることを使命として生きてきたであろう彼女を……。
 さきほどの華夢の後ろ姿が目に浮かび、翠鈴の胸が痛んだ。
 翠鈴が皇后になり、後宮の妃たちが自由になれれば、彼女たちには明るい未来が訪れると確信している。
 でも華夢に関しては、どうしてもそう思えないのがつらかった。
 翠鈴を皇后へ推挙するとの家臣からの進言を受けて開かれた評議の場は、白熱した議論が交わされていた。

「翠鈴妃さまは、後宮の妃たちにも慕われているご様子、妃たちに皇后さまを選ぶ権利はないが、実際に後宮を取りまとめられるのは皇后さま。彼女たちの意見は重んじるべきかと」

「ですが皇后さまは、場合によっては、政にも携わることのあるお立場です。それだけでは……」

 玉座に座る劉弦にとっては、概ね予想通りの展開だった。
 皇后は、国にとって常に設けられているものではない。龍神である皇帝と人の子である妃の間には、生きる期間に差があるためだ。だが国の安定のためにはいた方がいいのは事実だった。
 民に慕われる皇后と、世継ぎがいれば民は安心する。だからこそ皇帝の寵愛のみで決めるわけにいかないのだ。多数の家臣の了承を得ることが決められている。

「陛下、陛下のご意見を伺いたく存じ上げます」

 意向を尋ねられた劉弦はちらりと黄福律に視線を送る。彼は気持ち悪いくらいに無表情だった。
 とりあえず劉弦は自らの思いを口にする。

「私は、私の皇后に翠鈴妃を所望する。彼女には他者を思う心がある。これこそが皇后にとってなくてはならぬものだ」

 その言葉に、ある者は納得し、ある者は懐疑的な表情になる。黄福律は相変わらず眉ひとつ動かさなかった。
 ある家臣が心配そうな表情で口を開いた。

「ですが、言い伝えでは翡翠の手の使い手であり宿命の妃とされる方が皇后になられれば国が栄えるとあります。そうではない方が皇后さまになられると、民が不安になりませぬか?」

 翡翠の手の使い手は皇帝にとって必要不可欠な存在だというのがこの国の常識で、だからこそ華夢が皇后になることが当然とされてきた。

「宿命の妃か……。黄福律、そなたの意見は?」

 劉弦が水を向けると、彼はしばらく沈黙してから口を開いた。

「お世継ぎをお生みになられる翠鈴妃さまを皇后さまにと推す者がいるのは道理にございます。ですが翡翠の手の使い手が陛下のおそばにいられなくては民は不安がりましょう」

「翡翠の手の使い手、……華夢妃のことだな」

 劉弦が確認するように言うと、彼は劉弦の目をじっと見て頷いた。

「私どもの家に伝わる古文書には、代々翡翠の手は黄家の娘に引き継がれる、歴代皇帝の皇后さまは皆翡翠の手をお持ちだったとあります」

 彼の言葉に、何人かの家臣がヒソヒソと囁き合う。

「やはり、前例通りにいくのがよいのでは?」

「ご寵愛はまた別だ」

 彼らをちらりと一暼し、黄福律が挑むように劉弦を見た。

「むろん、陛下のお気持ちを第一に考えるべきにございますから、ご寵愛の深さのみに従って皇后さまをお決めになられたとしても、臣下としては従うしかござません」

『寵愛の深さのみ』という部分に力を込めて、わざと挑発するように彼は言う。民を不安に陥れ国を乱しても自らの思いを貫くのかと、暗に言っている。
 皇帝に向かって宰相が不遜とも取れる言葉を口にしたことに、その場の空気が凍りつく。家臣たちが不安そうにふたりを見比べた。
 劉弦はため息をついた。

