「ということで、やってきましたー。昼間のモーニング・グローリーのお時間です。MCはキーマスター近藤(こんどう)と」
桐生(きりゅう)ターメリック」
「の二人でお送りしていきます。8分間お付き合いくださーい」
「はーい、それでは近藤くん、今日のアンケート結果はなんですか」
 桐生ターメリック。これは高校1年生のときに付けられた俺の芸名だ。
 マイクが2つ置いてあるテーブルを挟んで向かい側に、中学校からの腐れ縁の近藤が原稿を片手にこの番組の説明を始めた。
 ベリーショートの近藤は、最近、また成長期を迎えているみたいで、両腕や肩幅が大きくなっているような気がする。左側を見ると、ガラス越しで腕組をしながら、ロン毛の山さんがこちらを見ていた。
 俺がターメリックになったのは、山さんから入部初日にカレー臭くない? って言われて、カレー屋の息子ですと答えたのがきっかけだった。向かいにいる近藤が爆笑して、『ターメリックじゃん』と言われて、初日から俺は山さんからターメリックと呼ばれるようになった。

「ということで、東高の全生徒507名に聞きました。あなたのスマホはハウマッチ? ということで、高校生の一般的なスマホの購入価格帯を調査しましたー」
 フリー素材のパフパフという拍手と鳴り物のSEが入った。こういうところは山さんは準備がいいから、陰キャ二人の出演者が慣れない盛り上げ方をしなくても、助かるからありがたい。
「いいね、みんなが使ってるスマホの値段気になるね、近藤くん。だけど、多様性の世の中、20万くらいするハイエンドモデルもあれば、格安スマホもあるよね」
 俺は通販番組みたいな台本をそのまま読んだ。この番組はすべて山さんが考えた。だから、山さんの脚本だし、500枚以上のアンケート用紙を作り、HRで配ってもらい、本当にその日いた全生徒にアンケートを書いてもらい、すべてを回収してもらった。
 
「そこでね、アンケートではバイトをしてるかしてないか、新品か中古か、お下がりか。そして、iPhoneかAndroidか、自由記入欄に、差し支えなければ機種名と一言の感想をもらっているよ」
 パフパフと、無理やり盛り上げるSEがまた入り、さて、これで本当に番組として成立しているのかと、俺は突然不安になった。



「いいんじゃね?」
 山さんはニヤニヤして、肩までかかっている髪を右手でいじりながらそう言った。
 キャスター付きの事務椅子を放送室の放送機材に沿って、山さん、近藤、そして俺の男三人で横並びに座り、音源を聞き直していた。
 どこがいいんだろう。とさっき録音したばかりのラジオ番組を聞き終わり、俺はそう思った。放送機材の上に置いてある卓上式のデジタル時計を見ると、17:07と表示されていた。
 
「……山さん、マジで出すんですか。ラジオドラマ部門ですよ」と近藤が聞き終わったあとの重くなった空気をさらに重くするようにそう言ったあと、真ん中の近藤は両足で床を蹴り、椅子のキャスターを使って、一方後ろに下がった。
 そして、俺たち、放送部員のフォーメーションは放送機材を底辺に、両隅に山さんと俺、そして、頂点に近藤のトライアングルになった。

「いいじゃん。こういうのが斬新なんだよ。劇中作ってやつ。実際、アンケートは本当に取ってるわけで嘘なんてついてないし、最後のアドリブで、リアルな感想べらべら話している感じがドラマっぽくなってるよ」
「山さん、めちゃくちゃ自信満々じゃん」
「おい、ターメリック。口答えするなよ」
「すみません」
 とりあえず、俺は謝っておくことにした。

「やっぱり、山さんが主演のほうがいいんじゃないですか」
「おいアイドルマスター近藤、お前も文句あるのかよ」
「キーマスターですって言うのもなんか、嫌だけど訂正しますよ。山さんは子役だったんだから、演者に回ってくれたほうが俺はいいって思っただけです」
 山さんの表情が一気にイライラした顔になり、鋭い目つきで近藤のことをにらみ始めた。こうなったら、山さん側に俺が回るしかない。
「おい、近藤。やめろって。7歳の山さんだってな、好きで『魅惑のトロピカーナ、とろけーる』ってダンスやってたわけじゃないんだよ」
「絶対、ウケるのになぁ。一斉を風靡したトロピコ少年の今は、ってやったら。それこそ、今の山さんの声で『魅惑のトロピカーナ、とろけーる』」
 と近藤は『とろけーる』のところで、両手でCマークを作り、それを山さんに見せつけるかのように披露していた。
「ってやったら番組のキャッチになるのに」
 山さんは黙ったまま、咳払いをひとつした。約10年前の山さんは日本中誰でも知っていた。『とろけーる』は流行語になったし、紅白歌合戦に出ていた幼い頃の山さんは無邪気そうだった。
 それが今や、跡形もない。
 慎重は175センチ近くあるけど、線が細くて、ロン毛で、顔は芸能人だっただけあって、整っている。一昔前のドラマに出ていた脇役くらいの雰囲気は出ているけど、気に食わないことがあるとすぐに、今みたいに人を寄せ付けない睨み方をするから人を寄せ付けない。
 そんな、芸能人の今になっていた。

「それは、過去の俺だ。お前らは俺みたいになるなよ」
「なりたくてもなれねーよ」と近藤が茶化すように言った所為か、山さんは『なんだと』と言って、立ち上がり、いつものように右手で近藤のむなぐらを掴んだあと、左手で近藤の脇腹をくすぐり、近藤はいつものように笑い始めた。




「山さん、なんであんな感じなんだろうな」
「小さい頃にブレイクしたから、それなりに今まで苦労したから、擦れちゃったんじゃない」
 俺と近藤の地元へ向かう電車は、田舎にある高校から街に向かう電車だから、いつものように比較的空いていた。18時を過ぎ、海側から差し込むオレンジ色で車内の白い床は照らされ、何人かの人がまばらに座るロングシートがガランとしていて、寂しさがより際立った。山さんは田舎から、田舎へ向かう反対側の電車に乗るから、駅で別れる。

「いい人だけど、少し変わってるよな」
「近藤に言われてもな」
「お前もな。ま、放送部なんて、陰キャのもの好きの集まりよ。本当は女の子いるかななんて思って入ったのにさ」
「下心、裏切られたってか」
「だね。三年の女性陣と入れ替わりで新しい一年、誰かアナウンス志望の可愛い子入ってくれないかなって、思ったら、まさかの誰もはいらなかったしな」
「そうだな。女の子いれば、もう少しまともなラジオドラマ作れたかもしれないのにな」
「そうそう。アナウンス部門とか出たい子だったら、我が子のようにめちゃくちゃ応援したのに」
「何目線だよそれ」と言っている途中で、アナウンスが入り、そして、電車が減速し始めた。反対側の窓から見える海は、キラキラと輝いていて、この景色をキャッキャいいながら、女の子の部員と話せたらどんなに幸せな高校生活だったんだろうと、思わず考えてしまった。
 現実を見ろ。
 隣にいるのは、文化系なのに体つきがいい、ベリーショートの腐れ縁だ。

