「お腹の子は順調にございます。たくさん食べて、適度に身体を動かしてください」
お腹の子の診察は、翠鈴の部屋へ医師が訪問する形で行われる。翠鈴の身体をひと通り確認した女性宮廷医師の言葉に、翠鈴はホッと息を吐いた。
「よかった……」
「もうすぐしたら、お腹の中で子が動くのがわかるようになりますよ」
「え? もうですか?」
医師の言葉に、腹部を出していた衣服を整えていた翠鈴は、驚いて手を止める。村でも赤子が生まれることはよくあった。お腹が大きくなった後は、外からでも赤子が動くのがわかったけれど、こんなに早くわかるとは思わなかったからだ。
医師がにっこりと微笑んだ。
「ええ、まだ外からはわかりませんが、母親は感じます。ポコポコと中から叩くような感じがしたらそれがそうです」
「ポコポコと……」
お腹に手をあてて翠鈴は呟いた。想像するだけで胸が温かいもので満たされる。その時が楽しみでたまらなかった。
懐妊が発覚してからの翠鈴は、お世辞にも安静していたとはいえない。そんな状況で元気に育っているか不安は尽きないけれど、少なくとも動いてくれれば安心できるだろう。
こんな風に思えることが嬉しかった。
子がお腹にいると知った時は、それによって変わってしまった自分自身の運命に悲観して、出産を怖いとすら思ったのに。今は健やかに生まれてくることを楽しみにしている。
ほかでもない子の父親である劉弦と生涯を共にする覚悟ができたからだ。今は世継ぎを生むという重圧よりも、彼と自分の子が生まれるのだという喜びに満たされている。
「ではまた三日後の同じ時間に参りますので……」
そう言って医師は、片付けを始める。が、部屋の外が騒がしいことに気がついて手を止めた。
「どうしたのでしょう?」
「なにかあったのかな?」
翠鈴も首を傾げ、そう呟いた時。
「翠鈴!」
少し息を切らして、劉弦が入ってきた。
純金の糸で刺繍が施された黒い衣装の執務中の格好だった。
「りゅ……陛下⁉︎」
翠鈴は、目を丸くして声をあげた。
毒蜘蛛の一件以来、ふたりは夜を翠鈴の部屋で過ごしている。翠鈴が皇帝の寝所へ行くために肌寒い夜に長い廊下を歩くのを、彼が嫌がったからだ。夜、執務が終わったら、彼の方が翠鈴の寝所へやってくるのは、もはや誰もが知るところで後宮に彼の姿があることには皆慣れた。けれど、昼間にやってくるのは珍しい。
先ぶれがなかったため、蘭蘭があたふたと玉座代わりの椅子を持ってくる。それを断り、彼は寝台に座る翠鈴の隣に腰を下ろした。
「陛下、執務中では……?」
尋ねると、大きな手で翠鈴の髪を撫でた。
「午前中の分は急ぎ終わらせた。今日は翠鈴の診察の日だと聞いていたから。気になったのだ」
診察に立ち会うために来たのだと言う劉弦に、翠鈴の頬が熱くなった。
一方で女性医師は眉を寄せる。診察中に、先ぶれもなく部屋へ入ってきたことに苦言を呈する。
「陛下……。お産の診察中にございますよ。お産は女人の仕事と古来から決まっております。陛下といえども診察に立ち会うなど……」
彼女は宮廷でも堅物として知られている。相手が皇帝とはいえ、お産のことに関しては黙っていられないのだろう。母親の体が第一ということだ。
彼女の言う通り、水凱国の伝統ではお産に男性は手を出すべきではないとされている。出産には、本人の母親や産婆たちの領域で子の父親は蚊帳の外というのが当たり前だ。
だが劉弦は意に介さない。
「子と翠鈴が健やかであるかどうかは、今の私にとって最大の関心ごとだ。古来からの決まりごとなどどうでもいい」
決まりごとなどどうでもいいと、言い切る劉弦に、医師が面食らったように瞬きをする。国の決まりごとを重んじて政を行う皇帝の姿とはやや外れる発言だ。
「な、なれど、翠鈴妃さまとお世継ぎに関するご報告は、毎回この後、玉座の間にてきちんと……」
「それよりも早く知る必要があったのだ」
そう言って彼は、優雅に微笑んだ。その笑みに、もうなにを言っても無駄だと思ったのか、医師がため息をついて頭を下げる。
「翠鈴妃さまのお身体は健やかにございます。お世継ぎもまったく問題なく健やかにお育ちにございます」
それに劉弦が安堵したように頷いた。
翠鈴も追加で嬉しい報告をする。