「民を不安にしてまでも私は結論を急ごうとは思わぬ。この議題は後日へ持ち越す」

 今出せる結論を出し、劉弦は立ち上がり家臣を見回した。

「だが、翠鈴妃を皇后にという私の思いは変わらぬ。彼女は皇后に相応しい唯一の女人だ。いずれはそなたたちも、それを認める時がくるだろう」

 そう宣言する劉弦を、黄福律が鋭い目で見ていた。
 夜半過ぎ、自室の寝台にて翠鈴は目を覚ます。隣に、劉弦がいないのを確認して自分自身に呆れてしまう。毎夜ふたりは同じ寝台で寝ている。そのことに慣れすぎて、隣にいないだけで寂しくて目覚めてしまうのだ。
 今夜彼がここへ来られなかったのは、国の端で嵐をともなう雷雲が発生したからだ。深刻な事態にならないよう念のため現地へ行くと伝言をもらった。だから彼が来ないのはわかっていて眠りについたというのに、たったひと夜のことでも寂しく思う自分がおかしかった。
 寝台を出て窓際に立ち、布幕をそっと開ける。彼に会えないのは仕方がないけれど、せめて彼を彷彿とさせる月を目にしようと思ったのだ。
 でも残念ながら窓の外に月は浮かんでいなかった。
 翠鈴はしばらく考えてから寝所を出る。控えの間で気持ちよさそうに寝息を立てている蘭蘭のそばを通り部屋を出た。今が何刻かはわからないが月が傾いているのだろう。中庭からなら見られるかもしれない。
 途中廊下で、人の話声がするのを耳にして足を止める。首を傾げながら行ってみると、普段から人が行かない廊下の突き当たりに、華夢と彼女の父親、黄福律がいた。

「わざわざなんだ? このような場に呼びだして」

 黄福律が不機嫌な声を出した。

「お父さまは、いつも屋敷にいらっしゃらないじゃないですか。私の部屋は女官がおりますし」

「……で、話とはなんだ?」

 秘密めいたふたりのやり取りに、翠鈴の胸がひやりとする。人目をはばかる黄親子の話が、穏やかな内容でないのは確かだった。

「お父さま、どうにかしてください! このままではあの女が皇后さまになってしまいます。もうすでに後宮内では、あの女が皇后さまで決まりって雰囲気なんですよ。私、そんなの耐えられない。お父さまは宰相でいらっしゃるんだから、その力で早く私を皇后さまにしてください」

 華夢が苛立った声で訴える。なるほど、ここのところ彼女がしょっちゅう実家に帰っていたのは、後宮にいたくないからという理由のほかに、父親にこのことを言いたかったからなのだ。
 福律が苦々しげに口を開いた。

「政はそのように単純なものではない。そもそもの原因は、お前があの小娘に先を越されたからだろう? 翡翠の手の使い手であり宿命の妃でありながら、陛下の寵愛を受けらなかった自分を恥じよ」

「それは……」

 父親からの冷たい言葉に華夢は口ごもる。そこへ福律はたたみかける。

「陛下は今珍しいおもちゃに夢中になっていらっしゃるだけのこと、そのうちに飽きるだろう。そしたら今度こそ陛下の寵愛を勝ち取るのだ。そうすればすべてがうまくいく」

「でも……」

 華夢は自信なさげに言って沈黙する。
 はっきりと返事をしない華夢に、福律が舌打ちをした。

「使えん娘だ。今まで最高の教育を施したというのにすべて無駄にしやがって! だがそうだな……」

 そこで言葉を切って思案する。しばらくしてなにかを思いついたように口を開いた。

「私に考えがある。成功すればお前は永遠に陛下の皇后でいられるだろう」

「お父さま、本当ですか?」

 父親からの言葉に華夢が弾んだ声を出した。

「ああ、だからお前は私の言う通りにするのだ。詳細は追って伝える」

「わかりましたわ、お父さま!」

 その言葉を聞いて、翠鈴は慌ててその場を後にした。
 足音を立てないようにして、自分の部屋の寝所へ戻り、心を落ち着けるため窓の布幕の間から月のない夜の空を見上げた。鼓動が不吉な音を立てていた。福律が口にした『考え』がいったいどのようなことなのか、見当がつかなくて不安だった。なにかとても嫌な予感がした。
 地方から戻り翠鈴と再会し彼女の部屋で一夜を過ごした次の日の朝、劉弦を迎えたのは、家臣たちからの奇妙な祝福だった。

「陛下、私ども家臣一同は全会一致で翠鈴妃さまを皇后さまへ推挙いまします」

 玉座の間にて宮廷のすべての家臣を背にした黄福律が平伏する。
 劉弦は眉を寄せた。

「黄福律、そなたなにを考えているのだ?」

 なにを企んでいるのだ?と聞きそうになるのを堪えて、劉弦は彼に問いかけた。
 華夢と福律のやり取りについては、昨夜翠鈴から聞いている。華夢を皇后にすることを彼が諦めていないのは確かだ。
 次にどう出るか、注視しなくてはと思っていた矢先の出来事だった。満面の笑みを浮かべる福律の考えが読めない。

