龍神の100番目の後宮妃

「ここのところ、体調がよろしいようですね」

 宮廷内の外廊下を玉座の間に向かって歩いていた劉弦は、白菊に声をかけられて足を止めた。

「あの娘とお過ごしになられているからでしょう。眉唾物だと思っておりました宿命の妃が、本当に存在するとは驚きです」

 劉弦は無言で頷いた。翠鈴と夜を過ごすようになってから十日あまりが経った。
 これまでの不調は嘘のように消え去った。今まで手をつけられず家臣に任せきりになっていた執務を精力的にこなしている。
 寝所へ帰る時間は遅くなり、翠鈴が寝た後だが、それでも彼女がそばにいるだけで信じられないくらいに調子がいい。

「天界へは行かず、この国を末長く治めることを、決意されたということですね?」

 白菊が確認するように問いかる。
 劉弦が口を開きかけた時。
 視線の先に広がる広大な庭の向こうから、きゃあきゃあと楽しそうな声が近づいてくる。後宮にいるはずの妃たちだ。
 翠鈴が願い出て実現した毎日の散歩をしているのだろう。
 彼女たちは、まだ劉弦の存在には気づいておらず、野の花を摘んだり、ひらひら舞う蝶を追いかけたり。中には追いかけ合いをしている者もいる。その中に翠鈴もいる。隣の妃と話をしながらゆっくりとした足取りで歩いている。
 皇帝がいることを、知らせようとする従者を制し、劉弦は目を細めて彼女たちを眺める。
 妃の集まりなど、以前の自分なら目を背けていた。が、今は心穏やかだった。

「皇帝陛下?」

 誰かが呟き、皆が一斉にこちらを見る。
 慌てて跪こうとするのを、劉弦は止めた。

「よい、そのまま散歩を続けよ」

 彼女たちにとっては一日に二回だけの自由な時間なのだ。堅苦しい思いをさせたくはない。
 すると彼女たちは、驚いたように顔を見合わせ、戸惑いながらも頷いた。
 劉弦が立ち去ろうとすると、ひとりの妃が、意を決したように近づいてきた。

「陛下、お伝えしたきことがございます」

 唐突な彼女の行動に、劉弦のそばに控えている従者が警戒した。劉弦も一瞬身構えた。翠鈴が懐妊する前は寵愛を争って彼女たちはあの手この手で劉弦に近づこうとした。だが、自分を見つめるその妃の目は澄んでいる。

「よい」

 劉弦は従者を制し、彼女に続きを促した。

「申してみよ」

「ありがとうございます! あの……昨年、陛下は、北斗地方の干ばつを防いでくださいました。そのお礼を申し上げたかったのです。おかげで民は飢えずにすみ、また田畑を耕すことができております。陛下にお会いできたらどうしてもこれをお伝えしたいと思っておりましたのに、いつかの夜は緊張して言いそびれてしまって……」

 するとそれを耳にした他の妃たちも集まってきた。

「私の故郷の一昨年の水害もあと少しのところで水の流れを変えて下さいました。ありがとうございます」

「陛下のご加護で故郷の民は平穏に暮らせております」

 争うように感謝の言葉を口にする。
 彼女たちの目を見つめながら、劉弦は胸が晴れ渡るような心地がしていた。これが、本来の人の姿なのだ。
 人間は、邪な心を持つのも確かだが、他者を思う純粋な心も併せ持つものなのだ。そして初代皇帝は、この心に応えるために地上に降りた。その彼の気持ちを今本当の意味で理解する。
 後宮からカーンカーンと鐘が鳴る。昼食の合図だ。

「皆さま、そろそろ参りましょう。陛下、時間ですので失礼いたします」

 付き添いの女官が言い、劉弦が頷くと、彼女たちは頭を下げて歩いていく。

「もうこんな時間なの、あっという間だったわね」

「早く帰らないと、梓萌に叱られるわ」

「ふふふ、皆で叱られれば怖くないわよ」

「あーお腹空いた」

 くすくす笑いながら、去っていく。
 振り返る翠鈴と目が合った。
 本当に不思議な娘だと劉弦は思う。彼女は、劉弦だけでなく他の人の心まで綺麗にするようだ。

 ——彼女がそばにいれば、この国を末長く治めることができるだろう。しかも自分はそれを強く望んでいるのだ。

 人の心に惹かれて人と在ることを決断した初代皇帝の思いが手に取るようにわかるのだから。
 去っていった妃たちの向こう側、青い空のもとに広がる五宝塞の町を見つめて劉弦は口を開いた。

「白菊、私は天界へは行かない。この国を守り、末長く治めることにする」

 言い切ると、白菊がやれやれというようにため息をついた。

「やはりあの娘……いや、これからは翠鈴妃さまと呼ぶべきでしょう。翠鈴妃さまは、ただものではありませんでしたね」

 ただものでははいという言葉に劉弦は問いかける。

「……白菊、そなたは翡翠の手の使い手だとはじめから気がついていたのか? なぜ言わなかった?」

「あるいはと思っていただけです。あの娘、故郷の村では診療所を営んでおりまして、後宮へ入ってからも病になる寸前だった女官の世話をしておりました。妃たちの散歩の件も向かいの部屋の妃が青い顔をしていたのを見かねてのことのようですよ。自分も囚われの身同然だというのに人の不調ばかり気になるのは、翡翠の手を持つ者の性(さが)でしょう」

 ——翡翠の手を持つ者の性。

 本当にそれだけだろうか、と劉弦は訝しむ。診療所も女官の件もはじめて聞く翠鈴の話だが、妙にしっくりくると感じている。そして彼女のそういった部分に、劉弦の中のなにかが強く引きつけられるのを感じている。彼女を思い浮かべるだけで胸のあたりが温かくなるのだ。

「まぁ、翡翠の手の使い手は、龍神の宿命の妃といいますから、あなたさまには必要な娘だったということでしょう。こうなるのは決まっていたということです」

 確かにその通りだ。
 劉弦にとって彼女が必要不可欠なのは間違いない。昼間、どのように淀んだ空気の中、執務をこなしても寝所にて彼女のそばにいれば本来の自分を取り戻すことができる。彼女に出会ってからは、この繰り返しにより国を滞りなく治めることができている。

 ——だがそれだけではない。

 例えば彼女が、翡翠の手の持ち主でなかったとても、劉弦は彼女をそばに置き、あの目を見つめていたいと強く思う。

 ——この気持ちは……。

 人と龍神である自分の間に本来は存在するはずのない、生まれるはずのない感情だ。だが確かに今、自分の心を支配している。

「彼女がこの地に存在する限り、私は地上に留まり、国を治めることにする。白菊、私の目が届かない場所にいる間は翠鈴を守るよう」

「御意にございます。……後宮の妃たちの部屋替えの件ですが、どうやら貴妃の父親たちがぐずぐずと理由をつけて引き延ばしているようです。十日あまりが経った今もまだ、完了しておりません。急がせましょう」

「ああ、頼む」

 頷いて劉弦は歩き出した。
 後宮にて、妃たちの部屋替えが言い渡されたのは、朝、宮廷にて劉弦に会った日の午後のことだった。
 すべての妃が中庭へ集められて、新しい部屋割りを言い渡される。翠鈴は、華夢の向かいの二の妃の部屋へ引っ越し、後はひとつずつずれるようにという話だった。その内容に貴妃の妃たちは騒然となった。

「華夢さまの向かいのお部屋に、緑族の娘が入るなんて!」

「懐妊したとはいえ、田舎育ち丸出しのあの娘が?」

「ねえ、本当に疑問だわ。いったい陛下はあの娘のなにが気に入ったのかしら? 今だってろくに着飾りもしないで変な服着てるのに」

 一方で、貴人の妃たちと芽衣は、やや寂しそうに翠鈴を見ている。

「翠鈴妃は、皇帝陛下の一番のご寵姫さまなんだもの。当然だわ。でも部屋が遠くになってしまうのが少し寂しい。もう一緒にご飯を食べることはできなくなるかしら……」

 芽衣の問いかけに、翠鈴は首を横に振った。

「これまで通り遊びに来て。……でも私、本当は引っ越しなんてしたくない」

 せっかく慣れた部屋から移るのは嫌だった。思わず本音が口から出てしまう。
 芽衣が首を横に振った。

「それはダメよ翠鈴、陛下は翠鈴にそばにいてそのお気持ちにお応えしなくては。それに、あのお部屋を私に譲ってよ。翠鈴のお部屋から見える景色が私大好きなんだもの。毎日見られるようになるなんて嬉しいわ」

