中学二年生の夏は、暑かった。
 年々、温暖化の影響により最高気温はうなぎのぼりだ。二十年後には外出注意報なんていうのがあって、外に出ないでくださいとアナウンサーや公務員が呼びかける未来が待っているのではなかろうか。
 夏休みだというのに、校庭では数人の野球部がランニングをしている。教室の窓を閉め切り、補習に参加している春樹は冷房から放たれる冷気で涼んでいた。
 春樹の通う中学は、文武両道からかけ離れた公立学校である。近隣の中学校は、夏休みでも運動部が大声を出して校庭や体育館で汗水たらし、文化部は室内で精を出していると聞く。それらの学校は夏休みの補習対象になる生徒は極僅かなのだと、今朝、母が嫌味のように語っていた。

 この学校はというと、部活動については校庭を見てのとおり、野球部員が数人走っているだけ。野球部員が走っているのではない、「野球部員数人」が走っているのだ。やる気のある部員だけが登校し、炎天下の中、ランニング地獄を味わっている。

 学校の偏差値は下の下。近隣の中学校と比較するとその差は明らかだ。本来ならばクラスメイトの半分は登校しているはずが、春樹を含めて五人しか座っていない。

 部活動にやる気がない生徒、勉強にやる気がない生徒。
 そんな生徒たちが集まるこの学校は、治安の悪い学校としてこの辺りでは有名だった。

「今日はここまで。各自、プリント提出をして帰宅するように」

 数学の先生がそう言うと、やっと終わったとばかりに四人は素早くプリントを提出し、風のように去って行った。
 春樹も同じように帰りたかったが、いかんせん机の上に放置しているプリントには名前しか記入していない。

「桐田はまだか?」
「全然解けないです」
「じゃあ、書いたら職員室まで出しに来い」
「へーい」

 先生は欠伸を一つ零して、教室から出て行った。
 残された春樹はプリントと睨めっこをするが、一向に正解が分からない。正解どころか、質問の意味すら理解できない。何を求められているのか、途中式はどうなるのか、何一つ分からない。
 算数は大人になっても必要になるだろうが、数学なんてきっと役に立たないはずだ。社会に出て「xを求めなさい」なんて言われる日は絶対に来ない。
 春樹は考えることを放棄し、直感で答えを書き込んだ。この直感が冴えていることを祈っておこう。

 教室の冷房を止めて、扉を開けて廊下を歩く。
 廊下の窓は開けられているが、外から風は入ってこない。廊下にも冷房を設置すればいいのに。
 学校のものは税金で賄っていると聞いたことがある。昨今、増税だ増税だと騒いでいるのだから、冷房を買うだけの税金はあるはずだ。
 税金のことを考えているなんて、なんだか頭が良くなった気分だ。

 職員室へ行くため階段を下りようとすると、どこからか小さな音が聞こえた。
 足を止めて耳を澄ますと、微かにピアノの音がした。音楽の先生が弾いているのだろうか。音楽の先生は若くて可愛いと、男子生徒の間で有名になっている。
 春樹は気になって、進む方向を変えた。
 音楽室に向かって歩を進めると、徐々にピアノの音が大きくなる。
 階段を上り、音楽室の前に立つと音は一層大きく聞こえた。

 音楽の先生が態々夏休みに学校へ来て、ピアノを弾くだろうか。
 そんな疑問を抱く。
 扉はスモークガラスになっていて、中の様子が見えない。
 もしかして、生徒が弾いているのではないか。
 例えば女子生徒が楽譜を見ながら優雅に指を滑らせているとか。
 そんな想像をすると、期待してしまう。
 一体誰がこの綺麗な音色を奏でているのか。
 春樹は扉に手をかけて、スモークガラスのその先の光景を視界に入れた。

「…何?」

 椅子に座ってピアノを弾いていたのは、男子生徒だった。
 見かけない顔だが、ピアノに隠れながらも一瞬覗いた上履きの色は緑色で、それは春樹と同級生ということを示していた。
 ピアノの音が止まると、静まり返った教室には冷房が動く音だけ響いた。

「えっと、ピアノの音が聞こえたから、つい…」

 怪訝そうに眉を寄せる男子生徒は、よく見ると肌の色が白い。
 目を隠す程の長い前髪と相まって、着用しているのが学ランでなければ性別が分からなかっただろう。

「…冷房付けてるから、早く閉めて」
「あ、あぁ。悪い」

 春樹は音楽室に入り、後ろ手に扉を閉めた。
 すると男子生徒は驚き、また眉を寄せた。
 前髪で隠れているはずなのに読み取れてしまう。それくらい男子生徒の反応は分かりやすかった。

「何で入ってくるの?」
「扉閉めろって言ったじゃんよ」
「…出てって、っていう意味だったんだけど」
「ならそう言えよな」

 春樹はピアノの傍に置いてあったパイプ椅子に座り、男子生徒の後ろから覗き込む。
 音符だらけ、文字だらけの楽譜が立てられている。きっとこの難しい曲を演奏していたのだ。書き込まれている文字の多さや、使用感を見るに、相当練習をしているのだろう。

