俺はちょっと寂しいと思ったけどね、とユーイチは付け足して、続きを話す。
「なのにさ、空へ旅立ったままもう帰ってこねえんだよ。初めは一年くらいでまた会える予定だったのに、そう信じて疑わなかったのに、この太平洋に飛行機ごと飲まれて死んだ。遺体すらも発見されずに」
この話は本当なのだろうか。
と、まだしぶとく疑うわたしは、相当な頑固者。けれどそれほどに、信じ難かったんだ。
ユーイチのお父さんがもう、この世にいないなんて。
今にも泣いてしまいそうなのに、決して泣かまいと歯を食いしばるユーイチの横顔は、わたしよりもうんと強い人間に見えた。
わたしだったらこんな場面、泣き崩れてしまいそうなのに。
ユーイチから目を外し、わたしも彼の見つめる先に視線を送る。
世界で一番広い海、ここは太平洋。
一直線に長く伸びる水平線の向こう側にあるのは、広大な大地を有するアメリカだ。
ユーイチのお父さんは、この広い海を越えることができなかったらしい。
旅客機に搭乗さえしてしまえば、ほとんどの人が無事に行くことができるのに、僅かなパーセンテージに飲み込まれて、亡くなったらしい。
確率なんて問題じゃないんだ。
ユーイチの声が、木霊する。
明日の俺等が生きてるか死んでるかなんて、それは誰にもわからない。俺等は『今』しか、生きることができないんだよ。
誰も知り得ない未来に恐れる自分は、もしかしたら大馬鹿者なのだろうか。
確率がたったの1でも0、1でも、なにか起きる時は起きるし、起こらない時は起こらない。
ユーイチが発言した言葉の数々を思い出しつつ眺めていた飛行機は、どんどん空高くへと上昇していき、そのうち見えなくなった。
青一色の空から目線を下に這わせれば、航空機事故などどこ吹く風で、きらきらと輝く水面が目に入る。
実感は、湧かない。けれど強かに悲しみを堪えるユーイチのさまに、信じないわけにはいかなかった。
この水面下のどこかに、ユーイチのお父さんは眠っているんだって。
小さい頃から優しく接してくれて、遠方の病院までお見舞いにだって来てくれて。
いつだって本当の娘のようにわたしを可愛がってくれた彼を思い出せば、一気に切なくなってしまう。
彼とのメモリーを回顧し、悲嘆に暮れていると、ふいに誰かの声がした。
和子ちゃん。ぼくの代わりにアメリカへ行って、夢を叶えておいで。
その声は、空か海底からかはわからぬが、確とわたしの耳に届く。
「ユーイチの、お父さん……?」
どこか懐かしみのあるその声は、ユーイチのお父さんのものとよく似ていた。
八月になったらしばらく仕事で海外に行かなきゃいけないから、今のうちにいっぱい和子ちゃんと会っておこうと思って。
と、ユーイチのお父さんは十年前、入院しているわたしにそう言った。
つまり彼の命日は、八月のどこかってことになるけれど、それはいつの日だったろうか。
ちーちゃんと、ユーイチのお父さん。
親しいふたりに会えなくなった日は、深く心に刻まれているはずなのに、わたしはそのどちらの日付けも、思い出せずにいる。
ちーちゃんとは、一体どうして会えなくなったんだっけ。
わたしはなぜ十年前、ちーちゃんに直接誕生日プレゼントを渡せなかったんだっけ。
「そろそろ帰るか」
しばらくして。
ぐるるるる、と鳴いたユーイチの腹の虫をきっかけに、わたしたちは海から足を引き上げることにした。
パンツポケットから取り出したスマホで時刻を確認してみれば、もうすぐ四時になるところ。
昼からコンビニおにぎりひとつしか食べていないわけだから、そりゃあお腹も減るわけだ。
「遊泳区域の方まで行けば、キッチンカーとか出てないかな」
海に背を向け、自転車が停めてある路肩の方へずんずんと歩んで行くユーイチの半袖を摘まんでそう言うと、「へ?」と上擦った声が返ってくる。
「もしかしてお前、夕飯こっちで食ってくつもり?」
「そうしようと思うけど、ユーイチは無理?」
「んー。帰りも二時間はかかるから、もしこっちで夕飯食ったとしたら、家に着くのはかなり遅くなんぞ?」
「なるべく遅く帰りたいの。だって帰ったら、お父さんたちにあの話をされるから……」
あの話。