「だけど、現実はさ、元子役のロン毛の変人とお前だけだろ」
「悪かったな」
「モテたいよ、俺だって。そのために筋肉を育成しているのに、こんなんじゃ、出会いがないよ。それにさ、あの奇をてらったドラマじゃさ、地区大会で他校の女の子にキャッキャされないじゃん。イケてる学校は連絡先、交換してたりするじゃん」
「お前、欲の塊すぎだろ。滝行でもして、禊(みそぎ)でもしてこいよ」
「あー、モテたい、モテたい、モテたい」
 近藤がそんな呪文を唱えている間に電車が駅に着き、ドアが開くと同時に空気が抜ける音がした。
 俺は、別にモテたいとか、どうでもいい。ただ、仲がいい近藤と一緒になり、自分の居場所を作れたらそれで十分なんだ。




 駅に着き、改札を抜け、南口を出ると、駅前は夏が始まりそうな藍色が濃くなり、暗くなっていた。ロータリーのバス停には何本かのバスが停まっていて、バスが停まっていないバス停の前には20人くらいの列ができていた。
 駅前で近藤と別れて、俺はいつものようにローソンに寄った。
 ローソンで期間限定のレモンソーダを2つ買い、いつものように公園を目指した。

 10分くらい歩いている間に、空の藍色は闇に変わった。三日月は薄い雲で濁っていて、路地を照らすLEDの白い明かりは頼りなく、辺りを照らしていた。
 



 いつものベンチに座ると、微温い海風を感じた。浜辺の近くにあるこの公園は少し小高い場所にあって、ベンチの向かい側にある柵の向こうには、真っ黒な海が広がっていて、右側に孤を描くように道路の街灯がゆるく続いていた。
 俺はスマホもいじらずにただ、その真っ黒な光景をぼんやりと眺めていると、隣に誰かが座る気配がした。

「ほら、期間限定のレモンソーダ」
 俺はそう言って、バッグからペットボトルを2本取り出し、そのうち1本を隣にいるヤツにあげた。
「優しいね」
 聞き慣れた女子の声を聞いて俺は、今日も来てくれたことに嬉しくなった。もう一度、右側を見ると、夏葉(なつは)はいつものように弱く微笑んでくれた。長袖の薄手の白いカーディガンをまとった夏葉は、まだ春を抱えたままみたいに思えた。夏葉はペットボトルのキャップを開け、俺より先にレモンソーダを飲み始めた。

「おい、先に飲むのかよ」
「美味しい。すっきりするよ。飲んでみなよ」
「ったく。俺が買ってきたのに」
 俺もキャップを開けて、レモンソーダを一口飲んだ。口の中に炭酸と甘さが一気に広がった。

「ね? 美味しいでしょ」といたずらっぽく、夏葉はそう返してきたから、なにかツッコミでも入れようかと思ったけど、俺は諦めてもう一口レモンソーダを飲んだ。

「笑うようになったな」
「そうかな。絶望はまだ変わらないけどね」
「迷いの中に生きてるな」
「悪かったね」
 こんなこともようやっと夏葉とは、冗談で言えるようになった。4月末に再会した夏葉は、俺より先にこのベンチに座っていた。俺はいつものようにベンチに座り、少しだけ潮風を感じたら、家に帰るつもりだった。だけど、その日、俺より先にこのベンチには、夏葉が座っていた。
 後ろから見る、夏葉は疲れ切っているように見えた。
 だから、夏葉の隣に座り、俺は何が原因かわからないけど、中学卒業以来、2年ぶりに会った夏葉のことを慰めることにした。

「俺の先輩がさ、『俺みたいになるなよ』って今日も言ってたんだよ」
「ふふ、高校生なのに、変なの」と夏葉は弱く笑った。そして、水色のジーンズに黒のコンバースをまとった両足をぶらぶらとさせた。
「なんか、そのセリフを聞くとさ、俺、いつも虚しくなるんだよね」
「へえ、どうして?」
「そんなに過去の自分が嫌だったのかなって思って」
「色々あるよね。ま、どんな人かわからないけど」
「『魅惑のトロピカーナ、とろけーる』」
「は? 懐かしすぎでしょ」
「の本人」
「えー、スターじゃん」とやっぱりびっくりした表情を夏葉がしてくれたから、俺は少しだけ嬉しくなった。そのあと、夏葉は『とろけーる』と言って、Cマークを作った。

「そういえば、トロピカーナってもう廃盤になったのかな」
「どんな炭酸だって流行り廃りがあるってことだよ」
「なにそれ。格好つけすぎでしょ」
「悪かったな」
 俺は恥ずかしくなったから、それを夏葉に隠すためにレモンソーダをまた一口飲んだ。

「だけど、擦れちゃったんだよ。誰でもわかりやすい栄光を掴んでいる人でも、そんなこと起きるみたいだよ」
「じゃあ、何も成功なんてしてないけど、私ももっと擦れてみようかな」
「擦れる前に学校行けよ」と俺がそう言うと、夏葉は右目の下に人差し指を当て、まぶたを下げ、そして舌を出してきた。

「明日から本気だす」
「マジで言ってる? それ」
「マジ。担任から、金曜日、あと4回休んだら、単位やばいって連絡来た」
「――やばいだろうけど、気持ち的には大丈夫なのか?」
「だいじょばなかったら、ひきこもりにでもなろっかな」
 夏葉は立ち上がったあと、一歩だけ移動して、俺の目の前に立ち、右手を伸ばして、ピースサインをしてきた。




「おいおい、マジで選評狂ってるだろ。なんだよこれ」
 大会後、送られてきた審査員からの選評が書かれた用紙を、山さんは放送機材の上に投げつけた。パシッと1枚の紙が弱々しく、しなやかさで硬さを吸収している音が放送室に響いた。
「『扱っているテーマはキャッチーでいいが、俗物に寄っているのが難点。そもそも、芸人気取りの名前をつけるなどせず、もっと高校生らしく等身大のドラマが見たかった。ラジオドラマとして成立しているのか、疑問に感じる』ですって。やっぱり、山さん、俺らが言った通りじゃん」
「おい、タスマーキ近藤。俺はこんなに奇抜なことをやった覚えはないぞ」
「タスマニアみたいな呼び方気持ち悪っ」
「なんだと」
「大体、身内ネタはスベるってことですよ。普通に近藤と、桐生でやればよかったんですよ」
「は? キーマスターの分際で出しゃばるなよ」
 近藤の芸名がキーマスターになったのは、放送室の鍵係に近藤がなったからだった。近藤が最初に放送室にいるのが掟になり、山さんが、キーマスターと言い始めた。そして、いつしか、去年の3年の先輩たちも近藤のことをキーマスターと呼ぶようになり、彼は無事、キーマスター近藤になった。