「私は、結論を急がないと言ったはずだ」

 黄福律が面を上げた。

「娘から聞いたのでございます。翠鈴妃さまがいかに寛容な心の持ち主で、皇后さまに相応しい方なのかということを。もとより私は、国の平穏のみを望む身にござりますれば、翠鈴妃さまに立后いただくのが国のためと判断いたしました。ほかの者にもその旨伝えましてこのような結論と相成りました」

 翠鈴の立后に反対していたのは福律と彼と親しい家臣たち。福律さえ賛成すれば否とは言わないだろう。

「つきましては、国の平穏と安定のため、翠鈴妃さまの立后の儀を急ぎ執り行いましょう。民を早く安心させなくては」

 翠鈴の立后に賛成するだけでなく、急ぎことを進めようとする福律は、明らかになにかを企んでいる。このまま、彼の思惑に乗せられるわけにいかないと、劉弦は首を横に振る。

「翠鈴妃は世継ぎの出産を控えている。立后は生まれてからでも……」

「ですが陛下、後宮の妃たちは翠鈴妃さまの立后を心待ちにしておる様子。民にとっても皇后さまの立后は、喜ぶべきことにございます。急ぐにこしたことはございません」

 福律の言葉に同調するように、他の家臣たちが「陛下、おめでとうございます!」と声をあげはじめた。

「翠鈴妃さまの立后を心よりお祝い申し上げます!」

 福律の思惑はともかく他の家臣たちは本心からの言葉だ。
 後宮の妃たち、民のためだと言われたらそれ以上拒むこともできなくて、劉弦は仕方なく頷いた。
 立后の儀は、日柄の良い日が選ばれて、夕刻大寺院にて執り行われた。
 天候は荒れ模様、黒い雲がとぐろを巻く空の元、天界へ続くと言われている断崖絶壁の崖のそばに設けられた祭壇にて、華夢が祈りを捧げている。翠鈴は祭壇のそばで跪き彼女を見ていた。
 立后の儀にあたり、華夢が翡翠の手の使い手として祈りを捧げると提案したのは黄福律だ。あの夜彼は『私に考えがある』と言っていた。
 これがその考えなのだろうか?
 立后の儀という国家行事で大役を果たせば、翡翠の手の使い手として盤石な地位が築けると?
 それにしても、それだけのために翠鈴の立后に賛成するだろうかと、翠鈴は訝しむ。
 この件の詳細を聞かされているのだろうか? 華夢がどこか得意げに祈りを捧げている。

「……緑翠鈴が皇后として、末長く在るよう祈りを捧げます」

 祈りの言葉を終えて、華夢が祭壇の上にひれ伏した。
 ずらりと並ぶ家臣たちの中から黄福律が立ち上がる。劉弦と翠鈴、それからこの儀を見守るすべての家臣と妃を見回し、口を開いた。

「翠鈴妃さまの立后を心よりお喜び申し上げます。黄一族は、皇帝陛下と皇后さまに永久に忠誠を誓います」

 そう言って頭を下げる。その彼の言動に一同息を呑んだ。玉座に座り事態を見守っている劉弦も意外そうに眉を上げている。
 娘を皇后にするということにつき、対立してきた皇帝とのやり取りに終止符を打つということだ。本当ならばよい話だが……。
 福律が、祭壇の上の自らの娘に視線を送った。

「忠誠の証として、黄一族は、翡翠の手の使い手である華夢を、陛下の黄泉の国の皇后さまとして捧げます……」

 その言葉に翠鈴はハッとする。劉弦が眉を寄せ、家臣がざわざわとしはじめる。

 ――黄泉の国の皇后。

 つまり生贄として捧げるということだ。思いもしなかった彼の言葉に、翠鈴が華夢をみると、彼女は驚愕し目を見開いていた。

「お父さま……?」

 福律が歩きだし、祭壇に上がる。
 華夢が恐怖に顔を引きつらせた。

「華夢、お前の望みを叶えてやる。陛下の皇后になりたかったのだろう?」

 福律の言葉に首を横に振った。

「そんな……。私……」

 劉弦が立ち上がり声を荒げる。

「福律!! やめろ! 私はそのようなことを望んでいない!」

 玉座を降りて祭壇の下までやってくるが、すでに華夢のすぐ近くまで来ている福律に迂闊に近寄ることができなかった。

「ダメ! やめて!!」

 翠鈴も劉弦の隣に駆け寄った。
 福律が振り返り、劉弦に向かって両腕を広げた。

「陛下、古来より祈りを捧げる際の生贄はなくてはならないもの。願いが深ければ深いほど高貴な生贄を捧げるべきにございます。……寵愛のない宿命の妃にはぴったりの役割。翠鈴妃さまの立后につき私ども黄一族がどれほどのものを差し出したのか、よく覚えていてください」

