七色に光る泉の中で立ち尽くす翠鈴を、劉弦は玉座から見下ろしている。場は騒然としていた。
当然だ。
たった一度の寵愛で妃が懐妊したのだから。しかも彼女は、呼び寄せる価値もないと捨て置かれていた百の妃。黄福律が、忌々しげに奥歯を噛み締めている。
劉弦も驚きはした。
だが一方でどこか納得している自分もいる。
自分と人間との間に子ができにくいとされているのは、人の心の中にある邪な部分を神の子が拒否するからだ。実際、寝所を訪れた九十九人の妃たちは、どのように純朴そうな娘でも野心が垣間見え、嫌悪感を覚えた。
だが彼女には、そのような部分を微塵も感じなかったのだ。彼女の中にあるのは心地のよい澄んだ空気だけだった。
玉座に肘をつき、事態を見守っていた劉弦は、翠鈴の様子に眉を寄せる。
顔色がすこぶる悪かった。そもそもここへ来た時から、いいとは言えなかったが今は真っ青になっている。おそらくこのような場に、慣れていないせいだろう。
周囲は、懐妊という事実に本人そっちのけで大騒ぎだ。彼女の様子に誰ひとり気がついていない。
劉弦は立ち上がり玉座を下りる。
「陛下?」
すぐそばに控えていた従者数人が劉弦に気がついて問いかけるが、かまわずに急ぎ泉の中の翠鈴のもとへ向かう。
手が届くところまで来たその時、彼女は糸が切れたように体勢を崩した。水面に倒れ込む寸前で抱き止め、そのまま抱き上げると、ようやく皆が翠鈴の様子に気がついた。
皇帝が玉座を降り妃を抱いているという状況に再びどよめきが起こる。妃たちから悲鳴のような声があがる中、劉弦は彼女の様子を確認する。呼吸は乱れておらず、ただ気を失っているだけのようだった。
「こ、皇帝陛下……。百のお妃さまは私どもでお運びいたしますので、どうか」
集まってきた従者たちが翠鈴に向かって手を伸ばす。それに、劉弦は言いしれぬ不快感を抱いた。腕の中の清らかな存在を、汚れた手で触れるなと怒りを覚えるくらいだった。
「無用だ。下がっていよ」
眉を寄せて一喝するとその場が静まり返った。突然の劉弦の行動に皆目を剥いている。
後宮が開かれてから今まで一貫して妃を拒み続けてきた劉弦が、彼女を抱いているという光景が信じられないのだろう。
劉弦とて、まったく予想していなかった展開だ。それでもこうするべきだと強く思う。自分を見つめる一同を、ぐるりと見渡し口を開く。
「彼女は私の妃。私の子を宿した大切な身体だ。お前たちが触れることは許さない。……このまま私の寝所へ運ぶ」
泉を出て皆の前を横切り建物へ向かう。皇帝の意向に逆らえる者はいなかった。翠鈴の身の回りの世話をする女官だけがついてくる。長い廊下を歩きながら、劉弦は彼女たちに指示を飛ばす。
「水と着替えを準備してくれ。それから身体を温めるために私の寝所に火鉢を増やせ。温石も持ってきてくれ」
「かしこまりました」
答えて女官が下がっていった。
静かになった廊下で立ち止まり、劉弦は腕の中の翠鈴を見下ろした。
閉じたまつ毛と白い頬、腕に流れる黒い髪は柔らかく艶やかだった。眠る彼女を吸い寄せられるように見つめながら、劉弦は奇妙な感覚に陥っていた。
たくさんの家臣と妃が詰めかけた大寺院は欲望と嫉妬が入り混じる淀んだ空気に満ちていた。朝には治った頭の痛みがまだぶり返しているのを感じていた。それが今、彼女を抱いているだけで、痛みがすっと引いていく。それどころか妙な心地よさすら感じるくらいだった。
おそらくこれは、彼女が翡翠の手の使い手であり劉弦の宿命の妃だからだろう。
それについては納得だ。
それよりも不可解なのは、昨夜のような荒れ狂う衝動はもうないというのに、こうやってずっと腕に抱いていたいと思うことだった。この気持ちがどこからくるものなのか、劉弦は考えを巡らせる。
だが、よくわからなかった。