たったそれだけで、ユーイチには伝わるその中身。
俯きがちに、上目で頼むわたしに、う〜んと地響きのように唸ったユーイチ。
早く帰りたそうな彼を目に、わたしのせいで朝も早くに起こしてしまったし、疲弊しているに決まっているよね、と思ったけれど。
「確率なんかあってないようなもんだっつってんのに、まだアメリカ行く決心、つかない?」
彼が唸った理由は、どうやらこれだったようだ。
ユーイチが教えてくれた色々が、わたしの心を揺り動かした。と、それは事実。
だけどもう少しだけ、考える時間もほしかった。
「もうちょっとだけ、悩みたい……まだわたし、アメリカ行きを勧める親に『うん』って快く頷けない……」
だから素直にそう言うと、ユーイチの大きな手のひらが、わたしの頭に乗せられた。
「そうだよな、急かしてごめん。お前はお前のペースで、ゆっくり悩め」
その時トクンと胸の中から聞こえたのは、昔、わたしがユーイチのことを好きだった時によく耳にしていた音と同じ音だった。
「うっわ、けっこうボリューミー……」
予想通り、遊泳区域付近の駐車場には、数台のキッチンカーが出店していた。
ユーイチが即決したハンバーガー屋さんで、わたしも同じものをオーダーをしたけれど、スタッフから渡されたハンバーガーの大きさを見て、唖然とする。
「なにこれ、どうやって食べんの……」
「んなもんかぶりつくしかねえだろ。こう、がぶっと」
言って、手本のようにひとくち頬張るユーイチ。もぐもぐと動かす口のまわりに、テリヤキソースが豪快についていて笑えた。
「食べ方へたー」
「う、うるせえっ。こんなん誰が食ったってこーなるんだよっ」
「駐車場の真ん中じゃあれだから、とりあえずどっかに座ろうよ」
「そうだな。やっぱ風がないと外はあちいから、海行こ、海海っ」
その言葉でふたり、砂浜へ向かう。その際多くの人とすれ違った。
「あれ、もうみんな帰るんだ」
次から次へと海から上がって来る人たちを目に、もしかしたらここの区域は遊泳時間が設けられていて、その終わりの時間が今なのかもしれないとふと思う。
だったら今からあっちに行っちゃまずいのかな。係の人に注意されちゃうかも。
このまま足を進めていいのかわからなくなったわたしは立ち止まり、ユーイチを呼び止める。
「ねえ、ユーイチ待って」
「うん?」
するとユーイチも、わたしの二、三歩先で足を止めた。
彼の背景に見えるのは、なおも惜しみなく輝く海。
「もしかしたらもう、時間的に海の方には行っちゃいけないのかも」
「えー、まじかよ。じゃあどこで食うの」
「んー」
「駐車場?」
「それはやだなあ」
海に入水さえしなければ、砂浜に腰を下ろすくらいならいいのだろうか。
と、考えている間に、双方のハンバーガーのテリヤキソースが包装紙の下方に溜まって染みていく。
「わ、やっべえ」
それに気付き慌てたユーイチが、急ピッチで食べ始めた。
あれよあれよという間に完食した彼は、くしゃっと丸めた包装紙をおにぎりのように固めて言う。
「和子のもソース垂れてきてんぞ。とりあえず食っちゃわないと、服につく」
「あ、うんっ」
もはや選択の余地はなし。
たくさんの車両に囲まれたこんな場所で摂る夕飯は好ましくないが、足元の地面にポタポタと落ちる茶色いソースに焦ったわたしも、速やかにハンバーガーを口に運んだ。
「ん?和子、どうした?」
しかし、ユーイチのすぐ後ろ。そこに見えた人影に、わたしの手は包みごとそれを落としてしまった。
「あ!ハンバーガー!」
突として背後から発された大声に、ユーイチがびくんと肩を上げて振り返る。
しかし後ろへとひねった彼の首がすぐに戻されたのは、その声の持ち主が彼を追い越し、わたしの方へと駆けてきたから。
「あーあ!おちちゃった!もったいなーい!」
そう言って、わたしの足元でしゃがみ込んだその子は、三歳くらいの女の子。
ひまわり柄の黄色いワンピースで身を包み、濡れた髪の毛を後ろでひとまとめに結っているその子は、わたしの記憶にある顔をしていた。
「これ、もうたべれないのー?」
人差し指でつんつんとバンズを突ついて、わたしのことを見上げる彼女。
実際に見る彼女は、写真で見る彼女よりもテメさんとそっくりだ。