 翠鈴のためにわざと明るく言ってくれてるのだ。
 それを聞いた他の妃たちも堰を切ったように口を開いた。

「散歩には参加されますわよね?」

「まだお料理をご馳走させていただいていないわ」

 翠鈴は彼女たちに向かって約束する。

「もちろん、散歩は参加します。それからお料理も楽しみにしています」

 一方で貴妃たちは、眉を寄せて嫌そうしている。数人が、中庭の中心にある長椅子に座り事態を見守っている華夢のところへ行ってヒソヒソとなにやら耳打ちをした。
 華夢が頷いて、艶のある桜色の唇を開いた。

「陛下のご寵愛を受けられた翠鈴妃さまがお部屋を移られるのは当然です。なれどこのあたりに、貴人の方々が気安く来られるのは差し障りがありますわ。お控えくださいませ。翠鈴妃さまはご寵姫さまなのですから、お付き合いになる相手をお選びになるべきです」

 華夢の言葉に、貴妃たちが当然だというように頷いて、貴人たちは残念そうな表情になる。この後宮で華夢の言うことは絶対だ。
 それに翠鈴は反論した。

「妃同士のお部屋の行き来は自由なはずです」

 余計な揉め事は避けたいが、黙っていられない。せっかくできた彼女たちとのよい関係をここで断ち切るなんて嫌だった。
 今回の部屋替えでも、華夢は一の妃の部屋のまま。ということは、華夢が皇后候補であることには変わりない。後宮で彼女の意向に逆らうことは危険だとわかっている。指輪で手を刺された時のことが頭を掠めるが、口は止まらなかった。

「私は、どなたと一緒にいるかは、自分で決めます」

 いくら彼女が皇后候補でも誰と一緒にいるかまで口出しされる筋合いはない。
 華夢が首を傾げて立ち上がった。
 その場が、緊迫した空気になる。皆黙り込み息を呑んで、見つめ合う翠鈴と華夢を見ている。

「後宮の秩序を守るのも妃の役目ですわ、翠鈴妃さま。陛下のご寵愛が深くともそれは変わりません。好き勝手はよろしくなくてよ」

 もっともらしく華夢は言う。貴妃たちが、そうだというように頷いた。
 言葉だけをなぞればそうだろう。寵愛の如何に関わらず決まりは守るべきだ。でも寵愛を受けたからといって貴人と仲良くできないというのは納得できなかった。彼女は、翠鈴と皆を引き離し、翠鈴を孤立させようとしているのだろうか。

「私は決まりに背くつもりはありません。でも妃同士、交流することのなにが問題なのですか? 私は私の好きな方とお付き合いいたします。それについて、お咎めがあるというならば、部屋替えは結構です!」

 華夢を睨んでそう言うと、彼女は目を細めて、再び唇を開きかける。
 その時。

「それはならん」

 中庭によく通る低い声が響く。
 渡り廊下へ続く赤い扉の前に、劉弦が立っていた。純金の糸で刺繍が施された黒い衣装を身につけている。正装姿ということは、執務からそのまま来たのだろう。
 その場にいる者は皆、目を剥いて息を呑んだ。
 彼が後宮へ来るのがはじめてのことだからだ。後宮が開かれてから翠鈴が来るまで一貫して妃を拒み続けてきた彼は、後宮という場を遠ざけていた。

「部屋替えは私の指示だ」

 言いながら、黒い石の床の上を靴音を鳴らして中庭の中央へやって来る。皆が跪く中、翠鈴のすぐそばに立ち腰に腕を回した。
「なるべくそなたをそばに置きたいのだ。わがままは許さぬ」

 そして耳に唇を寄せて翠鈴にだけ聞こえるように囁いた。

「部屋替えが発表されたら、このようなことになるのは予想していた。はじめからいるつもりであったが執務が立て込み遅くなった。すまない」

「劉弦さま、そんな……」

「部屋替えは受け入れてくれ。今後無事に世継ぎが生まれるまで、翠鈴を狙う者がいないともかぎらない。なるべく目の届くところへいてほしい」

 つまりは世継ぎを宿した翠鈴になにもないように、目の届くところへおいて置きたいということだ。
 皆の手前、寵愛が深くそばに置きたいからということにしておけば自然だ。

「……わかりました」

 胸がちくりと痛むのを感じながら、翠鈴は頷いた。
 彼は翠鈴自身に愛情を感じているわけではなく、世継ぎを宿した翠鈴の身体が大切なのだ。そんなことはあたりまえで考えるまでもないことなのに、どうしてこんな気持ちになるのだろう?
 劉弦がまた皆に聞こえる声を出した。

「妃同士、揉め事もなく仲良くしてくれていることを私は嬉しく思う。ここにいる者は皆、誰と親しくしようが問題はない」

 そして貴人たちがいるあたりに視線を送り付け加えた。

「部屋替えにより、困ることがあれば女官長に言うように、すぐに対処させる。それから窓の布幕を開けることを禁じられているそうだな。日の光は人にとってなくてはならないもの。その決まりは今この時をもって解く。自由に開けてよい」

 彼は以前、翠鈴が散歩の話を願い出た時に、これからは後宮のことにも心を配ると言っていた。その言葉を実行に移しているのだ。
 貴人の妃たちが互いに顔を見合わせて微笑んだ。
 一方で、翠鈴と貴人の妃たちの交流を容認した劉弦に、貴妃たちが悔しそうに唇を噛む。
 華夢だけが、そんな様子は微塵も見せずに優雅に微笑んだ。

「ありがとうございます、陛下。後宮のことにも心を砕いてくださること、とても嬉しく思います。本日は顔色もよろしいようで安心いたしました。ですが念のため、診察いたしましょう。よろしければ私の部屋へ」

 後半は翡翠の手の使い手としての言葉だった。

「いや、その必要はない」

 劉弦は断るが、彼女は引き下がらない。

「なれど、陛下に万が一のことがありましたら、皆不安になります。国のためと思い御身を大事に……」

 そう言われて、劉弦はふたりのやり取りを見守る妃たちを見回す。劉弦の健康は国中の民の関心ごとだった。
 彼は仕方がないというように、ため息をついて頷いた。

「……わかった。皆解散するように」

 言い残して、一の妃の部屋へ向かって歩いていく。華夢が後に続いた。
 貴妃たちが、ヒソヒソと話しだした。

「お似合いね。やっぱり陛下の隣は華夢妃さまでなくちゃ」

「陛下の体調は、華夢妃さまのお力で整っているのよ。夜の相手しかできないどこかの妃とは大違い」

 翠鈴の胸がまたちくりと痛んだ。
 なぜか、劉弦が彼女と並んでいるのを見たくなかった。今この時を同じ部屋でふたりで過ごしているのだと思うだけで、胸の中が灰色の雲でいっぱいになるようだ。
 ここにいるのは皆彼の妃。
 今夜、別の誰かが彼の寝所に召されても全然おかしくないのだ。
 そんなことわかっていたはずなのに。

 ——どうしてこんな気持ちになるの?

 静かに閉まる一の妃の部屋の扉を見つめながら、翠鈴は胸のもやもやの正体を探していた。
 翠鈴の懐妊を祝う宴が行わると知らせを受けたのは、部屋替えから三日目の朝だった。日時はその日の夕刻、宮廷の大広間で宮廷のすべての家臣と妃が出席するという盛大なものだ。

「皆さま大広間にてお待ちにございます。早くなさいませ翠鈴妃さま」

 日が傾き、あたりが暗くなり始めた宮廷の外回廊。翠鈴は、まるで罪人を引っ立てるかのに急かす従者の後について、大広間を目指して歩いている。不安で胸がいっぱいだった。
 宴の会場に向かっているというのに、相応しい装いをできていないからである。

「でも、私、準備が整っておりません……。陛下か白菊さまにお取次願えませんか? このようななりでは……」

 翠鈴は、もう何度目かになる言葉を口にする。が、従者は聞き入れなかった。

「陛下はすでに大広間にてお待ちです。私は急ぎ翠鈴妃さまを大広間へご案内するようにと言われただけにございますゆえ」

 にべもなく言って、彼は足早に前を行く。
 今夜の宴で翠鈴が身につける衣装は、劉弦から届けられると聞いていた。翠鈴と蘭蘭はそれを待っていたのに、届かなかったのだ。
 はじめて召された夜、衣装を駄目にされてしまったことが頭に浮かび、梓萌に問い合わせるため蘭蘭を使いに出した時、この従者が迎えにきたのである。
 準備ができておらずいつもの作務衣姿の翠鈴を見ても不思議そうにするわけでもなく、有無を言わせず大広間へ連れて行こうとする彼に、翠鈴はもしやと思う。
 衣装が届かなかったのも、それを訴える機会を与えられないのも、おそらく誰かの差し金だろう。なにせ、前例がある。
 でも前回とまったく状況が違うのは、今回は国中の主だった家臣が集まる重要な場だということだ。しかも翠鈴の懐妊を祝う宴で、皆が翠鈴に注目しているのだ。このような格好のまま大広間へ行けば、自分だけでなく劉弦にまで恥をかかせることになるだろう。

