――――――その日の社も、静寂に包まれていた。
本来ならば鬼がこぞって詣でそうな鬼神の社であるが、宴とは違いそこまで騒がしいのは好まない。
宴ならばそれが醍醐味なのだし、鬼も妖怪も宴や、酒や肴が大好きで、騒いでどんちゃん騒ぎが好きなたちだから、勝手にすればいいと思うが。
誰もが畏れ、また恐れる鬼の長。その周りには常に妖怪や鬼が集い、時には傅く。
しかし時には距離を落ち着けたくもなる。
屋敷のものたちは自ら雇い、招き入れたものたちだし、ねこは無条件でかわいい。いつでもウェルカムである。
それからねこともふもふするちびっこもまた、かわいいな。めちゃ萌える。
だから屋敷のものたちやねこたちだけなら構わないのだが。
――――――日々の喧騒から逃れ、落ち着ける場所くらいは欲しい。みなは花嫁でも娶れと言うが、候補がいない。
頭領のひとりがとても美しい人間の娘を成長し16歳になった時、花嫁として迎えると自慢してきたことがあったな。
現し世でも徹底的に囲い、庇護し、迎え入れるのを今か今かと待っているという。
――――――はっきり言ってどうでもよい。興味すら湧かない。
その頭領の名は、忘れた。顔は、どうだったか。頭領と言うしきたりのもと、先代から引き継いだ以上は頭領としての資格を授けたが……。
――――――はて、忘れてしまったのはどうしてかな。以前は覚えていた気がするのだが。わぁ、よい。興味がないのだから、思い出す必要もない。
それに俺はーーそんなことしてる時間があるのなら、ねこ愛でたい。ねこにゃんにゃんしたい。猫じゃらしもいいな。壁にキャットタワーを増設しようか。宴会場側にもつけたいと言ったら、どうせそこから動かなくなるからダメだと琉架に叱られてしまった。
――――――ねこ、愛でたい。俺は宴よりもねこ愛でたい。もちろんねこのいる宴なら大歓迎だ。
……ん?
その時、ハッとして空を見上げる。
社が、現し世と通じた……?普段隔り世にあるこの社は、時に現し世と通じる。この社に招かれるべきものを迎えるために。
宮の大半は隔り世にあるが、この社だけは繋がることがある。角と同じ色の鳥居が、繋げるのだ。
隔り世のものには隔り世の空、現し世のものには現し世の空が見える。だが俺にはどちらも見える。
「とうの昔に、人間の生身など棄てたと言うのに」
もう完全に隔り世の住民となったのに、何故、この瞳には未だ現し世の空が映るのか。この目の色も、夕焼け色を映すようになったと言うのに。不思議なことである。
しかし……。
「何百年ぶりであろうか」
その前は現し世にて暮らす鬼であったか。しかし、これは……。
人間の、娘。
そして人間の娘を追うように雪崩れ込んでくる集団は……この社に許可なく立ち入る不届きものども。
もとは隔り世のもの。この社に入ることはあれども、無断で入るのはいただけない。
鬼神を祀るこの社は、鬼も関係なく招く。ここに祀られるのは鬼神であるから。
また、詣でたいと切に願う隔り世の住民もだ。しかし、無作法に押し寄せるのはどうかしているとしか思えぬ。
そんなことをすれば、平穏を乱された鬼神の怒りに触れるからだ。
ただでさえ最近は現し世の神々からの苦情が酷い。
あれが、原因か。
鳥居の外に押し寄せる鬼、妖怪、異形のものたち。鳥居の結界があるから招かずに済むが、はっきり言って迷惑だと。
そこに鬼が含まれるからこそ、鬼神にその苦情が来るのだ。
タタタタタッ
石畳を駆け、境内に逃げ込んできた少女。そのスカートを引っ張られ、髪を掴まれ、それでも逃げるが転倒して膝から血を流している。
――――――何故かその鬼どもに、激しい怒りが湧いた。その感情は、知っているようで、未知のもの。
「……ねこ」
鞄についた、ねこ。ふるぼけてはいるが、それゆえに大切にしていると分かる。
そして少女の胸元に下げられたーー
「あれは退鬼師の符か」