「あ、あなた…れ……」
「うん?」
「あなた……れい──」
玲ちゃんでしょ。
そう呼びかけてしまいそうになった寸前で、その名を叫ぶ声が耳を劈く。
「こら、玲!なにやってるのよもう!勝手に走って行かないの!」
声がした方へ視線を投げると、ユーイチのすぐ傍を抜けてこちらへとやって来るひとりの女性がいた。
あ、知ってる。この顔も。
テメさんのボストンバッグの中から落ちた、ひとひらの写真。そこに写っていたテメさん以外のふたりの登場に、わたしの目は見開かれた。
うそでしょ……?まさかこんなところで、テメさんの家族と会うなんてっ……
ここは夏真っ只中の、海水浴場。都心からも地方からも、たくさんの人々が訪れる場所。だから誰に出くわしたって、不思議ではないのだけれど。
だけど、そんな……偶然すぎるよ……
邂逅遭遇とは、まさにこれのことだと思った。
偶然を超えた運命のいたずらに、わたしは口元に手をあてがった。
「え、玲?玲ってまさか、テメさんが今朝言ってたあの玲……?」
眉をひそめてこちらへと走って来た女性の後ろでは、ひとりごとを呟きながら、戸惑うユーイチの姿があった。
わたしと真正面で向き合っている今のユーイチの立ち位置からは、玲ちゃんの顔もテメさんの元奥さんの顔も視認できないだろうけれど、彼はわたしの反応と玲という名前で、ぴんときた様子だった。
一秒、二秒も経てば、玲ちゃんの元まで辿り着いた女性。
バンズを突ついていた玲ちゃんの手をパシンと払い、「落ちてるものを触っちゃだめ!」と怒鳴っていた。
「だってママあ、おねえちゃんのハンバーガーがっ」
「それはこのお姉ちゃんがどうにかするから、玲は関係ないのっ」
「……はあい」
もう、と荒く息を吐いた母親にその手を引っ張られて、余儀なく立ち上がる玲ちゃん。
わたしとは目も合わすこともなく、その場を立ち去ろうとした母親の横でわたしを見上げた彼女は、「ばいばい」ともう一方の手を振ってきた。
「おねえちゃん、またね」
「あ、えと、」
「ハンバーガー、おだいじに」
ハンバーガーおだいじに。
なんて可愛らしい話し言葉だろうと思った。そしてそれと同時に、なんて優しい子なのかと。
踵を返した玲ちゃんとその母親は、駐車場内に停めてあったグリーン色の軽自動車の扉を開け、助手席へ座る人物へ声をかける。
「お待たせ、お父さん。玲が急に走ってっちゃうから焦った〜」
「だってねおじいちゃん、ハンバーガーがね」
「もうハンバーガーの話はいいってば」
「えー、けちい」
車の扉が閉まるまで、聞こえた彼女たちの会話。
走り出したグリーン色を目で追って惚けていると、いつの間にやらユーイチが、わたしのすぐ隣に立っていた。
「今のって、この前写真で見たテメさんの元嫁と娘だよな?」
「うん、そうだと思う」
「まじか……」
「ね。まじか、だよね……」
言いようのない感情が、お腹の底から湧き上がって、鳩尾あたりが疼き出す。
テメさんは、元奥さんの家族にうそをつかれていたのだろうか。
元奥さんの実家に足を運んだ際、玲ちゃんはいなかったと言っていた彼だけれど、それはたまたま不在だっただけなのか、それとも存在を隠されてしまったのか。
浮かない顔で膝を曲げたユーイチが、わたしが落としたハンバーガーを拾ってくれた。
「これはもう、食えそうもないな。なにか他のもの、買う?」
その質問には、ふるふると首を横へ振った。
「ううん、いらない」
「でもそれじゃあ、腹空いたまんまじゃん」
「なんかもう、お腹空いてない。食べる気しない」
眉を寄せたユーイチに「ごめん」と言うと、「なんのごめんだよ」と呟くようにツッコまれた。
軽自動車のナンバープレートには、『千葉』と書かれてあった。でもだからと言って、彼女たちがこの界隈に住んでいるのかとか、この海岸によく来るのかどうかはわからない。
テメさんがあれだけ恋しがっていた玲ちゃんを目の前にしたのにもかかわらず、なにもできなかった自分のことを、わたしは不甲斐なく思った。
項垂れれば、テリヤキソースの跡が目に入る。玲ちゃんが「おだいじに」と言ってくれたハンバーガーを、わたしは無駄にしてしまった。