「あの、やっぱり私、気分が優れないので一度部屋へ戻ります」

 かくなる上は、少し強引な手段を使ってでも大広間へ行くことを回避しなくてはと翠鈴は思う。懐妊中の身体の不調を訴えればなんとかなると思ったのだ。嘘がよくないのは承知だが、背に腹は替えられない。

「なりません」

 従者が足を止めて振り返った。

「すでに皆さまお待ちなのです。翠鈴さまをお連れできなかったら、私の首が飛びます。さあ着きました。この扉の向こうが大広間にございます」

 この強引さはやはり異常だった。
 翠鈴をよく思わない何者かによって仕組まれたことなのだろう。でも首が飛ぶ、とまで言われては、振り切って引き返すわけにいかなかった。
 こくりと喉を鳴らして、大きな扉を見上げる。ゆっくりと開くと同時に従者が声を張り上げた。

「翠鈴妃さま、おなりにございます!」

 扉が完全に開くと同時にざわざわとしていた大広間が、水を打ったように静まり返った。
 大広間は、豪華絢爛な壁画と高い天井の広い空間だった。繊細な飾りの灯籠がいくつも下がり、昼間かと見まごうほどな明るさだ。たくさんの馳走が並べられている。
 扉から一番遠いところに設けられた玉座に、深い緑色の正装姿の劉弦が座っている。銀髪を後ろでひとつにまとめて肩から流していた。そのほかの者たちも皆、この場に相応しい装いだった。
 そんな彼らが注目する中、翠鈴は、劉弦の隣に用意された自分の席を目指す。身の置きどころがないような気分だった。
 案の定、貴妃たちからはくすくすと笑い声が聞こえている。家臣たちは眉をひそめて、なにやら囁き合っていた。
 唯一の救いは、劉弦の表情が普段ととくに変わらないことだろうか。とはいえ、彼は皇帝で、ほかの者とは心構えが違うのだ。たとえ不快に思っていても表に出さないだけかもしれないが。
 翠鈴が着席すると、家臣のひとりが立ち上がった。

「皆さま、おそろいになられました。これより、翠鈴妃さまご懐妊の宴をはじめます。……ですが、その前に」

 彼は、翠鈴に視線を送った。

「翠鈴妃さま、そのお衣装はいかがなされました? 陛下より今宵のお衣装は用意されていたはずですが」

 首を傾げて問いかける。痛いところを的確に指摘されて、翠鈴は真っ赤になった。

「それが、届かなかったのです。代わりの衣装を準備することもできなくて……」

「黄福律。大事ない。衣装などなんでもよい」

 玉座から劉弦が口を挟む。
 だが黄福律と呼ばれた家臣は引かなかった。

「なりません、陛下。この宴は私的なものではございません。国をあげてのものなのです。このような大事な場面に正装して出席いただくのは、陛下の妃としての最低限の務めにございます」

 そして侮蔑の目を翠鈴に向ける。妃失格と言わんばかりの言葉に、翠鈴の胸はひやりとした。

「ならば宴など、不用。もともと私はそう申していたではないか。妃の衣装に口出しするな」

 劉弦が不機嫌に言い返し、両者の間に緊張が走る。
 皆固唾を飲んで、事態を見守った。
 その張り詰めた空気を破ったのは華夢だった。

「なれど、陛下、そういうわけにはまいりませんわ」

 妃の中で一番皇帝に近いところにいて、薄い桃色のひらひらした衣装を身に着けている。今宵も匂い立つような美しさだ。扇で口元を隠して眉を寄せていて、不安げだった。

「陛下からの賜りものがきちんと届かないなんて、本来ならありえないことですもの。一の妃としては見過ごせません。後宮の秩序に関わりますから。翠鈴妃さまの女官は以前にも翠鈴妃さまが白菊さまから賜ったお衣装を駄目にしたことがありました。その者をよく取り調べてみなくては」

「にょ、女官がやったことではありません。彼女に責任はありません」

 翠鈴は思わず口を挟んだ。万が一にでも蘭蘭が咎められることになってはいけない。

「あら、そのようなこと、どうして言い切れるのでしょう? 同じことが続いているというのに」

 華夢が眉を寄せると、それに同調するように頷いて、黄福律が声を張り上げた。

「そもそも、女官の不始末はその女官を管理する妃の不始末。そのあたりの(ことわり)を、翠鈴妃さままだ理解されておられないようですな。こちらに来られて、日が浅いとはいえ、陛下の寵愛を受けるならばご自覚くださらないと」

 翠鈴にというよりは見守る家臣と妃たちに向かって言う。家臣たちは納得だというように頷き、貴妃たちはひそひそと囁き合う。
 どこか得意そうに翠鈴を見る華夢妃に、やはりこの件は仕組まれたことなのだろうと翠鈴は確信する。でもなんの証拠もない状況で言い返すことはできなかった。
 唇を噛み黙り込む。そこで。

「衣装は、届けなかったのだ」

 劉弦が立ち上がった。

「え? へ、陛下……? しかし、翠鈴妃さまには手持ちのお衣装がないゆえ、手配するようにと陛下が……」

「気が変わったのだ。そなたたちの預かり知らぬところでやめさせた」

 言いながら翠鈴のところへやってきて、翠鈴を抱き上げた。

「つっ……!」

 唐突な彼の行動に、翠鈴は目を白黒させて彼の首に腕を回す。彼は事態を見守る聴衆に向かって言った。

「彼女の美しく着飾った姿を皆に見せるのが惜しくなったのだ。罰せられるは私の彼女を愛おしく想う心」

 そう言って、これ以上ないくらいに優雅に微笑んだ。皆その笑顔に魅了され微動だにできなくなる。彼らを一暼して、劉弦が歩き出し皇帝専用の扉のまで来たところで、ようやく黄福律が口を開いた。

「へ、陛下……! どちらへ……?」

「彼女がこの場に相応しくないというならば、やはり誰にも見せず私の部屋へ隠しておくことにする。私はすぐに戻るゆえ、宴は続けているように」

 言い残して、大広間を出る。そこは皇帝の控えの間だった。中央の長椅子に下ろされてようやく翠鈴は口がきけるようになる。

「このような格好のまま来てしまい。申し訳ありませんでした。私……」

「よい。このようなことになるのは予想できたのに、対処しなかった私の落ち度だ。不快な思いをさせたな、申し訳なかった」

 そこで言葉を切って、劉弦は翠鈴を見つめた。

「それに、その格好を恥じることなどない。そなたらしくて私は好きだ」

「劉弦さま……」

「故郷では診療所を開いていたのだろう? ならばそれが翠鈴の正装だ」

 翠鈴は心の臓が止まりそうなほど驚いて同時に温かい気持ちになる。誰かに陥れられたとはいえ、宴に相応しくない格好で現れたことは、咎められてもおかしくはない。こんな風に言ってもらえるとは思ってもみなかった。
 劉弦が身を屈めて、声を落とした。

「だが、やっかいごとに巻き込みたくはないゆえ、あの場から連れ出した。許せ」

「そんな……ありがとうございました」

「うん、怖がらせるつもりはないが、さきほどの男には気をつけるように」

 さきほどの男とは、翠鈴を糾弾していた黄福律と呼ばれていた人物だろう。

「宰相だ。一の妃の父親で彼女を皇后にしたがっている。彼女を遠ざける私との関係は、はじめからあまりよくない。今宵のことは間違いなく奴が一枚噛んでいる」

 華夢と一緒になって翠鈴を責めていたのは、そのような動機があるからなのか。

「わかりました」

 劉弦が翠鈴の頬に手で触れて、申し訳なそうに眉を寄せた。

「争いごとに、巻き込むことになって申し訳なく思う。生まれ故郷にいたなら、こんな思いをすることはなかったのに。そなたは、私が必ず守ると約束する」

「そ、そのように言っていただく必要はありません」

 翠鈴は慌てて答える。皇帝の口から出たとは思えないほど真っ直ぐな謝罪だ。

「む、村に帰れなくなったことは、劉弦さまだけのせいではありませんし……その……」

 頬が熱くなるのを感じながら翠鈴は、一生懸命に言葉を紡ぐ。

「私がここにいることで劉弦さまの不調を軽くできるなら、私はここにいたいと思います。少しくらい意地悪されたって……なんとも思いません」

 彼の中の罪悪感を少しでも、軽くしたいという一心だった。どうしてかはわからないけれど、彼にそんな風に思い続けていられるのは嫌だった。
 でも口に出してみれば、これが本心なのだと確信する。ここにいたいなんて、思ったこともなかったけれど、それが彼のためになるならばそうしたい。
 それは、彼がこの国を治める、皇帝だからだからだろうか?
 自分自身に問いかけながら、翠鈴はすぐそばにある優しい色を浮かべた漆黒の瞳を見つめる。
 ……そして、それは違うと確信する。
 彼はこの国を統べる龍神で翠鈴にここにいろと命令するのが当然の立場にいる。それなのに、こんな風に優しい言葉をくれて気遣ってくれている。翠鈴がつらい思いをしないよう心を砕いてくれるのだ。
そんな彼だからこそ、翠鈴は彼のそばにいたいと願うのだ。

