羅針盤を信じ針が示す道筋をひたすら東に移動した。
そのうち民家は減ってゆき、竹林の疎らな山の麓までたどり着く。
「ここは……」
詩桜はその先へ足を踏み入れるのを一瞬躊躇した。
そこは、詩桜にとって二度と足を踏み入れたくないと思っていた場所だったから。
焼け焦げ崩壊した建物は跡形も無い木屑となり、空気さえ黒く淀んでいるような不穏さ。
雑草で荒れ果て、普段は誰も寄り付かないことを物語っている。
幼い頃、魔の化身として粛清の儀式にて殺されかけた場所だ。
けれど行かなくては。そんな気持ちに駆られ恐怖を押し殺し一歩踏み出す。
羅針盤の針は回転し緊急事態を知らせているだけで、もう場所を示してくれない。
ただ、この先に何かが待ち受けていることだけは、詩桜にも分かる……その時、僅かに話し声が聞こえてきた。
身構え物陰に隠れながら様子を窺うと、ついに遥を見つけた!
それともう一人……何度も詩桜を襲ってきた青年の姿があった。今なら分かる。あの人は、緋夜の月に属する吸血鬼なのだろう。
「遥斗、組織を裏切る気か? 早く、あの娘を星巫女候補から脱落させろ。始末する機会などいくらでもあったはず」
「…………」
「余に逆らうと、どうなるか分かっているだろ」
「藤吾様こそ。今の僕なら、あなたも狂鬼へと変えられるかもしれない」
「余を威すとは、身の程知らずな。なんの役にも立たなかった犬が、何を吠えている」
「狂鬼を斬っても罪にはならないよね。だって自己防衛だもん、しょうがない」
遥は口の端を吊り上げ、ゆるりと左手に巻かれていた包帯を解いてゆく。赤黒い痣は、目を背けてしまいたくなるほど、禍々しく左腕までをも侵食していた。
「余は半鬼ではない。狂鬼化などするわけが」
「試してみなくちゃ分からない。もしかしたら、僕の闇がその血に勝つかもしれない」
「馬鹿な奴だ。大人しく組織の中で飼われていれば、楽ができたというのに」
「まあね。ずっと憎んでいた子を潰せるうえ、金まで貰えるとあればね。おかげで、母さんにはいい思いをさせてやれたよ」
「しかし、貴様はまだ命令を遂行していない。こんなこともあろうかと、人質変わりに奪っておいて正解だったな」
藤吾と呼ばれる男が懐から取り出したなにか。
それは白金でできた腕輪だった。
「そんな腕輪、もう意味ない。全ては動き出し僕もそれを受け入れたのだから」
突如、遥は苦痛の表情を浮かべ、左腕を右手で押さえうつむく。その赤黒い痣を持つ手は、まるで闇色の風を巻きつけているようだった。
このままじゃいけない。遥にあの力を使わせてはいけないと本能で感じ取った詩桜は、形振り構わず飛び出した。
「遥ちゃん!!」
「っ、詩桜……」
「遥ちゃんになにかしたら許さない」
「ほう、今日は随分と勇ましい目をしている」
詩桜は、怯むことなくキッと藤吾を睨み上げた。
「今宵も甘美な香りを纏っているな。近くにいる気配、すぐに分かったぞ。ああ、怒りに煮詰まる貴様も美味そうだ」
絡みつくような視線に詩桜は鳥肌が立った。純血種の吸血鬼の射抜くような視線は冷気すら纏って感じる。
「詩桜……待ってたよ、君が僕を殺してくれるのを」
遥は左腕を押さえ眉を顰めたまま、こちらを見ている。
「遥ちゃん、そんなこと言わないで。左腕が痛むの?」
「どうした、遥斗。限界か。この数ヶ月、封印の腕輪を手放していたからな」
腕輪になんの意味があるのかは知らないが、遥にとってそれが重要なものなのだということは、詩桜にも伝わる。
「魔の者を呼び寄せる娘と妖し風を呼び寄せる男、共に組めば最強。まるで、魔王の化身だ」
「その腕輪、返してください」
詩桜は遥を守るように藤吾の前に立った。
「ほう……いいだろう」
あまりにもあっさりとした返事に詩桜は拍子抜けしたが。
「ただし、余の条件を呑むのならな」
「なんですか。わたしを殺したいのなら」
「いいや、それも考えていたが、やはり目の前に現れると……貴様は殺すに惜しい。だから余のモノになれ」
「なにをっ」