「あらら、トロピコ少年がそんなこといっちゃって。いいんですか。山沢(やまざわ)先輩」
「うわっ。近藤に山沢先輩って呼ばれるとぞわっとするわ」そう言いながら、山さんは椅子から、立ち上がり、いつものように右手で近藤のむなぐらを掴んだあと、左手で近藤の脇腹をくすぐり、近藤はいつものように笑い始めた。
 また始まったと思ったけど、俺はそんなことも頭に入らないくらい、意識は他のことに行っていた。もう、4週間も夏葉とあのいつもの公園で会うことができていなかった。LINEを送ってみたけど、『大丈夫。今は構わないでほしい』と昨日言われたばかりだった。大会も終わり、そして、6月が終わろうとしていて、最高の季節が訪れる時期に入りつつあるのに、俺はすっきりしないままだった。

「近藤、少しはターメリックのことを見習えよ。インド人を右にだよ」
 近藤をくすぐり終えた山さんは満足げにそう言ってきたけど、あまりにも的はずれすぎて、俺は反論する気にもなれなかった。そもそも、俺はカレー屋の息子なだけであって、インド人ではないって返しを何度もしてきたけど、この人にはそんなことをしても、無駄なのはわかっていたから、俺はいつものように反論するのを諦めた。
 ただ、別に選評は予想通りだったし、俺は山さんのそういう尖っている部分が好きだ。

「俺は嫌いじゃなかったですよ。ちょい、スベるかなとは思ったけど」
「ほら、今、スベるって言った」と近藤はそう言って俺の方を指差して、ゲラゲラ笑い始めた。
「おい、桐生ターメリックちゃーん」
「次やりましょう。この大会はダメでしたけど、高文連で終焉の美を飾ればいいじゃないですか。次、最高の脚本、お願いしますよ」
「お、おう。珍しく桐生はまっすぐだな。だけどな、桐生くん。高文連の前に俺たちは重要なミッションをもらったんだ」
「ミッション?」と近藤が聞き返すと、山さんはわざとらしく咳払いをした。

「なんと、来月、7月18日開催の文化祭にて、我々のショータイムが与えられたんだ」
「は? なんですかそれ。去年までなかったじゃないですか!」
「落ち着きたまえ、キー近藤。今年から文化部でちょっとだけ出し物をすることに決まってしまったんだ。もちろん俺は反対した。放送部には重要なミッションである音響操作、つまり、PAの仕事があるではないかと」
「そうですよ。PAだけやってればいいんですよ」
「落ち着きたまえ、メリック星人。しかし、みな平等だから、なんかやることは決まってしまった。持ち時間は3分程度。オープニングステージをしっかり、文化部がそれぞれ演出しろと言われた。ちなみに演劇部はノリノリで漫才をやるらしい」
「じゃあ、俺らは大会で出した音源でも流すんですか?」
「シャラップ! キーコン。だったら、俺たちもやることは一つだ。ライバルの演劇部とタメ張るぞ」
 いやいや、まさか、漫才やるとか言わないよね? って言いたくなって思わず俺は近藤を見ると、近藤とタイミングがピッタリ重なり、顔を見合わせてしまった。でも、近藤の顔はなぜかウキウキしたような表情をしているような気がする――。

「つまり、M-1ってことか。やべっ。俺、やってみたい」
「ナイス近藤! その通り」
「じゃあ、トリオってことですね」
「ノットインド! 俺にはPAをやる重要な任務がある。つまり、君たち『ガンジスboys』で出るということだ!」
「ガンジスboys、やべぇ。かっこいい。めっちゃハイセンス」
 近藤、なんでこんなにノリノリなんだよ。俺らこれじゃあ、ただの晒し者になっちまうだろ――。
 てか、俺はインド由来じゃない、カレー屋の息子なだけだ!

「山さん、俺、この漫才成功させて、彼女作ります」
「おお、作ったらいい。君の夏は絶対良くなるよ」
「最低な夏だ」と俺がそう言い終わると、山さんは俺の背中を思いっきり叩いた。




「山さん、最高だな」
「どこがだよ。勝手に決めやがって」
 いつものようにガラガラの電車はオレンジ色に染まった海沿いを走っていた。ロングシートの端っこのアルミのポールの影が、左方向に向かって、伸びていた。
 
「やっぱり、お笑いってモテるらしいじゃん」
「いつの時代の話してるんだよ」
「だって、モテるために芸人になったって人、多いじゃん」
「へぇ。そうなんだ」
 俺は全然、興味が持てず、近藤の話を適当に流すことにした。近藤はモテたいモテたいとうるさすぎる。

「なんか、冷たいな」
「てかさ、ネタ書けるか? 俺たち」
「任せろって、俺、どれだけM-1観てると思ってるんだよ」
「毎年」
「だろ? だから、俺はボケ散らかすからさ、お前はいつもの調子で抜けた感じで弱くツッコんでくれたらいいんだよ」
「なんか、もう、イメージ出来上がってる感じだな」
「だろ?」
 だろ、だろ、うるさいな。って言おうと思ったけど、それすら、ツッコミと捉えられて『そう、それだよ! ツッコミ』とか言われるのが急に想像できてしまったから、俺は近藤に対して萎えた。

「意外と時間ないから、俺がガンジスboysの初ネタ書いてくるよ」
「すげぇな。書けるんだ」
「任せとけって」
 そう言って、近藤は俺の右手を握り、得意げに親指を立て、白い歯を見せた。その筋肉質な腕の所為で、サーフィンをやってそうなナイス・ガイに一瞬見えて、頼もしく感じたけど、冷静に考えると、そもそも漫才なんてやりたくなんかないのに巻き込まれているんだったと思い、ノリノリの近藤に腹が立った。




 久々にこの場所に来た。1ヶ月ぶりの公園のベンチに座ると、昼間の熱がまだ残っていた。海は深いオレンジ色に染まっていて、水平線に消えようとしている赤い光は、すでに3分の2の以上が裏側へ行ってしまっていた。
 ローソンで買ったコーラをバッグから2本取り出した。2本もいらないのに買ってしまったことに気がついたのは、ローソンを出てからのことだった。俺は片側が空いたままのベンチの上にコーラを2本乗せ、ぼんやりと夕日を眺めることにした。

 波は一定のリズムで砂浜に穏やかに押し寄せていて、何人かのサーファーが海に入ったまま、波を待っていた。だけど、今日はあまりにも海は静かすぎるから、それは徒労なんじゃないかって思ってしまう。
 そんな波の音を聞いていると、なぜかわからないけど、寂しさが胸の奥で波のビートにあわせて鳴っているような気がする。
  
 そもそも、夏葉と約束をしているわけじゃない。ただ、3月の終わりから偶然、会っていただけに過ぎない。俺は一日の中で、一人きりになりたいから、ここに来ているに過ぎない。別に俺自身に問題なんてないけど、たまに頭の中をリセットするように、うるさくない場所でぼんやりとしたいだけだ。
 それでエネルギーを蓄えて、また明日から頑張ろうとしているだけだ。