 この気持ちは……。

「ここにいたいと思う……それは翠鈴の本心か?」

 その問いかけに翠鈴は迷わず頷いた。

「そうか、ならいい。私も翠鈴に、そばにいてほしいと願う」

 劉弦がふわりと微笑んだ。
 その眼差しを見つめながら、翠鈴はとくとくとくと速度を上げる自分の鼓動を聞いていた。
 彼の手が頭を優しく撫でるのを心地よく感じている。

「この後は私だけが宴に戻る。そなたは寝所で待っていよ」

 そう言って、劉弦が立ち上がった時。

「陛下、お取次ぎ願いたいと言う者たちが」

 従者が遠慮がちに声をかけた。

「芽衣妃さまと、いく人かのお妃さまにございます。翠鈴妃さまにお目通り願いたいと……」

 劉弦が翠鈴を確認するように振り返る。
 翠鈴が頷き、劉弦が「通せ」と答えると、芽衣と数人の妃が入ってきた。芽衣は衣装をその他の妃は髪飾りや首飾りなどを手にしている。
 劉弦に跪き、芽衣が口を開いた。

「皇帝陛下、翠鈴妃さまのお支度を私たちにお任せいただくお許しをくださいませ」

 意外な申し出に、劉弦が目を見開く。
 翠鈴は思わず口を開いた。

「芽衣、……その衣装は?」

 芽衣が顔を上げて翠鈴を見た。

「私のものよ、翠鈴。宴の衣装がないなら、どうして言ってくれないの? 言ってくれればなんとかするのに。水臭いじゃない」

 べつの妃も芽衣に同意する。

「私たちだってたくさんではないけれど、実家から持ってきたものがあります。皆さんで持ち寄れば翠鈴妃さまを綺麗にして差し上げるくらいはできましたわ」

 隣の妃が唇を噛む。

「翠鈴妃さまがあんな風に言われるなんて悔しくて……」

「あ、ありがとう」

 皆の剣幕にやや戸惑いながら翠鈴は、答える。すると皆に取り囲まれた。

「髪はまとめて上げた方が可愛らしいわね。その髪飾りはどうかしら?」

「いいと思うわ。翠鈴妃さまのお髪の色にぴったりだし。それにしても、細くて羨ましいわ。このお衣装がお似合いなるわ」

「ああ、爪も染めて差し上げたかった! 時間がないのが口惜しいわ」

 まだ劉弦からの許しも出ていないのに、翠鈴を飾り立てる相談をし始める。もはやこのまま作務衣を脱がされそうな勢いである。
 翠鈴はあたふたとして皆を止めようとする。

「あ、あの……! 私、宴には戻らな……」

 ——と、そこで劉弦が噴き出した。そのまま、くっくと肩を揺らして笑っている。
 その彼の反応に、ようやく彼女たちは自分たちが暴走していたことに気がついて、再び劉弦に向かって跪こうとする。それを、劉弦は止めた。

「よい。そのまま続けてくれ」

 妃たちに向かってにっこりと微笑んだ。

「そなたたちの心遣いに感謝する。私は先に宴に戻るが、彼女を頼めるだろうか?」

 感謝するという言葉と笑顔に、一瞬皆固まる。が、すぐに、芽衣が答えた。

「は、はい! きっと陛下も夢中になられるくらいお美しくして差し上げます!」

「では、頼む」

 そう言い残して、劉弦は大広間に戻っていく。同時に、その場の空気が一気に緩んだ。
 妃のひとりがうっとりとしてため息をつく。

「あのような陛下ははじめてだわ。すごく素敵……」

 でもそこで翠鈴を見て咳払いをした。

「とはいえ、私は翠鈴妃さまと陛下の仲に割って入ろうなどとはもはや思いません。おふたりが末長く仲睦まじい夫婦でいていただけるよう。応援いたしますわ」

 べつの妃が同意した。

「陛下は素敵な方だけど、恐れ多くて遠くから拝見するくらいがちょうどいいわ。私たち、もともと寵愛を受けることはない数合わせの妃なんだもの。田舎娘だし、教養もないのに寵愛を受けるなんて恐れ多くて」

「そうそう。後宮へ行けば働かずに呑気に暮らせるよって言われて来たんだもの。どうせなら、楽しく仲良く暮らしたいわ」

「だから、皆で翠鈴を応援しようって決めたの。ほかの貴人たちも同じ気持ちよ!」

 得意そうに言って、芽衣がニッと笑った。

「翠鈴が来てから、ここの暮らしが楽しいって思えたんだもの」

「芽衣……。皆さま……」

 翠鈴の胸に温かいものが広がった。ここへ来て翠鈴がしたことなんて、本当に些細なことだ。それなのにこんなに感謝されるのは、それだけ後宮(ここ)が過酷な場所だと言うことだ。こうなったのは翠鈴の功績ではない。
 それでもこんな風に言ってもらえるのが嬉しかった。ここへ来たばかりでひとりぼっちだった頃が嘘みたいだ。
 皆の笑顔がじわりと滲む。

「私も、皆とお話しできるようになってから、ここの暮らしが楽しくなりました。なにがなんだかわからないままに、こうなってしまいましたけど……」

 つられるように皆涙を浮かべる。
 そこへ、芽衣が手をぱんぱんと叩き明るい声を出した。

「しんみりするのは、後ほどよ。ぐずぐずしていられないわ。なんとしても翠鈴を水凱国一の美女にするわよ!」

 その言葉と共に、妃たちが心得たとばかりに、翠鈴を取り囲んだ。
 大広間にて、劉弦は玉座に座り酒を片手に、順番にやってくる家臣からの祝いの口上を聞いている。
 丁寧ではあるがじくじたる思いを隠しきれていない黄福律から始まったそれは、だんだんと様子が変わるのを感じていた。意外なことに貴人の妃の父親たちは、翠鈴の懐妊を心から喜んでいるように思えた。

「陛下のお世継ぎが生まれましたら、この国は安泰にございます。領地の民も喜びましょう」

「翠鈴妃さまに健やかにお過ごしいただけるよう、娘にもよく言ってきかせます。近頃はともに散歩をさせていただいているようで」

「私どもの領地の特産品は身体を温めて懐妊中に飲むとよい茶がございます。娘に持たせますゆえ……」

 国のため民のために、世継ぎの誕生を心から願う彼らの穏やかで澄んだ目を見つめながら、劉弦はさっき翠鈴を取り囲んでいた妃たちを思い浮かべていた。
 互いに互いを思い合い、足りないところは補い合う。初代皇帝が惹かれた人の姿。その心を取り戻す者が、じわりじわりと増えている。翠鈴が来たことによって。

「陛下、翠鈴妃さまのご懐妊を心よりお祝い申し上げます」

 最後に祝いの口上をあげにきたのは、九十九番目の妃の父親だった。

「翠鈴妃さまは、慣れない環境で気鬱の病に罹りそうになっていた娘を救ってくださった恩人です。これからは私も翠鈴妃さまを娘と思いお支えしたいと思います。娘からも手紙でそうするよう言われておりますゆえ」

 都から遠く離れた領地を治めるその家臣は、民思いの穏やかな人物で知られている。劉弦はさっき、翠鈴を着飾らせてみせると張り切っていた芽衣を思い出しながら頷いた。

「そうしてもらえるか? 彼女には身寄りがない。急にここへ連れてこられて寂しい思いをしていたのだ。芽衣妃の心遣いをありがたいと思う」

 素直な思いを口にする。彼女を大切にするとはいっても皇帝である劉弦は、ずっとそばにいられるわけではない。ひとりでも味方がいてくれると心強い。
 感謝の言葉を口にした皇帝に、芽衣の父親が驚いたような表情になり、次の瞬間破顔した。

「これはこれは……! お熱いですな。よほど翠鈴妃さまを愛おしく想われているようだ」

「あ……、いや」

 その彼の反応に、むずがゆいような気持ちになって、劉弦は咳払いをする。
 芽衣の父親が柔和に微笑んだ。

「よいことにございます、陛下。娘からは翠鈴妃さまのお人柄はよくよく聞いております。もう娘は、翠鈴妃さまに夢中のようでして、その翠鈴妃さまをご寵愛される陛下を心から尊敬しているようです。……末長く、仲睦まじくいらっしゃるよう親子共々願っております」

 そう言って彼は下がって行った。
 落ち着かない気持ちを抱えたまま、劉弦はその彼を見送った。

 ——愛おしく想う。

 それは、本来であれば人と人との間に存在する感情で、彼らはその気持ちを何よりも大切にする。だからこそ劉弦は、さっき衣装のことで揉めている場を収めるためにその言葉を使ったのだ。便宜上、彼女を愛おしく思うと言えば、人である彼らは納得する。
 そのはずだったが……。