「魔を引き寄せる貴様は使える。それに、その甘美な血。必要な存在だ。魔の化身となる素質もあるのだから」
「わたしは、魔の化身になんてなりません」
「ならば、余の花嫁と言う名の生贄となれ」
「絶対になりません!」
「ほう……生意気な目つきだ」
藤吾が指を鳴らしたのを合図に、どこに潜んでいたのか黒装束の男たちが何人も姿を現す。
その身に纏っている魔力で分かる。彼らはすべて吸血鬼なのだろう。
「任務を果たさなかった遥斗には、少々痛い目をみてもらう。そして貴様も惜しいが、闇には落ちず星巫女になると言うならば邪魔な存在。消えてもらおうか」
蹲ったまま動けないでいる遥を庇いながら一人で戦うとなると、この襲撃は不利でしかない。
「詩桜……僕を殺して、早く逃げなよ」
「なんで、遥ちゃん。さっきからそればっかり」
とても一人で相手が出来るような人数ではない。本当は逃げなければ、遥も自分も……分かっているけれど。
「せっかくここまで完璧なシナリオが出来たんだ。僕が死ねば、すべてが完成して終わる」
(シナリオ? どういう意味)
分からない。けれど、今は考えている時間も話し合う余地もなさそうだ。
「遥ちゃんは、わたしが守る」
詩桜は遥の前に立ちこちらを囲んでいる吸血鬼へ誓い刀を向けた、が。
「あまいな!!」
「っ!?」
あっという間に、襲い掛かってきた藤吾に捕まってしまう。
木を背に押し付けられ身動きなとれない。
「遥斗の始末は部下に任せるが、貴様は余が直々に手をくだしてやろう」
「くっ……」
持っていた誓い刀の刃を藤吾の首筋に当て威嚇したが、彼は臆する表情すら浮かべない。
「ククッ、ああ喰いたかったぞ、貴様の血肉。一口味を知ったアノ時から、ずっと……一滴残らず、喰い殺してしまいたかった」
ぐっと藤吾の首筋に当てた刃を、引けてしまえばいいのに……怖くて出来ない。
「貴様、吸血鬼を殺したことがないな。震えている。そんな気概じゃ無理だろう。使えぬ刀ならば、持たなければいいものを」
藤吾は容易く詩桜の両手を押さえつけ、抵抗さえできなくなった。
「詩桜! なにやってるの!」
こちらに叱咤を飛ばす遥の声が聞こえてくる。ボロボロになり、吸血鬼たちの相手をする遥では、詩桜を助ける余裕などない。
左手を押さえよろけた隙を突かれ、黒の集団に袋叩きにされ始めていた。
「や、やめて。お願いだから、遥ちゃんにひどいことしないで!!」
蹴られ殴られ呻く遥の声だけが、痛々しく詩桜の耳に届いてきた。
「この状況で他人の心配をするとは、呆れた小娘だ」
藤吾は口の端だけを吊り上げ不気味な笑みを浮かる。
そして、そっとその牙を詩桜の首筋に近づけてきた。
「心配せずとも、喰い殺されてしまえば、他人の心配などしなくて済むだろう」
首筋に舌を這わされ、気持ち悪い。
ああ、喰われてしまう。今回ばかりはもうだめだ。
(人間、諦めが肝心……いつもそう思ってた。でも……)
喰われそうになるたびに、詩桜は心の中でそう繰り返してきた。
だって……この世に未練なんて感じたことなかったから。誰にも必要とされていないこんな自分なんて……なのに、今。
「……とう、ま」
噛み付かれた瞬間にチラついたのは、不機嫌そうな灯真の顔だった。
他の吸血鬼に喰い殺されるなんて知れたら、灯真は怒るだろう。
(どうせ食べられちゃうなら、相手は灯真が良かった……)
痛みより、そんな想いが頭に過ぎる。
自分は、こんな男にこのまま……?
「ぃ、やだっ」
血液が吸い上げられてゆく音が耳元で響き、気持ち悪い。嫌だ。いやだ。
「暴れるな、すぐに良くなる。この前のように……黙って快楽に溺れ喰われるがいい」
鼓膜を擽る不愉快な声に、詩桜は眉を顰めた。
「いやっ、こんなところで!」
こんなところで死んでられない。今死んだら、遥を助けられない。自分がいなくなったら、灯真が飢え死にしてしまうかもしれない。辰秋も月嶋も、こんな自分を支えてくれたのに、恩返しの一つもできていない。
今の自分には、こんなにも、生きていたい理由があるんだ!