「もうすぐしたら、お腹の中で赤子が動くのがわかるようになるそうです。そしたら、私にも子が元気だとわかるので嬉しいです」
「子が動くのがわかるのか?」
劉弦がさっそく翠鈴を抱き寄せてお腹に手をあてて、首を傾げた。
「今は動いていないようだが」
「陛下、まだ外からはわかりませんよ。母親にだけわかるだけです。外からわかるようになるのはもう少し先です」
医師が、また少し驚いたように言う。こんな風に早合点するのも、普段の劉弦の姿とはかけ離れている。
「そうか」
少し残念そうにするその姿に、翠鈴はくすりと笑ってしまう。国を治める皇帝であり、龍神さまと崇められている彼のこのような姿を誰が想像できるだろう。
「動いた時は、一番に劉弦さまにお知らせします」
劉弦を落胆させないようにそう言うと、彼はにっこりと微笑んで、翠鈴を見た。
「必ずだぞ」
「で、では、私はこれで」
医師が、気まずそうに咳払いをして片付けをし、そそくさと帰っていく。
蘭蘭もにんまりと笑って、後に続いた。
ふたりきりになった部屋で、翠鈴は口を開いた。
「お世継ぎが健やかかどうかは、政にも影響しますからね」
医師と蘭蘭は別の意味に捉えたようだが、世継ぎの誕生は民の最大の関心ごと。彼が執務を抜けてまで、確認しにきたとしても不思議でないと思う。
だがそれに劉弦は、首を横に振った。
「政は関係ない。私と翠鈴の間にできる子だから心配なのだ。誕生を心待ちにしている」
甘い声音と真っ直ぐな言葉に、翠鈴の胸は高鳴って、幸せな思いでいっぱいになる。たとえこれが愛情でなくても、彼が自分を大切にしてくれるだけでいいと思えるようになったからだ。
でも翠鈴がこう思えるようになったのは、もうひとつ理由があって……。
——あの夢のおかげ。
翠鈴は心の中で呟いた。毒蜘蛛に刺されて熱に浮かされていたあの夜に見た幸せな夢である。
劉弦が頭を撫でて『私はそなたが愛おしい』と言ってくれたのだ。
もちろんそれは夢の中の出来事で、現で言われたわけではない。でもまるで本当に言われたかのように、甘く耳に残っていて、思い出すたびに幸せな気持ちになる。
「さて、報告を聞いたら安堵した。私はまた執務に戻る」
そう言う劉弦を、名残惜しい思いで翠鈴は見つめた。
「あまり無理をなさりませんよう」
そう言って、彼の耳のあたりの赤い光に手をかざす、光が消えると劉弦が心地良さそうに翠鈴の手に頬ずりをした。
「午後からは、皇后の選定の儀だ」
「皇后さまの?」
「ああ。本当は、子が生まれてから議題にあげるつもりであった。その方が家臣たちには受け入れられやすいからな。だがそれより早く、家臣たちより翠鈴を推挙するとの進言があったのだ」
そう言って劉弦は、心あたりがあるだろう?というような目で翠鈴を見た。
翠鈴は以前、貴人の妃たちが"皇后は翠鈴がいいと父親に言う"と言っていたことを思い出した。あの時は、ただ重たく感じた言葉だが、彼の皇后になる決意をした今は心強くて嬉しかった。
「でも、まだ世継ぎが生まれていないのにすんなりいくでしょうか」
「……まぁ、無理だろう。少なくとも黄福律は、反対する。宰相で力もある奴が反対している限り強行するわけにはいかないな。国が乱れ、ともすれば内戦になりかねない」
「内戦に……」
恐ろしい言葉に、翠鈴はぶるりと震えた。
「劉弦さま、無理はなさらないでください。私は、早く皇后さまになりたいと思っているわけではありません」
国の平穏と、故郷の村の人たちの幸せ、後宮の妃たちの明るい未来。
望むものはたくさんある。でもそのために、なにかを犠牲にするのは嫌だった。
劉弦が微笑んだ。
「私としては翠鈴を早く私の皇后にしたい気持ちはあるが、国が乱れぬように皆が納得する形を模索する。だが、黄福律に関しては……」
そこで言葉を切って難しい表情になった。
彼は最後まで言わなかったが、翠鈴にその続きはわかった。
——おそらく説得は難しいだろう。
それは、彼の娘の華夢を見ていればわかることだった。皇后になることを使命として生きてきたであろう彼女を……。
さきほどの華夢の後ろ姿が目に浮かび、翠鈴の胸が痛んだ。
翠鈴が皇后になり、後宮の妃たちが自由になれれば、彼女たちには明るい未来が訪れると確信している。