 じっと後ろから見つめられ、男子生徒は大きくため息を吐く。

「何か用?」
「お前何組?」
「…二組だけど」
「そうか。俺は五組。名前は?」
「…あんたは?」
「俺は桐田春樹。お前は?」
「三島青緒。何か用?」

 怪訝そうな表情から、嫌そうな表情に変わった。
 練習の邪魔をして怒っただろうか。
 春樹はそう思うも、青緒に興味津々であるため知らない振りをした。

「何でピアノ弾いてんの?」
「僕が聞いてるんだけど。何か用なの?」
「音が聞こえたから来ただけで、用はない。何でピアノ弾いてんの?」

 問答に苛立ったのか、口をきゅっと閉じて答える様子はない。
 春樹は首を傾げ、青緒が話すのをじっと待つ。
 数分が経過すると、やがて諦めたかのように青緒は小さく息を吐きだした。

「…何でもいいだろ」
「おいおい、あんだけ溜めてその返事はなしだろ」
「ありだ」
「なしだろ。いいじゃん、教えてくれよ」

 春樹の瞳はきらきらと光っていて、純粋に理由が知りたいと物語っていた。
 青緒はその瞳から逃げようと視線を逸らすも、春樹は「なあなあ」「まだ?」「早く教えてくれよ」と青緒からの言葉を期待している。
 このまま無視をし続けるのは心苦しくなり、唇を尖らせながら青緒はぼそっと呟いた。
 春樹はその声を聞きとることができず、耳に手を当てて青緒に近づく。

「…コンクールが、近いから」
「へえ!コンクールっていうと、大会のことだろ?凄いな!」

 大声を出され、青緒は必死に教室の前と後ろの扉を交互に確認する。
 よかった、誰もいない。聞かれていない。

「凄いな、大会かぁ。あれ、でも、去年の合唱コンクールの伴奏は全部女がやってなかったか?」

 春樹は昨年の合唱コンクールを思い出す。
 各クラスの合唱を真面目に聞いていたわけではないが、伴奏は全員女子がやっていたはずだ。あの中に男子がいたら、話題になっていただろうし、自分の記憶にも残っているはずだ。途中、退屈で眠ってしまったので実際はどうか分からない。

「お前、伴奏者だったっけ?」
「…違うけど」
「やっぱそうだよな。何でやらなかったんだ?」

 ただの疑問。
 分からないから、知りたいだけ。
 それは青緒も分かっている。分かっているが、何故かを話せるような関係性を春樹と築いていない。今日、初めて喋っただけで、友達ではない。そんな人間に、話す気はない。

「もう帰ってくれない?僕、練習したいんだけど」
「おぉ、悪いな。じゃ、また明日な」

 春樹は笑って軽く手をあげると、音楽室を立ち去った。
 ようやく静かになった音楽室で、練習を再開しようと鍵盤に指を置くと、春樹の言葉に引っかかった。

「…また明日?」

 明日も来るということか。
 青緒は大きなショックを受け、頭を抱えた。

 春樹はプリントを職員室にいる先生の元へ持って行くと、ため息を吐かれた。
 途中式のない答えは、直感で記入したものだと見破られ、再提出となってしまった。
 明日はこのプリントと、明日出される課題の二つをこなさなければならない。
 ネットの掲示板で質問すれば、誰か答えを教えてくれるだろうか。そんな考えが頭を過り、急いで掻き消した。そんなことはできない。いくら馬鹿だからといって、そんな卑怯な真似はしない。
 仕方ないのでプリントは持ち帰り、明日提出することとなった。

 翌日の数学補習に参加しているのは、昨日から一人減った四人だった。
 燃えるような暑さの中、登校することに耐えきれず、一人脱落した。
 気持ちは分からないでもない。それでも春樹が参加しているのは、親に嘘が吐けないからだった。
 補習に行った振りをして、どこかで時間を潰すのは親を悲しませる行為である。

「春樹、今日はちゃんとやるんだぞ」

 先生が春樹に釘を刺すと、クラスメイトはにやにやと面白そうに笑った。
 こっちを見るな、とクラスメイトに向かって「しっし」と手を振った。

 そういえば、青緒はもう学校に来ているだろうか。
 教室の窓は締め切られているため、ピアノの音は聞こえない。
 昨日と同じ時間に来ているのなら、補習が終わった後、音楽室に行けば青緒はいるだろう。
 この学校に吹奏楽部はない。青緒の個人的な事情のため、音楽室を使用している。これは音楽の先生は承知なのだろうか。
 もしも青緒が内緒で音楽室を使用しているのなら、誰にも言わない方がいい。
 春樹はクラスメイトに青緒のことを聞いてみようかと思っていたが、春樹なりの配慮でその考えは取り下げた。

「桐田、できたか?」

 クラスメイトがぞろぞろと教卓にプリントを提出する姿が視界に入り、もう補習は終わったのだと春樹は気づいた。
 先生の授業は当然聞いていなかったため、プリントに書き込むべき数字はまったく分からない。
 春樹は先生に見下ろされ、誤魔化しの笑い声を上げた。

「桐田…」
「あー!大丈夫っす!教科書とか見てやってみるんで!」
「それができないから補習組なんだろうが」
「いや、でも俺、地頭が良いんで、多分!」
「だから地頭が良かったらお前はここにいないんだよ」
「じゃ、俺この後行くところがあるんで!」