「翠鈴妃さま、おなりにございます!」

 妃用の扉の向こうで従者の声が聞こえる。大広間が静まりかえった。素早く視線を走らせると、翠鈴妃の支度をすると張り切っていた妃たちはいつのまに席に戻っていた。互いに顔を見合わせて嬉しそうに微笑んでいる。

 ——そして。

 ゆっくりと開いた扉の向こう現れた翠鈴の姿に、思わず劉弦は息を呑み立ち上がりそうになる。
 彼女は、ほっそりとした薄緑色の飾り気のない衣装を身につけて、髪をひとつにまとめ薄化粧を施していた。白い鈴蘭の髪飾りと、耳飾り、細い金の首飾り。少し控えめなのは、それほど裕福ではない貴人たちが持ち寄ったものだからだろう。それでも翠鈴がまとう清廉な空気にはぴたりと沿っているように思えた。
 今まで劉弦は、人が綺麗な衣装を身にまとい自らを美しく見せることにまったく興味が湧かなかった。神にとっては外見などどうでもいいことだからだ。でも今は、どうしてか彼女から目が離せない。

 ——美しいと、心から思う。

 戸惑いながら周囲を見回す澄んだ瞳、羞恥に染まるふっくらとした頬。今すぐそばへ駆け寄って抱き上げたいという衝動を肘置きの上で拳を握りなんとか耐えた。
 自身なさげに一歩一歩、ゆっくりとこちらへやって来る彼女に、大広間の者たちも皆、驚き感嘆のため息をついている。
 自信なさげな翠鈴に、彼女を着飾らせた妃たちが励ますように頷いたり、手を叩いたりしている。

「翠鈴妃さま、ご懐妊おめでとうございます!」

「健やかなお世継ぎの誕生を心よりお待ち申し上げます」

 黄福律と華夢、貴妃たちがにがりきったような表情でそれを見ているが、彼女と彼女の父親たちの祝福の声は止まなかった。
 少なくない自身への温かい言葉に、翠鈴が、安堵したようにわずかに笑みを浮かべる。そして、劉弦を見た。
 その視線に、劉弦は息を呑む。胸が焼けるように熱くなった。

 ——愛おしい。

 それは、神である自分にはなかったはずの感情で、はじめて感じる想いだった。
 それでも、はっきりとわかる。
 彼女にそばにいてほしいと願うのは、彼女が翡翠の手の持ち主だからではなく。ただ、愛おしいからなのだ。ひと筋だけ首にかかる翠鈴の黒い髪。その艶のある黒を見つめて、劉弦はそう確信していた。
「今宵は、疲れたであろう。ゆっくり休め。朝は翠鈴が起きるまで起こさぬように言っておく」

 宴が終わり、劉弦の寝所に戻ってきた翠鈴を寝台の中へ促して劉弦が自分も隣に入る。
 ふわりと感じる彼の香りに翠鈴の胸はドキドキとした。毎夜を同じ寝台で過ごしているとはいえ、こうやって同時に入るのは随分と久しぶりのこと。彼は毎日夜遅くまで執務に勤しみ、部屋へ来るのは翠鈴が寝てしまった後だからだ。

「寒くないか? 夜は冷える」

 被せられた布団に頬までかぶり、翠鈴は口を開いた。

「今宵はありがとうございました。はじめはどうなることかと思いましたが、滞りなく終わって安堵しました」

 当初の予想に反して、半分ほどの者から祝福の言葉をかけられた。なにより芽衣たちの言葉が嬉しかった。

「皆、翠鈴の力だろう。どうやら、そなたに心惹かれるのは、私だけではないようだ」

 肘をつきすぐ近くで翠鈴を見つめて劉弦が言う。
 翠鈴の頬が熱くなった。
 どうやら神である彼も人と同じように酒には酔うらしい。
 そうでなければ『心惹かれる』などという言葉を使うはずがない。

「私はなにも……」

「いや、他の妃たちがあのように助け合い、手を取り合う姿を私は今まで見たことがない。翠鈴がここへ来てからだろう」

「そんな……。皆さまがもともといい方たちなのです。ただそれだけで……。でも着飾ったのは恥ずかしかったです。あのような格好、私には似合わないのに……」

 芽衣たちは褒めてくれたが、自分のような田舎娘には、分不相応なんてものではなかった。大広間に戻るなどとんでもないと思ったが、一生懸命支度をしてくれた彼女たちの気持ちに応えたくてそうしたのだ。

「美しかった」

 劉弦が目を細めた。
 その言葉に翠鈴は目を見開いた。

「着飾ることは、神である私にとっては本来は無意味なことだ。外見の美しさでは私の心は動かない。だが今宵は着飾るそなたを誰よりも美しいと思った」

 やはり彼は酔っているのだと翠鈴は思う。あるいはよほど世継ぎができたことを嬉しく思っているか……。
 だって、美しいなど翠鈴にはあまりにもそぐわない言葉だ。それでも、嬉しいと思う気持ちを止めることができなかった。
 翠鈴だって今までは着飾ることに興味はなかった。ずっと生きることに必死だった自分には関係ないことだったから。
 それでもあの時は、自分が着飾ったのを彼がどう思うかが気になったのだ。その彼に褒めてもらえただけで、まるで雲の上をふわふわと漂っているような気分になる。

 この気持ちは……?

「さぁ今日はもう休め」

 劉弦が言って、布団の中で翠鈴を抱き寄せた。

「翠鈴を抱くと心地よい。私ももう休むことにしよう」

 すぐ近くから聞こえる彼の声音が、甘く甘く耳に響いた。同時に、翠鈴の胸が複雑な色に染まってゆく。
 尊敬と信頼、自分が彼に抱いてよい思いはそれだけなのに、それ以外の想いが確かに胸に存在するのを感じたからだ。

 ――それは神と人との間には、存在しないはずのもの。

 宿命という名の絆で結ばれていれば十分なはずの自分たちには、必要のないはずの想いだ。

 ――劉弦さまが愛おしい。

 頭の中でもうひとりの自分が呟く。それから目を背けるように、翠鈴はギュッと目を閉じた。
 夜は毎日、劉弦の寝所で過ごす翠鈴だが、朝食は決まって自分の部屋で取ることにしている。芽衣と蘭蘭と一緒に食事をするためである。
 宴から半月が経った日の朝、肉入り饅頭を手に翠鈴はため息をついた。
 隣に座る蘭蘭が心配そうに眉を寄せた。

「食欲がないようですね、翠鈴妃さま。昨日も饅頭をお食べになっていませんでした」

「そうなの。ちょっと饅頭は食べられそうにないわ」

 皿に戻して答えると、彼女は心得たとばかりに頷いて、饅頭の皿を果物の皿と交換した。

「この時期は、体調が悪くなって食べられるものが限られてくるものです。果物はどうですか?」

「……果物なら食べられそう」

 答えて、楊枝で桃を差し、口に運ぶ。冷たくて美味しかった。

「でも、果物だけじゃ、お腹の中のお世継ぎが大きくなれないんじゃないかしら」

 向かいに座る芽衣が、心配そうに眉を寄せる。蘭蘭が答えた。

「お腹に子がいるということに、翠鈴さまの身体が慣れるまでは仕方ないんですよ。ご心配には及びません、私の母は弟がお腹にいる時は、毎日瓜しか食べませんでしたけど、弟は今や町いちの暴れん坊に育ちましたから」

 その言葉に、芽衣は安心したように頷いた。
 彼女の後ろで給仕をしている洋洋が張り切った声を出した。

「ならば、翠鈴妃さまが食べられそうなものをお屋敷からどっさり届けていただきましょう」

 芽衣もそれに同意する。

「そうね、そうするわ。食べられそうなものがあったらおしえて、翠鈴」

 そんなふたりに翠鈴は慌てて首を横に振る。

「そういうわけにはいかないわ」

 屋敷とは芽衣の実家のことだ。芽衣が食べるものならともかく、翠鈴のために食べ物を送ってもらうわけにはいかない。仲良しだからといってそこまで頼るわけにはいかないだろう。
 でもそれを芽衣が一蹴した。

「あら、いいのよ翠鈴。お父さまは、翠鈴のためならなんでもするのよ。ねえ、洋洋?」

「はい、芽衣妃さま。翠鈴妃さまは芽衣妃さまの恩人にございます。私からも旦那さまによーくお伝えしてございますから、ご遠慮はなさらないでくださいまし」

「それにねえ、翠鈴」

 芽衣がふふふと笑った。

「実はお父さま、陛下から直接頼まれたらしいのよ。身寄りのない翠鈴の後ろ盾になってやってほしいって。本当に、陛下は翠鈴にぞっこんよね。んふふふふ」

 からかうように言って笑っている。

「ぞ、ぞっこんって……そういうわけじゃないと思うけど……」

 翠鈴は言って、楊枝を置く。そして複雑な気持ちになった。
 あの宴の夜から、このようなことを周囲からたびたび言われるようになったのだ。おそらく、劉弦が翠鈴を『愛おしく想う』と皆の前で口にしたからだ。
 あの言葉はあの場を収めるための方便で、彼の本心ではない。神である彼が翠鈴にそのような感情を抱くわけがないのだから。でもほかでもない彼自信が口にした言葉を否定するわけにもいかなくて、翠鈴は困ってしまう。

「陛下は龍神さまなんだから、人と同じように考えるべきじゃないと思うけど……」

「えー、そうかな? 陛下が翠鈴を寵愛してるのは確かでしょ? そうじゃなきゃ、皇帝がいち家臣に"頼む"なんて言う? ありえないよ。これでお世継ぎが無事に誕生して、翠鈴が皇后さまになったら、この国は安泰ね」

 芽衣がそう言って、にっこりと微笑む。
 その時。

 ——バシャン!