 だけど、いつの間にか、俺は夏葉のことを待っていたし、夏葉のことが心配でたまらなくなっていた。
 この春、夏葉とたくさん話して、俺は夏葉が思ったより、弱くて迷いの中で生きていることを知った。
 そして、学校生活がうまくいっていないことも知った。

 山さんに理不尽に漫才コンビを組まされたことを話したら、きっと、夏葉は笑ってくれると思うから、それを話して、夏葉が笑ってくれたらいいなって、ただ、そう思った。

 そんなことを考えているうちに太陽の丸は今日から消えてしまった。コーラを手に取り、キャップを開けると涼しく切ない音がした。

 


「山さん、見てくださいよ!」
「お、キマス近藤。やるじゃないか! 昨日の今日でやる気があっていいことだ!」
「お前、ネタ作るの早かったな。もっとかかるかと思った」
「これがさ、降ってきたみたいにバンバン思いついちゃって、俺、マジで天才かもしれない」
 近藤はニヤニヤしながら、俺を見てきた。すごいことだと思うけど、すごくイライラするのはなぜだろう。放送室は今日も、いつもように底辺に山さん、俺、そして、頂点に近藤のフォーメーションでむさ苦しく整っていた。

「じゃあ、見てくださいよ。俺の自信作」
 近藤はそう言いながら、俺と山さんにA4のコピー用紙を2枚、手渡してきたから、俺は仕方なく、ネタを読むことにした。



二人   どうもー、ナマステ~。
近藤   放送部高校生の近藤と桐生のガンジスboysです。よろしくお願いしまーす。
     ちょっと、桐生くん、俺、すごく聞きたいことがあるんだ。
桐生   いいよ。なんでも聞いて。
近藤   桐生くんは、カレー何派?
桐生   は? なんだよそれ。もっとほかに聞くことあるだろ。今後の進路とか。
近藤   いや、実はね、テレビでスパイスカレー作ってる人の特集やっててさ、
     かっこいいなって思ったんだ。
     それでやっぱり、難しい世界じゃん。カレーって。
     桐生くんにも食べさせたいからさ、
     作る前にカレー何派か聞きたかったんだよね。
桐生   事情はわかったよ。優しい親友だな近藤は。だけど、何派はよくわからないわ。
     てか、何の派閥? バーモンド派とか、ゴールデンカレー派とか。
近藤   カレーの王子さま派とか。
桐生   おお、それよ。甘いけどな。わかってるじゃん。
     てかさ、ルーの派閥聞いてどうするんだよ、お前。

近藤   チッチッチッ
    (と言いながら人差し指を立てて、左右に振る)

桐生   じゃあ、なにさ。
近藤   あなたはご飯ですか?
桐生   ……ご、ご飯ですよ?
近藤   ですよね。インドから帰化した日本人ですからねー。
桐生   違うわ。お前、もしかして、何にカレールー付けて食べるって意味で聞いてる?

近藤   当たり前じゃん。じゃあ、お前、ルーだけでカレー食べるのか?
桐生   そりゃあ、ルーだけじゃあんまり食べないかな。
近藤   だろ? ターメリックライスとか、ナンとか、パンとかさ。
桐生   パン?
近藤   カレーパン。
桐生   あー、そっちね。
近藤   うどんとか、ラーメンとか、パスタとか。
桐生   待て待て、近藤。普通、ルーの話しないか?
近藤   いや、何で食べるかが大事でしょ。ルーは置いておいて。
桐生   ルーを置くな。カレーはルーがメインだ。

近藤   俺、桐生くんのために、カレーうどん作ろうって思ってたんだ。うどん好き?
桐生   お前、スパイスにこだわったカレー作るって言って、カレーうどんつくるの?
近藤   うん、そうだよ。喜べよ。
桐生   なんか、手作りのカレーうどんってかーちゃんが2日目のカレー使って、
     ドロドロでカレーとめんつゆ合わせましたってイメージしかないから、いいわ。
     俺、苦手なんだよ。もっと、こだわりのスパイスの話してくれよ。
近藤   やっぱり、インド人はカレーにうるさいなぁ。
桐生   いや、ルーの話しろよ。
近藤   俺、ルーはカレーの王子さま派なんだよね。
桐生   いや、いい加減にしろ。

二人   どうも、ありがとうございましたー。



 ネタが完全にガンジスに寄ってるし、そして、なにより、俺がこのネタでもインド人扱いになっているのが、嫌になった。俺は読み終わり、山さんを見ると、山さんはまだネタを読んでいて、時折、鼻で笑っていた。そして、近藤の方を見ると、近藤は得意げにピースサインを送ってきた。

「近藤、最高だな。ちゃんとターメリックのことを使うなんて、お前才能ありありキングだよ」
「山さんあざーす」
「ただな、これに山ちゃんアレンジを加えたいんだけどいいかな?」
 と山さんがニヤニヤし始めたから、俺は嫌な予感がした。山さんは椅子から立ち上がり、鼻歌を歌いながら、放送機材の向かいにある机のほうへ向かった。そして、赤ペンを右手の人差し指と中指に挟めて、それを小刻みに振りながら、また椅子に座った。そして、放送機材の上で、台本に何かを書き始めた。




「どうもー! ナマステ~」
「おい、まだタメリの元気ない。お前、もっと声張れ」
「そんなにやり直しするなら、自分がやればいいじゃないですか」
「俺にはPAを守る責任がある」
「自分が出たくないだけでしょ。もう」
 俺はそう言ったあと、ため息を吐いた。そして、スタジオの右側、下手のほうに近藤と俺は歩いて戻った。スタジオで台本を持ちながら、練習することになった。このことを立ち稽古って言うらしい。山さんは元子役らしく、急に先輩風を吹かしてきた。

「はい、テイクシックス。よーいスタート」
 パチンと山さんの手がなって、俺と近藤はまた、下手から駆け足で中央へ向かう。

「どうもーーー!」
 いつも出さないような大きな声を精一杯出した。
「ナマステ~」
 お、山さんに止められなかった。山さんは向かい側にあぐらをかいて座り、うんうんと大きく頷いていた。なんだ、でかい声だせばいいだけじゃん。

