夏休み前の最後のHRが始まろうとしている教室は、騒めきに満ちていた。
 明日からの予定を声高に確認しあう者。
 今頃になって休み中の約束を取り付けようと躍起になっている者。
 その中で黙々と本日のノルマであろう課題に取り組んでいる者。

 後者に関しては受験生ならではの悲哀を感じずにいられないが、幸い指定校推薦で他県への大学進学が決定している俺は、既にその呪縛からは解放されている。

(だから明日からの夏休みは、本当に休み……)

 ただダラダラと惰眠をむさぼり、昼頃に起きて動画でも眺めて、何御飯なのかわからない食事を好きな時間に食べたら、また寝るも、パソコンいじるも、釣りにでも行くも自由――。

(最高じゃん)

 そんなことを思って胸弾ませているのに、俺の机の横にしゃがんで、なぜか小声で話しかけてくる友人――仲尾敦己(なかおあつき)は、さっきから飽きもせず同じ誘いをくり返す。

「だからさー……宇津木(うつぎ)暇だろー? 明日の夏祭り一緒に行こうぜー?」

「なんで俺が」と喉まで出かかったつれな過ぎる返答はかろうじて飲み込み、俺は頬杖をつくという横柄な態度のまま、端的に自分の意志だけを口にする。

「行かねー」
「えーなんでー?」

 大きな目をくりくりさせて、不服そうに頬を膨らませる仲尾の茶色い頭越し、窓際近くの一画では、更に淡い色の髪が、数名の女子に囲まれて何かを談笑しながらサラサラと揺れていた。

(…………)

 その姿を目にすると、いつもながら喉の奥に苦いものがこみ上げてきそうになり、俺は急いで回避のために視線を逸らす。
 逸らした先ではまだ仲尾が、よく表情の変わる顔をいかにも懇願の形相にして、じっと俺を見上げている。

「頼むよ宇津木ー今度何かおごるからさー」

 そうは言われても、俺には別に欲しいものも特別食べたいものもない。

「いらね」

 正直に答えると、仲尾はあからさまにがっくりと肩を落とした。

「そんなー」

 その肩を、さっきから仲尾の横に立って、やつがあの手この手で俺に頭を下げる様子をただ静かに見守っていた田浦時生(たうらときお)がポンと叩く。

「あーちゃん、もう諦めなよ。宇津木興味ないって」

 時々何を考えているのかわからないところはあるが、基本的に冷静で、もの静かで、一緒に居て楽な友人――田浦に、俺はグッジョブという意味で、仲尾には見えないように親指を立てて見せる。
 田浦は細い目を更に細めてかすかに口角を上げ、笑ってくれたのに、彼の声掛けは仲尾にはまったく効き目がないらしい。

「うるせ、『あーちゃん』って呼ぶな、時生。宇津木ーー頼むからさー」

 また懇願が始まり、俺はため息を吐いた。

「なんでそんなもん行きたいんだよ」
「――――!」

 頼み込むこと数十分にして、ようやく俺が仲尾の願いの内容に踏み込んだ発言をしたことで、まるでもう約束を取り付けることに成功したかのような笑顔になり、仲尾ががばっと俺の顔を振り仰ぐ。

「一緒に行こうって誘いたい子がいるんだよ。でもいきなり二人きりより、グループでって言ったほうがOKくれそうだろ?」

 満面の笑顔で仲尾がふり返った先は、例の窓際の一画で、そこにたむろっている女子の群れの中では比較的後方に、ニコニコとみんなの話を聞いている小柄な女子がいる。
 その子を、仲尾は頬を赤く染めて見つめる。

村川美雨(むらかわみう)か……」

 三年で同じクラスになってから、事あるごとに仲尾が口にするせいで、すっかり俺まで覚えてしまったその女子の名前を呟く。

「そう!」

 興奮した仲尾に手をギュッと握られたので、すぐさま振り払った。

「協力してくれよ宇津木! 時生と俺だけじゃまだ気まずいだろ? ……せめてあと一人くらいは……」

(だからって、行きたくもないところに興味もない相手とわざわざ出かけるなんてめんどくせー……)

 正直な感想の一番重要なところだけを俺は口にした。

「めんどくせ……」
「そんなー」

 おおげさに頭を抱えるポーズをしてみせる仲尾に、田浦が笑いかける。

「だから言っただろ? 宇津木が行くわけないって」

 田浦の中で俺がどんな評価になっているのか、詳しく聞いてみたい気もするが、それすら面倒なのでわざわざ尋ねることはしない。
 幼馴染でガキの頃からの付き合いらしい田浦が、あとはうまく仲尾を言いくるめてくれるだろうと内心胸を撫でおろしていると、思いがけない言葉が耳に飛び込んできた。

「いっそのこと、東雲(しののめ)を誘ったら? 絶対あの辺一帯の女子がついてくるよ……その方が簡単じゃない?」

 思いがけない名前に、思わず窓際の一画へ視線を向ける。
 俺と同じようにそちらを見ている田浦、言われて慌ててふり返った仲尾の目線がかち合う先では、背が高くて細身の、このクラスで一番端正な顔立ちをしたイケメンが、女子に囲まれて笑っている。
 まるでそこだけ別世界のように、窓の向こうの真夏の太陽が、東雲の淡い色の髪をいっそう煌めかせ、抜けるように白い肌に、陶器じみた輝きを増させる。
 その光景が眩しくて、俺は思わず目を細めた。

「えっ? そんなの無理だろ?」

 仲尾の驚きの声で、現実へ引き戻される。

「やってみなくちゃわからないだろ。おおーい、東雲ー」

 おとなしそうな顔をして、実は何にも臆するところのない田浦が、あっさりと呼びかけ始めたので、俺は焦りのあまりにバンと机の盤面を叩いて椅子から立ち上がった。

「俺が行く」
「え?」
「へ?」

 すぐさま発した言葉に、田浦と仲尾の驚いた声が重なる。

「夏祭り。俺が行くから」

 決して窓際の一画へ目を向けることなく、自分の机の盤面を睨むように見つめながら一息で言い切ると、仲尾が歓声を上げた。

「やったああああ」
「そう……」

 田浦はなんだか納得がいかないように訝しげな声を発しているが、その表情を確認している余裕は、今の俺にはない。

(あいつが夏祭りって、なんだそれ……女いっぱい引き連れて……教室だけじゃなく、その外でもハーレムの王様状態ってか?)

 その光景を想像すると妙にむしゃくしゃして、男の嫉妬は見苦しいなどと、冷静に自己評価している自分がいる。

(それよりは、俺が重い腰をちょっと上げて、仲尾のわがままに付き合うほうがまだマシ……なんで俺がそんなことしなくちゃいけないんだとは思うけど……)

 悠々自適な自堕落生活をなげうって、少しの時間を友人のために使おうとようやく覚悟を決めたのに、俺の決意はまったくの無駄になった。

「へえ、夏祭り……いいね、俺も行く」

 決して声を張っているわけでもないのに、喧騒の中でもよく通る男性にしては少し高めの声が、窓際の一画から聞こえ、続けて女どもの「きゃあっ」という歓声が上がる。
 東雲の鶴の一声だった。

(はああ?)

 ありえない展開に激しい憤りを感じ、思わず視線を向けてしまった先で、にこりともしないでじっとこちらを見据えている東雲と、正面から視線がかち合う。

「――――!」

 それは、中学二年の夏から四年間、同じ高校へ進学して同じクラスになろうとも、会話するどころか目さえ合わせなかった東雲陽登(しののめはると)と俺が、四年ぶりにお互いを見つめあった瞬間だった。