 入口の方で水音がする。同時に扉の下から大量の泥水が部屋へ流れ込んできた。
「やだ! なに⁉︎」

 芽衣が立ち上がる。

「翠鈴妃さまと芽衣妃さまは、長椅子の上に」

 洋洋が蘭蘭とともに、扉を開け水の正体を確かめる。外にいたのは華夢つきの女官だった。泥水が入っていたと思しき桶を手にしている。華夢本人はおらず、代わりに華夢の取り巻きの妃たちが笑みを浮かべて立っていた。

芸汎(ズーハン)妃さま、これはいったい……」

 その中のひとりに、洋洋が問いかける。
 張芸汎が口を開いた。

「なにって掃除をさせていたのよ。汚れてるみたいだから」

 彼女は言って、長椅子に避難している翠鈴と芽衣を見る。まるで汚れているのはそこだというかのようだった。まわりの妃がくすくすと笑った。

「この辺りは本来は貴妃しかいちゃいけないのに卑しい出自の者がうろうろするなんて嘆かわしいわ」

「だからこまめにお掃除しなきゃ」

 どうやら掃除という名目で、泥水を流し入れたようだ。

「す、翠鈴は、お世継ぎを身ごもっているのよ。足を滑らしでもしたらどうするおつもり? ただでは済まないんだから!」

 憤る芽衣を、芸汎が鼻で笑った。

「世継ぎを身ごもられたとしても出自は変えられないわ、芽衣妃さま。……本当なら華夢妃さまが身ごもられるべきだったのよ。翠鈴妃さまが身ごもられたのはただの間違い。さすがは卑しい出自の者。陛下をたぶらかす術をお持ちなのですから」

 たまりかねたように洋洋が口を挟んだ。

「芸汎妃さま、このようなことは今後お控えくださいませ。華夢妃さまの品位に関わりますよ」

 今回に限らず同様の嫌がらせは、ここのところ頻繁に起きていた。おそらくはこれも、宴での劉弦の発言が引き金だ。彼の翠鈴への寵愛を目の当たりにした貴妃たちは、あの手この手で翠鈴を攻撃している。
 とくに一番ひどいのがこの芸汎で、彼女の後ろには華夢の存在があることは、後宮内では周知の事実だった。
 それなのに彼女はわざとらしくとぼけてみせた。

「あら、この場にいらっしゃらない華夢妃さまは、預かり知らぬことよ。……それに私たちは女官に掃除をさせていただけのこと。その水が少し流れ込んだくらいで、罰を受けるというのかしら? さすが、ご寵愛の深いお妃さまですこと。怖いわね、行きましょう、皆さま」

 そう言って、彼女たちは去って行った。
 蘭蘭に床を拭くための掃除道具を取りに行かせて扉を閉め、洋洋がため息をついた。

「お妃さま方のなさりようは、ひどくなる一方ですね……。一度女官長さまに、ご相談しなくては」

「無駄よ、洋洋。梓萌は貴人には厳しいけど、貴妃には強く言えないわ。……それにしても、華夢妃さまって本当にしたたかな方。芸汎妃さまが、華夢妃さまの腰巾着なのはみんな知っているのに、ご自分は手を汚さないなんて」

 芽衣が軽蔑するように言う。
 翠鈴はため息をついた。

「宴での一件で、私と華夢妃さまは本当に対立してしまったのね」

「だけどそれは向こうから仕掛けたことじゃない、翠鈴。貴妃の方たちは、まだ陛下のご寵愛を諦めていないのよ。華夢妃さまだけじゃなく他の方たちも、翠鈴になにかあれば、次は自分の番だとでも思っているんじゃない? ……まぁ、あれはあれで可哀想だとも思うけれど」

 最後は少し声を落とす芽衣に、翠鈴は首を傾げた。

「可哀想?」

「うん、貴妃の方々はね、実家の期待を背負って後宮へ入っているの。なんとしても陛下のご寵愛を受けろってきつく言われているはずよ」

「実家の期待を……?」

「そう、私たち貴人は順位も低いし、もともと寵愛を受ける可能性なんてほとんどないって親もわかっているから、気楽なものなのよ。のんびり暮らせって言われている人もいるくらいだもの。……でも彼女たちは違う。有力家臣の娘として、陛下の寝所に召されるための教育を受けてきたの。寵愛を受けたのが華夢妃さまならともかく、順番が下の翠鈴だとたことで実家から責められている方もいるんじゃないかしら? お前はなにをしてたんだって」

 はじめて聞く話だが納得のいくものだった。一の妃の華夢が寵愛を受けるのは、ある意味当然なのだから、それで彼女たちが叱られることはない。でも百番目の妃の翠鈴が寵愛を受けたなら話は違う。怒りが翠鈴に向くのは当然だ。

「皆さま、華夢妃さまがご寵愛を受ける方がいいのね。だから華夢妃さまが寵愛を受けるよう、私に嫌がらせを」

「それだけじゃないわ。皆が彼女に取り入ろうとするのはもうひとつ理由があるの。皇后になられたお妃さまは、"ご指名"ができるようになるの。芸汎はそれを狙っているのよ」

 耳慣れない言葉に翠鈴は首を傾げる。

「ご指名?」

「皇后さまは、体調が優れない時なんかに、自分の代わりに皇帝の閨の相手をする妃を指名できるのよ。華夢妃の取り巻きたちは、それを期待してるのよ。翠鈴が来るまでは華夢妃さまが皇后さまになられると皆思っていたんだもの。一生懸命、取り入ろうとしていた。それなのに今さら翠鈴にお世継ぎを生まれて皇后になられたら困るののよ。だから躍起になって翠鈴に嫌がらせをしてるってわけ」

「ご指名……。そんな決まりごとがあるのね」

 そういう事情があるのなら、貴妃たちの行動は納得だ。芽衣が言う通り彼女たちを可哀想だと思うくらいだった。

「ま、でも、そんなくだらない争いも、翠鈴がお世継ぎを生んで皇后さまになったら解決だわ。……翠鈴、どうしたの?顔色が悪いわよ」

 芽衣が心配そうに翠鈴を覗き込んだ。

「医師さまを呼んでもらう?」

「大丈夫、蘭蘭の言う通り、懐妊中の体調不良よ。……でも少し横になろうかな。申し訳ないけど散歩には……」

「大丈夫、大丈夫、ゆっくりと寝てて。皆残念がるとは思うけれど、翠鈴が健やかなお世継ぎを産むためだもの。仕方がないわ」

 そう言って、芽衣は出て行った。
 食事をしていた居間の隣の寝室で翠鈴は寝台の上にゴロンと横になって目を閉じた。
 気が滅入ってしまいそうだった。重たいものがのしかかっているかのように、身体がだるい。
 自分が皇后になるなんて、恐れ多くてありえない話だった。翠鈴はまだ世継ぎどころか自分が子を生むという覚悟すらまだできていないのに。それなのに身体だけがどんどん変化していて、それが不安でたまらない。お腹の子に申し訳ないと思いつつ、翠鈴はまだその存在を認められてはいなかった。
 愛し合ってできた子ならば、こんなに不安に思わないのだろうか? 
 得体の知れないなにかに押しつぶされるように感じながら翠鈴は目を閉じた。
 国中の領地を治める部族長から献上された品々が玉座の間に並べられている。役人がそれらの目録を読み上げるのを玉座に座り劉弦は聞いている。
 どれも一般の民には手が届かない高級品ばかりだが、神である劉弦には必要ない。だからこれらはすべて金子に換えて、貧しい者たちの施しにするのが慣例だ。
 だから正直なところ献上品の内容には興味がない。ただ皇帝の役目として聞いているだけだった。だが役人が読み上げる目録の中の『茶』と言う言葉に、引っ掛かりを覚えて、劉弦は眉を上げた。