 残酷な言葉を口にして、翠鈴に向かって頭を下げた。

「翠鈴妃さま、私どもは華夢の代わりにあなたさまを娘とし、末長く後見することをお約束いたします」

 つまり華夢を切り捨て翠鈴を娘に挿げ替えて、権力を誇示しようというわけだ。
 信頼していた父親に裏切られた華夢は色を失っている。その彼女に福律が頭を下げた。

「黄泉の国の皇后さま、彼方の世界で陛下にお支えください。あなたさまは、黄一族の誇りにございます」

 にやりと笑みを浮かべる福律に、翠鈴の背中がぞくりとする。考えるより先に、祭壇の床を蹴った。

「駄目ー!!」

「翠鈴!!」

 劉弦の声も耳に入らなかった。
 父親に肩を押されて真っ暗な崖に倒れ込む華夢が妙にゆっくりと見えた。ひらひらと舞う彼女の長い袖を掴もうと手を伸ばし、翠鈴も祭壇から身を乗り出す。
 ぐらりと身体の均衡が崩れ、翠鈴も真っ暗な崖の向こうへ……。
 ひゅおおお、という谷から吹き上げる雄叫びのような風の音を聞き、恐ろしさに目を閉じる。谷底へ落ちてゆくのを覚悟した時――。
 柔らかいものに受け止められたのを感じて目を開くと、華夢とともに銀色の龍に抱かれていた。

「劉弦さま!」

「……無茶をするな。そなたは無理のできない身体だというのに」

 安堵したように劉弦が言う。群衆からどよめきがあがった。

「皇帝陛下!!」

「龍神さまだ……!」

 真っ黒な空に輝く美しい龍の姿に、跪きひれ伏して涙している者もいる。皆、劉弦の本当の姿を見るのははじめてなのだ。
 劉弦がゆっくりと夜空を飛び、崖から離れた安全な場所へ翠鈴と華夢を降ろした。
 茫然として座り込む華夢が無事だということに安堵して、翠鈴はホッと息を吐いた

「華夢さま……よかった」

 とにかく助かったのだ。これだけ崖から離れていれば、もう安心だ。

「陛下……? 翠鈴妃さま……」

 劉弦と翠鈴を交互に見て、ぼんやりとしている。この状況をまだよく理解できていないようだ。

 ――そこへ。

「ああああああ!」

 雄叫びをあげて走り出したのは、黄福律だ。彼はそのまま龍の姿の劉弦に突進した。

「ぐっ!」

 劉弦の顔が苦痛に歪み夜の空に飛び上がる。彼の腕に短剣を突き立てたままの福律も一緒だった。

「陛下……!」

「宰相さま!!」

 国の宰相が皇帝に剣を突き立てるという状況に、皆驚愕して動揺する。
 福律は劉弦の上に馬乗りになり突き刺さったままの短剣を引き抜く。ギラリと光る冷たい刃物は、赤い血に染まっていた。劉弦が苦しげに口を開いた。

「無駄なことだ、もはや諦めよ」

「くそお! すべてうまくいっていたのに。皇帝陛下! あなたが、華夢を寵愛しさえすれば! あの娘が来なければ!」

 やけになった福律が喚いた。

「翠鈴が来なくても私は華夢妃を寵愛したなかった。彼女は私の宿命の妃ではない。福律、おぬしはそれを知っていたのであろう? 古文書の話は眉唾物だな」

 劉弦の言葉に翠鈴のそばで華夢が「え……?」と掠れた声を出した。

「はっ! おもしろいことをおっしゃる。まさか陛下ともあろうものが、宿命の妃などありもしない存在を信じておられるのですか? 翡翠の手も宿命の妃もただの言い伝えでしょう! そんなものはこの世に存在しない。だったら家柄のいい私の娘がなるのになんの問題があるのです?」