そのうち民家は減ってゆき、竹林の疎らな山の麓までたどり着く。
「ここは……」
詩桜はその先へ足を踏み入れるのを一瞬躊躇した。
そこは、詩桜にとって二度と足を踏み入れたくないと思っていた場所だったから。
焼け焦げ崩壊した建物は跡形も無い木屑となり、空気さえ黒く淀んでいるような不穏さ。
雑草で荒れ果て、普段は誰も寄り付かないことを物語っている。
幼い頃、魔の化身として粛清の儀式にて殺されかけた場所だ。
けれど行かなくては。そんな気持ちに駆られ恐怖を押し殺し一歩踏み出す。
羅針盤の針は回転し緊急事態を知らせているだけで、もう場所を示してくれない。
ただ、この先に何かが待ち受けていることだけは、詩桜にも分かる……その時、僅かに話し声が聞こえてきた。
身構え物陰に隠れながら様子を窺うと、ついに遥を見つけた!
それともう一人……何度も詩桜を襲ってきた青年の姿があった。今なら分かる。あの人は、緋夜の月に属する吸血鬼なのだろう。
「遥斗、組織を裏切る気か? 早く、あの娘を星巫女候補から脱落させろ。始末する機会などいくらでもあったはず」
「…………」
「余に逆らうと、どうなるか分かっているだろ」
「藤吾様こそ。今の僕なら、あなたも狂鬼へと変えられるかもしれない」
「余を威すとは、身の程知らずな。なんの役にも立たなかった犬が、何を吠えている」
「狂鬼を斬っても罪にはならないよね。だって自己防衛だもん、しょうがない」
遥は口の端を吊り上げ、ゆるりと左手に巻かれていた包帯を解いてゆく。赤黒い痣は、目を背けてしまいたくなるほど、禍々しく左腕までをも侵食していた。
「余は半鬼ではない。狂鬼化などするわけが」
「試してみなくちゃ分からない。もしかしたら、僕の闇がその血に勝つかもしれない」
「馬鹿な奴だ。大人しく組織の中で飼われていれば、楽ができたというのに」
「まあね。ずっと憎んでいた子を潰せるうえ、金まで貰えるとあればね。おかげで、母さんにはいい思いをさせてやれたよ」
「しかし、貴様はまだ命令を遂行していない。こんなこともあろうかと、人質変わりに奪っておいて正解だったな」
藤吾と呼ばれる男が懐から取り出したなにか。
それは白金でできた腕輪だった。
「そんな腕輪、もう意味ない。全ては動き出し僕もそれを受け入れたのだから」
突如、遥は苦痛の表情を浮かべ、左腕を右手で押さえうつむく。その赤黒い痣を持つ手は、まるで闇色の風を巻きつけているようだった。
このままじゃいけない。遥にあの力を使わせてはいけないと本能で感じ取った詩桜は、形振り構わず飛び出した。
「遥ちゃん!!」
「っ、詩桜……」
「遥ちゃんになにかしたら許さない」
「ほう、今日は随分と勇ましい目をしている」
詩桜は、怯むことなくキッと藤吾を睨み上げた。
「今宵も甘美な香りを纏っているな。近くにいる気配、すぐに分かったぞ。ああ、怒りに煮詰まる貴様も美味そうだ」
絡みつくような視線に詩桜は鳥肌が立った。純血種の吸血鬼の射抜くような視線は冷気すら纏って感じる。
「詩桜……待ってたよ、君が僕を殺してくれるのを」
遥は左腕を押さえ眉を顰めたまま、こちらを見ている。
「遥ちゃん、そんなこと言わないで。左腕が痛むの?」
「どうした、遥斗。限界か。この数ヶ月、封印の腕輪を手放していたからな」
腕輪になんの意味があるのかは知らないが、遥にとってそれが重要なものなのだということは、詩桜にも伝わる。
「魔の者を呼び寄せる娘と妖し風を呼び寄せる男、共に組めば最強。まるで、魔王の化身だ」
「その腕輪、返してください」
詩桜は遥を守るように藤吾の前に立った。
「ほう……いいだろう」
あまりにもあっさりとした返事に詩桜は拍子抜けしたが。
「ただし、余の条件を呑むのならな」
「なんですか。わたしを殺したいのなら」
「いいや、それも考えていたが、やはり目の前に現れると……貴様は殺すに惜しい。だから余のモノになれ」
「なにをっ」