でも華夢に関しては、どうしてもそう思えないのがつらかった。
お腹の子の診察は、翠鈴の部屋へ医師が訪問する形で行われる。翠鈴の身体をひと通り確認した女性宮廷医師の言葉に、翠鈴はホッと息を吐いた。
「よかった……」
「もうすぐしたら、お腹の中で子が動くのがわかるようになりますよ」
「え? もうですか?」
医師の言葉に、腹部を出していた衣服を整えていた翠鈴は、驚いて手を止める。村でも赤子が生まれることはよくあった。お腹が大きくなった後は、外からでも赤子が動くのがわかったけれど、こんなに早くわかるとは思わなかったからだ。
医師がにっこりと微笑んだ。
「ええ、まだ外からはわかりませんが、母親は感じます。ポコポコと中から叩くような感じがしたらそれがそうです」
「ポコポコと……」
お腹に手をあてて翠鈴は呟いた。想像するだけで胸が温かいもので満たされる。その時が楽しみでたまらなかった。
懐妊が発覚してからの翠鈴は、お世辞にも安静していたとはいえない。そんな状況で元気に育っているか不安は尽きないけれど、少なくとも動いてくれれば安心できるだろう。
こんな風に思えることが嬉しかった。
子がお腹にいると知った時は、それによって変わってしまった自分自身の運命に悲観して、出産を怖いとすら思ったのに。今は健やかに生まれてくることを楽しみにしている。
ほかでもない子の父親である劉弦と生涯を共にする覚悟ができたからだ。今は世継ぎを生むという重圧よりも、彼と自分の子が生まれるのだという喜びに満たされている。
「ではまた三日後の同じ時間に参りますので……」
そう言って医師は、片付けを始める。が、部屋の外が騒がしいことに気がついて手を止めた。
「どうしたのでしょう?」
「なにかあったのかな?」
翠鈴も首を傾げ、そう呟いた時。
「翠鈴!」
少し息を切らして、劉弦が入ってきた。
純金の糸で刺繍が施された黒い衣装の執務中の格好だった。
「りゅ……陛下⁉︎」
翠鈴は、目を丸くして声をあげた。
毒蜘蛛の一件以来、ふたりは夜を翠鈴の部屋で過ごしている。翠鈴が皇帝の寝所へ行くために肌寒い夜に長い廊下を歩くのを、彼が嫌がったからだ。夜、執務が終わったら、彼の方が翠鈴の寝所へやってくるのは、もはや誰もが知るところで後宮に彼の姿があることには皆慣れた。けれど、昼間にやってくるのは珍しい。
先ぶれがなかったため、蘭蘭があたふたと玉座代わりの椅子を持ってくる。それを断り、彼は寝台に座る翠鈴の隣に腰を下ろした。
「陛下、執務中では……?」
尋ねると、大きな手で翠鈴の髪を撫でた。
「午前中の分は急ぎ終わらせた。今日は翠鈴の診察の日だと聞いていたから。気になったのだ」
診察に立ち会うために来たのだと言う劉弦に、翠鈴の頬が熱くなった。
一方で女性医師は眉を寄せる。診察中に、先ぶれもなく部屋へ入ってきたことに苦言を呈する。
「陛下……。お産の診察中にございますよ。お産は女人の仕事と古来から決まっております。陛下といえども診察に立ち会うなど……」
彼女は宮廷でも堅物として知られている。相手が皇帝とはいえ、お産のことに関しては黙っていられないのだろう。母親の体が第一ということだ。
彼女の言う通り、水凱国の伝統ではお産に男性は手を出すべきではないとされている。出産には、本人の母親や産婆たちの領域で子の父親は蚊帳の外というのが当たり前だ。
だが劉弦は意に介さない。
「子と翠鈴が健やかであるかどうかは、今の私にとって最大の関心ごとだ。古来からの決まりごとなどどうでもいい」
決まりごとなどどうでもいいと、言い切る劉弦に、医師が面食らったように瞬きをする。国の決まりごとを重んじて政を行う皇帝の姿とはやや外れる発言だ。
「な、なれど、翠鈴妃さまとお世継ぎに関するご報告は、毎回この後、玉座の間にてきちんと……」
「それよりも早く知る必要があったのだ」
そう言って彼は、優雅に微笑んだ。その笑みに、もうなにを言っても無駄だと思ったのか、医師がため息をついて頭を下げる。
「翠鈴妃さまのお身体は健やかにございます。お世継ぎもまったく問題なく健やかにお育ちにございます」
それに劉弦が安堵したように頷いた。
翠鈴も追加で嬉しい報告をする。
「もうすぐしたら、お腹の中で赤子が動くのがわかるようになるそうです。そしたら、私にも子が元気だとわかるので嬉しいです」