「放送部高校生の近藤と桐生のガンジスboysです。よろしくお願いしまーす。ちょっと、桐生くん、俺、すごく聞きたいことがあるんだ」
「いいよ! なんでも聞いて!」
「バカ、ターメリック! なんでもでかい声出せばいいって問題じゃねーんだよ!」
「――すみません」
 違うんだ。さっき、言ってたことと矛盾してるじゃねーか。
「最初は、挨拶だから、高校生らしく元気な声で挨拶する。そして、俺らは元々、根暗で陰キャでジミーズだけど、『暗そうだけど、意外と明るくて面白そうな人なんだ』って印象を与え、客を錯覚させるんだよ。そして、ネタに入ったら、ターメリックは素に戻れ」
「え、素に戻っていいんですか」
「そう。近藤が書いてきたこの本だと、タメリが素で返すのが面白いから、俺の言った通り、素でやれ。そして、近藤はいつもの陰キャ感を隠すように無理やり元気よくやれ」
「はい! マスター!」
「おい、キーマスターはお前だろ」
「つまんないっすよ。そのやり取り」
「そう、それだよ。ターメリック。この感じのツッコミでよろしく。あとな、このネタはリズムが大事なんだよ。だから、リズムを徹底的に叩き込むからな」
「山ちゃんかっこいいー!」
「じゃあ、もう一回、最初から」
 俺はため息を吐き、右側のほうに戻った。




 今日の山さんは上機嫌だった。駅の自販機で俺と近藤に缶コーラをおごってくれた。改札を抜けて山さんと別れたとき、
「お前ら、頑張れよ。俺みたいになるなよ」って言って、背中を向けた。そして、右手を上げ、左手をズボンのポケットに突っ込んだまま、跨線橋へ歩き始めた。

「山さん、めっちゃ格好つけてるな」
「近藤の所為だぞ、絶対」
「なんでだよ」
「お前が漫才ガチ勢になったからだろ。本当は山さん、自分で漫才やりたくてウズウズしてるんだよ」
「素直にやればいいのにな。すぐにトリオになるのに」
「そういう問題じゃないんだよ。山さんは傷を負ったから、あんなにイケメンなのにあんな残念な感じになっちゃったんだよ」
「あー、そういうことね。てかさ、俺、コーラ苦手なんだよね」
「は? じゃあ、なんでそのまま山さんから受け取ったんだよ」
 俺は驚いて、思わず近藤を見ると、左手で頭をかいていた。

「だって、山さん格好つけてさ、勝手に自販機行って、勝手に買って、渡されたじゃん。そしたら、もらうしかないじゃん」
「断りづらいのはわかるけどさ」
「だから、これやるよ」
 近藤はそう言って、右手に持っていた缶コーラを俺の方に差し出したから、俺は無言で、コーラを受け取ったあと、バッグの中にしまった。

「お前って、世渡り上手になりそうだよな」
「すでに上手なほうだと思うけどな。まだ彼女できたことないけど」
 近藤がくだらないことを言っている途中で、電車の接近放送が流れ、遠くの踏切が鳴っている音がし始めた。

「話さなきゃ、イケメンなのに」
「ホントそれな。あの人のほうがワードセンスあるから、俺が書いたネタも少し面白くなったような気がする」
「確かに面白くなったよ。だけど、あんだけ口出しするなら、自分も参加すればいいのに。ダサいよな」
「ダサいから、俺たちに付き合ってくれてるんだよ。山さんは」
「そうだな」
 電車がゆっくりとホームに入ってきて、そして、アルミ色の壁が目の前にできたあと、すぐに別世界の扉が開いた。




 地元の駅で近藤と別れ、気がつくと足は公園の方に向かっていた。道端の紫陽花(あじさい)の紫や水色を横目で見ながら通り過ぎ、そして、T字路のカーブミラーの前で立ち止まり、自分を見つめた。魚眼された世界の俺は、うしろに咲く紫陽花を背にして、空を見上げたまま、突っ立っているその姿はアホくさく見えた。
 俺の憂鬱は深まるばかりで、晴れる気配がないように感じる。別に漫才なんてどうでもいい。

 ミラーの世界で、俺の後ろに人影が写ったから、俺は慌てて歩こうとした。

「突っ立って、私みたいになるなよ」
 俺は驚いて、うしろを振り返ると、セーラー服姿の夏葉が微笑んでいた。




「ありがとう。今日は缶なんだ」
「先輩が買ってくれた」
「えっ、2つも?」
「近藤がコーラ飲めないこと、先輩、知らないで買ったんだ。だから、トロピコ少年のおごり」
「トロピコ少年ありがとうございます」
 そう言いながら、夏葉は缶のブルリングを開け、そのまま、コーラを一口飲んだ。いつものベンチでセーラー服姿で座る夏葉はすごく新鮮で、俺はふわふわした気持ちのままだった。
 というか、立ち止まっているところを不意打ちで声をかけられたことも、ふわふわしてしまっている要因の一つだと思う。海は今日もオレンジ色に染まっていて、太陽は水平線に沈む寸前だった。ふわふわした気持ちを早く収めてしまいたいから、缶を開けて、コーラを一口飲んだ。

「とろけーる」と急に夏葉はそう言って、両手でCマークを作った。俺は不意打ちなフリに対応できなくて、ただ、それを見ているだけだった。
「ちょっと、笑ってよ。私、スベったじゃん」
「そんなすぐに笑う気になれない」
「もしかして、怒ってる?」
「いや、怒ってないよ」
 俺はもう一口、コーラを飲んだ。

「怒ってるじゃん。――学校、気合いで行ってるよ」
「メンタル大丈夫?」
「ボロボロだけど、なんとかやってるよ」
「生きててよかった」
「やっぱり、優しいね」
 そう言われたから、俺は夏葉を見ると、夏葉は優しく微笑んでくれた。優しいのは夏葉のほうだよ。だから、ボロボロになるまで傷ついちゃうんだ。

「春に再会したときはこの時間、暗かったのにね。いつの間にか、季節って進んじゃうんだね」
「だね、春はいろんなこと話したよな」
「そうだね。私は1月から、ボロボロでやばい友達にメンタル引き裂かれたけど、だいぶよくなったよ。春までは一人ぼっちってつらいって思ってたけど、最近は案外、気楽かもって思い始めてる」
「――そうなんだ」
 別に、俺の気持ちなんてどうでもいい。ただ、夏葉は夏葉なりに頑張って、学校に復帰したんだ。だから、俺が寂しかったとか、そんなのは別にどうでもいいんだ。

「春に言われた通り、休み時間寝たり、iPhoneいじってるだけでもなんとかやっていけるね。体育でペアになって、ってときはつらいけど」
「慣れだよ。女子はまた男子と勝手が違うかも知れないけど」
「――だからね、孤独に強くなるために連絡無視してたんだ。ごめんね」
 急にそんなこと言われたから、俺はどうすればわからなくなり、とりあえずもう一口コーラを飲んだ。今日も夕日が沈みきり、オレンジが徐々に弱まり、青が強くなり始めていた。

「普通、怒るよね」
「別に怒ってないよ」
「怒ってるじゃん。桐生くんには、感謝してるよ。だけど、桐生くんに頼らないで最初の1か月乗り切ってみようと思ったんだ」
「――どうだった?」
「意外とそういうところは厳しいんだね。――寂しかったに決まってるじゃん」
 夏葉は膝に置いた両手をスカートを掴みながらギュッと握った。だから、俺は視線を夏葉の顔へ向けた。やっぱり、夏葉の頬は一筋の線ができていて、濡れていた。