 春樹は鞄を掴み、速足で教室を出た。
 「職員室に出しに来いよ!」という先生に叫びに、それよりも大きな声量で「へーい!!」と応えた。
 廊下を走って音楽室の前まで行き、勢いよく扉を開けた。

「よ!」
「…何で来たの」

 元気よくやってきた春樹を見て、眉間にしわを寄せる。
 春樹は昨日と同じ位置に座ると、青緒の楽譜を覗き込む。昨日と同じ楽譜のようだった。

「何を弾いてんだ?」
「別に」
「べつに、っていう曲なのか?何語だ?Betsuni?ベトォーニ?」

 英語っぽくはないよな。フランス語とか?ヨーロッパの方か?
 本気で聞き返す春樹に、青緒はぞっとした。こいつはとんでもない馬鹿なのかもしれない。
 顎に手を当てて考え込む春樹を気の毒に思い、青緒は口を開いた。

「バッハのシンフォニア」
「バッハノシンフォニア?英語か」
「バッハノじゃなくて、バッハの。バッハっていう作曲家の、シンフォニアっていう曲」
「へえ、なんか凄そうだな。弾いてみてくれよ」
「どうして僕があんたのために…」
「あんたじゃなくて桐田春樹。春樹でいいよ。それよりほら、早く」

 楽しそうに、わくわくと期待した眼差しを向けられ、青緒は言葉に詰まる。
 弾いてみてくれも何も、先程からずっと弾いていた。自分の練習のために弾いていた。
 まさか、馬鹿にしているのではないだろうな。
 青緒はちらっと春樹を盗み見たが、満面の笑みを浮かべながら青緒の手元を眺めている。
 単純に、どんな曲なのか気になる。そんな顔をしていた。
 青緒は調子が狂いながらも、両手を鍵盤に乗せてリズムよく弾き始めた。

「おぉ」

 春樹は小さな声で感嘆する。
 青緒の細くて白い指が、生き物のように滑らかに音を出している。
 時折前髪が動き、青緒の瞳が露わになる。ビー玉特有の輝きを宿しているような、とても綺麗な瞳だった。
 呼吸も忘れて魅入っていると、音が止んだ。

「…気は済んだ?」

 青緒は不機嫌そうな声を出した。

「すっげえ!」

 春樹は立ち上がると、春樹の肩を何度も叩いた。

「ちょっと」
「すげえ!すげえよ!お前天才か?」
「やめてよ、別にこれくらいなら誰でも弾ける」
「俺は弾けない!」
「ピアノが弾ける人は、これくらい弾けるって意味」

 春樹は余韻に浸り、ばしばしと青緒の肩を叩き続け、満足するとまたパイプ椅子に座った。

「コンクール優勝じゃね?」
「そんなに簡単じゃないよ」
「そうなのか?でも、凄かったぞ?」
「まあ、そんなに難関なコンクールじゃないし...。地区とブロックは通過できたから、全国で良い結果が出たら、まあ…」
「全国?全国大会に出るのか?」
「そうだけど…そのためにこうやって練習してるから。全国って言っても、さっきも言ったようにそんなに難しいものじゃないし。比較的手を出しやすいというか、参加しやすいというか」

 そこまで話して、青緒ははっとした。
 余計なことをべらべら喋ってしまった。
 コンクールの話をするつもりじゃなかったのに。
 春樹の他意のない視線と言葉で、ついうっかり話してしまった。

「すっげえじゃん!全国って全国だろ!?」
「…全国は全国だけど」
「おぉ!やるなぁ!」

 無邪気に笑う春樹に毒気を抜かれ、青緒はため息を吐きながら視線を楽譜に戻す。
 もう本番まであまり時間はない。早く練習しないと。

「青緒はさー」

 急に呼び捨てにされ、青緒は思わず振り返った。
 なんて慣れ慣れしいんだ。
 同級生だからかもしれないが、ここまで遠慮なく話しかけてくる人はまずいない。
 きっとこの男はクラスで人気者なのだろう。なんとなく、そういうのは分かる。あぶれ者と人気者。自分は前者で、この男は後者だ。
 陽の雰囲気を纏い、悪気ない接し方は間違いなくクラスメイトを先導するタイプの人間だ。
 青緒とはかけ離れた位置に立っている人間。

「何で学校のピアノを使ってるんだ?」
「…それ、言わないと駄目なの?ていうか、早く練習の続きがしたいんだけど」
「駄目じゃないぞ。俺がただ気になった」

 練習の続きがしたい、という言葉は無視された。

「家で毎日ピアノを弾くと、近所迷惑でしょ」
「そりゃそうか。あ、でも、ピアノ弾く奴は習いに行くんだろ。そこで弾けないのか?」
「何、僕がここで弾いてたら駄目なの?」
「だから、駄目じゃなくて、俺が気になっただけなんだって。もしかして嫌なこと聞いたか?」