 すべてを暴露しはじめる福律の言葉に群衆がどよどよとした。

「騙されていた民は愚かだが、あなたさまもでございます。はっ! そもそも神など愚かなものだ。何百年もの間、我ら黄族に操られていたのだから!」

 不穏な言葉に群衆が静まり返ると、福律は鼻を鳴らした。

「先の皇帝の治世で反逆罪に問われた緑族は、ただ我ら黄族に濡れ衣を着せられただけのこと。皇帝は我らの言うことを信じて宰相に重用した。つまり騙されていたのです。なにが神だ! なにが皇帝だ!」

「なるほど、それが古文書に書かれていたことだな」

劉弦の問いかけに福律が弾かれたように笑いだした。

「はははは! 民も富も権力も、すべて私のものにございます、皇帝陛下。以前の弱りきったあなたさまのままであられたら、こんなことしなくて済んだのです。もはやこの国にあなたさまは、不要にございます!」

 そう言って憎しみのこもった目で劉弦を睨む。身体を大きく逸らして、再び短剣を振りかざす。

「陛下! ご覚悟!」

 真っ黒な雲に真っ白な光が走り、雷鳴が轟く。短剣から逃れるために、劉弦が身体をうねらせた、その拍子に、福律は身体の均衡を崩す。

「あ、ああー!」

 短剣を振り上げた格好のまま、崖の下の谷底へ消えていった。

「劉弦さま!!」

 翠鈴が彼を呼ぶと夜空の上で苦しげに一回転した後、地上に降り立ち人の姿に戻る。純金の刺繍が施された外衣の肩のあたりがどす黒い色に染まっている。

「陛下!」

「龍神さま……!」

 あまりのことに近づけずにいる群衆を背に、翠鈴は駆け出した。
 愛おしい人が流す血に気が動転する。

「劉弦さま! 血が……!」

「翠鈴、走るな。無茶をするなと言っただろう。そなたは無理のできぬ身体。これくらいは大事ない」

 大事ないと言いながら彼は地面に膝をつく。額に汗が浮かび、息が荒い。
 血の上の真っ赤な光に、翠鈴は考えるより先に手をかざす。彼の傷と苦痛を少しでも和らげたい一心だった。
 途端に、劉弦がまばゆい緑の光に包まれる。
 群衆から、おおー!という声があがった。
 光が消えると同時に、傷は塞がったのだろう。劉弦の表情が楽になる。そのまま翠鈴を抱きしめた。

「無茶をするなというのに」

 耳元の声音に力強さを感じて翠鈴はホッと息を吐く。大きな背中に腕を回した。

「このくらい、なんでもありません。劉弦さま、よかった……」

 一連の出来事を、固唾を呑んで見守っていた者たちから、誰ともなく声があがる。

「傷が消えた?」

「翡翠の手だ……」

「翠鈴妃さまが……?」

「皇帝陛下の傷を癒してくださった。翠鈴妃さまが、翡翠の手の使い手だ」

「宿命の妃だ!」

 その中から、悲痛な声があがる。

「そんな……! 嘘、嘘よ……!」

 華夢だ。彼女は古文書の本当の内容は知らなかったのだろう。はじめから父親に騙されていたのだという事実を受け止めきれず、首を振っている。

「華夢妃を安全な場所へ連れていき、手当てするように」

 劉弦が指示すると、数人の従者が彼女を抱えるように連れていった。
 劉弦が見守る人々に向かって宣言した。

「私は、翠鈴妃を皇后とする。私は彼女を唯一の妃とし、彼女がこの地に在る限り、末長くこの国に平穏と繁栄をもたらすと約束しよう!」

 ――その瞬間。

 どどどと夜空を揺るがす歓声が、群衆からあがる。空を覆っていた厚い雲の隙間から月明かりが差し込んだ。

「翠鈴妃さま!」

「皇后さま!!」

「おめでとうございます!」

 広大な国土を持つ水凱国で、長きに渡り続いた民の憂いが、今完全に晴れていく。
 水凱国の新しい時代が幕を開けた。
「まったく……。なにもなかったからいいものの。崖の向こうへ翠鈴の身体が倒れ込むのを目にした時は肝が潰れそうな心地がした」

 夜更けの皇帝の寝所にて、寝台に入り身体を起こした翠鈴を後ろから抱いている劉弦が、ぶつぶつと小言を言っている。眉を寄せ、厳しい表情ではあるが、その手には温石が握られていて優しい手つきで翠鈴の身体を温めている。