「泣くなよ。――俺、漫才することになったんだ」
「えっ、漫才?」と言いながら、ふふっと夏葉が笑うと、一緒に何粒かの涙が溢れていた。
「M-1に出る」
「えー、意外すぎるんだけど」
「ってのは、嘘で文化祭のオープニングでやらされることになった」
「へえ。私、見に行こうかな」
「オープニングだから、一般公開の日じゃないんだ」
「そっかー、残念」
 夏葉はいつものようにベンチから両足を浮かせて、ぶらぶらさせ始めた。そして、コーラを一口飲んだ。

「ねえ」
「なに?」
「私、笑い方忘れてたのに、思い出させてくれたんだから、きっと面白くできると思うよ」
「どうかな。ダダ滑りしたら、今度は俺が不登校になるわ」
 俺がそう言うと、ふふっと、夏葉は弱く笑ってくれた。




『じゃあ、溺れてる人やるから、ライフセーバーやって』
『いいよー。ごぼごぼー。助けてー、海になんて入らなければよかったーーー』
 舞台袖から、近藤と俺は演劇部のオープニングを眺めている。今のところ、つかみに失敗した演劇部のアイランドハイランドは声だけは体育館中に響いているけど、アイランドハイランドの二人の声以外、なにも聞こえなかった。それは完全に真夜中の海で船が横転して、助けを求めている漂流者のような哀れな雰囲気に見えた。

「やっぱ、企画自体がよくないよな」
「バカ、桐生。もう、俺たちはやるしかないんだよ」
 近藤は太く、日焼けした腕に似合わず、小声で珍しく真っ当なことを言った。

『バシャバシャバシャバシャ! 助けに来ましたよー』
『早く助けてください!』
『助ける前に、あなたが海に落としたスマホは金のスマのですか、銀のスマホですか、それともこのひび割れて、みすぼらしいスマホですか』
『みすぼらしいスマホってなんだ! 確かに落としたけどさ、俺は今、溺れてるんだよ。そんなのどうでもいいんだよ! 助けてー』
 しらーっとした空気が漂っている。500人以上が同じ空間にいるのに、こんなに物音がしないことがあるんだって思うくらい、静まり返っていた。
 
「近藤」
「なんだよ、ターメリック」
「俺たち、マジでこの空気の中でやるのかよ」
「大丈夫。山さんに言われた通り、やれば俺たちは絶対ウケる」
「マジでつらいわ」
 近藤の耳元でそう囁くと、近藤は俺の背中を弱く、音がしない程度に叩いてきた。

『あなたのスマホはハウマッチ?』
『20万のハイエンドスマホです』
 本人たちの大きな声だけが無情に響いている。確かに演技派な感じで、演劇を見ているような雰囲気は出ているけど、演技臭くて、しゃべりを聞いている感じではなかった。

「てか、俺たちのラジオネタパクってね?」
「桐生、これは当てつけだよ。演劇部のヤツ、山さんのこと嫌ってるらしいぜ」
「なにそれ。初耳なんだけど」
「お前はぼっちだから、世間を知らなさすぎなんだよ。山さん、演劇部の女に手を出したって勘違いされているらしい」
「くだらない理由だな」
 本当にすべてがくだらなさすぎて、俺は息を漏らすようにふっと笑った。そんなことを小声で近藤と話しているうちに、アイランドハイランドのネタのテンポが急に早くなり始めた。どうやら、クライマックスに入ったみたいだ。

「なあ、近藤。俺、やれそうだわ」
「だろ? 俺たちは余裕だ」

『もうええわ。どうもありがとうございましたー』
 パラパラと拍手がし始めた。そして、アイランドハイランドの二人が血の気が引いた顔をして、こちらへ戻ってきた。そのやばそうな表情を見て、俺は冷静にテンションが上った。




『続いては、放送部の二人組の登場です』
 でばやしの音楽が爆音で流れ始めたのと合わせて、近藤が先に走り、そして、俺は近藤のあとを走り始めた。

「どうもーーー!」
 と二人で言い終わるくらいにステージ中央のスタンドマイクまでたどり着いた。ステージから見る客席は薄暗いのに、客の顔がしっかり見えた。500人の視線を一気に感じた。すっと、息を吐いたあと、肩と肩がくっつくくらい近藤に近づき、両手を合わせた。
「ナマステ~」
 ちょっとだけ笑い声が客席から聞こえた。
「放送部高校生の近藤と桐生のガンジスboysです。よろしくお願いしまーす」
 近藤がそう言い終わると、パラパラと拍手が起きた。
「いやー、ありがとうございます。演劇部にね、スマホのアンケートをネタされた放送部でございます」
 急に台本に無いことをいい始めた近藤の所為で、俺の心臓は急に忙しくなり始めた。
「いやー、そうだねー」
 とりあえず、ネタが始まるセリフが近藤から出るまで、俺は相槌を打つことにした。
「あなたのスマホは金のスマホですか? 銀のスマホですか?」と近藤は右手の平を上にしながら、客席左右に聞いた。

「金のアイフォン!」とどこかの陽キャ男子がそう言ったあと、その辺りだけ、変な笑いが起きて、俺はさらにどうすればいいのかわからなくなった。だから、とりあえず近藤の顔をちらっと見てみた。だけど、近藤は動揺している様子なんて微塵もなく、さらにはそれを楽しんでいるようにすら見えた。
 なんて、悪趣味なやつなんだ。

「やるねぇ」
 客席の笑いが収まったあと、少し間を開けて近藤がそう言うと、客席からはさっきの倍の大きさで笑いが帰ってきた。

「ちなみに桐生くんは?」
 ニヤニヤしながら、近藤が急にそう聞いてきた。おいおい、キラーパスすぎだろ。
「俺のスマホなんて、どうでもいいよ。それよりも始めましょうよ」
「そうだね。桐生くん、俺さ、そんなことより、すごく聞きたいことがあるんだ」
「いいよ。なんでも聞いて」
「桐生くんは、カレー何派?」
「もっとほかに聞くことあるだろ。今後の進路とか」
「いや、実はね、テレビでスパイスカレー作ってる人の特集やっててさー」
 ようやく、台本通りになり俺は少しだけほっとした。あとは練習通りやればいいだけだ。最初の近藤のアドリブのおかげで客は俺たちの漫才を聞いてくれるような空気になっているような気がする。あとは自信を持って漫才を進めるだけだ。

「てか、何の派閥? バーモンド派とか、ゴールデンカレー派とか」
「カレーの王子さま派とか」
「おお、それよ。甘いけどな。わかってるじゃん。てかさ、ルーの派閥聞いてどうするんだよ、お前」
「チッチッチッ」
 ここで笑い待ちしろよ! って何度も山さんに言われたことを思い出した。確かに近藤がそう言ったあと、客席がくすくす笑っていたから、俺は客席が笑い終わるのを待ってから、セリフを進めた。