「不思議な娘だ」
呟いて、また廊下を歩きだした。
当然だ。
たった一度の寵愛で妃が懐妊したのだから。しかも彼女は、呼び寄せる価値もないと捨て置かれていた百の妃。黄福律が、忌々しげに奥歯を噛み締めている。
劉弦も驚きはした。
だが一方でどこか納得している自分もいる。
自分と人間との間に子ができにくいとされているのは、人の心の中にある邪な部分を神の子が拒否するからだ。実際、寝所を訪れた九十九人の妃たちは、どのように純朴そうな娘でも野心が垣間見え、嫌悪感を覚えた。
だが彼女には、そのような部分を微塵も感じなかったのだ。彼女の中にあるのは心地のよい澄んだ空気だけだった。
玉座に肘をつき、事態を見守っていた劉弦は、翠鈴の様子に眉を寄せる。
顔色がすこぶる悪かった。そもそもここへ来た時から、いいとは言えなかったが今は真っ青になっている。おそらくこのような場に、慣れていないせいだろう。
周囲は、懐妊という事実に本人そっちのけで大騒ぎだ。彼女の様子に誰ひとり気がついていない。
劉弦は立ち上がり玉座を下りる。
「陛下?」
すぐそばに控えていた従者数人が劉弦に気がついて問いかけるが、かまわずに急ぎ泉の中の翠鈴のもとへ向かう。
手が届くところまで来たその時、彼女は糸が切れたように体勢を崩した。水面に倒れ込む寸前で抱き止め、そのまま抱き上げると、ようやく皆が翠鈴の様子に気がついた。
皇帝が玉座を降り妃を抱いているという状況に再びどよめきが起こる。妃たちから悲鳴のような声があがる中、劉弦は彼女の様子を確認する。呼吸は乱れておらず、ただ気を失っているだけのようだった。
「こ、皇帝陛下……。百のお妃さまは私どもでお運びいたしますので、どうか」
集まってきた従者たちが翠鈴に向かって手を伸ばす。それに、劉弦は言いしれぬ不快感を抱いた。腕の中の清らかな存在を、汚れた手で触れるなと怒りを覚えるくらいだった。
「無用だ。下がっていよ」
眉を寄せて一喝するとその場が静まり返った。突然の劉弦の行動に皆目を剥いている。
後宮が開かれてから今まで一貫して妃を拒み続けてきた劉弦が、彼女を抱いているという光景が信じられないのだろう。
劉弦とて、まったく予想していなかった展開だ。それでもこうするべきだと強く思う。自分を見つめる一同を、ぐるりと見渡し口を開く。
「彼女は私の妃。私の子を宿した大切な身体だ。お前たちが触れることは許さない。……このまま私の寝所へ運ぶ」
泉を出て皆の前を横切り建物へ向かう。皇帝の意向に逆らえる者はいなかった。翠鈴の身の回りの世話をする女官だけがついてくる。長い廊下を歩きながら、劉弦は彼女たちに指示を飛ばす。
「水と着替えを準備してくれ。それから身体を温めるために私の寝所に火鉢を増やせ。温石も持ってきてくれ」
「かしこまりました」
答えて女官が下がっていった。
静かになった廊下で立ち止まり、劉弦は腕の中の翠鈴を見下ろした。
閉じたまつ毛と白い頬、腕に流れる黒い髪は柔らかく艶やかだった。眠る彼女を吸い寄せられるように見つめながら、劉弦は奇妙な感覚に陥っていた。
たくさんの家臣と妃が詰めかけた大寺院は欲望と嫉妬が入り混じる淀んだ空気に満ちていた。朝には治った頭の痛みがまだぶり返しているのを感じていた。それが今、彼女を抱いているだけで、痛みがすっと引いていく。それどころか妙な心地よさすら感じるくらいだった。
おそらくこれは、彼女が翡翠の手の使い手であり劉弦の宿命の妃だからだろう。
それについては納得だ。
それよりも不可解なのは、昨夜のような荒れ狂う衝動はもうないというのに、こうやってずっと腕に抱いていたいと思うことだった。この気持ちがどこからくるものなのか、劉弦は考えを巡らせる。
だが、よくわからなかった。
「不思議な娘だ」
呟いて、また廊下を歩きだした。