「茶……か」

 さまざまな植物を乾燥させて作る茶は、嗜好品というよりは薬の役割を果たすことがほとんどで、原料の種類や組み合わせによって人の体調を整える効果がある。
 そのことを思い出し、劉弦は役人に問いかけた。

「そなた、その茶は、胃の腑の調子を整えてすっきりさせると言ったな」

「はい。効果は抜群にございます」

「その……。それは身ごもっている者が飲んでもよいものか?」

 劉弦からの質問に、役人は不意を突かれたように瞬きをする。だが、すぐに笑顔になった。

「もちろんにございます! こちらの茶はいい効果こそあれ、悪い効果はございません。懐妊初期の胃の腑の不快感を取り除いてくれるので、産地では懐妊の祝いとしても喜ばれる品です。ぜひご寵姫さまに差し上げてくださいませ!」

 嬉しそうに声をあげる。劉弦はおもはゆい気持ちで、頷いた。
 今彼が言った通り、劉弦が献上品の茶に興味を持ったのは、翠鈴のことが頭に浮かんだからだ。
 彼女は、ここのところ体調が悪く食欲がないと聞いている。
 懐妊中、とくにはじめの頃には珍しくないことだと周りは言う。だがそれでも心配だった。

「ご寵姫さまはなんと申しましても世継ぎを身ごもられておられるのですから、陛下がご心配されるのも無理はありません」

 役人の言葉に劉弦は一応頷く。だが本当のところ、世継ぎが心配というよりは翠鈴自身を心配しているという方が正確だった。自分の子が彼女のお腹にできたということを、まだはっきりと実感できていないのが、正直なところだからだ。
 だかとにかく彼女を愛おしいと想うのは紛れもない事実なのだ。彼女の不調をなんとかしてやれるなら、なにをしても構わないという気分だった。

「ご寵姫さまのお好きな果物の砂糖漬けを浮かべてもよろしいですよ。陛下の深い愛情に、ご寵姫さまが元気になられることをお祈り申し上げます」

 役人が言って目録を閉じ、下がってく。
 その言葉をこそばゆく感じながら、劉弦は彼を見送った。
 泥水が流し込まれたその夜、翠鈴が劉弦の寝所へ行くと、普段なら執務から戻っていない彼が珍しく翠鈴を待っていた。
 彼は驚く翠鈴を寝台に座らせて、自分も隣に座り湯呑みを持たせる。

「これは?」

「茶だ。飲めそうなら飲んでみよ。胃の腑の調子がよくなり、すっきりするという話だ。今朝、東北地方から献上品として宮廷に届いた」

 確かそういう茶があったと翠鈴は思い出す。祖父から聞いたことがあるが本物を見るのははじめてだった。なにしろ民には高価すぎて手に入らないしろものだ。

「こんな貴重なものを……」

 もちろん翠鈴の体調を気遣ってくれてのことだろう。こんな高級品を口にするなど恐れ多い。断るべきだと思うが、すでに淹れてしまっているのを無駄にするわけにいかない。
 恐る恐る口に含むと、すっきりとした香りで飲みやすい。ひと口、ふた口飲んでいると、船の上で揺られているような不快感が少し楽になった。
 劉弦が翠鈴の頭を優しく撫でた。

「少しでも楽になればよいのだが」

 まるで心から翠鈴を思いやっているようにも思える優しい声音。その眼差しに、翠鈴の胸が甘く切なく締め付けされた。
 彼に大切にされるのは嬉しい。でもその反面、これが愛情からくるものではないことがつらくて苦しかった。
 彼にとって翠鈴は宿命の妃であり、大切な世継ぎを宿した唯一の妃。だからこそこうして優しくしてもらえるのだ。

 ——誰かを愛おしく想う気持ちは、こんなにも欲張りで卑しいものなのだ。

 彼の優しさには、感謝こそすれ寂しく思うなどあってはならないことなのに。
 自分を見つめる漆黒の瞳と身体に回された逞しい腕、高貴な甘い香り。すべては国の民のためにあり、自分だけのものではないことくらいわかっているはずなのに。

「……ありがとうございます。劉弦さまのお慈悲に感謝いたします」

 飲み終えた湯呑みを台に置き、翠鈴は彼を見つめる。どうしてか、彼のそばにいる間は少し身体が楽になる。でも心はじくじくと痛かった。
 もういっそ彼を愛おしく想う気持ちなどなくなってしまえばいいのに、と翠鈴は思う。
 尊敬と感謝の念だけを抱いていた頃に戻れればどんなにか楽だろう。けれど、どうしたらそうできるのか、見当もつかなかった。彼の目をまともに見られなくて俯く翠鈴に、劉芸が静かに口を開いた。

「翠鈴」

「はい」

「そなたを私の皇后にしようと思う。世継ぎが生まれたら、立后の儀を執り行う」

 突然の彼の宣言に、翠鈴は顔をあげて目を見開いた。

「私を皇后さまに……?」

「ああ、翠鈴は私の唯一無二の存在だ。皇后はそなた以外あり得ない。私には翠鈴が必要だ」

 真っ直ぐな言葉と、熱い視線に翠鈴の胸が震える。まるでそこに愛情があるかのようだった。
 でもすぐに、これは幻想だと自分自身に言い聞かせた。彼が自分を大切にするのは、翡翠の手を持つ唯一の存在だから。

「翠鈴、私の皇后になってくれ」

 低くて甘い彼の声音に、翠鈴の背中がぞくりとする。自分を見つめる真摯な眼差しに、都合のいい夢を見てしまいそうで怖かった。

「恐れ多くて……」

 それだけ言って目を伏せた。
 愛情という絆で結ばれていない夫婦の間の、皇后という役割は重たすぎて受け入れることができなかった。

「大丈夫だ。翠鈴は皇后に相応しい」

 彼の言葉も素直に受け止められなかった。

 ——それは私が、翡翠の手の使い手だから。彼は私自身を愛しているわけではない。

 宿命の妃という役割からも逃げ出したいくらいだった。
 彼に愛されているならば、こんな風に思わなかったのだろうか?
 どんなに重たい役割も耐えられる?
 目を伏せたまま答えられない翠鈴を、劉弦は急かさなかった。

「まだ時間はたっぷりある。ゆっくりと心の準備をすればいい。まずは身体を労り出産に備えよ」

「はい……少し気分が優れません。今宵はもう休んでもいいですか?」

「ああ、ゆっくりと休むがいい」

 翠鈴は、布団の中に潜り込み、布団を頭までかぶった。
 世継ぎを生んだ妃が立后する。それが国にとっては自然なことなのだろうか。……たとえそこに愛情がなかったとしても。
 ゆっくりと心の準備をすればいいと彼は言うが、ことは皇后に関することなのだ。いつまでもぐずぐずと考えているわけにいかないだろう。

 ——少なくとも子が生まれるまでに覚悟をしなくてはならない。
 ——覚悟なんて、いつまでたってもできそうにないのに。

 生まれるまでに覚悟しなくてはならないなら、子が生まれるのが怖かった。
 その恐怖から目を逸らすように翠鈴は目を閉じた。
 劉弦に愛されていないけれど、皇后にならなくてはならない。
 その事実は、翠鈴の心に重くのしかかった。
 彼の顔を見るのも、その優しさに触れるのもつらくて、体調が優れないことを理由に、夜寝所へ行くのも断り自室へ籠るようになった。体調は日に日に悪くなる一方だった。
 散歩にも行かない翠鈴を中庭へ誘ったのは芽衣だった。

「中庭ならすぐにお部屋へ戻れるし、安心でしょ。日の光を浴びないとおかしくなるとおしえてくれたのは、翠鈴よ」

 それもそうだと考えて、芽衣とともに何日かぶりに中庭へ行く。長椅子に腰掛けると途端に貴人の妃たちに囲まれた。皆一様に心配そうな表情だ。

「翠鈴妃さま……。お顔を見られなくて寂しかったです」

「お会いできて嬉しいですが、あまり体調はよくなさそうですね」

「蘭蘭、この香を翠鈴さまに炊いて差し上げて。懐妊中の不快感を抑えてくれるの。実家から取り寄せたのよ」

「皆さま、ありがとうございます」

 翠鈴は心から言う。皆の気遣いが嬉しかった。久しぶりに見知った顔に囲まれて少し気分が晴れていく。芽衣の言葉の通りにしてよかったと思う。
 一方で、彼女たちの向こうでは貴妃たちが嫌そうにこちらを見ている。中庭に彼女たちが来ているのを不満に思っているのだろう。
「翠鈴妃さま、そこは華夢さまがいつもお座りになっておられる場所ですよ」