「申し訳ありませんでした……」

 背中に感じる彼の身体を心地よく感じながら翠鈴は謝った。

「私のお腹にはお世継ぎがいることを、これからは肝に命じます」

 今までも自覚していたつもりだが、後宮内の翠鈴をめぐる周辺が騒がしくて自分の身体を第一に考えられていなかった。でも立后の儀を終え、翠鈴に反対する勢力もなくなったこれからは、大切にできると思う。
 劉弦がため息をついた。

「だから、世継ぎうんぬんは関係ないと申しておるのに……」

 そう言って劉弦は翠鈴の顎に手を添えて優しく振り向かせる。自身も覗き込むようにして、すぐ近くからジッと見つめた。

「私は、翠鈴自身が大切なのだ。お腹の子も世継ぎだからではなく翠鈴との子だから心配なのだ。これからは自分を大切にすると約束してくれ。そなた想う私のために。でなければ、ずっとここに閉じ込めておかなくてはならなくなる」

 熱のこもった眼差しとに翠鈴の頬が熱くなる。鼓動が早くなるのを感じながら、翠鈴は頷いた。

「こ、これからは自分の身体を第一に考えるとお約束します……。世継ぎを宿しているからではなく、私を想ってくださる劉弦のために」

「ん、よろしい」

 劉弦が微笑んで翠鈴の頬に口づける。その笑顔と甘い感触に、どうにかなってしまいそうになる。心を落ち着けるために、少し関係のない話題を口にする。

「皆、落ち着いたでしょうか?」

 波乱の立后の儀が終わったあと、身重の翠鈴はすぐに医師の元へ運ばれた。そのまま診察を受けて劉弦の寝室へ落ち着いた頃、彼がやってきたのである。
 あの後、大寺院に残っていた皆がどうしたのか知らないのだ。

「ああ、妃たちは後宮に帰し、家臣たちもそれぞれの屋敷で待つよう命じた」

「華夢妃さまは?」

「身柄を拘束された。明日以降事情を聞かれることになるだろう。だが、あの状態では……」

 自分が翡翠の手の使い手ではないと知った彼女の嘆きはすごかった。ずっと信じてきたことが根底から崩れ落ちたのだ、当然だろう。

「華夢妃さま、おつらいですね」

 翠鈴が言うと、劉弦がふっと笑みを漏らした。

「そなたは、また……。人のことばかりだな」

 そして翠鈴を包む腕に力を込めて、耳元で囁いた。

「だが、だからこそ、私は翠鈴に惹かれるのだ。愛おしいと思うのだな」

「……え?」

 その言葉に、翠鈴は目をパチパチとさせた。

「どういうことですか? 劉弦さま」

 思わず聞き返してしまう。聞き間違いじゃないかと思うくらいだった。だって、神である彼の口から愛おしいという言葉が出るなんて。
 劉弦が眉を寄せた。

「どういうこととは、どういうことだ。そのままの意味に決まっているではないか。いつかの夜にも言ったであろう? 私は翠鈴が愛おしい」

「愛おしい……いつかの夜って……」

 混乱しながら翠鈴は記憶を手繰り寄せる。そして熱が出ていた夜の夢に思いあたった。

「まさかあれ、夢じゃなかったの……?」

 啞然として呟くと、劉弦が頷いた。

「そうか、翠鈴は眠りに落ちていたのだな。ならもう一度言おう。いや何度でも繰り返そうか。私は翠鈴を愛おしく思う」

「そんな……だけど、劉弦さまは……」

 神だから、そのような感情はないと思っていた。
 翠鈴の言いたいことがわかったのだろう。劉弦が目を細めた。

「神が人を愛さないと誰が言ったのだ? いや私もはじめはそう想っていたのだが……。だが翠鈴を誰よりも大切に想い、ずっとこうしていたいと願う。これが人で言う愛おしいという感情ではないのか?」

 自分を見つめる熱のこもった眼差しを、信じられない思いで翠鈴は見つめる。

 慈しむような視線。
 自分を包む温かい腕……。

 そして、彼が自分に向ける気持ちの正体をはっきりと、理解する。なぜなら、自分も同じ気持ちを抱いているから。

「……はい。そうだと思います」

 翠鈴も、彼を誰よりも大切に想い、ずっとこうされていたいと願う。

「私も劉弦さまを愛しく想います」

 胸をいっぱいに満たしている温かな想い、それを飾ることなく口にする。今までは言えなかった気持ちだ。
 劉弦が目を細めて翠鈴の頬を手で包む。その感覚を心地よく感じながら翠鈴は目を閉じた。
 愛おしい人と、心を通わせてはじめての幸せな口づけだった。