 申し訳なさを滲ませながら、青緒の顔色を窺う。
 その姿が青緒の良心を突いた。
 なんだか悪い事をしている気分になる。

「…僕、ピアノ習ってないし」
「マジ?」
「何、おかしい?習ってないとおかしいの?」

 鋭い眼光で春樹を睨むが、春樹にとってみれば猫が威嚇しているようなものだった。
 ちょっと可愛いな、と野良猫を撫でたいような気持ちになる。

「独学でそんなに弾けるのはすげえよ!やっぱ天才なんだな!」
「だから、僕は別に…はぁ、なんか疲れた」
「うちの学校、吹奏楽部もないのに。部活で教わったわけでもなくて、ただの独学はすげえよ。部活は何やってんだ?」
「何もやってない」
「そうか。ちなみに俺も帰宅部」
「帰宅部、って言い方はおかしいよ。そんな部活は存在しないんだから、部活をしていない、っていう表現が正しい」
「お、おう。なんか頭良さそうなこと言うな。もしかして、青緒、頭良いだろ」
「そう言うあんたは馬鹿でしょ」
「あんたじゃなくて、春樹な。なんで俺が馬鹿だって分かるんだよ」
「昨日もだけど、持ってるプリント、全部答え違うし」

 青緒がそう指摘すると、春樹は項に手を当てて苦笑いし、咄嗟にプリントを後ろに隠す。
 その姿がまた頭の悪さを演出しており、青緒は白い目で見ていた。

 まさかプリントを見られていたとは思わなかった。随分と観察しているようだ。もしかして、興味無さそうに装っているが実は突然現れた桐田春樹という人間に、興味津々なのではないか。春樹はポジティブにそう考えた。

「俺は静かに見てるから、練習続けてくれよ」
「…邪魔なんだけど」
「本番は観客もいるんだろ?その予行演習だと思ってさ」
「うわ、その言い方すごく腹立つ。出てって」
「練習しなくていいのか?」
「あんたが出て行ったらやる」
「ほら、もうこんな時間だ。早く練習した方がいいんじゃないのか?」
「本当にムカつく」

 嫌悪感を丸出しにしながらも、春樹を無理やり追い出すことはなかった。
 ここに居ていいってことだよな、と解釈し、春樹は嬉々として青緒の奏でる音を耳に入れた。
 心地いいとは、こういうことを言うのだと思う。
 頭を空にして、穏やかになれる。
 これまで生きていてピアノに興味を持ったことは一度もない。合唱コンクールや音楽の授業でピアノの音を聞いたときも、何も感じなかった。
 青緒の音は、こんなにもすんなり心に入ってきて、聞き惚れてしまう。

 まったくの初心者であるが、青緒が音を詰まらせたときや、音を間違えたときはなんとなく理解した。
 音が滑らかではない。
 初心者に分かるくらいだから、青緒や経験者は当然分かるのだろう。
 こういう失敗が、コンクールでは減点されるのか。

 無言で弾き続ける青緒だったが、集中が途切れたのか、手を止めて腕を回した。
 音はなくなったが、余韻が残り、春樹は拍手した。

「すげーな」

 ぼーっと見つめられ、青緒はくすぐったい気持ちになった。
 今まで誰かに、ピアノを褒められたことはない。
 家で弾くと母親に「近所迷惑になるからやめなさい」と言って、長い時間弾かせてもらえない。褒められた記憶はない。
 ピアノを習いに行けていたら、指導してくれる先生に褒めてもらえたのかもしれないが、そんな金はないと母に先手を打たれたことがある。
 青緒自身、習いたいとは思っていなかった。誰かに指導されるのは好きではない。自分の好きなように弾きたい。だから習いに行きたいと駄々をこねたことはなかった。
 たくさん動画を見て、無料の演奏を聞きに行って、それで得た技術だった。

「今日はもう帰る」
「え、もう?早いんだな」
「指の酷使は良くないから」
「なるほど、確かに」

 青緒は春樹が持っているプリントを見た。
 答えが書かれていない。
 夏休みに登校している上に、プリントを持っているということは、春樹は補習組だ。
 そしてそのプリントは、恐らく宿題だろう。
 昨日持っていた数学のプリントは間違いだらけで、今日持っているものには何も書かれていない。

 春樹は急に黙り込んだ青緒を不思議に思い、青緒の視線の先を追うと、片手で掴んでいる数学のプリント。
 会話をした感じ、青緒は頭が良さそうだ。

「なあ、数学教えてくんね?」
「は、はぁ?どうして僕が」
「もう帰るんだろ?」
「そりゃあ。だってもう夕方だし、今から教えたら帰りは夜になるじゃないか」
「そんなに長くならないって!な!頼む!」

 両手を合わせて頼まれる。
 帰ったところで、することはない。
 帰りが遅くなったところで、問題はない。
 でも、教える義理はない。
 でも、断る言葉がすぐに出てこない。

「…はぁ。どこが分からないの」

 青緒はピアノから離れ、扉に近い席に座った。
 その隣に春樹は座り、まずは昨日のプリントから、と鞄から取り出した。
 プリントを取り出す際に鞄の中が見えてしまったが、くしゃくしゃになった答案用紙や折れた教科書が乱雑に入っていた。
 整理整頓もできないのかと、青緒は呆れた。

