寝不足の印を携え、テンションを上げた兄とともに部屋を出る。電車で数駅の、引っ越してから一度も降りたことが無い駅で降りる。人の多さに酔いそうだった。

「東京って人多いな……」
「それ、一年以上住んでる奴の感想じゃないだろ。オレの方が慣れてねぇ?」

「多分。買い物は地元駅だけで済ませてる」
「え! 服は!」

 驚愕を貼り付かせて問われる。若干顔を引き攣らせて「今あるので数は足りてるから買ってない」と答えれば、大げさにため息を吐かれた。

「服ってそういうんじゃなくて、店で良いの見つけたら買うとかさ」
「う、うーん……そういうもんか」
「女子じゃなくても男にも流行り廃れがあんだよ。とにかく行くぞ」

 実家に住んでいる兄に街を案内されるおかしな光景を作り出してしまったが、反対に修が案内しようとしたら買い物一つ出来ずに一日が終わるだけだ。

 駅前の交差点に溢れる人で酔い、交差点を渡り終えることで体力の大部分を使う。都会の人間は毎日大変な苦行と戦っているのか、大学か家の最寄り駅にある店しか使ったことがない修にとって、新鮮であり恐怖を覚える驚きの光景だった。

 兄の後ろに隠れて坂を歩き、そびえるビル群にまた震える。この中に一人放り込まれたら二度と出ることが叶わない予感しかなく、迷子にならないよう服の裾をつまんでみたら頭をゲンコツで思い切り殴られた。

 いい大人がみっともないと叱られたが、そういえばそうかと思い出す。どうしても兄に会うと、自分は弟で、幼い頃から一緒の相手ともなれば、まだ守られるべき存在に錯覚してしまう。

 急に現実に戻されて背筋を伸ばす。きっと今の自分は情けない顔を晒しているに違いない。地元でも恥ずかしいのに、ここは都会だ。笑われてもおかしくない。笑われないために来たはずだったが、これでは元も子もなく、向こうからの強引な提案でも付き合ってくれている兄にも申し訳なくなった。

「ごめん」
「何謝ってんだ、今更。ほら、格好良くなるんだろ」
「お、おお」

 小学生の夏休み、自由研究に使うカブト虫が取れなくて泣いていた。助けを呼ばずとも、何処からか颯爽と現れた兄が簡単にカブト虫を素手で掴み修に渡した。何歳になっても、兄弟の形は変わらないのだと痛烈に納得させられる。考えたら、兄も桃子と同じ二十五歳であった。

「兄ちゃんさ、仕事って大変? 仕事帰りに何があったら癒される?」

 マネキンの如く次々に着替えさせられながら、やけに楽しそうな兄に問う。視線を上に下にくるくる回して、時間をかけた割に大した返事は返ってこなかった。

「ビール?」
「そっか……兄ちゃんとじゃ全然違うもんな」

「んだと? 社会人舐めてんのか! バイトと訳が違うんだよ、気ィ遣うんだよ疲れるんだよ。繁忙期なんか家が寝るだけの場所になってんだぞ」
「ッが、学生風情がすみませんでした」

 本気で殴られそうな勢いに圧倒され謝り倒してやっと許してもらい、兄が「学生っぽさを残した落ち着いたファッション」と感想を言ってくれた一着を購入する。金額を確認して焦るが、当然に買ってくれる兄に社会人との壁を感じた。

 体にフィットする細身のTシャツが採用されたのだが、線に沿って布が吸い付いていると内面を明け透けに晒されている気分になる。兄に言わせてしまえば、ぶかぶかな恰好をしている時点で「自分に自信が無い」表れだそうだ。自分には分からない。だが、長めの前髪も同じことが言える気がした。

 駅前まで戻る。ここで昼から遊ぶらしい兄とはお別れで、一人で電車に乗って帰ることになる。

「アパートまで迷子にならずに帰れるか?」
「兄ちゃん、どこまで馬鹿にしてんだよ」
「いやぁ、全部本気だ」

 意地の悪い笑みが全て本気だと物語り、やはり敵わない相手だと痛感する。

「次会う時は彼女の一人や二人紹介しろ」
「一人で十分だし、そのまま兄ちゃんに返すよ」
「弟のクセに生意気だぞ。そうだ、この際髪の毛も整えれば?」
「うーん、まあ。分かった」

 一度に外見を変えすぎるのは抵抗があって曖昧に終わらせる。豪快に笑って元来た道を去っていく兄は、修よりずっと都会人だった。