「子が動くのがわかるのか?」
劉弦がさっそく翠鈴を抱き寄せてお腹に手をあてて、首を傾げた。
「今は動いていないようだが」
「陛下、まだ外からはわかりませんよ。母親にだけわかるだけです。外からわかるようになるのはもう少し先です」
医師が、また少し驚いたように言う。こんな風に早合点するのも、普段の劉弦の姿とはかけ離れている。
「そうか」
少し残念そうにするその姿に、翠鈴はくすりと笑ってしまう。国を治める皇帝であり、龍神さまと崇められている彼のこのような姿を誰が想像できるだろう。
「動いた時は、一番に劉弦さまにお知らせします」
劉弦を落胆させないようにそう言うと、彼はにっこりと微笑んで、翠鈴を見た。
「必ずだぞ」
「で、では、私はこれで」
医師が、気まずそうに咳払いをして片付けをし、そそくさと帰っていく。
蘭蘭もにんまりと笑って、後に続いた。
ふたりきりになった部屋で、翠鈴は口を開いた。
「お世継ぎが健やかかどうかは、政にも影響しますからね」
医師と蘭蘭は別の意味に捉えたようだが、世継ぎの誕生は民の最大の関心ごと。彼が執務を抜けてまで、確認しにきたとしても不思議でないと思う。
だがそれに劉弦は、首を横に振った。
「政は関係ない。私と翠鈴の間にできる子だから心配なのだ。誕生を心待ちにしている」
甘い声音と真っ直ぐな言葉に、翠鈴の胸は高鳴って、幸せな思いでいっぱいになる。たとえこれが愛情でなくても、彼が自分を大切にしてくれるだけでいいと思えるようになったからだ。
でも翠鈴がこう思えるようになったのは、もうひとつ理由があって……。
——あの夢のおかげ。
翠鈴は心の中で呟いた。毒蜘蛛に刺されて熱に浮かされていたあの夜に見た幸せな夢である。
劉弦が頭を撫でて『私はそなたが愛おしい』と言ってくれたのだ。
もちろんそれは夢の中の出来事で、現で言われたわけではない。でもまるで本当に言われたかのように、甘く耳に残っていて、思い出すたびに幸せな気持ちになる。
「さて、報告を聞いたら安堵した。私はまた執務に戻る」
そう言う劉弦を、名残惜しい思いで翠鈴は見つめた。
「あまり無理をなさりませんよう」
そう言って、彼の耳のあたりの赤い光に手をかざす、光が消えると劉弦が心地良さそうに翠鈴の手に頬ずりをした。
「午後からは、皇后の選定の儀だ」
「皇后さまの?」
「ああ。本当は、子が生まれてから議題にあげるつもりであった。その方が家臣たちには受け入れられやすいからな。だがそれより早く、家臣たちより翠鈴を推挙するとの進言があったのだ」
そう言って劉弦は、心あたりがあるだろう?というような目で翠鈴を見た。
翠鈴は以前、貴人の妃たちが"皇后は翠鈴がいいと父親に言う"と言っていたことを思い出した。あの時は、ただ重たく感じた言葉だが、彼の皇后になる決意をした今は心強くて嬉しかった。
「でも、まだ世継ぎが生まれていないのにすんなりいくでしょうか」
「……まぁ、無理だろう。少なくとも黄福律は、反対する。宰相で力もある奴が反対している限り強行するわけにはいかないな。国が乱れ、ともすれば内戦になりかねない」
「内戦に……」
恐ろしい言葉に、翠鈴はぶるりと震えた。
「劉弦さま、無理はなさらないでください。私は、早く皇后さまになりたいと思っているわけではありません」
国の平穏と、故郷の村の人たちの幸せ、後宮の妃たちの明るい未来。
望むものはたくさんある。でもそのために、なにかを犠牲にするのは嫌だった。
劉弦が微笑んだ。
「私としては翠鈴を早く私の皇后にしたい気持ちはあるが、国が乱れぬように皆が納得する形を模索する。だが、黄福律に関しては……」
そこで言葉を切って難しい表情になった。
彼は最後まで言わなかったが、翠鈴にその続きはわかった。
——おそらく説得は難しいだろう。
それは、彼の娘の華夢を見ていればわかることだった。皇后になることを使命として生きてきたであろう彼女を……。
さきほどの華夢の後ろ姿が目に浮かび、翠鈴の胸が痛んだ。
翠鈴が皇后になり、後宮の妃たちが自由になれれば、彼女たちには明るい未来が訪れると確信している。
でも華夢に関しては、どうしてもそう思えないのがつらかった。