「じゃあ、なにさ」
「Are you ライス?」
「は? 何言ってるんだよ」
「アー、ユー! ライス!?」
「なんでキレ気味なんだよ」と俺は言ったあと、左手で近藤の頭を叩いた。
「こんな英語もわからないの?」
「なんでそうなるんだよ!」
 もう一度、近藤の頭を叩くと、客席からの笑いがだんだん大きくなって返ってきた。

「アナタハ、ゴハン、デスカ?」
「ゴハン、デスヨ」
「oh、海苔が好きなんですねー!」
「メガネかけてる、ごはんですよじゃねーよ」
 近藤の頭を叩くとまた、客席から笑いが返ってきた。近藤の頭は笑いの打ち出の小槌みたいに思えてきた。

「それでさ。ご飯だよね?」
「さっきから、質問の意図がわからねーよ」
 近藤の頭を叩いたあと、今度は笑いを待たずに練習通りテンポをあげていくことを意識した。
「お前、もしかして、何にカレールーつけて食べるって意味で聞いてる?」
「それのなにが悪い?」
 ここで笑い待ちだ! 急な落差で客席は笑うはずだ。と山さんが言った通りになった。もう、会場のほとんどが笑ってくれているような状態になってきた。これが客席が温まるってことか――。

「お前さ、日本人のほとんどはライスでカレー食べるんだよ。前提がズレてるんだよ」
「じゃあ、なんだよ。お前は、ルーだけでカレー食べるのか?」
「食べないねぇ。てか、さっきから微妙に噛み合わないんだよな。お前との話。まあいいや。それでお前はカレーについて何が聞きたいんだ」
「人はルーだけじゃ食べないじゃん。だから、何派なのかを聞きたいんだよね」
「だから、何派だよ?」
「あなたは何派? ライス派? ターメリックライス派? パン派? ナン派? 硬派?」
 節を付けて聞いてくる近藤はうざい顔をしながら、両手の人差し指を俺の顔の方に指して、ラップみたいに煽った。半袖のYシャツから出ている黒く日焼けした太い腕で指を指してくるのが余計に腹が立つ。
 そのたくましい腕を見ながら、硬派にはツッコむなって山さんは言っていたことを思い出した。山さんが言うには硬派は遊びみたいなもんだって言っていた。

「ラ、ライス派」
「oh いえーい! ライス派! あなたはパン派?」
「いーえ。ライス派」
「OK! パンパンパパン、ナン! パンパン! パンダパパン、ナン! あなたのハートをYES! バキューン!」
「撃ち抜くなーーー!!!」
 その瞬間、空気がどっと揺れた。めちゃくちゃ笑ってくれている――。その笑いにあわせて、胸の奥が急に震えるようにブルブルっと自分にしかわからないくらい小刻みに身震いした。
 そして、胸の奥がじんわりと温かくなり、吐く息の温度も上がった気がした。

 そのことに俺は衝撃を受けた。全身に得体のしれない全能感を感じる。笑われることって、こんなに気持ちいいことなんだ――。『このネタはリズムが大事なんだよ。だから、リズムを徹底的に叩き込むからな』と山さんに言われて、この節だけで1週間も練習しただけあった。
 やっぱり山さんって、めちゃくちゃセンスの塊なんだ。きっと、山さん、誇らしく思ってるんだろうなってふと思った。

「撃ち抜くなーーー! なんだ、このしょぼいラップは。お前はラップなんかしてないで、スパイス仕込みでカレーコトコト5時間熟成カレーを作ってればいいんだよ! カレーはルーがメインだーーー!」
 空気は揺れ続けている。近藤は冷静にそれを待っているように見える。本当に練習通り上手くいっている。

「そんなに怒るなよぉ。俺、桐生くんのために、カレーうどん作ろうって思ってたんだ。うどん好き?」
「お前、スパイスにこだわったカレー作るって言って、カレーうどんつくるのかよ?」
「喜べよ」
 急に憮然とした態度でセリフを言う近藤は本当に腹立たしい表情を浮かべている。練習の時より役に入り切っている雰囲気さえ出ている。
「お前さ、これは俺の偏見だけど、手作りのカレーうどんってかーちゃんが2日目のカレー使って、ドロドロでカレーとめんつゆ合わせましたってイメージしかないから、いいわ。俺、苦手なんだよ。もっと、こだわりのスパイスの話してくれよ」
「うるさいなぁ」
「不貞腐れるなよ。ルーの話しろよ」
「俺、ルーはカレーの王子さま派なんだよね」
「激甘じゃねーか。もういいよ。どうもありがとうございましたー」




 オープニングイベントが終わり、俺たちの仕事は終わった。だから、出店で買った細長い250ミリリットルのオレンジジュースを3本とフランクフルト3本を買って、放送室に戻った。放送部は文化祭のPAや放送全般を請け負うからって名目でクラスの出し物を手伝わなくて大丈夫なのが、最高なところだ。
 スタジオの中に入り、カーペットに座って、とりあえずフランクフルトを食べながら、演劇部の悪口を腹いっぱい言いあった。
 フランクフルトを食べ終えたあと、3人とも、あえて話題に出さなかった話題を山さんが話し始めた。

「俺が育てたガンジスboys。お前ら、マジで芸人だったよ」
「山さんに言われると嬉しいなぁ」
「なんだよ。キーマスター、タメ口聞いて、いい度胸じゃねーか」と言って、山さんが右手で近藤の肩を叩こうと振りかぶったところで、近藤はするっと、避けた。まあ、いいや。今日は許してやるって山さんが言ったから、俺は素直に笑った。

「山さんに指導してもらって、近藤の台本に赤ペン入れたら、劇的に面白くなったけど、これって山さんしか受けてないんじゃないって思って心配でしたけど、全然でしたね。山さん、やっぱり天才ですよ」
「だろ? 伊達に(いばら)の道を進んでいないからな」
「さすが、元子役」
 近藤が勢い余って、簡単に山さんの地雷を踏んだような気がした。
「おい、バカ。楽しいときにそのワードを出すなよ」と俺が言うと、近藤は、あっ。と言いたげに口を開けて、俺のことを見つめてきた。

「ターメリック。いいんだよ。俺がガンジスの赤ペン先生できたのは、子役だったからだよ」
「だけど、その所為でたくさん悩んできたんですよね?」
「ターメリック。いいんだよ。確かに俺は、あの忌々(いまいま)しいCMの所為で小学1年から中学3年までいじめられてきた。そして、高3になり、演劇部とのあらぬ女性スキャンダルに巻き込まれてしまった。だけどな、いいんだよ。ガンジスboysをここまで育てることができたんだから」
「山さん――」
 近藤はなぜか、安いドラマみたいに感極まわったように山さんを呼んだ。涙もろい、筋肉バカはただのバカだ。