 きつい表情で、咎めるように言ったのは、張芸汎だ。
 すかさず芽衣が答えた。

「華夢妃さまは今お部屋にいらっしゃるじゃないですか。ですから……」

「いついらっしゃってもお座りいただけるよう空けておくのが、後宮の妃の務めにございます」

 芸汎の言葉に他の貴妃たちも頷いている。

「おのきくださいませ」

 詰め寄る芸汎から翠鈴を庇うように芽衣が立ち上がった。

「そのような決まりはありませんわ。それなのに、そのようななさりよう……。妃同士仲良くするのをお望みだと陛下はおっしゃったのを芸汎妃さまもお聞きになられていたでしょう?」

 毅然として言い返す芽衣に、貴人たちがそうだというように頷いた。
 芸汎が、弾かれたように笑い出した。

「まぁ、おかしい! お優しい陛下の建前を本気になさるなんて……!」

 扇子を口元を隠して、笑い続けている。
 貴妃たちもくすくすと笑い出した。

「これだから教養のない方は」

「少し考えたらわかるのにね」

 こちらに聞こえるように嫌味を言い合っている。

「華夢妃さまは、皇后さまになられる方なのですよ? 私たちと同じに考えるべきではありません。そのくらいわからないのですか?」

 勝ち誇ったように芸汎が言う。それはそうかもしれないが、そのような言いぐさはないと、翠鈴は思う。でも言い返す気力が湧かなかった。

「将来の皇后さまに逆らうなんて、あなたたちいい度胸ね!」

 芸汎は、高飛車に言ってぐるりと貴人たちを見回す。貴人たちは気まずそうに顔を見合わせた。でもその中のひとりが、ぽつりと呟いた。

「……そんなのわからないわ。翠鈴妃さまが皇后さまになられる可能性もあるじゃない」

 その言葉に、貴人たちがハッとしたような表情になり、同調した。

「そうよ。翠鈴妃さまは、お世継ぎをお生みになられるのよ。それにお人柄もお優しいし……私は翠鈴妃さまが、皇后さまになられる方がいい」

「私も、皇后さまは翠鈴妃さまがいいってお父さまに申し訳あげるわ」

「私も!」

「私もそうする」

 そう言って手を取り合い盛り上がっている。彼女たちの気持ちはありがたいが、翠鈴の胸は重くなった。
 どう考えても買いかぶりすぎだ。翠鈴には、皇后に相応しい器量も教養もない。ただの田舎娘だというのに。
 芸汎が鼻を鳴らした。

「馬鹿馬鹿しい。あなたたちの父親にいったいなんの権限があるというの? 華夢妃さまのお父さまは宰相さまなのよ。宰相さまは、陛下をお支えする重要な方、あなたたちの父親とは立場が違うんだから。教養のない方が皇后さまになるなんて、それこそ国はお先真っ暗よ!」

 ひどい言葉だがその通りだと翠鈴は思う。国の中枢を担う家臣の家柄に生まれて高い教育を受けてきた彼女とは雲泥の差だ。

「それに華夢妃さまは、翡翠の手の持ち主なのよ。宿命の妃なんだから」

 これで決まりだというように芸汎は言うが、芽衣が反論した。

「翠鈴だって不調を見抜く目があるわ。私はそれで病にならずに済んだんですもの」

「そうよ! 蘭蘭だってびっくりするくらい元気になったじゃない。華夢妃さまより翠鈴妃さまの方がよっぽど……」

「皆さま」

 不毛なやり取りを遮る声がして、皆そちらへ注目する。華夢妃だった。

「騒ぐのはおやめなさい。妃として振る舞いではありませんよ」

 そう言って、皆の中心へやって来る。突然の彼女の登場に、貴人も貴妃も皆、黙り込んだ。

「どなたが皇后さまになられるかは、私たちが決めることではありません」

 言い切ってぐるりと皆を見回した。

「お世継ぎをお生みになられる方を皇后さまにと考えるのは当然です。皆さまのお気持ちはわかりますわ。……なれど」

 華夢は言葉を切り、翠鈴を見た。

「翠鈴妃さまが来られてからこのようなことばかりにございます。以前は保たれていた後宮の秩序がここのところ乱れっぱなし。しかもいつもその原因は翠鈴妃さま」

 手にしていた扇をパチンと閉じた。

「皇后さまになられるというならばもう少しご自身の振る舞い方をご自覚くださまし。皇后さまはこの後宮を治める方なのでございますよ」

 鋭く言って踵を返す。透ける素材の長い袖をヒラヒラさせて去って行った。慌てて芸汎があとに続いた。
 その後ろ姿を見つめながら、翠鈴は暗澹たる思いになっていた。
 皇后になりたいなどとは思わない。そのための教養も自覚もないのだから。それでも、彼女の言葉は翠鈴の胸に突き刺さり、じくじくと痛んだ。
 華夢が去ったあとは、その場は解散になる。翠鈴も芽衣と別れて自室に戻ることにした。
 途中、一の妃の部屋の前を通りかかると、開きっぱなしの扉の向こうから、華夢の苛立った声が聞こえた。

「私の名前をあんな風に出さないで。万が一にでも陛下のお耳に入ったらどうするのよ」

「も、申し訳ありません。ですが翠鈴妃さまに、あの場所から翠鈴妃さまにおのきいただくようにせよとおっしゃられたのは、華夢妃さまで……」

 答える芸汎の声は、さっきとは打って変わっておどおどしている。それに華夢が激昂する。

「だから、もう少しうまくやりなさいって言ってるの! あんなやり方、私の品位を貶めるやり方だわ。芸汎、あなたがこんなに無能だとは思わなかった。できないならいいわ、他の者に頼むから。もちろんその場合は、私が皇后になっても指名の話はなしよ。そしたらあなたなんて一生陛下に寵愛してもらえないわ。その見た目じゃね!」

 よほど苛ついているのだろう。扉を閉めるのも忘れて芸汎を罵っている。
 芸汎が慌てて声をあげた。

「華夢妃さま……! そんなことをおっしゃらないでください。もっとちゃんとやりますから」

「そう? ならもう少しだけ、機会をあげる。でももう今日みたいな手ぬるいのは見たくないわ」

「手ぬるいって……。今よりももっと……にごさいますか?」

「そうよ、あの女が自らここを出ていきたくなるくらい、追い詰めるのよ。わかったわね?」

 華夢の言葉を聞いて、翠鈴と蘭蘭はそっとその場を後にした。
 自室へ戻りしっかり扉を閉めてから、椅子に座り暗澹たる思いでため息をついた。

「どうしてあんなことを言われてまで、華夢妃さまのそばにいるのかしら……」

 人間なのだから相手の好き嫌いは仕方がない。翠鈴よりも華夢が皇后に相応しいのもその通りだ。でもあそこまで言われて、それでも彼女に従うのが理解できなかった。

「指名していただくためだからって……」

「芸汎妃さまは、実家からの期待が他の方より大きいのです」

 まるでなにかを知っているかのような口ぶりの蘭蘭に、翠鈴は首を傾げた。

「蘭蘭、あなた芸汎妃さまを個人的に知ってるの?」

 蘭蘭が少し気まずそうに、首を横に振った。

「いえ、そうではなくて……以前、芸汎妃さまのご実家からのお手紙を拾ったことがあるんです。も、もちろん、中を読むつもりはなかったんですが、どなたのものか確認するために仕方なく……。そしたら翠鈴妃さまの名前が書いてあったのでつい……」

「私の名前が?」

「はい。芸汎妃さまのお父上さまは、翠鈴妃さまがご寵愛を受けられたことを怒っていらっしゃいました。お前は役立たずだ、器量の悪い娘を持って自分は不幸だと、それはそれはひどい言葉で」

 器量が悪いだなんて、父親が娘に使う言葉ではないと翠鈴は思う。しかも実家を離れて後宮でひとり暮らしている娘に……。

「自力では寵愛を受ける可能性はないんだから、華夢妃さまに取り入って、指名してもらうようにと書いてありました。失敗したら、お前なんていらない、張家の恥晒しだ、とまで……娘にあんな風に言う父親がいるんですね」

 蘭蘭が憂うつな表情でため息をついた。
 温かい家族で育った、家族思いの彼女からしたら考えられないことなのだろう。
 翠鈴にとっても同じだった。だけど父親からそんな風に言われているのなら、躍起になって翠鈴を追い出そうとするのも頷ける。
 華夢に許しを乞うていた芸汎妃の悲痛な声が耳から離れず、胸が痛かった。彼女は、ただの意地悪で嫌がらせをしているわけではない……。
 貴人の妃たちだって、打ち解けてみれば普通の心優しい娘たちだった。おそらくは貴妃たちも……。
 繊細な作りの赤い灯籠がいくつも下がる天井を翠鈴は見上げた。ここは、美しく豪華な造りの大きな鳥籠。本当なら自由なはずの鳥たちを閉じ込めているのだ。
 自分と、彼女たちの行先に思いを馳せて、翠鈴はため息をついた。