「これ、全部分かんね」
「僕、こんなに馬鹿な人初めて見た」
「多分、俺、地頭は良いはずなんだよ」
「地頭が良かったら補習なんてないはずでしょ」
「なんで俺が補習って分かったんだ!?」
「馬鹿そうだから」
「また馬鹿って言ったな!馬鹿って言う方が馬鹿なんだぞ!知らないのか?」
「この問題は、これを代入するから…」
「無視かよ」

 理解力の乏しい春樹は最初こそ青緒の説明では分からなかったが、青緒が春樹のレベルに合わせてゆっくりと丁寧に教えると、春樹は「そういうことか!」と突然声を上げてシャーペンを動かした。
 青緒の説明はとても分かりやすく、自分の能力が上がったのではないかと錯覚する。
 問題を解いていくにつれて青緒は「今話してるのは数学じゃなくて算数なんだけど」「この、馬鹿!馬鹿!」「えっ、何でこうなるの?僕の説明は完璧だったよね?」「何で理科の話をしてるの?阿保なの?」と、辛辣になった。
 確かに青緒の説明は素晴らしいが、それを聞いて、応用できる春樹ではなかった。

 プリントにぎっしり途中式や答えを書き込み終えると、春樹は礼を言って一目散に職員室を目指した。
 先生は驚きのあまり声も出なかったが、そんな先生を放置し、春樹は靴箱を目指した。
 そこにはタイミングよく、青緒がいた。
 一緒に帰ろうと思っていた春樹は笑みを浮かべたが、数分後、校門を出ると二人の帰る方向は真逆であった。
 あからさまに沈む春樹を見兼ねて、青緒は盛大な溜息を吐いた後、少し間を開けて「また明日」と小さな声で呟いた。
 青緒とは対照的に、春樹は「おう!!!」と近所迷惑な声を出した。

 一人歩く帰り道、青緒は唇を横一文字に結びながらも、頬はぴくぴくと動いていた。
 昨日は、なんて不躾な人間だろうと思ったが、今日は思ったよりも楽しんでいた自分がいた。
 恐らく同じクラスにいたら、対極に位置する。クラスの中心にいる春樹と、隅の席で寝た振りをする自分。接点なんて絶対になかったはずだ。
 それが、ピアノを通して知り合った。
 友達と呼ぶには、まだ日が浅いし、知り合いと呼ぶには、話しすぎてしまった。
 知り合い以上、友達未満。
 青緒は初めて同級生とこんなにも喋った。
 自身の暗い性格と、暗い見た目が相まって友達なんて今までできなかった。つくろうとも思わなかった。というより、つくり方を知らなかった。

 慣れ慣れしいと思った。失礼なやつだと思った。馬鹿だなと思った。
 でもそれは、決して嫌悪したからではない。
 最初は確かに、嫌だなと思った。でも、今日は悪くなかった。
 人はこうやって、友達になっていくのかな。
 青緒は沈みかけている夕陽を眺め、目を細めた。

 それからというもの、春樹は補習が終わると毎日音楽室にやってきた。
 青緒は、「出て行って」と言ってツンとしているが、春樹が来ることは嫌ではなかった。
 春樹も、青緒が本気で言っているようには見えなかったので、遠慮なく音楽室に通うことにした。

「なあ、コンクールっていつあるんだ?」
「一週間後」
「すぐじゃん!どこであるんだ?」
「…東京」
「ふうん。新幹線で一時間か」

 そう言って静かになった春樹を振り向き、青緒は口をへの字に曲げた。

「絶対に、来ないで」
「何でだよ」
「嫌だから」
「でも、誰でも入れるんだろ?」
「馬鹿は入れないよ」
「つまり入れるってことか」

 ここ数日で青緒の性格を把握した。
 頭は良いしピアノは上手。だけど内面は幼いようだった。
 入場できると確信した春樹に、青緒は口を一層強く曲げた。

「絶対に来ないで」
「はいはい、分かった」
「絶対だよ」
「分かったって」
「絶対だからね!」
「はいはい」

 青緒の言葉を流すようにして、春樹は笑った。
 これは絶対来る。
 来てほしくない。見られたくない。
 観客が大勢いる中で失敗する姿を春樹に見られたくない。
 そんな青緒の心中など知る由もなく、春樹はどこの会場だろうか、何時の新幹線に乗れば間に合うだろうか。そんなことを考えていた。

 春樹は帰宅すると、ダイニングの椅子に腰かけた。台所では母が肉じゃがをつくる匂いがする。
 帰宅した我が子の制服が汗で湿っているのを目にし、母は風呂に入るよう急かすが、春樹は母を無視し、「そういえば、母さん昔ピアノやってたんだよな」と本題に入った。

「ピアノ?もう何年もやってないわよ」
「友達が全国大会に出るみたいでさ、会場は東京なんだって。どこか知らない?」
「あんたねえ、私が分かるわけないでしょ」
「そうだよなぁ。調べてもよく分かんねえし」
「友達に聞いたら?」
「教えてくれないんだよ」