「ガンジスboysの諸君、君たちはとても面白かった! お前らはもう、陰キャじゃねー。陽キャだ。本当はこんなスタジオの中にいるようなやつじゃなくなった。だから、俺は予言する。近藤boyはきっと、彼女できるだろうし、桐生boyはクラスのMCになれる。俺はな、素直に感動したよ、嬉しかった」
 俺はクラスのMCになんて、なりたくない。卒業までこのまま、ぼっちで過ごすんだ。
 だから、全然褒め言葉じゃねーよ。
 歳はひとつしか違わないのに、偉そうなことばっかり言ってうざいと普段なら思うけど、今日くらい我慢してもいいやって俺は思った。近藤を見ると、両目がうるんでいるように見えた。

「俺――。本当は山さんも出たらいいのにって思ってました。だけど、山さんはあえて、身を引いてくれてたんですね」
「近藤、それは違うぞ」
「えっ」
「俺は臆病だったんだ。いじめられて自信をなくしていたんだ。だから出なかった。それだけだ」
「山さん――」
 おい、筋肉。お前はどれだけ人の名前を呼べば気が済むんだ、全く。せっかくだし、山さんに言いたかったこと言ってやろうと感動する筋肉に冷めて、俺は決意した。

「山さんは、マジで格好悪いです。顔はイケメンのくせにやることは格好悪い。ラジオドラマだって、尖ったのやりたがって、ろくなもの書いてこない癖に、自分はキャストに回らない臆病者です」
 山さんは俺のことをただ、じっと見つめて聞いているように見えた。
「だけど、その尖ってるのはめちゃくちゃセンスの塊でそれって天才ですよ。俺らに格好つけるんだったら、そのセンス使って、もう一度、天下取ってみろよ、マジで。格好悪いけど、謎の魅力があるから、好きなんですよ。俺と近藤は山さんのこと。だから、山さん。もう、過去に縛られないでください」
 俺がそう言い終わると、一気にスタジオの中は換気扇が空気を入れ替える音だけになった。近藤を見ると、近藤はフリーズしたままだった。山さんはわずかに目を細めたあと、ふっと鼻で弱く笑った。

「桐生、わかってるじゃん。俺はちょうど決めたことがあるんだよ」
 決めたこと? 俺がそう言って発破かけたから、ただのハッタリかな――。だけど、ハッタリにしては山さんは俺のことをまっすぐと鋭い目つきで、見つめてきたままだった。
「俺、自分の才能を活かして、ピン芸人になるわ。そして、R-1ぐらんぷりでチャンピオンになるよ。元子役の肩書も使ってな」
「期待してますよ」
「俺みたいになるなよ」
 バカらしくなって、俺は思わず笑ってしまった。すると、山さんも俺に釣られたように照れくさそうに笑い始めた。




『不貞腐れるなよ。ルーの話しろよ』
『俺、ルーはカレーの王子さま派なんだよね』
『激甘じゃねーか。もういいよ。どうもありがとうございましたー』
 俺は横持ちにしていたスマホを縦に持ち直し、そして、親指でスライドさせて動画を閉じた。少し前に山さんから送ってもらった動画の中に映る俺を改めて観ると、やっぱりスベってなかったらしい。
 波の音が静かに辺りを支配していて、夏休みが始まったばかりの海の先は陽炎でぼやけていた。

「予想外なんだけど。めちゃくちゃ、面白い」
「だろ? それなりに頑張った」
「桐生くんって、やっぱり面白いんだね」
「二学期からも学校行けそうだわ」
「よかったね」
 そう言って、夏葉笑ってくれた。お互いに笑っている途中で、強くて微温い風が吹き、夏葉の白い5部丈のTシャツの裾が揺れた。いつものベンチでこうして午前中からいるのは少しだけ違和感があった。

「あーあ、ずっと夏休みだったらいいのに。最終日のこと考えると憂鬱なんだけど」
「誰だって、始業式の前日は憂鬱だろ。今は逃げ切れたんだからいいじゃん」
「そうだね。ひとりも女友達いなくなった少女の夏休みは一体、何をすればいいんだろうね」
「午前中から、海を眺めて心を癒せばいいよ」
「変なの」
 確かに変なのかもしれないと思った。普通の陽キャの高校生は一体、どこに行くんだろう。このベンチの先に広がる砂浜に行って、海に入ってはしゃぎあうのかな。それとも、街に出て、スタバで限定のフラペチーノ飲んだり、プリクラ撮ったり、服を買ったりするのかな。だけど、俺は夏葉に言わなければいけないことがたくさんある気がするくらい、夏葉ととにかく話したい。そして、もっと、夏葉の話をもっと聞きたい。

「なあ」
「なに?」
「今、思ったこと言ってもいい?」
「――いいよ」
「もっと、夏葉のこと、笑わせたいなって思った」
 俺はじっと、夏葉を見つめると、夏葉の頬は少しだけ赤くなった。夏葉はいつものように足をぶらぶらとし始めた。その動きに合わせて、青いスカートの裾が揺れている。

「なんだ。緊張して損した。ダサいね」
「なんだよそれ」と返すと、夏葉はふふっと、弱く笑ってくれた。





「やっぱり、山さんって格好つけすぎだよな。本当にピン芸人になるのかな」
「桐生、信じてやれよ。たまには山さんのこと」
「で、話ってなんだよ」
 夏休み2日目。
 俺は呼び出されて、駅前のガストのテーブル席で近藤と向き合って座っている。ポテトを食べながら、ドリンクバーのコーラを飲んでいた。近藤のグラスにはアイスのジャスミンティーが入っていた。

「これ、やりたいんだ」
 近藤はそう言いながら、テーブルの上になにかの用紙を置いた。用紙をみると、そこには『M-1グランプリ エントリーシート』と書かれていた。応募期限は8月31日までと書かれているから、まだ間に合うらしい。

「またやるの?」
「お前は、あの舞台の興奮、もう忘れたのかよ」
「忘れたわけじゃないけどさ――」
 俺はとりあえず、右手でグラスを取り、コーラを一口飲み、そして、グラスを再びテーブルに置いた。もしかしたら、あれは偶然、ウケがよかっただけかもしれない。だけど、あの舞台のあと、学校の中でかなりの数の知らない人に『ガンジス』って声をかけられた。

「じゃあ、やるしかないでしょ。俺には桐生しかいないんだ。きっと、お前とだったらそこそこいいところまで行くような気がするんだ」
「てかさ、モテるためにガチで芸人目指すってことか?」
 そう言い終わる前に近藤は俺のことをじっと目を細めて睨んできた。
「――なんだよ」
「最初はそうだったよ。だけど、俺、初めて人生の中で達成感を味わったような気がするんだよ。孤独な筋トレなんかよりもずっと楽しいと思うんだ。俺は、桐生と一緒にあれ以上の笑いを作り上げたい」
 近藤はそう話しているうちに、細めていた目は自然と見開いていた。
 ――俺だって、こんな達成感、味わったの初めてだよ。

「だから、桐生、俺の相方になってくれないか」
 まだ、人生のなかで誰かに告白されたことなんてないけど、きっと告白されたら、こんな感じで心拍数が上がるんだろうなって、俺は冷静に思った。