それを御守りとして首から下げているのだ。彼女を思う、とても親しいものからこめられた膨大な霊力。
どこか懐かしい、霊力。
「似ているな」
遥か昔、何千年と昔。
まだ、人の身であった頃の……。
そして、そんな霊力を放つ符に気が付いているのか、いないのか……?気が付いていないのなら阿呆だし、気が付いていて追うなら、鬼の片隅にもおけぬオオバカ者ども。……いや、この鬼神の社にこうも堂々と侵入する鬼どもなど、愚かでしかない。そのような鬼はいらない、な。
「消えるがいい」
断末魔の叫びすらあげる暇もないくらいに、燃え尽きた、鬼だったもの。
少女を抱えあげ、社の中に運び込む。治療は得意ではないが、まぁ仕方がない。少女に慣れない治療術を施していれば、懐かしい光が、ひらひらと降りてくるり
【……ロ】
懐かしい声、しかし忘れることもない。
今はただひとりしか呼ばなくなった現し世の名前。
「あなたが、導いたのか……姉さ……いや、現し世での名は、鴉木比売と、呼ばれていたな」
何千年と経とうとも、子孫を見守るとは。やはりまだ、探しているのか。あの、トワナミビヤを。
――――――それとも、見つけたか。
本来ならば、この符を作ったものこそ、あなたがその力の全てを継承するにふさわしい。
それにもかかわらずこの少女を見守るのは、そう言うことか。
そしてあなたには分かっていたから……ここに導いたの。
思わず少女の髪に手を伸ばしかけた時。社に運んでやった娘が、ゆっくりと目を開ける。
「鬼が大挙してただの人間の小娘を追うとは、趣味が悪いな」
そう吐き捨てれば。
少女が声にならない声を発する。
その声は、確実に俺の耳に届く。
詣でるものの声を聞くのも、仕事であり役目である。聞くかどうかは気まぐれだが。
『趣味が、悪い?でも、あの恐ろしい鬼の言うことは、絶対で』
「ほう?どんな鬼だ?俺よりも恐ろしい鬼か?興味がわかなくもないな」
現し世の神からの苦情もそれが関係しているのか?どうにも現し世で好き勝手する鬼がいるようだ。
まぁ、俺は現し世の神ではないから、どうでもよいが。
現し世では好きにするがいい。現し世は俺の領域でもない。ただ俺の気を害したその時は今のように屠るだけ。
『あなたは、こわい鬼?』
少女が問うてくる。
「だとしたら、どうする?」
少なくとも、心優しいなどと言われたことはない。
『あなたは、やさしい鬼』
「俺が、優しい鬼……?」
面白いことを言うな。
『うん、アリスのおはなし、きいてくれるから』
「アリスと言うのか」
『そうだよ……。鴉木、アリス』
【鴉木】……あなたの、縁者か。
あなたが守り、導いたのか。
何の、ために。
【分かっているくせに、この子は】
懐かしい声が鼓膜を震わせる。鬼の本能が、分からないはずがないのだ。
【本当は、もっともっと、現し世での時を大切にして欲しかった。あなたとの、長い時を生きるために。けれど、それはできなかった】
あの、不敬な鬼どものせいか。
そしてそれらを操るもの。
しかし俺は、現し世に堂々と手を加えることはできない。現し世の神から苦情がくる。出きるとすれば、このこのために、この社に招くこと。
現し世の神も最近の苦情の原因が自身の社に来ないならと、これくらいの介入は許すだろう。
【ありがとう、ありがとう、オロ】
ふん……。
それは、こちらのセリフだろうに。
「そうか、鴉木アリス。良い名だ。そなたが望むなら、この俺の嫁に来るか?」
せっかくあなたが出会わせてくれた、縁だ。
『あなたの、お嫁さん?でも、あの恐い鬼は、恐ろしい』
「この俺をおののかせる鬼などいない」
そんなものは存在しない。
何に脅える?この俺の花嫁となるのに。
『つよい……優しい鬼さん。鬼さんなら、守ってくれる?信じて、くれる?」
「あぁ、アリス。鴉木アリス、誓おう。この暮丹の名に於いて」
そして少女の吊り下げた御守りに、口付けを落とした。
せめてもの鬼の御守りを、つけて……な。