「魔を引き寄せる貴様は使える。それに、その甘美な血。必要な存在だ。魔の化身となる素質もあるのだから」
「わたしは、魔の化身になんてなりません」
「ならば、余の花嫁と言う名の生贄となれ」
「絶対になりません!」
「ほう……生意気な目つきだ」
藤吾が指を鳴らしたのを合図に、どこに潜んでいたのか黒装束の男たちが何人も姿を現す。
その身に纏っている魔力で分かる。彼らはすべて吸血鬼なのだろう。
「任務を果たさなかった遥斗には、少々痛い目をみてもらう。そして貴様も惜しいが、闇には落ちず星巫女になると言うならば邪魔な存在。消えてもらおうか」
蹲ったまま動けないでいる遥を庇いながら一人で戦うとなると、この襲撃は不利でしかない。
「詩桜……僕を殺して、早く逃げなよ」
「なんで、遥ちゃん。さっきからそればっかり」
とても一人で相手が出来るような人数ではない。本当は逃げなければ、遥も自分も……分かっているけれど。
「せっかくここまで完璧なシナリオが出来たんだ。僕が死ねば、すべてが完成して終わる」
(シナリオ? どういう意味)
分からない。けれど、今は考えている時間も話し合う余地もなさそうだ。
「遥ちゃんは、わたしが守る」
詩桜は遥の前に立ちこちらを囲んでいる吸血鬼へ誓い刀を向けた、が。
「あまいな!!」
「っ!?」
あっという間に、襲い掛かってきた藤吾に捕まってしまう。
木を背に押し付けられ身動きなとれない。
「遥斗の始末は部下に任せるが、貴様は余が直々に手をくだしてやろう」
「くっ……」
持っていた誓い刀の刃を藤吾の首筋に当て威嚇したが、彼は臆する表情すら浮かべない。
「ククッ、ああ喰いたかったぞ、貴様の血肉。一口味を知ったアノ時から、ずっと……一滴残らず、喰い殺してしまいたかった」
ぐっと藤吾の首筋に当てた刃を、引けてしまえばいいのに……怖くて出来ない。
「貴様、吸血鬼を殺したことがないな。震えている。そんな気概じゃ無理だろう。使えぬ刀ならば、持たなければいいものを」
藤吾は容易く詩桜の両手を押さえつけ、抵抗さえできなくなった。
「詩桜! なにやってるの!」
こちらに叱咤を飛ばす遥の声が聞こえてくる。ボロボロになり、吸血鬼たちの相手をする遥では、詩桜を助ける余裕などない。
左手を押さえよろけた隙を突かれ、黒の集団に袋叩きにされ始めていた。
「や、やめて。お願いだから、遥ちゃんにひどいことしないで!!」
蹴られ殴られ呻く遥の声だけが、痛々しく詩桜の耳に届いてきた。
「この状況で他人の心配をするとは、呆れた小娘だ」
藤吾は口の端だけを吊り上げ不気味な笑みを浮かる。
そして、そっとその牙を詩桜の首筋に近づけてきた。
「心配せずとも、喰い殺されてしまえば、他人の心配などしなくて済むだろう」
首筋に舌を這わされ、気持ち悪い。
ああ、喰われてしまう。今回ばかりはもうだめだ。
(人間、諦めが肝心……いつもそう思ってた。でも……)
喰われそうになるたびに、詩桜は心の中でそう繰り返してきた。
だって……この世に未練なんて感じたことなかったから。誰にも必要とされていないこんな自分なんて……なのに、今。
「……とう、ま」
噛み付かれた瞬間にチラついたのは、不機嫌そうな灯真の顔だった。
他の吸血鬼に喰い殺されるなんて知れたら、灯真は怒るだろう。
(どうせ食べられちゃうなら、相手は灯真が良かった……)
痛みより、そんな想いが頭に過ぎる。
自分は、こんな男にこのまま……?
「ぃ、やだっ」
血液が吸い上げられてゆく音が耳元で響き、気持ち悪い。嫌だ。いやだ。
「暴れるな、すぐに良くなる。この前のように……黙って快楽に溺れ喰われるがいい」
鼓膜を擽る不愉快な声に、詩桜は眉を顰めた。
「いやっ、こんなところで!」
こんなところで死んでられない。今死んだら、遥を助けられない。自分がいなくなったら、灯真が飢え死にしてしまうかもしれない。辰秋も月嶋も、こんな自分を支えてくれたのに、恩返しの一つもできていない。
今の自分には、こんなにも、生きていたい理由があるんだ!