 会場がどこか分かれば行けるのだが、何せ、東京であるコンクールはいくつかあって、絞り込めない。

「何の曲を弾くの?」
「うーん、何だったかな。ザッハトルテみたいな名前だった気がする」
「ザッハトルテ?ザッハ…バッハ?」
「あ、そうそう。バッハのなんとかっていうやつ」
「中学生がコンクールで弾くバッハの曲っていったら…」

 母は料理を中断させ、携帯を取り出した。
 そこからいくつか曲を流すと、春樹は聞き覚えのある曲に反応した。

「それ!」
「シンフォニーね。いつあるの?」
「一週間後だってさ」
「一週間後にバッハのシンフォニーね。友達の名前は?」
「…青緒」

 苗字を忘れた。一番初めに自己紹介をしたが、その時青緒は何と言っていたか。

「えーと、吉田じゃなくて、島田?そんな苗字だった気がするけど忘れた」
「青緒くん、青緒くん…あ、これかしら」

 母がそう言って見せたのは、日本ピアノ演奏コンクールというサイトだった。
 これかしら、と言われても春樹にはよく分からない。

「ほら、地区大会、ブロック大会のところに青緒って名前があるじゃない?勝ち抜いたから、次は全国大会ってことでしょう。青緒って漢字は合ってる?」
「うーん、分からない」
「苗字は三島?」
「そうだったような、違うような…下の名前で呼んでるから、苗字なんて覚えてない」
「あんた、友達じゃないの?」
「友達になって日が浅いんだよ」
「ふうん。多分、これよ。課題曲も合ってるし」
「そうか。ならそれに行ってみる」

 春樹は携帯のスケジュールにコンクールと打ち込んだ。
 青緒は来るなと言っていたが、春樹は行く気満々である。行かないという選択肢はない。

「凄いわね。全国大会なんて」
「だろ!青緒は凄いんだぜ。しかも、独学で学んだらしい」
「凄いじゃない。才能があるのねぇ」

 母が目を見開いて驚いていると、春樹は自分のことのように誇らしく感じた。
 日本ピアノ演奏コンクールのページを開き、会場の場所を見ると、新幹線を降りてすぐのところだった。
 新幹線代くらいはお年玉で賄える。痛い出費だが、必要なことだ。
 入場料は無料だったので、新幹線に乗る金さえあれば会場に入ることができる。
 春樹はその日が待ち遠しかった。

 翌日、春樹が音楽室に行くと、青緒は元気がなかった。
 大会当日間近であるため、緊張しているのだろう。
 いつものように、ピアノを弾く青緒を眺めていると、青緒は演奏を止めて振り返った。

「今日は帰ってくれない?」
「どうしてだ?」
「春樹がいると集中できないんだよ」
「そ、そうか?」

 大会間近の緊張と戦っている青緒にそう言われて、居座ることはできない。
 でも、一人にするのも気が引ける。
 緊張で押しつぶされそうになったとき、隣に誰かいたほうが安心すると思う。
 少なくとも、春樹はそうだ。
 不安なとき、心細いとき、友達が隣にいたら心強いだろう。

「集中できないんだ」

 青緒は苦しそうにそう言った。
 後ろから見ているだけなので、邪魔にはなっていないはずだ。
 見られている、という感覚が緊張を煽るのなら、本番はこの比ではない。
 春樹はどうしようか迷っていると、青緒は勢いよく立ち上がった。

「帰れよ!!」

 肩を大きく上下させている。
 寄り添うべきか悩んだが、ここまで激しく拒絶されると従うほかない。
 神経が過敏になっているのだろう。
 落ち着けよ、と背を撫でたい衝動に駆られるが、ぐっと堪えて音楽室を後にした。
 扉を閉める直前に見えた青緒の後ろ姿はとても小さかった。

 それでも、春樹は前日まで音楽室に通った。通った、というよりは、窓から見ていた。
 廊下からひっそりと、陰ながら青緒を見守っていた。
 青緒にばれたら激しい剣幕で激怒される。そうならないよう注意して、盗み見ていた。

 綺麗な音色を奏でたと思ったら、ピアノに初めて触れる子どものように鈍い不協和音を出す。焦燥感が現れていた。
 青緒は本来、繊細なのだろう。
 その繊細さが焦燥感を引き起こした。
 やはり、傍にいた方がいいのではないか。
 しかし、あの様子では春樹を拒否するだろう。
 見守るしかない。

 春樹は何もできないまま、歯がゆい思いを抱えて当日を迎えた。

 新幹線に乗って東京へ行くと、携帯で地図を開き、目的地まで移動する。
 日傘を差す女性、帽子を被っている男性。その暑さ対策を目の当たりにすると、何も持っていない春樹は思わず両腕を頭に乗せた。
 会場の場所は駅のすぐ傍で、迷うことなく辿り着いた。
 入場すると、涼しい冷気が春樹を包む。子どもにも年寄りにも分かりやすいよう、小さな立て札が案内してくれる。
 ピアノが置いてある大きなホールに入ると、合唱コンクールを思い出した。こんな感じのところだった。
 春樹が想像していた以上に人がいるが、聞こえてくる会話やパンフレットに引かれている蛍光のマーカーから察するに、恐らく出場者の家族だ。
 あっちもこっちも、子連れが目立つ。
 春樹は青緒の家族になったつもりで見ようと思ったが、青緒にばれないように、一番ピアノから遠いところに座った。
 そういえば、青緒の両親は来ているのだろうか。席を見渡すが、青緒の両親については何も知らないので意味がない。それでも、青緒に似た顔の人がいるのではないかと探してみる。結局、そんな人物は見当たらなかった。

 初めてこういう場に来た春樹は落ち着くことができず、肩身が狭かった。
 男子中学生が一人で来ているのは、春樹くらいだった。
 周囲の人は皆手元にパンフレットがあった。それはどこで貰えるのだろう。ここへ来る途中にあっただろうか。春樹はただ目的の場所へ行くことだけを考えていたので、周りのことは目に入らなかった。

 時間になると、アナウンスが流れた。
 不要な照明は切られ、場に緊張感が漂った。
 うちの子は大丈夫かしら。そんな心配をする親の顔がいくつもあった。

 一人目が現れ、ピアノを弾き始めると青緒の音色とは違うことに気付いた。
 同じ曲を弾いているのに、全然違う。
 どう表現していいか分からないが、小さな飴玉が躍るような印象を受けた。
 弾く人間が違うと、こうも違うのか。
 それに、存外男子は少なくなかった。ピアノは女子が多数を占めるのかと思いきや、同じくらい男子もいた。

 二人目以降も、青緒の奏でるものとは違った。
 ただ、四人目の音は、青緒と似ていた。
 異なる曲を弾いているわけでもないのに、不思議だ。これがピアノか。
 いつの間にか春樹は食い入るように、次々に奏でられる音色を聞いていた。

 何人の音を聞いたか忘れた頃、漸く青緒が出てきた。
 小柄な青緒は細く、白い。制服ではない青緒は新鮮で、知らない人のようだった。
 前の席に座っている母子が「あの人格好いいね」「可愛いね」と囁いている。
 そうなのだ。青緒は独特の雰囲気がある。その存在が、他とは違う世界観を醸し出している。
 青緒が礼をして顔を上げた瞬間、目が合った。ような気がした。
 一番遠くにいる春樹には、青緒の顔が分からない。どこを見て、どんな表情をしているのか、読み取れる程の距離にいない。
 でも、目が合った気がした。
 気のせいだろうか。
 青緒は何事もなかったかのように腰かけ、指を動かし始めた。
 音楽室で奏でていたあの音だ。
 綺麗で、心地いい。
 青緒の音が、一番好きだな。

 そう思っていると、詰まる音がした。
 あ、間違えた。
 春樹は心の中で呟いた。きっと、青緒も、ここにいる人たちも気づいたはずだ。
 そして今度は、沈む予定ではなかった鍵盤の音がした。
 あ、また間違えた。
 気付けば春樹は祈るように両手を合わせていた。
 頑張れ、頑張れ。もうちょっと。あと少しで終わる。それまで踏ん張れ。頑張れ。
 両手に力を入れていると、青緒の演奏は終わった。
 今までで一番長い演奏に感じた。
 青緒が姿を消すと、春樹は安堵して全体重を椅子に預けた。
 そしてむくむくと、春樹の中で意地の悪い言葉が起き上がる。
 青緒の次に弾く女子に向かって、失敗しろと念じていた。その次も、その次も、春樹は「失敗しますように」と祈った。

 すべての演奏が終わると、消えていた照明が点いた。
 ちらほらと聞こえる「間違えてたね」「上手く弾けててよかった」「もしかしたら駄目かも」の声。
 春樹は駆け足で会場を出た。

 青緒はもう帰っただろうか。
 会場の周辺をうろつきながら、青緒らしき人影を探す。
 演奏が終わってすぐに帰ったのかもしれない。それか、両親が来ていて、一緒にここを出たのかも。
 そう思うが、念のため、もしかしたら青緒がいるかもしれないと期待を持ちながら歩いていると、建物の影で休んでいる青緒を見つけた。
 青緒を探していたのだが、いざ本人を前にすると声をかけようか迷ったが、意を決して隣に立った。
 春樹が隣にいることに、気づいているだろうに、青緒は何も言わずただじっとその場から動かずにいた。

「…青緒」

 春樹が呼びかけても返事はない。
 聞こえていないわけではない。無視をしている。

「青緒」

 もう一度呼ぶと、青緒は顔を上げて春樹を視界に入れた。
 その瞳は潤んでいて、今にも涙が溢れ出そうだった。

「間違えた。練習ではできてたのに」

 青緒が鼻を啜る。

「春樹のせいだ」

 青緒は自分より高い位置にある春樹の顔を睨みつける。

「春樹が来るから」

 確かに、来るなと言われていたのに来てしまった。それで春樹のせい、と言われ、そうだよなと思ってしまった。

「悪い」
「春樹のせいだから」
「来るなって言われてたのに、俺が勝手に来たんだから、そうなるよな」

 青緒の視線に耐えきれず、春樹は足元に視線を落とした。

「春樹のせいだから」

 青緒は再度、春樹にぶつける。
 春樹さえ来なければ、失敗することはなかったかもしれない。
 あのとき、春樹を見つけてしまって、緊張した。

 春樹と最後に会話をしたとき、八つ当たりをして追い返した。
 だって、仕方がなかった。
 春樹に聞かれていると思うと、見られていると思うと、緊張して手が震えてしまう。
 今までもコンクールに参加したことはあった。だけど、手が震えることはなかった。
 どうして春樹がいるだけで緊張するのか、自分でもよく分かっていない。
 多分、恐らく、初めてまともに話すことができた同級生だからだと思う。
 友達がいたことはないけど、いたらこんな感じかなと考えるようになった。
 そうしたら、途端に恥ずかしくなった。見られている、聞かれている。それがとても心を揺さぶった。
 だから、ここに来てほしくなかった。絶対に失敗すると思ったから。

「春樹のせいだよ」

 とうとう涙が零れ落ちた。
 たかが失敗したくらいで泣くなんて情けない、と思われただろうか。
 それでも目から出る液体は、引っ込んでくれない。

「あぁ、俺のせいかも」

 申し訳なさそうに言う春樹に、青緒は行き場のない感情が渦巻いた。
 違う、そうじゃない。
 そうじゃないのに。

「でもさ、友達の応援には行きたいだろ」

 ぼそっと零れたその言葉に、青緒はぴくりと反応した。

「青緒が頑張ってるのを応援したいと思ったんだよ」

 滲む視界に映る春樹は、青緒の方を見ていない。
 青緒は手を伸ばし、春樹の服を掴む。

「…もう一回言って」

 すんすんと泣く青緒をちらっと見た後、春樹はまた視線を逸らした。

「友達の応援に、行きたいと思ったんだよ」

 自分で言っていて、言い訳のように聞こえる。
 言い訳をするつもりなかった。
 ただ、自分の思いも知ってほしかった。
 コンクールがあると知って、それに出ると知って、友達として応援に行きたいと思うのは自然なことだ。

「…友達?」
「悪かったよ」
「ねぇ、僕たち友達なの?」

 潤む瞳で見上げられ、春樹は目を瞬かせた。

「えっ、友達だろ?」
「…そうなの?」
「え?」

 友達じゃなかったのか?
 春樹は不安になった。
 まさか友達だと思っていたのは自分だけだったのか。
 頭が良い青緒は、友達の明確な定義を確立しているのか。
 勝手に友達だと思い、勝手に応援に来て、それで青緒は失敗した、どう許してもらえばいいのだ。

「友達…そうか、友達…」
「ち、違うのか?」

 春樹は「楽しく話せたらそれはもう友達」である。青緒からしてみれば、能天気な思考になるのだろうか。
 春樹は恐る恐る青緒と視線を絡ませると、青緒は口元をむずむずと動かした後、両手で顔を覆った。

「…青緒?」
「何でもない」
「その、ごめん」
「もういい」
「えっ、ごめん!俺が悪かったから!」
「もういいって」
「どうしたら許してくれるんだ?」
「だから、もういいってば!」
「青緒!」

 青緒の怒りをなんとか鎮めようと、春樹は青緒の両腕を掴んだ。

「だから!!もういいんだって!!友達はこんなことを根に持ったりしないから!!」

 耳まで真っ赤にさせて、青緒は春樹に大声を上げた。
 両手を顔から外した青緒は、怒っているわけではなさそうだ。どちらかというと、照れているような。

「もう。ほら、帰るよ」
「え、あ、あぁ」
「まったく…来ないでって言ったのに」

 隣で文句を言いながら歩く青緒は、やはり耳が赤い。

「ん」
「え?」
「ん!」

 青緒の歩幅に合わせて歩いていると、青緒が右手を差し出した。
 春樹はそれが何を意味するのか理解できず、その右手を凝視する。

「手!」
「手?」
「…友達は手を繋ぐものでしょ」
「...お、おう」

 春樹は左手で青緒の手を握った。
 男にしては小さい手。
 この手であんな綺麗な音色を出していたのかと思うと、感動を覚えた。

「春樹はもうちょっと、人の言うことを聞かないと。勉強だって、どうせ先生の話なんてこれっぽっちも聞いてないだろうから、だから補習に出るようになるんだ」

 ぶつぶつと耳と頬を赤くさせたまま、文句を言う。
 繋がれた手から青緒の体温を感じる。

 ずっと思っていたが、青緒は友達の存在に慣れていないようだった。
 もしかして、友達がいないのでは、と失礼ながら思うことがあった。
 例えば、青緒が携帯を取り出したとき。連絡先には六件しか登録がなかった。両親と祖父母でその六件は埋まってしまう。
 ついうっかり知ってしまった、そんな些細な事の積み重ねで、もしかして、と思ったのだ。
 そしてこれは、間違っていないと思う。

 隣でもにゅもにゅと顔を動かす青緒を見て、確信した。
 自分が、青緒の最初の友達。
 青緒がピアノを弾くことを知っている生徒は、きっと学校で自分一人。
 そう思うと、心がぎゅっと掴まれたようだった。
 初めての友達になったのだ。

 春樹は左手に感じる青緒の温もりに、子どものようだと笑ってしまう。

 太陽から放たれる熱を全身に浴びながら、春樹は、いつ青緒に「友達でも別に手は繋がないよ」と教えようか考えていた。